2011年6月の調査記録
沖縄の地域調査研究(もくじへ)
2011年6月29日(水)
来週は「宮古島のムラ・シマ」をテーマにすることに。宮古島市(みやこじまし)は2005年(平成17)10月1日 、に平良市と伊良部町、上野村、城辺町、下地町の五市町村が合併した市である。宮古島市になったのであるが、歴史と関わっていると、間切時代まで行かなくても、市町村時代まで遡っていかないと、ムラ・シマの姿が見えてこない。まずは、かつての市・町・村のムラ・シマの確認から(多良間村は合併せず)。昭和30年代の写真を取り出しながら各ムラを見て行くことに(どんな構成になることやら・・・)。下の画像(400枚余)調査で宮古に三回訪れている。
【平良市】
①池間 ②大浦 ③大神 ④狩俣 ⑤久貝 ⑥島尻 ⑦下里 ⑧荷川取 ⑨西里 ⑩西原
⑪東仲宗根 ⑫西仲宗根添 ⑬東仲宗根添 ⑭前里 ⑮松原
【伊良部町】
①池間添 ②伊良部 ③国仲 ④佐和田 ⑤仲地 ⑥長浜 ⑦前里添
【上野村】
①上野 ②新里 ③野原 ④宮国
【城辺町】
①新城 ②下里添 ③砂川 ④友利 ⑤長間 ⑥西里添 ⑦比嘉 ⑧福里 ⑨保良
【下地町】
①上地 ②嘉手刈 ③川満 ④来間 ⑤洲鎌 ⑥与那覇
(以下の画像は故メルビン・ハッキンス氏提供:今帰仁村歴史文化センター臓)
▲平良市にある琉米文化会館(昭和30年頃) ▲下地町上地(上地公民館)(昭和30年頃)
▲平良市内の市場(精肉店) ▲漲水港(現在の平良港:西里)
▲伊良部島の佐良浜港付近(昭和30年頃) ▲伊良部島の佐良浜港付近(昭和30年頃)
2011年6月28日(火)
今回は島尻郡の「久米島の歴史と文化―ムラとウタキとグスク―」の話をする。歴史文化を考えるには久米島町以前の具志川間切、仲里間切に戻り、そこからムラ・シマ、ウタキ、グスクについて話を進める。山原との違い、共通する部分まで引き出すことができるか。
・久米島のウタキ(御嶽)の様相
・グスクを築いた人は他地域からきた人物である。
・グスクに住んでいた按司などが離散すると、そこは再びウタキとなる。
・そこで君臨した人物の霊を祭るウタキとされる。
・ウタキは按司などがやってくる以前のムラ・シマの人たちのウタキである。
・ウタキはムラ・シマと関わる人々のイビである。
・『琉球国由来記』(1713年)ではウタキである。
・ウタキに複数のイベがあれば、少なくともそのムラに複数の集団がある。
・ムラ・シマを見ていく場合、祭祀は重要なキーワードである。
・祭祀は休息日(今でいう休日)である(神遊びという)。
アブシバレー(2日)/稲穂祭(5月)3日/稲穂大祭(3日)/年浴(6月)1日
柴指(8月)3日/麦種子(9月)2日/粟立初種子(10月)2日/アラゾウリ2日
・久米字のヒヤの存在(一門の頭首)
・古琉球のムラの形態が近世まで引きずっている。
・1700年代に地割を廃止して人頭税となる。その影響が・・・
・久米島の地理的位置が久米島の文化を形成している。
・グスクは外的な要因、ウタキは内的要因。そして内・外二つの要因が融合 しあっている。
・久米島のオモロに古琉球のムラが姿ある。
・地割制が崩壊し人頭税になったことが、ムラ祭祀を緩やかなものにしているか。
2011年6月25日(土)
2009年の1月~7月までの調査メモに目を通してみた。これから項目立をして整理に取りかかる。鮮明な場面もあれば、そんなことも調査していたのかと。論文にできるテーマ、あるいは発想の展開をよぎなくされる場面がいくつもある。一言で「山原のムラ・シマ」と片づけられているが、そこは様々な歴史・文化の転がっている。以前(2005年6月27日付)に、「山原はさまざまな学問の対象地」として琉球新報に書いたことがある。2009年の調査記録を整理していると、山原は学問の豊富な地域だと実感させられる。
