2009年10月の記録
                                    沖縄の地域調査記録(もくじへ)  


20091025日(日)
  
 26日~30日まで奄美大島、喜界島、沖永良部島の調査。調査する前から皮算用をしているが、現場で物を見ながら考えることに。八重山調査とテーマは同じくするが、奄美地方は八重山地方より沖縄本島(北山)との共通性が多いのではないか。それは八重山に行って気づかされることが多かった。奄美もそうなるか。

 これまで奄美地方の島々について、なんどか報告をしてきたが、数日の調査なので大分補足できるのではないかと目論んでいる。さて、どうなることやら。その前に飛行機は飛ぶだろうか?

  (これから奄美情報を頭にいれることに。奄美大島、喜界島、沖永良部島。頭の中が相当混乱している。今回は、
   残念ながら徳之島ははいていません)

 
1852年(嘉永5)に琉球首里のかま、今帰仁間切のとく金城、東風平間切のうしの三人が許可を得ず沖永良部島に渡り、猟船を盗み、鳥島で船と船と大麦を交換し、漂着した喜界島船で大島へ渡ったところを捕らえられ、・・・・


20091024日(土)

 「今帰仁村の文化祭」、台風の余波で時々雨。他の会場の様子を見てきました。小学生から大人の作品がずらり。表情豊かな作品の数々。朝早くから孫の作品を見にと。

 今帰仁グスクへの道筋の桜の花がチラホラ咲いていました。

 

 


20091023日(金)

 台風20号の影響で時々大雨。どこに向かおうかと停滞気味ようだ。消滅するのが最良だが。来週の奄美行きも微妙!

【毛姓先祖由来記】 4144

 申し候好風水と讃嘆致され門之明様
 家殿筋之柱木等も成程吟味
 之上永〃目出度これ有り相調置
 候由申し伝えこれあり候 誠に風水よくに而御座 
 候 先祖以来代々相替らず続き来たり候

 家屋敷は希にこれありに而候上第一
 一門中繁栄これあり 殊に右屋敷に住
 居せられ嫡々之正統血筋相違無く右二
 代豊見城親方より当豊見嶺親雲上と
 十代相続繁栄ニ而目出度御仕合

 中城本墓之儀 漸々岩崩壊
 候ニ付き而康煕六卯年中城間切
 之代山城之下而百間かく墓地之訟
 相違新御墓 一門中ニ而築き
 先祖之御骨奉安置毎年

 清明之日何れも参詣三味
 尊敬す
  附 此御墓ニは護佐丸より七
    代豊見城親方盛常御
    妻迄安置仕り候尤厨子


     44              43           42            41


20091022日(木)

 24日(土)25日(日)は「今帰仁村の文化祭」です。絵画・書・写真・木工・陶芸あり。三線の竿(8つの型)の展示もあります。山原船や進貢船の出展も。別の会場には小学生や高校生、そして一般の方々の作品の展示がされています。今年は今帰仁村文化協会の10周年にあたり、舞台は10周年のお祝いになります。村民の方々が、文化の継承を担っているのだと感じとって頂けたらありがたいです。
 
 展示部門は歴史文化センターが10数年担ってきました。村民の作品の展示は、なかなか面白いですよ。来年度はバトンタッチしましょう。若者たちに。

 今年は早ばやと展示ができました。会場のパネルの組み立て作業、飲み物やゼンザイの差し入れがお尻をたたいたか。

 

  


20091019日(月)

 20日~22日まで「館内くん蒸」のため閉館となります。このページもくん蒸しますので休みます。職員は文化祭の会場の展示作業となります。

 「うらおそい歴史ガイド友の会」のメンバーが今帰仁グスクと歴史文化センターへ。4時間ばかりのガイド。明日は墓の調査あり。


20091017日(土)

