2008年4月

    ドイツ・オーストリアをゆく   HPトップへ なきじん研究(紹介) 山原の津(港)と山原船 
   今帰仁の戦後60年の軌跡(企画展終了)  第16期ムラ・シマ講座
   山原の神アサギ 奄美のノロ制度 喜界島(鹿児島県) 沖永良部島 与論島 奄美加計呂麻島
    阿嘉島 座間味島 粟国島 石垣市の村と小浜島(竹富町)  奄美大島の村々 伊江島
   ノロ制度の終焉 恩納間切のノロ 金武間切のノロ 久志間切のノロ 名護間切のノロ 本部間切のノロ
              今帰仁間切のノロ 羽地間切のノロ 大宜味間切のノロ 国頭間切のノロ

   【2005年の動き】 12 11 10 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
   2006年の動き】 12 11 10 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
   2007年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10 11 12
   【2008年の動き】 1 2月 3
   北山(山原)の歴史と文化(企画展:展示の様子)   企画展―村制100年の歩み―


2008430日(水)

 26日から29日まで、姫路・神戸・大阪・京都・彦根まで。所用があっての関西ゆきであった。用事を済ますと、周辺へ足をのばすくせがある。まずは、神戸からであった。地理感や何の下調べなしだったので、土地勘がなく大失敗である。関西空港からリムジンバスに乗り到着したのが「三ノ宮」であった。伊丹空港を利用する手もあったが便数が少ない。三の宮駅から神戸駅まで二駅。駅を降りたのであるが、どうもしっくりとこない(後で気づいたのであるが元町駅で下車すべきであった)。一時間ばかり歩いたのであるが、イメージした街にぶつからず。時間の無駄だと思い姫路城へ。世界遺産だということは、もちろん知っているが、一度も足を運んでいない。世界遺産の姫路城などと、一度も行っていないのではしゃべるわけにもいかない。姫路城について歴史の知識はもっていないので城内を歩きながら、天守閣に上がりながら考えることに。

 二時間ばかりの睡眠だったので、二の丸あたりで石棺を見つける。その中で横になろうかと。石は地元の播磨や備前から集めたある。それだけの大きな石はどうして積み上げたのか驚きである。白壁にはの穴があり、狭間(さま)というようである。形によって銃眼やのぞき穴の役割を果たしている。

 姫路城の天守閣から城下街を眺めてみた。城内の井戸や堀や数多くの瓦紋なども見たのであるが、城を廻る勘をつかむことができないままの姫路城めぐりである。天守閣の上部に上がるにはきつい階段をあがっていかねばならない。もう天守閣にあがることないかもしれない(体力がないので)

 白鷺城と呼ばれるように美しい城であるが、疲れと睡眠不足がたたり、足を引きづっての城回りとなり、申し訳ないと思っている。改めて記すことに。沖縄のグスクは、このような城とは別の歴史を歩んでいると考えた方がようさそうである。頭は素通りした神戸のことが気になっている。


     大天守閣と小天守閣                    次の丸への門

 
大きな石はどう積み上げたのか?  石棺が二つあり、その中で休息!


                 天守閣から回りの城下街をみる


2004424日(木)

    (この頁は30日までお休みします)

 
16期(平成20年度)の「ムラ・シマ講座」が5月からスタートします。16年目をむかえた講座です。息の長い講座だと自負しています。今では児童から大先輩方に向けての講座として定着しています。今日は村内の小学校に出向き、募集にあたり校長先生を通してお願いをしてきました。

 4年生を中心として募集をかけていますが、その枠を越えて参加したい方は大歓迎です。一回目から欠かすことなく出席しているのがいますが、それはムラ・シマの限りなく奥深いもの、そして人間を成長させる魅力があるからです。毎年、限界がきたかと思うのですが、しかしムラ・シマの魅力には勝てません。今年度も、いよいよスタートです。是非、ご参加を。


2004423日(水)

 『運天誌』の原稿出しをスタートさせる。その打ち合わせ会議。蔵入りの原稿を出すことに。寝かせすぎてカビだらけになっていそうだ。さあ、カビを払ってみるか。

 名護市の安和に部間権現がある。そこに「道光三拾年・・・」(1850)の石灯籠が二基(対)立っている。安和村は名護間切の村なので名護王子や名護親方の薩州や江戸上リと関わる寄進だと見られるが、直接関わる記事は未確認。ただし、道光30年(1850)には、以下のメンバーが薩州・江戸に派遣されており、部間権現に寄進した人物も同行したに違いない。石灯籠や香炉などの寄進をしたメンバーが按司や親方などに薩州・江戸に御供し、帰ってきて大和情報を首里王府のみでなく、間切や末端の村まで伝達する役目を担っている姿が見え隠れする。その頃名護按司の御側使いをした人物(東江親雲上・比嘉筑登之・仲村渠鍋山(惣耕作など)が安和村にいる。

 ・向氏奥武親方朝昇が年頭の慶賀として派遣される(6月~翌8月)
 ・尚氏玉川王子朝達が王の即位と典礼の謝賀として正使として薩州・江戸へ
    派遣される(6月~翌4月)
 ・向氏野村親方朝宜が薩州・江府へ福使として派遣される(6月から翌4月)。
 ・毛氏我謝親雲上盛紀が贊議官として薩州・江戸に派遣される(6月~翌4月)。
 ・向氏伊是名親雲上が耳目官として薩州に派遣される(8月~9月)。


