沖縄の地域調査研究(もくじへ)
2009年8月31日(月)
8月最後の日。新城徳祐資料の中に「毛姓先祖由来伝」の接写がある。原本は?
毛姓先祖由来伝の話左にこれを記す
一 家祖中城按司護佐丸盛春公より其の先は山田城主にて候
前代のことにて氏名代数相知らず候
康煕五拾三午年彼の墓一門にて
修理ちかまつり候このとき御城(首里)
聞得大君御殿野嵩御殿より御合力
など下され候
其の年より一門中賦合をもって毎年
八月参けい仕る事に候
くわしくは碑文にこれあり候
附
一 墓内屋形うすみがきにて結構仕立
衆骨一処加葬仕られいたるところ
かべ板朽ち入り御骨けがらしく仕り候段
今は六尺角程の石段末代動かざる
ようにして御骨納めおき候
昔王様にても候や屋形かべ板など
巴の御紋付これありたる由に候
一 この墓山田久良波の二ヶ村の百姓中
祈願すちかまつるところ毎年二、八月参けい仕り候
④ ③ ② ①
2009年8月30日(日)
新城徳祐氏の調査記録ノートを開く。各地のグスクコーナーの写真展示にかかっているが、グスクの調査ノートも展示する。10年前に整理する過程で一通り目を通している。再度見ると貴重なメモが散見できる。下のノートは1958年12月の元摩文村の米須城や真壁城の記録である。もう一つは江洲城(現うるま市)と棚原城(西原町)の記録(1960.2.10)である。
▲新城徳祐氏「調査記録」ノート(1958年12月) ▲新城徳祐氏「調査記録」ノート(1960年2月10日)
2009年8月28日(金)
展示が日々変わっている段階。新城氏の拓本や辞令書関係資料の場所と展示が変わる。これで落ち着くだろうか。まだまだ展示は序の口なので、資料を出していく度に変化していくでしょう。明日はどうなるかわからない。それが面白い。拓本の裏内作業も数点。宮古・八重山・久米島の資料(写真が主)の展示もボツボツ。
2009年8月27日(木)
総合学習のグループがやってきた。夏休み中インフルエンザで来れず今日やってきた。戦後のグループと戦前の一人。発表は学芸員実習の皆さんに聞いてもらう。実習期間中、何組かの総合学習組がやってきた。学芸業務の一つなので、実習生も参加してもらう。古宇利小学校の校内研修もそうである。
学芸員実習の広島グループの実習最終日。沖縄組はまだ続く。報告を聞いていると、異文化、あるいはミクロの世界に放り込まれ、戸惑いながら予期しないことの連続。沖縄のことを知ることも大事だが、広島のことを、もっともっと知るべきだと気づいてくれたら実習は大成功である。お疲れさんでした。
▲「村制時代(戦後)」グループ ▲私たちの組が「北山の歴史」の締めです!
▲拓本の裏打ちや展示台も作りました! ▲デーサービスの皆さんも見学に。
2009年8月26日(水)
合間を見て壁展示、氏のノートとスクラップを置いてみた。一つのコーナーは山原の祭祀や神人や神アサギなど。また他のコーナーは先島を含めた建物や墓や祭祀、15年間の調査ノート、それとスクラップl帳を置いてみる。詳細な詰めの展示はこれから。まずは、全体像を把握することから。天底のしまちすじのりや伊是名島の銘刈家の御玉貫や神アサギ、浦添のよーどれの墓修理、宮古の人頭税石など、文化財指定に向けての調査ノートや画像である。明日は展示がどこまで進むか。
▲新城徳祐氏山原の祭祀や風景 ▲各地の祭祀や建物や墓など
▲新城徳祐氏の調査ノート ▲新城徳祐氏のスクラップ帳資
2009年8月25日(火)
新城徳祐氏の資料の中に氏が採拓した拓本が10本余ある。大分痛んでいるので展示するのに躊躇しているが、仮展示してみた。氏は碑の拓本にも関心をもたれている。軸にしてないのも数点あり、裏打ちする時間があれば、それらの展示もできるのだが・・・。しばらく、壁展示が続く。
