2011年7月30日(土)
1673年の恩納・大宜味・久志間切の創設を「方切」の視点で整理してみる。すると1673年の「方切」が間切や村にとって不都合が生じ、後に「方切」が行われている。まずは史料の整理から。
1673年の「方切」(間切の創設)は、恩納間切は向弘毅(大里王子)・毛国瑞(佐渡山親方安治)、田港間切(後に大宜味)は向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)、小禄間切は向煕(金武王子朝興)・毛文祥(小禄親方盛聖)、久志間切は尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に、それぞれ領地を賜うことであった。「郡(間切)や邑(村)の田地が広い、人口が多い」ことを理由としているが、間切によっては当初の「方切」に不都合が生じ、康煕乙亥(1695年)に2回目の「方切」を行ったが、「不便」だということで1719年に元に戻している。
1719年に村をもとの間切に戻している理由(不都合)は、間切番所とそれらの村の地理的不便さ(特に平良と川田)、それとノロ管轄(古知屋村は金武間切の宜野座ノロ)、祭祀場の分断(屋嘉比・里見・親田の祭祀場は根謝銘(ウイ)グスク)がある。「方切」の対象となった「川田村」と「平良村」は名護間切の村であったこともある。「方切」で1673年に名護間切から久志間切へ、1695年に大宜味間切へ、1719年に久志間切へ戻る。屋嘉比村・(里里村・親田村)も国頭間切から1673年に大宜味間切へ、1695年に国頭間切へ、1695年に再び大宜味間切へ戻る。それらの村は「方切」で振りまわされた村だったかもしれない。「方切」や村移動などあったが、ノロ管轄の変更はなかった。
1695年の「方切」と1719年の「方切」
・古知屋村は金武間切の村であったが、1695年の「方切」で古知屋村を久志間切へ、ところが1719年に金武間切に戻した。
・川田村と平良村は久志間切に属していたが、1695年の「方切」で大宜味間切へ、ところが1719年に久志間切へ戻した。
・屋嘉比村と親田村と見里村は1695年の「方切」で国頭間切としたが、1719年に再び大宜味間切に戻した。
【国頭間切と大宜味間切などの方切】
【1回目の方切】(1673年)
・1673年「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く」(1673年条)
本国の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。…国頭郡内十一邑、羽地間切二邑、合して田港郡
と為し(後、名を大宜味に改む)、始めて向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)に賜う。後新に四邑を設
け共計十六邑なり(二邑は合して一邑と為す。此くの如し)。
【2回目の方切】(1695年)
・1695年に「方切」あり、久志間切の平良邑と川田村が大宜味間切へ。
・1695年に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の検見は御者奉行吟味職
毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)
・1713年の『琉球国由来記』
・古知屋村は久志間切(1719年に金武間切へ戻す)
・平良村と川田村は大宜味間切(1719年に久志間切へ戻す)
・親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切(1719年に大宜味間切へ戻す)
【3回目の方切】(1719年)(球陽1719年の条)
・1719年古知屋村・川田村・平良村・屋嘉比村・親田村・見里村、各々原籍の間切に復す。
原籍、古知屋は金武間切に属し、川田・平良は久志間切に属し、屋嘉比・親田・見里は大宜味に属す。康煕乙亥の年
(1695)、改めて古知屋を将て久志間切に属せしめ、屋嘉比・川田・見里は国頭間切に属せしむ。これより各村多く便利
ならず。各村呈して旧に復するを准す。
・1732年国頭郡駅を奥間邑に移置す。
国頭郡駅は、原、浜邑設け、一偏に僻置して、号令伝へ難し。人民の往還、均一なること有らず。
是れに由りて、奥間邑に移建す。
(工事中)
2011年7月29日(金)
「方切」というのは、間切境界の変更のことである。「方切とは間切と同じく村の境界を定めたるものにして人口少なくして土地広き村はその耕地の一部を他間切又は他村に配置したり」とある。ここでは間切の境界の変更(方切)について史料であるが、「方切」を視点すると、また興味深い首里王府の動きが見えてくる。
【今帰仁間切と本部間切と羽地間切の方切】
今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切は1666年である。今帰仁間切の第一回目は1666年である。その時の「方切」はこれまでの今帰仁間切を今帰仁間切と伊野は(本部)間切の二つに分割してものである。二回目は1692年頃の今帰仁間切と羽地間切との境界の変更である。三回目は1736年の羽地間切と今帰仁間切との境界線の変更である。
【1回目の方切】(1666年)(今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切)
これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切を分割して、今帰仁間切と伊野波(本部)間切
とに分割した。(絵図郷村帳や琉球国高究帳)。その時の方切(間切分割)について、『球陽』
で、以下のように記している。
「始めて本部・美里等二郡(間切)を置く」(1666年条)
今帰仁郡邑(間切・村)は、素三十余邑有り。田地甚だ広く、人民已に多し。今、其の十一邑を分ちて、伊野波郡と為し、
始めて向弘信(本部王子朝平)・毛泰永(伊野波親方盛紀)に賜う。後亦、七邑を新設し本部間切と改名す。
・「方切」(あるいは間切の分割と創設)の理由は、邑数が多く、田地が広く人民が多いということ。
それと新設した間切を本部王子と伊野波親方へ賜うことであった。
・天底村は本部間切地内にあり(絵図)(1719年今帰仁間切へ移動)
・1670年「こかおきて」(呉我掟)(池城墓碑).(呉我村は今帰仁間切の村の掟)
・1671年今帰仁間切松田の名(家譜)
・1672年今帰仁間切松田の名(家譜)
・1672年羽地?間切我部の名(家譜)(今帰仁間切?)