 午後からの「北山の歴史と文化」の研修会(沖縄の教育を語る会)のガイド役。出勤時大雨のため、フィールドは困難かと。それで館内でのプロゼクターを準備。外を見たら青空が見え始めた。予定通り外回りができそう。表に出て深呼吸をしてみると、雨後の空気は美味しい。さて、午後から話すことの頭の整理でも。研修会(19日)・墓調査(20日)・くん蒸(2022日)・文化祭(2425日)・奄美調査(2630日)と続く。その他に目を通さないといけないのが四軒。もりたくさんだな。まずは、今日のから片づけましょう。

  ・運天森、古宇利島のこと
  ・運天港 
  ・仲原馬場(今帰仁小学校)
  ・今帰仁城跡・歴史文化センター
  ・乙羽岳
 
           青空が・・・              大雨の後の今帰仁グスク

【毛姓先祖由来記】 3740

 一 護佐丸三男は十一、二歳に及び候
   国吉玉城へ列登り此童子は
   先年勝連之阿麻和利の纔言に
   亡び中城按司護佐丸之三男父
   臨終之時いまだ幼稚ニ乳母之

   懐に抱き来り候付吾が育ていたし候段
   細に奏聞奉り候時に
  尚円尊君の御代ニ御感浅からず禁中
   御抱育て在り天然るに登山文書
   訓て十五歳之時少赤頭役奉仕此段

   兄より□□家屋敷并に豊見
   城間切拝受後に紫冠役に任じられ候
   護佐丸二代は豊見城親方盛親也
   此の嫡子富見城親方盛庸二男
   阿波根親方盛秀 小正祖 冨川親雲上

   三男澤岻親方盛里 小正祖 大山親雲上
   此れ三兄弟秀群候毛氏之家門ニ
   是れ誠に乳母并に査氏之元祖国吉
   親雲上これ有て救保する所ニ候 之国吉
   位牌所毎年正七月焼香仕

 
     40           39             38             37


20091015日(木)

 企画展の開催です。準備完了。とは言っても、細部の手直しはこれから・・・。以下のコーナーで展示してあります。ナマの資料を見る機会はないかも。ぜひご来館ください。

  ・新城徳祐氏の人となり
  ・今帰仁グスク
  ・今帰仁グスク周辺
  ・新城氏収集資料
  ・山原の祭祀
  ・沖縄のグスク
  ・氏の手書き原稿
  ・写真資料
  ・スクラップブック・写真資料
  ・書籍類
  ・調査ノート
  ・録音テープ・8ミリテープ
  ・各地の祭祀
  ・沖縄の伝統芸能
  ・組踊・プログラム・パンフレットなど
  ・三味線調査・工工四など
  ・新城家の文書類
  ・拓本

 

 


20091014日(水)

 沖縄県博物館協議会の研修会が八重山で開催。できるだけ、後ろで見守ることに。研修会の前後に石垣島内、小浜島、そして竹富島の御嶽(オン)を踏査する。八重山の御嶽と集落との関わりを見るためである。沖縄本島のウタキと集落との関わりが希薄になっているが、先島では今でも息づいている(詳細については別で報告)。それと祭祀との関係も。祭祀は人々の休息日と捉えている。竹富島の「種子取」(沖縄本島の豊年祭:村踊り)をみると、税を納めるのに過酷な状況にあり、その為に島民は祭祀を行い休息日を作り出している。今では伝統芸能として扱われているが。

 祭祀は首里王府の末端まで統治する手段だと位置づけている。山原では豊年祭の旗頭に「進神遊」や「海神遊」とある。年中祭祀は、「神遊び」と言われるように、「遊」は、税を納める人々の休息日の意味あいが強い。

  フルスト原遺跡の石塁を見る。石積み囲いは屋敷跡なのだろうか。竹富島の現在の屋敷囲いと類似している(石積みの高さは異なるが)。竹富島の10余の御嶽を廻る。御嶽のほとんどが集落と関わる。特に現集落の周辺の御嶽は小規模の集落の要になっているようだ。竹富島の周辺の集落が、どの時期に島の中央部に移動してきたのか。その頃から石積みの屋敷囲いにした可能性が高い。周辺の御嶽付近に石積囲いがほとんど見られない。

