2007年9月調査記録
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2007年9月29日(土)
今日は今帰仁村謝名の豊年祭である。謝名の操り獅子(アヤーチ)調査にはいる。今晩が本番である。次回は4年後になるので、しっかりと記録調査をすることに(報告書予定)。
企画展の展示にもかかっている。金関丈夫氏が昭和4年に運天の百按司墓の記録を残している(『琉球民俗誌』所収)。当時の百按司墓の様子を復元するために、氏がつけた第1号洞~第10号洞の情報を頭に入れて画像を撮ってきた。企画展のページに整理してある。
2007年9月27日(木)
今帰仁村の運天と上運天のタキヌウガン(旧暦8月17日)、そして上運天の別れの日である。タキヌウガンは旧暦4月15日と8月17日の二回あり、テラガマ(ウタキ)でのウガンは両字の神人や区長、有志の方々が一緒に行っている。テラガマでのウガンが終わると、運天は運天の神アサギの広場、上運天も上運天の神アサギの広場に字民が集まる。それぞれのウガンが行われる。上運天は毎年、豊年祭が旧暦8月15日(十五夜)に行っている。
[運天の拝む場所](三ヶ所)
①テラガマ(ウタキ)上運天の区長や神人や有志の方と一緒
(字民はアサギミャーで待機)
②神アサギの手前の脇地頭火神?(区長と神人代理)
③神アサギ内(女神人代理)
(脇地頭火神の祠と神アサギ内でのウガンが終わると字民と直会)
[上運天の拝む場所](七ヶ所)
①テラガマ(ウタキ)運天の区長や神人や有志の方と一緒
(字民はアサギミャーで待機)
(豊年祭で登場した獅子の奉納:神アサギに向けて置かれる)
②お宮(上運天拝殿)(上運天の区長・神人・有志で)
③根神ヤーの火神の祠祠
④内(掟?)神ヤーの火神の祠
⑤神アサギ内(テラガマ:ウタキに向かって)
⑥ウンシマのウタキ(女性のみ)
⑦ウキタヌウタキに遥拝
(神アサギ周辺の六ヶ所のウガンが終わると字民と一緒になって直会)
(即席の奉納踊りがなされる。群舞いもある)
▲運天のテラガマ(ウタキ) ▲テラガマの内部の香炉(イベ)
▲運天の神アサギ内のウガン ▲神アサギミャーに集まる運天の字民
▲上運天のお宮(拝殿) ▲根神ヤーの火神の祠
▲上運天の掟(内?)神火神の祠 ▲上運天の神アサギ内でのウガン
▲上運天(ウンシマ)のウタキでのウガン ▲ウキタウタキへの遥拝
▲獅子は神アサギに納められる ▲上運天の字民と運天からも有志が参加
2007年9月26日(水)
本部町伊豆味と今帰仁村謝名の操り獅子(アヤーチ)をみる。伊豆味は旧暦8月15日(ソーニチ)の最終演目で行われた。謝名はミャーイジャシ(予行演習)で最後に操り獅子を出してくれた。
【本部町伊豆味の操り獅子】
▲本部町伊豆味の操り獅子 ▲伊豆味の操り獅子(二頭)
【今帰仁村謝名のアヤーチ】
獅子を入れてあった箱が根神ヤーにある。かつては世神殿内にあったが、箱が朽ちたりしたので、獅子を入れてあった箱は根神殿内へ移してある。獅子は公民館で保管している。根神殿内も現在地より西側にあったのを移動している。
▲謝名の操り獅子(アヤーチ)(ミャーイジャシ) ▲幕裏で獅子を操る
▲生き物のような獅子を押さえている場面 ▲獅子の入れてあった箱(根神殿内)
操り獅子(アヤーチ)がどのようにして、今帰仁村謝名の豊年祭(村踊り:ムラウドゥイ)に導入されたのか、そのことについて、不明である。首里・那覇からの寄留人の影響もあるが、地元間切役人の奉公先が首里の殿内である。そのことも念頭に入れておく必要がありそうである。そのため、間切役人の勤書や文書から、首里奉公の記事をいくつか拾っていく。なんならかの手掛かりにならないか。
