山原の神アサギの調査をしたことがあります。10年余の歳月が経ったので、改めて訪ねてみることにします。あれからどう変わったのだろうか。『琉球国由来記』(1713年)から300年経っても、生き続いていることに驚いたものです。歴史の変化している部分を追ってきたのですが、歴史を見ていく者にとって変化しにくいものも見逃すわけにはいきません。
神アサギもそうですが、祭祀や祭祀場も変化しにくい歴史的な要素だと捉えています。300年も消えることなく息づいている神アサギを追ってみることに。もちろん神アサギを作る材料は、茅葺きからセメント瓦や赤瓦、今ではコンクリートづくりなどになっています。中には、合祀された神アサギもありますが、明治まで追いかけることができます。これから、神アサギを歴史を見る視点の一つとして、どう生かせるか楽しみ。
これまで神アサギと御嶽、そして神社を切り離して見てきたが、それらは並行に見ていく必要がありそう。昭和の初期、各地の村(ムラ:現在の字や区)に神社が建立される。ムラ・シマに神社を建てる場合、御嶽そのものを神社にする、神アサギを拝殿、イベを神殿にし拝所を合祀、御嶽や神アサギとは別に神社を建てる場合がある。神社をどのようにムラ・シマに創設したか、そしてこれまでの拝所をどうしたのか。合祀できたか、神社は造ったが、これまで通り合祀されず祭祀を行っているか、神社に合祀したが、元に戻した所。神社を建立したが、合祀できずこれまでの拝所で祭祀を行うスタイル。神社を受け入れるが、受け入れの形態は様々である。どのような形をとっているのか、まずは確認をしてみることから。
各地の神社建設への動向を社会の動きから見ていくことに。
(随時追加)
【大宜味村塩屋の中之山公園・塩屋中之山拝所】(大正12年)


【国頭村桃原の金萬神社と神アサギ】

【本部町具志堅のお宮】(グスクにお宮(神社)を建設した例)(平成24年6月26日)
本部町具志堅は具志堅・上間・部真の三つの村(ムラ)が統合されている。その時期についてははっきりしないが明治直前頃のようである。村の統合はあったが、祭祀と関わる神ハサーギは昭和16年まで三か所に具志堅神ハサーギ、上間神ハサーギ、部真神ハサーギが別々にあった。昭和16年頃の神社化した時に三つの神ハサーギを一つにし、三カ所の火神をお宮(神社)の御神体と位置付けている。
お宮(神社)は御嶽(ウタキ)に創設してある。拝殿と神殿を設置、神殿はウタキのイベにあたる。具志堅の祭祀のほとんどが、ウタキのイベへの祈りからスタートし麓へと降りていく流れである。昭和16年頃御嶽のイベに神殿を建設してあるが、火災にあい建物の跡は遺しているものの再建されていない。具志堅は神社(お宮)を御嶽(ウタキ)に建設し、神ハサーギを一つにし、三つのムラの火神を合祀する形をとっている。しかし、これまでの祭祀も根強く踏襲し、御神体もイベとしている。(参考文献:具志堅誌)

▲本部町具志堅のお宮 ▲お宮(拝殿内の香炉:右の香炉は真部ウガンへの遥拝)

▲お宮の拝殿 ▲焼けた神殿(イベ)の跡 ▲焼ける前の神殿
【今帰仁村勢理客】(御嶽をお宮(神社)にした例)(平成24年6月25日)
今帰仁村勢理客は御嶽(ウタキ:ウガミ)をお宮(神社)にした例である。「せりかくのろの あけしののろの」とオモロで謡われる勢理客ノロを出しているムラである。ウタキのイベを神殿にしてある。

