沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
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2020年5月(今月の業務日誌)  4月(先月へ)


今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
今帰仁の墓の調査
大宜味村の神アサギ
・今帰仁の印部石                    ・山原の図像
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)
・山原のノロドゥンチ
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年)     ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史           ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)         ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
古宇利島のムシバレー

※4月から「業務日誌」として日々のことを記すことに。

2020年6月1日(月)

 6月に入りました。頭の中はまだ五月。田港・屋古の神アサギの件で調査記録を捜していると神アサギを手掛かりに両ムラのことが駆け巡る。「北山の歴史」で中北山の興亡で国頭(大宜味)に離散した一族が「北山系統」との伝承を根強く遺しているムラである。もう一つは1665年北山監守が首里引揚は早すぎると反対した人物が隠居した滝川がある。反対理由が「首里化(教化)されていない」ことであった。もし北山監守がそのまま置かれたなら伊是名・伊平屋と同様になっていた想像できる。時々、伊是名・伊平屋は「首里王府の天領地」だったと見るのは、そこに根拠がある。

大宜味村田港・屋古

⑤田港田港間切創設時の番所があったムラ
 1673年に国頭間切と羽地間切の村の一部で田港間切が創設される。後に大宜味間切と改称(1682年頃)される。田港間切創設当時、同間切の番所は田港村に置かれたとみられる。大宜味間切の番所は田港村大宜味村塩屋村字大宜味へ移っている。

   ・1731年には大宜味村にある。

    (1695年頃に田港間切から大宜味間切に改称された時に番所を   田港村から大宜味村へ移動したか)

   ・1760年には塩屋村番所を大宜味村から塩屋村へ移転している)

   ・1925年(大正14)字大宜味に役場を新築し落成する。
  ・田港の御嶽イビナー(イビの庭)(お宮)お宮の中の香炉/
   田港の集落田港の神アサギ田港ヌルドゥンチ跡

       (神人が乗る籠:三カ所にあった。最近は一ヶ所)

   ・ウンガミの時、ハーリーが行われる塩屋が眺めれる位置にある。 

⑥屋古塩屋での海神祭を行う 
  屋古は田港に隣接し、塩屋湾に面したムラである。田港ノロ管轄のムラの一つ。塩屋のウンガミ(海神祭)に参加するムラの一つである。屋古の神アサギの側に海神祭に使われるハーリーを納める小屋がある。集落の上の方に神アサギがある。旧盆明けの初の亥の日に行われるウンガミ。田港・屋古・塩屋、白浜(渡野喜屋)の神人が行う。






【大宜味村田港ノロ】

 ノロに関する興味をそそる資料がある。明治36年の土地整理でノロのノロクモイ地も処分されたが、そのかわり一種の年金で補償した。昭和10年でもまだ継承されていることが確認できる資料である。今帰仁村の玉城ノロや中城ノロ、岸本ノロ、それと羽地間切仲尾や真喜屋などにも同様な資料がある。ここでは大宜味村『塩屋・ウンガミ』所収の田港ノロの「ノロクモイ襲職届(写)」を掲げておく。
      ノロクモイ襲職届(写)
        字田港六百八十七番地戸主
          前ノロクモイ(亡)当山ウシ
           安政六年一月一日生
        字田港六百七十二番地
          戸主勇三郎二女
        現ノロクモイ襲職者松本トヨ
          大正九年十一月二日生

    前ノロクモイ当山ウシ儀昭和八年一月丗
    一日死亡ニ付キ同人兄ノ孫トヨヘノロク
    モイ就職致シ候ニ付前ノロクモイウシノ
    死亡届旧ノロクモイノ戸籍謄本並ニ新
    旧ノロクモイ系図相添ヘ此段及御届候也
       
       昭和十年三月十二日
         字田港六八七番地同居者
         届人当山ウト
           明治二拾八年五月十九日生
       字田港六二七番地戸主勇三郎二女
       届出人ノロクモイ就職者松トヨ
          大正九年十一月二日生 