2009年8月24日(月)
4年生、展示、古宇利小学校の職員の校内研修。学芸員実習生も参加。古宇利島の歴史などなど。ボツボツ展示に取りかかる。しかし、合間合間の展示作業である。小学生の学習や学校の研修などがはいり、学芸員実習と日常業務が並行に進まなければならず、息つく暇なし。体力勝負。待ったしてもらっている仕事がいくつも。
▲新城徳祐氏の今帰仁グスク関係写真の一部
▲新城徳祐氏資料の辞令書関係資料
2009年8月20日(木)
学芸員実習が始まる。展示物の整理と模様替え。直に物に触れて考えてもらう。実測やスケッチをしながら、道具ひとつひとつから知恵を学ぶ。展示を見る側から、創り出す立場にスタンスの切り替え。などなど。作業をしている場面も展示のうち。
▲第二展示室の展示物の整理と実測とスケッチ
今泊の田に二期作の稲が植えられている。二期作目もいいできだといい出来になるでしょう。他人の田ですが、稲の成長ぶりを通るたびごとも楽しみです。
2009年8月19日(水)
運天の崖中腹の墓。残念ながら、内部を調査することなく、ほとんどがブロックで閉じられてしまった。戦前の、あるいは閉じられる前の写真を見ながら少し説明することに。このように閉じられているということは、「今帰仁上り」や「門中ウガミ」で今でも拝まれている証である。
崖中腹にある墓は、外観上いくつかパタンがある。崖中腹のを紹介しているが、崖の下にも堀抜きの墓がある。
・崖中腹に横穴を堀り込んで、そこに木材(チニブ:ヘツカニガキ)で家形を造った墓。
・崖中腹に横穴を掘り込んで、柱を組んで前面は板で閉じた墓。
・崖中腹に横穴を掘り込んで、前面チニブ(竹垣)で閉じた墓。
・崖中腹に横穴を掘り込んで、前面の左右をチニブ(竹垣)で正面の一部は板で閉じた墓。
・崖の下には横穴を掘り込んで、前面を石積みで閉じた墓。
・それらの墓内に木棺の壊れたのが散見できる。
・ボウジャーの厨子甕があり、古琉球から近世にかけて利用された痕跡が見られる。
・墓によって、人骨が多く散在している。木棺はそれらの骨を集めて納めている。
・厨子甕に洗骨して納める以前の葬制の名残り?
▲今帰仁村運天の崖中腹の墓群(現在)
▲今帰仁村運天の崖中腹に並んである墓(現在)
2009年8月18日(火)
笹森儀助の『南嶋探験』(明治26年)に以下のような記録がある。そこに「抱護」とある。「抱護」とは何だろうか。久志間切の「抱護」は「一町二反二畝二十三歩」(約12;200㎡)である。防風林や保護林も「抱護林」というようである。
具体的な事例を探してみることに。宿道沿いの松並木・屋敷林・集落周辺の松並木・マチウチ(松内)の松並木など、そういうのも「抱護林」というのだろうか。久志間切の「抱護」にどのようなものが含まれているのか。仕立敷や杣山、御嶽、山野、薮山などと「抱護」林とは区別する必要がありそうである。そうなると、「抱護」林の痕跡だと特定するのは、そう簡単ではなさそうである。
それと『杣山法式帳』(杣山見様之事)の「左右山高く同様にして相向候は相対峠と申候。亦山気之不漏様諸山之相囲候を抱護と申候。亦抱護左右之手先にて衣裳之領を打合候に入違候所を抱護之閉と申候事」とあり、抱護(林)に該当するのは? 防風林や保護林も「抱護」林に含めるのなら、事例はいくらか挙げられそうだ。
久志間切 村数13 戸数 131戸 人口 現在4698人
牛 189頭 馬3頭 豚1350頭 山羊 3010頭・・・
不耕地11315町9畝11歩
内 仕立敷 杣山 抱護 御嶽 山野 薮山
下の画像の並木も「抱護」林に含まれるのだろうか。
