2008年5月

                              沖縄の地域調査研究(もくじへ)
          
  


2008531日(土)

 今帰仁グスクのあるハンタ原の北側から麓の集落を望む。今帰仁グスクへの二つの道筋がある。下の画像の左側に大正13年に開通した「参詣道」、同じ画像の右側に親川の側を通るハンタ道。今帰仁グスクへの二本の道沿いは畑が主である。その右側に水田が広がる。画像に見える地域は大川原とネクン原、そして手前はアタイ原とハンタ原である。

 ハンタ原は地形の崖縁(端地)により、今帰仁グスクの崖下を流れる志慶真川沿いに小字名である。もちろん今帰仁グスクはハンタ原に属している。それとアタイ(ハタイ)原は与那嶺や仲尾次や平敷などでは字(村落)の集落部分に名づけらる原名である。ところが、今泊のハタイ原に明治の図面でもそうであるが集落になっていない。しかし、17世の前半にハタイ原にあった今帰仁村の集落が麓の海岸よりに移動する出来事があった。このハタイ原は今帰仁村の集落部に名づけられた原名とみられる。まだ、推測の域は出ないが、親泊村の集落もハタイ原からハンタ原域にかけてあったのではないか。

 明治36年に今帰仁村と親泊村が合併し今泊村となるが、同39年に分離し、昭和48年に再び合併し今に至っている。このアタイ原とハンタ原は親泊村の原である。そこに非常に興味深いことが見えてくる。もし、仮に今帰仁グスクに名が名づけられたころ、グスクのある場所が親泊村域であったなら、今帰仁グスクではなく親泊グスクと名づけられただろうということ。しかし今帰仁グスクと名づけられていることから、今帰仁グスクがあった場所は、その当時今帰仁村域にあったとみてよさそうである。近世になって今帰仁村と親泊村との境界線を引かざるえなくなったとき、今帰仁グスクのあるハンタ原と今帰仁村の集落のあった地域(原)は親泊村域に組み込まれている。

 そのことを明確に示すのが『琉球国由来記』(1713年)である。今帰仁グスクやその周辺は18世紀初期には、まだ「今帰村」域にであったことがわかる。ハンタ原とハタイ原域が親泊村に組み込まれたのはその後だということができる。つまり、その後に今帰仁村と親泊村との境界線が明確にされたことになる。今帰仁ノロ内は現在は旧親泊地内にある。故地は今帰仁グスクの側にあり、公儀ノロの名が与えられた時代はその場所は今帰仁村だったことに由来するとみていい。仮に、その場所が親泊村であったなら親泊ノロと名づけられていたであろう。

 史料と現場と合わせ見ていくと、矛盾していることを全く気にしていなかったことに気づく。今回も村の境界がいつなされたのか。古琉球と近世で村域の線引きが異なること。そして、間切や村レベルで歴史を見ていく場合、もう少し史料と現場を踏まえた議論がなされるべきだと実感させられている(自戒)。

   ・城内上之嶽・・・・・・・・・・・・・・・・・・今帰仁村
    ・城内下之嶽・・・・・・・・・・・・・・・・・・今帰仁村
    ・コバウノ嶽・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今帰仁村
   ・今帰仁巫火神(グスクの側)・・・・・今帰仁村
   ・今帰仁里主所火神(城内)・・・・・・今帰仁村
   ・今帰仁城内神アシアゲ・・・・・・・・・今帰仁村
   ・阿応理屋恵按司火神・・・・・・・・・・親泊村(グスク近く?集落内のどこ?二つのウドゥンがある)
   ・安次嶺神アシアゲ・・・・・・・・・・・・・今帰仁村
   ・親泊村神アシアゲ・・・・・・・・・・・・・親泊村


 
             ハタイ原からみた大川原と集落一帯(昭和30年頃)      

 
 上の画像の右側一帯(昭和30年代)     ハタイ原からみた現在の様子


2008530日(金)

 沖縄県博物館協議会の研修会に参加(於:沖縄市)


2008529日(木)

 画像の中央部の緩やかな道筋は今帰仁グスク近くのナガタキやウイバルへ行く道(昭和30年頃)の一つである。メーラヌファイ(前田のモリ:前田原の山手)からフプーガニク(大兼久:前田原~新田原)一帯で、後方は今帰仁側の集落である。そのフプーガニクは今帰仁グスク付近にあった「志慶真村の集落が一時移動してきた」という伝承の場所である。フプーガニクに民家が建つようになったのは大正になってからである。明治36年の「今帰仁間切村全図」(今泊)には一軒の家もみられない。そこは畑地として利用されている。
 
 新田原と前田原は原名の示す通り水田地帯であった。そこへの水は親川(ウェーガー)とナグガーから湧き出る水を用水路で引き込んでいる。昨日の前田原での洗濯場面は、用水路からの水である。親川から水を引いた用水路は1734年に500歩(500坪)余が開削されている。親川からの水は湾々曲々と流れ田に注ぎ、田は水で満ちて稲は豊に実ったという。

【球 陽】
(尚敬王4年の条1716年)
 
親泊邑の地頭代湧川、大いに米稲を発して人民を賑済す。
   今帰仁郡親泊邑に湧川なる者あり。素より文を学び、兼ねて算法に精し、始めて文子を授けられ、サバク理を
    歴履して、竟に地頭代と為り、勢頭座に擢(ぬき)んでらる。家道殷富にして、米穀を貯積す。康煕己丑(1709
    の年、凶歳キ饉にして、人皆大いに餓ゆ。湧川自ら米蔵を発して、米五十余石を出し、親泊・志慶真・兼次・今
    帰仁四邑に借給して、其の饉を賑済す。後亦、丙申の年(1716)、今帰仁・親泊等に火殃大いに起こり、尽く房屋
    を焼く。湧川も又米蔵を焼く。只、米拾石余を剰有するのみ。即ち焼屋の人に給し、以て幇助を為す。後、亦
    敢へて其の償を受けず。

※1716年当時の今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子。1738年湧川村の創設後から古宇利親雲上となる。

【球 陽】
(尚敬王19年の条1734年)
 親泊邑の湧川・諸喜田、溝を鑿ち泉を引いて農田に注入す。
   今帰仁郡親泊邑の惣耕作当湧川・地頭代諸喜田等、水溝五百余歩を決開し、即ち親川の水を引き、湾々曲々
   注いで農田に至る。此れより後、田水已に満ちて、稲穀豊饒せり。

 
          メーラヌファイ(前田モリ)からみたフプーガニク   

 
                逆に新田原からメーラヌファイを眺めると。


2008528日(水)

 50年前の画像の整理のかかっている。とり急ぎ、今帰仁グスクの麓の今泊一帯の画像から。これまで単発的に紹介してきたが、今回は画像の場所を特定し、そこから当時の風景を読み取っていく作業をしていく。これまで、数多くの調査をしてきた。祭祀や土地利用、旧暦での農耕(特に稲作など)や生活などを含めて、昭和30年代まで近世を引きずってきているのではないか。そのこともあって、今帰仁グスクやその周辺の画像を紹介していく。その風景や生活にたって歴史を読み取っていくことも重要だと考えている。それと、明確にしなければならない歴史を描く場合、三つのスタンス(クニ・間切・ムラのレベル)を意識する必要があるのではないか。ここでは特に今帰仁グスクとムラとの関係を見るためには。