部間権現の石灯籠(左)  右側の石灯籠           部間権現の拝殿と神殿

 部間権現は大正15年に改築されている。設計者は国頭郡組合技手清村勉氏(熊本県出身)で大宜味村の役場にある建物などの設計者である。


 部間権現改築碑(大正15) 清村勉氏が設計した大宜味村の役場(現在)

 崎本部の御嶽のイビに二基の香炉がある。「奉寄進 □□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(左)と「奉寄進 同治□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(右)とある。同治元年(1859)の向氏本部按司朝章の薩州行き(6月~10月)と関わるものか(未確認)。


  本部町崎本部のウガミ(ウタキ)        ウガミの上部にある香炉


        左側の香炉                 右側の香炉


2008422日(火)

 大宜味村田港と大宜味のウタキの祠を訪ねる。近くのアタイグヮーで畑仕事をしている方々と言葉を交わしながら、ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」のような会話が続く。字(アザ)の方々は香炉に字が書かれていることは意識していない様子である。「ウートートゥ以外は行かんさ」と。祠には21基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の6基である。田港に何故、21基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。

 田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に11基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。ニカ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。の香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。(銘のある香炉と石灯籠の確認がもう少し続く。次に移りたいのだが)



「奉寄進 大□□」(年号なし)

嘉慶九年甲子 奉寄進 九月日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。

 嘉慶9年は西暦の1804年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。

「奉寄進 同治年  □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□

 年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治三年に年頭の慶賀で薩州へ派遣されている。それに伴うものか。

屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□

⑤□□□
月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋 

「奉寄進」の文字のみ


           の香炉                      の香炉


         の香炉                        の香炉


           の香炉                   の香炉

【大宜味村大宜味の御嶽の祠と香炉】

 この祠は1953年に建立されている。中に11基の香炉があるが摩耗したためか文字が読めるのは一基もなかった。そのため、田港の香炉との比較ができないのが残念である。


 ▲1953年に建立された大宜味のウタキの祠    祠の内に11基の香炉がある


2008419日(土)

 まずは、戦後のパネルの一部を掲げてみた。「村制100年の歩み」の展示は、いくつか方法を考えている。行政文書の現物、説明パネルの展示もする。それは「企画展村制100年の歩み」のページで随時更新していく。1908年から1908年までの100枚のパネルを準備する。それには年ごとに、その年の出来事、そして関わる画像を組み込んだモデルパネルは作成中である(数が多いので学芸員実習で)。準備段階もオープンにしていることもあって、外からのアドバイスもあり、有り難いものである。感謝

 講堂(展示会場)で進めているモデル展示は、学校・人々・建物・マチの様子(仲宗根)・生業(塩田・大工・工事・運搬・稲作など)・祭祀・風景などの写真パネルと、行政的な出来事と重ねてみることにする。自分達が生きてきた歳月であるが、記憶の曖昧さをもろに思い知らされている。文書資料があったにしろである。「100年の歩み」の出来事の記事を拾いながら整理していくことになる。見通しがついたので、しばらくストップ。別の事業にシフトすることに。


      学校や幼稚園など                   ムラの人々と建物など


       子供達や祭祀など            生業(塩づくり・工事・製糖・畑仕事など)


2008418日(金)

 
昭和27年~30年代にかけてのスライド写真を手に本部町の新里あたりを訪れてみた。当時のシャッターポイントに立つことはできなかったが、近いところから写してみた。再度、挑戦してみることにする。二枚は本部町具志堅の事務所(公民館)の前で撮影された集合写真である。今帰仁村今泊の児童(日曜学校)ではないかと思われる。あるいは具志堅の児童かもしれない。

 写真が撮影された日から50年余の歳月が経過している。風景もそうであるが、写真の一人ひとりの50年の人生をたどってみたくなる。しかし、それは叶わない願いである。それは一人ひとりが自分の人生と50年という歳月と社会の状況とを重ねていただくしかない。「村制100年の歩み」の企画は、その間に歩んできた道筋をなぞっていくことはできるが、今にたどりついた道筋を修正できるものではないからである。今生きていることが、よしとする道筋であることを願っている。50年前の場面を振り返り、そこから将来への道筋を見いだす手掛かりとなればと。


 本部町新里漁港から具志堅方面を眺める    上本部中学校からみた風景(昭和27年頃)


   新里集落をみる(昭和30年頃)          桃原飛行場跡地から山手をみる(現在)


    具志堅事務所前での集合写真(今帰仁村今泊の児童達の遠足か)(昭和30年頃?)


