沖縄の地域研究(もくじへ)
2013年12月6日(金)(於:沖縄国際大学)講演 レジマ
やんばるの戦後を考える視点
生業と祭祀から見る戦後の生活変容
仲原 弘哲(南島文化研究所特別研究員
今帰仁村歴史文化センター館長)
はじめに
Ⅰ 生業の変容
1. 山原(やんばる)の歴史的背景
2. 風景や生業の変貌
3.戦後の公民館資料(一事例)
Ⅱ 祭祀の変容
祭祀の位置づけ
1.祭祀は休息日(遊び)である
2.祭祀を執り行う神人は公務員である
3.神人の消滅はあるが、祭祀は行われている
4.祭祀の廃止
Ⅲ 戦後の公民館資料
結 び
はじめに
沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は北山(山北)や国頭方と記される。山北(北山)は、北山・中山・南山が鼎立していた時代の名残りである。その北山の領域が山原である。近世になって領域(間切)の線引きの変更や町村の合併がなされ現在に至る。
その山原の領域は明治29年に国頭郡になるが、伊平屋島と伊是名島は島尻郡に入る。国頭郡には名護市・東村・恩納村・金武町・宜野座村・本部町・今帰仁村・大宜味村・国頭村・伊江村がある。山原には1市、2町、7村がある。近世から現在に至る変遷を記すと以下のようになる。
山原の市町村に字(アザ)や区と呼ばれる行政字(区)が170ある。字のことをムラやシマと呼ぶが、明治41年に間切は村に、これまでの「...村(ムラ)」は字(アザ)と改称された。そのこともあって現在の沖縄の「...村」は「...ソン」と呼んでいる。以前の村(ムラ)と混同を起こさないためでもある。村(ムラ)と呼ばれてきた行政区が近世初期から明治41年まで長年にわたって使われてきた。そのムラに住む人たちのほとんどが、そのムラで生まれ育ち結婚し、そして人生を閉じていったのが多かった。土地制度(地割)との関わりである。
その環境で培われた習慣や伝統が、明治以降の県政やムラ・シマにおける生活改善などで、その多くが失ってしまった。それでも山原に、まだ生活の一部として息づいている。特に祭祀や神アサギや言葉や生業など。廃藩置県後、130年という歳月が経ている。それでも、山原の人々がムラの歴史や伝統や祭祀、言葉(方言)、あるいは生業、自然などのことを消えることなく今に伝えているのは、伝統や文化と捉えてもいい。集落の発生と切り離せないウタキや神アサギやカー(湧泉)、それだけでなく山原に残る自然(ヤンバルのつく動植物)なども、山原のムラ・シマを見ていくキーワードである。
そこでは、「山原とはなにか?」との答えを出そうとする姿勢ではなく、山原には170のムラ・シマがあり、それぞれの歴史を刻んできたし、170のムラ・シマのもつ多様性を個性として引き出していく作業(記録)が必要である。一言でくくる、あるいは一つの答えを出すことも大事であるが、170のムラ・シマのそれぞれの個性を描き出し、記録していくことが重要である。
ここでの学問は、「山原とは何か」を問う手段であって目的ではない。山原を、そしてムラ・シマが何かをいろんな学問を通して究めていく。また、一つに結論を見つけようではなく、ムラを構成する要素を数多く拾って記録していく作業が大事である。各地で発刊される「字誌」の世界はその例である。
ムラ・シマに生きる70歳以上の方々は、戦前・戦争・戦後の物のない時代、そして昭和30年代かたっていた時代を体験した方々は、過去にいくつか黄金時代があったが、裸足の時代から裸足の時代であった。今の70歳以上の方々は、裸足の時代から宇宙の時代の体験してきた方々であり、そのような三つの時代を経験した方々は過去になかった。
1.山原(やんばる)の歴史的背景
北山の時代/第一、第二監守、今帰仁アオリヤエの時代/その後/伊平屋島との対比
(図入る)
2.風景や生業の変貌