 
  一帯は「親泊原」のミジパイとミジパイ田           ミジパイ(カー)の清掃

 
    前田原の水路で洗濯(昭和30年頃)     現在のミジパイ(川筋)の様子


2008527日(火)

 近世の首里王府から今帰仁間切への宿次は二つあり、国頭方西宿は浦添北谷読谷山恩納名護本部今帰仁のルートである。もう一つは国頭方東宿で、西原宜野湾越来美里金武久志羽地今帰仁のルートである。恩納間切は国頭方西宿のルートの山原への入口にあたる。読谷山間切から恩納間切への、かつての宿道(スクミチ)の一部を辿ってみた。現在恩納村が「歴史の道」として整備し、活用している。

 かつての宿道(スクミチ)は基地にはばまれたり、あるいは道筋の変更があったりで、そのまま通れるわけではない。恩納村にその面影を残している所があり、整備されているので訪ねてみた。読谷村から県道6号線(沖縄本島西海岸)沿いに 恩納村の塩屋・真栄田に向かう。真栄田の共同売店の前から右手(山手)にはいていくと、約1kmの所に真栄田から山田に通ずる宿道(スクミチ)にたどりつく。そこから更に200mのところまで行くとフェレー(追いはぎ)岩がある。その道筋を1km進むと真栄田の一里塚がある。更に200m行くと御待毛(ウマチモー)がある。先は米軍基地にぶつかり行き止まりとなる。本来の宿道は読谷山間切の喜納番所から恩納間切へ向かっていくのであるが、道路の拡副や変更、基地などで、ほとんどその姿を消している。

御待毛(ウマチモー)は、読谷山間切から恩納間切との境にあり、両間切の文書などの引継場所である。今帰仁間切と
  本部間切との境の具志堅や金武間切と恩納間切の境の喜瀬武原にもウマチモー(御待毛)がある。

一里塚(真栄田)

フェレー(おいはぎ)岩

国頭方西宿街道

寺川矼(垂川矼)

山田グスク

山田村 旧集落跡(神アサギ跡・地頭火神)


山田谷川の石矼


 石橋の側の案内板に、次のような琉歌が詠まれている。
   山田谷川に  思蔵つれて浴みて  恋しかたらたる  中のあしゃぎ
     (愛しい人と共に、山田谷川で浴びて、中のアサギで、恋をかたりあいたいものだ)

比波根坂石畳道

仲泊遺跡
唐人墓の碑
恩納間切番所跡


恩納松下の琉歌碑

   恩納松下に  禁止の牌のたちゅす  恋しのぶまでの  禁止やないさめ
    (恩納番所(役場)の前の松の木の下に、いろいろな禁止事項を書いた牌(掲示板)が立っているが、その中に恋を
    すべからずというが禁止まではあるまい)
  恩納ナベは尚穆王(175295年)の時代の人物で琉球三女流歌人の一人で恩納間切の出身である。

恩納奈辺歌碑(歌人恩納奈辺記念碑)

  波の声も止まれ  風の声も止まれ  首里天加那志  美御き拝み
   (波の声も止めて静かになれ、風の声も止めて静かになれ、すべての物音も静まれ、厳かに国王の御顔を拝みた
     いものです)

 恩納ノロ家と神アサギ

 

 上のキーワードで恩納村内を踏査してみた。一つひとつ書き上げていきましょう(出版物原稿へ)

 
間切境のウマチモー(御待毛)のあった場所     真栄田の一里塚のマウンドの一つ

 
       フェレー(おいはぎ)岩             岩の下を通ったのであろう

 
     架け替えられた寺川矼               旧山田集落近くのメーガー

 
山田グスクの崖中腹にある護佐丸父祖の墓      (脇)地頭火神と神アサギ跡

 
        山田谷川の石矼                仲泊遺跡近くの比屋根坂の石畳道 

 
   唐人墓の碑(道光4年:1842)        恩納松下の琉歌碑(後方に恩納岳)

 
  歌人恩納奈辺記念碑              万座毛(マンザモー)


2008524日(土)

 今帰仁グスク周辺の画像の整理にかかる。今帰仁グスクに登る道筋は、いくつか歴史的な変遷がある。そのことについては「今帰仁グスクへの道」として整理し報告したことがある。これまで残された画像を通して、今帰仁グスク周辺の代わり方をみていく作業である。特に戦後間もない頃と現在の変貌ぶりを比較していくことにする。歴史をひも解いていく中で、その時代の土地利用や生活がどういうものであったかを前提にみていく必要があるからである。

 時代の様子を前提でものを見て行かないと、解釈に大きな誤りを犯す場合がある。幸いにして今帰仁グスク周辺の50年前の画像が数多くある。それらの画像を整理していると、これまで考えていたことが覆ることが何度かある。そのことがあるので、画像の紹介をしておこうと思う。どのくらいの枚数の画像が場所の特定ができ、このテーマに利用できるか。まだ、数えていないが場所を特定できた画像から紹介していくことにする。

 
 昭和30年頃のグスクへの入口付近   現在の様子、もう少し左側から(大正5年開通の碑)

 
大正5年道(左側)とハンタ道(右側の森)の間       ほぼ同じ場所の現在の様子


2008523日(金)

 午前中、小学4年生の今帰仁グスクと関わる伝承と民話の授業。昨年「各字(アザ)の宝物」をテーマに関わったメンバーです。一風変わった学年です。いい意味もありますが、一歩前にでようとする個性、みんなで、一歩二歩、クラス全員で前に進もうとする雰囲気をつくらないと。

 今日は、クラスの雰囲気をつかまえるのに精一杯でした。これからやる「伝承や民話」が楽しいものにもっていくまで、そうとうな工夫が必。まずは、今帰仁グスクにまつわる四つの話を、みんなで読みとおしてもらうことからします。そしてグループわけ。それから話に出てくる場面の現場。それは6月にはいてからかな。

 それと指導する私はいつもポーカフェイスの冷めた、あるいは無感動の表情では、このクラスはのせきれません。生徒達と一緒に発見したり、感動の表情や言葉を見つけていくことにしますかね。挑戦してみますか。

 
       この一年「今帰仁グスクにまつわる伝承や民話」をやります!