謝名の近世文書から首里と関わる記事を拾ってみる。首里奉公をした人たちと操り獅子(アヤーチ)を導入した直接史料は、まだ確認できないがその手掛かりとなるかもしれないので、その作業を進めてみる。首里奉公した間切役人の奉公先との関係をしることができる。首里奉公した間切役人は、後々まで奉公先と密接な関係があることがしれる。そのような関係で、操り獅子(アヤーチ)の謝名村へ導入された可能性がある。ここで掲げていないが、謝名村=平田村の平田村や平田掟が、『琉球国由来記』(1713年)より後の文書に度々登場してくる。そのことも気になる一つである。
[平田家文書(フイチヤー:古宇利掟屋)]
・兼次親雲上御事第四代世ノ長男、幼少ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公
勤勉之為メ、掟・捌庫理・兼次夫頭役仰付次ニ惣山当ト・・・(道光20年死去)
・二男武太ハ両惣地頭ノ御奉公全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子
ト云フ。(光緒5年死去)
・長男屋真事、幼少ヨリ今帰仁御殿御奉公全ク勤勉ノ為、二十四五歳ニ古宇利掟役被付、・・・(咸豊11年死去)
[玉本家(ナビタマヤー)文書]
・嘉慶24年4月御殿大按司様上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同7月15日那覇川出帆与那
国嶋漂着翌辰年6月帰帆仕申候事(上国できなかったが当時の奉公の様子がしれる)
[勢理客村大城仁屋の諸事日記]
・嘉慶20年亥2月御殿御供被仰付寅年迄4ヵ年御仰詰相勤置申候事
・嘉慶23年寅正月故岸本按司加那志様生年御祝儀之時、躍人数被仰付首尾能相勤置申候
・嘉慶24年卯五月御嫡子今帰仁里之子親雲上屋加被仰付丑四月まで11ヶ年相勤置申候事
・道光11年卯11月24日御嫡子今帰仁里主親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤置
申候事
・道光19年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候事
・咸豊20年子3月故湧川按司様御元服之時肝煎人被仰付罷候首尾能相勤置申候事
・咸豊23年卯3月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付□□首尾能相勤置申候事
[大和芸能の移入]
伊江島では「組踊忠臣蔵」や「シティナ節」など沖縄と大和と融合した芸能がみられる。それは首里の伊江御殿や川平殿内で働く伊江島出身の奉公人が、薩摩や江戸上りにお供した際、大和の芸能を学び島の村踊りに取り入れたものとみられる。
大和や首里の芸能が地方のムラやシマへの移入の流れを示す事例とみられる。今帰仁村湧川の路次楽も江戸上りに随行していった一族が湧川に寄留し村踊りの演目に加えている。組踊や棒術もそうであろう。そのようなことからすると、名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味への操り獅子(アヤーチ)の移入を考える手掛かりとなりそうである。そのこともあって、操り獅子が大和からのものであれば、今帰仁間切と関わる奉公人(後に今帰仁間切の役人となる)の御殿や按司などの薩摩行きや江戸上りなどの随行者がその役割を果たしたのではないかと考えられる。
操り獅子の移入について大和を中心に見ているが、中国や台湾からの移入はどうだろうか。
2007年9月25日(火)
謝名の旧8月15日のウガンの調査をする。ウガンの順序は、以下の通りである。女性の神人の参加がなく、桃原惣福氏と書記さんが中心となって行う。字の有志の方々10名余の参加あり。
①アサギミャの舞台
②お宮(謝名神社)
③桃原家(台所・仏壇)
④仲原家(台所の火神・仏壇)
⑤神アサギ
⑥根神ヤー
⑦獅子小屋跡(世神殿内)
⑧シカー(手前の香炉)
⑨公民館の入り口
⑩サンケモー(奉納踊り:三つの演目)(スムチナ御嶽に向かってウガンをする)
(晩は舞台:神アサギの舞台:ミャーダシ)