 竹富島の島の中央部への集落移動は、ハイジ浜から蔵元を石垣に移動したことや1500年代の園比屋武御嶽石門をつくった石工の西塘と関係がありそうである。また、西塘のように偉人を御嶽(ニシトゥ御嶽)にした例である。波照間島の長田大主の生誕地が長田御嶽にしたのと同様か。

 
    フルスト原遺跡の石塁(屋敷囲い?)           フルスト原遺跡の石積

 
    竹富島の現在の石積み囲いの屋敷          竹富島の屋敷の石積み

 
 今帰仁村今泊の旗頭(進神遊)     古宇利島の旗頭(海神遊)


20091010日(土)

  11日から13日まで出張なり(八重山)。八重山の祭祀をみる! オン(ウタキ)と集落との関係も。祭祀は首里王府が末端まで統治する手段として、巧みに取りくんだものと仮説と持っているが、八重山でも、そう捉えることができるかどうか。仮説のどんでん返しがあれば、なお面白いのだが。

 15日から始まる企画展の、最終仕上げは14日の一日で(大丈夫かいな?)

 午前中、「ムラ・シマ講座」(第5回)は今帰仁村諸志。もりたくさんの中身でした。いくつも発見あり。ウタキの中の植物については松次先生にお願い。ウタキの植相の興味ある話がいっぱい。仲尾次先生からムクロジ(ムックジ)を石鹸に代わりに使った話も。ウプガーと焚字炉の説明は菜美路が。三時から講演があったので手抜きをしてノドと体力を温存。

 諸喜田村のウタキ(イベ)
 諸喜田のウタキの植物群落
 ウタキの内部の古墓
 フプガー
 志慶真村のウタキ(イベ)
 志慶真殿内(根神ヤーか)
 二つの神ハサギ
 焚字炉
 中城ヌルドゥンチ(勾玉と水晶(ガラス)玉
 ナハガーラの開鑿場所

 
 発見や感動の多い講座でしたとの感想        中城ノロドゥンチの勾玉と水晶玉

 
  植物群落でムクロジを見つけました!      ウフガーでハーウガミや利用など!


20091009日(金)

 今帰仁グスクの麓の一枚の田、二期作目の稲の穂に花が咲いています(旧暦821日)。

 


20091008日(木)

 「ムラ・シマ講座」の予備調査で諸志をゆく。二つの村の合併(明治36年)であることは、今では常識となっている。二つの村が合併しても「祭祀は一体化しにくい」との法則性を明解にしてきたのは、この諸志と今泊と玉城(玉城・寒水・岸本)である。「移動した村は新地でウタキをつくる」(集落移動ではなく村移動の場合)との法則性は、移動した村(天底・我部・振慶名・呉我・嘉津宇など)から見つけ出したものである。志慶真村は「移動村」であるが、「移動した場所にウタキをつくった」との確証がなかった。

 諸志の豊年祭の時、志慶真村で神人を出す家の方にウタキについて尋ねる機会があった。「志慶真のウタキはクボウヌウタキ」とのこと。村が移動する前の志慶真村のウタキということになる。移動した場所にウタキをつくる習俗があること。この志慶真村はどうか。移動地でのウタキのイベを確認することができた。そのイベが確認できると、それを踏まえて志慶真村の移動地での集落の展開が見えてくる。「移動地でウタキをつくる」という法則性は妥当している(詳細については『諸志誌』で報告する)

合併した村諸 志(今帰仁村)

 ・諸志は諸喜田村と志慶真村が明治36年に合併し諸志となる。
 ・諸志のことをスクジャというが、それは諸喜田の呼び方である。
 ・志慶真はシジマという。

 ・明治13年の諸喜田村の世帯数94戸、人口438人(男438人、女201人)(明治36年 97戸)
 ・明治13年の志慶真村の世帯数は28戸、人口148人(男82人、女66人)(明治36年 37戸)

