沖縄の地域調査研究

       寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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2022年4月
                    
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山原のシニグ
・沖永良部島を往く
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島(2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
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本部ミャークニーを辿る


2022年4月30日(

 恩納村恩納での「ムラ・シマ講座」を行ったのは平成23年10月に行っている。明日(5月1日)に恩納村恩納と瀬良垣を往くので、少し頭の整理。どんなことを話題にしたかの確認。(明日の準備でもするか)明日の参加者は「恩納村史」の職員と委員の方々:数人、勉強会です)

 「ムラ・シマ講座」は恩納村恩納です。恩納間切(今の村)は1763年に金武間切の西海岸と読谷山間切の北部の村を分割して創設された間切です。北部(北山)と中部(中山)の村を統合した恩納間切、そして創設された間切の番所は恩納村に置かれます。

 また、ペリー一行が恩納間切の番所を訪れスケッチをしています。当時の恩納間切番所の様子が伺えます。また、以下の場所に立ち止り、恩納間切の中心となった恩納村(ムラ)で歴史・文化に触れることにします。恩納間切の恩納村(ムラ)、そこでどんな歴史が展開されたのか。恩納(ウンナ)の意味は?

 ・恩納村の位置図

 ・恩納村のムラ・シマ(金武間切から)

 ・恩納村のムラ・シマ(読谷山間切から)

 ・海からみた恩納のムラ・シマ

 ・恩納村恩納(同村)

 ・恩納の集落移動

 ・金武間切の頃の恩納のろ

 ・現集落と二人の掟

 ・神アサギと殿(トゥン)を持つ地域

 ・恩納ムラ内の旧宿道と新宿道

 ・徐葆光と王文治の扁額

 ・尚敬王・蔡温の北山巡行

 ・恩納ナビーの琉歌(恩納岳) (恩納ナビ―の歌碑移転)

 ・ペリー一行が遺した恩納間切番所(公舘)

 ・昭和9年の恩納での献穀田御田植式

 ・恩納間切番所付近の様子

 ・恩納ノロドゥンチ (移転している)

 ・恩納の神アサギ(茅葺き)

 ・カンジャガー

 ・恩納ナビーの歌碑(昭和4年建立)

 
(祠の建て替えがなされているため画像は略:歴史は刻々と動いています) 
 ▲恩納グスク内の殿(ヤウノ嶽)         ▲浜崎嶽(東の御嶽)         ▲浜崎嶽内のカネクノ殿

2022年4月29日(

 今日から連休にはいります。

 「寡黙庵」の庭はユリやハイビスカスなどの花が咲いている。花の鑑賞は小鳥達と私一人。(「寡黙庵」に家族が集まるのはお盆と正月のみ)


     ▲ユリ                       ▲ハイビスカス(大輪)

 5月1日(日)恩納村の瀬良垣と恩納を往くので、会議の前に時間があったので下見をする。瀬良垣の海岸(津)は忘れることのできない発見があったところである。「いい港」の条件の一つ。三つのパナリ(離れ島)があり、島の名前と神アサギとカミヤー、旧道(スクミチ)などの確認、戦後分離独立した太田は飛び越して恩納集落ヘ。茅ふき屋根の神アサギヘ。現恩納集落の区分の確認がしたくて。


▲瀬良垣の神アサギ      ▲瀬良垣の小島(離島)

▲恩納の神アサギ   ▲村や―の火神? ▲カンジャーガー(鍛冶屋泉)


2022年4月28日(木

 先日、沖縄本島北部の東海岸の村(ムラ)を往く。途中東村の「山と水の生活博物館」に立ち寄る。民泊の学生を連れて博物館の展示を案内されているいる宿の親父達。その様子を近くで拝見。懐かしくもあり、その世界に感動。

 頭の中では、東村の村々の歴史や出来事が駆け巡る。20数年前に山川出版社に出した原稿の下書きである。東村のことが頭を駆け巡っている。大宜味村田港と東村の根謝銘屋は、中北山の時代の興亡で国頭地方に逃げ延びた一族である。北山に戻ることができなかった中北山系統の一族である。(その歴史を根強く継承している)

【東 村】

 東村は国頭東線(県道70号線)が通り、沖縄本島北部の東海岸に位置し、大正12年(1923)に久志村から分離する。南の方は名護市(旧久志村)と接し、北は国頭村と接している。東海岸を県道70号線が東村を南北に走る。南の方から、有銘・慶佐次・平良・川田・宮城・高江と続く。有銘川沿いの左岸に旧集落が発達している。そこにはグシクダケ・神アサギ・ノロドゥンチ・カミヤー・学校などがある。現在の東村は高江、宮城、川田、平良、慶佐次、有銘である。高江は大正期に隣接する宮城から分区した。山林の多く新川川の上流部に新川ダムがある。林業が中心であった頃、切り出した木材は馬で運び、高江・新川から泡瀬や与那原へ山原船で運ばれていた。現在の東村は1600年代、名護間切域だったことに驚かれる。それと1713年ころは大宜味間切の村であった時期がある。

・東村宮城
 宮国頭東線(県道70号線)が通り、宮城は大鼓村であった。1736年に創設された村のようで、国頭間切安波村と久志間切川田村の間に村がなく、その間7里に及び不便なので大鼓村を創設した(『球陽』)。現在の宮城に落ち着くまで何度か移転している。宮城の本集落は小規模であるが、神アサギやウフガー、オミヤ(ニガミヤーともいう)がある。オミヤのある後方の森はムイという。祭祀は平良ノロの管轄である。ノロは当初川田から出ていたが、近世期には平良村からでるようになり現在に至っているとの認識がある。本祝女(フンヌル:サチヌユヌル)や祝女(公儀ノロ:コイシヌル)の呼称の区別は、そのことが反映しているようだ。オミヤの内部は火神とウタキグサイ(イベ?・中の世の神・村の発祥)が祭られている。中の世の神は仲北山の系統(川田の根謝銘屋の伝承)につないでいるようである。 宮城は薪や材木を切り出していた時期があるが、村有地の払い下げでパイン栽培が大規模に行われている。他の地域から来た人々で形成されている。

・東村川田の根謝銘屋(ニジャンヤ―)
 川田は1673年まで名護間切、久志間切が創設されると同間切の村、1695年大宜味間切に入るが、1719年に再び久志間切の村となる。福地川に昭和49年に福地ダムが完成する。川田の旧家に根謝銘屋があり、「主の子孫伝承」と、同家に絹地の衣類や古刀および黄金かぶの簪があり、黄金の簪は旧正にお披露目される。火災で焼失したようであるが、現存するのは代わりの品のようである。「黄金のかぶの簪」はノロの簪と同様なものか、それとも異なるものか。川田は平良ノロ管轄のムラなので、いずれにしろ伝承を伴った貴重な資料である。根謝銘屋は川田のオミヤの入口にあり、石垣やガジマルの老木は旧家を彷彿させるのに十分である。オミヤから根謝銘屋の傍を通り海岸までの道筋は、集落形態の軸線で神道となっている。途中、ムラヤー跡や神アサギがあり海岸へと通じる。川田のウガンジュにタカデーラウガンジュと呼ばれている拝所がある。分村当初(昭和12年)川田に置かれた役所は、戦後昭和21年に平良の集落内に置かれた。先祖を祭った「中北山王」の墓がある。側にサキシマスオウの大木がある。



・東村平良
 
東村平良に村役所があり、国頭東線(県道70号線)が通り、大正12年から村の行政の中心となっている。『琉球国高究帳』(1713年)に名護間切平良村とあり、名護間切の村の一つであった。1673年に久志間切が創設されると平良村は久志間切の村となる。その後、1713年の『琉球国由来記』では川田村と平良村は大宜味間切の村となる。1695年に大宜味間切の村となる。しかし1719年に再び久志間切の村となる。大正12年に久志村から分離し東村の字となる。平良ノロは平良と川田を管轄する。平良と川田は中北山の系統だという。

 

・東村慶佐次
 
東村の慶佐次は名護間切、大宜味間切、そして久志間切の村であったことがある。大正12年に久志村から分村し東村の一字(アザ)となる。集落の前方を慶佐次川が流れ、流域にマングローブが生息している(国の天然記念物)。集落の入り口(南北)にムラの石獅子(シーシ)が置かれている。慶佐次川流域のマングローブが繁茂し、一帯にミナト(港)原の地名があり、流域を山原船が往来し港の機能を果たしていた。神アサギの回りにニガミヤーやウフドゥンチ、集落の後方にオミヤがあり、その森がウタキとなっている。アジ(按司)墓と呼ばれる石積みの墓がある。

・東村有銘
 源河(現名護市)から東海岸の有銘(アルメ)へ。有銘川の河口から遡るようにたどる。海岸沿いの浜集落、学校周辺のムラ集落。学校周辺の小規模ながらの集落は、ムラ人たちの古くからの生活の痕跡が伺える。学校の裏手の杜はウガンがあり、ウガンとは別にグシクダケがあり、有銘はウタキが二ヶ所ある可能性がある。ウガンの抱くかのように展開する小さな集落に、ウガン・神アサギ・カミヤー・二つの祠(左がヌルドゥンチ、右側がニガミドゥンチ)がある。その前にはムラガーがある。かつての集落を構成する要素が配置されている。まずはそのような印象を持ったムラである。そのヌルドゥンチの神屋とは別に「のろくもい」(ノロ)の位牌が祭られた家がある。


※近年神アサギやノロ殿内の神屋が建て替えれている。そこから出てきた鏡が「東村の博物館」から報告書
  が出されている。

2022年4月27日(

 先島行きは、しばらくご無沙汰している。竹富町の島々と石垣島との間に一つの文化圏をなしているのではないか。そんな思いで見ている。1609年以前の与論島から以北の沖永良部島・徳之島・奄美大島・喜界島に触れる時、尚真王が中央集権を敷いた時代(1500年初期)の先島(宮古・八重山)はどうだったのだろうか。奄美は1611年以降薩摩へ、先島は琉球国のまま。そこで与論島以北の島々に遺る琉球的なものは、1609年以前の琉球国痕跡ではないかと考えきた。また、奄美大島の南に位置する加計呂麻島と対岸の瀬戸内との間で、先島の竹富町の島々と石垣島との間での海上交通での往来で、それぞれの文化圏をなしているのではないか。そんなことが頭に浮かぶので、南の竹富町の黒島へ(波照間島・竹富島・小浜島・西表島は過去に触れたことがある)。

沖博協の研修会 2002.10.19(土)


 
石垣市で沖縄県博物館協議会の研修会があり参加した。

(メモ書き)
 二日目の午前中の研修が終わり、黒島まで足を延ばした。これまで西表や小浜、竹富には何度か行っている。黒島は初めてである。黒島の情報を持たずに島に渡ってみたのであるが、なかなかイイ島である。12時30分の便であったので島での昼食。仲本にある食堂に車で連れていってもらった。車の中から「平坦な島だな」「牛が多いな」の第一印象。

 車の運転手さんが「南方の北海道ですよ」の第一声。牧場が広がり牛があちこちに群れをなしている風景があった。なるほどと思いながら食堂へ。食堂で料理をつくっているのは若者達が三名。また食事に来ているのは大和風の数人の若者たちがほとんど。「ああ、歳だな」と内心思いつつそばを食べたのは私たち四名。那覇市歴史資料室のMさん、県博友の会のIさん、宮古博物館のOさん。千代金丸・千金丸サミットだなとのMさんの声。

 島の案内役は黒島観光の島仲さん。まずは小中学校のある島の中央部にできた展望台へ。頂いた簡単な地図を見ると仲本・宮里・東筋・伊古・保里などの集落がある。また、浮海御嶽・舟浦御嶽・迎里御嶽・南風御嶽・南風保多御嶽・南神山御嶽・喜屋武御嶽・比江地御嶽・北神山御嶽・阿名泊御嶽・仲盛御嶽・保里御嶽がある。御嶽はワンと呼ばれているようだ。どうも御嶽の発生と関わる重要な場所で拝所となっている。沖縄本島の御嶽(ウタキ)に相当するものにちがいない。集落との関わりでは複雑な歴史を持っているようだ(古宇利島の七森七嶽と集落を考える上でヒントが得られそうだ)。黒島はハート形の島だとの説明。なるほど。道開通の碑はハート型(島の形)の石でした。
  ・乾震堂(ブサドーと言っていた)
  ・イサンチャ(古い墓)(二基)
  ・伊古旧桟橋
  ・勤王流ゆかりの地(八重山民謡)
  ・比江地御嶽
  ・番所跡(宮里)
  ・フズマリ(タカムイ)
  ・ビジターセンター
の順で回ってみた。ビジターセンターでは宮喜 清(キヨ)さんが、「名前を書いて」と、呼び止められてしまった。「みやき壮」の民宿もやっているようで「次くるときは泊まっていってよ」と。そばにいた孫だという娘? 