2020年5月31日(

 大宜味村の田港と屋古の神アサギの立て替えが計画されている。神アサギが『琉球国由来記』(1713年)以後、300年余継承されている。その間、廃藩置県、大正時代(生活改善)、戦争、復帰など何度も失う機会があった。しかし、祭祀と神アサギは継承されてきた。大宜味村の「ムラの歴史」を識る手掛かりとなるキーワードである。大宜味村の神アサギ
(参照)を確認してみる。神アサギの建物は茅葺きからセメント瓦屋根、コンクリート・赤瓦屋根へと変遷している。しかし、神アサギそのものの廃止にはなっていない。300年余も継承され続けていること、それを「神アサギ文化」である。

 ・『琉球国由来記』(1713年)にある大宜味の神アサギ
 ・現東存の平良と川田が大宜味間切の村であった時期がある?
 ・津波村と平南村が統合された津波村にそれぞれの神アサギがある。
 ・1690年頃に創設された大宜味村(ムラ)、大宜味間切に神アサギが造られる。
 ・根謝銘(ウイ)グスク内に作られた神アサギ
 ・神アサギは集落の中央部に設置される。
 ・城・根謝銘・一名代で一つの神アサギ
 ・現在の田嘉里に屋嘉比村神アサギ、親田神アサギが見られる。
 ・大正以後に創設された大保・宮城・上原・押川・江洲には神アサギなし。
  (神アサギを必要としない時代となる)
 ・神アサギが祭祀空間と租税を集積する場となる。

2002.1.17(木)の大宜味村の調査メモ

 (前日から続)大宜味村の役場のある大兼久から喜如嘉を通り、急ぎで謝名城へと車を走らせた。途中、国道沿いの芭蕉畑でウーハギ(荢剥ぎ)をしていた。剥いだウーを束ねたのが所々に置いてある。ウーを剥ぎ取る時期なのだろうか。夏場ウーを剥いでいる場面に立ち会ったことがあるので、必ずしもウーハギの時期は決まっているわけでもないのかもしれない。冬場が質のいい糸がとれるのかもしれない。そんな勝手なことを思い浮かべながら喜如嘉の集落を抜けて謝名城へと向った。

 かつての一名代と根謝銘もゆっくりと歩いてみたいのだが、天気と夕暮れの時間もあって根謝銘グスクへと急いだ。根謝銘グスクは大宜味村謝名城にある。根謝銘グスクは国頭地方(後の間切)の中心となったグスクである。謝名城は明治36年に根謝銘・一名代・城の三つの村から一字づつとって名付けた字名である。

 まず、ヌンドゥンチ(ノロ家)を訪ねた。とは言っても無人の建物である。各地から訪ねてくる人がいるのであろうか、お賽銭箱や芳名録が置いてあり、火神を祀ってある壁に親切に「のろ御神」と張り紙がしてある。

 根神人をなさっていた大城茂子さんが元気な頃、ヌンドゥンチで二、三度お会いしたことがある。また、歴史文化センターにも来館されたことが思い出された。ヌンドゥンチの側に「奉寄進」と彫られた香炉(二基)が置いてある。年号と寄進した人の名もある。しかし磨耗しているため判読しにくい。確か、その年号は『球陽』の記事と一致した人物と年号だったように記憶している。二、三の香炉の年号と『球陽』の記事と一致しているため「奉寄進」の香炉は旅をするときに御嶽などの拝所に寄進し、航海(旅)の安全を祈願したのではないか。帰ってきたら、無事に帰国できたことへの感謝で寄進したにちがいないと考えるようなった。その発想を授かった香炉であるため、いつも感謝している。

 ヌンドゥンチから細い道を通り、根謝銘グスクへ登った。途中に「ゑ くすく原」の原石があったが、二、三年前からその場所からなくなっている。(どこかに保管してあればいいのだが......)しばらく行くとコンクリートの祠がある。内部は二分され火神が祀られている。コンクリートの壁に「トンチニーズ」と「ウドンニーズ」とある。また「一九五二年八月改築」とある。そこから喜如嘉の集落とかつての水田地帯、その向うに大兼久の海岸が見通せる場所である。海神祭のとき、この場所から喜如嘉の海岸に向って両手をあげて御願(神送り?)をする場所でもある。

 さらにグスクの中心部への急な坂道を登っていくと神アサギへたどり着く。グスク内にある神アサギの一つである。山原には根謝銘グスクをはじめ、親川グスク(羽地)・名護グスク、そして今帰仁グスクなど代表的なグスクのいずれにもグスク内部に神アサギがある(あった)。それは神アサギやグスクを考える重要なキーワードの一つである。山原の村々の神アサギを追いかけている目的はそこにある。さらにグスクで行われている祭祀から国家成立後、国家成立以前について考える手がかりとなる(そのことについては別に述べる)。 