▲今帰仁村の仲原馬場(昭和30年代) ▲今帰仁村の仲原馬場(昭和33年頃)
▲今帰仁村の謝名(松の内側をウチマチ) ▲運天番所への宿道
▲今帰仁村の今泊の馬場跡、屋敷林(昭和30年頃)
【沖縄旧慣地方制度】から「抱護」の条文を取り出してみる。
農務方
一蘇鉄、棕□、黒次、ニガ竹、芭蕉、ハ作毛出来ザル場所又は屋敷、抱護、村抱護、並余地へ植方取締ノ手続ヲナス事
(田、畑、屋敷、山野取締ノ部)
一潮垣、猪垣、山野堺、村抱護等、阿旦、ヨス苗、松仕立等行届ナサル者ハ科銭申付・・・
【国頭間切各村内法】(第26条)(第29条)(第35条)(第95条)
一 村抱護並屋敷囲明間ノ所ハ相応ノ樹木植付サセ候様致・・・
一 村抱護苗松植付ベキ所ハ気ヲ付毎年十一月中植附サセ候事
一 村抱護並御仕立敷ヨリ生木並枝葉枯木唐竹唐竹ノ子伐採又ハ・・・・
一 宿道並抱護山野筋々等ノ・・・
2009年8月17日(月)
午前中、「北谷ナーチラー」と「志慶真乙樽」グループの講座あり。グスクに行く前に一人ひとり発表。みんな自分の持ち分はしっかり覚えています。これからハナシの現場の様子をイメージさせる絵にする工夫を。
物語のバックにする場面さがし。ゴロゴロしたその場面がいいな。ここで北谷ナーチラーで石を切ろうか。その石を積み上げることに。ここの石積みを場面にしましょう。いつもウガン(祈り)をしている所は、あのクボウヌウタキとテンチヂアマチヂ。みんなもそこで祈りをしてみようか。「うまく絵が描けますように」と。
志慶真乙樽の顔は誰にしようか。おきさきは担任の先生をモデルにしようか。先生からオッケーをもらってください。田んぼでターイモを掘っている場面、後ろで子供がないている様子。回りで兄弟も畦道で遊んでいるのもいれようか。北谷ナーチラーは不思議な刀だな。「そんなにたくさんの石を切ったら、きっと切れなくなるのにね」、「研いでつかったらなくなるはず!」「そう、だから不思議な包丁なのだ」
志慶真乙樽に祈りをしている場面。それからおきさにに赤ちゃんが生まれた場面、王様が病に倒れて遺言を残しているところを描こうか。などなど・・・
▲後方の山がクボウヌウタキですよ ▲乙樽がいつも祈りをしたテンチヂアマチヂなり
▲ゴワゴワしていたところで生活していたんだね。北谷ナーチラーで切った石積みにしようっと。
2009年8月16日(日)
ちょっと時間があったので、那覇市歴史博物館の企画展を見にいく。史料や展示を興味深く見せてもらいました。その足で古宇利島へユーターン。
古宇利島でサーザーウェーとピロシーが行われた(旧暦6月26日)(概要報告のみ)。
【サーザーウェー2日目】
①サブセンター ②ヌルヤー ③しちゃぐや ④お宮(クッワサヤー)
①ウンナヤー(公民館)でサーザーウェーの舞いをする古宇利春夫氏
②ヌルヤーでのウタと舞い
③しちゃぐやーでのサーザーウェーのウタと舞い
④お宮(クワッサヤー)でのウタと舞い
【ピロシー】
ピロシーはイルカを捕獲する漁の名称のようだ。
①お宮前 ②塩屋へのウガン ③イルカの囲み ④イルカの捕獲 ④慰労
①②お宮前での塩屋に向かってのウガン
▲イルカ囲いの準備をする ③イルカは囲いの中を三回逃げまわる
③最後はイルカを捕獲する ④ピロシーが終わって慰労
2009年8月15日(土)
サーザーウェーの一日目。島の祭祀が4日間連続して行われる。島の神人全員がどの祭祀にも参加するのではない。神人に祭祀の分担があることがわかる。サーザーウェーが行われているのは古宇利島(2日間)と天底(旧6月26日)と上運天(旧6月25日)である。サーザーウェー? 他の地域ではウカタビ・ヒチュマ・ウマチーなどの呼称。内容は?