(供え物は白い餅30個、米一升、酒三合、線香10束、くだもの)
▲謝名の神アサギ内でのガウン ▲世神殿内(獅子小屋跡)でのウガン
22日、23日、25日と名護市川上、本部町伊豆味、今帰仁村謝名の操り獅子(アヤーチ)とその前後の祭祀調査をする。操り獅子(アヤーチ)は豊年祭のプログラムの最後に行われている。9月22日と23日の両日名護市川上の操り獅子を調査する機会があった。私たちは、今帰仁村謝名の調査報告を予定しているが、三者の共通性や違い、そして字(ムラ)の村踊り(豊年祭)への移入時期や経路など、また三者の関係など、これまで以上に踏み込んだ議論や調査が進められている最中である。詳細な報告は「報告書」でなされるので、そこに譲るとして川上の操り獅子(アヤーチ)の面の表情を紹介することに。
本日は今帰仁村謝名のミャーダシと本部町伊豆味の本番が本日あり。
▲名護市川上の子獅子(観客席から右、左)
2007年9月22日(土)
[伊計島の神アサギと地頭火神]
伊計島に神アサギと地頭火神がある。伊計小中学校は集落の高い所にあり、正門近くに拝所や旧家(神家)がいくつもある。ヌンドゥンチ(ノロ家)の周辺は公園になっている。
『琉球国由来記』(1713年)の伊計村を見ると、セイジノ嶽(神名:ヨキキヨラノ御イベ)とアムキノ嶽(神名:ヤラノ御イベ)、さらに城内之イベ(神名:タケキヨラノ御イベ)があり、伊計ノロの管轄となっている。城内之イベは伊計グスク内の拝所と見られる。「年中祭祀」の所には「殿」があり、伊計巫(ノロ)家(アガリミヤという)に設けられている。「殿」での祭祀に伊計ノロ、それと(脇)地頭が関わっている。ヌルドゥンチが確認でき、神アサギと見られる建物の側に「地頭火神」が置かれている。与那城間切内の「殿」を見ると、ノロや根神、根人・掟神などの家に置かれている。山原の神アサギのほとんどが集落の中央部に置かれている。殿と神アサギとでは、置かれる位置に違いが見られる。(もちろん山原の神アサギが屋敷内に置かれているは数ヶ所見ることができる)。また、伊是名・伊平屋島では建物そのものは、茅葺屋根の低い建物で山原の神アサギと類似しているが、建てられている場所は、旧家の屋敷にあり、そこは中南部の殿の位置と同じである。
伊計島にある神アサギ?は集落の中央部の広場にあり、山原的な神アサギの位置と同じである。周辺の島々で行われているシニグは、山原に根強く分布している。読谷山間切から美里間切にかけて分布する神アサギ(『琉球国由来記』(1713年)には出てこない)とシニグとの重なりから、読み取れるものがありはしないか。
▲伊計島の神アサギ? ▲神アサギの側にある「地頭火神」
▲ヌンドゥンチ公園 ▲左側がヌンドゥンチで右側が「殿」か
2007年9月21日(金)
古宇利島へいき、そこから沖縄本島の東海岸の現在うるま市の平安座島・宮城島・伊計島、そして浜比嘉島までゆく。シニグや神アサギ、山原船の停泊地、遠見台など、いくつかテーマをもって。
うるま市の宮城島の宮城小学校と中学校の通りを上がっていく道路の右手が宮城、左手が上原のようである。小学校あたりから左手に折れると「いっしんばし」と書かれた粟石の標柱がある。「一心橋」だという。左手の崖から滝のように水が流れて落ちている。そこは「億川」だと聞く。上原・宮城には、百川、千川、万川、そしてこの億川があると。屋慶名港と池味港を連絡する船乗だったという方から伺う。また、億川一帯は、かつて水田があったという。
上原集落の下方から上の方にいくと「万川」(ヤンガー)がある。郵便局の近くにもセンガー(千川)があるというが、そこは確認することができなかった。集落が眺望できるシニグドーまでゆく。シニグドーは標高90m近く台地である。そこでシニグが行われる場所なのだろうか。上原と宮城の集落はグスク時代の集落景観を示しているのではないか。
▲滝のように流れ落ちる億川 ▲観察地として整備?