□フズマリ(タカムイ)
 1644年尚賢王の時に烽火をあげる制度ができた。海上に現れる船の監視をし、首里王府へ伝達する場所である。先島の島々にあり黒島にもある。宮里にあるのがフズマリ(タカムイ)、学校の側にも同様なムイがある。それも火番所と説明していたが未確認。

□イサンチャ(古墓)
 古い墓のことをイサンチャと言うのだろうか?鉄条網を張られた牧場の中にあり、周辺は石積み。中に家の屋根を模してある。土を耕すのにヘラを使っていた時代に、島の役人高嶺首里大屋子が石垣から牛を連れてきて、それに鋤と鞍をつくらせ耕す訓練をした。牛は耕すことに慣れ、生産もあがったという。そのことに感謝したという。その人物の墓がイサンチャだという。隣にあるのは、高嶺首里大屋子の島での奥さんの墓。また黒島への牛の最初だともいう。

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▲乾震堂の入口           ▲乾震堂の祠にある碑?

...
   ▲イサンチャ(古墓)       ▲イサンチャの墓室の入口
 
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▲ハート型をした道開通の碑(東筋)  ▲比江地御嶽の建物〔東筋) 

..
▲フウマリ(タカムイ)(火番所)(宮里)    ▲番所跡の祠(宮里) 


2022年4月26日(

 急に立て込んできた。今帰仁村兼次誌、大宜味村史、東村川田、本部町の数かムラ。奄美・・・など。

本部ミャークニーを辿る

 午後から恩納村へ。会議の前に来週の講座の下見をする。前回、金武間切からのムラ(瀬良垣と名嘉真、それと喜瀬武原)を案内した。今回は瀬良垣と恩納の二かムラ。10年前のレジメ。風景が大分変りました。書換えが必要。それと頭の切り替えも必要。歴史も生き物だと実感。




2022年4月25日(

徳之島と琉球の過去記録に再び立ち寄る。

 これから「寡黙庵」へ。スケジュールの確認へ。


2022年4月24日(

  本部町瀬底島を皮切りに本部町渡久地、名護市嘉陽、東村有銘、川田、高江、国頭村安波まで。国頭村安波で力尽きてしまう。とうとう来たか!明治・大正・昭和(戦前)・戦後(昭和30年代)のムラ・シマの形は、もうもう戻ってこない時代の産物の感がしている。(講座用に瀬底について書き改めてみた) 書き改める必要はないと自己矛盾と知りながら社会の動きと付き合っている。

 名護市の東海岸の嘉陽グスクまで登る。地元ではウイグスクと呼んでいるようだ。名護グスク(杜)にあった集落が麓へ移動した(城・東江・大兼久)変遷と類似しているのではないか。(規模は小さいが) 祠内に六つの山の小石が置かれている。それはきぶし(煙)石で、この集落は六つの血族からなるとの認識があるようだ(有銘・安波・田港・屋古などでみる)

 飛ばして高江へ。高江の学校発祥の地の碑(があり、山原の奥地の集落の変遷が伺える。学校の発祥地の碑には高江校発祥之地、明治四十一年建立・明治四十五年(大正元年)新川へ移転・昭和四十年牛道へ移転、平成二十年十一月吉日・仝百周年記念事業期成会とある。そこから下の方の新川へ移動した学校の跡地に「高江小中学校」の碑があり、そこからさらに現在地へ。学校の移り変わりだけでなく集落の変遷も伺える。

  (以下工事中)

  

  

  

  



2022年4月23日(

 
本部町瀬底島へ。本部町には遠見所(トーミ)が二ヶ所にある。一つは今帰仁村との境の本部間切具志堅の大嶺原へ、もう一つは瀬底島の一番高い所にある。本部間切具志堅大嶺原から伊江島の遠見所へ繋ぎ、再び本部間切の瀬底へつなぐ。そこから読谷山間切。座喜味へ。瀬底の遠見所は拝所になっている。方位石がないかの確認が目的。それらしい大きな石や、それらしい形の石はあるが方位が刻まれいるか、その確認はできなかった(蚊が多く)。島に遠見番の屋号があるはずだ(未確認)。本部新港から瀬底島を臨むと一番高所に遠見番所がある。瀬底貯水池(大型タンク)が目印。島が今帰仁村古宇利島のように急速に変わりつつある。

 本部町博物館に立ち寄る。6月から講座を開催する予定の打ち合わせ。(後押しすることに)

  
▲瀬底島の対岸は本部港     ▲頂上部に拝所がある     ▲遠見所に使われた石?

 

 帰りに「寡黙庵」に立ち寄り、庭の植えた鉢の水の確認。

▲納屋を撤去した跡            ▲10年近く放置した姿         ▲最近、花木や野菜を植えた鉢を置く



2022年4月22日(金)

 4月から「寡黙庵」への出勤がほとんど。そこへ来客がちょこちょこあるので、片づけている。資料整理のため五本の棚をつくり納めていた。もう必要ないと覚悟していたのであるが。大分前のことと思っていたら、まだ3年前のこと。断捨離したはずだが。さて、回り道して寡黙庵へ。またしても、庭いじりと日曜大工にいそしむか。途中、本部町瀬底島と本部町立博物館に立ち寄る。

2018
1222日(土) 
過去メモ

 
「寡黙庵」の資料整理の棚づくり。ほとんどが立てられないコピー資料。今日明日で仕上げねば。果たしてどうか。年末の大掃除が待っている。体は年末の休暇であるが、脳は港・江(山原船と交易)、山原のムラ・シマ、北山の歴史、戦争、民俗、移民、『新今帰村史』の内容と発刊計画の件など.。今日の一件はキャンセル。

 1月の中旬には今帰仁村兼次で食べ物について字誌に収録の調査を行うことに(県の「行事食に関する民俗調査」)にそのレジメつくり。四時頃から「平良新助」についての取材で、新助資料の開示。近々、記憶がプツンと途切れるかも。

 ここ三ヶ月ほど、朝食は切り餅二個(醤油とキムチつけ)。油であげて塩で食べていたが、片付けまで時間がかかるのでグリルプレートで、二回ほど焦がして煙や火をだしてしまう。(使い方くらい学習してと声がかかる。独ぐらしになった時のことを考えてのことのようだ) 今朝は切り餅二枚、何故かコーヒー。


    
▲久しぶりの大工作業          ▲朝食(切り餅二枚とコーヒーかお茶)

2018
1224日(
 過去メモ

 あまり意識しているわけではないが、物事を考えたり、詰めをするときパネルや棚や展示台を作っている。100枚以上のパネルをつくってきたが、それぞれの思いがある。それをつくる時間がわたしにとって欠かすことのできない場面である。その時間が脳裏に刻んできた記憶である。数多くの企画展のパネルであるしちんけな模型やスケッチである。このブログで紹介している画像もそうである。今回の棚づくり(3m60㎝×45cm)もそうである。その間30ページの原稿を2ページに収めるダンシャリの決断をする方針を決めた時間であった。

 さて、原稿のダンシャリの方針が決まったので今日で脱稿。昨日塗ったペイント乾いているかな。ダンシャリの方針を決めた時間の棚づくり。(余談) 原稿のダンシャリ実行へ、出発!


▲ペイント塗りの前            ▲ペイント塗りの仕上がりはどうか?
2022年4月21日(木)

 今帰仁村字兼次誌の編集会議。全体「もくじ」を提示し総ざらい。明治41年から戦前の動き浮かんでくる。(戦争と突入か?) 世界の動き、日本の戦前の動きが重なり、急遽、戦前の年表を取り出している。それは村政100年ととき整理したものである。

【1908年】(明治41)(間切長城間半蔵→村長) ~1909・11・19)
 ・4月1日 今帰仁間切は今帰仁村となる。これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
        間切長は村長となる。
 ・今帰仁村役場は運天にある。
 ・今帰仁村から初めてブラジル移民を送り出す(与那嶺仁五郎氏)

【1909年】(明治42)(村長・新垣源次郎氏:1909・11~1916・5・31)
 ・五月 初の県会議員選挙で仲里金伍郎氏(平敷)が当選する。   

【1910年】(明治43)(村長・新垣源次郎氏)
 
【1911年】(明治44)(村長・新垣源次郎氏)

 ・村田精成民氏が村医として診療に従事する(運天)。
 ・今帰仁村青年会が結成される。

【1912年】(明治45)(大正元)(村長・新垣源次郎氏)

【1913年】(大正2)(村長・新垣源次郎氏)
 ・第2回県会議員選挙で仲里金五郎氏が当選する。
 ・旧3月 渡喜仁のウッパマで大鯨が捕獲される。
 

【1914年】(大正3)(村長・新垣源次郎氏)
 ・7月 第一次世界大戦はじまる。

【1915年】(大正4)(村長・新垣源次郎氏)
 ・北山城の管理を今泊に委任する

【1916年】(大正5)(村長・新垣源次郎氏)
 ・今帰仁村役場、運天から仲宗根へ移転する
 ・名護~大井川間の山手線(郡道)が開通する。

【1917年】(大正6)(村長・与那嶺蒲助氏)(1916・6・1~1924・2・9)
 ・6月 与那嶺蒲助氏を村長に任ず(字与那嶺)
 ・台南製糖工場が仲宗根にできる(~大正10年)

【1918年】(大正7)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・11月 ドイツが降伏して第一次大戦が終わる。
 ・仲本カナさんが仲宗根で産婆を開業する。
 ・今泊~湧川の一環道路の改修が行われる。
 ・村の西部耕地整理排水工事が施行される。

【1919年】(大正8)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・4月 天底小・兼次小に高等科をおく。
 ・5月7日皇太子殿下御成年式挙行後、村内各校運天に集合。旗行列をなして兼次校まで進行し、
   雨天のため自由解散となる。古宇利校職員児童は北山城趾を見学する。

【1920年】(大正9)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・4月 古宇利小に高等科をおく。
 ・6月 与那嶺蒲助、第一回民選村長に就任する。

 ・大阪市場における黒糖の暴騰・暴落が県経済に壊滅的な打撃をあたえる。
 ・普通町村制が施行される。
 ・字呉我山が創設される(玉城・天底・湧川の一部で)。
 ・平良新助氏(明治27年生)インペリアル・クロレー市へ移り住む。日本人会沖縄県人会長
  を勤める(移民を保護援助する)。

【1921年】(大正10)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・1月15日 忠魂碑除幕式が行われる。
 ・5月 第四回県会議員選挙で仲里金五郎氏が当選する。

【1922年】(大正11)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・6月23日 沖縄史蹟保存会によって運天森に「源為朝公上陸址之碑」が建立、除幕式が行われる。
 ・村公益質屋を設立する。
 ・7月2日 仲宗根宗助氏が村長に当選する。
 ・パラオ諸島コロール島に南洋庁が設置される。サイパン・ヤップ・パラオ・ポナペ・
  ヤルークの六支庁を置く。
 ・1922年以降年平均七〇〇〇人の労働者が移民や出稼ぎとして県外へ。(昭和初期の県の人口
  は六〇万人)(出先地は南洋群島・京阪神・京浜地区へ)

【1923年】(大正12)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・関東地方大震災がおこる

【1924年】(大正13)(村長・仲宗根宗助氏)(1924・11・10~1928・11・9)
 ・11月29日 運天トンネル開通する。

【一九二五年】(大正一四)(村長・仲宗根宗助氏)
 ・五月 第五回県会議員選挙で湧川善太郎氏当選する。

【1926年】(大正15)(昭和元)(村長・仲宗根宗助氏)
 ・4月20日 「青年訓練所令」が公布される。7月1日には各市町村に設置される。 
 ・金融恐慌が起こる。

【1927年】(昭和2)(村長:仲宗根宗助氏)

【1928年】(昭和3)(村長:山城全助氏)(1928・11・10~1933・11・9)
 ・衆議院議員選挙
 ・昭和天皇の御大典(即位)で皇室の慶祝ブームにわく。
 ・8月11日 山城全助氏が村長に選任される。
 ・公益質屋を鉄筋コンクリートで改築する。

【1929年】(昭和4)(村長:山城全助氏)
 ・県会議員選挙

【1930年】(昭和5)(村長:山城全助氏)
 ・衆議員議員選挙
 ・5月11日 郵便局に公衆電話を架設する(最初の)。
 ・村一貫線(湧川~今泊)まで県道に編入する。

【1931年】(昭和6)(村長:山城全助氏)
 ・満州事変が起こる。
 ・昭和恐慌へと。(ソテツ地獄)
 ・二月役場内に専用電話を架設する。 

【1932年】(昭和7)(村長代行:高良森蒲氏)
 ・2月 衆議院議員選挙
 ・助役高良森蒲氏が村長職を代行する。

【1933年】(昭和8)(村長:仲村豊七郎氏)(1933・11・10~1937・11・9)
 ・5月 第七回県会議員選挙で仲宗根宗助氏が当選する。
 ・11月 仲村豊七郎氏が村長に選出される。

【1934年】(昭和9)(村長:仲村豊七郎氏)

【1935年】(昭和10)(村長:仲村豊七郎氏)
 ・4月 「青年学校令」が公布される。

【1936年】(昭和11)(村長:仲村豊七郎氏)

【1937年】(昭和12)(村長:玉城幸五郎氏)(1937・11・10~1940・11・9)
 ・8月 「国民精神総動員実施要綱」を発表する。
     ・挙国一致 ・尽忠報国 ・堅忍持久 (三大スローガン)
 ・10月 国民精神総動員運動「標準語励行や風俗改良運動」(徹底化)
 ・日中戦争が始まる。
 ・11月 玉城幸五郎氏が村長に選出される。