この半年(2005年)、山原を中心に各地(与那国・西表・竹富・小浜・伊江・伊是名・久米
島・座間味など)を訪ねてみた。他の地域に足を運ぶことで山原を見るキーワードが増える。
与論・沖永良部・徳之島は、三山(北山・中山・南山)時代、北山の領域であったという。北
山時代に形成されたもの、三山統一後の首里王府支配後のもの、さらに1609年の琉球侵攻
後に導入された薩摩の制度や文化により形成されたものがある。三山統一後と薩摩軍の琉球
侵攻後の被さりを取ると、北山時代の痕跡を奄美の島々に見いだせるにちがいない。
本島の最北端、辺戸の安須杜の頂上部の三つの拝所は、琉球国の支配者(首里王府)の
先祖は子(北)の方向から、また第一、第二尚氏の初代は伊平屋(伊是名含む)島からの渡来
を示している。さらに天から降臨する神も祀っている。琉球国の御嶽と位置づけている安須杜は、
集落の御嶽と異なり首里王府(支配者)による北山文化への被さりと言えないか。
古くは杜の斜面に発達した山原の集落、御嶽を背にした集落、シマの方々が営々と引き継いで
きた御嶽や祭祀、グスクや神アサギなどの分布や特徴は北山時代(12~15世紀初頭)までさか
のぼることができるのではないか。その時代に築かれたものと確証があれば、それを「北山文化」、
今帰仁グスクを拠点とした「北山文化圏」と呼ぶ試みがスタートする。
山原学が成り立つのか、北山文化があるのかだけではなく、山原が歴史や自然などさまざな分野
の学問の対象地となり得る。そのことを前面に打ち出した調査・研究成果の蓄積が必要だと考えて
いる。
2009年前半を振り返っているのだが、山原は学問の宝庫であることを実感させられている。調査・研究は継続して蓄積してきた。その成果の一部をまとめているところである。そのいくつか拾ってみると、
・今帰仁グスク ・今帰仁村謝名の大島 ・ウタキにある「奉寄進」の香炉 ・古宇利島の祭祀
・『家譜』に登場する今帰仁と関わる記事 ・小学生の総合学習 ・山原の印部石
・山原にある按司クラスの石燈籠 ・国頭村比地のムラ ・山原の神アサギ ・各地のヒヤ
などなどである。もちろん調査の範囲は山原に限ったものではない。その期間でも久米島、奄美の島々にも出かけている。台風5号が昨日から沖縄本島をかすめて通過している。大雨は納まり、風も弱くなりました。前回の台風で葉や枝を吹き飛ばしてくれたので、今回はその後始末はなさそう。
▲大雨後の草木 ▲今回は枝が折れることはなし
2011年6月22日(水)
北山が滅んだ時、あるいはそれ以前の興亡の時代に離散していった北山系統の一族のムラと一門の足跡を追いかけて行きます。とり急ぎ沖縄本島北部から。その伝承が史実かどうかの議論は最後にする。まずは、その伝承の確認から・・・。国頭村与那、同村宇嘉にも北山系統とする一門がある。
▲北山系統の一門が住む与那 ▲北山系統の伝承をもつ宇嘉(大城家)
2011年6月21 日(火)
6月23日がやってくる。大正8年(1918)から昭和20年(1945)までの出来ごとを追い、沖縄戦の果てについて。沖縄タイムスの「ワラビ~」の紙面を使っての講義。「沖縄戦 民の犠牲多く」は、長文であるが、歴史文化センター職員のタマキに朗読してもらう。「沖縄戦いは何だったのか」を考えてもらう時間にする。戦前の昭和の世界の動きと平成の20年はいろいろな面で重なってみえてくる。そのいきつく所は戦争であった。そのことも含めて、今の時代を敏感に読み取る感性が必要である。学生達のレポートに、まだ目を通していないが、6月23日は「戦争と平和」についてもう一度考えてもらえればありがたい。
▲「戦争と平和」について真剣に!