▲万川(ニンガー)(上原集落) ▲シニグドーから眺めた宮城・桃原の集落
2007年9月19日(水)
山原と関わる古琉球から近世にかけての「辞令書」の分布を確認してみた。現存するのは数えるほどしかないが、これまで確認されている辞令書の一覧と分布を展示(コピー)してみた。山原と関わる辞令書を整理しながら、そこから見えてくる古琉球、そして近世の姿がどう見えてくるのか。そして首里王府が地方をどう統治していたのかを見究めていく作業である。
山原(沖縄本島北部:恩納・金武間切以北)と伊江島と伊平屋島(伊是名を含む)と関わる「辞令書」は30点余である。『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会:昭和53年)を中心に、同報告書に掲載されていない辞令書も含めてある。明治の「辞令書」は現物展示のため別のコーナーで展示する。
17世紀初頭になると、地方の統治は地頭代制度となる。地頭代はその間切出身者がなり、それらの子弟は首里奉公をし、地元にもどって間切役人となる。社会の制度が多きく変わる。ここでの辞令書は、今日風に言えば国の役人、あるいは県庁職員レベルの辞令書ということになろうか。
・今帰仁間切与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年7月17日)(1563年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切東の掟宛辞令書(嘉靖42年7月17日)(1563年)(今帰仁間切)
・金武間切の恩納のろ職補任辞令書(万暦12年5月12日)(1584年)(金武間切)
・今帰仁間切の浦崎目差知行安堵辞令書(万暦14年5月9日)(1586年)(今帰仁間切)
・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(万暦15年2月12日)(1587年)(国頭間切)
・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15年2月12日)(1587年)(国頭間切)
・伊平屋の仲田首里大屋子知行安堵辞令書(万暦15年7月8日)(1587年)(伊平屋島)
・今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書(万暦20年10月3日)(1592年)(伊平屋島)
・今帰仁間切の与那嶺里主所安堵辞令書万暦20年10月3日)(1592年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切の辺名地目差職補任辞令書(万暦32年閏9月18日)(1604年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切の中城のろ職補任辞令書(万暦33年9月18日)(1605年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切の具志川のろ職補任并知行安堵辞令書(万暦35年7月15日)(1607年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書(万暦40年12月8日)(1612年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切の謝花掟職補任辞令書(万暦40年12月□日)(1612年)(今帰仁間切)
・羽地間切大のろくもひ辞令書(天啓2年壬戌10月1日)(1622年)(羽地間切)
・羽地間切の屋嘉のろ職補任辞令書(天啓5年4月20日)(1625年)(羽地間切)
・今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年10月3日)(1643年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切中城ノロ叙任辞令書(隆武8年2月5日)(1652年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切本部目差叙任辞令書(順治13年正月20日)(1654年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切西目差叙任辞令書(康煕3年申辰4月4日)(1664年)(今帰仁間切)