【サーザーウェー1日目】(旧暦6月25日)
①ウンナヤー ②新築中の店 ③ウチガミヤー ④フンシヤー
①ウンナヤーでサーザーウェーの舞いとウタを謡う(古宇利春夫氏)
②新築中の店で(ウタと舞い) ③内神ヤーで(ウタと舞い)
④フンシヤー(古宇利子ヤー)でウタと舞い)をする(古宇利春夫氏)
6月23日~26日にかけて行われる他地域の祭祀は、以下の通りである。名称が異なる。新米の頃である。
・シンメー(旧6月25日)(国頭村浜)
・ミーメー(チキシウユミ)(国頭村比地)
・ウイミ(旧6月25日)(国頭村宇良)
・アギウイミ(旧6月25日)
・ウシマチ(稲のフパチ)(旧6月)(今帰仁村今泊)
・フチマチー(シチュマ)(旧6月15日)(今帰仁村兼次)
・ウカタビ(旧6月23日)/ウンジャナシー(旧6月23日)(今帰仁村諸志)
・ヒチュマ(旧6月25日)(今帰仁村与那嶺)
・ウチマチ(旧6月15日)/ウカタビ(旧6月25日)(今帰仁村崎山)
・ウチマチ(旧6月15日)(今帰仁村平敷)
・ウカタビ(旧6月13日)/ウチマチ(旧6月15日)/ウユミー(旧6月25日)(今帰仁村謝名)
・ヤリヌウガン(旧6月25日)(初稲取り入れ・収穫祈願)(今帰仁村仲宗根)
・ウマチー(旧6月15日)/シツマ(旧6月25日)(今帰仁村玉城)
・サージャエー(旧6月26日)(今帰仁村天底)
・ウユミ(旧6月26日)(今帰仁村勢理客)
・シチュマ・サーザーウェー(旧6月25日)(今帰仁村上運天)
・サーザーウェー(旧6月25日、26日)(今帰仁村古宇利)
2009年8月14日(金)
古宇利島ではユーニゲーの祭祀が行われる(旧暦6月24日:夕方から)。ユーニゲーを豊穣願いの意もあるでしょうが、「世果報願い」(ユーガフーネガイ)ではないか。村人の幸福や平和の願い。古宇利島のユーニゲーの時、タコ(タフ)を吊るしてあるのは「多幸」(タコー・タフー)に掛けてのことか。ニゲーは願いでしょうが、ユーと豊穣とは結びつかない。世果報願(ユガフネガイ)がユーニゲー(果報の脱落)か。そんなことを気にしながら今日のユーニゲー調査をしてみることに。
夕方七時過ぎ、ヌルヤーに神人(三人)が集まり、祭祀が始まる。前半のヌルヤーでの神人は兼次フサエさん、玉城幸子さん、玉城タエさんの三人。それと区長さんと書記さん。後半のヌルヤーには渡具知綾子さんが参加。島の方が二人(神行事見学)。
①ヌルヤー(ウガン)
②サブセンター(ユーニゲーの歌あり。吊るされたタコの回りをウタを謡いながら三回廻る)
③サブセンターからタコを運ぶ。ウガンが終わるとタコが配分される。お神酒が回される)
▲ヌルヤーでのウガン ▲ヌルヤーでのウガン
▲サブセンターにはタコが吊るされている ▲タコの回りをウタいながら三回廻る
▲再びヌルヤーでのウガン ▲ヌルヤーにタコが運ばれる
2009年8月13日(木)
古宇利島でカミサガイ(神下り)の祭祀が行われた(午前8時頃から)。新しい神人の誕生の祝いの観念があるようだ。今回は神人の誕生はなかったのでヌルヤーでのウガンで終わる。
カミサガイは各村(ムラ)によって異なるようである。村によっては神アサギ、古宇利島ではヌルヤーで行っている。新任の神人の誕生があれば、拝む場所や参加する行事や役目、それと祝福などの所作があったのであろう。「神職の新任式」の要素が大きいようである。
大宜味村謝名城における「あらたもと」の儀式を見ると、古宇利島のカミサガリの様子を彷彿させる。他の地域での神サガリ(神人の誕生)は盛大に行われている。その状況を示す文書は何点もある(古宇利島のは未確認)。謝名の故親川ウ戸から大城菊の場合は、8月1日に玉城ノロ殿内、内神殿内でウカタビの祭祀を行い、8月10日に謝名の神アサギで「あらたもと」を行っている。村挙げての祭祀である。
・嘉慶15年庚午□月饒波村根神代合入め割付帳(大宜味間切)
・同治13年庚戌十月饒波村根神死去ニ付御殿御供池原にや女かまと江居替ニ付入めわふり帳(大宜味間切)
・「あらたもと諸入費取立帳」(大正6年)(今帰仁村謝名)
・「故親川ウ戸身変根神人入費取立簿」(昭和15年)(今帰仁村謝名)
「神職が死亡して欠員を生ずると神意を卜い、その一族より後任者を定め、陰暦七月の海神祭の四日前にのろ・うち神・
根神等の神職にのろ殿内に集合を乞い、新任者もまたその一族と共に参殿し、新任者の一族より線香・花米・御酒を
うち神に捧げ、うち神はこれを受けてのろ火の神の前に供える。そこでのろを始め神職一同は火神の前に着坐し、新任
者もまたそれに加わり、海神祭の前の晩のかみさがりに神々が降臨せられるよう、火の神に取次ぎを願う旨のおたかべ
を上げる。それが済むと一族より神職一同に酒肴の饗応がある。・・・」(『山原―その村と家と人と―』宮城真治)。
▲ヌルヤーでのウガン ▲ヌルヤーでのウガンが終わって
2009年8月12日(水)
テレビ番組や新聞社などの取材があった。ぶっつけ本番で話すのが楽である。現場で見たことや考えたことを言葉にするクセがついている。他人のを読んでまとめることは苦手である。最近、過去に書いたのに目を通す機会が多い。どこにか書いたのか、思い出せないことが多い。それを見つけ出すより、新しく書いた方が早いことが多い。それと過去に書いたのは古いとの思いがある。10年前、あるいは20年前に書いたのを持参して来られる方がいらっしゃる。もっと研究は先をいっているのにと思いながら、それを使われると恥ずかしくなることがある。過去に書いたのを訂正したり、大幅に書き換えたり、不必要なところは省いたりすることが多い。論文も生き物であることを実感。
池城(イチグスク)墓と津屋口(チェーグチ)墓を訪ねたが、明日何を語らそうか。
▲池城(イチグスク)墓 ▲津屋口(チェーグチ)墓
さて、明日から古宇利島の祭祀の調査。過去の調査メモを見て、論を一歩二歩、進めることに。果たしてどうか。結末は?!
