奄美の琉球国からのノロ辞令書(古琉球) 地域研究トップへ
琉球からのノロ辞令
「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529〜1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。
辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。
古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。
・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
しよりの御ミ(事)
とくのにしめまきりの
てヽのろハ
もとののろのくわ
一人まなへのたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
萬暦二十八年正月廿四日
▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より
・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)
しよりの御ミ事
とくのにしめまきりの
てゝのろハ
もとののろのくわ
一人まなへたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
万暦二十八年正月廿四日
古琉球の辞令書と三島の「まきり(間切)」
近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。
古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。
・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
(受給者不明)(年欠)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)