・1690年(康煕9)今帰仁間切松田の名(家譜)
※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の検見は御者奉行吟味職
毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)
【2回目の方切】(1690年頃)(今帰仁間切と羽地間切の間の方切)
2回目の方切を1690年頃としたのは、その時の「方切」を示した直接史料を確認できていないので、他の史料を並べてみた。すると1690年「今帰仁間切松田」と1691年「羽地郡松田村」を『家譜』に見ることができる。そのために2回目の「方切」は1690年頃とした。
・1691年羽地間切我部地頭職を拝授す(家譜)。
・1691年羽地郡(間切)松田村、本郡我部村に属す(球陽)。(方切済)
・1713年羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・松田村を今帰仁間切から羽地間切へ
(間切境界線の変更あり)
・1719年本部間切にあった天底村が今帰仁間切内へ移動(村の疲弊)。
【3回目の方切】(1736年)(今帰仁間切と羽地間切との方切)
・1735年に羽地大川の改修工事が行われた。呉我村と振慶名村は改修工事が終った羽地大川
流域への村移動である。その時の「方切」は羽地大川の改修、村移動、間切境界線の変更、
村が移動した土地に湧川村の新設(1738年)がある。そこで村移動がなされてもノロ管轄は
変動することはなかった。
・1736年呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は羽地間切から羽地間切内へ移動。その
土地は今帰仁間切へ組み入れる(間切境界線の変更あり)
・1736年村が移動した後に今帰仁間切湧川村を創設する(1738年)。
3回目の「方切」は『球陽』で、以下のように記してある。そこでの「方切」の理由は、山林が狭いことや村が密集していることをあげている。山原での元文検地は、その後に実施されている。三回目の「方切」は蔡温の山林政策、大浦(羽地)大川の改修工事、村移動、村の新設、元文検地と連動した流れである。その過程で変わらないのが祭祀のノロ管轄村である。歴史を辿るとき、変化していく、その理由を見て行くことも重要であるが、祭祀のように頑固に継承されているのも歴史を見る視点に入れるべきであろう。
「蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を各処に移す」(1736年条)
「…羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村は、…一処に集在して、農地最も狭く、動もすれば山林を焼き
以て農地に供す。今帰仁山林甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、山林外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(間
切)に属せしめ、其の邑(村)は、仍、羽地県(間切)に属せしむ。…」
湧川邑(村)の創設(1738年条)
「今帰仁郡に湧川邑を創建す」
今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、木材用に足らず。乾隆元年(1736)、検者・酋長を奏請し、羽地山林を分別して
今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。
(3回の「方切」の図が入れ)
2011年7月28日(木)
大正2年の「沖縄毎日新聞」(大正2年8月15日)に「役場移転問題」の記事がある。今帰仁村の役場が大正5年に運天から仲宗根に移転する。その記事が役場移転に火をつけたのではないかと見ている。
【役場移転問題】
本(今帰仁)村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来已に幾百星霜を閲し最西端今泊を距る二里余東端湧川より何等
交通運輸の便なきのみか僅に二、三戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓を負ひ前方屋我地島と相対して、其の間
に運天港を擁し極めて寂莫荒寥の一寒;村に候
予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要あるかを怪しむ者に候。今泊在吏員に至りては早朝家出し
ても役場に到着は十時頃なるべく。それより汗を拭き去り涼を納れて卓に向かば、時辰は十一を指すべし。一時間にして
食事をなし、更に二時より初めて二時間経れば四時となり退散を報ずべし。然れば毎日の執務時間は僅々四時間を超え
ざるべくと存じ候。加之人民の納税、諸願届書類の進達学校並びに各字の小使派遣等日々一万五千の村民が如何程多大
の迷惑と傷害を受け居るかは門外漢の想像し得ざる所に有之候。
曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為め遂に沈黙の非運に逢着したりと些々たる感情の為遂に犠牲
となる村民こそ不憫の至りに候。
▲役場が運天から仲宗根に移った間もない頃(大正9年) ▲戦争で焼け同じ場所に建設(昭和22年)
2011年7月27日(水)
午前11頃から「今帰仁の歴史から自然・生活・風景」など案内。午後から大学の講義は「山原の歴史文化―歴史と文化と風景―」がテーマ。参考文献:「なきじん研究」(9号 14号)
【古宇利島のサーザウェーとピローシ】
例年旧暦6月25日、26日の両日、サーザーウェーとピローシが行われる。今年はサーザウェーを行う神人が他界されたため、各家々を回ることはなかった。夕方七時頃から二つの神行事は行われたのであるが、サーザーウェーの最後の場面とピローシの最初の場面がオミヤ(クワッサヤー)でまとめて行われた。
家回りとイルカを捕獲する場面はできなかったため、オミヤでの場面は「ウガンだけはする」との認識がある。二つの祭祀は続いていくが、辛うじて三名(兼次房江さん、山川貞子さん、渡久地綾子さん)の神人の出席があった。手助けをしたのは区長と書記さん。いつもイルカの役目をされるK氏は体調が思わしくなく参加でされなかった。祭祀の流れが大きく変わる場面である(神行事も生き物であると実感!)。
オミヤ(お宮:クワッサヤー)での唱えは、サーザーウェーとピローシ。ピローシの時イルカを捕獲する場面のウタが口ずさまれた。
イナハマヂャグムイに(イナハマヂャ小堀に)
ヒトゥヌユン(イルカが寄っているよ)
ガヤヌイュン(ガーラが寄っているよ)
ユトゥイビーグトゥ(寄っているから)
トゥンソーレー(どうぞ、捕って下さい)
▲サブセンターで待機する神人二人 ▲お宮でのウガン(三名の神人と区長・書記)
▲お宮の中で線香・お酒・塩などとウガンの唱え。ウガンが終ると直会や打合せ
2011年7月25日(月)
古宇利島のユーニゲーの祭祀(神行事)をみる。ユーニゲーは世果報のことか。旧暦6月24日に行われる。その前日はカミサガイであるが、今年は行われなかったときく(神人である古宇利春夫氏が亡くなって間もないこともあってか)。午後4時過ぎサブセンターに集まり、ヌルヤーで供える線香やお酒、白紙、塩、お米などを準備をする。サブセンター内にはタコが吊るされる。神人は兼次フサエさん(94才)一人。参加者5名が揃ったところでサブセンターからビンシーを書記が持参して車でヌルヤーへ。
ヌルヤーの中で、三ヶ所(香炉は二か所。香炉の置かれていない火神はある方が造ったと)に線香・打ち紙、お酒、お米、お塩を供え、神人が今日の神行事の唱えをし、手を合わせる。唱えは二度行われた。ヌルヤーのウガンが終るとサブセンーへ戻り、吊るされたタコの廻りを三度まわる(ウタを謡いながら。今回はウタを謡う余裕なし。一度回るのが精いっぱい)。
サブセンター内でタコの廻りを回って、再びヌルヤーに行きウガンをするのであるが、神人の兼次さんの体力が続かず、サブセンターで終わる。タコの廻りを廻って御酒が参加者に回される。タコはヌルヤーで参加者に配るのだが、今回はサブセンターで配る。今年のユーニガーはここで終り。タコ(タフー:多幸)は私とナミジがいただきました)。
▲サブセンターに吊るされたタコ ▲古宇利島のヌルヤー ▲ヌルヤーの前の神石
▲ヌルヤー内でのウガン(手助けは書記。慣れない手つきでポンポン)
▲ヌルヤーから戻りサブセンターのタコの回りをまわる。 ▲タコが下され分配する
2011年7月24日(日)
「今帰仁村今泊で発見 阿応理屋恵按司の曲玉」の記事(琉球新報 1954年12月28日)を確認する。短い記事なので全文掲げることにする。その勾玉と水晶玉は今帰仁村歴史文化センター所蔵で展示してある。
来島中の大阪学芸大鳥越教授は玉木芳雄、与那国善三、多和田真淳の三氏らと二十四、五日今帰仁村の天然記念物や
史蹟を綿密に調査したが、同村今泊で山北国時代の最高女神官である阿応理屋恵(オーレー)按司の曲玉が発見され、
戦後紛失したものと信じられていただけに、関係者を喜ばせている。この曲玉は水晶二個、曲玉二十個からなっており、
中に見事なヒスイが二個あり、鳥越教授は「この勾玉は琉球のおもろに次ぐ特別重要な文化財で国宝級最古最高級の
曲玉である。これが紛失しないで保存されていたのは非常にうれしいことである」とその喜びを語った。
大嶺薫コレクション(沖縄県立博物館・美術舘)に「今帰仁おうりゑ御殿の勾玉」(7枚)と「今帰仁祝殿内の勾玉」の実測図がある。他に「識名殿内伝来」や「首里博物館所蔵勾玉」や「久米島君南風」などの図がある。手元のコピーでは作図された方はどなたか、調査年がはっきりしない。「竹富西部落」で発掘された貨幣が「1959年10月頃」とあるので、それ以降のものか。また「今帰仁祝殿内の勾玉」に「国頭郡今帰仁字親泊313、仲尾次清一所蔵」とあり、仲尾次清一氏は伺ったら昭和45年(1970)に他界されておられるので、それ以前の調査と見られる。