 さて、グスクや神アサギについては深く述べないが、根謝銘グスクは歴史文化センターの根幹に関わる考え方を生み出した場所である。「現在の祭祀や出来事を記録していくこと、その記録は歴史史料になりうる」ということ。「学問は物事をひもといていく目的ではなく、手段である」ということへつながっていくスタートの場所である。根謝銘グスクを訪れるたびに調査研究の原点に引き戻される。

 もう17年前なるだろうか。初めて謝名城の海神祭へ誘われた。調査や研究をするというものではなかった。当時、歴史を中心にまとめていたので自分自身の中で民俗学とは一線を画していた。そのため海神祭の参与観察記録をしようなど全く考えていなかったし、感心もなかったように思う。海神祭の祭祀を見学したのであるが、全く意味を解していなかったし、多分記録もとっていないであろう。根謝銘グスクでの祭祀を見学し、全く理解できなかったことがずっと頭にこびりついていた。そのことが平成元年四月からスタートした資料館(博物館)づくりへと連動していく。そのころまとめたのが「古宇利の海神祭―歴史的な視点から―」(1990年)、「今帰仁村今泊の海神祭」(1991年)である。

 17年前の根謝銘グスクでの海神祭(ウンガミ)の体験が後々の歴史文化センターの柱となる考え方や方針へと結びついていった。この頃、よく知る人は「そんなに急いで.....」と言ってくれる。有り難い言葉である。これまでいただいたものは、その地(ムラ)に人に一つ一つ返していく作業である。返すどころか、それ以上にいただくものが多い。


2020年5月30日(土)

 2011年タイ国を訪れている。その前にマレーシアやインドネシア、マカオなども訪れている。もう訪れることはないでしょう。ちょっと頭を冷やすために東南アジアの画像を。その頃、山原の津(港・江)や山原船をテーマに調査をしていた頃である。

 天気がいいので「寡黙庵」の屋根にのぼる。遊んでいるいる屋根にアルバイト(太陽光:売電)をさせている。庭のイチゴの四粒の収穫(周に二回ほど)、パパイアも。向かいの乙羽岳の山に白い花を咲かしたヤンバルアワブキ(山原泡吹)が咲いている。ホウライカガミも花を咲かせている(オオゴマダラ一回見る)。

   
   ▲向かいの乙羽岳    ▲ヤンバルアワブキ     ▲鳥がつつかないイチゴ ▲ホウライカガミの花

2011526日(木)メモ

 数年前、マレーシアまで行く。今回はタイ(バンコクと周辺、それとアユタヤ)まで。琉球国の大交易時代。タイ王朝のクメール(アンコール)王朝→スコータイ王朝→ラーンナータイ国→アユタヤー王朝→バンコク(チャクリー)王朝とタイ王国の歴史の流れを頭に叩き込みながら。  

【バンコクと近郊】


 
タイのこの風景を見ると那覇の泉崎付近と重なってみえる。

 
 チャオプラヤー川から眺めたワット・アルン

 

  
  
木の根に挟まった仏像の顔
 
 

 
 ダムヌン・サドアク(水上マーケット)       水上を走る小舟(サンパン)

【アユタヤと日本人村跡】
 
 
▲寺院の壁に貼られた陶磁器の破片を見ながらいつの時代?(陶磁器を見分ける実習でも) 


 
▲日本人村の看板を見つける

 
 
2020年5月29日(金)

 「おもろ」「古琉球の辞令書」「海東諸国紀」(琉球国之図)(1471年)、「琉球渡海日々記」などに出てくる今帰仁と関わる地名(後の村名)を拾ってみる。「村の変遷」は「村の歴史」を見ていく興味深い作業である。他の間切へ(方切)、間切内での移転、同村内での集落の移動、新設されたり、合併したり。ノロ管轄の村など。村の変遷もあるが、村が新設されると山原では神サギをつくり祭祀を行う、行わなければならなかった、旧暦(農耕暦)を使うなど、村内の様子をしる手掛かりとなり、その時代を捉えることにつながる。