・カミサガイ(神下り)
・ユーニゲー
・サーザーウェー
・サーザーウェー・ピローシ
2009年8月11日(火)
今帰仁村の古墓群の二ヶ所(大井川沿いと運天港付近)を行ってみた。古墓群と呼んでいるが、その起源がいつなのか不明である。古琉球の時代から近世にかけて利用されてきた名のない墓を、仮にそう呼んでいる。墓の奥の段に石棺、素焼の御殿内型の厨子甕、ボウジャー甕が配置されている。古琉球から近世にかけて利用されてきた墓ではないか。
運天の崖中腹を掘りぬいた横穴に家型の墓がある。墓の内部を見ると、風葬?された人骨が集められ、木棺や編んだカゴ状の入れ物に入れてある(現在はペチャンコになっている)。風葬で白骨化した復数の人骨を集めて木棺や編んだ駕籠などに納めている(集骨)。百按司墓の木棺の利用法も同じく「集骨」だと見ている。それは古琉球の墓の葬法の一つではないかとも。
【運天の崖中腹の墓】(現在)
▲運天の崖中腹にある墓(現在) ▲左と同じ場所(昭和10年頃)(『琉球j大観』より)
▲運天の崖中腹にある墓 ▲墓の内部(木棺あり、人骨が数多くあり)
【仲宗根多い川沿いの墓】(現在)
▲墓の内部には石棺や厨子甕がはいている。 ▲左の墓の近くにある墓の内部(15年前調査)
山原の墓を見ていく時の指標なる記述が『琉球の研究』(加藤三吾:明治39年)にあるので紹介することに。
「田舎に於ける村墓の位置と形式とは注意すべきもので、其の位置は大抵平坦なる地ではなく、甚だ高からぬ山腹又は景色好い丘上を選んで造られ、土窟もあり石窟もあり、高さ四尺五尺なる長方形門口が並んで穿たれてある状は、遠望すれば、武藏吉見の百穴に酷似した観を呈している。其の墓には甚だ古いのと最も新しいのとあるが、構造は同一で、門口は切石でアーチ形に畳んだのもあり、自然石積立てたのもあり、其門口を入れば二畳乃至八畳敷の方形室あり、室の一方又は三方に少し高く壇を設けてある具合などとは、殆ど太古の横穴、窟屋、鬼の雪隠などという構造と同一である。これ或は太古穴居時代の横穴が次第に墳墓に転用せらるるに至ったのであるまいか。
此等の横穴即ち墳墓の中には各種骨壷と長方で磁製の壷と長方で磁製の棺は近世のもので、古いものには鎧櫃形の木棺もあり、輿形の石棺もあり、石棺の側に朱で格子を書いたのもあり、ヤーナ(屋号の記号のことか)といって文字のなき時代に用いられ象形の屋号を掘り付けたのもある。」
2009年8月10日(月)
8月にはいて来館者や問い合わせがあいついでいる。頭の回転が続き・・・・・。ちょっと休み。
・資料館建設に向けてのことで来館
・知名町上平川と正名のメンバーが来館
・初任者研修
・墓のこと
2009年8月7日(金)
これまで移動村や移動集落について見てきた。今帰仁グスク周辺にあった今帰仁村・親泊村・志慶真村も移動集落、あるいは移動村の例である。移動した集落や村が故地に何を遺しているのか。その視点で見ていく必要がありそうである。そのこともあって名護市(旧羽地間切)の仲尾村の集落移動を例に見ていく予定にしている。台風の接近で「ムラ・シマ講座」は中止としたので、来月行くことに。
【移動村が故地に遺していったもの】(1736年に移動した呉我村)
今帰仁村に呉我山がある。呉我山の地は現在名護市呉我の故地である。1736年に蔡温の山林政策で現在の今帰仁村呉我山から羽地間切の地に移動した。その地は複雑な動きをしている。1600年代の前半まで今帰仁間切、1690年頃その地と村は羽地間切へ。1736年に一帯にあった振慶名村、我部村、松田村、桃原村、呉我村を同じく羽地間切の内部と屋我地島へ移動。移動させた後地を今帰仁間切の地とした。そこに1738年湧川村を創設した。(村移動はまだしていない。村移動は1736年である)。
・『絵図郷村帳』(1644年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
・『琉球国高究帳』(1648年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
(1690年頃 間切の方切があり、ごが村域は羽地間切に組み込まれる)