2011年6月18 日(土)
時々、祭祀の日は神遊びといい、現在の公休日に相当するものであると説く。そのことがピンと来ないようである。それで具体的な事例を示すことにする。各間切によって異なっている。名護間切と本部間切を紹介する。今帰仁村中城のろ管轄の祭祀、五月ウマチー(稲穂祭)は、まさに「神遊」である。その習慣はまだ息づき継承されていることに気づかされる。
歴史を読み取っていく物差しの一つである。明治以降、あるいは戦後の新しい社会制度も積極的に受け入れていく面と、これまでの習俗(社会規範)を維持して行こうとする面をもった沖縄のムラ・シマ社会である。下に示しているように間切で捉え方の違いが見られる。
【名護間切】
・正月は元旦より三日間遊ぶ。その内は童子共、巷々へ集りて遊申候。(3日)
・二月は遊はなし。麦の穂祭る事あり(二月ウマチー)。
・三月は虫払いというて日を撰、一日人民耕作止、遊申候(一日)。
・四月はアブシ払いと云、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)。
・五月は稲穂祭りと云い、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)
・六月は遊びはなし。稲の大祭りあり。
・七月は十六日、人民耕作を止め遊申候。尤も童子共は饒鼓を用ひ各家庭を廻って遊ぶ事あり。
・八月は十日より十一日迄、人民耕作を止め遊申候。且豊年願いの為毎年組踊する村も有之申候。
・九月はなし。
・十月はたんとり(種取)と云う。日を撰て、二日人民耕作を止め遊申候(二日)。
・十一月はなし。
・十二月はなし。
【本部間切】
・正月は元日より四日間遊ぶ。その内は童子共巷々に集まりて遊申候。
・二月は麦の穂祭と云うものあり。その時は日を撰て、のろくもいは祭りをし、人民は二日間業を止めて各家にて遊ぶ。
・三月は、ウンジャメ祭(海神祭)と云うものあり、その時は遊ぶはなし。日を撰て、ノロクモイは火の神所に参詣して祭申候。
・四月は虫払いと云うて、日を撰て人民耕作を止め、牛馬を引き浜辺に出づる。その時ノロクモイ勤め済る間は、人民より牛馬
に至る迄無食す。その勤めを済て後、各家に帰る。
・五月は大御願と云うて、ノロクモイ並びに人民烈りて火神所に参詣す。且稲の穂祭と云うものあり。その時日を撰て二日間遊ぶ。
・六月は三月に同じ。
・七月は十六日、七月念仏と云う遊びあり。その時童子共、三味線を引きて人民の家々も廻りて遊び申し候。且大折目と云うものも
あり。その日は凡そ十八、九日頃より廿四、五日頃に限る。その時人民業を止むる村もあり、止めざる村もあり。尤ノロクモイは
火の神所へ参詣して祭申候。
・八月は十一日ヨウカビと云う遊びあり。その時童子共、巷々又は毛へ集って遊び申候。且また、豊年願の為め三・五・七年一回
組踊する事もあり。
・九月には遊びはなし。然れども大御願として、ノロクモイ並びに人民召し烈り。火の神所に参詣す。
・十月は遊びはなし。
・十一月は遊びはなし。
・十二月は遊びはなし。
▲五月ウマチーで農作業や仕事を休み参加(神遊び:休息日)
2011年6月16日(木)
中城ノロ管轄のムラの祭祀を調査する。平成3年頃に調査をしている。その時の記録と写真アルバムがみつからないので、当時のことはおぼろげである。それと崎山のノロ殿内と仲尾次の神ハサギ、それから諸志(諸喜田)での場面は見ている。