 ・12月1日 謝名と仲宗根の一部から越地が分字する。(村会議員大嶺英松氏)
 ・青年運動場が設営される(今帰仁小学校の前)。
 ・字渡喜仁が分字する(勢理客・仲宗根・上運天・運天から)。
 
【1938年】(昭和13)(村長:玉城幸五郎氏)
 ・4月1日 国家総動員法の公布(愛国心高揚)

【1939年】(昭和11)(村長:玉城幸五郎氏)
 ・4月 「標準語励行県民運動要綱」が発表される。
 ・4月7日 「愛馬の日」を定める。
 ・満蒙開拓団1939年から送り出される。
 ・「南洋開発勤労隊」という名で移住を推進する。
 ・ノモハン事件が起こる。

【1840年】(昭和15)(村長:玉城幸五郎氏)
 ・紀元二〇〇〇年奉祝行事が行われる。
  (次第に軍事優先となり戦争時体制が強化される。)
 ・平良新助氏ロサンゼル市へ移り、ニューヨークホテルを経営する。

【1941年】(昭和16)(村長:島袋松次郎)(1941年10・10~1945・11・5)
 ・「三万戸十万人分村計画」が策定され、「二十町歩地主」などの宣伝文句で満州移民を募集。
 ・4月1日 「国民学校令」が施行される。国民学校と改められる。
 ・金武村ギンバル地区(中川)に南方進出の開拓者を養成する「県立拓南訓練所」が開設される。
 ・大陸開拓先遣隊として今帰仁、南風原、恩納から満州黒龍江省へ入植。
 ・11月常用服が「国民服」(国防色・カーキ色)となる。(制定は15年11月)
 ・隣保班(隣り組)が組織される。村や字の伝達事項が回覧板で伝える。
 ・11月 島袋松次郎氏が村長に選任される。
 ・12月8日 真珠湾攻撃。米英に宣戦布告する。

【1942年】(昭和17)(村長:島袋松次郎)

 ・7月 小倉侍従官来村する(超地を視察する。増産についての訓示)。
 ・9月 家庭用諸物資の配給帳制を実施する。
 ・金属類を兵器原料として供出する。
 ・5月 第九回県会議員選挙で宮里喜一氏(今泊)が当選する。
 ・平良新助氏、日米戦争のためヒラの収容所で抑留生活を送る。

【1943年】(昭和18)(村長:島袋松次郎)
 ・青年団、大日本婦人会、在郷軍人会の組織と活動強化される。
 ・甘藷の植え付けが平植から畔立植に強制実施させられる。
 ・食糧・衣料・灯油・たばこ等が統制される。
 ・満州開拓青年義勇軍、五五〇名送り出される。今帰仁村からも加わる。
 ・北山神社の創設が沖縄県庁で決まる

【1944年】(昭和19)(村長:島袋松次郎)
 ・4月   今帰仁青年学校が独立する。
 ・5月   伊江島飛行場の設営が始まる。
 ・7月   サイバン・テニアンの玉砕が報道される。
 ・8月   沖縄守備隊、井上大隊今帰仁小学校を兵舎とし駐留する。
 ・8月   青年学校生は伊江島飛行場、陣地構築に動員される。
 ・8月22日 疎開船津島丸が撃沈される。
 ・8月23日 今帰仁小学校、天底小学校の児童九州へ疎開で出発する(六九名)。
 ・10・10 空襲を受ける。運天・仲宗根が被害受ける。
 ・10月  防空壕堀に本格的に取り組む。21~45歳までの男子防衛隊として召集される。
 ・10月  旧制中学生下の青少年を集め御郷隊を編成する。

【1945年】(昭和20)(村長:島袋松次郎)(村長:松本吉英)
      (1945・11・10~1950・4・16)
 ・1月23日 大空襲を受ける。
 ・1月   第二次現地防衛召集(17~45歳の男子)
       中南部の住民は北部へ避難、疎開始まる)
       今帰仁村は首里・宜野湾・伊江の住民七〇〇〇人を受け入れる。


 
【運天港の状況 
 ・3月23日 米軍の空襲があり、丁型(鮫竜)三隻を含め七隻の特殊潜航艇は勘定納湾の
       海底に沈座して被害をのがれた。夕刻桟橋にあった艇は爆撃を受け沈没する。
        戦う前に五隻を失う(残るは六六隻)。兵舎・倉庫などの施設はすべて失う。
 ・3月25日 夕刻沖根司令部から甲標的三隻(六隻の内)に攻撃命令が下る。隊員は桟橋の
       上で水杯を交わす。訓示したのは隊長の鶴田大尉。(第一小隊)
    ・一番艇(鮫竜二〇九号) 二二:〇〇発進(帰還せず)
    ・二番艇(鮫竜二十号) 二三:〇〇発進(帰還せず)
    ・三番艇(丙型六七号)  二四:〇〇発進(26日帰還する)     
 ・3月26日(第二小隊)
    ・一番艇(丙型六〇号) 二二:〇〇発進(28日に帰還する)
    ・二番艇(鮫竜二〇八号) 二三〇〇発進予定(夕刻桟橋で爆撃を受け沈没)
    ・三番艇(丙六四号) 二四:〇〇発進(28日に帰還する)
 ・3月30日
   ・丙型六七号艇(河本小尉)再び出撃、途中故障のため31日帰還する。
 ・3月31日
   ・丙型六〇号艇(川島艇、敵機の空襲を避けるため岸壁に接触し接触し沈没。乗組員は無事。
 ・3月27日 仲宗根が空襲により全焼する。

 ・4月1日 米軍沖縄本島に上陸はじめる。
 ・4月3日 米駆逐艦、備瀬崎から古宇利島を結ぶ線を往来はじめる。
 ・4月4日 米駆逐艦、距離にして約二kmまで接近する。
 ・4月4日 空襲あり。今帰仁小学校校長住宅、東側教室以外は全壊する。
        兼次小学校は全壊する。
 ・4月5日 夜運天港から二隻の魚雷艇が出撃するが魚雷は命中しなかった。二隻帰港する。
 ・4月6日 運天港の基地は三月末以来間断なく空爆を受け壊滅状態となる。第二七魚雷艇隊は
        陸戦に移行の準備にかかっていた。鮫竜隊も基地の物件を破壊、二隻の甲標的を
        処分、食糧兵器をトラックに満載し、第二七魚雷艇隊(隊長白石大尉)とともに
        陸戦に移る。
 ・5月   米軍今帰仁に兵舎を次々と設営する。
 ・6月17日 謝名・越地から東側は羽地に移動命令発令、越地は主に我祖河に収容される。
 ・6月25日 平敷から西側と越地の残りが久志村大浦崎に強制移動させられる(~11月帰村)。
 ・6月 今帰仁小学校や越地など至るところコーラルが敷かれ、米軍兵士のテント宿舎が設営される。
 ・8月15日 終戦を収容地で聞く。
 ・10月31日 米軍海軍々政長官の布告で羽地疎開者に帰村命令が出される。
 ・11月2日 久志村収容の村民に帰村命令が出る。
 ・11月8日 戦後、初代村長に松本吉英氏を選出する。
 ・11月16日 食糧対策・村建設計画、ミシン部設置、牧場設置、製材部、鍛治屋部、医療部、
         教育部などを設置。村民の衣料救済、畜産増産、農具配給、住宅建築、医療
         救済、子弟の教育などの実施計画の協議を行う。
 ・11月26日 教育関係者を徴集し、教育行政について協議する。1945年12月3日を
         開校期日と決定する。 
 ・12月 小学校再開する(児童数三二〇名)
      帰村後、食糧、衣類など軍援助を受ける。(食糧物資:メリケン粉・乾燥ジャガイモ・
      ポーク・ジャム・トマトジュース・カボチャ缶詰・肉缶詰・粉ミルクなど)
         (衣料品:軍払下げの毛布・HBT・蚊帳・GIシャツ・軍人用オーバー等)
    記念運動場や仲原馬場は米軍j兵器やトラックや軍用物資の集積所となっていた。
    忠魂碑側には地下水上げポンプが設置され水が溢れていた。


兼次(かねし)の概要

兼次部落のことを方言ではカニシ、あるいはハニシと呼ぶ。東隣りの諸志と並称され、カニシ・スクジャあるいはスクジャ・カニシと呼ばれている。

史跡として名高い今帰仁城跡のほど近く、南は緩やかな傾斜地、北は海岸まで広がる平坦地を背景にして、兼次の集落は展開している。北に平地が広がるとはいえ、その地籍は諸志と西の今泊に二分されている。そのため、兼次部落の田畑は、南後方の台地、通称メンナーバルおよびフルジマ近辺に多い。

集落内部にも両隣りの地番が入りこんでいる。兼次小校のある西側は今泊地番、集落北側は諸志の地番である。ウプジューガーと呼ばれる水路で、諸志の集落とは一応区切られるものの、当集落北側部分では両部落の人々の宅が混在している。

戦前・戦後を通じて、兼次部落の主な生業は農業である。戦前の主な作物は、稲、甘蔗、藍等であった。田は天水田であったが、早くから用水池が工夫され、苗代は根がしっかり張り良質だったという。そのため、他部落との米の貸し借りはしなかったという。藍は、もっぱらフルジマ(古島)近くに住む人々の間で作られていたという。また、麻、芭蕉布作のも盛んであった。

戦後、田の殆んど甘蔗畑に切りかえられた。部落に二つのサーターヤー(製糖小屋)があった。ただし、今帰仁や諸志の人々と組んで製糖する場合が多かったという。

現在は、甘蔗を中心に、スイカ、ミカン等を栽培している。農業を専業とするのは十戸内外であり、農家のほぼ、七〇%は兼業農家である。建築業に従事する人々も多く、二〇名程が農業と兼業している。

 




2022年4月20日(水)

 出勤前に一言書いてから。夕方から「今帰仁村兼次」字誌の進捗報告(もくじで)。

 旧暦3月27日18日が近づくと「薩摩軍」の琉球侵攻のことが浮かんでくる。北山が焼かれ、山北監守(五世克祉)が自害した出来事があった。薩摩軍が帰途、沖永良部島でお粥をながして足を取らそうと狙ったが、逆にお粥を食べて元気になって攻めたと。そのとき馬鹿が村名(現知名町正名)になったと。その話があったからではないが知名町の正名を訪れている。斜面に集落があり、グスク時代からの集落ではないか。

2003.7.16(水)過去記録

 午前中兼次小6年生の歴史を体験する授業である。エーガー・ハンタ道・ミームングスク(見物グスク)・三つの火神の祠を回りながら、自分の分担した時代の様子をイメージすること、そして現在の様子を確認していく作業である。

 ・エーガー(親川)
   ・今帰仁グスクが機能していた時代に果たしていたエーガーの役割
      (集落内に井戸や水道が引かれるまで)
   ・大正5年までエーガーの側を通るハンタ道が今帰仁グスクへの主要道で
    あったこと。
   ・今帰仁村と親泊村の人たちの生活用水や飲料水として使っていたカー
   ・生活と関ってきたカーなのでハーウガミや若水取りに産ガーとして拝まれる
   ・昭和30年代までエーガーから水路引いて水田を潤していた
   ・現在のエーガーの様子

 ・ハンタ道
   ・大正5年まで今帰仁グスクへの主要道路であった
   ・17世紀初頭まで今帰仁グシクの前方に今帰仁村があったので村の
    人たちの生活道路でもあった
   ・1609年薩摩軍の琉球侵攻のとき、今帰仁グスクを攻めたときに薩摩の
    軍隊が通った道である

   ・ハンタ道の途中にあるミームングスクは今帰仁グスクが機能していた時代
    につくられたものであろう。名の示すとおり見張り場であったのであろう。
   ・大正5年に新しい道が開通したのは車の出現である。

 ・三つの火神の祠
   ・火神の祠を扱うのは、かつて今帰仁ノロやトゥムヌハーニーや阿応理
    恵屋恵などの住居していた家があったということ。屋敷を残して移動す
    るとき火神の祠を建てていく習慣があり、1600年代初頭に今帰仁村が
    移動するが、それ以前に一帯に村があった証である。
   ・今帰仁グスクの前方のハタイ原やハンタ原に村があった時代、そして
    移動した後の様子をみていく手がかりとなる。
   ・それぞれの時代の様子をみていく作業である。
   ・阿応理恵屋恵は今帰仁按司と関わりは深い。監守一族は大北墓に
    葬られているので、その関わりを歴史の上みていく。

 今帰仁グスクまで行く予定であったがそこまで・・・・・・。歴文の涼しいエントランスホールでグループごとに報告。汗を流しながらのハンタ道の歴史コース。一つひとつ歴史を刻んできた道や集落移動、火の神の祠などを通して、下の時代に沿って体験できただろうか。

  ①北山王時代(13世紀末~1416年)
  ②第一監守時代(1417年~1469年)
  ③第二監守時代(前期)(1470年~1609年)
  ④第二監守時代(後期)(1610年~1665年)
  ⑤間切時代(前期)(1666年~1871年)
  ⑥間切時代(後期)(1872年~1907年)
  ⑦村政時代(前期)(1908年~1945年)
  ⑧村政時代(後期)(1946年~現在)