10月から企画展「沖縄のノロ制の終焉」(仮称)の開催する。そのような記事や図をみると、戦後の新聞記事や図や写真など丁寧に拾っていく必要がありそう。どなたの調査(作図)だろうか。昭和29年から文化財指定に向けての調査が行われているので一連のものかもしれない。上の新聞記事(1954.12.24、25)の時の調査ではなさそう。
▲今帰仁あおりやゑ御殿の勾玉の図(7枚の内2枚)
▲今帰仁祝殿内の勾玉
2011年7月23日(土)
旧暦6月23日である。中城ノロ管轄のムラ(アザ)の祭祀ウカタビのウガンの日である。三日後にやってくる旧6月25日は崎山ではウカタビ、仲尾次ではシカメー、与那嶺ではヒチュマ、諸志ではウンジャナシー、兼次ではシチュマと呼び、同ノロ管轄の村であっても呼称が異なっている。旧6月23日は25日のウガン入りの御崇(ウタカビ)の意味がありそう。
【崎山ノロ殿内のみ】(以前は中城ノロ殿内という。崎山の地にあるので崎山殿内という)
旧6月23日は13:30に崎山のノロ殿内に崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次の書記さんがお酒(泡盛)・線香を持参する。崎山の神人(金城さん)は崎山のノロ殿内に来る前に、崎山のお宮(中央部の火神)に線香をたて、今日のこれからのウガンを告げる。
崎山のノロ殿内をあけ、筵を敷きウガンの準備にかかる。各字の書記が集まると、神人は神衣装となり各字から出される線香、お酒を置く。各字の線香に火がつけられると神人が供える。その手助け今回はを与那嶺の書記が行う。(神人の唱えがある。参加者全員手を合わせる) 線香がたてられると各字からのお酒を一つのコップにつぎ、三つの石(火神)にかける。今度は表(トゥバシリ)に向って線香をたてと神人が唱えをし、外側に向って手を合わせる。それが終ると神衣装をとり、これで終り解散となる(旧5月13日のウカタビとほぼ同じ)。
▲崎山のお宮の中の火神にウガン ▲今日のウガンの予告をしてノロ殿内へ
▲ウガンの準備にかかる ▲両側の火神に線香をたて各字の書記さんが来るのを待つ
▲各字から線香は中央部に立てる ▲外側に向っての祈り(全員で)
▲各字二本づつ(諸志は四本) ▲今日のウカタビは終り
崎山ノロ殿内(中城)の近くにヌルガーがあるはずである。その確認をする。ありました。以前、そこは鉄錠網が張られ入ることができなかった場所だったのだ。石積みのカーがあり、拝みにくる方がいるようだ。かつてヌルガーを拝んでいたこともあったであろう。
▲中城ヌルガー ▲ヌルガーの内部(水は枯れている) ▲かつてノロが通った神道
2011年7月21日(木)
「ノロ・位牌継承の歴史的背景」として午後から講演をする。法律を専門とする方々を前にどう組み立て、まとめていくか。明治の廃藩置県後に日本の法律を適応してきた沖縄。それ以前の制度や習俗をどう処理していくのか。あるいは、どう判断されているのか、逆に伺いたい・・・(どんなまとめになるやら)。いつも沖縄には沖縄を見る視点がある。そして沖縄には沖縄の物差しがあると主張してきた。解決方法を見るとくじ引きであったり、主張の強い方が勝ったり。首里王府まで陸上と海路を競争させて早く到着した方に軍配があがったり。現在の法解釈には通用しませんね。ハハハ
2011年7月20日(水)
【恩納村富着―村内での移動集落】
恩納村の富着の村の成り立ちを整理してみる。旧集落に残る神アサギ、地頭火神の祠、御嶽、カー、旧家の跡、根神屋、神道、遊び庭(アシビミャー)など。村を構成していた要素を一つひとつあげてみる。そこから恩納村の村の形態の一つのモデルとなりそうである。故仲松弥秀氏は恩納村富着で「神事はその地の歴史をあらわす」と『恩納村誌』で記されている。それは名言である。
(工事中)
▲富着の旧集落があった森 ▲ウタキの中のイベ(祠) ▲ウタキを囲った左縄
▲富着の神アサギ ▲地頭(脇)地頭火神
▲旧家(ウイ)の拝所 ▲旧家(ウイ)の内部 ▲元の建物礎石
▲旧家(アガリ)の豚小屋跡 ▲旧家(アガリ)の階段の入口
【今帰仁村天底小学校6年】
昨日(19日)今帰仁村天底小学校6年生(30人)が遠足でやってきた。今帰仁グスクの全体と石積みや三・五・七の参拝道、そして以前の道をあるく。ウミャー(大きな庭)の北側にある北殿と言われている場所。そこには城内の神アシャギがあった場所でもある。石がゴロゴロしている中。建物の礎石と見られる石を見つけてもらう。その石に立ち柱になって、かつての建物大きさを実感してもらう。ついでに本丸の礎石に立ち、建物の大きさや、基段のある建物との関係など、いろいろ考えてもらう。
世界遺産の九つの資産の五つのグスク。校区にある運天港の重要さの話。一通りグスク内を回り、最後は火神の祠の傍で報告をしてもらう。暑い中でのグスク内の踏査。小学生にとって「沖縄の歴史」を学ぶには、まだほど遠いのがある。歴史学習を何度も積み上げていく必要がありますね。歴史を感じ取ったいい報告がいくつもありました。ご苦労さん。
2011年7月19日(火)
旧名護間切から恩納間切のノロ家を辿ってみた(聞き取り調査はせず)。名護間切の①屋部ノロドゥンチ、②城(名護)ノロドゥンチ ③喜瀬ノロドゥンチ 恩納間切の④名嘉真ノロドゥンチ ⑤安富祖ノロドゥンチ ⑥恩納ノロドゥンチ ⑦山田ノロドゥンチ ⑧真栄田ノロドゥンチ(恩納村塩屋)までゆく。何度か紹介しているが、記憶を正すため再度紹介することになる。平成23年度の企画展―ノロ制の終焉―(仮称)に取りかかるためでもある。