 ・諸喜田村のウタキのイベに「奉寄進 嶋袋仁屋か」の刻まれた香炉がある。
 ・志慶真村は今帰仁グスクの後方(南側)から二転、三転して現在地に落ち着く。
 ・ウタキの中をスクミチ(宿道)が通る。(運天番所と渡久地番所をつなぐ道筋)

 ・志慶真村は志慶真乙樽をだす家がある(チッパヤー)。
 ・その近くに志慶真殿内がある。
 ・移動してきた志慶真村は移転先でウタキをつくってある。
 ・志慶真村の集落ははそのウタキを背に発達している。
 ・志慶真村のウタキのイベに香炉が三基あり、少なくとも志慶真村は三つの集団からなるか。

 ・諸喜田村には中城ノロドゥンチがあり、勾玉や水晶(ガラス)玉やノロさんが乗る馬の鞍などがある。
 ・中城ノロ家には、戦前9枚の辞令書があった。その内二枚はノロの辞令書である。
 ・中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の五ヵ村の祭祀を管轄する。
 ・志慶真村の祭祀は今帰仁のろが管轄する。今は中城ノロが両字の祭祀を行っている。
 ・神ハサギが並んであるが、別々のところにあった。一時期一つにしたことがある。
 ・神ハサギが二つあるのは二つの村が合併した証拠でもある。
 ・ウタキの内部に約10ばかりの古墓がある(素性は不明。各地から拝みにくる)。
 ・ウタキは植物群落として国の指定を受けている(琉球石灰岩の上に発達した自然林)
 ・両村で五年回りの豊年祭が行われる。
 ・「やぐざい」という踊りと乗り物(ヤマー)がある。
 ・焚字炉(フンジロウ)がある。イシドウロウともいう。石灯籠に似ていることからトゥールともいう。
 ・昭和18年にナハガーラの開削が行われ整備される。土地整理組合の貴重な資料がある。

  
手前の杜は諸喜田村のウタキ(中にイベあり)         諸喜田村のウタキのイベと香炉

  
  志慶真殿内の杜が志慶真村のウタキ   志慶真殿内の後方にあるウタキのイベ


20091007日(水)

 「古琉球のムラの成り立ち」の話(名護博物館)。台風がそれたので開催。大急ぎでレジュメの印刷(30頁)。どうなることやら。頭から追い出すまでは頭がパンパン状態なり。


20091006日(火)

 台風が接近中。原稿校正、コラム書き、画像、参考文献、編集後記まで。はかどっています。もう一踏ん張り。よそ見せずにいきましょう。展示もちょいちょい。字の祭祀調査にはいるので、戦前の宮城ノートからの確認で玉城ノロ管轄の大折目の確認から。(玉城ノロ管轄に岸本ノロも参加しているが、どういうことだろう? 岸本ノロは岸本村と寒水村の祭祀を管轄しているはずだが)

【今帰仁村中央部の大折目】
(玉城ノロ管轄)(宮城真治ノート)

 ・七月大折目は海神祭ともいう。七月最後の亥の日に行うのが普通。
 ・午後一時頃 玉城のろ殿内に集合。
 ・玉城たましろのろ一人、岸本のろ一人、内神一人、根神七人(うぺー引、しー引、
      くんじゃん引、いぴゃ引、あぢむ引、あわ引、とーぢん引)
     うぺふ一人、しー一人(うぺーふ引、うぺえふは玉城ブイ屋の某、
     しー引は今、田舎に行っている)
 ・平敷根神三人(うぺぇ引、しー引、あぢ引)、うぺぇふ二人。
     (ウペー引の居神は、平敷¥スクジャヌ屋与那嶺の女、越地大工屋大城妻。
      シー引は平敷東リン門石嶺の女、平敷イリ門の仲里正助妻、アジ引、謝名トーヤのアンマ?
 ・謝名根神人、マスハンジャナシー一人(謝名大主のヲナイ)、うぺーふ二人(ウペーフ屋、チンナミ屋?)
      モーヌカ大主(マスハンジャナシヰき神)
 ・仲宗根根神人、うぺーふ二人。
      (大正十三年には、女の神職、総数十六人であった)
 ・服装、玉城のろ青装、赤八巻
 ・マスハンジャナシ青地に赤の花形、同八巻
 ・内神赤の打掛衣装。赤八巻
 ・岸本のろ及び根神白衣、白八巻
    平敷に立つ時に、馬上より行く。馬四匹。馬に乗る神職四人(ノロ二人、内神一人、マスハンジャナシ一人。
     大正十三年ハ玉城ノロ一人)

