沖之永部島を往く(2021年10月21日~24日)
沖永良部島往きは『和泊町誌』の私の分担部分の確認である。まず「中北山」が怕尼芝(パ二ジ)滅ぼされた離散した一族の伝承(国頭(根謝銘・ういぐすく)、名護グスク、石川の伊波グスクの伝承、中北山の各地に離散した一族の伝承、そして怕尼芝の弟(二男)と三男の歴史伝承を見ていく必要があるのではないか。その時代と与論島・沖永良部島。その時の山北三王(ハニジ・ミン・ハンアンヂ)の明国との交易記録がある。その時代の山北は隆盛を極めた時代で、明国・朝鮮、東南アジア(ベトナム・タイなど)と貿易を行っている(明国への貢物の品々)。その時代は次男・三男を派遣していて北山の影響は大である。
1416年ハンアンジが滅ぶと、その後は中山との関わりとなる。その時のことを「和睦」なのか討伐なのか。『世乃主由緒』(平安統記録)の「折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由」とあり、その後は北山ではなく中山の統治である。その区切りとなり、中山の中央集権国家の統治下(1500年代)に置かれることになる。それから1609年までの薩摩軍の琉球侵攻までの時代である。
その時代と関わる史料に、首里王府が奄美の役人やノロへの辞令の発給、ノロ辞令とカブ型の簪と勾玉(玉ガーラ)は辞令の発給とセットとみている。神衣装や御玉貫や鳩目銭など引き出物や祝儀として賜っているので、時代は後まで続き、琉球だけでなく奄美でも近世まで続く。それは琉球の儀礼が薩摩以降まで続くということになる。
奄美に辞令の発給がなくてもノロ制度が生き延びたことになる。それが喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に遺っていることになる。今回扱う沖永良部島に辞令書はまだ確認できていないが、ノロ遺品の勾玉と簪(かぶ型)が遺っており、古琉球の時代を見ることができる。その時代は辞令書とノロ遺品と並行しながら、「おもろ」や「家文書」の地名や役職名、シ二グの行事の流れなど見ていくことができそう(実証的に)。そのことがあって知名町の上城と下城へ。島への女人の入り方はシ二グの本質をついているかもしれない。
天気が悪く、それと夏場の調査が多いので夕方七時頃まで踏査するが、今回は雨と夕暮れが早く時間切れ。会議が始まるまでの午前中、与和の浜、コンクリートの小屋後あり。砂糖の小屋とのこと。そこから古里へ。前日も皆川から通っているが気づかず。皆川の川が気になっていた。皆川でシニグドーとニャークバカとフークツクバカを見る。碗が十基近くあり、第一の印象は古琉球と薩摩以降(1609年)とさらに明治4年以降の重なりが見える。
勢理客のジッキョヌホーや住吉のクラガーと隣の高倉へ。皆川にも水量の多い川がある。皆川の名のとおり水に恵まれた地である。以前に住吉ノロの遺品の調査をしたことがある(沖縄県の玉ガーラ調査)。福永家まで訪れる時間なし。そのころの娘さんはどうなったことか。そこからどう廻ったか不明。徳時、大津勘、屋子母へ。屋子母の公民館に立ち寄ると区長さんの姿が見えたので、「浜番」について聞く。「自転車道路沿いにあるよ」とのこと。見つけました。琉球との関わりが説明してある。
一日伸ばして、知名町を中心に回る。和泊町と知名町の道路は放射状に交差している印象。ちょっとずれると再び同じ道を通っている。和泊町の「世の神社」で説明会があるというので参加、そこに藤井氏と桂氏が来られ説明してくれた。伊地知君が世の主の歴史的な話をしてくれ、頭の整理ができた。世の主神社(内城)は二回目、そこから下り、谷間の人家のある場所まで。沢があり畑地は砂地である。田には向かない地質のようだ。大型の竹や芭蕉がある。そこからウファ―チヂの標識を目にしながら与之主の墓へ。何枚も画像に納める。内城へていた
そのあたりから頭に描いていた歴史の流れが崩れてしまう。
流れを立て直すため、知名町側の山手の集落へ。和泊町側に玉城・内城・大城がある。それと後蘭、後蘭孫八の居城跡と墓がある。「おもろ」に謡われた人物である。そこにもヌルバンドーがある。(和泊町の畦布にもある)。天気が悪く、後蘭孫八の墓と言われる入口まで。
その後、どう廻ったか記憶が交差してしまい和泊町の伊延の西郷隆盛が到着したが新しい碑に建て替えられている。(そこであたまの中の歴史が近世末へ)
諦めて次回へ。2022年1月の予定が新型のろので編集会議に参加できず。その積み残しは次回へ。
【沖永良部島のろ】
・沖永良部島の世之主(北山王の二男)(幼名真千代)の子孫が後に大屋役を世襲宗武重所蔵) 「嘉永三年世乃主かなし由緒記」
・中山王と上城ノロとの間に生まれた王子とのこと。
・北山王系の世之主は、二代目のとき中山王からの討伐で自殺。
各村に世襲のノロいた。えけり・おなり、百とともに旧家の女性が継承。
【ノロの支配組織】
大あんしられ・ノロ・ウカシア・ミチサジ 男子の百