・今帰仁間切与那嶺大屋子職叙任辞令書(寛文7年丁未4月9日)(1667年)(今帰仁間切)
・羽地間切の我部祖河大屋子職補任辞令書(康煕44年乙酉8月18日)(1705年)(羽地間切)
・伊江島惣地頭職叙任辞令書(康煕56年丁酉4月23日)(1717年)(伊江島)
・伊平屋島の銘苅大屋子職補任辞令書(乾隆元年丙辰4月29日)(1736年)(伊平屋島)
・伊平屋島の銘苅大屋子職補任辞令書(乾隆6年辛酉7月10日)(1741年)(伊平屋島)
・久志間切の有銘安堵辞令書(乾隆37年壬辰12月朔日)(1772年)(久志間切)
・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(乾隆44年己亥4月13日)(1779年)(伊平屋島)
・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(嘉慶10年乙丑5月12日)(1805年)(伊平屋島)
・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(道光12年壬辰10月3日)(1832年)(伊平屋島)
・伊江島惣地頭職叙任辞令書(道光15年乙未5月13日)(1835年)(伊江島)
・久志間切の有銘安堵辞令書(道光28年戌申2月朔日)(1848年)(久志間切)
・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(道光30年庚戌12月6日)(1850年)(伊平屋島)
▲古琉球から近世にかけての「辞令書」の展示コーナー
2007年9月18日(火)
途中まで進めていた展示は、会場使用のためすべて取り外してあった。久しぶりにガランと片付いた展示会場(講堂)は気持ちがいい。そのままでも展示になりそう。タイトルをつけるなら「黒と白と緑・・・」にでもしようか。
▲フォーラムで会場を使用
▲会場のタイトルを「白と黒と緑・・・」としたが色がよく出ていません!
2007年9月14日(金)
台風接近中。台風対策と会場づくりに追われる。図像についての調査で学生がやってきた。関帝の軸をもって。調査や図像の種類など、あれこれアドバイス。レポートのまとめ方まで。いろいろ抱えすぎてこのページは、しばらく足踏み状態なり。
2007年9月13日(木)
講堂の展示の取り外し。締め切り原稿二つ片付け、ボリュウムのあるのが三本、四本あり。どれから手をつけようか。トホホホ シンポジウムの原稿からにするか。今書き上げても、11月までには忘れてしまい、再度書く羽目になりそうだが!手をつけるか(10頁)。
2007年9月12日(水)
「北山(山原)の歴史と文化」のポスターの入稿。展示の途中でポスターを作らなければならず、また日程や展示の内容の決定もしなければならない。見通しが着いた段階でもある。数枚の展示場面を画像に写し取ってポスターへ。以下の場面を使うことに。どんなポスターができあがるか楽しみである。数多くのテーマから展示するのを絞り込む段階にはいている。日曜日に会場を使うので、展示の取り外しにかかる。
※午後8時から『運天の字誌』編集委員会。家々の紹介(一世帯1頁)を入れることに決定。100頁増えます。
予算の確保、よろしくお願いします。
2007年9月11日(火)
操獅子(アヤーチ)調査の打ち合わせで埋蔵文化センターまで。今月下旬に名護市川上、本部町伊豆味、今帰仁村謝名の調査にはいる。昨年の予備調査に引き続き、実施調査(総合)をすることに。日程調整など。
会議が明るい内に終わったので、北山と関わる西原町棚原グスクまで足を伸ばす。棚原グスクは棚原集落の後方の丘陵地にある。棚原グスクは「三山鼎立時代、中北山系の子孫という安慶名大川按司の弟が棚原按司となり、そこに築城した」という伝承を持っている。そのことが史実かどうか疑わしいのであるが、北山と関わる伝承を根強くもつグスクの一つである。西原町には棚原グスクの他に北山と関わる伝承を持つに幸地グスクと津喜武多グスクがある。
『琉球国由来記』(1713年)の西原間切棚原村に上ノ嶽・シギマタノ嶽・モリノヒラ嶽の三つの御嶽が見られる。「年中祭祀」の方に「棚原城之殿」があり、そこでの祭祀に棚原ノロや棚原脇地頭が関わっている。棚原グスク内にある祠は「棚原城之殿」とみられる。
▲棚原グスクの遠景 ▲棚原グスクへの道
▲棚原グスクの殿? ▲殿の近くに人工的な石積み?