 もう少し、歴史の時間の流れを意識しながら、そして各時代に留まってその時代をイメージする訓練が必要である。今帰仁グスクは別の機会にやるが、歴史を刻む知識や出来事だけでなく、各時代に踏み込んで考えていく感性が育てばと考えている。現在を見ているのだけど、実のところ頭の中では各時代をイメージしていく訓練である。
 報告を聞いていると、歴史用語に大部慣れてきたようだ。体験したことと知識としての出来事が結びついてくると、もっともっと楽しくなっていくでしょう。

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    エーガー(親川)からスタート       ハンタ道を通りながら・・・

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今帰仁グスクの見えるミームングスクで       今帰仁ノロ火神の祠で


2022年4月19日(火)

 今帰仁村崎山の神ハサ―ギの葺き替えをアップ。その頃、ハサ―ギなのかアサギなのか、それとも『琉球国由来記』(1713年)のアシアゲなのか、そんな議論をした頃である。

 さて、今日は明日の「兼次」の字誌の編集会議に向けての資料作成でもするか。昨日に続き庭の手入れ。調査も楽しいが庭の手入れが性にあっているかも。頭の中はあれこれが渦巻いている。



2022年4月18日(月

 沖永良部島の積み残しというより、島をみる視点を見つけることができた。しばらく、覚まして整理することに。振り払うため、昨日は「寡黙庵」の片づけと庭の手入れ。ユリがつぼみを見せている。ミニトマトも実をつけだした。ピタンカの実が熟している。新しく、スイカ・ゴ―ヤー・ナスビ・ニラを植えてみた。畑にしようと数年ほってあった場所を片づけ、鍬をいれたらコンクリート。それで急遽鉢植えに。うまく育つかどうか。「寡黙庵」への来客があるので片づけを。

 


2022年4月17日(

 知名町の各字をほぼ踏査してみた。明治4年に廃止したが、記憶と記録に脈々とつたえられる。沖縄の北部でのシニグが他の祭祀と一体化しているのに対し、与論島と沖永良部島にシニグの当初の形が遺っているのではないか。それと古琉球のムラの形を今に伝えている。まだ、沖永良部島に伝えられるシニグを沖縄北のシニグを比較してみたくなる。予想として、沖永良部島と与論島のシニグが古琉球のシニグの形を遺しているのではないか。沖永良部島の「神社」を踏査していると、琉球的なウタキや拝所が1609年後、与人、仏の神社化していった過程で琉球的なものが失っていったのではないか。

【知名町の村に遺るシニグ】
①知名 グスクマ―
②屋子母 シニグドー(シニグ遊び)
③大津母
④徳時  ユナンドガナシ(世並蔵神社)
⑤瀬利覚 ノロと琉球王と間に生まれたという世の金(向田神社)
       シングドー→台地のマチンシ二グイ→大山のヒガヤマサキ
⑥黒貫  フースク(城跡) シニぐ祭に大山のヒガヤマサキから旗をたて踊りながら
      下りてきてシニグドーで祭を行っていた。
⑦芦清良 
⑧下平川 琉球王国時代は「大城間切之内下平川」(シモヒラカワ)とあり。
  元禄年間に喜美留間切。安政四年から東方。
⑨上平川 山手に按司が居城したというハナグスクあり。シニグ祭は大山から降り、
  ノロをマチシニグで迎える。ヒョウシニグドーでシニグ遊をする。蛇踊りあり(近世から)
  トゥヌチ神社あり。
⑩屋者 中世に世之主の四天王と言われるヤジャマサバルが居住。久志検間切、
  1854年から東方。元禄3年(1690)死亡の墓碑銘の「屋者村久志検間切から東方。
⑪余多(現余多・竿津) シニグドーに竈石あり。竿津に竈石を神体とした宮持神社あり。
⑫赤嶺 アーニマガヤに古墓トゥール墓あり。
⑬久志検
⑭上城(上城・新城) 大山の北麓。下城と接する。下城を含めて「にしに」(西目)という。
    北方を見張る番所に由来。世之主の居城の内城(現和泊)の外城に因んで上城という。
    「おもろ」で「「里主のころがま」と謡われる。
⑮下城 上城の南西にあり。北海岸に沖泊湊あり。交易地。上城含めて西目村。世之主
    の生誕地、居城地の内城に因んで下城、竈石あり、世之主神社あり。中山に四天
    王の一人二シミクニウチベーサの屋敷跡あり。はじめ大城間切、1854年から西方。
⑯田皆 上城の西に位置し海に面する。おもろに「田皆嶽」と謡われる。田皆岬に神社あり。
⑰馬鹿(現正名) 
⑱島尻(現住吉)  国頭に対する島尻。シニグ祭にヒャー神を祭る。男衆が山手のシニグ山
     で夜籠りをして、翌朝下山しシニグドーで住民総出のシニグ遊びをした。シニグ祭
     は明治4年に全島で廃止。翌年シニグドーに溜池を掘る。


▲知名の西田家蔵(知名町誌より) ▲『沖永良部島郷土資料』(和泊町)より

  
 
▲知名町正名            ▲知名町黒貫            ▲知名町下城の世之主神社

2022年4月16日(

 宗家の遺品(軸物(文書)・焼き物・漆器)を見せてもらう。文書類は腰をそえて読む時間がなく、午後からの予定変更となる。喜美留は宝剣のことがあり、都合よく喜美留(和泊町)の金毘羅権現の案内をしていただいた(先田先生に)。これから我が家のシーミーへ。(工事中)

  

  


2022年4月15日(金)

 飛び越えて知名町の徳時の四並蔵神社、知名町資料館所蔵の勢理客のろ家の遺品を見せてもらう。何年か前に調査したことがある。

 沖永良部島の知名町、「おもろさうし」で「たみなたけ」「にしめたけ」が謡われている。琉球王国の時代の、とうどきまきり(徳時間切)が島津の直轄地となるが踏襲されていると見られる。1691年に沖永良部島代官が設置され以後喜美留(ちびる)・大城(うふぐすく)・久志検(ぐしきぬ)の三間切が編成される。その時代の三間切の集落は現在知名町と和泊町に混在している。1857年に和泊方・東方・西方に組み替えられる。明治41年(1908年)に沖縄県同様知名村、これまでの村はここでは大字となる。「まきり」の時代、「間切」の時代、方の時代と時代を区切って歴史を見ていかなければならず、複雑であるがその整理が必要。

知名町徳時

  

知名町勢理客のろの遺品

  


2022年4月14日(木)

 昨日まで沖永良部島を往く。沖縄県本部新港からフェリーは与論島に寄港し沖永良部島へ。風向きによるか、沖永良部島は伊延港へ。伊延から畦布へ。足を止めたのは大和城とグスクの下へ流れ出るゴウ。何基かのトゥール(古墓)。島のムラを見ていく感覚を呼び起こすために、根折・瀬名へ。歴史民俗資料館に立ち寄る。畦布の森家に立ち寄るつもりが、いつもとは逆コースのため見逃してしまう。そのまま歴史民俗資料館に立ち寄る。そこには棕櫚の木があり、いつも育っているか気がかり。瀬名から永嶺の途中で三、四本の棕櫚?を見つける。今回のシマに訪れる目的や狙いを職員に話、目的はそこで果たしてしまう。

 

 
瀬名から永嶺への交差点にタシキ俣の岩に出会う。その話は、島の内情をしる手がかりになる。

 
   (以下工事中)

2022年4月11日(月

 今日から沖永良部島(月~水)。昨日は10余の士族の家譜がでてきたので目を通す。五本の家譜をもつ一族があり、本家・分家の家譜が五本(コピー)。その一本が知人の一族が今帰仁村寒水村へ移住した記録があったので「寡黙庵」で説明。「寡黙庵」の名前の知らない鳥(シラサギか)がやってきて餌をついばんでいる。羽ばたくと1m余あり。ボツボツ、出発の時間。

2005.03.24(木)過去記録

 
与那国島、竹富島、西表島、小浜島、そして石垣市内(登野城・大川・新川)を訪れた。三泊四日の山原を考える歴史の旅となった。まずは3月20日(日)の午後と21日(月)の午前中に訪れた与那国島から(ニ、三の印象のみ)。
 
 行く前から久部良バリとトゥングダ(人升田)が気になっていた。これまで見てきた山原の土地制度(地割)と矛盾を感じるからである。与那国島における人減らし(口減らし)。人減らしのため女性が久部良バリ、男性がトゥングダが手段として使われたという。与那国島ゆきの気が重かったのはそれである。

【与那国島をゆく】
 特に近世から明治にかけての土地制度の中で、山原では人口を増やせよである(一族の繁盛と村の繁栄と祈願する)。もう少し山原の地割制度や先島でいう人頭税について調べてみることにする。与那国島、竹富島、石垣市(博物館前)の三カ所に「人頭税廃止百年記念碑」が建立されていた。まだ目を通していないが、『あさぱな』(人頭税廃止百年記念)が出版されている。山原の土地制度を実態はどうか、何か手がかりをつかんだような気分でいる。 
   
 与那国島の水田にも関心がある。谷間などにある天水田、それとやはり田原川沿いが気になっていた。川沿いは湿地帯ではないか。予想通り、今でも手付かずの湿地帯(沼地)が広い面積を占めている。近世の絵図を見ると入江である。与那国島の稲作の盛衰は山原(特に今帰仁村)の水田の消滅とことは重なってきそうである。

 与那国島を二日足らずで駆け回っての土地制度と稲作についての印象である。集落の成立ちを知るには、山原とは異なった物差しを必要としそう。

 海底遺跡、その証明は陸上部のサンニヌ台や軍艦岩や久部良バリあたりの特殊な地形が「人工的なものだ」と言える程の説明が必要ではないか。それ程大変なことだ。全くの素人の印象。

【与那国島】
 ・沖縄最後に見える夕日が丘
 ・久部良バリ
 ・久部良の集落
 ・久部良漁港
 ・久部良公民館の後方の拝所(久部良御嶽)
 ・太陽の碑
 ・沖縄県最西端の地(碑)
 ・久部良ミトゥ(池:湿地帯)
 ・久部良岳
 ・比川の集落
 ・比川の浜
 ・比川の学校
 ・ハマシタンの群落
 ・立神岩
 ・立神岩展望台
 ・サンニヌ台
 ・軍艦岩
 ・サンニヌ展望台
 ・東崎展望台
 ・ダティクチヂイ(1664年)
 ・浦野墓地
 ・ナンタ浜(祖納港)
 ・祖納の集落
 ・田原川と湿地帯と水田
 ・水源地(田原水園 1952年7月竣工碑:コンクリート)
 ・与那国民俗資料館
 ・人頭税廃止100周年記念碑
 ・十山御嶽
 ・ティンダハナタ(サンアイ・イソバ、インガン、伊波南哲の詩碑、泉)
 ・トゥングダ(人升田)
 ・水田地帯
 ・人頭税廃止百周年碑
   (大和墓と各遺跡は行けず)

 
   ▲ティンダハナタから祖内集落を眺める         ▲ティンダハナタの崖

 
    ▲ダティクチデイの石積み             ▲石垣の内部にある方位石

 
     ▲久部良バリの様子               ▲下方から見た久部良バリ

 
 ▲田原川か流域からみたティンダハナタ       ▲トゥングダ近くにある水田

 
        ▲十山神社(御嶽)               ▲久部良御嶽 


2022年4月10日(

 沖永良部島に目を向けているのだが、竹富町西表の記録が飛び出してきた。ついでなので先島を思い出してみることに。風景や島人の様子は変わっているだろう。

2005.03.26(土)記録
 

【竹富町西表島をゆく】

 西表島報告は、途中まで(星立と租内については随時追加)。アルバムを見ると、西表島には1989年8月と1999年10月に訪れている(沖地協の研修会)。今回で3度目の西表入りである。数年ぶりの訪問では、記憶が定かではないことを実感。記憶を呼び起こすためにアルバムから何枚か(2005年より十数年前の皆さんの若いことよ)。

 租納の集落の展開は上村遺跡との関係で興味深いものがある。御嶽の領域に集落が形成され、御嶽の中枢部となるイベにあたる部分(二カ所)があること。それと上村とは別に大竹御嶽と呼ばれていること。上村(西租納)に対して下村(東租納)があるようだ。租納は上村遺跡を中心とした集落の展開、そして祭祀に関わる御嶽、さらに司を出す一門との関わりを整理してみる必要がありそう。

 その視点での研究が『沖縄祭祀の研究―西表島租納のシツ:武藤美也子・宮井由未子』と『沖縄の祭祀―西表島の租納プーリヨイ:武藤美也子』でなされている。山原の御嶽と集落の展開、そして神役との関係を推し進める上で手がかりとなる。


     ▲沖地協研修会(西表租納公民館:1989年)  鞴の口と鉄さい


             ▲西表星立の節祭(シチ)(1999年10月)


 ▲西表租納の節祭(シチ)前泊の浜 ▲黒朝の衣装の女性を先頭に踊るアンガー踊
              (1999年10月:沖地協の研修会)


 2005年
3月22日(火)、一日西表島を予定にいれた。地図を見ると西表という島に10余の集落(字?区?)がある。一周線が開通しているわけではないので、白浜港にたどりついたら、同じ道筋を戻ることになる。行けなかったところは、帰り道寄ることができる(時間があれば)。まずは、白浜までゆくことである。