2008417日(木)

 伝承・民話の原稿の校正と編集作業に没頭する。ここ、二三日で160頁(全体で1000頁?)まで漕ぎつける。とり急ぎ、全体の頁の把握がさきである。それと中に取り込む画像やイラストや註書きの確認でもある。全体のボリュウムが把握できれば、本格的な内容校正と補足調査にかかる。5月の中旬から調査にかかるれるかな。晩はガイドさん方へのレファレンス。おつかれさん。

 そんなのが出てきました。どなたから寄贈いただいたか記憶にない。探してみることに。


2008416日(水)

 浜比嘉島の村は『絵図郷村帳』に「はま村」、『琉球国高究帳』に「はば村」と浜村のみ出てくる。『琉球国由来記』(1713年)には、御嶽のところでは「浜比嘉村」と記されるが、「年中祭祀」になると浜村と比嘉村が別々に記される。それ以前は浜と比嘉の両者を一つの村と扱っていたのかもしれない。勝連間切の地頭代は本島側の村名ではなく浜比嘉島の浜村の浜親雲上を名乗っている。勝連間切の地頭代の曖村が離島であること。与那城間切の曖村も宮城島の名安呉村をとっているようで名安呉大屋子である。

 そのことは今帰仁間切でも同様である。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子であるが、1750年頃の資料になると古宇利親雲上となる。地頭代の曖村は古宇利村となり、地頭代を勤めた家にはフイヤーやメーフイヤー(前古宇利ヤー)の屋号がつく。勝連や与那城、そして今帰仁などの間切の地頭代の曖村を島にしているのは、上納物の運搬や海上交通と関係しているのかもしれない。


   浜集落にある地頭代火神の祠          祠には二つの香炉が置かれている


        浜集落内に石垣の屋敷囲いの家が、まだ残っている。

【羽地間切稲嶺村の真照喜御宮の香炉銘】

 名護市稲嶺(真喜屋村から分離)の真照喜屋御宮の四基の香炉がある。その一基に「奉寄進 明治廿八年九月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。その香炉は上地福重氏が上京した時の寄進だと明確に記したものである。ただ、氏が上京した記録はまだ確認できていない。どう結びつくかはっきりしないが、その頃の資料に羽地間切稲嶺村十七番地平民の宮里清助の「御願書」がある。その中に、
上京と関わる出来事が確認できる。

   ・旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事 仝(明治)九年
    九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
   
   ・東京博覧会ニ於テ当間切出品総代相勤申候 羽地番所 仝(明治)廿三年九月三日

 ここでは、宮里清助氏(天保12年:1853生)が羽地間切役人になる以前、羽地間切惣地頭池城親方家で奉公をしていた。どのような役目をしていたのかをあげると、茶湯詰・側詰・雇詰・宿詰・馬當詰・小鳥当詰・内原詰・手作詰・道具搆・庫理詰・物方取扱搆・惣地頭池城親方上京の時の御供などを勤めている。その後の明治12年に羽地間切屋我村掟となり、西掟・南風掟大掟・首里大屋子・夫地頭・惣山当・惣耕作當代理(明治29年)まで勤めtいる。殿内や御殿での奉公人の奉公をみると、それは首里で培ったことを地方に伝える電流のような役割を果たしている。


名護市(羽地間切)稲嶺の真照喜屋御宮    上京の時に寄進した香炉


      宮にある四基の香炉         稲嶺村の宮里清助氏の「御願書」(一部)


2008415日(火)

 浜比嘉島は何度か訪れているが、どこに書きこんだか探せません。だぶりがほとんどだと思うが、昨日のメモの整理でもしましょう。浜比嘉島は現在うるま市に属している。島には浜・比嘉・兼久の三つの区がある。伝統的な集落を形成しているのは、浜と比嘉である。

【浜比嘉島】
 浜比嘉島は現在うるま市にはいる。合併以前は勝連町の属している。浜比嘉島に渡るには海中道路を通り、旧与那城町の平安座島に渡り、そこからさらに浜比嘉島への橋を渡る。『勝連村誌』(1966年発行)の浜のところを見ると「渡船で屋慶名の埠頭をはなれて、ヤブ地の海峡を通り抜けると渺茫たる太平洋が展開し、左にヤブ地島を眺めつつ行くこと三十分程で、浜の突堤に辷り込む。白砂の道を真っ直ぐに行くと、学校と区事務所の前に出る。区事務所の隣りに氏神と、地頭代火神を祀ったコンクリート建ての拝所が並んでいる」とある。その名残りは今でも残している。

 浜比嘉島には浜と比嘉、それと兼久の集落がある。今回は浜のシニグ堂、大和人墓、比嘉のハマガー、神社、それから兼久のシルミチュー(シネリキヨ)、比嘉に戻り、アーミチュ墓(アマミキヨ)、アガリガー、吉本家、比嘉公園、その上の比嘉グスクなどを回り、さらに浜の集落へ。集落内の地頭代火神の祠や浜中学校、集落内の石囲いの屋敷などをみる。海岸で漁師さんとゆんたく。「ここに護岸がありますが、ここまで台風時波があがるのですか?」と質問すると「ここが海岸線だったのだよ」と。漁港の方は埋め立て地なのである。

 浜への大正以前の交通について『勝連村誌』は以下のように記してある。

 「浜には古来干潮時に徒歩で浜近くまで行き、所定の場所(合図岩:エージビシ)で、昼は声や手真似で、夜は火を
  燈して浜辺に屯している渡し番に連絡して約二百米の海峡を渡るのであった」(290頁)。


 比嘉グスクから集落を眼下に眺めるのはいつ見てもいい。以前、グスクにあがった時は、体調が回復していな頃だったので、160余の階段を、何度も休みながら上がったものだ(工事中だった)。頂上部の平場に小さな祠があり、神アサギ風の東屋が建てられている。最近草刈りをしたようで様子がわかる。