2008522日(木)

 兼次小6年生の歴史の学習。今日は「沖縄の歴史」を大きく大きく変えた「薩摩軍の琉球侵攻」(1609年)の今帰仁での足跡をたどる。歴史の区切の一つの年である。これかの出来事は、1609年以前なのか、以後なのか。そのことをいつも意識させて歴史をみる癖をつけるためである。すでに、8つのグループ分けがされているので、「だれそれの時代の話ですよ」と意識させながらの踏査である。

 「みなが、今立っている場所は親泊の集落です」
    「第二監守時代(前期)のグループ手をあげ。君たちの時代に今帰仁グスクに登るハンタ道
     沿いから降りてきたようだよ。

 「親泊の西側の集落は今帰仁です」
    「第二監守時代(後期)のグループ手をあげ。今帰仁集落は今帰仁グスクの前の交流センター
     あたりから、君たちの時代に海岸近くに降りてきているのですよ。薩摩軍の今帰仁グスクを
     攻めたあと、間もない頃のようですよ」

 「ここに神ハサギがあります。ハサギンクヮーと呼びます。それは今帰仁村側のハサギです。
  公民館の側にもありました。あれは親泊村の神ハサギです」
    「間切時代後期のグループ手をあげ。あなた方のグループの歴史の話をします。明治36年まで
    今帰仁村と親泊村がありました。その時、両村を合併することになりました。今帰仁村の今と親
    泊村の泊をとって今泊村としました。そこで一つの法則を見つけました。村が合併しても神ハサ
    ギは一つにはしないということ。・・・・」

 「向こうに碑が立っています」
   「はい、村制時代(戦前)のグループ手をあげ。その碑は大正5年に立てられたものです。碑のところから今帰仁
    グスクまで車の通る道が開通した時の記念碑ですよ。それより前の時代のみなは、これからいくハンタ道を通り
    今帰仁グスクへ行っていたのですよ」

 ウドゥン屋敷と監守一族
 オーレーウドゥンと今帰仁按司
 かつて一帯は水田
 監守の一人五世克祉の墓
 六世の位牌と大北墓
 火神の祠と集落移動

 一つひとつ出来事と時代をかみ合わせながら歴史を学んでいく姿勢を習慣づけていこうとの試みである。ここでは四つの事例を掲げたにすぎないが、今日だけでも30項目余の歴史的な出来事を現場で拾うことができた。しかし、時代の区切りがまだしっかりしていないので、これから一つひとつ身につけていきます。今日は、薩摩の軍勢の意気込みでやってきた6年生。ミームングスクまでの踏査でへたばっていなかったかな。

 
薩摩軍勢は今泊のシルバマから今帰仁グスクへ  戦う棒ではなく、ハブ退治の杖でした!

 
   区画は意外と迷路でした          かつてのスクミチを通る

 
 今泊の二つのハサギは歴史を語ります!      グスクへの車道の開通記念碑

 

  ハンタ道は坂道だな!      ミームングスクから学校や海が見えるな!


2008521日(水)

 沖永良部島の知名町と和泊町の6年生達がやってきた。沖永良部島から小学生がやってくるようになって10年近くなります。企画した当時のメンバーは、今ではほとんど関わっていないのではないでしょうか。学校の先生方も転勤されているので、当時の沖縄や今帰仁(北山)を訪れるねらいや思いは、薄れているように感じていました。形式的な沖縄・今帰仁への修学旅行になっている印象をもっていたところです。

 昼食の時間も大分ずれ込んでいたのであるが、声がかかってきました。「沖永良部島と北山との関わりについて・・・」と。すでに館内の展示を見ている生徒もいましたが、エントランスホールに集まり、皆腰を下ろし生徒達は真剣な眼差しとなり、北山と沖永良部島との関わりに聞き入っていました。ありがたいものです。北山と沖永良部島、そして沖縄の世界遺産のキーワードはグスクであること。与論や沖永良部島にもグスクがあります。そして皆さんの島には、琉球国と分断される1609年以前の琉球国時代のものがグスクをはじめ墓やシニグや言葉や地名などに色濃く残っていますよ。歴史を知り、歳を重ねていくとしだいに南の方に引かれていくのは一つの国だった歴史があるからです。そのことだけ、頭の隅に刻んでおいてください。・・・・

【兼次小3年】

 午後から兼次小のかわいい3年生たち。この一年間どんなことをしようか。そのスタートの日です。まだ、あどけない表情でやってきたのであるが、自分達が知っていることを集めて、みんなに紹介するのだとわかると、帰りには楽しいことをやるのだ元気いっぱいに帰っていきました!早速、各字三つか四つの宝物さがしをしてみました。たくさんありそう。

 学校区の5つの字(アザ)の宝物をみつけて文章にし、また絵にし、みんなに聞いてもらうことになりました。各字に出かけての宝物さがしは一緒にやりますよ。蚊にさされたり、暑い中、汗をかきながら。宝物はそう簡単に手にはいりませんよ。

 
     宝ものさがしできるひと?            もう見つけたひと?


2008520日(火)

 午前中、兼次小5年生の「総合的学習」である。今年は、仲尾次・与那嶺・今泊は字(アザ)の豊年祭のことを調べる。諸志と兼次は字の屋号をテーマとすることに。学年のテーマは伝統芸能である。豊年祭は出演したり、見たりしているが、それが伝統として行われ続けてきている理由、その意義について理解することにしよう。一緒に考えてみることにする。今年は与那嶺が豊年祭の当たり年になっている。豊年祭を企画し行われるまでの過程を通して学ぶことができそうである。学習目的をしっかり学ぶことができそうである。

 もう一つは屋号である。屋号については諸志と兼次のグループがやることに。各家の屋号を通して、ムラの成立ち、そして屋号はよく家々の個性をよく言い当てている。今では屋号は気にせず使われているようだ。屋号の資料を配ると自分の家や隣近所を屋号で見つけて大騒ぎしている。最後には、一人ひとりに屋号をつけてみようかとの話になった。屋号は自分でつけるものではない。周りがつけるもの。どんな屋号がもらえるか心配もある。そこで条件がある。相手に喜ばれる屋号(名称)にすること。相手に傷をつけるような名称は絶対にダメ。

 そのようなことで、豊年祭と屋号を手掛かりに住んでいるムラのことをみんなで考えてみよう。1番~25番まで、どんな屋号(名称)がつくのか楽しみである。すでに、あちこちで「・・・ヤー」「△△△ヤー」だと名付けあっている。

 
        兼次小5年生は今年度「豊年祭」と「屋号調べ」をすることに!


【中城村新垣の集落と御嶽(グスク)】

 中城村新垣、かつては陸の孤島だといわれていた時代がある。昭和の初期、普天間と与那原との間に道路が開通したことで、新垣も陸の孤島から解放された。その道路開通を記念した碑が公民館の前に立っている。戦後間もないころ、さらに道路の拡張があり、現在立っている碑は100m東側から移動したという。聞いてみると、「あの空き地に米軍が移してあったが、そこは個人の土地なので、現在地に移した。そこは区の土地だからね」とのこと。新垣集落の後方にある御嶽がグスクと呼ばれるのは、「おもろ」に「ねたかもりくすく」と読まれていることに起因しているのであろう。標高170mあり、周辺の丘陵の中で一番高く目につく。

 集落は斜面にあり、集落内の道は坂道が多い。集落の後方の一番高いところに御嶽(新垣グスク)がある。御嶽(グスク)の入り口を見つけるのに時間がかかった。歴史ロードの道をそのまま登り詰めればよかったのであるが、へそ曲がりの私はあちこち寄り道しながら丘陵の頂上部へ。新垣の地形は、以下のウタによく表れている。 