今日は旧暦5月15日の五月ウマチーである。中城ノロが管轄する崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(現在は諸志)・兼次の五つのムラを連続させた祭祀であったはず。かつての五つのムラを中城ノロが、どのような形で連続させていたのか。それを復元していくことを目的の一つとしてみた。いくつも目を開かされた調査であった(詳細報告は「中城ノロが関わる祭祀」にゆずる)。
①崎山ノロ殿内でのウガン ②ノロ殿内から遥拝
③諸喜田(諸志)ウガミのイビでのウガン ④ウガミのイビでのウガン(諸志・与那嶺の方々)
⑤諸志の神ハサギでのウガン ⑦志慶真神ハサギでのウガン ⑥諸喜田神ハサギでのウガン
⑦兼次のカニマン殿内(神ハサギ跡) ⑧ウタキのイビの前でのウガン ⑨兼次神ハサギでの直会
2011年6月15日(水)
今帰仁村諸志の祭祀調査にはいているのでその全体像を把握しておくことにする。中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(諸志)・兼次の五ムラの祭祀を掌っている。五つのムラの全ての祭祀に参加するのではない。中城ノロが五つのムラを廻る祭祀は二つのようである。二つの祭祀(七月のウプユミと八月十日)の時、ノロは正装(神衣装と勾玉・簪)をして馬に乗って廻っていたという。ノロ家の宮城仙三郎氏の日記に以下のようなことが記されている。
中城ノロの祭祀場を見て行くことは、崎山・中城(仲尾次)・(上間)のかつてのムラの位置やムラの領域をみていく作業である。例えば、崎山ノロドゥンチと呼ばれる祠は、現在崎山の地に位置する。それと中城ムラのウタキは崎山を越えた平敷地内にある。それを整理すると、崎山・仲尾次・上間の三つのムラが短冊状ではなく、海岸から並行にあったのではないか。崎山ノロドゥンチのある場所は、中城ノロが任命された頃(16世紀後半)は中城ムラの地であった。中城ムラの領域は現在の仲尾次あたりから崎山ノロドゥンチ、そしてスガーウタキ(ナカグスク)に延びていたとみられる。
そのことは、拝所の位置と上間・中城・崎山(ヒチャマ)の関係が海岸から短冊状ではなく、並行にあったように見られる。それは古琉球の辞令書(戦前まであった中城ノロ家の辞令書)からも伺える。つまり、現在のムラの形(今帰仁間切の短冊状の形)は近世のムラの線引きであり、海岸から並行のムラの形は古琉球のムラを示しているのかもしれない。
【諸志の年中祭祀】(旧暦)(○は今回の調査)
・2月15日 二月ウマチー
・3月13日 ウカタビ
・3月15日 ウチマチ
・4月15日 アブシバレー
○5月13日 ウカタビ
○5月15日 五月ウマチー
(同日) ウガヌー
・6月23日 ウカタビ
・6月25日 ウンジャナシー
●7月後ろの亥の日 ウプユミ
・8月吉日 ウカタビ
●8月10日 トゥハヌウガン
・9月15日 ウガヌー
・10月1日 ピーマチガナシーヌウガン
・(新)12月24日 プトゥチウガン
(同日) ミチグイ
【中城ノロの御願】(城間系統日記:中城ノロ家)
一、御正月には崎山殿内に於いて新年の御飾をなし、年中の首尾御願を立てて、西南下のギギチ御河まで。「供物は瓶酒御
花米、肉(ウヮジシ)、昔は素麺の吸物もありましたが、現在(昭和25年)は廃止。
一、五月定期御願として廿九日に定日、御願所は、仲尾次御嶽(スガーウタキ・ナカグスク)・南下の御河・クンジャ御河・
ギギチ御河・崎山御嶽、それから南七、八町東に下りてグミ御河まで。(元諸喜田御殿より御米は出せり)
一、九月定期御願廿九日定日、ノロ殿内庭前だけ(元志慶真、津波屋より御米は出せり。但し両御願共自弁当と瓶酒、御花米
持参の事)