(写真画像で説明)
3.戦後の公民館資料(二事例)
【今帰仁村諸志】
・【備品箱】(1947年年度之作)字諸志青年団
・今帰仁村諸志区青年団名簿
・沖縄島田井等地区今帰仁村(領収書・歌詞など)
・議事録(1947年度)諸志分団
・作業出欠簿(1947度)諸志分団
・会計簿(1947度)諸志青年団
・日誌(1947年度)諸志分団
・諸志青年文庫帳(1949年)諸志青年団
・会計簿(1949度)諸志青年団
・諸志青年団夜警巡回名簿(1950年4月以降)
・諸志青年団作業出席簿(1950年4月以降)
・会計簿(1950年度及1951年度)諸志青年団
・会計簿(1952度)(字諸志・・・)
・会計簿(1952年度)諸志青年団
・借用証書綴(1952年度)諸志青年会
・会計簿(1953年度)諸志青年団
・備品帳(1954年度)諸志青年団
・常会出欠簿(1954度)諸志青年団
・議事録(1954度)諸志青年団(中身は1956年度)
・作業出席簿(1954度)
・作業出欠簿(1954年度)諸志青年団
・会計簿(1954年度以降)諸志青年団
・作業係台帳(1955年度)諸志青年団
・出席簿(1956年度)諸志青年団
・出席簿(1956年度)
・常会出席簿(1956度)諸志青年会
・図書貸出簿(1961 年9月以降)諸志公民館
・珠算帳(ノート)
・出納簿(表紙なし)
公民館建設助成金要請書(控)
要請書
新春の候、村ご当局には益々御壮健の事と慶び申し上げます。
さて、吾々区民の現公民館を建設致しましてから、すでに三〇余年其の間吾々区民の集会或い
は社会教育の場として広く利用し親しまれて参りました。此の公民館もすでに老朽化致し又時
代の進展に伴い多分に到来諸行事を挙行するにあたり大変不自由を感ずるうえ能率の底下を強
られている現状でご座います。
つきましては、此の窮状を打開する為左記の計画案のとおり新しい公民館建設計画がなされ
建設期成会を設置し区民の願望であります公民館兼ホールの完成を目標に目下建設期成会が積
極的に取組んでいる次第でご座います。
何分にも建設其の他諸施設の近代的内部整備を充実致したいので多額の資金を要す事業で施行す
するにあたり、吾々区民の力だけではなかなかむづかしい事業でご座いますので、村当局におかれ
まししても目下経済情勢の厳しい昨今諸施策を進める上には、其の財政措置等で色々と大変ご苦労
なされて居られる事と思い誠に恐縮に存じますが吾々区の公民館建設に補助金を交付して下さいますようお願い申し挙げます。
尚、新公民館建設完成の暁は従来より以上に此れの公民館を活用し、区発展の為万進致す可く所
存でご座いますれば村ご当局の一層の御指導と御援助を重ねてお願い申しあげます。
昭和五四年一月十九日
諸志公民館建設期成会会長 上間 仙信 印
諸志区長 島袋 幸雄 印
今帰仁村長 松田 幸福殿
計画案
一、場 所 現公民館敷地 一二〇坪
一、総面積 九九坪
一、本建面積 七〇坪
ホール 四七、五坪(収容人員二四〇名)
ステージ 一二、五坪
事務室及び炊事場 一〇坪
一、総工費 二千万円
一、竣工予定 昭和五四年九月
現青年会幹部の同意書(昭和五十四年四月)
同意書
今回公民館建設に伴い今日まで使用して参りました青年倶楽部(事務所)の撤去
しなければならない時点に到来したことを認めております。
公民館建設は諸志住民老若男女の自主的社会的中軸をなす目的を有する公民館に
する由、その目的達成のために青年会員として賛同するものであります。
公民館の完成で公民館を中心にして青年会活動も活発に展開出来ることを期待する
ものであります。仍而青年倶楽部撤去の同意をするとともにその確証としたいと署名
捺印する。
昭和五十四年三月丗一日
内間 利三
内間 繁樹
上間 克□
諸志公民館建設期成会
会長 上間 仙信殿
確認書
