今帰仁村兼次
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2004.10.23(土)メモ
兼次は古島原と糸川原から現在地に集落が移動したムラである。集落のあった元の場所にウタキをはじめ、神ハサギ跡やイビガーなどを残し、祭祀を行っている。神人は僅かである。
他のウタキと違い、イベへは登っていくのではなく下っていく。棒で草むらを敲きながら下っていくとイベの祠にたどり着く。祠の前方は沢になっている。祠の中に香炉が一基あり、イベはウタキの高い所に向いている。ウタキに行く途中に金満殿内と彫られた祠があるが、シマの人たちは神ハサギ跡だという。ウタキに向けて香炉が置かれている。
現在の集落は旧集落やウタキの北側の斜面に碁盤目状に形成されている。神ハサギも集落とともに移動したようで、集落の中央部(ムラヤー跡付近)にある。現神ハサギの香炉は故地に向けて置かれている。
集落が1km程度の移動がなされた場合、ウタキはどうしたのか。神アサギはどうしたのかの例となる。イベに下っていくのであるが、拝む方向は振り返って高いところにむけて拝むのは、ウタキにおける神の降臨を示唆している。兼次の金満殿内(神ハサギ跡)や現神ハサギはウタキに向けて祈りをする。私がウタキと神アサギを結ぶ集落の軸線というのはそれである。
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▲旧集落があった場所と後方がウタキ ▲金満殿内は神ハサギ跡
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▲ウタキの中のイビへの道 ▲ウタキの中のイベの祠
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▲旧集落付近から現集落をみる ▲現在の兼次の神ハサギ
【兼次の原石と集落移動】
2009年5月9日(土)メモ
兼次は『絵図郷村帳』(1648年頃)で「兼城村」と出てくる。方言でハニシやハニーシと呼ぶ。玉城がタモーシ、中城がノーシと呼ぶのと同じで、「…シ」に表記上「城」を充てた見られる。兼次村は移動集落である。兼次の現在の集落は国道沿いにあるが、古島原と前名原から麓に移動している。古島原が故地であるとの認識はムラ人にある。そのために故地を古島原と名付けている。
古島島原と前名原から兼次村の集落が現在地にいつ頃移動してきたのか。兼次の二つの原石は、その手掛かりを与えれてくれるのではないか。つまり、「加祢寸原」(カネシバル)は村名と同様の原名である。すると、アタイ原と同様、その村の中心となる集落部に付けられる名称である。元文検地(1737〜1752年)の頃、今帰仁間切は1742年に検地がなされている。その頃、兼次村の集落は古島原にあったのではないか。仮説を立てるなら、今の古島原に兼次村の集落があったため「加祢寸原」(カネシバル)と原石に刻んだのではないか。
1609年の後、今帰仁グスク周辺にあった志慶真村と今帰仁村が麓へ移動している。兼次村の集落移動も、隣接しているのでその可能性もあろう。村名と同様の原名をつけられるのは中心となる場所だと考えると、兼次村の集落は移動していず、今の古島原にあったとみた方がよさそう。
兼次村の集落の移動は、元文検地後に現在地の麓に移動したとみることが可能である。すると、故地を古島原とし、現在の集落地を加祢寸(カネシ)原ではなく、屋敷原(北・南)と名付けたことはうなづける。二基の「加祢寸原」の原石は移動してしまっているが、故地(今の古島原)にあったとみてよさそうである。つまり、今の古島原に元文検地の頃、兼次村の集落があり、そこに立てた原石に「加祢寸原」とつけたのではないか。つまり、元文検地の後に、大幅な原名の組み換えがなされているということ。その為、原石の原名と現在の原名(小字)が6割しか一致しないのはそのためである(仮説をたててみたが覆してみよう)。
【今帰仁村兼次の原石】
午前中、10ヵ字(アザ)の公民館の画像を必要としたので撮影にまわる。途中、原石を持っている方の家(大城氏)に立ち寄る。20年前に見たままなので、どうなっているのか訪ねてみた。ありました。お願いして実測と採拓をする。お礼を述べて帰ろうとすると「持っていかないの?」「?!、いいですか。ありがとうございます」ということで歴史文化センターへ寄贈。
「字誌、進めましょう」と約束。「ソ 加祢寸原」(49×31×12cm)と彫られた原石は、「どこからが、持ってきて置いてあるんですよ」と。元あった場所は不明。現在、兼次に「加祢寸原」は見当たらない。「加祢寸原」のカネシは字名の兼次なので、北屋敷原と南屋敷原の一部だったとみられる。兼次には、もう一基の原石があり、「フ 加祢寸原」(54×26×10cm)である。記号は異なるが、同じ原名である。一つの原に一基ということではないことがわかる。いずれも、もとあった場所から移動している。
▲兼次の「ソ 加祢寸原」の原石
▲兼次の「フ 加祢寸原」の原石