【名護間切】
①屋部ノロ(屋部村)…管轄する村(屋部村・安和村・宇茂佐村・山饒波村)
②名護ノロ(名護村)…管轄する村(名護村・宮里村・数久田村・世富慶村)
③喜瀬ノロ(喜瀬村)…管轄する村(喜瀬村・幸喜村・許田村)
【恩納間切】
④名嘉真ノロ(名嘉真村)…管轄する村(名嘉真村)
⑤安富祖ノロ(安富祖村)…管轄する村(安富祖村)
⑥恩納ノロ(恩納村)………管轄する村(恩納村・瀬良垣村))
(瀬良垣村の祭祀の一部は瀬良垣根神)
⑦山田ノロ(読谷山村:山田村のこと))…山田村・富着村
(谷茶村・仲泊村・富着村・前兼久村の四ヶ村は居神の祭祀)
⑧真栄田ノロ(現塩屋村にあり)…管轄村(真栄田村・塩屋村)
(工事中)
①屋部ノロドゥンチ(名護市屋部)
【屋部ノロが関わる祭祀】
・二月麦穂祭(二月ウマチー)
・三月麦大祭(三月ウマチー)
・五月(稲穂祭)神人全員で御嶽を拝む
・六月十五日 十五日御祭(新米)
・八月十一日 海神祭 神人全員が名護城の御嶽でのウガンあり。
・十一月 ウンネー(芋ナイ)折目 神人全員で名護城でのウガンあり。屋部に戻り芋を供える祭祀あり。
②名護ノロドゥンチ(名護市城)
③喜瀬ノロドゥンチ(名護市喜瀬) ▲内部の様子
④名嘉真ノロドゥンチ(恩納村名嘉真) ▲ヌルガー
・王府へ報告を遅れたためか・・・
【名嘉真ノロが関わる祭祀】
・一月一日
・四月の畦払い
・五月十五日 (神人達がアサギに集まり稲・粟の穂を臼でついて造った汁を神酒と一緒に神供える。三穂も供える。
・六月十五日(六月ウマチー)
・六月廿五日 折目
・八月十日 東廻り、柴指し
・九月九日(海神祭:廃絶)
・十二月二十四日 火祭り
⑤安富祖ノロドゥンチ(恩納村安富祖)
⑥恩納ノロドゥンチ(恩納村恩納) ▲離れにある拝所
⑦山田ノロドゥンチ(恩納村山田)
【山田ノロが関わる祭祀】
・三月彼岸
・五月十五日(ウマチー)
・六月十五日ウマチー
・六月廿五日 カシチー
・八月十日ウガン
・八月彼岸入り(ノロ夏作への感謝)
・十月 火の神拝み
⑧真栄田ノロドウンチ(恩納村塩屋) ▲内部の様子
2011年7月16日(土)
「中城ノロが関わる祭祀」(ウカタビ・ウマチー)(5月と6月)の報告をする(15日19:30~)。プロゼクターでの報告は6月のウカタビとウマチーを菜美路がする。それらの記録は字誌に収録する。簡略化されているが、現在行われている状況を記録し、過去に行われていた姿をできるだけ復元することに(困難か!)。
中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸志(諸喜田+志慶真)・兼次の村を管轄しているので、一村一ノロではないので、それぞれの村の祭祀の様子をみていく必要がある。ノロは各村へと移動するが、一方各村内での流れがあり、それは同時進行なので調査に時間がかかりそうである。今年は諸志の字誌の件があるので諸志中心の調査となる。
中城ノロについては、辞令書(10枚内ノロ辞令書2枚)、勾玉(水晶玉・ガラス)、馬の鞍、文書・墓調査などがあるので立項する。また、23年度の企画展はノロ制の終焉なので、そこでも扱うことになる。中城ノロ殿内の一族も参加されているので、かつての様子を伺うと同時に、辞令書・墓調査・勾玉調査などに関わってきたので、その説明をしてあげる。
報告後、祭祀になると村人からお餅や米などの供出があり、ノロ殿内では余るほどに豆腐や餅があり、親戚や近所に配っていたという。コラムに書ける出来事がいくつも聞こえてきた。
▲旧6月のウカタビとウマチーの報告 ▲報告が終ると当時の様子が語られる・・・
2011年7月15日(金)
今日は旧暦の6月15日、六月ウマチーがある。中城ノロが関わる崎山と仲尾次、そして諸志(諸喜田)の調査へ。夕方7時半から「諸志誌」(字誌)の編集委員会。祭祀調査も字誌に入れる。その調査でもある。それと、平成23年度の企画展―ノロ制の終焉―(仮題)の展示プランの検討にはいる。
【六月ウマチー】(旧暦6月15日)
中城ノロ管轄の崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次の五ヶ村(ムラ)の六月ウマチーである。かつての祭祀を簡略化されているが、今行われている祭祀を記録しておく。五つの神ハサギがほぼ同時に行われる(諸志が都合で遅れる)。
【仲尾次の神ハサギ→崎山の神ハサギ】
崎山と仲尾次は午後1時仲尾次の神アサギから始まる。仲尾次の神アサギに崎山の神人と書記、そして仲尾次の書記が参列する。神アサギの中で神衣装に着る。まず、香炉の方に向かって、線香をたて、お米をお盆に、さらにお碗に山盛りにして供える。手を合わせて唱えをした後、お碗とお盆から米をつまみ、香炉の方に置く、コップの泡盛をチョンチョンとかける。今度は振り返って祈りをする。神人は神衣装をぬぐ。仲尾次の書記はそこで終る。