 一、玉城にての御儀式、

      (工事中)


 
 岸本の神アサギ、右手に岸本ノロドゥンチ火神 玉城の神アサギ、右手奥に玉城ノロドゥンチ火神
 
  
【毛姓先祖由来記】 3336

 べしと時利を移さず出馬にして
 玉城に攻め寄り戦を催し候 都江は
 諸方の軍士が駆け集り我打ち取らんと
 勇を振って切り通り候へば阿麻和利
 大きな敗軍して逃げ走り勝連の

 城に引き籠りたる由候
一右の通り阿麻和利は破軍致し候得共
 勇猛にして武芸にも達者殊に
 勝連之城四方険岨にして無双の要
 害なれば討手の大将鬼大城

 撰び致されし大軍を率いて勝連に攻め寄り
 火花をちらし戦い候間 阿麻和利ハ
 遂に打ち負け首を捕られ候 大城は
 勝ち軍の威を振い帰陣し此の由
 奏聞す 主上御悦斜ならず

 因って護佐丸之母心世上明白に
 相知り申し候 此の忠賞に此大城は紫冠
 給わり地頭所拝授 越来親方に
 成り給ふ 夏氏元祖成り委(くわしく)は彼正統
 兼城親方系図に此れあり候

  
      36            35           34           33


20091005日(月)

 大きな業務が重なって四苦八苦。まだ残っているが、7日の「古琉球のムラ・シマの成り立ち」のレジュメづくり。台風が接近してくるので、準備をしようかどうか。整理ができて台風でできないとなると、その後が大変。それを頭から追い出さないと次のが糞詰まってしまう。古琉球のムラ・シマの成り立ちを、数ヶ所モデルにして報告することに。何を史料として使うか、またどこを事例とするかはこれから。大筋見えてきたか。明日にはレジュメを・・・。

【毛姓先祖由来記】2932

 勝連按司阿麻和利は思いの儘に護
 佐丸を讒亡し今は恐るべき人なり
 とて密かに軍馬を整え中山を攻める
 企て候夫人の家屋に有り隗
 にして武勇に長し候鬼大城

 と云う人之有り其の人彼の陰謀を知
 密かに夫人に告げ闇夜の深
 更に夫人を負い城を忍び出て
 都をさして逃げ去り候処阿麻
 和利之追手和仁山渡が間近に寄り

 過り大城天に仰ぎ嗚呼神
 明此の夫人扶けた給へと肝臚を
 砕き祈り御唄を唱い候間 俄かに大
 雨頻り降り灯火押し消え候其の
 近くに首里城美福門に至り

 御門を敲き此の由奏聞したれば夜
 中女性の身として男に負われ
 来たる事女の節義に叶わずとて
 御門を開かず大城は御嶽に向ひ
 祈願して御唄を唱い候えば君真


     32            31            30            29


20091004日(日)

 今帰仁村諸志の「豊年祭」の調査。明治36年にノロ管轄の異なる二つの村が合併し、それが祭祀や豊年祭にどう影響を及ぼしているのか。合併以前の痕跡を今にどう残しているのか。そのことの確認でもある。諸喜田村は中城ノロ、志慶真村は今帰仁ノロの管轄である。二つの村の合併やノロ管轄が異なることもシマの方々は認識している。祭祀は別々のものであるが、豊年祭などムラ全体のことは協力しあって行うとの結束が見られる。矛盾を抱えながら行っている場面が多々みられる。