■近世の今帰仁の村(ムラ)(1609 年以降)

『絵図郷村帳』(1649年)

 今帰仁間切1666年以前の今帰仁間切(1666年今帰仁間切は分割し伊野波間切、翌年本部間切と
 改称)
  
 ①崎本部 ②へなち ③けんけん ④瀬底島 ⑤上によは村 ⑥下によは村 ⑦具志川村
 ⑧浦崎村 ⑨ひし村 ⑩具志堅村 ⑪ちゃはな村 ⑫石川(当時無之) ⑬かつお村⑭ミつな島 
 ⑮あめそこ村 ⑯今帰仁村 ⑰おや泊村 ⑱兼城村 ⑲しげま村 ⑳しゆきちや村 ㉑よな嶺村 
 ㉒中城村 ㉓崎山村 ㉔へしき村 ㉕謝名村 ㉖中そね村 ㉗きし本 ㉗玉城 ㉘せつかく村 
 ㉙上運天 ㉚下運天 ㉛沖ノ郡島 ㉜ごが村 ㉝ふれけな ㉞がふ村

『琉球国高究帳』(17世紀中頃)

  ①崎本部村 ②へな地村 ③瀬底島 ④によは村 ⑤具志川村 ⑥浦崎村 ⑦ひし村
  ⑧具志賢村 ⑨あめそこ村 ⑩今帰仁 ⑪しゆきちゃ村 ⑫くしかわ村 ④うらさき村
  ⑤くしけん村 ⑥ちゃはな村 ⑦(ミやきせん) ⑧(しよきた) ⑨よなみね村 ⑩中くすく村

   1666年に伊野波(本部)間切へ)

・1670年 池城墓の石碑に「たまくすくのろくもひ」(玉城ノロ)とある。

(内部の厨子甕(寛文三年:日本年号)にもあったような)

『琉球国由来記』(1731年)今帰仁間切の村

    ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥與那嶺村 ⑦中城村(仲尾次) 
⑧崎山村 ⑨平敷村 ⑨謝名村  ⑩中宗根村 ⑪岸本村 ⑫玉城村 ⑬寒水村 ⑭勢理客村 
⑮上運天 ⑯運天村⑰郡村
 
  ☆天底村の移動は1719年で天底は本部間切である。 
 ※『琉球国由記』での三村(1862年に三村は移動する。「由来記」の記載は移動前の場所)
   ・コモキナ嶽(神名:コシアテモリノ御イベ)(玉城村)(玉城巫崇)
   玉城巫火神(玉城村)での祭祀
        麦稲四祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、三日崇、山留など
      が行われている。
   玉城巫の管轄村:玉城、中宗根、謝名、平敷の四ヶ村 
   ・神アシアゲ(玉城村)での祭祀(ここでの神アサギは移動前の場所とみるべきか)
    麦稲穂祭、麦稲大祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ
          
   ・オホヰガワ嶽(神名:ヨリアゲマチュウノ御イベ)(岸本村)(岸本巫)
   ・岸本巫火神(岸本村)での祭祀
     麦稲四祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、三日崇、山留(岸本巫)
   ・岸本巫の管轄村は岸本村と寒水村の二ヶ村
   ・岸本神アシャゲでの祭祀
     麦稲穂祭、麦稲大祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、大折目次三日
   ・寒水神アシャゲ
     (岸本神アシャゲと同)

『中山伝信録』(1721年)

  (天底村:伊豆味から1719年に移動) 
 ①今帰仁村 ②親泊村 ③中城村 ④崎山村 ⑤平敷村
 ⑥謝名村 ⑦中宗根村 ⑧岸本村 ⑨玉城村 ⑩寒水村 ⑪上運天村 ⑫運天村 ⑬郡  

(記載もれ村もある)

  ☆その頃本部間切伊豆味村地内から今帰仁間切勢理客村地内へ天底村が移動する。同年に伊豆味村の嘉津宇村が具志堅地内に移動する。 

『琉球国旧記』(1731年)(今帰仁郡の邑)

  (天底邑) ①今帰仁邑 ②親泊邑 ③親泊邑 ④兼次邑 ⑤志慶真邑 ⑥諸喜田邑
  ⑦与那嶺邑 ⑧中城邑  ⑨崎山邑 ⑨平敷邑 ⑩謝名邑 ⑪仲宗根邑 ⑫岸本邑 
  ⑬玉城邑 ⑭寒水邑 ⑮勢理客邑 ⑯上運天邑 ⑰運天邑 ⑱古宇理邑