   新垣のはんた 里の村やしが ぬがばたるはんた みるきだちゅさ
     (新垣の険しい崖は 恋人のいる村に行く道ではあるが 
     崖をのぞくと恐ろしい)

 集落の形態は集落の後方に御嶽(あるいはグスク)があり、集落は御嶽(グスク)の内部、あるいは接していたのが次第に麓の方へ展開。御嶽から斜面に発達した集落は今も残っている。グスク時代から今に続く古いタイプの集落。御嶽がグスクに展開しているタイプ。今帰仁グスクと同様な発展過程とみることができる。ただし、新垣グスク(御嶽)は石積みがほんの僅かであるが確認できた。そう遠くない所にある中城グスクに比べると石積みのないグスクとでもいうべきか。

 詳細については別で述べるが、足を踏み入れた印象でいうなら、まず現在の新垣集落後方の杜は御嶽(ウタキ)と呼ばれ、またグスクともよばれている。古い集落は御嶽(あるいはグスク)内、あるいは近接した場所にあった。その痕跡として御嶽(あるいはグスク)内に殿があること。そして火神が祀られている。火神が祀られているのは、これまでの例からすると住居の跡である。それとニードクル(根所)と呼ばれる祠がある。そこも火神が祀られていて、根人なのか根神の出た家なのか不明だが、住居の跡とみていい。集落の展開からすると、御嶽あるいはグスク内、近接してあった住居が、次第に麓の方へ展開している様子がわかる。説明をみると、ニードゥクル近くに旧家の屋敷跡が数カ所あげられている。

 また御嶽あるいはグスクの頂上部に二、三の香炉と石がある。そこは御嶽のイビだとみてよい。『琉球国来記』(1713年)にある「神名:天次アマタカノ御イベ」とあるのは、今帰仁グスクなどの事例からすると御嶽やグスクなどのイベにあたる場所である。同書にある「新垣ノ嶽」は新垣のウタキやグスクをさしているのでしょう。また「ウチバラノ殿」は現在「殿曲輪」にある祠のことか。

 御嶽(あるいはグスク)の周辺をみると墓が数多くみられる。その中の一つに野面積みされた墓口の前に「奉寄進 同治七年戊辰 伊佐川前?親雲上」(1868年)の香炉がある。御嶽やグスクと関わる時代の人物ではないが、確かめてみる必要がありそうだ。 

   
 チンマース(積み回らす)の跡               

 
    ニードゥクルの火神の祠        「ウチハラノ殿」には火神が祀られている。
   
   「同治七年」寄進の香炉      県道路開削の碑    集落内は坂道が多い

 
     頂上部にある御嶽のイベ                集落の麓にある公民館

【ヨキヤ巫(添石ノロ)】

 ヨキヤ巫(ノロ)は別名添石ノロともいう(『のろ調査資料』宮城栄昌・中山盛茂・富村真演)。そのヨキヤノロの管轄は『琉球国由来記』(1713年)では添石村・泊村・新垣村・照屋村の祭祀をつかさどり、中城城内之殿(添石・泊)の祭祀をつかさどっており、中城間切内のノロの最高位にあったもと見られる。中城城内の祭祀には中城御殿や惣地頭も関わる。ヨキヤ巫火神は『琉球国由来記』では照屋村にある。新垣村のウチバラノ殿での祭祀はヨキヤ巫が行うが、そこは脇地頭である新垣地頭が関わる。グスク(ウタキ)の頂上部に地頭火神があるようであるが、今回は気づかなかった。ヨキヤ巫が添石ノロになる経緯は不明のようである。


2008517日(土)

 『今帰仁の伝承・民話』の打ち上がってきた原稿の校正と編集。全体の頁の見通しができると、本格的な調査に入ります。大変な作業ですが、なかなか面白い。ほとんど共通語で語ってもらっているので、そう難しいものではない。ただ、整然と語られているわけではないので、どこまで文脈を揃え整理していくか。語った方の個性もいかしたいし。しばらく、全体の頁(1000頁予定)を掴むための編集と校正作業が続く。700頁あたりまできているかな。具体的なことを記すと、注文がいっぱい来るので。それに答えられるだけの余裕と時間は、今のところありません。

 昨年?今年だったでしょうか。学生の調査のアドバイスをしたことがある。それをまとめた報告書を持って館へ。きっとほめられるとやってきたのだと思う。タイミングが悪かった。朝からバタバタ、頭の中がヒートしている最中にやってきたので、パラパラと見てすかさず指摘から。「それは卒論ですか?」「三年次のレポートです。卒論はこれからです」と。ならば、卒論に向けてのアドバイスをと。立ち話で一時間ばかり。夏休みに出直してきなさいと。再度やってくるだろうか。それでもやってくるなら本物。二度と行くまいとやって来ないかも。それもまたシメシメ。

 調査やまとめの視点に関しては厳しいです。虫のいどころが悪かったのでなおさら。また、テンプラを持ってやってくるかも。少し視点を変えてまとめるといいレポートになるのだが。いいところまで行っているレポートもいくつかありました。卒論ではいい「まとめ」ができそうなので、頑張れ!


2008516日(金)

 午前中、与論島(鹿児島県)の小学生達(60人)がやってきた。昨日の予定が台風の余波で本部港への到着jが遅れたため今朝の今帰仁グスクと歴史文化センターへの旅となったようだ。天気がいいと今帰仁グスクから与論島が見えるのだが。今朝は見えなかったようだ。残念でした!「北山(今帰仁グスク)と与論島」との関係を説明。「与論の皆さん、今は鹿児島や東京など向いているが、歳をとっていくと沖縄に向きます。それは何故でしょうか?」と引きつけていく。世界遺産として今帰仁グスクもあるが、与論島の皆さんにとっては、大事なことがあるのですよ」と。「あれ! 与論にもグスクがあるな!」

 時々やるのだが、「は~い、そこにサイコロが展示されています。出た目が三のがあります。さて隠れた裏の目はいくつ?」「???5、2、3」、「4だよ」ピンポ~ン」、中にはまだ理解していない生徒がいるので、「どんな法則があるのかな? そう裏と表の数を足して7。もう忘れないでしょう」

 
    与論島と北山は近いのだ!           与論島にも与論グスクがあるぜ!


2008515日(木)

 本日は村内の兼次小学校の6年生の歴史学習(25人)。一年間の流れ、そしてどんなことをやるかの説明。6年生にとっては3年生から関わってきた学習の総仕上げでもある。25人全員で700年の歴史を描くのである。しばらくは全体的な歴史の流れを把握させ、各時代を個々にまとめ、それを組み合わせて700年の歴史を表現していく。25人一人ひとりが時代を描く主人公である。25人が手をつなぐと700年の歴史が一人ひとりの顔と一緒に登場してくる。そこまで、頑張れるかな!