 集落の海側に小島があり、島へは堤防でつながっている。そこにアーミチュ(アマミキヨ)の墓があるが、そこにアマミクとシネリキヨの二人が葬られている墓だという。大正と戦後に改築されている。二人が住んでいたというシルミチュー(シネリキヨ)の拝所は大正6年、昭和3年、1955年(参道)に改築されている。シルミチュー(シネリキヨ)の洞窟に「洞鏡2個、天下一藤原吉次(裏面)」とあると昭和31年に調査された新城徳祐はノートや『勝連村誌』に記してある。

 昭和31年調査された新城徳祐ノートに「正月元旦の朝に部落全員が拝んで、その後各家庭年頭をする」、あいは「戦前は駕で中城御殿から拝みに来た。あまみきよ、しねりきよを祀った所は別々にある。沖縄発祥の地であると言うので各地及び久高島祝女等が拝む。比嘉の祝女を合図して一緒に拝んでいる」と記されている。子宝が授かる拝所として知られているようで、何組か参拝に訪れていた。


       比嘉グスクから眺めた比嘉集落(左側の小島にアマミチューの墓がある。


     比嘉グスクの平場に東屋          グスク内の貝が祀られている拝所
 

    アマミチュー墓(比嘉の小島)                   改築紀年碑
                                      (裏に195098日青年会)


   シルミチューへの入口             サンゴが敷かれている。    改築記念碑



    ハマガー御嶽、右手下方にハマガーがあり、右手上の奥に洞窟がある。


     ヤマトゥンチュー墓           吉本家近くにあるアガリガー? 


     比嘉集落にある赤瓦屋根の吉本家         吉本家の屋敷囲いの石垣


2008年4月13日(日)

 シーミー(清明祭)の季節である。先週と今日とシーミーにつき合ってきた。今日は墓と関わる来客があり、また隣の家から位牌をみてくれとのことで拝見させてもらった。読める分だけでも読んでみましょうか。これらの位牌を持つ家は、ペーフヤーの屋号を持ち、男神役のウペーフを出す家筋である。

 位牌に登場する松田や新城や大城などの姓を持つ家ではない。それらの位牌とは別に桃原家の位牌も持っている。そのために、「何故だろうか」との質問である。聞き取り調査が必要である。それと墓を開ける機会があれば・・・。志慶真大屋子は今帰仁間切における夫地頭の一人で、位牌の人物は今帰仁間切の夫地頭を務めていたことはわかる。銘や年月日部分が消えているので、位牌からは解き明かし難い。文書などがあればいいのだが。   


                         裏(文字は剥離?)

【表】
    志慶真大屋子男子
       松田ニヤ               松田筑之 妻
                     
  帰真 各霊位                 嘉慶二十三年寅ニ月
                                  松新城
    大清道光七年丁亥十二月二十日   
       松田筑之


          表              裏(文字見えず。剥離?)
【表】
        松 大城
     乾隆□□□□
  帰真                 霊位
 
   □□□




      表               裏

【表 面】

      □□桃原子
          妻
 帰 真   □□新城   霊 位
        □□新城
     □□□    

【裏 面】
    ・乾隆二年丁巳四月
    ・乾隆三十八年癸巳正月五日 子
    ・乾隆三十四年己丑正月十五日 父
    ・乾隆三十六年卯八月十三日 母
    ・咸豊九年己未七月六日 亡
    ・光緒七年辛巳十一月 亡
    ・□□□


2008412日(土)

 明治41年から昭和20年までの出来事を拾っている。拾っているが、そこに記せない出来事が数多くある。戦前の30年余の国や社会の動きは、渦中にいる平成の時代の流れと被さって仕方がない。二つの時代の苦悩なのか、悲しみとでもいうべきか、重々しく時代が流れている。

 気づいていながら、どう表現すればいいのか。人を引き込んで、見せていく手段が思い浮かばずにいる。二つの時代に苦しめられている時、企画展用に出してきた50年前の下のような画像の多くに救われている。混沌とした先の見えない平成の時代の渦中にいるが、それらの画像は僅かではあるが明るい日射しをかざしてくれている。この100年を正面からぶつかっていくと、潰されてしまうが・・・(当分、戦前と平成の時代と格闘なり)。


    昭和26年頃の本部町渡久地港              昭和30年頃の今帰仁村今泊


2008年411日(金)

 3月までの企画展山原(北山)の歴史と文化、引き続き文化財指定の図(図面)と辞令書等の展示を終え、しばらく講堂が遊ぶことになる。次の展示村制100年の歩み(準備中)につなぐ展示にかかる。現物資料の展示は8月になってからになるが、壁展示は随時進めていくことにする。それをしながら村制100年の歩みをなぞっていくことにする。

 学芸員実習の8月下旬のスタートに合わせて、箱にはいた戦前・戦後資料の展示をすることに。学芸員実習を受ける実習生達(今回は7人)は、そろそろ動きを見ておくように。「村制100年の歩み」を立ち上げるので。資料の収集・研究・整理・企画・展示までの進捗状況を画像で見せていく(ゆっくり、ゆっくりですが)。その途中から実習に臨んでもらうことに。もう、学芸員実習はもうスタートです(厳しいですよ。覚悟されたし)