 竹富町は石垣島の南西にある島々からなり、人が住んでいる島は10である。その一つが西表島である。西表島に以下の集落がある。西表島は沖縄本島に次ぐ大きな島(面積289.27平方キロ)である。

  大原 大富 古見 美原 船浦(港) 上原(港) 中野 
  浦内 星立(干立)  祖納 白浜

  
   ▲後良川の橋      ▲サキシマスオウの群落のある森にある御嶽〈兼真嶽と三離嶽)
 
    ▲西表美原の集落              ▲高那手前の水田(田植え中)

 
      ▲西表の上原公民館          ▲デンサ節が行なわれる舞台(上原)

 
   ▲星立の祭が行なわれる御嶽          ▲星立の御嶽の前の鳥居

 
     ▲上村遺跡の遠景              ▲上村遺跡内にある旧道

 
▲上村遺跡にある建物(租納)ヨハタケ根所?    ▲同遺跡内にある碑

 
     ▲西表租納の前泊御嶽          ▲?屋敷跡の石垣の門


一ゑらぶ、世のぬしの、     一永良部世の主の、
    おうね、はし、しょわちへ、        御船、橋し御座して、
    ゑらぶしま、なちゃる         永良部島、成したる
   又はなれ、世のぬしの    又離れ、世の主の、前節二行目から折り返し

一ゑらぶ、たつ、あすた、  一永良部、立つ吾兄達、
    大ぐすく、げらへて、     大城、嫌ひて、
    げらへ、やり、        嫌ひやり、
    おもひぐゎの、御ため    思ひ子の御為
  又はなれ、たつ、あすた     又離れ、立つ吾兄達、前節二行目から折り返し




※沖永良部島と与論島では首里王府発給の古琉球の辞令書(朱印状)は発見されていない。


2022年4月9日(土

 今回の沖永良部島行きは、「世乃由緒書」(宗家所蔵)を直に目にしたいということ。北山と沖永良部島、三山統一後の琉球と沖永良部島の関り、さらに当時の沖永良部島内の動きを言い当てているのではないか。シニグが沖永良部島への入り方、村々(後の)のシニグドーをつなぐシニグの流れ、シニグの中心となるヒャー(百)、明国への馬の貢品、それと北山が滅んだときの千代金金と
黄美留菜津久美(宝刀と北谷菜切)していることなど。おもろや古琉球の辞令書に登場するひらがな表記のまきり(間切)や後の村名となるマク・マキヨなどの表記とのろに関する辞令(与論島と沖永良部島では未確認)、のろの任命やノロ家遺品などは、辞令書が発給された年代より古い時代の内容である。それと島の城(ぐすく)地名の村(グスク時代の集落)、パヂチ(針突)、それらのことを確認したいと!(その下しらべでもしておくか)

北山の時代と沖永良部島
を講演していました。講演デジメ発見。

「世乃主由緒」

 沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代(まちじょ)王子
 右御由緒私先祖より申伝之趣左条之通り。

一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて琉球国
  の中より国頭九ヶ間切その外、伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大島、喜界島
  まで御領分にて御座候由、北山の御二男右真松千代王子の儀は沖永良部為御領分被下御度海の上
  
玉城村金の塔(ふばどう)え御館を構え被成候由、左候処、大城村川内の百と申すもの御召列
  毎々魚猟に
古里村の下、与和海え御差越海上より右川内の百当分の古城地を指し、彼地の儀は
  
大城村の地面にて御座候につき、世乃主かなしの御居城為御築可被遊段申し上候段申し上候処
  忝被思召旨の御返答にて、即ち其比
後蘭村え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城築仰方
  被仰付三年目に城致成就夫より御
居城と相成候

一、世乃主かなし御奥方の儀は、中山王の姫にて御名前真照間兼之前と申唱候由

一、本琉球の儀三山御威勢を争ひ度々合戦為之有然処北山今帰仁城之儀は中山(北山か)之
  大将本部太原と申すものより被攻亡され南山落城終には中山一統に相成為由、右に就て世の主
  かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄中山より
和睦の使船数艘渡海有之候由、
  末実否御聞届も不被成此方事北山之二男にて候得ば中山より軍船に相違無之候、左候へば小島
  を以て大国へ難敵と直と奥方を始め御嫡子其の外無残御差違へ御自害の由。

一、右騒動の砌、男子三歳若主一人、女子五歳之者一人乳母之真升兼(ますかね)と申すもの右御
  両子列上、
西原村あがれ百所に逃越候折西原村の下へ徳之島船着船いたし居り候を頼入徳之島
  へ罷渡り己後中山領島相成島中無異相治り候に付島役共より王子迎として渡海いたし候に付き、
  御帰島被成候得共幼少両子にて本城の住居難被成、
古城より北に相当り小高き処へ御館を構
  御直り被候に付き今に
直城(なおしぐすく)と申唱申し候。

一、右王子の子孫成長の上中山王御取立にて、代々大屋役仰付相勤来り候由、依之当分私迄も島中
  のもの共大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候哉不詳。
  右女子の儀王女之故妻嫁に可仕以合無之、古城之下え結庵之屋敷干今男子禁戒

一、黄(喜)美留菜津久美と申候宝刀之申伝
  世の主時代、黄(
喜)美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、
  宝刀の訳は不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子
  右刀を以て怪我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに古場野と申野原の
真石を切り申候処
  夜々海中にて光をあらはし候を城より御見届、使者を以て御取寄せ秘蔵相成候由。

一、其此世之主へ奉公仕居申候
島尻村住居国吉里主と申者之為勝負馬二匹致所持候につき世乃主
  より 御所望被成候に付一疋は進上可仕と申上候ところ二疋共にと無理に所望被為成候処
国吉里
  主
より申上候は私事此馬の助を以て遠方より御城へ毎勤仕候儀御座候間一疋は御免し被下度段
  願上候得共御聞入為之、御取揚相成候に付、国吉恨みを含み中山へ逃渡り、私主人には
黄美留菜
  
津久美と申候宝刀名馬等相備へ中山大主へ謀判の企仕申候上候処、中山より使者差越、
  
永良部世之主王には宝刀御所持之田御聞へ候間御見せ可被給段仰下候処、世之主御返答には、
  私事海外の小島に罷居宝刀の扶助にて島中相統罷居申事にて者、
差上申儀相叶不申段被申断候
  由、然処中山之家臣共之内智有人陰々当局へ罷後奥方へ手入窃取帰国為仕由右仕合以後相知れ
  殊に
北山王も落城宝刀も被盗取傍々付気鬱被成居候折柄中山より数艘船海に付き、軍艦と御心
  得御自害の由申伝御座候。
 右の通り私先祖より代々申伝御座候

   夫々書記差上申候     以上
      与人格本間切横目勤
      内城村居住   平 安統
     嘉永三年戌三月



2022年4月8日(金

 その頃、語義論に花を咲かせていた。その一語に「古宇利」がある。真剣に返答していたことが思い出される。「今帰仁」も難解でした。沖永良部島の「馬鹿村」(現在正名)や「運天」など。今日も「寡黙庵」に出勤。バナナを一房を口にしながら。

2005.02.18(金)メモ

『海東諸国紀』(琉球国之図)の「郡島」は「屋我地島」?

 確かに東恩納寛惇氏は『南島風土記』で「郡島は屋我地」である?かのように記してあります。東恩納氏も?をつけています。

   「この地はもと、羽地間切屋我村の請地であるが為めに屋我地と唱へ
    られてゐるが、本来はこれを古宇利島と呼んで、今の古宇利島は沖
    の古宇利と呼んだものらしく、検地帳には現に今の古宇利島を沖郡
    島と注記してある。従って海東紀地図に郡島と注してある大島は屋
    我地であると思われる」(『南島風土記』昭和39年再版 399頁)

   「按ずるに、検地帳に沖の郡島と注せるより見れば、或いは古へその
    南の大島屋我地を郡島と唱へ、今の古宇利島を特に沖の郡島と唱
    へしものにあらざるか。従つて、諸国紀に云う所の郡島も屋我地の事
    にして、特に『有人居』と注せるは、屋我等各本村よりの移住未だ少
    なくして請地とならざりしものか、後世各村より移住開発する者盛んに
    なりて、屋我地と唱へられしより、自然沖の郡島を単に郡島と唱ふる
    に至れものか」(『南島風土記』昭和39年再版 391頁)

沖縄の地名を考える場合、注意しなければならないことがあります。方言呼びと表記が一致するかどうかの吟味です。時々「表記の変遷」と断りを入れます。それは表記と方言呼称が一致するときと、しない場合があるからです。

 今回の古宇利島がそうです。古宇利島の表記の変遷は以下の通りです。

  ○→郡島こほり(沖の郡島)郡島古宇利(古宇里)古宇利
  ○→ ?      屋が(賀)嶋               屋我地島

 表記の変遷は、そうですが島の方言呼びは一貫して「クイジマやフイジマ」です。近世中頃からクイジマあるいはフイジマと古宇利(こうり)島が平行した形での呼び方になります。

  古宇利親雲上(コーリペーチン)と呼ぶ一方屋号ではフイッチヤ(古宇利掟屋)やメーフイヤー(前古宇利親雲上屋)、フイヤー(古宇利親雲上屋)というように。

 つまり表記と方言での呼びが、異なっていても同じ地名や場所を指しているということがあります。「沖ノ郡島」(沖之郡島)と表記しても古宇利島を指しています。『琉球国高究帳』や『絵図郷村帳』や絵図などで屋我地島のことは「屋が嶋」や「屋賀島」と登場します。そこには郡島とは出てきません。「屋我地島のところに郡嶋」とあれば問題なかっのですが。

 古宇利島が表記の上で、郡島やこほり、古宇利や沖ノ郡嶋と表記されていたとしても、それはクイジマ(フイジマ)と呼ばれ屋我地島ではなく古宇利島を指しています。

郡島の前に「沖ノ」のあるのは、屋我地島と区別するための「沖」ではなく、クイジマが「海を越えた所にある島」の意に、「海を越えた、黒潮を超えた沖にある島」と解しているとみた方がよさそう(ウタにもあるように。大橋は黒潮の上は横断していせん)。

 東恩納寛惇氏が
  「古宇利島と呼んで」とあるが、
      古宇利島をコウリジマ、それともクイジマやフイジマと発音したのか。

  「今の古宇利島は沖の古宇利と呼んだものらしく」とあるが、
      「沖の古宇利」をオキノコウリと呼んだのか。それともオキノコウリか。
      
     それともクイジマ(フイジマ)と呼び、オキノクイジマ(フイジマ)と呼んで
     いるのか。

 東恩納寛惇氏は①②とも方言ではなく表記のままでの呼び方をしています。表記を前提に「古宇利島」と「沖の古宇利島」は別の島だと見ています。沖の島に対して、手前の島ととらえているのかも。そのため「沖の郡島」(古宇利島)に対して郡島(屋我島)と考えたようです。また、次のようにも述べています。屋我島が屋我村の請地となったことで屋我地となり、自然と沖の古宇利島の「沖の」がなくなり「郡島」となったかもと。

 検地帳に「沖の郡島」(古宇利島)とあるからとしているが、他の史料でも古宇利島のことを「沖の郡島」と出てきます。もし検地帳に「屋我島」のことを「郡島」とあったなら「沖の郡島」は古宇利島で、「郡島」は屋我島であると言えたはず。ところが検地帳や他の史料に屋我地島は屋が嶋とは出てきますが郡島とはありません。東恩納寛惇氏は「沖之」とあることから、「沖の郡島」から、郡島は屋我地島と想定しています。

 このような史料や表記、あるいは方言呼称をみていくと、
   古宇利島はいくつかの表記があるが、表記が異なってもクイジマや
   フイジマと方言で呼び古宇利島を指しています。ここで詳細に説明でき
   ないが、方言呼称のクイジマを表記で郡やこほり、さらに古宇利の字
   を充てています。イリ(西)いれ  アガリ(東)あがれ のように方言
   (カタカナ)と表記では異なります。ある法則にのっています。クイが郡と
   表記されるのも。

 地名を扱う場合、表記や机上で結論を出すことは危ない面があります。「古宇利島はクイジマやフイジマと呼ぶ」と前置きするのは、そういうことがあるからです。ここで、郡島が特定できていないと話の前提が壊れかねませんので説明しておきました。

 東恩納氏の『南島風土記』から多くのことを学んでいます。研究の深まりや他の視点からみたとき、結論や前提に訂正を必要とするところもあります。それはいいことで、ダメだということではありません。


2022年4月7日(

 ちょっとより道。「沖縄そば」は貧乏時代のごちそう、復帰後再び脚光を浴びる。ボンネットのあるバスで車掌さんが車内で切符をきる。車掌は女性のあこがれの職業の時代。朝夕は満員バス。今帰仁から羽地内海を通り名護の町まで。本屋さんにより、さらにそば屋による。そばは貧乏時代のごちそうである。バス代やそば代は十五セント。ドルの時代。B円→ドル→日本円の時代を通ってきた。時代に振り回されながらの人生。この歳になると、強気と弱気の繰り返し。夢に描くことさえできなかったほどの時代になっている。