崎山の神人と書記は車で崎山の神アサギにむかう。崎山の神アサギの中に入り供え物(線香・お米・泡盛)の準備をする。神衣装になって、香炉に線香を立て、お米を盆一杯とお碗山盛り。手を合わせ、今日の祭祀のウガン(祈りを唱え)をする。そこでは振り返ってのウガンはない。崎山の神人と書記は解散する。お米は神人のタマシだが、書記の方に丈夫な子が生まれますようにと持たせた。
【仲尾次の神ハサギ】
▲仲尾次の神ハサギで(崎山と仲尾次が一緒にウガンをする)
【崎山の神ハサギ】
▲崎山の神ハサギ ▲神ハサギの中で(神人と書記)
【与那嶺の神ハサギ】
▲与那嶺は書記一人でウガンをする
【諸志でのウガン】
諸志の神ハサギ(諸喜田・志慶真)に諸志の書記と中城ノロ家の方(宮城正子さん)がウガンをする。二カ村の神ハサギが並んでいるが、まず諸喜田神ハサギでのウガンをする。盆と椀にもったお米を供えると、線香を立て、ウガンをする。唱えがすむとお米盆と椀から二回づつつまみ手の平に、手の平からつまんで香炉の三ヶ所に置く。もう一度ウガンをしておわる。諸喜田の神ハサギでのウガンが終ると隣の志慶真の神ハサギへ。諸喜田の神ハサギと同様なウガンをする。
▲諸喜田神ハサギでのウガン ▲志慶真神ハサギでのウガン
【兼次の神ハサギ】
▲兼次の神ハサギ(ウガンは終っていた)
2011年7月13日(水)
旧暦6月13日は今帰仁村兼次・諸志・与那嶺・仲尾次・崎山の中城ノロ管轄の祭祀のウカタビの日である。旧6月15日の六月ウマチーの合図の要素を持っている。午後2時頃、五ヶ字の書記さんと崎山の神人一人、中城ノロ殿内の嫁さん(宮城正子さん)が参加。与那嶺の書記さんは所用があって不参加(ただし、供え物はお預け)。今日のウカタビは崎山ノロ殿内のみのウガンである。今日から物忌に入る
(詳細は中城ノロが関わる祭祀で報告)。旧6月15日の六月ウマチー(稲の刈り入れ)はそれぞれの神アサギで行う。
▲中城ノロ殿内で(崎山) ▲中城ノロ殿内の宮城正子さんも参加
▲トバシリでのウガン(ウマチーの御迎え) ▲参加者もウガンをする
2011年7月12日(火)
月曜日テレビの取材(人類発祥伝承の件)があったので古宇利島にいく。その伝承と関係する場所を歩いてみた。人類発祥の二人の男女が住んでいた?というガマ、ジュゴンの交わりを見たという場所、そこにジャンジャン岩(ザン:ジュゴン)、そしてその小さな通り抜けのできる洞窟、海神祭(ウンジャミ)の時、神送りをするシラサ(小さな岬)、シラサ崎の方ではウットミ・パットミのウガンが行われる場所である。シラサ(岬)は古宇利島の祭祀では欠かせない場所である。ジャンジャン岩の手前(ウプドゥマイ:大きな港)はプーチウガンの時に風紀(流行り病)などが入ってこないようにとのウガンがある。
その伝承のモチ降らせの場面は、海神祭の神アサギでの所作(餅降らし)とフンシヤーでの男女交わりの所作(大正まであったとのこと)。古宇利島での海神祭(大折目)は『琉球国由来記』(1713年)で行われているので、餅降らせや男女の交わりの所作が行われていたのであれば、古宇利島の人類発祥伝承はもっと古くからあったと見られる(その話は明治30年代に伊波普遥が紹介したのが初)。
チブヌハマは壺の形をした窪み石が数多くあることに由来する。シラサは白い砂浜のことであるが、小さな岬を指している。シラサ(白い砂浜)はウプドゥマイと呼ばれ大きな港のこと。その沖の方にクムイがあり、そこにジュゴンがやってきたという。ジャンジャン岩はジャン(ザン)、ジュゴンに因んだ名称。
グンジェーの洞窟は、島の方が亡くなると、そこからあの世(後生:グソー)に送り出す場所である。島の方が亡くなると、その浜にやってきて足を洗って清めて家に戻る所作は行われている。
▲シラサ(白砂:岬) ▲ウプドゥマイとジャンジャン岩 ▲人類発祥伝承のガマ
▲シラサ(岬)とグサブとの間の浜(チブヌハマ) ▲あの世(グソウ)への入口(グンジェー)
大学の講義は「八重山のムラ・シマ」、予定通り奄美から先島まで踏査する。もう一度、沖縄本島に戻り、まとめとする。
2011年7月9日(土)
「山原のムラ・シマ講座」は大宜味村の田港・屋古・塩屋をゆく。田港のウタキからスタートし、カー、鍛冶屋の道具のある祠、ウフェー屋(かつてあった地頭代火神の祠)、屋我地屋、新里屋、根謝銘屋(二軒)、ノロドゥンチ、根神屋、神アサギ・・・と田港の集落形態が拝所から見えてくる。変化していく過程で祭祀に関わる場所が、文明化した社会なっているが、ムラが頑固に継承している姿がある。ウンガミの翌日に行われるヤサグイの祭祀がある。田港の元屋や各家庭でのヤーサグイが終り、神人達が最後の締めを行う場所でが行われる場所である(現公民館の前あたり)。その場所で、ハイポーズ!
田港から屋古、そして塩屋の兼久浜での「流し」、そしてハーミジョウ(神門とあるが、神場:神のおわす場)まで。そこで「花売りの縁」について山内氏に解説をしてもらう。「宵もあかつきも なれしおもかげの 立たん日やにさめ 塩屋のけむり」の余韻をもちつつ次へ。お疲れさんでした。
▲ヤーサグイの締めの場面で参加者にも途中であったが、ウートゥトゥ
▲ハーミジョウで山内氏が「花売りの縁」(組踊り)の解説 ▲歴文でクボウヌウタキを背に御苦労さん!