一、崎山ノロ殿内の新築、建築は兼次より崎山まで部落割当のことを付記して置く。
一、十二月二十四日は御解御願とて子孫揃ってノロ殿内に集まり一年中の立ち御願の首尾を神前に述べること。
一、八月十五日は毎年望月祭(御重並びに弁当を持参して月望みをなせり。
一、七月陰暦、後ろ亥の日は大弓の祭。ノロクモイ勤務
一、八月十日は怪火の祭。ノロクモイ勤務
右七、八月の其の日はノロクモイ年中行事の最大なる勤めなれば、正装して馬に乗り、下司は馬の手縄
を引張って五ケ部落、神アシアゲを廻ります。
御供の神人も氏神以下崎守も同道します。昔は壮観でしたが、現在は略式で馬上に乗りません(馬の鞍は現存し
ている)。
一、その他三月内祭(ウチマチ)、六月内祭(ウチマチ)、六月廿五日稲束の御祭(稲穂祭。麦の穂祭、五月御祭、二月御祭)
大弓八月尾十日を合わせて七々折目と云う。
今では五つの神ハサギは廻らないが、かつては各神ハサギを廻っている。諸喜田ウタキのイベまでいく。イベが川の中にあるのでハーウガンの声が聞かれる。ハーウガンは旧5月4日で門中の行事である。
(中城ノロの五月ウマチーの、かつての詳細報告は明日の調査後に)
▲崎山ノロ殿内の祠 ▲仲尾次(中城神ハサギ) ▲与那嶺の神ハサギ
▲諸喜田ウタキ ▲ウタキのイベの香炉 ▲志慶真と諸喜田の神ハサギ
▲諸喜田・志慶真神ハサギ広場で ▲兼次神ハサギ ▲城間系統日記の表紙
2011年6月14日(火)
「大宜味村のムラ・シマ」が講義のテーマ。17の字(ムラ・シマ)の概要を述べ、特に上城(根謝銘グスク)と関わる田嘉里と謝名城について。そのことについては、「山原のムラ・シマ講座」でまとめたことがあるので、スムーズに話すことができた。そのテーマは特にグスクと集落との関係。グスクにおける祭祀は、ムラとグスクの歴史を頑固に引き継いでいることを明確にしてきた。
「今帰仁グスクを抱えたムラ」、あるいは今帰仁グスク周辺のムラ、さらには「山原の御嶽と集落」や「今帰仁の地名」などでも触れてきた。今日の講義は、それらの確認でもあった。帰り際、学生から「先生、今日は何かあったのですか?パンチのきいた話でした」(そうだった!?ハハハ)
2011年6月11日(土)
「山原のムラ・シマ講座」で本部町瀬底島へ。瀬底島は石嘉波村と瀬底村とからなり、明治36年に統合され瀬底となるが、二つの村の痕跡が今でも明確に残っている。それと石嘉波村は1736年に瀬底島に移動してきている。瀬底村側には古い集落の形態が残っている。それを一つひとつ解き明かしていくことが面白い。
二つの村の歴史、集落の成り立ち、移動村、古島タイプの集落形態、数多くの拝所、石嘉波村側の祭祀、ウタキ、根所、神アサギ。瀬底側の土帝君、屋敷内にある神アサギ、根所の火神、獅子、アサギミャーの村踊りの舞台、旧家のウフジュク(大城家)、綱引き、棒術、ノロドゥンチ、ウチグスク、按司墓、シークタナカ(瀬底港)、『海東諸国紀』に登場する「世々九」(シーク)、地頭代をだしている三つの家(上間・仲田・内間)、それと大底(フジュク:大城家)、遠見台(ウフンニ)、ティランニーでの祭祀など話題が事欠かない島である。
土帝君はタマキが、棒術や村踊りや綱引きは宮田氏が体験をもって説明していただきました。自分の先祖に瀬底村の脇地頭を勤めた人物がいたことを確かめることができた方もいました。
話題の尽きない島、助っ人がいて助かりました。感謝!
▲真夏の天気で暑いが、フィールドがいいな~。ならば瀬底島へ!
▲「土帝君」はタマキが説明! ▲ウチマンモーでは宮田氏が棒・村踊りなどの説明!