 戦前・戦後資料の入っている箱をあけると、時間を忘れてしまう。これからボツボツ資料を開き、「村制100年の歩み」の筋書きをしていくことにする。まずは、写真パネルを使って展示のアウトラインをつかむことにした。見学者を、その年、その年に暖かく迎え入れて、どれだけの読み込みさせることができるか。そして平成という渦中の社会状況をとらえ、どう位置付けていくか一人ひとりが考え、そして生きてきた年月とどう重ねて見せられるか。




2008410日(木)

 兼次小学校の総合学習について、先生方と一年間の打ち合わせ。昨年度の成果も届けられ、なかなかの成長ぶりが見えます。今年は、どんな関わり方をしていこうか。子供達の顔をみながら企画することに。企画に子供たちを合わすこともあるが、子供たちに合わせた企画をすることにしよう。

【薩州・江戸上りと楽童子と奉公人】

 琉球国から薩州や江戸上りをした王子や親方などに随行していった楽童子が、帰国してから首里王府の芸能もそうであるが、地方の芸能に影響を及ぼしているのではないか。その学童子の中に各地の間切から殿内や御殿へ奉公した人物が散見できる。それらの奉公人が地方への伝統芸能の伝播の橋渡しをしているのではないか。

 薩州や江戸へ随行していった楽童子達が、どのようなことをしているのか。そして、大和の芸能を見て琉球へ導入したのがあるのではないか。『琉球使者の江戸上り』(宮城栄昌著)で、「江戸における公式行事」や「薩摩邸における行事」や「使者たちの私的文化活動」で楽童子達(楽人)の役割が述べられている。享保3年(1718)の楽人は延44人である。中に獅子舞も演じられている。

 琉球の文化や琉球人に対する評価は別にして、楽師や楽童子など楽人に推挙され、王子や親方等に随行して薩州や江戸上りできることは、名誉なことであった。そのことと各地に寄進されている石灯籠や石香炉など大和めきものと結びついている。それだけでなく、薩州や江戸へ持っていった芸能を各地の村踊(ムラウドゥイ)の番組に取り組まれていったとみられる。その体表的なものが各地の組踊りであり、今帰仁村湧川の路次楽や松竹梅や古典音楽などである。

 今、調査を進めている「操り獅子」(アヤーチ)(今帰仁村謝名・名護市川上・本部町伊豆味)の導入も、王子や親方などの薩州・江戸上りの随行者、そして間切からの殿内や御殿への奉公人(中には楽童子や躍人として随行)、奉公人が間切役人となる。そのような芸能の伝播の様子が見えてくる。

 ただし、大和の芸能を琉球に移入していく場合、そのままの形で導入していくものと、琉球化していくものがある。「操り獅子」について、まだ直接の史料に出会っているわけではないが、江戸や大阪で「操」は見ている。その「操」(あやつり)は操人形かと思われる。その操の技法を学び、操りの人形部分を獅子にした可能性がある(もう少し資料を追いかけてみるが、果たしてどうだろうか)。

 『琉球使者の江戸上り』の研究をされた故宮城栄昌氏は以下のように述べている。

   「使者たちが受けた日本文化の影響も測り知ることのできないものがあった。それが琉球文化の中に
    日本文化の要素を混融させることとなり、琉球文化の領域と内容を豊かならしめることとなった。琉
    球文化は固有性に富んでいるといわれながら、異質性にも満ちている。その異質性は琉球に置かれ
    ている位置からくる外交活動の側面であった。」

   「また、宝暦二年(1752)の謝恩正使今帰仁王子朝義は、薩摩や江戸で島津重年に対し奏楽・漢戯・琉戯を
   演じ、明和元年(1764)の慶賀正使読谷山王子朝恒も同様であり、さらに寛政二年(1790)の慶賀正使読谷
   山朝祥も、薩摩・伏見・江戸で奏楽・作舞をしているから、舞踊が半ば公的に演ぜられることは、早くから行
   われていたようである。そして島津家に慶事があれば、格別盛大な祝賀芸能があった。」


 『向姓家譜大宗尚韶威』などの家譜から、丁寧に拾い掲げている。有り難いものです。
 
【今帰仁】
 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将 宮古薩州長崎
 ・康煕15年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
 ・康煕48年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
 ・乾隆11年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
 ・乾隆12年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
   (今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
 ・乾隆17年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
 ・嘉慶25年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山与那国島
   (慶賀改めて)
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷  薩州東京へ 


200849日(水)

 村文化財に指定した図(図面)などの展示を取り外し保管となります。二カ月余、御苦労さんでした。

 明治41年から大正までの出来事を拾う作業を進めている。戦争へ向かっていった時代の出来事。「村制100年の歩み」の戦前部分のほとんどが、一致団結して戦争へ向かっていく状況が次々と出てくる。目をつぶるわけにはいきません。戦争へ向かっていった時代、そして戦後60年余の復興、そして先行きのはっきり見えない現在。一人ひとりが生きてきた時間と社会の出来事を重ね、それと厳しい現在の社会状況も合わせ見ながら、将来を見通せる指針となるような展示ができればと思案中。どう見透していくかは、個々一人ひとりの