・『琉球国由来記』(1713年) 羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・(松田村と桃原村は出てこない)。
(この時期、村移動はまだしていない)
・1736年に羽地間切内にあった呉我村をはじめ、他の村を羽地間切地内へ移動させる。
移動させた地を再び今帰仁間切とした。
・1738年に新設された今帰仁間切湧川村、羽地間切我呉村のあった地は今帰仁間切天底村となる。
・大正9年に字呉我山(天底・玉城・湧川の小字の一部からなる)が創設される。
現在の今帰仁村呉我山は大正9年に新設される。その時、字天底から三謝原(シイナ)・古呉我原・古拝原、玉城から西アザナ原、湧川から中山原をして呉我山とした。呉我山の小字の古呉我原や古拝原名に移動する前の村の痕跡をとどめている。三謝原にあるシイナグスクを考えるには、1738年新設の湧川村ではなく、移動する前の近隣にあった呉我村(現在の呉我山)や振慶名村(現在の湧川の鎌城原、振慶名村の故地)との関係でみる必要がありそうだ。(我呉村が移動した後地に住んでいる呉我山の人々のほとんどが寄留人である)。
故地に遺されたのに地名がある。呉我の故地に「呉我山」「古拝原」「古呉我」などの地名が遺されている。呉我山から移動してきた呉我の人々は旧暦五月に故地の屋敷跡や拝所、アシヤギ、堤泉、神泉の跡地などを参拝している(『呉我誌』)。1736年に呉我村が移動した後の史料で「古呉我山」や「古我」など、故地を意識した地名となっている。
『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉河(我)村・振慶名村・我部村・松田村は、移動する前の故地における拝所である。それらの村は我部ノロの管轄で、村移動後も変わることなく継承されている。
▲左側の黒線部分が現在の呉我山の小字 ▲故地から持ってきたというビーガーの窪み石
2009年8月5日(水)
『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に以下のように記されている。
「此墓(運天の大北墓)は元北山城城下なる親川の東方今俗に「ウツリタマヒ」とい
へる所にありて玉御墓と称せしが墓の天井崩壊せしを以て百数十年前地を運天に
相し堅牢なる墓所を作り之れに移葬せりといふ」(430頁)
大北(ウーニシ)墓のあったウツリタマヒの墓地跡を訪ねてみた。19年前に訪れている。墓の場所は大方知っていたが、再度確認に足を踏み入れることはしなかった。写真に撮ってあったので崩落の様子は記憶にある。墓跡の内部の様子や周辺については記憶がほとんどない。記憶に留めておいたのは福木の木があったこと、それを目安にすればいいと念をいれていた。あちこち探し回って、見つけることができた。墓の全面が崩壊していたことは写真で何回も見ていたので記憶にある。崖を横に彫り込んだ墓である。
今回、墓の上部まで上がってみた。すると真上から墓が崩落している。そこは隣の墓だと見ていたのだが、中央部の墓は両側の墓へと内部でつながっているようだ。真上から崩落しているのは隣の墓のようだ(内部でつながっている)。崩壊した土砂の下に、石棺や甕などの一部が残っている可能性がある。墓石に使われていた石が、僅かであるが散見することができる。もう少し、墓内部の様子を調査する必要あり。
大北墓の石棺に「雍正十一年癸丑三月十六日移」(国頭郡志)とあり、ウツリタマヒから運天の大北墓に移葬したのは1733年とみられる。大北墓の造営は今帰仁按司(王子)十世宣謨である。首里王府へ家譜を申請した頃である。但し、大北墓の拝領願は乾隆26年(1761)である。その時、一族の墓が西原間切末吉村に造ったので、同時に提出したと見られる。大北墓の碑や『具志川家家譜』の「乾隆廿六年辛巳十二月」(1761)は西原間切末吉村の墓と同時に出した拝領願の年とみてよさそう。
今帰仁按司家(具志川家)同様、士族の墓の修復は家譜の申請と時期を同じくすると見られる。今帰仁按司三世(和賢)の墓の修復は、これより古く康煕17年(1678年)である。