 次回は1609年旧327日(今年は52日)の薩摩の琉球侵攻、親泊海岸からハンタ道を通り今帰仁グスクを攻め入った約1.5kmを踏査してみることに。薩摩の軍勢3000人が鉄砲や刀、弓を持って攻めてくる。そして、迎え撃つ今帰仁グスクは竹ヤリや棒を持参して300人としようか。どのような状況を絵や文章として6年生達が描いてくれるのか。

 
 
これから「北山の歴史」学習のスタート!     みな、やる気まんまんです!

 向氏具志川家の十二世鴻勲(朝郁)(17831804年)は嘉慶元年(1796)に楽童子として江府(江戸)に赴いている。楽童子は江戸上の時、琉球音楽や躍りを演じる若者で鴻勲は13歳の時である。江戸上の詳細は『具志川家家譜』の十二世鴻勲のところに記されている。鴻勲が今帰仁間切の村の村踊(ムラウドゥイ)に影響及した可能性は少ない。どちらかと言えば、これまで見てきた間切からの御殿や殿内などへ奉公人や奉公した後の間切役人などが中央の芸能を村踊の演目に取り入れていくことに影響を及ぼしているとみている。また按司や脇地頭などの「初地入」は、按司や脇地頭などを歓迎する演目としたのではないか。

 今帰仁グスク内の石灯籠もそうであったが、今帰仁阿応理屋恵火神の祠(今帰仁グスク近く)の後側にある四基の「奉寄進」(年号部分は判読できにない)は、今帰仁王子や按司などの薩州や江戸上と無関係ではなかろう。香炉の向きは、伊是名島や辺戸などへの遥拝と言われるが、香炉は伊是名島と辺戸岬との中間に向いて置かれていて、それは薩摩や帰国への航海安全の祈願とみていい。今帰仁阿応理屋恵火神の祠の手前右側にも数基の銘の刻まれた石の香炉があったが不明。
(近くに放置されているかもしれないので探してみるか。その中には年号はっきりしているのもあるかもしれない)

【『中山世譜』(附巻)より薩州や江戸上の親方・按司・王子など】


 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能、薩州へ(月日不明)
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将
 ・康煕15年(1676) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として627日薩州へ、翌年114日帰国する。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として526日薩州へ、翌年117日帰国す
る(翌
  年病で没)。

 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲、鷹府城の回録で824日薩州へ、116日帰国する。
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲、710日薩州へ、119日帰国する。
 ・康煕48年(1709) 向氏今帰仁按司朝季、尚益王の即位で912日薩州へ派遣、116日に帰国する。
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝哲、84日薩州へ、翌年1114日帰国する。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲、年頭頭として621日薩州へ、翌年1022日帰国する。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠、吉貴公妃(霊龍院)の弔で閏527日薩州へ派遣、1025
  帰国する。
 ・乾隆12年(1747) 向氏今帰仁王子朝忠、慶賀で611日薩州へ、翌年3月帰国する。
 ・乾隆17年(1752) 向氏今帰仁王子朝忠、正史として613日薩州へ、122日江戸へ、翌年31
  薩州へ、49日帰国する。
 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁按司朝賞、太守様元服で82日薩州へ、翌年311日帰国する。
 ・嘉慶25年(1820) 向氏今帰仁按司朝英、前年薩州へ赴く(慶賀)前に船は風に遇い、八重山・与那国
  島に漂着する。
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷、622日薩州へ、1011日帰国する(明治3年)。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷、924日薩州へ、1024日東京へ、翌年129日帰る。

 
 今帰仁阿応理屋恵火神の祠(グスク近く)        後ろにある四基の石香炉


2008514日(水)

 以前、「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年:1870)について触れたことがある。それは按司の間切への初入りであった。按司の事例としてまだ一例しか目にしていない。今回、地頭(脇地頭)の「初地入り」を三例、それは高里親雲上(久志間切辺野古村)の三例である。『那覇市史』近世那覇関係資料(古文書編)所収の資料で「福地家文書」の日記(道光28年戊申卯月吉日:貝善継)に含まれている。これらの事例から首里・那覇に住む按司や脇地頭などの士族と家録や領地とする間切や村との関わりが具体的に見えてくる。各地への「初地入」の一般的な様子を描きだすことができる事例である(詳細は別稿でまとめることにする。名護市史本編9 民俗でも触れている)。

【地頭地へ初入】(咸豊5916日:1855)(脇地頭の名代) 

 地頭地は初入したのは嫡子唯延の次男唯昌と外孫の宮里の子供一人を遣わされている。唯延は私(高里親雲上)の名代として派遣されている。金武間切を通り「久志同村ニ」とあるが、それは久志間切辺野古村を指しているとみられる。もし、惣地頭であれば、久志間切同村(久志村)である。

 到着した翌18日午前に10時頃唯延(名代)は色衣冠、唯昌宮里も色着を来て、村からも頭々が色衣冠で、神人二人、根人三人、掟や頭々が三、四人を召し連れて地頭火の神、根神火の神、御嶽の三ケ所を拝む。美花や御五水、線香を供え、立願する。

 到着した日には、うすていく(ウスデーク)や躍狂言などで歓迎された。それは先例のようであるが、その節は行われなかったようである。そこで行われた狂言は大和の狂言ではないであろう。もしかしたら、組踊なのかもしれない。

【地頭地へ初入】(咸豊81227日:1858)(脇地頭) 

  一 白米四升五合先  一 焼酎二沸  一 線香五結
 私事、其元地頭相続被仰付置候付而ハ追々初地入いたし、地頭火神并根神并根神火之神御嶽三ケ所参詣
  可致立願候得共、先其内神入并頭々共ニ而申上、分ケ掛ほさいの御願相立首尾可被申出候、尤焼酎代二十貫
  文并線香者、爰元ニ而まつ金城いゆ金城両人
相渡置候間、米者当年作得米之内より差出跡以外引合可
  致候、此段致問合候、以上
   十二月廿七日        高里親雲上
     辺野古村
       掟 頭々


【地頭所手札宗門御改并初入】(咸豊9813日:1859)(惣地頭名代)

 この年は地頭地入りと手札宗門改めを兼ねての久志間切入りである。ここでも「久志同村蔵の前ニ而」とあるが、久志間切辺野古村でのことである。

【久志親方や久志親雲上などの薩州ゆき】(『中山世譜』(附巻より拾う)

 ・康煕13年(1674)顧氏久志親方助豊は年頭使として613日薩州に派遣され翌年10月に帰国する。
 ・康煕22年(1683)顧氏久志親方助豊は年頭使として511日薩州に派遣され翌年11月に帰国する。
 ・康煕55年(1716)金氏久志親方安当當は婚礼の賀で61日薩州へ、119日に帰国する。
 ・乾隆37年(1772)金氏久志親雲上安執が623日に薩州へ派遣され、翌1月12日帰国する。
 ・乾隆46年(1781)金氏久志親雲上安執が525日に耳目官として薩州へ、翌227日帰国する。
 ・嘉慶11年(1806)金氏久志親雲上安昌が讃議官として薩州、江戸に派遣される。


2008513日(火)

