2005年次研究フォーラム
「日本の中の異文化―琉球孤の文化研究をめぐって―」

2005.7.24 於:沖縄大学

                                            沖縄の地域研究(もくじへ

琉球国の統治と祭祀
山原の祭祀から
           仲 原 弘 哲(今帰仁村歴史文化センター)

     はじめに
1.国の統治と祭祀
2.祭祀と関わる役人
3.休息日としての祭祀の位置づけ
4.神人の祈りと年中祭祀
5.山原のウタキ(御嶽)と集落と村(ムラ)
6.山原のウタキ(御嶽)の様相と呼称

7.山原のウタキ(御嶽)の分類
8.複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)と神人
  
むすびかえて―村移動とノロ管轄―


はじめに


 れまで山原の祭祀の調査をしてきました。ムラ・シマで行なわれている祭祀は、国の統治との関わりで見ていく必要がありはしないか。そのようなことを考えるようになりました。特にノロをはじめとした神人たちの年中祭祀は、国を統治する制度としてとらえていく視点での研究が必要ではないか。祭祀は国に税を納める、納めさせる関係、つまり国の統治の手段として祭祀をとらえると興味深い姿が見えてきそうです。今日は、そのようなことを報告したいと思います。

1.国の統治と祭祀

祭祀を国の統治とみる視点に至ったのは、山原で行なわれている海神祭(ウンジャミやウンガミ)の調査からでした。海神祭と書かれるので海と関わる祭祀だと思っていいました。どこが海の行事なのか、あるとしても一部ではないか。そんな疑問がずっとあったわけです。ほぼ同じ頃に行なわれる山原各地の祭祀をみると、古宇利島(今帰仁村)や根謝銘グスク(大宜味村)や比地や安田(国頭村)などでは海神祭(ウンジャミやウンガミ)の名称ですが、今帰仁村の中部地域ではウプユミ、隣の本部町具志堅ではシニーグと呼んでいます。そして今帰仁グスクでは一日目がウーニフジ、二日目がウプユミ(大折目)、三日目がシマウイミと呼んでいます。それらをまとめて今帰仁グスクではウンジャミという呼び方もします。

旧盆明けの亥の日を中心とした祭祀は、どうも三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか。そんな疑問を持つようになりました。国頭村の安田の祭祀を調査する機会がありました。そこでは今年はシニグ、来年はウンジャミ(グヮー)を交互に隔年行なっています。そのことは『琉球国由来記』(1713年)でも記されています。すでに、その当時から隔年で行なっていたことがわかります。

山・農耕・海の三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか。シニグや海神祭は、本来山と農耕、そして海の三つが祭祀は別々に行なわれていたのを、一つにまとめられた痕跡として海神祭でありながら内容は海・山・農耕の場面が扱われています。一つにまとめたのであるが、他の二つの祭祀を捨てるわけにいかず、祭祀の内部で三つ部分が祭祀に色濃く痕跡として残っているのであろう。一つにまとめられた海神祭ではあるが、ヌミ(弓)に象徴されるように獣を射る弓であり、そして穀物を計る物差し、さらに舟を漕ぐ櫂、唐船旗(トーシンケージ)の旗を掲げ航海安全や豊漁を祈願し海など三つの関わりが見えます。

 今帰仁村の古宇利島の海神祭の例で説明しますと、まず神人がウンジャミのとき手にする棒があります。その棒のことヌミ(弓)、そのヌミで舟を漕ぐ所作をします。そしてヌミは穀物を計るものさしでもあります。ヌミ(弓)ではあるが、山・農耕・海の祭祀を象徴するものです。ウンジャミと呼ぶから、海の祭祀だけだとすると祭祀の姿を見誤ってしまいます。特に海神祭と記すからと言って、語義に執着しすぎると、山と農耕の祭祀の場面を見落としてしまうことになります。祭祀の名称が本質を突いて名付けられたのもありますが、海神祭のように一部でしかないこともあります。

 祭祀が「神遊び」と言われるように税金を取る方(国)からすると、祭祀が多すぎるので少なくしたい。祭祀が多いということは休息日(神遊び)が多すぎるということになります。上納を取る立場からすれば、祭祀は多すぎるので減らす政策をとったと考えられます。別々に三つあったのを二つは捨て一つにしたかったのであろうが、そうはできなかった。それがウンジャミやシニグなどに海・山・農耕の場面が含まれているのでしょう。合作だと言っていいのではないか。三つを一つにまとめた時の名称が、場所によってウンジャミ、シニグ、あるいはウプユミやウイミなどで呼ばれていると考えています。