2011年6月9日(木)
沖縄は梅雨明け宣言!梅雨が明けると、調査に拍車がかかる。明日は運営委員会、明後日は「ムラ・シマ講座」で本部町瀬底島へ。さらに大学の講義と続く。また、後期の予定もはいてくる。講義で作ったレジュメ(運天港の歴史文化)を運天の歴史のコーナーにつけ加えてみた。
2011年6月8日(水)
「山原のムラ・シマ講座」の下調べで本部町瀬底島へ。瀬底公民舘に立ち寄り、大城区長より豊年祭や綱引きや拝所について伺う。また大城(ウフジュク)で「土曜日お邪魔します」と家主にお願い。屋敷内にある神アサギ、その屋根裏に獅子が納められていることを教えてもらう。急ぎ足で確認したのは、以下の通りである。公民館で豊年祭のアルバムを拝見。ムラ・シマ講座に参加されている勇壮な姿のM氏を拝見。シメシメ、講座では棒術の実演でもしてもらいましょうかね。
【石嘉波村側】
・石嘉波村の神アサギ(タモトギあり。屋根裏に木の梯子あり)
・旧家の跡(金城門中・ウチバラドゥンチ:上間家、ペークルンチ:金城家)
・ウタキ(タキサン:石嘉波神社)
・遥拝所(故地への)
・石嘉波の根所(火神)
・石嘉波ガー
【瀬底村側】
・公民館
・瀬底の土帝君
・瀬底ウェーキ屋敷跡
・ウチマンモー
・ワカサマチウガン(若狭松御願)
・大城(ウフジュク)
・神アサギ
・根火神
・ノロ殿内
・ウチグスク
・按司墓
・ケーガー(拝井泉)
・石嘉波川
・ウフニヤ(遠見台跡地か)
・ティランニー(洞窟)
アンチ御嶽、前の御嶽(南の御嶽)、西の御嶽(宮島御嶽)
水納島のメンナ御嶽、水納島のウルン、ナガレミャー、瀬底島の七御嶽の確認、ハンゼーク跡)
それらの場所を通しながら瀬底島の成り立ち(二つの村)や歴史を見ていくことのできる島である。瀬底島の旧家の位牌に「前健堅親雲上」と書かれた位牌がある。それは本部間切の地頭代を勤めた人物を出した家柄である。本部間切の地頭代になると「健堅親雲上」の名を賜る。
▲石嘉波村のウタキ(石嘉波神社:タキサン) ▲ウチグスクの按司墓からみたシークタナカ(海峡)
2011年6月7日(火)
今年度2回目の「山原のムラ・シマ講座」は本部町瀬底島です(詳細は別で)。
▲上空からみた瀬底島の全景(『瀬底誌』より)
▲瀬底島から石嘉波村の故地をのぞむ
▲瀬底島の石嘉波村の神アサギ ▲神アサギ内のタモトキ(上に木の梯子あり)
運天港と那覇港を通して歴史・文化の話をすることに。台風の後片づけなどで、講座の準備ができず。急きょ思いついたテーマ。タイ国(バンコク)もそうであるが、かつての那覇港附近から久茂川沿いが、港町としてどう発展していったのか。発展しなかった運天港付近。どんな話になるやら。
2011年6月4日(土)
資料を読み取っていく時、その時代の生活(旧暦のサイクル)や人の動きや交通やその地を念頭に入れてみていく必要がある。それをバックに置かないと、資料の解釈は斬新かもしれないが、その時代の様子を前提に置かないと、実態と開きのある解釈となりかねない。
テレビ取材で食について述べた。やはり気になる所があったので、明治10年代の様子を記した記事(『沖縄風俗図会』(明治29年発行)を目にしたので「飲食」部分を紹介することに。
【飲食】
上下一般日常蒸芋を用い、王家の如きも一日一度は亦蒸芋を用いる。其の他は二度、三度の食事に皆蕃薯お用い、一ヶ月間
数度米飯に豚汁を用いるを中等の暮し方とす。その他概して島人の好むものは豆腐なれども、此方の豆腐よりは質堅く、あたか
も豆腐からを固めたるが如し。
老幼とかく一般に豚肉を嗜み就中老豚の肉を饌備中の最とせり。而るに明治13年鍋島県令の赴任するや、其の衛生上妨害
あるを以て那覇市街に豚を養うことを禁止したり。
首里那覇の市上毎朝豚を屠ること各百余頭、牛は一、二頭、豚膏(油)を以て野菜類をいりて以て、朝夕の饌供に充つ。食事は
豚羊の類を参用するの外、魚類菜蔬の調理を初め別に変わりたることもなく、味噌汁もあり、二の膳もあり大平(平たい大きな