現在の青年倶楽部(事務所)は昭和二十二年字諸志事務所(現公民館)建設の時点で建設費は
字諸志住民の負担で建築し青年会活動を活発にさせるため現公民館北側の一室を青年倶楽部とし
て使用させたのである。その管理は青年会に一任し中戸の工作、図書棚、押入等青年会活動の一
環として青年会の自力で整備して今日まで使用させたのであることを確認し、左に署名捺印する
昭和五十四年三月三十日
島 袋 輝志雄
与那嶺 甚吉
高 良 和篤
諸志公民館建設期成會(昭和五十四年六月二十二日)
会長 上間仙信
今帰仁村長 松田幸福殿
公民館建設補助金交付申請書
当諸志公民館建築工事は左の通り施工中でありますので村公民館建設補助規程による補助金を御交付下さるよう
申請致します
一、建築場所 字諸志一三〇番地
一、建築構造 鉄筋コンクリート造り一階建
一、建築面積 七三、七七坪(ホール・ステージ・事務室・炊事場・トイレの設備)
一、着工年月日 昭和五十四年五月一日
一、施工状況 六月二十一日 スラブコンクリート工事完了
一、竣工予定 昭和五十四年七月三〇日
一、収支予算 左の通り(予算書は略)
【今帰仁村与那嶺】
この「與那嶺区文書綴」は1949年6~7月(昭和24年)に與那嶺公民館で収受した文書を綴ったもので、歴史文化センター所蔵の戦後の公民館文書としては年代が古い方に属している。綴られている文書は6点と少ないが、表題を追ってみると戦後4年たった当時の状況を垣間見ることができる。収受された文書のタイトルを挙げてみると、
1.掃除実施要綱について(発信者:今帰仁村長)
2.区長会招集の件(発信者:今帰仁村長)
3.職業調査依頼について(発信者:琉球用度補給庁長)
4.家屋台帳調整方依頼について(発信者:今帰仁村長)
5.掛売金請求の件(発信者:今帰仁村農業組合)
6.北部農林高校移転記念式列席について(発信者:今帰仁村長)
7.評議員開催について(発信者:兼次校後援会長)
8.今帰仁村與那嶺区部落役員及び有志常会決議録
9.復旧資金借入申込書
10.水稲第一期作面積並びに作柄調査について(発信者:今帰仁村長)
11.アルゼンチンへの帰還の件(発信者:今帰仁村長)等の文書が綴られている。
1.の「大掃除実施要綱について」は、米軍の駐在衛生検査官が今帰仁村を巡視した際、家畜の
飼育方や便所の衛生について改善するよう注意があったことを受け、今帰仁村長が区長、学
校長、理髪組合長、農業組合長にあてて、毎週日曜日に区内の大掃除をするよう通達したも
の。軍検査官が地域の衛生について指導検査していたことや、大掃除の実施について区長だ
けでなく、校長先生や理髪店、農業組合にも呼びかけがなされているのが、興味深い。
当時の村長は松本吉英氏で、任期は1945~1950年、任期中の出来事として、各学校開設、農業組合設立、役所の新築、伊江村民一万人余受入、北山高校誘致、通過切換、電話開通などがある。
2.の「区長会招集の件」は区長のみならず、各売店(共同売店)の主任にも宛てられた文書で、
内容は「職業調査依頼の件」である。「職業調査」についての文書は次の3の文書に当たる。
3.の「職業調査依頼について」が上記の区長会で通達された文書で、琉球用度補給庁からの調
査依頼である。戦後の配給の基準となる収入の申告が、〇パーセントまたは低い収入でもっ
て申告されるようになり、配給割当のバランスが崩れてきたのであろう。正確な職業調査をする
ことで、配給の割当の改善を図ろうという調査である。
文書の発信者は琉球用度補給庁である。戦後の沖縄の自治機構は1945年8月に沖縄諮詢会、1946年4月に沖縄中央政府、同年12月に沖縄民政府、1950年8月群島政府、そして1952年4月に琉球政府という変遷をたどった。與那嶺区に収受されている琉球用度補給庁の文書日付が1949年であることから、この庁が沖縄民政府時代の一部局であることが分かる。