今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司や今帰仁アオリヤエなど、一族は運天に移葬されるまでは、この墓に葬られていたということになる。
「ウツリタマヒ」の墓跡を確認」(『なきじん研究』2号所収:1990年)としてまとめてある。同行した方々(今泊字誌編集委員の上間政春氏、新城繁夫氏、嘉手納典一氏、親川繁氏)、皆さん他界されている。いろいろ力になってくれたことが思い出されます。
▲今泊のウツリタマヒにある玉御墓の跡 ▲今泊のウツリタマヒの玉墓の跡(崩落)
▲墓の上部から見ると落盤している。 ▲真上から丸く落盤している。
今帰仁城の麓のウツリタマヒから運天の大北墓(按司墓)へ移葬された。
▲運天にある大北墓(1761年に拝領墓となる) ▲拝領願で出された絵図 ▲大北墓にある碑(再建)
「今帰仁グスクと周辺の集落」というテーマで話をすることに。そのこともあって、今帰仁・親泊・志慶真の三つの集落跡を踏査してみた。そこでのテーマは近世の村(むら)と古琉球のムラ、あるいはグスク時代のムラとは概念をもう少し明確にして論ずる必要がありはしないか。今帰仁グスク周辺の三つのムラについて見ていくことは、古琉球のムラの形態を明らかにしていくものである。ここでカタカナのムラとしているのは、古琉球のムラを指している。近世の村(ムラ)とは区別して考えている。規模の小さい(マキ・マキヨ)の集落をいくつか統合したのが近世の村と考えているからである。
今帰仁ムラと志慶真ムラは17世紀初頭(薩摩の琉球侵攻後)に移動している(『具志川家家譜』)。親泊ムラは、それより前の移動と見られる。1609年の琉球侵攻の時には親泊村は現在地に集落は移動している(『喜安日記』や『琉球渡海日日記』)。移動前の三つのムラについて見ていくことは古琉球のムラを知ろうとするものである。
今帰仁グスク周辺の集落跡地を踏査したのは、移動した三つのムラが何を遺して行ったのか。その痕跡をいくつか拾ってみたい。
【ウタキ】
・親泊ムラのウタキ→ソイツギのウタキ(下の御嶽)?
・志慶真ムラのウタキ→クボウヌウタキの一部
・今帰仁ムラのウタキ→テンチヂアマチヂ(上のウタキ)?
【旧家の火神】
・今帰仁ノロ火神(今帰仁村)→親泊村へ
・トモノハーニ火神(今帰仁村)→親泊村へ
・阿応理屋恵按司火神(今帰仁村)→親泊村へ(親泊から首里へ。再び戻ったのは今帰仁村)
・今帰仁里主所火神(今帰仁村)→今帰仁村へ(さらに首里へ、今帰仁に戻らず、そこはアオリヤエへ))
【神アシアゲ】(集落と共に移動する傾向にある)
・城内神アシアゲ(今帰仁村)→(城内にそのまま)
・安次嶺神アシアゲ→今帰仁?集落内へ
・親泊神アシアゲ→親泊集落内へ
・志慶真神アシアゲ→志慶真(諸志)集落内へ)
【故地に残っている祭祀場】
・フイドゥンチ火神
・デコーラウーニ
・ハタイバルウーニ
・シニグンニ
【カー・道・屋敷跡・井戸跡など】
【文書史料】
【伝 説】
(工事中)
2009年8月4日(火)
6年生は残り一グループかな。これからが本番です。いよいよ後半にはいていきます。この段階は、まだ聞いたことを正確に書く。そして声を出して発表する。自分の持ち分が報告できるようになると、他のグループのことを聞いて理解していくことに。あるいは他のメンバーに教えていく段階に。
6年生の歴史講座は、24名で700年の通史を描くことをねらいとしています。自分の分担の時代の説明ができるようになると、前の時代、後ろの時代との連続性を確認していきます。私がついていけません。難しい言葉がたくさん出てくるが、声をだして発表すると、自然と身についていきます。100の質問を投げかけると、誰かが答えてくれます。ボツボツ、質問が飛んでいきますよ。発表がしたくて、待ちきれません。いや、仲間への手助けですよ。
⑥「間切時代」(前期)(6年)
僕たちの時代か、今帰仁グスク内にある「山北今帰仁城監守来歴碑記」が建てられたのは。十世の宣謨だってよ。僕が十世宣謨今帰仁王子が、この碑を建てさせたってよ。と発表したらお父さん、びっくりするだろうね。前の時代まで、今帰仁間切というと、本部町までだったんだぞ。大きかったんだね。・・・・番所、今の役場は運天にあったんだ。急に大人になった気分。館長さんが研究者になれるってよ。がんばるぞ!と。みんなに教えてあげようっと。
