@シマウイミ
旧暦8月11日(9月8日)に行われる。拝む場所はハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)とフプハサギ(親泊神ハサギ)、獅子小屋のあるウッチハタイでウガンをし、獅子はプミチ(大道:マーウィ)に出て、獅子舞と棒の舞がある。この日はヨーハビで、災難払いの日である。今年は豊年祭のシクミの日とシマウイミが重なっている。奉納踊と棒術が今帰仁ノロ家とオーレーウドゥン前で行われた。
シマウイミのハサギンクヮーとフプハサギでのウガンは終っていたので画像はなし。
▲今泊の獅子(一頭)
▲ハサギンクヮー(安次嶺神ハサギ) ▲ウッチハタイの獅子小屋
Aオーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)
Bシルバマ(白浜)
1609年の薩摩軍の琉球侵攻と親泊。
C津屋口墓(アカン墓)(新聞記事)
壊された開かん墓(沖縄タイムス:1964.12.29)
三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。
墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。
墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。
新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。
新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。
あかなかった古墳(琉球新報:1964.12.30)
北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。
区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。
この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。
この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。
この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。
▲津屋口墓(アカン墓) ▲墳墓記(1678年)
Dクビリガーと鍛冶屋跡のガマ
ガマのある一帯は親泊原のチェーグチと呼ばれる。クビリガーは掘り抜きの井戸のことで、ニークンガーの河口近くのクビリに因んだ名称とみられる。井戸は今でも残っている。ガマの中に鍛冶で使う鞴があり、そこで鍛冶屋をした一族がウガンをしている。鍛冶の跡に、漆喰をつくる石焼場として使われている。近くにアガリハンジェクークヤー(屋号)があり、そこがクビリの鍛冶屋跡のウガンをしているかは未確認。ハンゼェークヤーには鍛冶と関わる図像と鍛冶の道具が置かれている。かつて鍛冶屋をしていた家だとわかる。
幔幕(マンマク:長い幕)、瑞雲、月、太陽、三面六臂(さんめんろっぴ:三つの顔と六つの腕)の鍛冶神、女性(巫女服のような白い服に赤い袴姿:ハカマ)、男性(大和風の着物姿)、上半身裸の男性が三人(青の短パンを履いている)炭俵、箱鞴、台座、水入れ 柱 二段構造の青い幔幕(マンマク)、その下には白い柱が両脇に画面奥に向けて四本ずつ並ぶ。画面左に太陽と白い瑞雲(ズイウン:いいくも)、右に月と黄色い瑞雲が浮かぶ。その下中央、柱の間に立つ様に三面六臂の髪を逆立てた鍛冶神が(黄色い衣、左右一対で合掌、右手上に旗、右手下に斧、左手上に槍、左手下に剣を持ち、青い領巾(ヒレ)をつけている)箱鞴の上におり、左側に若い女性(鞴差し)、右側に炭俵三つ、箱鞴下には火床、その下に金床(カナトコ)、右側に金槌(カナヅチ)を持ち髪の逆立った男性が上半身裸で三人(前打)、反対側には、髭の男性が横座を務める。男の足下には鍛錬済みの刀が二本と鎌が二つ、鉄鉗(カナハシ)が三つ、替えの金床が置いてある。
▲鍛冶屋跡のガマ(プーチ:鞴) ▲アガリハンジェクヤーの鍛冶神
Eプーミチ(馬場跡)とフプハサギ(親泊ハサギ)
▲プーミチ(馬場跡) ▲フプハサギ(親泊ハサギ)
【今泊のグスクウイミ】
旧暦8月10日(9月7日)に行われる。行われる場所は今帰仁グスク内の神ハサギ跡である。参加者のノロ(代理)と区長、書記がでる。ノロは神衣装を持参していたが、雨が降り出したので羽織ることはしなかった。勾玉と簪の入った黒い箱を持参し(ノロドゥンチの仲尾次清治氏)、神ハサギ跡の香炉の向こう側に置いたウガンをした。拝む場所は城内の神ハサギ跡のみである。
香炉の前にゴザを敷いて、そこでウガンをする。供えるものは線香と神酒(泡盛)であった。お菓子も準備してあった。そこでの祈りはムラや子孫の繁栄とユガフウ(世果報)である。
▲グスクウイミ(城内のハサギ跡) ▲今帰仁ノロの勾玉と簪