 税をとられている立場からすれば、神に名付けて休息日をたくさん欲しい、ところが首里王府からすれば神行事を減らし税金を取り立てたい、祭祀を縮小した痕跡としてウンジャミやシニグなどに名称とは合致しない祭祀が含まれているのは、その痕跡なのかもしれない。

2.祭祀と関わる役人

『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」に出てくる按司や総地頭、そして脇地頭と間切役人について触れたいと思います。首里に住む按司や総地頭などが、領地の祭祀に参加する理由をどう見るかです。毎回参加したかどうかはっきりしないが、参加できない場合は代理で人を参加させたのであろう。両者の関係は貢租を納める、貢租を受ける関係にあります。総地頭や按司クラスが参加するのは今帰仁グスクや名護グスクなどです。 

間切役人の中に首里大屋子がいます。番所で業務を行います。首里大屋子の職務を見ると、蔵当方で、

「仕上米(運天又は鏡地)付届之事、貢租米・首里御殿入れ之事、諸知行・作得米付届之事、諸地頭・遺分銭付届之事。

 

大掟 雑物当方

   諸雑物付届之事、同代銭付届之事、御殿・殿内御用之品付届之事、建築用材・唐船用材届之事

 

  大宜味間切の例でみると、間切を所領する按司地頭と総地頭(親方地頭)がいます。両者をまとめて両総地頭といいます。村を領するのが脇地頭です。按司地頭家が大宜味御殿、親方地頭家を大宜見殿内、脇地頭家は所領する村名をかぶせて・・・殿内といいます。

 これらの地頭は王府から与えられた家禄高を知行米として間切から収得し、同時に地頭地からあがる作得米を取得します。地頭の中には王府から開墾状をもらい、知行仕明請地として農民に強制的に耕作させ小作料として一定の米を取得するのもいます。

  地頭は御殿、殿内の入用な物資を間切から徴収、盆・正月・祝いなどの度に魚・肉・野菜・猪・薪炭などを調達します。

  地頭家の大きな特権は領地の間切からの奉公人を徴用したこと。間切役人層の子弟(15歳以上)が地頭代の推薦で採用されます。奉公が終わると間切役人への登用が保障されます。そのため、間切役人層は子弟を首里奉公にするため種々の手段で地頭家に取り入れられるようにしたわけです。

  そのような関係をみると、『琉球国由来記』の按司・総地頭、そして(脇)地頭、地元オエカ人の祭祀への参加や供え物の提供は、神人との関係だけでなく、百姓からの貢租・家禄の作得を得ることもあるが、百姓からすると奉公人に取りたてられるためのチャンスでもあるわけです。

3.休息日としての祭祀の位置づけ

   ・祭祀は「神遊び」といわれるように村人の休息日といえそうです。
 祭祀がムラ人にとっての休息日だというのは、祭祀は「神遊び」とも言われます。よく旗頭に「神遊」の文字が書かれています。村人は二月ウマチーだ、三月ウマチーだ、タキウウガンだ、ウンジャミだ、アブシバレーだと神に名付けて休息日をとったのです。今の私達は土、日、そして祝祭日など法的に決まっています。

その制度は聞得大君を頂点としたピラミット形の祭祀の制度を作り上げたわけです。祈りの部分が大きいとは思いますが、ちょっと反してみると、神人の制度はクニの租税制度を担っていると見ていいと思います。決まった日の祭祀もありますが、日を選ばなければならない祭祀があります。日を選ぶのは首里王府ということ。ムラで日を選んで不作となった場合の責任を誰がとるか。今年は台風が続き、作物ができなかった。そこで責任はとらず、来年は作物ができますようにとの祈りをしているわけです。
 このように神人に関わる祭祀、そして祈りは御嶽を中心とした神人の祈りは国の貢租に関わるものです。

4.神人の祈りと年中祭祀

・村(ムラ)の祭祀を首里王府との関係でみる。
・祭祀を司るノロをはじめ神人は公務員である。

時々、わたしは「ノロをはじめ神人は公務員である」という言い方をします。祈りもそうであるが、神人は神職(役)に対して土地の配分をうけます。よく知られているのにノロに与えられるヌル地があります。ノロ地とは別に今帰仁村平敷に「神職並に信仰行事記録帳」(昭和27年)があり、「神職人の耕作地は下記の通りにして神職人更迭の場合は其後継人に引継がねばなりません」とあります。具体的には、以下の8筆です。(ここに記載ある神職は根神とペーフ役:小作料を区に出す)
    ・越 原  1,182番地 畑 342
    ・運 田  1,406番地 畑 134
    ・戸 茶   580番地 畑 336
    ・越 原  1,132番地 畑 216
    ・越 原  1,292番地 畑  63
    ・前 田   853番地 田  102
    ・前 田   862番地 田   92
    ・前 田   930番地 田  28