今日は歴史文化センターの「山原のムラ・シマ講座」(3回目)。大宜味村の塩屋湾岸。昨日夕刻、虹が出ていました。
2011年7月7日(木)
久米島、宮古まで駆け足でやってきました。次回は「八重山のムラ・シマ」。ボツボツ頭を八重山に切り替えないと。八重山島(石垣市)、竹富町、与那国町まで・・・。頭の中がグチャグチャなり。
「塩屋の海神祭」を流れて整理してみる。古宇利島の海神祭や国頭村比地や与那、安田などと比較してみると、祭祀の興味深い姿が見えてくる。古宇利島のサーザーウェーの部分が塩屋の海神祭の二日目のヤサグイ、あるいは海での「流し」の部分はアブシ払いや村の不浄なものを流してしまう所作に類似していたりする。塩屋の海神祭がワラビミと呼ばれることもあるようで、それは他の地域でのワラビミチの要素が含まれている。
山原の祭祀の所作の全てを並べて、古宇利島、あるいは塩屋、今帰仁グスクでの海神祭など、海神祭だけでなく一年間の祭祀の所作をすべて並べて、古宇利島では、塩屋では、与那では・・・。ここでのの祭祀は、どれどれの所作を行っているとの見方の分析が必要だと考えている。まずは、数多くの祭祀調査(流れに沿った)データーが必要。その視点での調査記録と研究する若者が登場してもらいたいものだ。
2011年7月6日(水)
塩屋湾岸のムラ(田港・屋古・塩屋)を塩屋の海神祭のコースを辿ってみた。塩屋の海神祭は古宇利島の海神祭と同じ日に開催される。古宇利島の神人達がシラサ(岬)で神送りをする場面がある。神人達は「塩屋に向って祈りをしている」との観念がある。古宇利島の人類発祥伝承も結びつけているのであろうが、塩屋とは姉妹だとしている。研究者から「神人達はどこに向って祈っているのですか?」との質問を何度もされた。「ニライ・カナイと言いたいのですが、神人達は塩屋の姉妹神に向って祈っています」と答えてきた。塩屋の方は、「ニレー」(ニライ・カナイ)に向って神送りをしているとの観念があるようだ。
塩屋の海神祭を流れでみていくと、カネク浜での神送りはどうだろうか。カネク浜から古宇利島が正面に位置している。ニライ。カナイなら、本部半島や古宇利島を飛び越えていかないといけません。本部半島と古宇利島で水平線の大部分が隠れている。
それと塩屋のカニク浜での祭祀は「流れ」である。そう呼ばれている。その「流れ」は、他の地域の流れの様子を見ていると、どうもムラ・シマの不浄のものをひろって流していく。そのような所作のように見える。その典型的なのがアブシバレーやムシバレーである。ウタキの方から始まり、集落内や家々などを通り、地域によってはサン(柴指)で不浄のものを拾って、最後は海で流す。海神祭を流れで見ると、浜までの所作はそのような姿に見える。その後ハーリーに入る。古宇利島でハーりーが行われるようになるのは昭和の初期からである。
大宜味村塩屋の海神祭を、もう少し丁寧に観察してみることに・・・。
▲塩屋の兼久浜から海の方をみると本部半島と屋我地島、古宇利島でニライへの道が塞がれる!
2011年7月5日(火)
古宇利島の古宇利春夫氏が他界されました。古宇利島調査で20年余お世話になった方です。昨年まとめた古宇利島の祭祀は、病を押しての出席でした。古宇利氏はフンシー神として根人的な役割を担っていらっしゃいました。神行事の日撰びの役目も果たしてしておられました。60年余も島の祭祀を行ってこられました。調査に伺うと嫌な顔一つされず、お許しくださいました。
60年余、神行事の先頭にたたれ、日を選び、神行事をひっぱてこられました。伺いたいことが、まだまだありました。そのことは残念です。ご指導を仰がなければならないことがまだありました。今月の末に行われるウガンには、顔をだそうと職員と言葉を交わしていたところです。ほんとに残念です
フンシー神として、長年のお勤め、ご苦労さんでした。肩の荷を下ろしてくださいませ。ご冥福をお祈りいたします
▲シラサ(岬)でウットミ・パットミの時 ▲サーザーウエー(ピローシ)の時
「宮古島のムラ・シマ」をテーマとした大学の講座。ほとんどの学生達が宮古をと訪れたことがない。そのために、宮古島諸島の「宮古島市」に統合される以前の行政区に戻して説明をする。まずは平良市・城辺町・上野村・下地町・伊良部町・多良間村の各字(ムラ・シマ)の位置や紹介をしながら、特に池間島・狩俣・島尻、そして砂川の上比屋山遺跡の集落の移動や形態を中心に、これまでやってきた国頭郡・島尻郡のムラ・シマとの比較で論を展開する。宮古島のムラ・シマを少し踏みこんで見ると、山原のムラ・シマでは見えなかったムラの姿が形として今に伝えている(八重山のムラ・シマまで、講義を進めてまとめることに)。
宮古島の市町村の字(アザ)の紹介までは理解できるが、ムラ・シマの成り立ちやウタキ(オン)とムトゥ(本島では旧家や一門)、ムラ(集落)移動などになると、なかなか難しいようだ。前回の「久米島のムラ・シマ」(歴史と文化)のレポートに目を通してみると、興味深い答や質問がいくつも返ってきている。
2011年7月2日(土)
『琉球国由来記』(1713年)の「大宜味間切」の所を見ていると、他の間切とは異なることに気づかされる。何が異なるかというと、以下の掲げるように按司や惣地頭は間切の同村か主村の祭祀と関わっている。ところが、大宜味(田港)間切は、田港村のみでなく複数の村と関わっている。それは何を意味しているのか。深読みする必要がありそう。沖縄本島北部(山原)のみ揚げてみたが、中頭や島尻ではどうであろうか。大宜味間切のような例外があれば、その理由は何か。羽地間切も例外に見えるが、その理由は仲尾ノロの最初が仲尾村出自であったことに起因しているのかもしれない(因みに仲尾ノロ管轄村は仲尾村・田井等村・谷田村である)。
