大宜味村田嘉里
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【根謝銘グスク:やかひ杜:おもろ】
【大宜味村田嘉里の勾玉・簪・脇差(刀)】
大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ殿内の遺品調査。竹筒二本。大きい竹筒の勾玉と水晶玉(ガラス玉)。大きい竹筒に「屋嘉比のろくもい代合之時日誌」と墨で書かれている。竹筒の蓋の内側にも墨字がある。大の竹筒の中に勾玉と水晶玉(ガラス玉)が納めれていた。
・緑色かかった勾玉一個
・水晶玉(ガラス玉) 二つの輪になっている。(勾玉側□個)
小さい竹筒に、
・簪(かんざし)
・小玉の勾玉(青・乳白色・半透明)
・外れた勾玉一個(青)
【脇差】
・刀剣(柄部分なし、棟区(むねまち)・刃区(はまち)・目釘穴・鎺(はばき)・反りあり・全長□㎝・刃長(□㎝)
・鞘(下緒がついている・栗・子尻)・鍔や切羽は失っている)
【竹筒にのろ代合の年号?】
「屋嘉比のろくもい代合之日記入箱」の墨字がある。また蓋の内側に同墨書きがる。それとは別に「□□四拾二年□□」の線堀がある。琉球で使われてきた中国年号で「四拾一年」以上あるのは、嘉靖(1562年)と万暦(1613年)と康熙(1702年)、そして乾隆(1776年)の四時代である。その年代が特定できると勾玉、簪、脇差などの遺品が、首里王府から就任、あるいはノロの交代時期がわかる。それと竹筒に「代合之時日誌」とあるのは、それ認証の辞令書が複数枚あった可能性がある。
注目されるのは、それらの遺品(10枚近いのろ衣装)と「おもろ」で謡われた「やかひ杜」と屋嘉比ノロの存在である。やかひ杜はういグスク(根謝銘グスク)の大城(『琉球国由来記』の見里村の中城之嶽」をさしている可能性がある)、屋嘉比巫火神は見里村にあるからである(ノロ家は麓から現在地に移動という)。
▲二つの竹筒と簪と勾玉と水晶玉など ▲脇差(刀剣と鞘と鎺(はばき)
▲勾玉と水晶玉(ガラス玉) ▲「四拾一年」の線彫
▲簪のかぶ部分 ▲勾玉や簪などをいれた竹筒
【大宜味村田嘉里】
(2006年1月18日)
田嘉里は大宜味村の北側に位置し、国頭村と接した字(アザ)である。田嘉里の関心の一つは親田と屋嘉部、美里の三つの村の合併であること。明治36年に合併されるが、合併以前の痕跡がどう残っているのかにある。それと根謝銘(ウイグスク)グスクでの祭祀とどう関わっているかにある。
親田村と屋嘉比村、そして見里村の三村は『琉球国由来記』(1713年)では国頭間切内の村である。屋嘉比ノロは三村のほかに浜村も管轄にしていたようである。それと屋嘉比ノロ火神は見里村にあるが、現在の屋嘉比ノロドウンチはヤハビバール(屋嘉比村地内)にある。1719年に三つの村は国頭間切から大宜味間切の村となる(『球陽』)。
現在の田嘉里はウェーダバール(親田)、ヤハビバール(屋嘉比)、スンバルバール(見里)と地域区分され、かつての村(ムラ)がバールで区分され、それに合併の痕跡をみることができる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』を見ると、屋嘉比村のところに「屋嘉比村神アシアゲ」と「見里神アシアゲ」が記されている。親田の神アシアゲはない。
1673年に国頭間切を分割し大宜味間切を創設した際、間切分割の境となった村である。分割当初大宜味間切、1695年に国頭間切に組み込まれたが、不都合だということで1719年に再び大宜味間切に組み込まれ現在に至る。
間切の分割の境界にあり、両間切を行ったり来たりで翻弄されている。三村は根謝銘グスク(上グスク)内に大城(ウフグスク)を持っている。根謝銘グスクは間切分割後は大宜味間切の内。ところが屋嘉部ノロ管轄の三つの村は国頭間切でありながら、祭祀場は大宜味間切の根謝銘グスク内にある。そのことが、大宜味間切に組み込まれたが、国頭間切に組み込まれたが、再び大宜味間切に戻される。ノロ管轄と管轄村、そして拝所の位置、そのこと起因しているのかもしれない。
▲後方の森が根謝銘(ウイ)グスク ▲親田にあるニガミヤーウガン
▲ニガミヤーウガンの側にあるカー ▲親田バールにあるカー
▲屋嘉比バール(上原)からみた親田バール ▲屋嘉比の上原にある神アサギ