・神人の祈りは五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全(豊漁)が主です。

神人の祈りは大きく五穀豊穣とムラの繁盛、そして航海安全です。神人の祈りの言葉に出てくる五穀豊穣とムラの繁盛は租税に関わる祈りだと考えています。五穀豊穣は米や麦や豆が豊作でありますようにとの祈りは、穀物が豊作で税が納められるようにとの祈りです。特に米ですが、今の私達はお米を食べるものと思っていますが、実のところ米は税として納めるものでした。
 ムラの繁盛は土地制度との関わりで人が増えるとその分土地の配分し税を納めさます。増収になったわけで、地域のよってはムラで納める税が決まっていて人口が増えると一人あたりの納税が少なくてすむ計算になります。ムラの繁盛も租税との関りでの祈りとみることができます。 

航海安全は島国であるがゆえ、それと豊漁祈願とみていいと思います。もう一つは米などの上納物は、海上輸送が主でした。当然のごとく航海安全の祈願とつながってきます。ウタキに置かれている香炉をみると、その年号を合わせ見ると、大和や唐旅の安全祈願です。グスク内にある石燈籠もそう見てよさそうです。

例えば今帰仁グスク内の火神の前にある石灯籠は今帰仁按司十世宣謨が薩摩へ渡って帰島してからの設置(です。無事帰国できたことへの感謝だといえます。ムラのウタキの香炉もそのようなものが多いと思います。

このようにノロなど神人を中心とした祭祀を首里王府との関わりでみると税を納める、あるいは取る関係で見ていくと明快です。

5.山原のウタキ(御嶽)と集落と村(ムラ)

  山原のウタキ(御嶽)を集落や村(ムラ)との関係でみていきます。そのために使用する言葉について規定しておくことにします。
  ・村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。明治41年に村(ムラ)
           は(アザ)となる。部落や村落と同じ意味で使う。
  ・村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切は村(ソン)となる。現在の村(ソン)の
           こと。明治41年に今帰仁間切は今帰仁村(ナキジンソン)となる。
           かつての村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
  ・集落・・・・・・村(ムラ)や字(アザ)や部落の中の、さらに小さい単位の家々の集
          まりに使う。村(ムラ)の中のマクやマキヨなどの単位を集落と呼ぶこ
          とにする。
  ・移動村・・・移動村(ムラ)、あるいは移動村落は行政村や間切を越えて移動した
          村(ムラ)のこと。
  ・集落移動・・・村(ムラ)内部で集落部分が移動している場合をさしている。
          
6.山原のウタキ(御嶽)の様相と呼称

  山原のウタキは杜をなし、その多くが集落の後方に位置します。後方にあり、集落を抱えるようにあります。ウタキを集落との関わりで見ていきますが、ウタキそのものがどのような要件を供えているか。ウタキは外観から見ると杜をなしています。ウタキの基本的な要件は杜の入口あたりに鳥居がたっています。それは本来の姿ではありません。山原における鳥居は、大正から昭和の初期にかけてのものが多いいです(但し、石垣島の鳥居は明治初期にはすでにあります)。杜の内部にイビヌメーやイビがあり、ムラの人たちによって拝まれています。
 
ウタキ(その杜)の頂上部にイビがあり、イビは岩であったり、目印に石を置き、線香を立てる香炉が置かれたりします。イビヌメーあたり、あるいはイビを囲むように左縄が廻らされています(今でもウタキでみられる)。
  ウタキ(杜)の中に、イビやイビヌメーばかりでなく神屋(カミヤー)や火神を祭った祠などもあり、集落の痕跡をみせるウタキもあります。また墓があり、グスクになっているウタキ(杜)もあります。  
   ・ウタキ(御嶽)   ・タキサン   ・ムイ(杜)   ・ウガンジュ(御願所)
   ・ウガミ(御願)   ・グスク(グシク)   ・オミヤ(お宮)   ・神 社

 御嶽の呼び方を山原ではウタキ・タキ・ウガミ・ウガン・ムイ・グシクなどを見つけることができます。御嶽が何かの議論や語義論ではなく、御嶽が果たした役割をクニ(首里王府)レベル、さらにムラ・シマレベルで明らかにしてみたいです。

 御嶽はクニ、あるいはムラ・シマレベルの祭祀と密接に関わり、祭祀そのものが王府からすれば税をとる、一方ムラ・シマの人々にとっては収める(とられる)という関係が祭祀を介してつくりあげられたと考えています。その頂点にたつのが聞得大君であり、その引継ぎが国家行事として行われました。地方ではノロを中心にムラの神人達が祭祀を担ってきました。