2007年9月8日(土)
午前中「ムラ・シマ講座」(湧川)を行う。7月と8月は台風と大雨で開催することができませんでした。今日は天気がよく、青空は高く感じます。かすかな秋の気配なのかもしれません(日差しは、まだまだ強いです)。
1736年の湧川村の新設は以下のようなことが読み取れる。人口の増加や蔡温の山林政策だと記されるが、それだけではない。以下のようなことが読み取れる(詳細については別稿で紹介する)。
・現在の湧川地域は1690年以前は今帰仁間切の内である。
・1690年頃今帰仁間切から羽地間切域となる。
・1736年に湧川地内(羽地間切)にあった5つの村(呉我・振慶名・我部・松田・桃原)を現在地へ移動させる。
・1736年に5つの村を移動させると、そこは今帰仁間切域とする。
・1738年に湧川村を創設村する。
・『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉我・松田・振慶名・我部村は現在の湧川内にあった、
・上書の我部巫火神(我部・松田)・我部村神アシアゲ・松田村神アシアゲ・掟神火神・呉我村神アシアゲ
は湧川地内にあった時代である。
・1738年に新設された湧川村に御嶽や神アシアゲをつくり祭祀を行っている。
・我部と松田の村は屋我地島へ、振慶名は羽地間切の中央部へ(羽地大川流域)、呉我村は羽地大川
の河口域に移動する。
・村が移動するがノロ管轄は変わることなく我部ノロ管轄である。(移動前は近隣にあった村が遠距離、
あるいは海越となるが変更されることはなかった。
・現在でも湧川のウプユミとワラビミチの時、我部・呉我などから神人が湧川にやってくる。
・『琉球k国由来記』(1713年)の頃の今帰仁間切の地頭代は「湧川大屋子」であったが、新設村に湧川村
と名づけ、その後の資料を見ると今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上を名乗るようになる。
・村移動は羽地大川沿いの開拓と屋我地島の開拓にあったと見られる。
・湧川にある奥間アサギは奥間親雲上の家跡とみられる。
・奥間親雲上は羽地間切我部村(1736年移動前なので現湧川地内)生まれである。
・奥間親雲上は羽地間切親川村地頭代立川親雲上が問題を起こし家内取揚げ、流刑にされたとき、
南風掟役であったが職を辞し今帰仁間切勢理客村に屋敷を構えた。今帰仁間切の役職を戴き首里
大子、さらには地頭代までなる。
・奥間親雲上の生まれ故郷である我部村(現湧川地内)の祭祀と今でも密接に関わっている。
・奥間親雲上は雍正5年(1727年死去)している。現湧川地内にある奥間アサギは奥間親雲上の
今帰仁間切勢理客村に移動する前の屋敷とみられる。そのアサギ内には火神が祭られている。
・勢理客村に移った奥間親雲上の一族は今帰仁間切の地頭代や湧川親雲上や首里大屋子・兼次
親雲上・諸喜田大屋子などの間切役人を出している(勤職書あり)。
・その家筋は嶋スンコノロクモイ(勢理客ノロ)を出す家でもある。
・奥間親雲上の墓所はヤガンナ島にあった。
▲奥間親雲上の屋敷跡とみられる奥間アサギ ▲奥間親雲上一族の墓のあるヤガンナ島
2007年9月6日(木)
夏休みに来れなかった二つの時代の四名がやってきた。「第二監守時代(前期)」と「間切時代(後期)」の組である。今日は展示室で(歴史の全体像を見せるため展示作業風景を見せる)。二つの時代の概要と、その時代の出来事の何を絵にするかまで。次回あたりから、分担した時代を一人ひとり絵にして、他の友達に伝えていく作業にはいる。今日のグループは、