 島尻地域までゆく。この時期はノンノンと歴史を語る気持ちにはなれない。いろんな話をする機会があるが、戦争についてどれだけ語れるか自問自答することたびたびである。昨年は、戦争についての講演を断った。聴く側を戦争をテーマで引きこんでいくだけの語りができないこともある。体験者の様々な場面を言葉しようとしたとき詰まってしまい声にできないからである。

 昨日は具志頭グスクで戦争ガイドの方の高校生達への説明を聞かせてもらった。少し離れた場所に立っていたので、その内容はほとんど聞き取れなかったが、説明を聞いている高校生達の反応が気になっていた。真剣な眼差しで聴いていたのは本土からきた高校生だった。6月23日に向けて様々な企画がなされ、新聞やテレビなどで報じられる。どれだけ、戦争について自分の問題として引き込んでいけるか。

 先日行った大阪城の「大坂冬の陣」(1614年)と「大坂夏の陣」(1615年)の図屏風に描かれた絵と今次大戦の場面とがいくつも重なってくる。いずれも「地獄絵図」を見る思いである。もしかしたら、陣取り合戦の駒を動かす立場で戦争をみているのではないか。八重瀬町富盛から具志頭、糸満市の真壁などを通りながら戦争と向き合う一日であった。島尻の方々の戦争体験記録に目を通している。

 
      八重瀬町富盛の「白梅学徒隊第24師団野戦病院の豪」跡

 
     具志頭グスクの慰霊碑        青い空と海、そして幾重の帯状の白波が・・・


200859日(金)

 「ムラ・シマ講座」のノートの準備が終わると、昨日積み残した「ウドゥン屋敷」跡まで足を運ぶ。馬場跡の東側の南側の一角が宮里喜一氏と金城蒲戸氏の屋敷だとある。それで近くまでいき上間精光氏宅を訪ね、奥さんに聞いてみた。「戦前の宮里喜一さんの屋敷はどこですか?」「すぐそこですよ。戦前、県議員をしていたですよ」と教えていただく。監守か阿応理屋恵かは別にして「御殿屋敷」の跡は確認できた。宮里家は那覇に住んでいるようで、隣りの金城家はどなたか住んでいるようで、「金城」の表札がかかっている。

 ついでにオーレウドゥンの祠までゆく。最後のアットメー(最後の今帰仁阿応理屋恵)が住んでいた屋敷跡に祠がありウドゥンガーと呼ばれる掘り抜きの井戸がある。祠には六世縄祖の位牌が今でもある。ガーナー位牌が二基あり、その一基に「帰一瑞峯祥大祥定門」とあり、後面に六世の没年(順治十五年六月廿九日」(1658年没)と彫られている。

 親泊村側と今帰仁村側にある二つのウドゥン(御殿)と北山監守(今帰仁按司)の御殿と今帰仁阿応理屋恵の御殿の関係についての確認が必要。そのことと『琉球国由来記』の今帰仁グスクが今帰仁村から親泊村の村域になるのはどの時期なのか。そのことは今帰仁ノロが今帰仁グスクの側にあった頃に名づけられた名称だとすると、その場所は今帰仁村となり、麓に移動した時に親泊村地内に移動したことになる(現在の今帰仁ノロ殿内は親泊村側にある)。

 (文字に表された資料と現場を合わせ見ていくと、史料を踏まえて論理的にまとめているようにみえるが、そう単純ではないことを実感させられている。資料が出てくるたびに書き替えが続く。それも楽しいものだ!)

 
    集落内の「ウドゥン屋敷」跡と言われる馬場の角の宮里家の屋敷と金城家(現在)

 
集落内のオーレーウドゥン(今帰仁阿応理屋恵)跡にある祠と内部の二基のガーナー位牌(現在)


200858日(木)

 天気が回復したので、午前中「ムラ・シマ講座」のコースの下見へ。今回は今帰仁グスク周辺の拝所と、かつて今帰仁グスクへの主要道であったであろうハンタ道をたどることにした。現在の今泊集落は今帰仁グスクの麓の海に近い場所に位置している。今帰仁グスク周辺に、今帰仁阿応理屋恵殿内火神の祠・今帰仁ノロ殿内火神の祠・トモノハーニ殿内火神の祠があり、ハンタ道沿いにミームングスクやハタイバルウーニ、そして神送り場所と見られる(ナガレ庭)、さらに下ると親川(エーガー)がある。グスク周辺にある火神の祠や拝所が、集落移動の痕跡を示す手掛かりとなり、一つの法則が見いだせる。

 今帰仁グスク内の『琉球国由来記』(1713年)でいう「城内上之嶽」と「城内下之嶽」が今帰仁村(ムラ)にあるとある。両村が明治36年に合併し、同39年に分離し、昭和48年に再び合併し現在に至る。今帰仁グスクのあるハンタ原は親泊村域である。さらに古い1742年の「今帰仁旧城図」では「はんた原フノ印竿本ヨリ戌下小間右少十八間」とあるが、どの村かは明確に記されていない。ところが、それより古い『琉球国由来記』(1713年)で今帰仁グスク(ハンタ原)は今帰仁村内である。どの時期に今帰仁グスクのあるハンタ原が親泊村に組み込まれたのか。その議論はこれまでなされたことがない
(集落移動や今帰仁グスク内のウタキ(イビ)と村との関係をしる手がかりとなる重要な要素をもっているので改めて整理することに)

 もう一つ今帰仁グスクの近くにあった今帰仁村が麓に移動し、今帰仁グスクにいた今帰仁(北山)監守一族は今帰仁村へ移り住んでいる。今帰仁按司六世の位牌のある屋敷跡は今帰仁村側にあるので説明がつく。ところが、すでに今帰仁グスク近郊から麓に移動している『琉球国由来記』(1713年)の頃の阿応理屋恵按司火神は親泊村にある。親泊村側に阿応理屋恵按司火神があったとするなら、現在の今帰仁村側にあるオーレーウドゥン跡ではなく、親泊村側に求める必要がある。

 以下の文書(『御案内』)をもって解決つくものではないが、参考のために掲げておく。以下の「御殿屋敷」跡は親泊村側にあり、そこでの移動が阿応理屋恵であれば整合性があるのだが。
 
 「今帰仁城監守移転の跡」(『御案内』平敷兼仙著 昭和11年)
   
阿応理屋恵御殿より馬場を東に二百四十米の南部に「ウドン屋敷」と俗に言ふ監守別宅の跡がある。現宮里
    喜一氏、金城蒲戸氏の屋敷が其れで、(昭和11年から)二三十年前までは、具志川家からたびたび「おぐわん」
    に来られたと村の老人は話している。
    具志川家の祖なる今帰仁按司は、六世まで北山城内に在りしが、七世の時、志慶真村、城下より親泊の大兼久
    に総引っ越をなししかば、古城附近は民家なく、荒涼寂莫たる古戦場となりしを以て城内監守も遂に居宅を親泊
   馬場の東端に移して之に居り更に王命によりて首里に引き上げたりと言う。今に其の居址を「御殿屋敷」と呼ぶ。