▲鳥居の側に「勢理客御宮新築記念」(昭和平成61年)とある。森はウタキ▲ウタキのイベを神殿
【本部町伊豆味の神社と神アサギ】(平成24年6月25日)
本部町伊豆味の「伊豆味神社」の建立は昭和5年である。神社の右手に神アサギ、左側にはトゥヌグヮがあり、神社の建設をすると共に、これまでの拝所もそのまま置かれている。碑には「御大禮記念」とあり、裏には「昭和四年十一月二日着手 昭和五年九月十八日竣工」とある。

▲本部町伊豆味神社 ▲大典禮記念の碑 ▲伊豆味の神アサギ(右の建物)
【東村川田の御嶽と神ハサギとお宮】(平成24年6月24日)
東村川田のお宮(神社)の造りを見ると、一つの森(ウタキ?)に勝之宮(神社)を創設してある。お宮を創設してあるが、これまでの拝所をお宮に合祀することはしていないタイプとみられる。ただし、ウタキに祠をつくり、そこにいくつかの拝所をまとめた痕跡がみられる。お宮(神社)の受け入れに、これまでの祭祀もお宮に合祀することなく共存していくタイプ。

▲川田の勝之宮(オミヤ) ▲お宮を建設した森

▲お宮の前方にある神アサギ ▲根神屋(ニーザンヤー) ▲ウタキ内の祠(イベ)
【名護市(旧羽地村)呉我のハサギと神社】(平成24年6月23日)
(工事中)
【今帰仁村上運天の御嶽と神ハサギと神社】(平成24年6月23日)
今帰仁村上運天の御嶽(ウンシマヌウタキ)内に神アサギ・掟火神・根神火神・御嶽のイベなどがある中、昭和15年12月8日(皇紀二千六百年に「神殿改築紀念碑」が竣工されている。神殿の内部には御嶽のイベと火神が祀られている。それと「神敬」の扁額が祀られている。上運天では神殿は建設されているが拝殿は造られていない。神アサギが拝殿とセットにされる場合があるが。
(工事中)


【今帰仁村与那嶺の神ハサギと御嶽】(平成24年6月14日)
与那嶺は神社化されていない事例である。与那嶺の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)でムコリガワ嶽とある。中城ノロ管轄の祭祀(五月ウマチー)を見ると、諸志の植物群落(御嶽:ウタキ)の中にあるイベを与那嶺と諸志(諸喜田)の両方のムラの御嶽である。与那嶺と諸志とも御嶽や神ハサギは神社化されなかった事例である。平成23年に神ハサギの建物は葺きかえられた。
【大宜味村田港の御嶽】(平成24年6月13日)
大宜味村田港は御嶽(ウタキ)を神社化したタイプ。御嶽のイビの前に鳥居をつくり、イベに置かれている香炉を神殿と見立てている。20個ばかりの香炉が置かれ「奉寄進」とある。

▲鳥居はイビヌメー ▲イビに香炉 ▲田港の御嶽の全景
【名護市(旧羽地)稲嶺の御嶽と神社】(平成24年6月11日)
稲嶺は旧羽地村のムラで、また真喜屋から分かれた字である。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる真照喜屋御嶽を神社化し、真照喜屋御宮(オミヤ)としてある。御嶽のイベはそのまま神殿とする形をとっている。鳥居は御嶽の入口に建てられている。神社化されたが、これまでの祭祀も行っている。

▲真照喜屋御宮 ▲お宮の内部
【名護市宇茂佐の御嶽と神社】(平成24年6月10日)
神社化し合祀した形が見られる。神アサギを拝殿にはしていない。また御嶽内にうむさ嶽のイベが祠としてある。神社化したが、伝統的な神アサギ、御嶽の形態はそのまま遺している。

【名護市山入端の御嶽と神社】(平成24年6月8日)
名護市山入端は1736年に移動してきた村です。御嶽を神社化すると同時に集落内に「山入端神社」を建立した形をとっています。隣の安和も同様なタイプです。