椀)もあるなり。
国頭地方の僻邑に至りては味噌醤油を製せず、海水を井水に加え魚介類蔬菜を煮て食す。久米島は毎年二回家々海水を
蓄え時々これを煮て食塩を製せり。
2011年6月3日(金)
食べ物についてのテレビ取材がありました。食べ物やウタのことは全く無関心の分野。以下のようなことを話題にしたような! 因みに私の今日の昼食は、近くの喫茶店でのカレーでした(何の関係もありません)。
【沖縄の地方の食事】
戦前、あるいはそれ以前の山原の日常の食事はイモとシル(お汁)の二品が主でした。飯と汁は富農家(エーキンチュ)の人達の食事でした。一般の人々は折目(ウイミー)や祝いの時に御飯が食べていました。お汁の中身は青葉(オーパ)の野菜。塩葉(スーパ:海藻)などでした。山野の青葉(オーパ)はヨモギ・ノビル・ノゲシ・タビオカ・セリ・ニガナなどがあります。塩葉はアオサ・モヅク・ホンダワラ・ノリなどです。葉菜類にはニラ・ハルダマ・クワンソウ・フダンソウ・チシャなどがあります。
朝飯のことをアシーと言います。ところが昼飯のこともアシーという地域があります。アサバンに対してユウバンという言葉もあり、それは一日に二食であったことを物語っているようです。昼飯のことをピンマシー(ムン)ともいいます。早朝の食事をヒティミティムン。
国頭村の辺戸ではウヮーバイムンという言葉があり、余計な物、つまり今のおやつ(間食)のことでしょう。日本語に「あさげ」(朝飯)、「ゆうげ」(夕飯)がありますが、それも二食であったことを伺わせます。
お米のことをウバイといいますが、今では死語になっています。赤飯のことをコワメシ(強飯)、カシチィともいいます。米のことをメーといい、それはお米からきた名称です。お粥のことをウケメー。ジューシーは雑炊のことです。
五穀(グクク)は大事な食料植物です。五穀は①米(イネ・クミ)・②麦(ムギ:ムジ)、③粟(アワ)味の淡いからきたか。④黍はマージン(真黍)、トーヂミ(唐黍)もある。⑤豆(マミ)などです。祭祀で五穀豊穣の祈願は作物が豊作であることを願ってのウガンです。
甘藷(ウム)は1605年に野国総管によって中国から導入されます。甘藷に関する祭祀は旧暦11月に行われるウンネーがあります。
根菜類に大根・ニンジン・ゴボウ。果菜類にトウガ・カボチャ・キュリ・ユウガオ・ニガウリ。
豆類に小豆・オオマメ・ラッカセイなどがあります。調味料に塩・味噌・ブタ油(金持ちが用いたようです)。普通のダシ取りはカニやスクやスルル。小魚など。(日常は醤油や鰹節は使っていなかったといいます)
お祝いの時にお重を持って集まります。お重には餅とシメモノ(染物)、味噌や醤油などで煮しめたものが詰められます。シメモノはカティムンともいいます。豚肉・魚肉などの肉類。豆腐・モーイ豆腐・昆布・山薯(ヤマイモ)・冬瓜・カボチャ・テンプラなど。カマボコやカステラは山原では、めったに使用しなかったといいます。
和物(アエモノ)のことをスネーといいますが、酢で和えることです。ニガナ・大根・チシャ・アオサなどの和物があります。お重には酢の物とタコやイカなどが入ります。調味料の主な物は酢。焼酎に水を加え変質させると酢となるようです。酢の代わりにシークヮーサーを使うこともありました。
沖縄で豚肉を日常的に食している印象を受けますが、地方では旧正月が近づくと、あちこちでブタの鳴き声が聞こえてきます。ブタを潰すのは正月用なのです。それを豚脂をとるのが大きな目的でした。豚肉は甕に塩づけ(シーチカー)にして保存します。3月位まで食べます。ですから、豚肉を食べるのは正月から三か月位ということになります。
その頃の寿命は50歳そこそこでした。そのような食生活だから長寿になったわけではありません。やはり戦後の食生活の豊かさ、そして生活が安定したゆとりが長寿を産んでいるのです。もちろん、医療のお陰もあります。
現在は食生活や物のあまりの豊かさ故の病が・・・。食や長寿を語る資格がなのです。悪しからず!