廃藩置県後のウタキを国家神道に組み込もうとする動きやウタキに置ける祈り(信仰)なども触れることになろう。クニ―祭祀(神人・年中祭祀)―ウタキ(拝所)―租税などの枠組みで見ていけたらと思います

1713年の『琉球国由来記』は歴史を読み取っていく貴重な資料だと考えています。というのは、1700年代から現在まで激動の約300年間であったはず。その間に村や神アサギや祭祀がどれだけ変貌をきたしてきたのか。特に神アサギの調査をしていると9割近い神アサギが確認できる。言い換えますと変貌の激しい300年という歳月でも残っているということは、もっと緩やかな時代ですから200年、あるいは300年ひっくり返すことができるのではないか。すると、神アサギは1500年や1400年に持っていくことができそう。少なくとも1500年代には。御嶽はグスクやムラの発生に近づけることができるのではないか。そう考えています。

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 クボウヌウタキ(今帰仁村今泊)    ウタキへの遥拝所(サカンケー)

7.山原のウタキ(御嶽)の分類

ウタキを集落との関わりで見ていくと、ウタキは以下のように分類できます。そこから見えてくるものを御嶽(ウタキ)の神観念や御嶽が何かということより、ウタキや祭祀が首里王府の制度との関りでとらえるとどうなるか。

①集落の発生と関わるウタキ(御嶽)
ウタキの内部、あるいは麓や近くに集落があり、集落(マキやマキヨ規模)の発生と結びついている。ウタキの内部に集落の跡や神アサギなどが残っている。複数のウタキを持つ村(ムラ)の様相。

②複数のウタキ(御嶽)を持つ村と神人
複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)ある。それぞれのウタキを中心として発達した集落が一つの村(ムラ)になった痕跡として複数のウタキと神役の配分が、一門からだす。

③集落移動の村(ムラ)のウタキ(御嶽)
集落の発生と密接につながり、ウタキはその位置に残したまま集落だけが移動している。距離的にウタキを移す必要は必ずしもなかった。

④移動村(ムラ)のウタキ(御嶽)
ムラ全体が他の村(ムラ)を飛び越え、移動先で新しくウタキを作っている。故地にこだわることなく高い所に向けてイビを置いてある。地形的に故地に向いているウタキもあるが、こだわる場合は故地へ遥拝する拝所をつくり、あるいは向きを変えてウガンをする。移動先でウタキをつくり祭祀を行うのは何故か。その必要性。

⑤明治以前に創設された村(ムラ)とウタキ(御嶽)
明治以前に創設された村(ムラ)はウタキをつくり祭祀を行っている。ウタキをつくり祭祀を行う理由は。(祭祀が多く、統合されたのは?)

⑥分字(ブンアザ)とウタキ(御嶽)
大正から昭和初期、戦後にかけて分字(ブンアザ)があるが、新しくウタキをつくらず、祭祀は、出身字(アザ)に参加する。それは制度としてウタキをつくり祭祀を行う必要性がなくなったからである。

⑦グスクの中のウタキ(御嶽)
杜そのものがグスクになっていて、その内部にウタキ(イビ)がある例。今帰仁グスクや名護グスク、親川(羽地)グスク、根謝名グスクなど。小規模のグスクでは中城(今帰仁村)、ナカグスク(旧羽地村)、恩納グスク(恩納村)などがある。

⑧クニ(国)レベルの御嶽(ウタキ)
集落の発生とは関わりないウタキで、今帰仁村のクボウヌウタキやカナイヤブ、国頭村のアスムイなど。

  1526年の各地の按司が首里に集居させられます。それを示す史料がないとかの議論もなされているようです。按司の首里への集居は、それらのグスク近くから集落が移動する引き金になっています。例えば今帰仁グスクの例でいうと、今帰仁グスクに住んでいた按司一族が1665年に首里の赤平村に引き揚げていきます。すると今帰仁グスクの側にあった今帰仁村と志慶真村が麓に移動していきます。それはグスクに住んでいた按司あるいは一族と緊密な結びつきがあったからでしょう。

その結びつきが首里経由の緩やかな関係になると、グスクの側にいる必要性がなくなります。すると志慶真村と今帰仁村が麓に移動していきます。その例を見ると、今帰仁グスクでは1665年頃ですが、他のグスクの按司の首里への移り住みは1526年頃のようです。そのことが集落移動の第一ラウンドと想定することができそうです。