 もう一つ今帰仁グスクの近くにあった今帰仁村が麓に移動し、今帰仁グスクにいた今帰仁(北山)監守一族は今帰仁村へ移り住んでいる。今帰仁按司六世の位牌のある屋敷跡は今帰仁村側にあるので説明がつく。ところが、すでに今帰仁グスク近郊から麓に移動している『琉球国由来記』(1713年)の頃の阿応理屋恵按司火神は親泊村にある。親泊村側に阿応理屋恵按司火神があったとするなら、現在の今帰仁村側にあるオーレーウドゥン跡ではなく、親泊村側に求める必要がある。


 以下の文書(『御案内』)をもって解決つくものではないが、参考のために掲げておく。以下の「御殿屋敷」跡は親泊村側にあり、そこでの移動が阿応理屋恵であれば整合性があるのだが。
 
 「今帰仁城監守移転の跡」(『御案内』平敷兼仙著 昭和11年)
   阿応理屋恵御殿より馬場を東に二百四十米の南部に「ウドン屋敷」と俗に言ふ監守別宅の跡がある。現宮里
    喜一氏、金城蒲戸氏の屋敷が其れで、(昭和11年から)二三十年前までは、具志川家からたびたび「おぐわん」
    に来られたと村の老人は話している。
    具志川家の祖なる今帰仁按司は、六世まで北山城内に在りしが、七世の時、志慶真村、城下より親泊の大兼久
    に総引っ越をなししかば、古城附近は民家なく、荒涼寂莫たる古戦場となりしを以て城内監守も遂に居宅を親泊
   馬場の東端に移して之に居り更に王命によりて首里に引き上げたりと言う。今に其の居址を「御殿屋敷」と呼ぶ。

  
       今帰仁阿応理屋恵ノロ殿内火神の祠と内部の火神(今帰仁グスク付近)

 
        今帰仁ノロ殿内火神の祠と内部の火神(今帰仁グスク付近)

 
         トモノハーニー殿内火神の祠と内部(崩壊中)(今帰仁グスク付近)

 

       ハタイバルのウーニ(御舟)左が今帰仁ウーニ、右が本部ウーニ(ハタイ原)

 
今帰仁グスクへのかつての主要道(ハンタ道) ハンタ道の起点にあるエーガー(親川)


200857日(水)

 今週の土曜日から「ムラ・シマ講座」がスタートする。一回目は開講式と館の周辺の踏査を予定している。天気がどうなるか。雨なら館内で。その準備もしなければならない。コースの下見は、晴れたら明日にでも。

 本部町堅健と瀬底、そして水納島(本部町)までゆく。本部間切の地頭代になると健堅大屋子(前健堅親雲上)を名乗る。今帰仁間切や与那城間切、勝連間切のように地頭代は島の名を名乗ってよさそうであるが、『琉球国由来記』(1713年)以後も変わっていない。健堅村の対岸に瀬底村(島)があり、健堅と瀬底島との間は瀬底二仲(シークタナカ)と呼ばれ、港としての機能(停泊地)を果たしている。本部間切の番所は、間切創設当初は伊野波村、後に渡久地村に移動する。

 瀬底島に上間ウェーキ(富農)があり、代々地頭代を出している。上間ウェーキの二世の健堅親雲上(17051779年)が、若い頃(御殿奉公のときか)山内親方の供をして清国に三回も渡り、木彫の土帝君を持ち帰り瀬底に祀ってある。首里王府から「善行家風」(道光11年:1831)や「厚徳」(土帝君の祠)(咸豊元年:1851)に掲げられていた。画像の土帝君は『瀬底誌』所収より。瀬底に健堅屋(キンキンヤー)の屋号があり、地頭代を出した家が三家ある。

 本部町に土帝君が瀬底と浜元の二カ所にある。瀬底は上間ウェーキの一人が中国(清国)へお供し、浜元の土帝君は具志川ノロ家の男方が唐旅したことと土帝君の導入と関わっているのではないか(現在は本部町辺名地仲村家にノロ辞令書一枚と男方の辞令書二枚(目差・掟)。また今帰仁村越地の土帝君も唐旅をした時に宮里家の先祖が持ち帰ったと伝えられている。それらについて、もう少し資料にあたってみることにする。

  
       瀬底の土帝君          土帝君が安置?されている祠    

 休日を利用して水納島(本部町)に渡ってみた。この島は字瀬底のうちである。古くは「みつな」、正保国絵図に「水な嶋」とあり、みつな(ミーチャ)は新墾の地ではないかと(『沖縄地名考』宮城真治)いう。また、瀬底島より水はよかったから、水無し島ではおかしいのではないかとの語義論がある。表記は「おきみつな」「水な嶋」「Mina I.」「面那島」などがあり、ミナ島なら貝の島でもいいのだが。水納島に瀬底島から移住し人が住むようになったのは明治になってからである。しかし、『琉球国由来記』(1713年)にメンナノ御嶽(瀬底村)が登場する。それ以前に人が生活していたのかもしれない。今では瀬底島のサンケモーから水納島に向かって遥拝している。

 島の家は20軒余で少ない。集落へ入ると、まず公民館を尋ねる。港の案内図に公民館と記されているが、どの建物が公民館なのかわからず、尋ねてみると「もうないはずよ」と。それで水納祥小中学校へ。生徒が数名で先生方もその位だと聞かされていた。今の人たちが島に移り住んだのは明治の年代なので根っこがないのは当然なのかもしれない。集落の東側に拝所がありケーソーウタキと記されている。メンナ御嶽ではなく明治に移住した人々が作った拝所だという。瀬底島に向かっている。

 水納島に今の人々の先祖が住みつくようになったのは明治20年代である。歴史としては浅いが移住や生業や学校や戦争、海上交通などを辿っていくと、多くのことが学ばされる。「どんな島?」と聞かれて、「・・・画家の作品とビーチ」と答えてしまったが、島の歴史を知らなかったが故の失言。取り消し。歴史の浅い島であるがいい島である。

 
        水納小中学校               ▲30世帯足らずの集落 

 
 今の集落の歴史は浅いが遥拝所を見つけると集落(人々)の根っこに触れた思いがする!