 豊年祭の舞台の前に両神ハサギ内でのウガン(最初は諸喜田神ハサギ、次に志慶真)があり、ウガンをしながら神ハサギの前で奉納踊りが二曲(かぎやで風と祝い節)行われた。神ハサギ内でのウガンに長者の大主と区長が行う(以前は中城ノロが行っていた)。(諸志の豊年祭の報告は字誌へ)

 
      志慶真神ハサギでのウガン            諸田神ハサギでのウガン

 
   両ハサギの前で「かぎやで風」の舞い        両ハサギの前で「祝い節」の舞


20091003日(土)

 古琉球の辞令書に「・・・まきり」(間切)は登場するが「・・・むら」は一例も出てこない。近世の辞令書(崇禎4年:1631)の一点に「真和志間切きま村より」とある。しかしその後の辞令書に「・・・村」とは出てこない。「あめく」「きま」かなくすく」「大ミね」へなち」くしかわ」ちやはな」「やか」「よなみね」「あた」など村名に相当するのはいくらでも出てくるが、「・・・村」と記されないのは辞令書の性格によるものであろう。

【真和志間切の儀間里之子親雲上知行安堵辞令書】(1631年)

 首里の御美事
   真和志間切きま村より
   知行高三拾石ハ
   はゑのこほりの
   一人きまの里之子親雲上に
   たまわり申候
 崇禎四年十二月廿五日


 真和志間切の儀間里之子親雲上知行安堵辞令書

 今帰仁間切の古琉球の時代の辞令書の一つであるが、「・・・むら」とは記されていないが「よなみね
」(与那嶺)「中くすく」(中城)「くしけん」(具志堅)「うらさき」(浦崎)が出てくる。それらは、いずれも近世の村名である。

 この辞令書は中城ノロドゥンチにあったもので、ノロは女性だが、目差はノロ家の男方である。男役人は一つのムラのみと関わっているのではなく、ここではなきじんまきり(今帰仁間切)内であるが、よなみね(与那嶺)、なかくすく(中城)、くしけん(具志堅)、うらさき(浦崎)の四つのムラとかかわっている。古琉球の辞令書から、ムラの成り立ちをはっきりさせることは困難だが、それは他の方法で説明することに。、

【今帰仁間切の浦崎目差知行安堵辞令書】1586年)(中城ノロ家)

 (しよりの御ミ事)
  (ミやきせんまきりの)
  よなみねのうちま人ち
  中くすくのおきてのちの内より
 一 ひようすくたに二まし
   やせたはる又かなわらはるともニ
   又もとはくしけんのとのはらちのうちより
 一 十五ぬきちはたけ三おほそ
   えつかたはら又しけやまはる又大たはる共ニ
   このふんのおやミかない
   又のろさとぬしおきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
   一人うらさきのめさしにたまわり申(候)
  しよりうらさきめさしの方へまいる
  万暦十四年五月九日


20091002日(金)

 今月の「ムラ・シマ講座」(5回)は「今帰仁村諸志」に決定。二つの村の合併、そして中城ノロ家のある村です。また諸志御願(ウタキ)の植物群落は国指定の文化財となっています。諸志(諸喜田村)ウタキの古墓やウタキのイベまでいきます。杜内にどんな植物が繁茂しているでしょうか。神アサギが二つあり、二つの村の合併の痕跡を残しています。志慶真乙樽の殿内もあります。いろいろありますね。中城ヌルドゥンチ、勾玉やノロさんが乗った馬の鞍。見せてもらえるといいですが。諸志は3日豊年祭があります。調査がてら見学にいかないといけません。いつもお世話になっているムラですから。

 午前中、湧川小学校の4年生がやってきた。昔のどうぐがテーマ。5つの道具を使って電気やガスや水道がなかった時代の体験。それと旧暦や明日行う豊年祭のはなし。最後は水汲みでした。水汲みは上手にできました。

 
 館内でランブ・アイロンなどを使っての話。        一人ひとり水汲み!