 グスクの中にある御嶽の例です。大宜味村の根謝銘グスクと同様なタイプです。今帰仁グスクの中の二つの御嶽は『琉球国由来記』(1713年)に城内上之嶽(神名:テンツギノカナヒヤブノ御イベ)と同(城内)下之嶽(神名:ソイツギノイシズ御イベ)とある。この御嶽は集落とのかかわりでどう位置づけられるかです。それと第二尚氏の今帰仁按司は初代から七代まで今帰仁グスクと密接にかかわっています。それと今帰仁阿応理屋恵との関わりもあり複雑になっている。

 今帰仁グスク内の二つの御嶽を集落との関係でみると、一つは今帰仁村(ムラ)、もう一つは親泊村(ムラ)の御嶽の可能性がある(志慶真村の御嶽は別にあると聞いている)。二つの御嶽を囲んだ形でグスクが形成されたこと。今帰仁グスクに住む今帰仁按司一族が今帰仁阿応理屋恵を継承している。


 1713年の『琉球国由来記』の頃には今帰仁按司は首里に引き上げ、そして今帰仁阿応理屋恵が廃止されている。そのため今帰仁阿応理屋恵が勤めていた職は今帰仁ノロが肩代わりしている時代である。コボウノ嶽もそうである。クボウノ嶽の祈りを見ると「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノゝ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ 御崇仕也」とあり、今帰仁ノロの崇所となっているが、祈り広がりからみても今帰仁阿応理屋恵の祭祀であったと見たほうがよさそうである。

 城内上之嶽は「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とあり、今帰仁阿応理屋恵が管轄していたクニレベルの御嶽であったのではないか。そのことは「おもろさうし」で「みやきせんに たつくも こかねくも たちより 大きみに おゑちへこうて はりやせ かなひやふに たつくも」(13912)と謡われている。
 
 本来、今帰仁グスクの御嶽は集落の発生とかかわる御嶽であるが、一帯がグスクとして城壁に囲われると同時に今帰仁監守一族の居住地となり、その一族が三十三君の一つ今帰仁応理屋恵をつかさどります。ところが17世紀中頃に今帰仁按司の一族が首里に引き揚げると、今帰仁応理屋恵の神職も廃止となります。今帰仁グスク内の御嶽とクボウの御嶽は地元今帰仁ノロが肩代わりをします。後に今帰仁今帰仁応理屋恵は復活するが祭祀の主導権をもとに戻すに至りません。
 カナヒヤブやクボウの嶽もクニレベルの御嶽と見ることができるが、上記のような歴史的な複雑な動きがあるため、もう少し資料を踏まえて整理する必要がありそうでです。
  
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         グスク内の上の御嶽(テンチヂアマチヂ、カナイヤブ)

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               グスク内の下の御嶽(ソイツギのオイベ)

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            今帰仁グスクからみたクボウヌ御嶽

⑨その他

集落の発生とは関係なく複数村(ムラ)を管轄するノロと関わるウタキがあります。今帰仁村玉城にあるスムチナウタキ。玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根のムラを管轄するノロです。

8.複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)と神人

・ウタキ(御嶽)の管理と神人
・集落の発生と神人と神役の継承
・ウタキ(御嶽)における神人の祈願(ウガン)
・ウタキ(御嶽)にある「奉寄進」の香炉や石灯籠

古宇利島の七杜七御嶽の事例(略)で説明。

 

むすびにかえて―村移動とノロ管轄―

最後に、1736年に現在の今帰仁村湧川地内に松田・我部・呉我・振慶名・桃原の五つの村(ムラ)がありました。蔡温の山林政策で移動させられた村です。山林政策をメインにしていますが、この村移動は羽地大川と屋我地島の開拓が目的にあったと見ています。羽地大川の改修が1735年でした。その翌年の村移動ですので、特に呉我と振慶名は。そこでのノロ管轄の変更がなされなかったこと。というのは、我部ノロが振慶名・呉我・我部・松田の村を管轄していました。それらの村移動があってもノロ管轄の変更がなさなかったことは、統治と密接につながっています。

特に振慶名は羽地間切の中央部に移動しています。仲尾ノロの管轄の村を越えた場所です。また伊差川ノロ管轄の古我知や伊差川村に近いところです。我部ノロの我部村は屋我地島です。海を越えた場所であってもノロ管轄の変更がなされなかったことは、ノロの管轄は管轄する村から報酬があったとも起因しているのでしょう。他に譲るということは、給料が減るということでもあると思います。そのために海を越えてでも、危険を冒してでもノロ管轄は死守したということなのでしょう。

         口頭でのプロゼェクターを使っての講演でしたので、画像略、体はそろえてありません。