・今帰仁間切は同村(今帰仁村)の今帰仁里主所・今帰仁城内神アシアゲ。
・名護間切は同村(名護村)の名護巫火神・名護城神アシアゲ。
・恩納間切は同村(恩納村)の城内之殿・カネクノ殿・同神アシアゲ。
・金武間切は同村(金武村)の金武巫火神・同神アシアゲ。
・本部(伊野波)間切は伊野波間切時代の同村(伊野波村)のカナヒヤ森。
・羽地間切の主村(田井等村)の池城神アシアゲ(仲尾村の仲尾巫火神・仲尾神アシアゲ)
・久志間切の同村(久志村)の久志村神アシアゲ・(久志村の観音)
・国頭間切の主村(奥間村)の奥間神アシアゲ
・大宜味(田港)間切の同・主村は田港村・大宜味村・塩屋村である(番所が移動)。
按司・惣地頭が関わる村は城村の城巫火神、喜如嘉村の神アシアゲ、屋古前田村の田湊巫火神
大宜味(田港)間切の田港村のみでなく、城村や喜如嘉村まで及んでいるのか。田港ノロの管轄する村は田港村、屋古前田村である。塩屋村もそうであるが『琉球国由来記』の編集ミス(脱落)なのか神アシアゲが登場してこない。そのことを抜きにしても、他の間切とは異なっている。それは1673年の間切創設の線引きと間切分割以前の国頭間切(地方)の中心となっていたのが、根謝銘(ウイ)グスクであったのが、間切分割のとき、国頭間切に入れず、大宜味間切に組み込んだことが、大きく影響していそうである。『琉球国由来記』(1713年)に国頭間切に入っていた屋嘉比村と見里村と親田村が大宜味間切に組み変えされる。それは屋嘉比ノロ管轄の祭祀場(ウイグスクの一部:大城)が大宜味間切に入ったことによるものと見ている。つまり、祭祀の不都合が間切や村の歴史を変えたともいえる。
▲田港の神アサギ ▲田港ノロドゥンチ跡 ▲田港のウタキの香炉
▲根謝銘(ウイ)グスク入口のトゥンチとウドゥン跡 ▲両惣地頭火神か ▲城内の大城(イベ)(屋嘉比ノロ祭祀場)
2011年7月1日(金)
今月の「山原のムラ・シマ講座」は大宜味村の塩屋湾岸のムラ・シマです。
午後から「北山の歴史と北山系統の一族(門)」について説明をする。そのため、今帰仁グスクへ。今帰仁グスクから大宜味・国頭方面がどう見えるか。国頭方面に今帰仁(北山)グスクにいた按司(王)と関わる伝承をもつ一族(門)がいる。その伝承が史実をどれだけ伝えているか不明である。ところが、その伝承を史実を伝えているかどうかは別にして、その伝承を踏まえた動きをしている。そのことを踏まえて説明することに。
グスク内に北殿跡と見られる場所に、神アサギがあった場所がある。『琉球国由来記』(1713年)で「今帰仁城内神アシアゲ」(今帰仁村)、「今帰仁旧城図」(1742年)に「トノ敷」とある。城内の神アシアゲで麦稲大祭・麦祭・大折目(海神祭)・柴指・芋ナイ折目などの祭祀が行われていた場所である。城内での祭祀に今帰仁按司・惣地頭・オエカ人(間切役人)・百姓が参加している。
『琉球国由来記』(1713年)に当時の今帰仁グスクでの大折目(海神祭)の様子が記されている。近年行われていた海神祭(ウイミ)の流れと比較してみると、その流れから場所が特定することができる。
毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ、巫・大根神・居神・都合二十人余、城内、ヨウスイト云う所ニ、
タモトヲ居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川ノミズトリ、巫・大根神、浴テ、七度アザナ廻リ
イタシ、於庭酒祭ル也。(自按司出ル)
ソレヨリ縄ヲ引張、?漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、ナガレ庭ト云所ニ所ニ参り、鹽撫、
親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウスイニテ、祭祀也。
※七月の大折目 旧盆明け戌の日(ウーニフジ)、亥の日(フプユミ)、子の日(シマウイミ)、まとめて大折目、海神祭
城内のヨウスイ 「タモトヲ居」とあり、他の神アサギにあるタモト木と見られる。すると、ヨウスイは神アシアゲの場所か。
アワシ川 今帰仁グスクの東側の志慶真川にアーシジャーがあり(志慶真村跡地)、そこを指しているか。
アザナ ここでのアザナは本丸の一角のアザナ。
ナガレ庭 かつてのシニグンニからシバンティーナに道筋がある(ウンジャミ道)。塩撫でをするので海岸で、
シバンティーナを指している。(他の地域での流れ庭は、そのほとどが海岸である)。柴(サン)を
流す港・海岸。
親川 今のイェガーのこと。ハンタ道の登り口にある湧泉。水撫でなので淡水のカー。
城内の神アシアゲは『琉球国由来記』(1713年)に登場し、明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」に「今帰仁古城内神アシアゲ」とある。また「鎌倉芳太郎ノート」「グシクアシアヤギ附近見取図」に「アシヤギ跡」と記してある。同ノートにウンジャミ道は「オーレーウドゥンの前よりシニグンニ西北に向い、ユクヌカタの間の低い所に下り、並松山に出で、これより今泊り西北方の海岸に向う」とある。
▲今帰仁グスクの大隅の石積 ▲大内原から国頭方面を望む
▲神アシヤギ跡地(ヨウスイか) ▲城内のアシヤギ跡にある香炉