  ☆天底邑は1719年に今帰仁間切に移動しているが旧記ではそのままである。資料を読む

 村移動についてモデルにしているのが、現在の今帰仁村天底である。1719年に本部間切伊豆味地内から今帰仁間切の
 勢理客地内へ嘉津宇は具志堅村に移動。村移動であることは、天保琉球国図に「あめすく村」は伊豆味村地内に描かれ
 ている。『球陽』(尚敬七年:1718年)「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る。」とある。その村移動をもって、貢租は
 免れるものではなかった。享保三年戊戌年天底村今帰仁間切へ村越仰付候の如く農民は 土地に付随し貢租の為にそ
 の自由を奪われ当村疲入候付き具志堅村へ一応加勢は貢祖の割付と土地耕作の強制を示したるものなりと言うべし。
                      (田村浩:琉球共産村落の研究)


『間切村名尽』(附宮衛名)(1713年~1719年)

  ①仲宗根村 ②岸本村 ③与那嶺村 ④崎山村 ⑤平識(敷)村 ⑥謝名村 ⑦勢理客村
  ⑧親泊村 ⑨志慶真村 ⑩中城村 ⑪兼次村 ⑫今帰仁村 ⑬玉城村 ⑭運天村 ⑮上運天村
  ⑯寒水村 ⑰諸喜田村
  
 1719年に本部間切から今帰仁間切へ移動する天底村が本部間切のまま。

『乾隆二年帳』(1732 年)今帰仁間切の村数(20ケ村)

 ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 
  ⑧中城村 ⑨上間村 ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫謝名村 ⑬仲宗根村 ⑭岸本村 ⑮玉城村 
  ⑯寒水村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村  ⑲運天村 ⑳古宇利村

『事々抜書』(1742 ~64年)(21ヶ村)(
中城は上間仲尾次二ケ村の事

   ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 
   ⑧中城村 ⑨(上間村) ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫謝名村 ⑬仲宗根村 ⑭岸本村
   ⑮玉城村 ⑯寒水村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 ⑲運天村 ⑳古宇利村 ㉑湧川村



『間切村名尽』(1738 年以降)今帰仁間切の村(18ヶ村)(20ヶ村)

 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥与那嶺村 ⑦仲尾次村 
 ⑧崎山村 ⑨平敷村 ⑩謝名村 ⑪仲宗根村 ⑫岸本村 ⑬玉城村 ⑭寒水村  ⑮湧川村
 ⑯勢理客村 ⑰上運天村 ⑱運天村 ⑲古宇利村 ⑳天底村

『琉球一件帳』(1738年以降)今帰仁間切の村数(22ヶ村)

 ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 
 ⑧中城村 ⑨上間村 ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫平敷村 ⑬謝名村 ⑭仲宗根村 ⑮岸本村
 ⑯玉城村 ⑰寒水村 ⑱勢理客村 ⑲上運天村 ⑳運天村 ㉑古理利村 ㉒湧川村  

『御当国御高並諸上納里積記』(1738年以降)(21村)

  (「此村位ハ慶長御検地之時相定候村立ニて候」とある。しかし、本部間切は1666年、恩納間切、久志間切、大宜味間切の成立は1673年であり、村レベルでみると湧川村の成立は1738年であり、村位は慶長検地の時に定めたものを踏襲したとしても村の成立は元文検地以降である。

 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥与那嶺村 (⑦中城村 ⑧上間村
 ⑨崎山村 ⑩平敷村 ⑪謝名村 ⑪仲宗根村 ⑫玉城村 ⑬寒水村 ⑭岸本村 ⑮湧川村
 ⑯天底村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 ⑲運天村 ⑳古宇利村 

●尚敬三年(1738年)

 今帰仁郡岸本邑ノ湧川、粟米稲を公庫に奉借す(球陽)。

●尚泰十五年(1862年)

  今帰仁郡寒水岸本玉城等三村村籍を改遷すことを准す。

『琉球藩雑記』(明治6年)今帰仁間切の村(21ヶ村)

