25期 6回 ムラ・シマ講座
(平成30年10月13日開催)         もくじへ

 今回のムラ・シマ講座は本部町備瀬です。今月上旬に調査した備瀬のシニグコースを廻ります。先日、本部町備瀬のシニグのほぼ全過程(五日間)を通してみることができました。与論島のシニグの記録に目を通してみました。備瀬のシニグとの類似性を見るため、備瀬の五日間の祭祀の流れを頭に入れて、与論島のシニグの痕跡をたどってみました。その痕跡も紹介します。(北山文化圏・シニグ文化圏・神アサギ文化圏)

 
 ▲シニグ舞いの日、移動(児童の舞いあり) ▲アサギマー(流れ?)に御酒を置く小屋

  
▲ヌルヤーでの舞い           ▲拝殿・神殿でのノロでの祈り       ▲ニーセー達が直会
  


第25期 3回 ムラ・シマ講座(平成30年7月14日開催)   もくじへ


               今帰仁村歴史文化センター館長 石野 祐子(公印略)


ムラ・シマ講座参加者のみなさん

 古宇利島には旧正月、二月ウマチー、ムシバレー(旧4月)、プーチウガン(旧4月)、タキヌウガン(4月と9月)、五月ウマチー(旧5月)、カミサガイ(旧6月)、ユーニゲー、サーザウェー(旧6月25日26日)、ピローシ、ウンジャミグヮー、ウンジャミ、ミチュンウガン、プーチウガン(旧10月)、ムユウイミの祭祀があります。今回はタキヌウガンについて紹介します。

 ・平成30年7月14日(土)
  
 9:00  歴史文化センター集合(講堂)
          (レクチャー)
     9:40 ・宇利島へ(バスで移動)
         ・タキヌウガンの順路で回ります。
           (ウタキのイベまで入れない所もあります)
         ①1マーハグチヌ御嶽
         ②トゥンヮヌ御嶽
         ③ソウヌ御嶽 
         ④プトゥキヌメーヌ御嶽
         ⑤ハマンシヌ御嶽
         ⑥マチヂヌ御嶽
         ⑦ナカムイヌ御嶽
              


【今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ)】(2004年7月24日記メモ)

 古宇利島は今帰仁村村にある離島である。この島に七森七嶽(ナナムイナナタキがある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。

  ・中 嶽       神名:ナカモリノ御イベ    (現在のナカムイヌ御嶽)
  ・サウ嶽御イベ   (神名不伝)           (現在のソウヌ御嶽)
  ・カマニシ嶽御イベ (神名不伝)            (現在のハマンシヌ御嶽)

 『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に誤記があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がありそう。

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。

 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。

【古宇利島のタキヌウガン】 

御嶽(ウタキ)名と概要 現在の御嶽の様子
ナカムイヌ御嶽  古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる

マチヂヌ御嶽  古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供)

 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。



マ|ハグチヌ御嶽  最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。
トゥンガヌ御嶽  道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。

               
ソ|ヌ御嶽  古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。
プトゥキヌメ|ヌ御嶽  島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。
ハマンシヌ御嶽  一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。



第25期 2回 ムラ・シマ講座 (平成30年6月9日開催)  (もくじへ

                            
              
 今帰仁村歴史文化センター館長 石野 祐子(公印略)


ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第25期 第2回「ムラ・シマ講座」開催(お知らせ)
 
 今回の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村字玉城です。玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三ヶ村が合併した村(ムラ)です。明治36年に合併した村が今帰仁村に今帰仁村と親泊村(今泊)、諸喜田村と志慶真村(諸志)があります。二つの村から一字づつとって、新しい村名としていますが、玉城が村名となっています。それは何故でしょうか。

 今回は玉城の故地である古島原にあるウタキまで行きます。故地に何が遺っているのか確認します。1862年に首里王府は集落村移動を許可します。明治36年の土地整理期(明治36年)の「国頭郡今帰仁間切玉城村図」には散在した家々がみられます。その多くが寄留の方々です。

 旧4月15日にタキヌウガンがありました。その祭祀は玉城ノロ管轄の玉城・謝名・平敷・仲宗根の方々が参加します。岸本と寒水の人々は参加しません。両村は岸本ノロ管轄なので祭祀は別です。村が合併しても祭祀は一つにならない法則をみることができます(現玉城には、玉城村神アサギ、岸本村神アサギ、寒水神アサギが今でもあります。

 スムチナウ御嶽まで登りませんが、そこでのウガン(祈り)については講座で説明します。今帰仁グスクの近くにある「クボウの御嶽」と同様だとわかりました。

  謝名村に、アフリノハナト、云う所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立つ時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、
  又コボウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立と、申伝也。
 
  首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
   島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。


 故地(古島原)から移動した場所(外間原)まで行きます。途中に「たなはら御嶽」の碑があります。移動地には「移転記念碑が昭和11年に建立されています。故地にあった拝所は外間原に集められています。

  平成30年6月9日(土)
  
 9:00  歴史文化センター集合(講堂)
          (レクチャー)
     9:40 ・玉城村の故地へ(古島原)
         ・たなはら御嶽の碑 
         ・玉城村移転碑文
          7ヶ所の拝所
         ・神アサギ
         ・玉城ノロ殿内
         ・根神殿内
     玉城公民館
         (故地から公民舘まで徒歩です)


          
▲「なきじん研究―今帰仁の地名と小字 7号」より
  

▲古島より移転記念碑     ▲集められた拝所    ▲スムチナウタキでのウガンを済ませ玉城は神アサギで直会