2011年6月2日(木)
運天まで足を運ぶ。運天のコバテイシ(クヮディサー)の確認のために。50年前の絵ハガキがあり、その周辺がどう変わっているのか。そして「運天の歴史」を整理するために。コバテイシ附近の様子を資料から拾ってみる。
『朝鮮・琉球航海記』(バイジル・ホール:1816年)に「この村(運天のこと)は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。・・・・村の正面には海岸と並行して、三〇フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった」とある。
また『琉球と為朝」(菊池幽芳著)に「この榕樹の外に内地に見馴れぬ枝振の、四、五本の熱帯樹古巴梯斯(コバテイシ)が適宜の間隔に置いて港を守る番兵のように立って居る」(150頁)と記してある。
咸豊7年(1857)丁丑「御首尾扣帳」(今帰仁間切番所所蔵:現在なし)に、
三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日親泊馬場に
馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次持参、見物仕申候」
とあり、今帰仁間切番所(役場)が今あるコバテイシの道路の反対側、福木のある場所に番所があった時代、そこで三月三日と五月四日に馬揃いをし、御重(弁当)やお酒を持参して見物している。
▲運天の字誌のグラビアの一部 ▲昭和30年代の運天のコバテイシ(絵葉書)
▲現在の運天のコバテイシ ▲昭和30年代の運天のコバテイシ(絵葉書)
【諸喜田武吉氏】(参加者の記録)
「大正初期に役場は運天から仲宗根に移され(大正5年)に移され、仲宗根の大井川町から運天まで自動車の通れるような道路が出来、その開通式と源為朝公上陸記念碑も建立されたので、その除幕式を兼ね盛大にするな祝賀式典が挙行されました。当日の祝賀会において源為朝公を偲ぶ歌を記して、
一、鎮西八郎朝公、東南の勇士止み難く大海原を船出して着くし所は運天港
二、運天森の松風と高く聳ゆる石踏は、為朝公上陸の跡をば、永久に語るらん
三、英雄逝て七百年、うるま島の浦波は君が功を讃えつつ調べも高く歌うなり
斯して式典は恙なく済み、余興としてハーリー競技に始まり、夜は古典舞踊や為朝公上陸記念祝賀会にふさわしい余興がくりひろげられ、有意義な催しであった。
2011年6月1日(水)
奄美大島の名瀬小宿の小学生(67名)がやってきた。小宿は名越左源太の流島された所である。名越が周辺に与えた影響は大きい。その地にある小学校である。地元の小学生達に奄美の記録や絵を数多くのこした人物を紹介する。『南島雑話』を手にしてくれたらありがたいのだが。
ここに「今帰仁アオリヤエ」という神人(三十三君の一人)の遺品があります。ノロさんの勾玉です。それは1609年以前に首里王府から賜わった品々です。奄美の名瀬博物館にも展示してありますので見に行ってください。・・・
▲今帰仁グスクの模型の前で ▲今帰仁アオリヤエの遺品の前で!
【今帰仁村湧川の新里屋の位牌と系図】
新里屋には系図があり、その系図に登場する人物の位牌や図像や仏像が置かれています。位牌をみると系図にある人物の位牌としています(系図にある人物の一部)。新里屋の系図はどのような系譜をもってまとめたのか、編集者のあるいは参拝者の、その一門のもっている伝承とどう結び付けられているのか。
大宜味間切のある一門の「今帰仁間切湧川村古元祖ミ造用取立割府入札寄帳」(明治34年)、あるいは「湧川新里元祖拝ミ」とあり、その一門は新里屋を古元祖、あるいは新里元祖として拝みをしている。新里屋のみでなく湧川内のカー、塩屋の製塩所(スガーウタキ)、ヤガンナ島ののお墓、ワルミのテラ(塩づくり伝承)も拝んでいる。
①の位牌
新里新光
新里新松 カマダ
新里親雲上
次良新里親雲上
武樽新里
新里親雲上
②の位牌
新里筑登之
新里親雲上
新里筑登上
新里里之子
新里親雲上
③の位牌
新里大主
④の位牌
今帰仁之子思次郎
今帰仁按司樽金
北山王子松金
北山王亀寿
⑤の位牌
湧川奴留之元祖
⑥の位牌
思次良湧川按司
長男 樽金湧川按司
北山世主
帰 真 霊 位
樽金湧川按司 養子
⑦の位牌
孫太子大君
開山長老
⑧の位牌
北山大按司
▲今帰仁村湧川の新里屋 ▲新里屋の前の祠
▲新里屋の前の祠の図像 ▲新里屋の前の祠の火の神や図像
▲新里屋の内部の位牌と香炉と図像
▲新里屋の右側の火神 ①の位牌 ②の位牌
③の位牌 ④今帰仁之子思次郎の位牌 ⑤湧川奴留之元祖位牌
⑥の位牌 ⑦の位牌
⑦孫太子大君(開山長老) ⑧北山大按司の位牌と家族像