 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④誌慶真村 ⑤諸喜田村 ⑤与那嶺村 ⑦仲尾次村  ⑧上間村 
 ⑨崎山村 ⑩平敷村 ⑪謝名村 ⑫仲宗根村 ⑬玉城村 ⑭岸本村  ⑮寒水村 ⑯湧川村 ⑰天底村 
 ⑱勢理客村 ⑲上運天村 ⑳運天村 ㉑古宇利村   

●『統計慨表』(明治13年)今帰仁間切の村(20村)
 
  ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥與那嶺村 ⑦仲尾次村
  ⑧崎山村  ⑨平敷村 ⑩謝名 ⑪仲宗根村  ⑫岸本村 ⑬寒水村 ⑭玉城村  ⑮湧川村
 ⑯天底村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 ⑲運天村 ⑳古宇利村 

以下作業中

2020年5月28日(木)

 本部町伊豆味は歴史上興味深いムラである。本部半島の中央部にあり、明治の杣山(官有林)の払い下げの不平等で反対運動が起きた地域である。それと1666年に今帰仁間切を分割してとき、方切(間切境界線の変更)、伊豆味地内にあった二つの村の移移転(1719年)天底村・嘉津宇村)、散在型の集落、原名の多さ、アヤーチ(操り獅子)、それと寄留士族の多いムラ。辛うじてそのような痕跡を見つけたり、聴くことが出来そうである。

2017年8月8日(火)過去記録

 山原のムラ・シマの講座(本部町伊豆味)

・天底の語義(移動前の場所で・・・)

・1719年に移動した二つのムラ(天底村・嘉津宇村)

・移動した村があった場所は山あいの盆地である。

・移動地でウタキをつくり神アサギをつくり祭祀を行う

・伊豆味・嘉津宇・天底は天底ノロ管轄の祭祀の村

・伊豆味は二つの村が移動すると古島から内原付近へ移動

・伊豆味の祭祀は根神が取り仕切っていた。ノロは玉城のろ、大正の頃まで伊豆味まできて行っていた。
豆味の拝む所
 ①伊豆味神社 ②サータマタの宮 ③陣城 ④上ヌウタキ ⑤村墓 ⑥デイゴのカー ⑦下のハー(古嘉津宇の拝所) 
 ⑧黒グムイ(古嘉津宇の水源地)

・伊豆味の水田は盆地
・戦前まで伊豆味の経済を潤していたのは山藍と建設用材、薪炭材
・我屋地・湧川の製塩の葉薪(ハーダムン)・荷馬車(湧川の津口や名護のマチヤーは伊豆味の車屋で繁盛)
・大正の頃、湧川にマチが発達したことがある(商店・質屋など)。


  ▲「琉球国絵図史料集所収「元禄国絵図」より(沖縄県教育委員会)

2003年12月10日(水)過去

 次のような文章が目についたので紹介しましょう。運天隧道(トンネル)や源為朝公上陸之跡碑などについて説明することは度々あるが、当時の様子を記した記録がほとんどない。自動車道と上陸記念碑の祝賀会や除幕式などが行われていて興味深い。除幕式は大正12年6月23日である。

    大正初期に村役場は運天から仲宗根に移され、仲宗根の大井川町から運天
    まで自動車の通れるような道路が出来、その開通式と為朝公上陸記念碑も建
    立されたので、その序幕式を兼ね盛大な祝賀式典が挙行されました。当日の
    祝賀会において源為朝公を偲ぶ歌を記して

     一、鎮西八郎為朝公 東南の勇士止み難く大海原を船出して着し所は運天港
     二、運天森の松風と 高く聳ゆる石踏は、為朝公が上陸の跡をば永久に語るらん
    三、英雄逝て七百年 うるま島の裏波は 君が功を賛えつつ調べも高く歌うなり

     斯して式典は恙なく余興としてハーリー競技に始り、夜は古典舞踊や為朝公上
    陸記念祝賀会にふさわしい余興がくりひろげられ有意義な催であった。

         「ふるさと今帰仁の思い出」諸喜田武吉(『アルゼンチン国 今帰仁
          村人会誌』)


20031211(木)
 
 今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2815日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。

   [役場移転問題](運天から仲宗根へ)