 来週、沖永良部島に渡る。おもろに謡われたポイントや島々を眺めながら。今回の沖永良部島行きの目的にシニグ祭を「流れ」で追いかけてみたいとの計画であった。一つは島の内側の集落はグスク時代から住み続けている集落ではないか。それと与之主伝承とシニグやノロ家とその遺品を手掛かりしようとすると、どうしても間切(まきり)時代まで遡る必要がありそう。島一周道路沿いの集落《字》と山手への集落、それに与之主伝承やシニグの流れ、グスク時代からの集落を被せみていく。現在の行政区画では理解しがたく、今では失ったシニグを追いかけてみる。何度もめぐっている。今回はもう少し踏み込んだ調査ができそうである。

 もう一点は「まきり」(間切)制度は奄美も古琉球も同じと見ているが、古琉球のまく・まきよ(後の村)村が奄美に遺っているのでは。近世以降、琉球では村単位で納税や祭祀を行っているが、与論島のシニグはサークラごとに行っている。それが古琉球のムラ(マク・マキヨ)の形ではないか。奄美に古琉球のムラの形が遺っている。その視点で歴史を歴史を読み取っていく必要がありそう。以前に整理したシニグのメモを振り返って調査に臨むことに。

【沖永良部島のシニグ】
 本島のノロの姪と琉球王との間にできた王子(怕尼芝の弟、真松千代)で本島の与の主となり、三年に一度巡視、その歓迎の為の儀式
 世の主以前からあった祭り
(収穫を感謝し、豊作凶作を占い、豊作祈願として祭で、世之主以前からあったもの)後世に百が主宰となるか。
 百が御使いをつかわして上言をのび、シニグ後の与人の島周りに大アンシャリが参加。

 ノロ中心の祭祀
  薩摩の支配後、士族中心の武的行事となる。

①隔年行われる。
 祭のある年はシニグ年、ない年を神なし年
②祭は九月、十月の乙酉(きのととり)の日
  ①祭前  余多・屋子母・西見の百は各自の百を引率して、与人・大あんしゃり・
          目差などの家をめぐる。(お使いという)
  ②三日前には尻縄(しじゃたみ)があり、馬具を改め、乗馬の乗りためしをする。
  ③祭りの前夜、与人たちは内城に夜籠りをする
   翌朝』与人旗」を押し当てて、騎馬隊を引率し世之主側を擬するもの(赤装束)、
   反対側のもの白装束とに分かれてシニグヅに集まり、さらに集庭に赴いて模擬戦い。
   世之主側が勝つことになっている。

  ④シニグ終了後
    与人三人・目差三人・百一人・本掟三人・城サバクイ一人・大アンシャリ一人
    白装束で
     一日目 余多(アマタ)―屋者(日帰り)
     二日目 久志検―屋子母(泊)
     三日目 屋子母―西見(泊)
     四日目 西見―内城
       (全島を一周)
     内城の与之主墓を拝み、そこに供えてある酒で豊作・凶作を占い、
     住民の相撲をみて解散する

    ※「初シニグ祭」、前シニグ後に生まれた衆多の男子のために行う祭儀がある。

・シニグ祭一周間後、には役員の慰労のため当たりシニグが百の家でおこなわれる。

・西見にはウツタハチブルがあり、男二人は舟を漕ぐまねうする。女装の男二人は太鼓を打って踊り
をする。上城から出発し稲葉のウッタ墓の中からハチブル(面)をかぶって西見で種々の戯れ
をなす行事。


・シニグ祭には騎馬戦や供酒、豊凶占い、農業関係の祀りあり。
  ウツタハチブルで太鼓を打って踊る中で舟漕ぎの所作あり。村村の巡視は悪魔払い
       

・鹿児島直轄領時代元禄4年(1692)和泊村に仮屋(代缶所)

18世紀以降の間切制と村


2011730日(土)メモ
 1673年の恩納・大宜味・久志間切の創設を「方切」の視点で整理してみる。すると1673年の「方切」が間切や村にとって不都合が生じ、後に「方切」が行われている。まずは史料の整理から。

 1673年の「方切」(間切の創設)は、恩納間切は向弘毅(大里王子)・毛国瑞(佐渡山親方安治)、田港間切(後に大宜味)は向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)、小禄間切は向煕(金武王子朝興)・毛文祥(小禄親方盛聖)、久志間切は尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に、それぞれ領地を賜うことであった。「郡(間切)や邑(村)の田地が広い、人口が多い」ことを理由としているが、間切によっては当初の「方切」に不都合が生じ、康煕乙亥(1695年)に2回目の「方切」を行ったが、「不便」だということで1719年に元に戻している。

 1719年に村をもとの間切に戻している理由(不都合)は、間切番所とそれらの村の地理的不便さ(特に平良と川田)、それとノロ管轄(古知屋村は金武間切の宜野座ノロ)、祭祀場の分断(屋嘉比・里見・親田の祭祀場は根謝銘(ウイ)グスク)がある。「方切」の対象となった「川田村」と「平良村」は名護間切の村であったこともある。「方切」で1673年に名護間切から久志間切へ、1695年に大宜味間切へ、1719年に久志間切へ戻る。屋嘉比村・(里里村・親田村)も国頭間切から1673年に大宜味間切へ、1695年に国頭間切へ、1695年に再び大宜味間切へ戻る。それらの村は「方切」で振りまわされた村だったかもしれない。「方切」や村移動などあったが、ノロ管轄の変更はなかった。

1695年の「方切」と1719年の「方切」 
 ・古知屋村は金武間切の村であったが、1695年の「方切」で古知屋村を久志間切へ、ところが1719年
  に金武間切に戻した。
 ・川田村と平良村は久志間切に属していたが、1695年の「方切」で大宜味間切へ、ところが1719年に
  久志間切へ戻した。
  ・屋嘉比村と親田村と見里村は1695年の「方切」で国頭間切としたが、1719年に再び大宜味間切に戻した。

【国頭間切と大宜味間切などの方切】


【1回目の方切】(1673年)
・1673年「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く」(1673年条)
   本国の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。…国頭郡内十一邑、羽地間切
   二邑、合して田港郡と為し(後、名を大宜味に改む)、始めて向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比
   親雲上朝茲)に賜う。後新に四邑を設け共計十六邑なり(二邑は合して一邑と為す。此くの如し)。

【2回目の方切】1695年)
 ・1695年に「方切」あり、久志間切の平良邑と川田村が大宜味間切へ。
 ・1695年に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。

  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。
   其の時の検見は御者奉行吟味職毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上
   なり)(家譜)

 ・1713年の『琉球国由来記』
   ・古知屋村は久志間切(1719年に金武間切へ戻す)
   ・平良村と川田村は大宜味間切(1719年に久志間切へ戻す)
   ・親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切(1719年に大宜味間切へ戻す)

3回目の方切】
1719年)(球陽1719年の条)
 ・1719年古知屋村・川田村・平良村・屋嘉比村・親田村・見里村、各々原籍の間切に復す。
  原籍、古知屋は金武間切に属し、川田・平良は久志間切に属し、屋嘉比・親田・見里は
  大宜味に属す。康煕乙亥の年(1695)、改めて古知屋を将て久志間切に属せしめ、屋嘉比
  ・川田・見里は国頭間切に属せしむ。これより各村多く便利ならず。各村呈して旧に復
  するを准す。

・1732年国頭郡駅を奥間邑に移置す。
  国頭郡駅は、原、浜邑設け、一偏に僻置して、号令伝へ難し。人民の往還、均一なること有らず。
  是れに由りて、奥間邑に移建す。


2011729日(金)メモ
 「方切」というのは、間切境界の変更のことである。「方切とは間切と同じく村の境界を定めたるものにして人口少なくして土地広き村はその耕地の一部を他間切又は他村に配置したり」とある。ここでは間切の境界の変更(方切)について史料であるが、「方切」を視点すると、また興味深い首里王府の動きが見えてくる。

【今帰仁間切と本部間切と羽地間切の方切】

 今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切は1666年である。今帰仁間切の第一回目は1666年である。その時の「方切」はこれまでの今帰仁間切を今帰仁間切と伊野は(本部)間切の二つに分割してものである。二回目は1692年頃の今帰仁間切と羽地間切との境界の変更である。三回目は1736年の羽地間切と今帰仁間切との境界線の変更である。

【1回目の方切】(1666年)(今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切)
   これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切を分割して、今帰仁間切と伊野波(本部)間切
   とに分割した。(絵図郷村帳や琉球国高究帳)。その時の方切(間切分割)について、『球陽』
   で、以下のように記している。

   「始めて本部・美里等二郡(間切)を置く」(1666年条)
    今帰仁郡邑(間切・村)は、素三十余邑有り。田地甚だ広く、人民已に多し。今、其の十一邑を分ち
    て、伊野波郡と為し、始めて向弘信(本部王子朝平)・毛泰永(伊野波親方盛紀)に賜う。後亦、七邑
    を新設し本部間切と改名す。 
 
 ・「方切」(あるいは間切の分割と創設)の理由は、邑数が多く、田地が広く人民が多いということ。
  それと新設した間切を本部王子と伊野波親方へ賜うことであった。
 ・天底村は本部間切地内にあり(絵図)(1719年今帰仁間切へ移動)
 ・1670年「こかおきて」(呉我掟)(池城墓碑).(呉我村は今帰仁間切の村の掟)
 ・1671年今帰仁間切松田の名(家譜)
 ・1672年今帰仁間切松田の名(家譜) 
 ・1672年羽地?間切我部の名(家譜)(今帰仁間切?)
 ・1690年(康煕9)今帰仁間切松田の名(家譜)
 
  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の
    検見は御者奉行吟味職毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)

【2回目の方切】(1690年頃)(今帰仁間切と羽地間切の間の方切)
  2回目の方切を1690年頃としたのは、その時の「方切」を示した直接史料を確認できていないので、
  他の史料を並べてみた。すると1690年「今帰仁間切松田」と1691年「羽地郡松田村」を『家譜』に見る
  ことができる。そのために2回目の「方切」は1690年頃とした。
 ・1691年羽地間切我部地頭職を拝授す(家譜)。
 ・1691年羽地郡(間切)松田村、本郡我部村に属す(球陽)。(方切済) 
 ・1713年羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・松田村を今帰仁間切から羽地間切へ
    (間切境界線の変更あり)
 ・1719年本部間切にあった天底村が今帰仁間切内へ移動(村の疲弊)。

【3回目の方切】(1736年)(今帰仁間切と羽地間切との方切)
 ・1735年に羽地大川の改修工事が行われた。呉我村と振慶名村は改修工事が終った羽地大川
   流域への村移動である。その時の「方切」は羽地大川の改修、村移動、間切境界線の変更、
   村が移動した土地に湧川村の新設(1738年)がある。そこで村移動がなされてもノロ管轄は
   変動することはなかった。
 ・1736年呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は羽地間切から羽地間切内へ移動。その
   土地は今帰仁間切へ組み入れる(間切境界線の変更あり)
 ・1736年村が移動した後に今帰仁間切湧川村を創設する(1738年)。

 3回目の「方切」は『球陽』で、以下のように記してある。そこでの「方切」の理由は、山林が狭いことや村が密集していることをあげている。山原での元文検地は、その後に実施されている。三回目の「方切」は蔡温の山林政策、大浦(羽地)大川の改修工事、村移動、村の新設、元文検地と連動した流れである。その過程で変わらないのが祭祀のノロ管轄村である。歴史を辿るとき、変化していく、その理由を見て行くことも重要であるが、祭祀のように頑固に継承されているのも歴史を見る視点に入れるべきであろう。

 「蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を各処に移す」(1736年条)
    「…羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村は、…一処に集在して、農地最も狭く、
     動もすれば山林を焼き以て農地に供す。今帰仁山林甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、
     山林外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(間切)に属せしめ、其の邑(村)は、仍、羽地県
     (間切)に属せしむ。…」

 湧川邑(村)の創設(1738年条)
  「今帰仁郡に湧川邑を創建す」
   今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、木材用に足らず。乾隆元年(1736)、検者・酋長を奏請し、
   羽地山林を分別して今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。

        (3回の「方切」の図略)


2022年4月6日(

 昨日はララッキーな一日。消えたと思っていたお金を発見。それと「寡黙庵」のバナナが熟れかかり収穫。沖永良部島和泊町の内城の宗家の資料(画像)が送られて興味深く拝見。近々伺うことに(日程調整中)

 

2007年2月21日(水) 徳之島を往く 過去メモ

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたいう石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

 
     ▲屋敷内に置かれている掟大八の力石(天城町手々)

古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)

 近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりがもう少し具体的に見えそうである。

 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。

  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)


2022年4月5日(

今帰仁と本部の街道筋(宿道:スクミチ)

 今帰仁間切番所が運天に置かれたのは1666年である。その前の今帰仁間切は現本部町を含む範囲である。その時の番所は今帰仁グスクと城下のウドゥン屋敷が番所の役割を果たしていたとみられる。「琉球国之内高都合並島色分目録」の絵図がある。目録の後尾に「元禄十五年 壬午八月 松平薩摩守」(1702年)とある。その内容は「鬼界島」「大島」「徳之島」『永良部島』「与論島」は「琉球国之内」とあり、1611年以前の内容である。例えば、伊野波(本部)間切や田港(大宜味)間切が、それに登場せず、それと恩納間切や久志間切なども登場せず、瀬底島やによは村(伊野波)、あめそこ村(天底)は「今帰仁間切之内」とある。「おんな村(恩納)や「こちや村」は金武間切之内とある。「川田村」「てぎな村」「おほら村」は「名護間切之内」とあり、その絵図の内容は1666年以前である。