▲御嶽の入口に鳥居 ▲鳥居の内側に神殿 ▲神殿の内部 ▲御嶽の頂上部にイベ
▲山入端神社 ▲神殿の内部 ▲神アサギと山入端神社
【今帰仁村謝名の御嶽と神社】(平成24年6月7日)
今帰仁村謝名神社は昭和9年旧8月19日竣工です。御嶽に神社を建立したタイプです。数ヶ所にあった拝所を神社に合祀したが、神アサギ周辺の拝所は戦後再び造られています。御嶽のイベは神社の後ろに残されています。そこに「同治九年午九月 奉寄進 松本仁屋」の香炉があります。
神社化に向けて動いたのは「発起者 区長 外有志一同」でした。神社建立に向けて寄付者名は全て世帯主です。神アサギを神社に組み込むんで拝殿にはしていません。謝名神社を建立し受け入れながら、これまでのムラの祭祀も行っています。つまり、神社化を受け入れつつ、これまでの祭祀も行うということに注視する必要があります。

▲御嶽(ウタキ)に建立された神社 ▲謝名神社の神殿

▲謝名神社の碑 ▲御嶽のイベと香炉 ▲謝名の神アサギ
【名護市仲尾次の神アサギ】(平成24年6月5日)
名護市仲尾次は旧羽地村(間切)のムラです。山手に黄金森之御嶽、中城(ナカグスク)がありますが神社化されてません。また神社も建立されていません。周辺に根神屋と大親屋の拝所があり、神社の建立がされていませんので合祀されていない形のムラ。神アサギは何度か吹き替えされています。現在の神アサギは平成16年12月建立。

▲仲尾次の神アサギ(平成16年建立) ▲黄金森之御嶽 ▲中城の遠景
【名護市安和の神アサギ】(平成24年6月4日)
名護市安和の神アサギは最近葺きかえられえています。2011年4月に訪れています。その時は赤瓦葺きの屋根でした。傍を通った老婆は「りっぱにできたでしょう」と誇らしげでした。
神アサギの側に「安和神社」が建立されています。神社の建立は昭和9年です。碑の裏に「竣工 昭和九年一月廿五日」とあり、また「改築 昭和三十七年壬寅旧二月二十九日」とあります。安和の御嶽(ウタキ)は山手にあり、ウタキそのものを神社にしたタイプではありません。神社を建立するが、これまでの祭祀も行っています。集落内に「安和神社」を建立し、安和のウタキに鳥居を建て神社化した形をとっています。

▲名護市安和の新築された神アサギ ▲「安和神社」(昭和37年に改築)

▲「安和神社」の碑裏 ▲2011年4月の神アサギと「安和神社」
【本部町辺名地の神アサギ】(平成24年6月3日)
本部町辺名地の神アサギは公民館の近くにあります。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)があります。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築です。ウタキの前にある鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和六年に建設され、昭和12年に神社として神殿と拝殿として改築jしたものとみられます。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲しています。ただし、御嶽の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化する型。
神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里にもあります。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国した記事がみられます。
咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されています。その時の寄進とみられるが、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉とみられます。
神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木があります。

▲本部町辺名地の神アサギ ▲拝殿改築碑 ▲神社改築記念碑

▲ウタキの入口の鳥居の台 ▲ウタキのイベと神殿内の高炉
【東村平良の神アサギ】

▲左側は平良ノロ殿内 ▲平良の神アサギ
【東村川田の神アサギ】
川田は『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』では名護間切の村。『琉球国由来記』(1713年)では大宜味間切の内、その後は久志間切の村となります。

▲川田の神アサギ
【東有銘の神アサギとカニマン御嶽のイベ】
有銘の集落の後方にカニマン御嶽があります。御嶽の頂上部にイベが置かれています。神アサギは学校の裏側にあり、付近に有銘ノロ殿内があります。周辺に拝所がいくつもあり、合祀されたようですが、前からの拝所も残されています。

▲有銘の神アサギ ▲カニマン御嶽のイベ