文書中「救済者」「俸給者」「カムパン住込者(カンパン:コンセットなどの基地従業員宿舎)」などの言葉や、調査の立会人に警察官が参加していること、年令はアメリカ式に満で数えるなどの注意事項や、附表に記載されている「露天商、錻刀工、下駄業、女中給仕、樽桶業、荷馬車引・・・・・」などの職業名に時代が見て取れる。
4.は「家屋台帳調整方依頼について」。次年度(1950年度)の工務部(現建設課)の一般住宅工
事に掛かる予算を計上に必要な基礎資料を作成するため、村の家屋台帳と各字の台帳とを付
き合わせます、という通達。
5.の「掛売金請求の件」は、與那嶺区が農業組合から掛けで購入した農業資材等の請求書。
恐らく各字に請求書が送られたものと思われる。
6.の「北部農林高校移転記念式列席について」は1949年6月28日に、今の名護農業試験場
から現在地に移転した北濃の移転式典参加についての文書である。
当日、村当局から迎えの車を出すが、午前5時半までに最寄りのバス停で待っておくように、という指示である。式典は何時から開催されたのであろうか。かなりの時間的な余裕をもっての参加であろうか。
7.の「評議員開催について」は、兼次校後援会から発信されたもので、校舎建築及び復旧につ
いての予算打ち合わせと、後援会の正副会長の改選を行う旨が記された文書である。この頃
兼次校(初等学校、中等学校)の校舎は茅葺校舎であった。昭和26(1951)年に石造校舎が完
成するが、校舎建築には生徒地域一丸となって、川原の石や海岸の砂をオーダー(モッコ)や
カゴに入れて運んだという。この年学校林が教師の指導の元、生徒たちによって開拓され、稲
作、パイン、果樹が作付けされた。
8.の「今帰仁村與那嶺区部落役員及び有志常会決議録」は、明記されていないが、字のどの地
域かの復旧工事に掛かる資金を今帰仁農協組合から借り入れるための、部落常会決議である。
出席者は29名。当時の区長は與那嶺蒲吉氏。借入金は二万円である。
9.の文書は上の決議を受けての借入申込書。当時の農業組合長は幸地新蔵氏(戦前の名護
国民学校長、戦後は沖縄諮詢会委員、沖縄議会議員、名護高校今帰仁分校校長を経て、初
代今帰仁農業組合長に就任、その後琉球政府立法院議員)である。
10.は「水稲第一期作面積並びに作柄調査について」。今帰仁村にまだ水田があった頃の調査
文書である。二期作のうちの一期作目の刈取りの際の調査で、文書の末尾に「原名・作付面
積・作柄(上中下)・氏名・備考」を記入する欄が設けられている。今帰仁にかつて水田があっ
たこと、6月が一期作の収穫時期であることを確認させてくれる文書である。
11.の「アルゼンチンへの帰還の件」は、恐らく戦前にアルゼンチンからいったん沖縄に引き揚
げ、戦後再渡航を希望した方々に宛てた文書と思われる。『與那嶺誌』(平成7年)によると、
アルゼンチンには与那嶺出身者が平成7年現在34戸、126名がご活躍という。昭和24年のこ
の文書に記された方々は、1930年代(昭和10年代)にアルゼンチンに移民された家族と思わ
れ、4名がアルゼンチン帰還を希望している。帰還のための予防接種として「コレラ2回、腸チ
ブス3回、発疹チブス2回、種痘2回」という数の多さに驚かされる。
以上1949年の6月~7月の文書綴りを見てきたが、わずか11の文書を見るだけで、当時の「衛生」「農業」「学校」「字の動き」「生業」「移民」などについての情報を得ることができる。
またここに綴られている公文書の半分はガリ版印刷で、あとの半分は直接手書きされたものだが、文体やカタカナの使用、書体などから、文書を作成した職員の年令や人となりが感じられ、パソコン作成の文書にはない味わいがあり、興味を誘う。
(画像入る)
Ⅱ 祭祀の変容(祭祀の位置づけ)