 その絵図に道筋(大道とある)と一里が記されている。一里塚をつないでいる朱線は大道(宿道)(スクミチ)とみてよさそうである。今帰仁間切へのルートを追ってみると、名護間切から一里塚を追ってみる。そのころ街道筋に松並木があったかどうか。街道筋の松並木は蔡恩以降か(17世紀中)。

  名護村→為又か→三土手→並里?→渡久地→(新里)→與那嶺→山岳→湧川(クンジャドウ)→仲尾(羽地)→真喜屋→津波?→塩屋→大兼久→喜如嘉→(  )→佐手→宜名真→奥→安田→安波→川田→てきな

  ・名護村→伊差川→真喜屋

  今帰仁の一なぎ 並案津の美らさ
     赤染め芭蕉と乙女しふらさ

今帰仁グスクの古木

 今帰仁御殿が□□した為城内の古木を売ったりして風致を害し城内を□されたので当時の村長城間半蔵氏が□へ尚順男に相談して具志川マカトと今泊青年会と半々出して買った。

  凡そ七〇〇円   大正四、五年

   名義人  城間亀助
         仲本吉次郎 当時区長
         玉城精五郎    〃
         具志川朝宜
         崎山 朝清
       大城保元
   字今泊ハンタ原 一、四八〇ノ一 山林 一〇、七九三坪
                    (徳裕ノートより)

【本部町~今帰仁】

【本部側】

    展示用に金城龍生先生が情報を入れてくださった。
  ・旧具志堅の村屋(現在の喜屋武商店敷地)
 ・西謝花への道筋

  パシグチ(端口)→松部毛(マチゾーモー)を右手に→パマムリグチ→プルマーウイ(古馬場)
  →ナートゥの橋→マーウイ(馬場)→突き当りから左へ→ウミンビラ→板門墓横→謝花へ

  (両側は松並木、そこはスクミチと呼んでいた)

・具志堅村屋から東(今帰仁)への道筋
   東方の今帰仁・親泊への道筋

   村屋→アナンジョウー(穴間)→アナンジョウガー(橋なし)→旧家ウンサー→奉行毛(ブジョウモー)
   →ジャニーガー(橋のない川)今帰仁村との境界(松並木:スクミチと呼ぶ)

  具志堅の集落はミージマとサガヤーへ発達)

  ブジョモーからアナジョウを通り謝花へ行くのに不便で近道(クンチリ道)を作る。(スクミチの変更)(今帰仁側も集落沿いからプイヌモーへ)

 ・明治38年、日露戦争の直後、本部・今帰仁間切間を通る道路の拡幅が為される。

    (集落内はそのままで、サガヤに西側から東に向けて拡張)

  ・ウミンビラ(新里入口)を通らず、ワイトゥを通り、スクミチにつながった。

     (上間家のキーバカがあった。その時に、赤墓に移葬か)

  ・謝花のフプビラ、浦崎へ通ずるカスガービラも迂回。

【戦 後】

   (略)


2022年4月4日(

 四月になってパソコンに向かう時間が長くなった。北山と今帰仁から離れることに。まだ、「沖永良部島と北山・琉球」は進行中。まもなく終える。過去の調査記録を振り返っている。おもろで謡われた地、1644年に制度化された遠見所、古琉球の辞令が発布された地、奄美のノロ家の遺品などをキーワ―ドに訪れている。各地をくまなく踏査するためにムラ・シマを基本としてきた。

 上のキーワードにするとシマ・ジマを大半を踏査することができると気づかされる。今帰仁グスクから出土した遺物を見ると中国・韓国、ベトナム・タイ・ベトナム・ジャワなどとあると無意識に飛んでいる。博物館(歴史文化センター)建設の準備中は北九州、鹿児島県内の資料館や博物館をめぐっている。アメリカのワシントンDCのスミソニアン、アウスシュツの博物館、今のロシアとウクライナの戦争がトラウマになって浮かぶ。

 ドイツからオーストリアまでの城とブルク、少数民族のことになると北海道、オーストリアとニュ-ジーランド、初期の頃、台湾の高雄など。外国の旅は妻の出資。私はカバン持ち。最後はスペイン・イタリアでした。帰国直後、新型コロナが流行。それとパスポートの賞味切れで更新しないことに。行けなかったのは南米。20時間近く✈に乘る体力がなくなっている。南米の雰囲気だけはニュ-ヨークからフロリダまでの機内で大型のスポーツ選手と同乗したことでちょっと体験。食べ物とコーラなど食べ物の大きさに納得。テレビや映画で見てきた女優さんタイプが大方と思っていたが逆でした。外国人には大型の日本人はかわいく見えるようだ。

・喜界島阿伝(あでん)(東間切)

 阿伝には琉球国(首里王府)から発給された「辞令書」がある。この辞令書は伊波普猷の『をなり神の島』(全集五巻:鬼界雑記)で紹介されている。喜界島の東間切の阿伝ノロと首里王府との関わりを示す史料である。そこで伊波は、奄美と琉球国との関わりを以下のようなことを掲げている。
  ・大島が琉球王国の範囲に入ったのは1266年である。
  ・喜界島は二回ほど反乱を起こし征伐される。
  ・おもろで「ききや」と謡われる。
  ・隆慶3年(1569年)の首里王府からの辞令書で「ききや」とある(のろ職補任)。
   ・1609年の島津氏の琉球入りで大島諸島は薩摩の直轄となる。
   ・寛永元年島津氏は役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止する。
   ・寛文三年に島津氏は統治上、大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げて焼き捨てる。
   ・享保17年役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁する。
   ・琉球的なものを厳禁した中で辞令書は秘蔵している。

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)

  しよりの御ミ事           首里之御ミ事
   ききやのひかまきりの       喜界の東間切の
   あてんのろは             阿田のろは
      もとののろのおとゝ             元ののろの妹
   一人ゑくかたるに          一人ゑくか樽に
   たまわり申候            給わり申候
  しよりよりゑくかたるか      首里よりゑくか樽
           方へまいる          方へまいる
  隆慶三年正月五日         隆慶三年正月五日(1569年)

 この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇家という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。

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   ▲日本復帰記念碑(昭和28年)      ▲末吉神社 

2022年4月3日(

 四月からしばらく沖永良部島と琉球国をテーマにまとめている最中です。奄美に関心を抱いたのは昭和60年頃かと記憶しています。沖永良部島は、これより古く1992年(平成4)頃だと記憶しています。私自身の奄美研究の年譜を整理しないとあやふやなり。沖永良部島について一部整理して訪れたのであるが、雨と日暮れであきらめた。1月は新型コロナで。後半部分を整理するため今月に訪れることに。

中北山時代(中昔北山ともいう)

   西暦1100年頃から1300年頃まで。

「中北山」の時代の興亡の様子をあげてみる。「世譜」及「球陽」に依れば玉城王の代、明の延祐年間(1314~1320)国分れて三となり、今帰仁按司は山北王と稱して山北諸郡を從へたとあり、洪武十六年(1384)明の太祖使を遣はして三王兵戦を息めよと諭さしめたので中山王祭度・山南王承察度・山北王怕尼芝各々詔を奉じて兵を止め使を以て恩を謝した。依て太祖三王に衣幣を賜う。山北の入貢は之より始まる。云々

怕尼芝は元中九年(1392)に薨じ珉之に代り、應永三年(1396)珉亦没して子攀安知立ち、應永二十三年に至り尚巴志の指揮する連合軍に包囲せられ遂に滅亡した、四代九十余年と稱する。「中山世譜」に云う、

山北王今帰仁在位年数不詳、怕尼芝在位年数不詳、珉在位五年、攀安知在位二十一年、元の延祐年間に起り明の永樂十四年に尽く、凡そ四主九十余年を経たり。

山北王の明国入貢は弘和三年(1383)中山察度王の時怕尼芝の遣はしたのが、史上に現れた始であるが怕尼芝に亡ぼされた。今帰仁按司の子孫と称する家に支那織の衣類などが数種伝わっているのから考へ又「中山世譜」に怕尼芝の前に山北王今帰仁とあるのから察すれば北山王国も怕尼芝王以前より支那交通をなし、今帰仁の世の主が其の子弟を羽地・名護・国頭等に配置して全地方を統一し事実上の北山王となっていたのであろう。

偖て「野史」に依って怕尼芝以前の今帰仁按司を探るに、昔天孫氏の子弟今帰仁に封ぜられてあったが、利勇反逆の際に亡び、次に義本王の弟が今帰仁按司となり数代の後嗣子なき爲め姻戚なる英祖王の次男を養子となしたという。

予、「野史」に基きて調査するに瞬天系統以前に就きては全く之を確めることが出来ないけれど、英祖系統に就きては其の記事と大同小異の伝説が各地の旧家にあり且種々の遺物も保存されているのから見れば、必らずしも無稽の説とは思はれず。

此の英祖王の子で今帰仁按司になった系統を俗に仲北山と呼んでいる。今「中山世譜」の記事と総合すれば矢張りそれ以前に北山王と稱する今帰仁按司が数代あったことは明白である。

仲北山は二三代の後其臣本部大主(大腹とは違う)の謀反に遭って一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取返したが(「北山由来記」1383年には此の若按司を丘春としてある)不運未だに尽きず、一、二代の後再び一族なる伯尼芝の爲めに打滅ぼされてしまた。

伯尼芝(長男)が中北山を滅ぼし、北山王となり、次男の真松千代が沖永良部島、三男の与論世の主(王舅)が与論島を統治していく流れである。(ここまでは北山側に記される。そこから先は沖永良部島側の記録とのかみ合わせとなるか。それと三山統一後は「おもろ」「古琉球の辞令」、のろ制度と遺品、シニグなど。)

 以下工事中



【琉球的なものの廃止】

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 
 【口語訳】(蔡温の独物語)
   毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは
  當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは
  昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気まま
  の風俗がわるく蔓延、それに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言葉で
  言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方
  にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。
  これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければ

  いけない。この事は「御教条」にも詳しく記しておいた。

2003.2.23()調査記録

 少し気分転換に奄美大島の加計呂麻島を机上で散歩してみましょうか。加計呂麻島は奄美大島の南側に位置し、瀬戸内町に属しています。机上とは言ったのですが、沖縄県博物館協議会が瀬戸内町で開催されたとき(平成10年10月5日から8日)加計呂麻島を訪ねています。

 平成10年10月5日、みんなより一日早めに奄美に入り、瀬戸内町の油井の八月祭を見た記憶があります。大雨の中、瀬戸内町郷土館の学芸員をしている町氏が空港まで迎えにきてくれたことが思い出されます。数名のメンバーがその祭りをみるために1日早めにくるだろうと思っていたら私一人でした。大雨の中、曇った窓ガラスをふきながら(クーラーの壊れた車だった?)工事中の山道を二時間余りかかりました。ほんとに今でも感謝しています。その時のノートがあるはずだが・・・。時の写真アルバムがありました。

 ノートは見つかりませんがアルバムから記憶jをたどってみました。平成10年10月5日「油井の豊年祭」を見学しています。他の博物館のメンバーは翌日に瀬戸内に入るとのことでした。一人参加となりました。来賓席に招かれて恐縮してしまいました。やはり仕事柄座って見学とはいかず撮影と記録とりに動いています。

 八月踊りにはひょうきんな仕草があり、面をかぶっての踊りがありました。到着前に綱引きや大和相撲は終わっていました。綱引き・土俵入り・前相撲・稲刈り・稲すり・米つき・力めし・観音翁の土俵見回り・ガットドン(赤ふんどし)・玉露加那(タマツユカナ)が行われました。その日は大雨で演目のいくつかは体育館の中で行われました。あいさつを求められコメントを述べたことは覚えています(内容は不明)。

 加計呂麻島に渡ったのは7日でした。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などの集落をまわりました。一つ一つの集落(ムラ)については、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができました。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことに。

 神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分があります。屋根が高く現在は床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ています。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがありました。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物があり、気になる施設でした。

 薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思います。一度で集落の地理的空間がほとんどつかむことができません。再度訪ねたい島です。(その後、三回訪れています) 

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  武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』)    瀬戸内町で(平成1010月)

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  これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの
    作りに似ている。


 当時、すでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていました。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織―加計呂麻島須子茂のノロ制度―」(ヨーゼフ・クライナー)など山田尚二氏の須子茂の辞令書に関心をもっていました。

 それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ―神アサギ―集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかったことがありました。

 シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりまで及んでいることに気づかさ、仮説の線引きをしたことがあります。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど遺り伝えているのかの研究を深化させていきたい。


2002.6.23(日)メモ

 慰霊の日にあたり、沖縄県博物館友の会の皆さん(20数名)と古宇利島に渡ります。先日回った下見のコースになりそうです。天気はよし。戦争のことも話題になります。古宇利島の戦争で避難した壕についても。午前中は乙羽山と運天港周辺の予定。古宇利農村環境サブセンターで昼食(区長さんお世話になります。案内・説明もお願いします)(古宇利島に橋が架かる前のこと)