第二監守時代(前期)は北山監守が首里に引き上げたこと。今帰仁ムラと志慶真村が麓に移動。六世と七世は運天の大北墓に葬られている。首里に引き上げた1665年翌年、それまでの今帰仁間切は二つに分割されたことなど。
間切時代(後期)は琉球が琉球藩(明治5年)となり、明治12年の廃藩置県で沖縄県となったこと。番所(役場)は運天にあり、今の村長は地頭代、明治31年に間切長となる。そして当時の税は穀物でおさめ、船で那覇に運んでいたことなど。今泊村と諸志村は二つの村の合併であることなど。
▲展示作業場での学習 ▲帰りはミーちゃんと戯れて。
2007年9月4日(火)
学芸員実習生達が昨日二人、今日三人と去っていった。展示途中で名残り惜しそうに去っていった。わたしは、寂しさに浸る間もなく、いくつかの締め切りものに追われている。それと、過去30年分の自分の足跡を示す資料さがし。さがせないないのもあるが、「チリも積もれば山となる」か。それも早々にケリをつけないと、週末には次のがやってくる。押しつぶされそうだが、熱を冷まし楽しくいこう。しばらく、展示作業は休憩。ハハハ
▲名残りおしく今朝去っていった三人
2007年9月2日(日)
古宇利島の海神祭(ウンジャミ)調査なり。今年も古宇利島の海神祭(ウンジャミ)が行われた。古宇利島のウンジャミ調査を手がけた最初の年は平成元年である。あれから19年目の歳月が経っている。平成元年は確かヌミ(弓)を持つ神人は四人ではなかったかと調査報告をみてみた。玉城ハルさん(当時91歳)、大城ナエさん(当時81歳)、大城フデさん(当時64歳)、渡久地アヤ子さん(当時50代)の四名である。何故か平成元年のウンジャミに兼次さんの姿が見えない。今年のウンジャミのヌミを持つ神人は四名である。平成元年以降神人は増えていくが、今年の四名の神人の数は事情が異なる。
神人の数もここ数年減少の一途をたどっている。そうでありながら、祭祀は辛うじて行われている。神アサギ、フンシヤー、ヒチャバアサギ、シラサ(岬)、ウプドゥマイへと移動していく。
それぞれの場所での神人達の所作からウンジャミが、コの字の七回の往復(島の七森七嶽を意識しているかもしれない)、餅降りと配布、ヌミで穀物を測る場面、フンシヤーでのロープを張っての船漕ぎ、祠の男根、ヒチャバアサギでの七回まわり、大きな棒漕ぎ、シラサでの神送り、ウプドゥマイでの潮撫、そしてヌミに取り付けられた唐船旗でなどから、ウンジャミの一連の流れや所作に多くの願いごとが含まれていることに気づかされる。(今年のウンジャミ調査が最後なのかもしれないと一瞬脳裏をよぎる)
①神アサギでのウガン ②コの字に七回まわり
③神アサギの東側へ移動 ④塩屋へ向かっての祈願?
⑤ヌミで穀物を測る所作をする兼次さん ⑥フンシヤーでの船漕ぎの所作
⑦神道を通りヒチャバアサギへ ⑧ヒチャバアサギでの七回まわり
⑨シラサで塩屋に向かっての神送り ⑩長い棒での船漕ぎ
▲ウプドゥマイのザン(ジュゴン)岩の前で。一人はザンに変身
2007年9月1日(土)
学芸員実習は大詰めを迎えている。午前中、学生達はシーカヤックへ。海上から陸へあがっていく古(いにしえ)人の感覚を味わって欲しくて。(その間、私は館で息抜きなり。他の業務を片付けないと)
展示作業は、これからが本番。実習期間中に、できるだけ全体像が見えるように進めている。午後からの展示作業は、山原と関わる歴史的な碑(拓本)を掲げてみた。碑の文字は難解のが多いが、「何だろう?」とひきつけられる。先日展示した部分のバックに色を入れてみた。展示のイメージが変わってしまう。展示の醍醐味の一つを体験する。
▲山原と関わる碑(拓本)の分布展示(学芸員実習の5人衆)