 
ニューウイングの発着時、ちょっとした賑わい!    島のビーチロックが面白い
 
 島の大きな桑の実    プリプリの鰹が欲しいと。ハイ鰹のぼりを(渡久地)


200855日(月)

 「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。

 ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。

    ・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
    ・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
    ・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍
(ママ)奉行格式ニ而御座候
    ・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
    ・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也

  
   今帰仁村湧川の路次楽(現在)        今帰仁村古宇利の「しゅんどう」


200853日(土)

 今回の関西行きは「江戸上り」を目的としたものではなかった。結果的に「江戸上り」で行く使節の行程の場所の何カ所かに立つことができた。大坂から淀川を遡り伏見で船を降り、伏見・大津・草津の道筋をたどっているが、私は今回彦根の方へ向かった。大和芸能の能と狂言について知りたくて。

 琉球側の使節は薩摩や大坂や江戸で琉球芸能を披露しているが、御能・花火・竹田操・蹴毬・曲馬・手妻(手品)・伊勢神楽・人形芝居・御馬・太神楽・曲馬・囃子・狂言・操戯(曲芸)・御盤人形・竹田近江の絡・踊り狂言・雑戯などを鑑賞している。琉球の芸能を披露すると同時に、大和芸能にヒントを得て琉球にもたらしたものがありはしないか。玉城朝薫の「組踊」はよく知られているが、また使者の中に和歌をたしなんだ人物もいる。それだけでなく大和芸能にヒントを得て琉球化した芸能もあるのではないか。「江戸上り」の芸能を追いかけているのは沖縄本島北部の名護市川上・今帰仁村謝名・本部町伊豆味の「操り獅子」が、江戸上りや薩摩入りの時の楽童子や楽子などに随行して行った末端のメンバー(仁屋クラス)の中にいたのでは。そんな期待をしながら資料を見ている。

 能や狂言について知識をもっていないこともあって、彦根城博物館内で舞台や能や狂言について知識を少し。芸能について全く知識をもっていないことを自覚。博物館内に狂言や能のビデオコーナーがある。時々実演も行われているようで常設の舞台もある。いくつかビデオを流れている。笑いが起こり手が叩かれる。全く能や狂言を知らない私は観客の反応を観察するはめに。

 
         彦根城博物館入口            館内にある舞台

 
      ▲彦根城の天守閣            彦根城の天守閣から琵琶湖が望める          

  
  ▲天守閣に向かう門(空堀に橋)                   

  
 
                                   幅広い階段がつづく   

  


200852日(金)

 神戸が街として発達するのは神戸港が開港してからで、外国人の居留地として街として展開する。外国人の居留地として存続したのは明治32年までのようだ。今回の関西行きの最初の日に、神戸という街を掴むことができないまま姫路へと足を運んだ。帰る日の午前中、再び神戸へと向かった。大坂梅田駅から神戸駅の手前の元町駅で下車する。買い込んだ書物でカバンは重く肩に食い込む。駅のロッカーへ。旧居留地とメリケン波止場を目指してゆく。途中南京町や煉瓦造りの建物に居留地の匂いがしてくる。大丸の百貨店あたりが中心地だったのだろうか。

 メリケン波止場は向かう途中、神戸市立博物館への案内板があり、博物館をのぞくことに。混雑していると思ったらルーヴル美術館展が開催されていた。130点余の展示がなされていたが、展示品より人の頭しか見えないので素通り。常設展の神戸開港の頃の道具(印刷・マッチなど)に関心が向く。それと展示されている図の鎖国中の異色を放つ四つのルートである。琉球と薩摩藩、アイヌと松前藩、朝鮮と対馬藩、そして清国・オランダと長崎のルートである。江戸上りの時、琉球は薩摩藩に同行していく。大坂では大坂薩州公館(薩摩藩蔵屋敷)へ江戸でも薩摩御屋敷に赴いている。それでも琉球は形式的?ではあるが明治維新の時、琉球国は琉球藩とし(明治5年)、同12年に琉球藩は沖縄県となる(国王藩王県知事)

 江戸上りが行われていた頃、神戸(こうべ)は小さな村で兵庫津の方が港として機能していた。神戸の発達は慶応3年(1868)の神戸開港後である。博物館には開港当時の絵図が展示されている。江戸上りで薩摩や琉球の使節が兵庫津に寄った例はあるようである。そのほとんどが大坂津(港)である。江戸上りする時に関わる重要な港ではないが、琉球・朝鮮・アイヌ・オランダ・清国などの国々と江戸幕府の関係を知る手がかりを与えてくれる。兵庫津は西方の藩が参勤交代でよく立ち寄る町でもある。

 
   旧居留地にある神戸市立博物館        居留地の面影を残している建物

 
   阪神・淡路大震災で崩壊した堤防           神戸の港の様子


20085月1日(木)

 五月に入りました。歴史文化センターの周りにもアカショウビンがやってきました。近くでホーピィルルと鳴いています。アカショウビンの渡来は季節を伝えてくれます。瀬底島では二週間前に確認しています。

 神戸や兵庫、大阪などが登場してくると「江戸上り」が被さってくる。「江戸上り」について研究書もあるが、沖縄県史が発刊された「江戸上り琉球使節の江戸参府」(ビジュアル版)があり非常にわかりやすい。有り難い。

 これまで、按司や王子や親方などの薩州行きや参府(江戸)に赴いた正使や福使をはじめ儀衛正・楽童子・楽師・与力などが琉球からの物や出し物(歌や踊りや音楽の演奏など)を持っていくが、向こうで能や武田操(からくり)や手妻(手品のこと)や人形芝居などを見る機会があった。それに随行していった地方の奉公人なども、そのような芸能を鑑賞する機会があった。

 江戸上りで大坂まで来ると、江戸堀と土佐堀の間の島に薩摩藩蔵屋敷(大坂公館)があり、そこに招かれ、宴を賜り竹田操(からくり)や手妻と人形芝居や狂言などを鑑賞している。薩摩藩蔵屋敷と薩摩藩中屋敷は中の島の隣りの島である。中の島と薩摩藩蔵屋敷のあった島には、数多くの蔵屋敷が並んでいたようだ。

 今回は「中の島」までいく。大坂の港が知りたくて「築港」や「天保山」など案内していただいた。使節を乗せた川舟は淀川をさかのぼり伏見で荷揚げをし陸上で江戸へ向かったという(「中の島」あたりの画像がみつかりません)。

 これまで確認してきた沖縄本島の石灯籠や銘のある香炉、それと関わった王子や親方、そして地方の奉公人。薩摩や江戸上りへお供していったメンバーは地方への芸能など文化を伝えていく伝道者としての役割もはたした姿が見えてくる。

  
     大阪城の内堀        大阪城の天守閣       大阪城の内堀

   
  中の島と堂島に架けられた難波橋           何回も架け替えられた太平橋

   


【近世の琉球の動き】(整理中)

 ・1598年 豊臣秀吉63歳で生涯を閉じる。
 ・1599年 島津氏は庄内(都城)の領主伊集院忠真の叛にあう。翌年終結する。
 ・1600年 島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗れて不安定なものになる。
 ・1602年 家康より罪を許され義久に薩摩・大隅の両国と日向の一部が安堵される。
 ・1604年 義久は尚氏宛て書状を送る。その書状内容が・・・
 ・1604年 上の書状に対して9月尚氏は中村親雲上を島津氏に送るが徳川氏へは謝恩の使者を送っていない。
 ・16057月 島津氏より琉球出兵の願いが出される。(出兵理由)
 ・16066月 琉球出兵を認める(島津家の当主家久)。
 
160934日 山川港出発する。
16105月 家久は尚寧王を伴って薩摩の京泊をたつ、6月伏見、8月駿府、20日江戸。
1610828日 将軍秀忠に喝見。尚寧は家久にともなわれて、将軍世子竹千代に拝喝。琉球国王の引見。
1611年 尚寧王帰国を許される。


 
  今帰仁村今泊のシルバマ(夕暮れの海岸)    浜の堤防にヤッカをつくりそこで一杯!