               本日で地図などの資料は収納しました。

 先日、石川市(現うるま市)の伊波グスクを訪れてみた。何度も訪れているが、その多くが夕暮れや雨天であった。珍しく天気が晴れていた。伊波グスクに関心を持っているのは、北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代以前の伝承を持っていることである。それが史実かどうか疑問を持っているが、否が応にも付きあわされている。特に中頭地方のグスクの多くが、この伊波グスクを拠点とした根強い伝承を持っているからである。『三山由来記』の「伊覇按司」の部分や『沖縄の城跡』(新城徳祐著)に記されている以下の伝承が影響している。その内容が史実をどれだけ反映しているのか、それを明かすだけの資料を持ち合わせていなので、今帰仁グスクと関わる伝承をもつグスクとして扱うことにしている。

  「伊波城は西暦1322年に北山城(中北山系の今帰仁世の主)が、、後北山王の初代である怕尼芝に亡ぼされ
   たとき、中北山系の子孫たちは何処ともなくちりぢりになって逃げのびたが、その中の一人は北山城からの
   がれて、伊波部落のとなりにある嘉手刈部落上方の洞窟にかくれていたのを附近の住民たちが、この人の
   様子を見て、これはただ人ではない、と思ったのであろう。住民たちが、この人を推挙して伊波按司にした、
   と伝えられており、伊波城は、この伊波按司が初めてきずいたものであるといわれている」


 伊波グスクのある伊波は1666年以前は越来間切の村の一つであった。1666年に美里間切が創設され、その後間切の村の組み替えがなされている。伊波村は1672年から美里間切の村となっている。『琉球国由来記』(1713年)を見ると伊波村に森城嶽・中森城之嶽・三ツ森之嶽・小河之嶽の四つの御嶽がある。

 年中祭祀の伊波村には、伊波巫火神・伊波城内之殿・伊波之殿があり、伊波ノロ管轄の祭祀である。伊波ノロは、伊波村だけでなく嘉手刈村や山城村、石川村の祭祀も管轄している。伊波ノロ火神の祭祀に伊波村・山城村・石川村の百姓が参加している。

 伊波城内之殿(伊波村)での祭祀に伊波村の百姓と伊波地頭、嘉手刈村の百姓が関わっていることが気になる。伊波グスクにあがる鳥居(正門か)の手前に伊波ノロの祠があり、すぐそばに神アサギが建てられている。『琉球国由来記』(1713年)に神アシアゲは記されていないが、それは「伊波之殿」を指しているのか。


    鳥居からあがったところの石積み             野面積みの崩壊している石垣


                  正門?(鳥居)から伊波集落への道筋 
        


     伊波グスクの鳥居(正門?)手前にある神アシアゲとヌル殿内の祠


          伊波グスク内にある御嶽のイビ?               城壁の外側にある拝所


      伊波グスクから山原方面を望む         頂上部にある今帰仁グスクへの遥拝所?


200848日(火)

 新年度に入り、数本の企画を並行して動かしているので頭の中は混雑状態。その一つ「伝承・民話」の原稿がボツボツ上がってくるので、校正と編集をしながら全体の把握とモデル原稿の割り付け作業にはいっている。スタートしたばかりなので、見通しがつくのは、もう少ししてからになりそう。
 
 各地の石灯籠や香炉の銘の調査は、「北山(山原)の歴史と文化」の「山原の各間切と御殿・殿内」へと結びつくものである。その調査は、もう少し続く。昨日は恩納村の谷茶までいく。谷茶の御嶽の中の祠に銘のある香炉がある。年号は彫られていないが、「奉寄進 □□ 仲村渠にや」の香炉が二基ある。もう一基にも同様な銘が書かれているが判読が困難である。恩納村については、前に少し触れているが、重複する部分もあるが、整理してみることに。

 恩納間切の創設1673年である。金武間切と読谷山間切を分割して創設される。恩納間切が創設されたとき、大里王子朝亮と佐渡山親方安治に領地として恩納間切が与えられた。その後、佐渡山親方家が廃藩置県まで恩納間切と密接に関っている。恩納村や安富祖村に佐渡山家の仕明地が多くあった。

 佐渡山殿内は恩納間切の総地頭をだした家である。その佐渡山家は仕明地を多く持っていたようである。『恩納村誌』を見ると、恩納グスクの下、グランチャマの砂質地一帯の畑、南恩納の馬場の下印場一帯、シルジ、屋嘉の下り口、太田のクビリ、安富祖の川沿いの水田、字名嘉真にもあったいう。

       覚
  恩納村帳内の原に有之候佐渡山親雲上面付三万三千四百二十三坪七分之内
  潟二万八千二百三十六坪七分・・・

 (だ度山殿内の土地を手放したのは佐渡山安嵩が中国に行く準備のため、借金を負うようになった。その目的が達せず多くの土地を手放すことになった。


     恩納村谷茶(後方の森がウタキ)          ウタキの中にある祠


                祠の中にある銘のある石香炉


200845日(土)

 天気悪かったのであるが、勢理客の御嶽とスムチナ御嶽の三基の石香炉の採拓をする。そこに彫られた年号と「・・・仁屋」の人名をしかと確認したくて。それが揺れていると他の史料とのかみ合わせができなくなる。香炉は雨風にさらされ、また線香をたくので摩耗が激しく、判読がなかなか困難である。もう一度20年前に撮影した写真画像を探し出してみなくては。