     本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
     し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
     なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
     を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
     廖の一寒村に候
     予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
     あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
     役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
     に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
     二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
     ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
     加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
     等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
     かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
     曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
     遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
     る村民こと不憫の至りに候 

その記事が出て三年後の大正5年今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。  


2020年5月27日(水)

 1990年4月に「平敷村の明治の字図面から」として一部分析をしている。その時、「砂糖消費税法改正之儀」の名簿を見ながら、「国頭郡今帰仁間切平敷村字前田原」(600分の1)から土地保有者の名前を整理したことがある。「すくみち」(後『なきじん研究2号』に収録)「砂糖消費税」の名簿は「ムラの人たち」や「ムラの先人達」として歴史に登場させたいとの思いがあり、「人々が歴史の主人公」であるとの視点で歴史をみていた記憶がある。『なきじん研究 1』発行の時、名簿の興しをしたが、原本との照合をするため19の字の名簿を打ち込んでもらう。「砂糖消費税」が何かも大事だが、そこから番地が世帯主であり、平敷村畧図から現在の小字、元文検地の印部石(原石)の原名との関係、風水図を所有している仲里家の名前も出てくる。

 当時、位牌にある先祖の名前がある、生年月日があり、昔の番地は何番地だったのか。などなど。あの一族は士族だったのか、ウチは平民か。もうそのような声は聞かれないかも。

明治34年の「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」の名簿

平敷村   1番地  平民  大城伝助     嘉永5年5月11日生
平敷村   2番地  平民  大城庄次郎    安政元年3月20日生
平敷村   3番地  平民  玉城久助     文久元年12月12日生
平敷村   4番地  平民  玉城久次郎    慶応元年8月1日生
平敷村   8番地  士族  仲里正倉     天保3年2月14日生
平敷村   9番地  平民  島袋源次郎    天保9年5月11日生
平敷村  10番地  平民  仲村善方     文久元年10月13日生
平敷村  11番地  平民  大城松福     明治7年7月2日生
平敷村  12番地  平民  石嶺光助     明治2年1月9日生
平敷村  13番地  平民  石嶺福太郎    嘉永4年12月8日生
平敷村  14番地  平民  大城武吉     明治8年5月20日生
平敷村  15番地  平民  石嶺幸五郎    嘉永2年8月2日生
平敷村  16番地  平民  伊集万太郎    明治3年8月15日生
平敷村  17番地  平民  大城甚助     慶応2年1月10日生
平敷村  18番地  平民  大城甚五郎    安政4年7月20日生
平敷村  19番地  平民  大城甚三郎    安政元年8月26日生
平敷村  20番地  平民  仲里庄八     明治元年5月11日生
平敷村  22番地  平民  与那嶺林五郎  安氏5年4月24日生
平敷村  23番地  平民  大城半次郎    慶応3年9月26日生
平敷村  24番地  平民  島袋仙吉     文久2年7月11日生
平敷村  25番地  平民  仲村真七郎    明治6年9月1日生
平敷村  26番地  平民  山城長太郎   天保9年12月20日生
平敷村  27番地  平民  上間清松     安政6年11月7日生
平敷村  29番地  平民  島袋盛松     天保11年3月3日生
平敷村  32番地  平民  大城甚吉     万延元年1月5日生
平敷村  35番地  平民  仲村精吉     明治元年4月6日生
平敷村  36番地  平民  島袋徳松     安政2年4月20日生
平敷村  37番地  平民  上原辰次郎    慶応3年4月22日生
平敷村  40番地  平民  島袋源松     慶応3年6月24日生
平敷村  41番地  平民  仲里双武     明治2年3月25日生
平敷村  43番地  平民  仲里金太郎    明治元年5月11日生
平敷村  44番地  平民  石嶺常松      文政4年10月10日生
平敷村  46番地   ・   玉城要武
平敷村  47番地  平民  大城新太郎   文久元年10月9日生
平敷村  48番地  平民  石嶺惣徳     天保11年5月10日生
平敷村  48番地  平民  大城音助     明治3年10月27日生
平敷村  49番地  平民  大城マカト    天保8年5月10日生
平敷村  50番地  平民  島袋成之助   文久元年10月28日生
平敷村  55番地  平民  大城忠助     天保2年3月10日生
平敷村  56番地  平民  与那嶺孫蔵   嘉永5年8月25日生
平敷村  57番地  平民  冨元藤次郎   弘化2年10月20日生
平敷村  58番地  平民  大城重次郎   明治6年5月14日生
平敷村  59番地  平民  大城千吉     明治13年11月24日生
平敷村  60番地  平民  山城喜五郎   嘉永4年12月20日生
平敷村  61番地  平民  大城文五郎   天保9年1月24日生
平敷村  62番地  平民  大城紋二郎   天保3年6月5日生
平敷村  63番地  平民  大城儀次郎   天保3年9月5日生
平敷村  64番地  平民  仲里銀五郎   天保8年4月14日生
平敷村  66番地  平民  石嶺光三郎   明治9年9月24日生
平敷村  67番地  平民  山城長助     明治9年7月14日生
平敷村  68番地  平民  稲福権四郎   明治元年4月6日生
平敷村  70番地  平民  大城庄助    安政5年4月5日生
平敷村  72番地  平民  新城圧三郎   明治7年10月10日生
平敷村  75番地  平民  運天幸松    天保12年6月13日生
平敷村  76番地  士族  棚原憲常    文久2年11月8日生
平敷村  79番地  平民  又吉亀次郎   安政4年5月10日生
平敷村  80番地  平民  上間常助    安政3年4月17日生
平敷村  81番地  士族  仲原英徒    天保7年1月20日生
平敷村  82番地  士族  嶺井政耕    天保7年12月16日生
平敷村  84番地  士族  外間宏烈    安政6年10月28日生
平敷村  86番地  士族  外間宏謨    嘉永5年10月13日生
平敷村  87番地  士族  外間宏守    慶応元年12月12日生
平敷村  90番地  平民  上間辰松    天保7年5月11日生
平敷村  91番地  平民  上間政次郎   弘化2年9月11日生
平敷村  92番地  平民  上間蔵亀     文久3年11月23日生
平敷村  93番地  士族  外間宏法     天保13年6月26日生
平敷村  94番地  平民  上間政五郎   文久元年2月27日生
平敷村  95番地  平民  上間吉左衛門  明治6年8月20日生
平敷村  96番地  平民  上間常太郎   明治3年11月23日生

