昨日久高島(知念村)をゆく。久高島は2002年1月22日にも訪れている。その日のことは「歴史文化センターの動き」(『なきじん研究』12号に「久高島をゆく」「久高島の二つの村」として収録してある。目を通してみると、記憶から消えていることや、久しぶりに訪れて新鮮に見えた場面もある(詳細については別稿)。
今回、久高島の祭祀場を多く見たのであるが、久高島の祭祀を王府に関わる祭祀と、かつてあった島の二つの村(久高村と外間村)の祭祀が重なっているのではないか。それらを区別して見ていけるのではないか。二つの村の祭祀に王府の祭祀が重なっているために、複雑になっているのではないか。
今回の渡島は、山原船の航路と津堅島(現在はうるま市)がかつて西原間切の島であったことが気になっていた。『正保国絵図』に「西原間切之内 つけん嶋 人居有」とある。『琉球国高究帳』でも西原間切の内である。間切の領域の組み換えがあったようで、津堅島は勝連間切へ組み入れられている。いずれにしろ、津堅嶋が西原間切の内だったことは、海上交通による便利さからきたのではないか。もちろん久高島は知念間切の内であった。
知念村の安座間港から久高島に渡る船上、津堅島の位置を確認してみた。津堅・久高と併称される意味が船上から実感できる。沖縄本島の東海岸を往来する山原船は津堅島を通り過ぎると、久高島と本島との間を目標に南下していく風景が浮かぶ。
さらに久高島の土地が気になっての渡島でもであった。短冊型に区切られた土地は個人所有ではないとのこと。明治36年の土地整理で地割地(共有地)が個人有地になるが、久高島は個人有地にしなかった。それは近世の土地制度(地割配当地)を今に引きずっていることになる。土地を耕している年配の婦人と私の会話である。
「この土地耕している方のものですか? 所有権をお持ちでしょうか?」
「いや、この土地はマチ(知念村?)の、字(アザ)のだよ」
「もし、土地を耕している方が亡くなると誰にさせるのですか?」
「息子であったり、親戚だったりだよ。ダー年寄りだけだから草ボウボウさ。昔はよ、もっと細かったよ」
「土地狭いですが、男の人たちは何をしていたのですか?」
「昔はよ中国への船もっていたさ。それとよ海(漁業)ださ」
その会話は、ちょっとした立ち話であったが信じ難い場面に遭遇したのである。明治36年に廃止された地割が久高島にまだ生きている。細長く区画されて土地利用をみると、今では集落の近い場所は耕されているが、お年寄りが多いため放置されている土地が目立つ。個人有地であれば、それらの土地は地割の痕跡は消えていたのではないか。もう少し土地所有について確認する必要がある。土地制度(地割)で生活していた社会や人々の生活を踏まえたところで祭祀もみていく必要がありそうだ。
帰ってから久高島の土地について調べてみた。興味深いことばかり。地割の実態を膚で知る必要あり。『知念村史』第二巻資料編2知念の文献資料に久高島の土地に関する詳細な資料がある。)
久高島からの帰り際、(尚)思紹と(尚)巴志の生誕地?である佐敷町の佐敷グスクまで立ち寄ってみた。
▲船上からセーファーウタキ方面をみる ▲地平線上に津堅島が見える
▲木造のサバニが使われている ▲かつての徳仁港の舟揚場
▲集落は石積みが多く見られる ▲バイカンヤーと神アサギとシラタル宮
▲西威王の産まれ屋 ▲外間殿と外間根屋
▲ワク地の境界は小石で ▲以前はもっと狭い区画だったという
「山原船と航路」と「いろいろな舟」のコーナー。現物の展示は米軍機の燃料タンクでつくったボート。山原船が往来していた時代のものは今では見られない。そのため模型展示と写真に納められた山原船のパネルとなる。敗戦後、ほとんどの舟を失った。いろいろな知恵で舟を拵え漁や物資の運搬をした。
山原船の写真にあたっていると、サバニや渡し舟や木造船、それと米軍機の燃料タンクのボートなどが目についた。そのため「いろいろな舟」のコーナーを設けることにした。
▲「山原船と航路」のコーナー ▲「いろいろな舟」のコーナー
「山原の津(港)と山原船」の展示会を控え、村(ムラ)を山原船と津(港)を加えた村(ムラ)の成り立ちを恩納村安富祖で描いてみた。ムラの成り立ちに津(港)と山原船、さらに群倉(ブリグラ)を加えてみた。
津(港)と山原船を視野に入れてみると、国と間切、さらにムラとの関わりが鮮明に描き出すことができる。国が間切、さらに末端のムラを統治する手段や制度となっている。
山原の津(港)や山原船の世界を実態をもってイメージしていくためのムラの成り立ちを恩納村安富祖をモデルに展示することに。少なくとも16世紀あたりのムラやまぎり(間切)が国に統治される関係を見ていく前提となるムラの風景として。
(画像にはウタキや集落・津・群倉・山原船、かつての川筋や道筋なども描いて
あるが文字は略してある)
▲恩納村安富祖をモデルにムラを描く
展示作業を進める。「異国人が見た山原」のコーナー。異国船と関わる1644年に制度化されてた烽火のネットワーク。1816年に山原にきたバジル・ホールの記事や地図、1846年にきたフランス艦船と関わる記事や図やオランダ墓、1853年のペリー一行の図や記事など。それらの記事から異国人は山原をどう見たのか。その視点で展示できればと考えているのだが。
(工事中)
▲展示の導入部分の展示 ▲「異国人が見た山原」のコーナー
「山原の津(港)と山原船」の展示作業にはいている。明治14年二代目の上杉県令が沖縄本島の各間切を巡回している。『巡回日誌』をたどってみると、当時の陸路、さらには海上交通の様子がみえてきそうである。
今回展示のテーマとしている「山原の津(港)と山原船」は、海上交通を扱うだけでは不十分である。陸路の不便さ、それが海上運送の主流を占めていたことがよくわかる。『巡回日誌』から道筋を辿りながら具体的に当時の陸路と海路の様子をみていくことにする。
「異国人が見た山原」の展示コーナーを設ける。そのベースとなる記事を整理してみる。
【バジル・ホールがみた運天村と港】
1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールは『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)に運天港(村)のことを記している。約200年前の運天付近の様子をどう描いているのか興味深い。
【朝鮮・琉球航海記】(1816年)
この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。