1.祭祀は休息日(遊び)である
祭祀を行う日、名称、祭祀の内容など、村内(ソンナイ)のムラ(字)まちまちである。そのことを認識してかかる必要がある。一言で祭祀の本質を言い当てようとする心理が強く働いている。ひとつにまとめるのであるが、数多くの事例を調査していく。その視点が必要である。
祭祀(神行事)は「神遊」や「海神祭」といい、今の土、日や公休日に相当するものと考えている。村が移動したり、あるいは新設したとき、ウタキを置き祭祀を行うのは祭祀を行わないと休息日はなくなることを意味する。『琉球国由来記』(1713年)の編さんは、余りにも祭祀を首里王府は整理したものであろう。
祭祀の中に「遊び」一日、二日などとあり、「遊び」の日は首里王府が認めた公休日であり、それは間切、村の末端まで統治する手段としたものとみていい。そのことは「旧慣ニ付間切吏員と問答書」(明治17年)によく表れている。大宜味間切の「遊戯」(遊び)の事例を紹介する。
大宜味間切の「麦の穂祭」は2月中に行い日の規定はない。当日より翌日まで百姓は家業を休む。休む。4月はアブシ払い、5月稲、6月稲の大祭も当日から翌日まで休む。2月は「麦の穂祭」といい、そのときは日を撰んでノロクモイは祭りをし、人民は2日間業をやめて各家庭にて遊ぶ。
3月のウマチーのとき遊びはない。4月は虫払いといい、日を選んで人民は耕作をやめ、牛馬を引いて浜辺に出る。そのとき、ノロクモイはウガンの勤めがあり、それが済む間、人民より牛馬まで職をしない。その勤めを済ませた後、各家に帰る。
5月は大御願といって、ノロクモイならびに人民連れて火の神所に参詣する。「稲の穂祭」があり、そのとき、日を選んで2日間遊ぶ(休む)。6月は3月同様休みなし。
7月16日、7月念仏という遊びがある。そのとき子供達が三味線を引いて人民の家々を回って遊ぶ。大折目というのもあり、その日は18、19日頃より24、25日に限る。そのとき、人民は仕事を休む村もある。ノロクモイは火神は参詣して祭祀を行う。
8月15日はヨウカビという遊びがある。そのとき童子達は、巷または毛へ集まって遊ぶ。
(画像入る)
【伊平屋島の事例】(計31日あり)
・麦穂祭(二月)(遊び二日) ・田植ヲリメ(二月中)(遊び一日) ・麦大祭(三月)(遊び二日) ・山留(四月一日から五月中)(遊びなし) ・アブシバライ(四月)(遊び二日) ・稲穂祭(五月)(遊び三日) ・稲穂祭(五月)(遊び三日) ・稲大祭(六月)(遊び三日) ・年浴(六月)
(遊び二日) ・ミヤ口折目(六月)(遊び一日) ・屋那覇折目(七月)(遊び二日) ・シノゴオリメの事(七月)(遊び一日) ・柴差(八月)(遊び二日) ・麦初種子・ミヤ種子(九月)(一日遊び) ・粟豆初種子(11月)(遊びなし) ・アラゾウリ(11月)(遊び一日) ・具志川折目(11月)(遊び一日) ・海神祭(11月)(遊び一日) ・タケナイの折目(12月)(遊び一日) ・向ザウリ(12月)(遊び一日) ・鬼餅(12月)(遊び一日)
【伊江島】(明記された遊び日 17日)
・正月芋折目(一日遊び) ・二月麦穂祭(二日遊び) ・三月麦大祭(遊び?) ・四月日撰以粟黍豆正実付申願い(遊び?) ・五月はじめ唐船祭(遊び?) ・五月麦穂祭(遊び日?) ・五月粟穂祭(二日遊び) ・五月いんない折目(遊び?) ・六月粟大祭(遊び?) ・六月年浴(二日遊び) ・五月いんない折目(遊び日?) ・六月粟大祭(遊び日?) ・六月年浴(二日遊び) ・七月大折目(遊び計三日) ・七月神遊(シニグ)(一日遊び) ・七月施餓鬼(シガキ)(遊び日?) ・七月豆俵折目(遊び日?) ・八月柴差(二日遊) ・九月麦初種子(一日遊) ・十月粟初種子(二日遊) ・十二月作物、麦の立願、粟黍の結願(遊び日?) ・十二月鬼餅(遊び日?)