       勢理客のウタキ香炉の拓本(二基)            スムチナ御嶽の香炉の拓本

 『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、
  一、嘉慶二十四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同七月十五日那覇川
   出帆与那国嶋漂着翌辰年六月帰帆仕申候

また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
  一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟・・・・
   一、二男武太(光緒5年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役
     被仰付、志慶真大屋子ト云フ・・・
新城徳助の「口上覚」にも、
  一、咸豊九年(1859譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子様屋嘉被仰付光緒元年亥八月弐八
    迄難有御奉公相勤置申候


などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。


200843日(木)

 ワラザン(藁算)調査の来客があり、勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋、そして近くに勢理客のウタキの香炉の確認まで。勢理客のウタキのイベの祠に二基の石香炉がある。それには銘があり「奉寄進 道光十九年? 八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年九月吉日 上間仁屋」である。勢理客のウタキの中のイビに二基の香炉が置かれている。一基はスムチナ御嶽の香炉の年号と一致する。その同治九年は今帰仁王子朝敷が薩州へ派遣された年である。

 道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)

 勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
  一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
  一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
  一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候


 勢理客村兼次親雲上(覚)
  一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付九月より十二月
     迄昼夜相勤置申候事

  一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤
    置申候事
  一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事 


 勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算)については、改めて報告することに。


     勢理客のウタキ内のイビの様子      銘のある二基の香炉


  勢理客のウタキのイビの祠にある銘のある二基の石香炉


      勢理客ヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算:二本)


200842日(水)

 山原の他の間切については、『中山世譜』(附巻)から必要な記事を拾ってみたが、ここでは『中山世譜』の附巻から先に記事を拾い石灯籠や石香炉の銘の確認をしてみることにする。石灯籠と銘のある石香炉から王子や親方などが薩州へ派遣されたことと関係あることがしれた。ここでの狙いは、按司や親方と間切や村との密接な関わりがあったことをみていくための作業である。それが石灯籠や石香炉に登場する「仁屋」クラスの人物達が果たした間切(地方)への影響がどれほどのものだったのか。そのことを明らかにしたいがための作業でもある。

 『大宜味村史』(資料編)に「沖縄県大宜味地方旧慣問答書」がある。その問答から両惣地頭家や脇地頭家と間切役人や奉公人との関係がはっきりみえてくる資料である。

 吏員ノ事
  一、問 旧地頭ヘ奉公スルノ手続並年限給料ノ有無又ハ掟ヘ採用ノ手続現今ノ人員若干ナルヤ
      答 右ハ筆算稽古人ノ内ヨリ文子ヘ採用スルウト同シ手続ニテ奉公セシム年限ハ定ルンレト雖トモ
      凡ソ三十年位ニテ掟ヘ進ム給料ハナシ間切ヨリ正頭三分七厘三毛余ヲ引ク人員ハ両惣地頭ヘ
      六十七人ナリ(六十七人は六、七人?)

  一、問 掟ヘ採用ノ手続如何
      掟ヘ採用方ハ縦令ハ甲年按司地頭ヨリ乙年惣地頭ヨリ両年間切ヨリ順番ヲ以テ人体勤功取調掟ヘ採用ス

 
付届ノ事 
   一、問 文子以上役上リノ時地頭代以下役々ヘ付届並ニ盆暮等役々ヘ付届ノ並ニ盆暮等役々ヘ付届ノ定例如何
      答 役々相互ニ付届ケスル事ナシ
   一、問 文子以上地頭代マデ役上リノ時々両惣地頭其他ヘ付届ノ定例如何
      答 地頭代以下役上リノ時々付届ノ定例左ノ通リ

       両惣地頭へ          地頭代例
         一、肴拾斤ツヽ         一、焼酎二合瓶一対ヅヽ
        両惣地頭嫡子元服次第    同人へ
         一、肴二斤ヅヽ          一、焼酎一合瓶一対ツヽ
        両惣地頭惣聞へ
         一、肴二斤ツヽ

   盆上物例
      両惣地頭へ          間切ヨリ
       一、薪木拾束ツヽ     一、明松三束ツヽ
       一、白菜一斤ツヽ     一、角俣一斤ツヽ
       一、ミミクリ一斤ツヽ    一、辛子一升ツヽ
       一、玉子五十甲ツヽ
      脇地頭へ            村々ヨリ
       一、白菜半斤ツヽ    一、角俣半斤ツヽ
       一、ミヽクリ半斤ツヽ   一、辛子五合ツヽ 

   (工事中)

【名 護】
 ・万暦43年(1615) 馬氏名護親方良豊 薩州へ派遣される。
 ・順治6年(1649) 馬氏名護親方良益 年頭使で派遣されるが台風で破船し死する。
 ・順治9年(1652) 馬氏名護親方良紀 年頭使で薩州へ派遣される。
 ・康煕9年(1670) 尚氏名護王子朝元 薩州へ。直尚貞王即位
 ・康煕21年(1682) 尚氏名護王子朝元 江戸上り(慶賀使)
 ・康煕51年(1712) 馬氏名護親方良直 薩州へ特使として派遣される。(将軍謝恩)
 ・康煕61年(1722) 向氏名護按司朝栄 薩州へ。
 ・乾隆14年(1749) 向氏名護按司朝宜 慶賀使として薩州へ。
 ・乾隆37年(1772)向氏名護按司朝長 薩州へ。