この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。
村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。・・・全長約4分の1マイル(約400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。
地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうたって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。
ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。
この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。・・・だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。この村は運天Oontingという名前である。・・・われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
【フランス艦船が見た運天港】(1846年)
30年後の1846年に運天港に三隻のフランス艦船がやってくる。その時の運天港や付近の様子を描いた絵が残されている。それから運天の集落、海上に山原船、さらに木を刳り貫いた舟を三隻平行に連結したテーサン舟?に琉球国側の役人が乗った様子が描かれている。よく見るとコバテイシの大木や番所、茅葺きの家、抜け出る道なども描かれ、当時の運天津(港)の様子がわかる。山原船が往来していた長閑な風景である。フランス艦船の三ヶ月の碇泊で首里王府は右往左往したのであろうが。その間、二人のフランス人船員が亡くなっている。二人を葬った墓がある。フランス人墓ではなくオランダ墓と呼ばれる。
▲1846年の運天港の様子 ▲テーサン舟?に乗った役人と後方に山原船が碇泊中
▲運天の対岸にあるオランダ墓
近世の烽火制度(遠見台)
宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書Ⅴ)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。
『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。
北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄のようだ。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員であろう。
宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。
『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。
▲古宇利島の「遠見番所」跡 ▲「遠見番所」跡の遠景
▲島から北大嶺原の遠見番所跡をみる
▲米軍が設置した指標の一部か?
▲現うるま市(与那城上原)の遠見番所の碑?
山原の三津口
(運天・勘手納・湖辺底)
琉球国に仕上世(シノボセ)米を積み出す四つの津口(那覇・運天・湖辺底・勘手納)があった。その三津が山原にあり、湖辺底・勘手納・運天と足を運んでみた。台風の余波で海上は荒れ模様。土砂降りの雨が降ったり止んだり。雨の日もあれば、嵐の日もある。天気がよく青い海と空の日だけが歴史を刻んでいるわけではない。
【湖辺底港】
湖辺底(コヘンゾコ)港は山原の三津口の一つである。周辺山に囲まれ、港内は深く荒れても波が静かなので非難港として利用された。湖辺底は「瓶の底」のようになっていたことに由来するという。
一帯は泥砂土で障害物がないので、馬艦船(山原船)は接岸して荷物の積み降ろしができた。美里・名護・金武・恩納・久志の五間切の薩摩への仕上世米は、湖辺底港へ集積され運ばれた。
1742年の大島の漂着した唐人を運天港に引き連れてきたとき、運天港に向ったが、風向きがよくなく大和船は名護間切湖辺底港に到着した。そこから、さらに運天港へ向けて船を出した。
▲名護をはじめ周辺の間切の仕上世米を集積した湖辺底港
【勘手納港】
勘手納(カンテナ)港は羽地間切の仲尾村から仲尾次村にかけての海岸のこと。勘手納港は、北山が中山の尚巴志の連合軍に攻められたとき、連合軍が集まった港だという。近くに羽地地域を統治した羽地(親川)グスクがある。
近世になると、羽地ターブックヮー(田圃)の米を積み出す港として機能した。勘手納の名称は勘定(納)からきた名称ではないかという。仲尾村に定物蔵があった。
桟橋もなければ、港の目印となるのは何一つ見つけることができない。というより、勘手納の様子がかつての津(港)だったのである。海岸近くに船を碇泊させ、そこから小舟で陸揚げする。それが一般的な津(港)である。船が接岸できるのが港であるとの常識を覆させられたのは。
▲1416年尚巴志の連合軍が集まったという勘手納港
【運天港】
山原(北山)の歴史の柱の一つは今帰仁グスク、その次に上げるとすると運天(ウンテン)港である。12世紀初頭、源為朝公が「運は天にあり」と漂着したのが「運天」だという。オモロに「うむてん つけて こみなと つけて」と謡われ、十五世紀(1472年)の『海東諸国紀』に「要津 運見」と登場する。
1609年薩摩の琉球侵攻の時、沖縄本島上陸の足がかりとなった津(港)である。1609年今帰仁間切が今帰仁と伊野波(本部)の二つの間切に分割されると、今帰仁間切の番所は運天港に、本部間切は伊野波(後に渡久地)置かれた。近世末になると、バジル・ホールの来航(1816年)、フランス艦船(1846年)、ペリーの一行が運天を訪れ(1853年)運天港や付近の村の様子を文章や地図に残してくれた。
1742年に唐船が大島に漂着したとき、翌年1月運天港に引き入れ収容した。首里王府から様々な達しが出され、薩摩支配を悟られないようカムフラージュした港である。それと、薩摩への仕上世米を積み出す琉球国の四津口の一つでもある。
明治になると上杉県令や尾崎三良が訪れ、また笹森儀助、加藤三吾、菊池幽芳などが訪れ、運天の史料を残してくれた。大正になると運天にあった今帰仁間切(村)番所(役場)は、仲宗根に移され、山原船が主役を担った海上輸送の時代は終わりを告げた・・・。
▲「沖縄の歴史」に登場する運天港