⑦「間切時代」(後期)(6年)
私たちの時代は変だな。琉球国が琉球藩になって、それから明治12年に沖縄県になっている。自分達の時代に今帰仁間切に学校ができているんだ。兼次の学校は明治22年なんだ。今の場所ではなく、ゆめじんの工場(兼次)にあったんだ。今の住所は今泊なんだ。変だと思っていたのに。仮に最初から今の場所に学校ができたのなら親泊小学校、あるいは今泊小学校になっていたでしょう。いや、館長さん兼次小学校がいいですと。
今帰仁グスクはどうなっていたでしょうか? それと合併した村がありますが、どこどこでしょうか。
【今泊の豊年祭】(5年)
今泊の豊年祭、二年前に参加しているので、それを思い出しながら。しかし、豊年祭の見方ができていないので、どこを見たらいいのか。豊年祭の全体の流れを、他の仲間に現場で見ているように話せるか。今日出てきた場所を確認しておくように。ヌンドゥルチは? オーレーウドゥンは? そこで奉納演武をするのだから。みんなが知らないとね。道ジュネーをするコースや順序、舞台のある場所。豊年祭を今泊に伝えた人の名前をとって、神ハサギにつけてありました。誰でしょう。豊年祭に参加したことの感想も。次は松竹梅を踊るぞなど。
2009年8月3日(月)
③【第二監守時代(前期)】(1469~1609年)
・この時代を何故「第二監守時代」としてあるのでしょうか。
・監守あるいは一族はどこに住んでいたのでしょうか。
・この時代の監守はだれだれでしょうか。
・神行事をつかさどる神人「今帰仁アオリヤエ」がいます。
・アオリヤエが住んでいた跡地があります。どこに?(故地と集落内に)
・監守は一世~五世までいますが、名前は?
・どこに葬られているでしょうか(一世? 三世?)(この時代はウツリタマイ、後に運天の大北墓)
・この時代の「みやきせん まきり」(今帰仁間切)の範囲は?
・今帰仁間切の範囲を示す史料は?
・1609年の薩摩軍が今帰仁グスクを攻めたところまで。
2009年8月1日(土)
今帰仁グスクの後方にあった志慶真村。「絵図郷村帳」に「しけま村」とあるが「琉球国高究帳」には出てこない村である。それとは別の『具志川家家譜』で今帰仁村と志慶真村が移動したあり、17世紀初頭からあった村ということになる。『琉球国由来記』(1713年)でも「志慶真村」と登場し、今帰仁間切の夫地頭職の一人の志慶真大屋子の噯村である。祭祀の管轄は今帰仁ノロである。今帰仁グスクでの海神祭(折目)の時、志慶真乙樽の神人が参列する。
志慶真村は明治36年に諸喜田村と合併し諸志村となる。明治13年の志慶真村の世帯数は28、人口148人(男82、女66)の小規模な村であった。志慶真村が移動する前の故地は、今帰仁村今泊地にある。今泊も明治36年に合併。同39年に分離、昭和47年に統合して今に至る。志慶真村のあった故地は、字今泊の大首原・富原・マタッチャ原の一部にあたる。その場所は今帰仁村(ムラ)の小字であった。
明治34年の『土地等級申告書控』と同年の「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」から見ると、志慶真村の世帯数は37、諸喜田村は97である。志慶真村は37世帯で規模の小さい村である。
諸喜田村が志慶真村と合併する以前(明治36年以前)の「仕明地帳」(1863年)に諸喜田原が出てくる。同年の他の資料でも「諸喜田原」が出てくる。現在の諸志の小字に「諸喜田原」はない。村名と同様な原名なので村の中心となる原である。すると、今の諸喜田原は今の「村屋敷原」なのかもしれない。もう少し丁寧な調査が必要。
▲志慶真門跡(現在) ▲志慶真村の集落のあった場所から見たグスク
▲今でも拝みをする人のいるカー跡 ???
▲「今帰仁間切今泊村全図」(明治36年) ▲「今帰仁間切諸志村全図」(明治36年)
(志慶真村の故地は図の中央より下側) (志慶真村の集落は諸喜田村の集落の南側に)