【金 武】
 ・天啓7年(1627) 尚氏金武王子朝貞 家久公の賀で薩州へ派遣さえる。
 ・崇禎2年(1629) 尚氏金武王子朝貞 謝恩で薩州へ派遣される。
 ・崇禎7年(1634) 尚氏金武王子朝貞 年頭使で薩州へ派遣される。
 ・崇禎11年(1638) 尚氏金武王子朝貞 薩州へ
 ・崇禎16年(1639) 尚氏金武王子朝貞 家綱公(将軍長子)誕生で薩州・江戸へ。
 ・順治9年(1652) 金武親方安實 薩州、江戸へ
 ・康煕9年(1670) 金武王子朝興 正使として薩州、江戸へ派遣される(1671年?謝恩使)。
 ・康煕27年(1688) 尚氏金武王子朝興 薩州へ。病で卒する。
 ・康煕52年(1713) 尚氏金武王子朝佑 尚敬王即位で正史として薩州、江戸へ派遣される。
 ・康煕53年(1714) 向氏金武王子朝祐 徳川吉宗襲封(謝恩使)。
 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁朝賞 大守様元服の賀で薩州へ。
 ・道光20年(1840) 章氏金武親雲上正孟 薩州へ。
 ・道光26年(1846) 章氏金武親方正孟 年頭慶賀で薩州へ。
 ・同治4年(1865) 馬氏金武親方良智 (闘病のため正議大夫を派遣))

【久 志】
 ・康煕13年(1674) 顧氏久志親方助豊 年頭使として薩州へ派遣
 ・康煕22年(1683) 顧氏久志親方助豊 薩州へ。
 ・康煕55年(1716) 金氏久志親方安當 薩州へ派遣される。
 ・乾隆46年(1781) 金氏久志親雲上安執 薩州へ(進貢使帰国のことで)
 ・嘉慶11年(1806) 金氏久志親雲上安昌 薩州、江戸へ(尚成王の薨)


200841日(火)

 新年度に入ると同時に、数本の事業がスタート。少なくとも数本の企画がある。その内出版物が三本。それも300頁・500頁・600頁のボリュームである。企画展にも手をつけなければならない。今朝のミーティングは緊張感が走る。この事業に一人増なので力三倍増である。事業の全体像は5月あたりから紹介していく。これまで随時紹介してきた「各地の石灯籠や石香炉」についても「山原の間切と御殿・殿内」へ集約していくものである。(今日は4月1日なので、きっと・・・)

【糸数グスクの石灯籠】(南城市)
 糸数グスク内に数基の石灯籠がある。石灯籠が置かれている場所は『琉球国由来記』(1713年)でいう「糸数城内之殿」のことか。そこでの祭祀に糸数(脇)地頭やオエカ人、糸数ノロ、屋嘉部ノロ、前川掟などが関わる。石灯籠や石香炉の文字の判読が不十分なため、議論を一歩二歩進めるには再調査が必要である。

【中山世譜】(附巻)記事より
・崇禎8年(1635)蒙氏糸数里之子親雲上宗正、薩州へ派遣される。
・康煕18年(1679)向氏玉城親方朝恩が泰清院公七年忌で薩州へ派遣される。
・康煕26年(1687)向氏玉城親方朝御が年頭使として薩州へ派遣される。
・康煕51年(1712)向氏玉城親雲上朝薫が尚益王の薨事で薩州へ派遣される。
・康煕(1712)向氏玉城按司朝孟が尚敬王の即位で薩州へ派遣される。
・雍正元年(1723)向氏玉城親雲上朝薫が薩州へ派遣派遣される。
・雍正5年(1727)向氏玉城按司朝雄が薩州へ派遣される。
・雍正7年(1729)向氏玉城親方朝薫が薩州へ派遣される。
・乾隆59年(1794)向玉城親雲上盛林が薩州へ派遣される。
・嘉慶16年(1811)翁氏玉城親方森林が薩州へ派遣される。
   
の石灯籠は嘉慶17年)
・嘉慶23年(1818)翁氏玉城親方盛林が薩州へ派遣される。
   の石灯籠は嘉慶24年)
嘉慶25年(1820)向氏玉城按司朝昆が薩州へ派遣される。
   の石灯籠)
・同治9年(1870)翁氏玉城親方盛宜が薩州へ派遣される(病身)。


   「糸数城内之殿」?にある五基の石灯籠

糸数グスクの石灯籠

 嘉慶二拾五庚辰年七月吉日(右側面)
   奉寄進(正面)

 新城徳祐氏が「玉城按司御上国付御供糸数村太田仁屋
            嘉慶二十五年七月」
と読んでいるのがある(『なきじん研究11―新城徳祐資料』)。




糸数グスクの石灯籠

 □□己卯年九月吉日(嘉慶24年か)(左側面)嘉慶24年に翁氏玉城親方盛林が薩州へ。
      知念仁屋
      大仁屋



糸数グスクの石灯籠

  嘉慶二十□□(左側面)
   奉寄進 (正面)



糸数グスクの石灯籠

 奉寄進 知念仁屋 (正面)
 嘉慶十九?年(十七か) (右側面)前年の嘉慶16年に玉城親方盛林が薩州へ。
  壬申 九月吉日(左側面)



無 銘