 
   よいっしょ!もう少しでいっぱい              一人ひとりの報告!


20091001日(木)

 7日に「古琉球のムラ・シマの成り立ち」の講演あり。「古琉球の辞令書の分析」を導入にするか。それはなかなか手ごわいが。見通しはついていないが、ボツボツレジメづくりにはいらないといけません。それもエイエイオーで。12月まで4、5本の講演がはいている。ふんばれますかね。予告や宣伝はしない性格だが弱音かな。

 ちょっと目を離すとストップしたまま忘れてしまう。それが常である。「毛姓先祖由来記」は、やっと半分まで辿りついたか。いや60まであるので次回が半分。読めない字が多くエイエイオーで。ハハハ。ストーリが頭にはいていません。質問されても、まだ返答ができません。読みくだすのに精いっぱいのところなり。

【毛姓先祖由来記】2528
 
  返す返すも口惜しき次第にて候
  何卒此の若子を育て奉り君父の
  雙報うべしと家の内深く
  隠し養育仕る事浅からず成長
  を相待れ候

  附
  護佐丸の男子隠し置き候段世間に
  相洩れん事を恐れ女童の真似に
  して髪を角立かしたる由に候
  此故に一門中之子供男は角
  立女は皿立幼稚之時の差別

  勝連按司阿麻和利は思う儘に護
  佐丸讒亡し今は恐るべき人なし
  とて密に軍馬を整え中山攻める
  企て此有りて候 夫人の家臣に有徳
  にして武勇に長し候鬼大城

  と云う人此有其の人彼の陰謀を知り
  密かに夫人に告げ闇の夜の深
  更に夫人を負い城を忍び出て
  都をさして逃げ去り候処 阿麻
  和利の追手和仁山渡間近


     28          27             26          25

【口上覚】(諸喜田福保勤職書)


 間切役人の「口上覚」(諸喜田福保:今帰仁間切最後の地頭代)に目を通している。明治初期の間切役人と首里王府や御殿との関わりや具体的な動きが見えてくる。何か条か抜きだしてみる。別資料で見たような出来事もあり。

 

【一部抜粋条文】
 ・仝年(慶応2年:1866)九月二日ヨリ仝廿八日迄デ両惣地頭地配地係被仰付首尾能相勤置申候
 ・仝三年(慶応2年:1866)十月十六日ヨリ廿七日迄デ平敷村地頭地百姓地混雑ニ付右差分ケノ為メ田地申請之時係被
   仰付首尾能相 勤置申候
 ・明治元年(1876)四月廿五日ヨリ五月八日迄デ帰唐船両艘湖平底津口へ御汐掛之時那覇迄テ挽船宰領被仰付相
   勤置申候

 ・明治元年(1868)八月七日ヨリ仝八日迄テ炬湊潟場針図引出試ヲ以テ首尾申上候様殿内檀那様ヨリ被仰付候ニ付係被仰
    相付勤置申候
 ・明治二年年七月十八日ヨリ仝廿一日迄テ御殿御作得米小舛ニテ上納仕候様被仰付候ニ付本部羽地名護右三ヶ間切之
   例成聞合之為メ差越相勤置申候
 ・仝年(明治2年)十一月廿五日ヨリ十二月廿日迄テ御殿上国ニ付御手形入諸品御減少願ニ付首里ヘ罷登御用相勤置
   申候
 ・仝三年(明治3) 同時御殿御上国ニ付御祝儀毎御手形入諸品並其他之諸御用向弁達方係被申付砂糖払掛テ首尾
   能相勤置申候
 ・仝年(明治5)八月廿日ヨリ九月二日迄テ殿内御内室百ヶ日御焼香ニ付罷登相勤置申候
 ・仝年(明治5)九月十七日ヨリ仝廿九日迄テ阿蘭陀船壱艘国頭間切宜名真村外干瀬ニテ破船ニ付泳揚ケ候阿蘭陀五人
   並表御方御始メ運天津口ヘ引越ノ時 係被仰付首尾能相勤置申候

  (工事中)