 港(フェリー)→御嶽(七御嶽)→ポットホール→トーミヤー(?)→ウンジャミ(海神祭)
 のコース→シラサ(岬)  


 
古宇利島ゆき(2002年6月)

 古宇利島ゆき。今日は沖縄県は沖縄県博物館友の会の皆さんと一緒である。案内役もあるが、一人で考えることが多い。今回は七年前のタキヌウガンに同行した事を思い出していた。その頃まで、国との関わりで祭祀を見ていたわけではなかったので参与観察記録をとることを目的にしていた。議論を展開していく上で、どうしても共通のベースとなる参与観察記録が必要であった。それで、拝む日にち、拝む場所、神人、所作、供え物などの記録が中心となっていた。神人の唱えについて改めて調査したいと考えていた。

 古宇利島の七森七嶽が、どんな意味を持っているのか、まだ答えを持っているわけではない。これまでの拝みの唱えからすると、どうも古宇利島にはある頃まで御嶽を中心とした七つの集団からなっていたのではないかと考えたりしている。近世の初期あたりには、二つの集団(ムラ・シマ)にまとまってきていたのではないか。17世紀初期にはシマ全体が、行政ムラ(郡や古宇利)として一つにまとまっている。二つのムラとしての痕跡としてウイヌアサギ(上の神アサギ)とヒチャバアサギ(下の神アサギ)のアサギナーが残っている。海神祭(ウンジャミ)の時、上の神アサギと下の神アサギ跡で同様な所作を行っているところに、二つのムラが一つの行政ムラにまとめられた痕跡とみることができそう。

 そんなことを考えながらの古宇利島ゆきであった。「古宇利の神人の祈り」は、「安田の神人の祈り(シニグ)」と対峙しながらまとめる予定。今回の古宇利島ゆきは大きなテーマを抱えての島渡りであった。もちろん、各ポイントの説明は、しかとやったつもり。

 トーミヤーは今テーマにしていることもあって、先日とは異なり、新しい情報の確認となった。質問もたくさんありました。

 今回はバスで島に入る予定であった。先日、「干潮時間でも中型のバスは大丈夫ですか」と確認をとっての予約であったのに、バスの乗り入れができなかった。しかし島の車を四台借りてのポイント回り。シマチャビの経験もできたのではなかったでしょうか。その辺のことを、臨機応変に対応して下さった古宇利掟さん、ありがとうございました。島の概況がウガンの説明までして下さって助かりました。博物館友の会の皆さんも、ビジュルメーでは本物のハブと出合い、いい体験ができたと思います。ご苦労さまでした。

 6月23日慰霊の日、戦争と平和について神アサギで語る予定にしていたのであるが、ハブとの遭遇で頭の中が真白になり、話すタイミングを失してしまった。重い重い気持ちは、変わらずですね。


2022年4月2日(

 さて、曜日を確認しないとどこに向けばいいのかととまどってしまう生活。これから運びこんだ資料の整理に行くか。

 2003年の伊平屋島と2006年の喜納番所跡(読谷間切番所)の記事が飛び出してきた。多分、沖永良部島の皆吉家(稲川)に伊平屋島の郵便局員をされた辞令書、読谷村の座喜味グスクの石積みに与論の人々が駆り出された伝承があり、そこにユンヌ(与論)の地名があるという。それらのことが過(よ)ぎったからであろう。
 

2006.03.24(金)メモ

 読谷の喜納番所跡まで足を運ぶ。一帯は黙認耕作地のようである。大きな福木やウタキや井戸跡などがあり、かつての読谷村の集落があったことが伺える。

 かつて自分の屋敷があった場所(現在黙認耕作地)で野菜の手入れをしていた松田さんに伺ってみた。松田(大正2年生)さんは戦争当時は大阪。帰ってきたら自分の家に戻ることができず、現在の国道58号線の反対側にテント小屋があり、そに収容されたという。屋敷地に家を建てることが許されず、畑(野菜をつくっている)をしているという。

 
   ▲森が喜納番所(読谷山)の跡地          ▲番所跡の東側ある井戸

 
▲番所の東側にいくと小さな土盛がある?        ▲土盛の側に祠がある?

 
 ▲戦前、番所跡近くに家があった。屋敷地は黙認耕作地と語る松田さん(大正2年生)


2003.4.30(水)過去メモより

 2003年28日29日と伊平屋島へゆく。十数年ぶりの伊平屋島ゆき。今回はムラや集落の成り立ちを確認しておきたいということ。我喜屋と島尻に神アサギがしっかり残り、田名・我喜屋・島尻には水田が広がっている。稲作がまだ行われていることが、祭祀にどのように影響を及ぼし継承されているのか。そのことを膚で感じとることができればと胸のうち考えていた。

 28日(月)午前11時の便で伊平屋島へ。天気晴、波穏やか。しかし、もやっているのですっきりした天気ではなかった。船の旅は約1時間20分。

 伊平屋と野甫の二つの島からなり、近世には田名・我喜屋・島尻・野甫の四つの村があり、明治43年頃に田名から分区した前泊がある。前泊は田名から分区はしたものの地籍は戦後になって分離する。現在5つの行政区からなる。

 船上から伊平屋島の山並みを確認することができる。島に向って左手から阿波岳・賀陽山・腰岳・アサ岳・後岳・タンナ岳がある。島尻は阿波岳と賀陽山、我喜屋は賀陽山と腰岳、田名はアサ岳と後岳の間に発達している。我喜屋・島尻・田名の三つのムラは北側に高い山(御嶽?)を瀬に、集落は南側に展開している。その前方に水田が広がっている。我喜屋・島尻・田名の三つのムラは集落の前方に水田を抱えたムラである。野甫は野原の多い島で畑作と漁を中心のムラである。

 家の囲いは、かつて主に石積みであった。ブロック塀に変わりつつあるが、赤瓦屋根の家とフェーラ石を積み上げた屋敷囲いに伊平屋島のたたずまいをみることができる。石垣に使っている石はフェーラ石と呼ばれ、浅瀬にできた珊瑚石灰岩である。フェーラ石を二列(二重)にして積み上げてあるのが目立つ。ターチ積み(二重積み)と呼んでいるようだ。沖縄本島とは異なった積み方である。また石を切って積み上げたのもあり、布積みもみられる。ケンチ積みもあるようだが確認できなかった。

 我喜屋・島尻・野甫、そして田名の順で歩いてみた。

①伊平屋村我喜屋

  我喜屋は前泊から西の方に位置する。集落の後方に腰岳の連山が連なり、その麓に集落が展開している。四度の移動伝承を持つ集落で、現在の集落地は四番目だという。神アサギや旧家の跡は三度目の移住地の内村にある。またそこにはマーガー(真井泉)と呼ばれる湧泉もある。

  我喜屋の水田の広がる一帯はトゥマイやナートゥダーと呼ばれ、かつては港(泊)であったことに由来しているようだ。
  現在の集落は兼久地に立地し、ムラ名の我喜屋はガンジャと呼ばれ、潟(干潟)に由来するという。
          ※上里と内村(ウチムラ)は別か?マーガーとウチムラガーも別?(確認のこと)
   
  稲作地帯ということでもないだろうが、水田と丘陵地との境目あたりに土地君と見られる三体の像が祭られている。

  集落から水田を通り故地の内村に向う途中右手にマーガーが見えてくる。その側に小さな祠があり、それも土地君だろうか。神アサギに至るの途中にガジャ(我喜屋)殿内とあんな殿内の小さな赤瓦屋根の祠が平成11年に建立されている。

  神アサギ(県指定)は四本の石柱で高さ70cm位である。しゃがんで入るというより腹ばいにならないと入れないほど低い。屋根は茅葺きで結びは藁縄を使い、中の材木はほとんどチャーギを使っている。土の上にウル(珊瑚)がまかれている。香炉やタモト木なし。

  ほとんどの水田が水を切ってあった。稲は根づきこれから成長の時期にさしかかっているはずなのに。田に水を流し込んであげたい気分であった。それで聞いてみた。「田んぼ水がありませんが…」「今はちょうど根の分割時期で、水を控えることで病気になりにくい…」と
 
 説明をいただいた。なるほど。土地君の祈りだけではダメなのだ。神アサギの屋根の低い理由を「神人が衣装を着替える場所、あるいは休憩する場所なので低くしてある」という。
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我喜屋は赤瓦屋根の家が目立つ  上里にある我喜屋の神アサギ【柱4本)

②伊平屋村島尻

 伊平屋島の南西側に位置し、細長い島の南西はずれにあるので名づけられた村名であろう。我喜屋が親元で、そこから別れてきたムラだという認識がある。移動伝承を持つムラであるが、『琉球国由来記』(1713年)頃にはすでに移動している。独自の神アサギを持ち柱は8本あり我喜屋の4本より多く、勢いのあるムラであったにちがいない。我喜屋より人口や石高が少し低い程である。ノロ管轄は我喜屋ノロが島尻村まで管轄している。

 島尻にシニグモーがある。「土地改良で今の場所に移転してのですよ」とバーキを担いで農作業にでかけるおばあの話。また、「シニグモーには昨年生まれた男の子たちが、女の子は下のアサギの方に集まってくるよ」と。

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   島尻の神アサギ(石柱8本)       移設された現在のシヌグモー

③伊平屋村野甫

 野甫は伊平屋島と離れた小島である。現在は橋が架かり交通は便利となっている。現在、橋の架け替えがなされている最中であった。橋が架かっている近くに集落が島の南側に展開している。後方に野甫神社があり、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる五つの御嶽の一つ。野甫ノロの管轄。

 集落から離れたところにウフマガーと呼ばれる井戸がある。ウフマガーは大きな、あるいはりっぱな井戸ということか。深さ5m近くある掘りぬきの井戸のため釣瓶をつかって水を汲みあげた痕跡がある。塩分を含んでいたようだ。

 集落の前方の海は見事であった。おいしいものをずっととって置きたい気持ちにさせるちゅら海であった。今回、二度も・・・

  
  野甫の集落から眺めた海       珊瑚で積み上げた石積み(?積み)
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  ▲集落から離れた場所に掘られているウフマガー(井戸)と屋敷の珊瑚の石積み
④伊平屋村田名

  ▲上空からみた田名の集落の様子『ふるさと飛行』より
⑤伊平屋村前泊
 
 大分夕暮れが迫っていたのであるが、前泊にある役場の後方の虎頭山に登ってみた。八合目まで車が登る。そこから前泊の集落を撮影した。前泊は昭和25年まで地籍上は田名の一部であったが分区し、現在に至る。
 屋取(ヤードゥイ)集落としての歴史は明治12年の廃藩置県にさかのぼるようだ。首里や那覇、あるいは伊是名島からの移住者で形成されたという。明治43年に田名から行政上は分区はしたが、地籍上は未分離のまま続いたという。


虎頭山の展望台から前泊の集落をみる

2022年4月1日(金)
 
 4月スタート。今日から「寡黙庵」へ出勤?

 「北山文化圏」という大きな歴史的な大きなテーマを掲げています。1990年頃から「北山文化圏」を歴史・シニグ・地名・神アサギ・墓などを手がかりに主張のしてきました。与論島から喜界島まで琉球国の統治の範疇に入ります。「海東諸国紀」(1471年)の琉球国の図に、奄美の島々は「琉球国に属す」とあります。

 文化圏と捉えたのは、系統図や血筋では限界に気づかされます。そのため、与論島以北に遺っている琉球的な事柄は1609年以前の古琉球の姿だと見ることができます。まずは、沖縄の歴史の三山の時代「北山」が手掛かりとなりました。当初、山原とは?という命題に突き当りました。山原の領域の議論がありました。それが言語の北部と中部との境界線。勅物からみた山原となると読谷山がから北側となる。その境界線は、様々だということに気付かされました。様々な調査をしてきましたが、今日の山原の祭祀とイノシシに関わる部分について報告したいと思います。『琉球国由来記』(1713年)に編纂された記録があります。その中に「神アシアゲ」があります。すると、神あしあげのある地域は、どうも「やんばる」の領域にあり、それは三山の北山の領域と重なることがわかりました。北山の時代と言えば、与論・沖之良久部・徳之島、奄美大島は途中まで、喜界島もその範疇に入れてもいいのではないかと考えました。神アシアゲは奄美大島の南側加慶呂麻島まで確実に入ります。

今日のテーマと関わる祭祀のシニグ。海神祭の分布です。本部半島から今帰仁・大宜味・国頭、やんばるに神アサギとシニグの分布です。平安座島や宮城島、そして伊計島にシニグドウがあります。シニグドーはシニグ行事の一場面です。津堅島にもあるようです。しにぐは与論島、沖之永良部島にもあります。

その後、おもろや古琉球の時代の「おもろ」や「古琉球の辞令」と「のろ制度」があります。それと最大の出来後は1609年の薩摩軍の琉球侵攻です。1611年の慶長検地で琉球では村制度がとられ村位が上・中・下下と決められ、納税が村単位(地割制度)がとられ、祭祀も村単位で行われ、そこにはのろの複数の村を管轄するようになります。与論島では祭祀は村単位ではなくサークラ(血族集団)で行われています。その形は古琉球のマク・マキヨだと見ています。それは「おもろ」で謡われています。

   (工事中)