【久米島仲里間切】
・麦穂祭(当島は遊びなし) ・アブシ払いの事(二日遊び) ・稲穂祭の事(三日遊び)・稲大祭(三日遊) ・柴指の事(遊二日) ・麦初種子ミヤ種子の事(遊び二日) ・粟豆初種子事(二日遊び)
・アラザウリノ事(二日遊び) ・向ザウリノ事(一日遊び)
2.祭祀を執り行う神人は公務員である
ノロをはじめ神人は公務員と位置付ける必要ある。
(画像入る)
中城ノロの御願】(城間系統日記:中城ノロ家)
一、御正月には崎山殿内に於いて新年の御飾をなし、年中の首尾御願を立てて、西南下のギギチ御河まで。
「供物は瓶酒御花米、肉(ウヮジシ)、昔は素麺の吸物もありましたが、現在(昭和二五年)は廃止。
一、五月定期御願として廿九日に定日、御願所は、仲尾次御嶽(スガーウタキ・ナカグスク)・南下の御河・スクジャ御河・ギギチ
御河・崎山御嶽、それから南七、八町東に下りてグミ御河まで。(元諸喜田御殿より御米は出せり)
一、九月定期御願廿九日定日、ノロ殿内庭前だけ(元志慶真、津波屋より御米)
一、崎山ノロ殿内の新築、建築は兼次より崎山まで部落割当のことを付記して置く。
一、十二月二十四日は御解御願とて子孫揃ってノロ殿内に集まり一年中の立ち御願の首尾を神前に述べること。
一、八月十五日は毎年望月祭(御重並びに弁当を持参して望みをなせり。
一、七月陰暦、後ろ亥の日は大弓の祭。ノロクモイ勤務一、八月十日は怪火の祭。ノロクモイ勤務右七、八月の其の日はノロク
モイ年中行事の最大なる勤めなれば、正装して馬に乗り、下司は馬の手縄を引張って五ケ部落、神アシアゲを廻ります。
御供の神人も氏神以下崎守も同道します。昔は壮観でしたが、現在は略式で馬上に乗りません(馬の鞍は現存している)。
一、 その他三月内祭(ウチマチ)、六月内祭(ウチマチ)、六月廿五日稲束の御祭(稲穂祭。麦の穂祭、五月御祭、二月御祭)
大弓八月尾十日を合わせて七々折目と云う。
今では五つの神ハサギは廻らないが、かつては各神ハサギを廻っている。諸喜田ウタキのイベまでいく。イベが川の中にあるのでハーウガンの声が聞かれる。ハーウガンは旧五月四日で門中の行事である。
(画像入いる)
3.神人の消滅はあるが祭祀は行われる
(図入る)
(流れでとらえる。『琉球国由来記』での祭祀は集落(ムラ)移動前の流れである)
(画像入る)
4.祭祀の廃止(我部祖河文書)(祭祀廃止事例)
(画像入る)
結 び
※参考文献
・「なきじん研究」(1~18巻)
・『古宇利誌』
・『今泊誌』
・『じゃな誌』
・『仲尾次誌』
・「古里風俗絵図」神山清政画
・仲宗根政善資料
・今帰仁村公民館資料(歴史文化センター所蔵)
・当HP
・その他多数