【ノロの財産】
ヒャー田 ヒャー畠
【ノロが関わる祭祀】
・八月十五日 旧 シニグドーで八月踊りをした。
・八、九~十月 乙酉 シニグ祭り
【廃絶の理由】
安政二年(1885年)以来極端な弾圧、明治二年(1869 )の廃仏飢釈、シニグも廃止
【沖永良部島のシニグ】
本島のノロの姪と琉球王との間にできた王子(怕尼芝の弟、真松千代)で本島の与の主となり、三年に一度巡視、その歓迎の為の儀式あり。
世の主以前からあった祭り?
(収穫を感謝し、豊作凶作を占い、豊作祈願として祭で、世之主以前からあったもの)
・後世に百が主宰となるか。①隔年行われる。
祭のある年はシニグ年、ない年を神なし年
②祭は九月、十月の乙酉(きのととり)の日
①祭前 余多・屋子母・西見の百は各自の百を引率して、与人・大あんしゃり・
目差などの家をめぐる。(お使いという)
②三日前には尻縄(しじゃたみ)があり、馬具を改め、乗馬の乗りためしをする。
③祭りの前夜、与人たちは内城に夜籠りをする
翌朝』与人旗」を押し当てて、騎馬隊を引率し世之主側を擬するもの(赤装束)、
反対側のもの白装束とに分かれてシニグヅに集まり、さらに集庭に赴いて模擬
い。世之主側が勝つことになっている。
④シニグ終了後
与人三人・目差三人・百一人・本掟三人・城サバクイ一人・大アンシャリ一人
白装束で、
一日目 余多(アマタ)―屋者(日帰り)
二日目 久志検―屋子母(泊)
三日目 屋子母―西見(泊)
四日目 西見―内城
(全島を一周)
内城の与之主墓を拝み、そこに供えてある酒で豊作・凶作を占い、
住民の相撲をみて解散する
※「初シニグ祭」、前シニグ後に生まれた衆多の男子のために行う祭儀がある。
・シニグ祭一周間後、には役員の慰労のため当たりシニグが百の家でおこなわれる。
西見にはウツタハチブルがあり、男二人は舟を漕ぐまねうする。女装の男二人は太鼓を打って踊りをする。上城から出発し稲葉のウッタ墓の中からハチブル(面)をかぶって西見で種々の戯れをなす行事。
・シニグ祭には騎馬戦や供酒、豊凶占い、農業関係の祀りあり。
ウツタハチブルで太鼓を打って踊る中で舟漕ぎの所作あり。村村の巡視は悪魔払い
今回の沖永良部島行きの目的にシニグ祭を「流れ」で追いかけてみたいとの計画であった。一つは島の内側の集落はグスク時代から住み続けている集落ではないか。それと与之主伝承とシニグやノロ家とその遺品を手掛かりしようとすると、どうしても間切(まきり)時代まで遡る必要がありそう。島一周道路沿いの集落《字》と山手への集落、それに与之主伝承やシニグの流れ、グスク時代からの集落を被せみていくと、現在の行政区画では理解しがたく、何度もめぐっている。その変遷の確認調査。
・鹿児島直轄領時代元禄4年(1692)和泊村に仮屋(代官所)
・17世紀以降の間切制
和泊域のシマ(シマ)
①大城間切 ②喜美留間切 ③久志検間切
1857年(安政4)に方制(和泊方)(14カ村)(明治5年に方制は廃止)嶋役人 戸長
①和泊(伊延)祝女「こしゑい」 和泊湊「正保琉球国絵図」
1749年知名村に漂着した唐船の乗組員17人和泊の本御蔵に囲い琉球へ。
1734年伊延湊 朝鮮船 琉球ではなく肥前長崎へ。
②手々知名
③喜美留
「正保琉球国絵図」に村名はないが、「きびる間切」と「きびる浜」がある。
元禄以降久志検間切の内、1857年から和泊方
④国頭
世之主の家来クンゼーヤタロウという豪族。
はじめ久志検間切の内、明治4年和泊方
⑤西原
久志検間切の内、和泊方へ。
ジョウバルに神石あり、集落内にシングドーあり。
⑥出花(デギ)(デーは竹のこと)
喜美留間切から和方へ。シニグドーあり。イキント溜池周辺でシニグ祭が
おこなわれていた。
⑦畦布
きびる間切の内あぜふ村 和方へ。ヌルバンドー石あり
⑧根折
⑨内城
集落のあるウイバル、花崗岩が風化した地質。「おもろで大ぐすく」
ゴラルマゴハチに築城
シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に依籠り
・出城・直城・上城
・ソーヤシキ ・イゾウヤシキ ・ノーシヤシキ ・アガリゾウヤシキ
・ヘースクヤシキ ・ウワーナスクヤシキ
⑩大城
大城間切あり。川内の百
⑪皆川
村名のイニャーグは稲と川に由来。石橋川があり、世之主が巡回のときの休息場
シングドーがある。
シニグ祭のとき、大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・
百姓旗を持って騎馬隊を率いて集まる。太鼓をならして模擬のたたかい。
⑫古里
⑬玉城
フバドー
⑭和
・シマアタイ・メーマアタイ ・ミームアタイ
・明治41年(1908)に和泊村が成立 これまでの村は大字となる。
【知名のムラ】
【和泊の世の主ロード】
▲由和の浜 ▲中壽神社(工事中で画像なし)

▲畔布のヌルバンドーの石 ▲世の主神社の祠

▲アーニマガヤトウ―ルバカ

▲下城の世之主神社