 
▲道光十七年丁酉九月十五日 風水組立 
 久米村風水見高嶺里之子親雲上
 

 
    ▲平敷村畧図   
▲19の原があり、現在12に統合整理される


2020年5月26日(火)

 国頭間切の二枚の辞令書(国頭村安田) 2002.8.18(日)メモ

 国頭村安田にあったと見られる二枚の辞令書は以前から気になっている。2001年と2002年と安田のシニグとシニググヮーの調査をしたこともあり、祭祀と国(琉球国)について述べる。そのため、この二枚の辞令書を使って首里王府と国頭間切、そしてムラとについての支配関係をできるだけ明確にしておきたいと思う。国都首里から遠く離れた国頭間切の一つのムラをどのように支配していたのか。

 ムラを支配するため、末端まで支配権力を徹底させるためにどのような方法をとっていたのか。さらに祭祀を政治にうまく取り込んでいる姿が見え隠れしている。祭祀を祈りや神が何かという議論も大事であるが、支配する、支配される関係。言葉を変えれば税をとる側と採られる側という視点で、祭祀を捉えてみようと考えている。

 三山が統一された後、また第二尚氏王統になってからの辞令書であるが、ここに掲げ国の地域支配について考えてみたいと思う。難解な文面なのですぐにとはいかないがゆっくり考えてみる。とりあえず、二つの辞令書を前文掲載しておこう。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲載されたものを『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)(昭和53年度)に形を整えて掲げられている(「沖縄諸島逸在辞令書」)ので、それをここで利用する。二枚とも古琉球の辞令書である。

 古琉球の「まきり」(間切)、後のムラ(村)を考える手掛かりとなる辞令書だとみている。あたのさとぬし、あたの大やこ、のろ、さとぬし、おきて、よんたもさおきてに村名、役職名が登場している。(ただし、この時代に後の村となる名称が登場するが村としては、まだ登場していない。税の単位として「みかない」「かりや」がでている。

 辞令が発給されている頃は各地の按司、国頭按司も首里に移りすんでいる時代である。安田里主所や安田の大屋子は・・・「よんたものさ掟」は読谷山掟→山田掟?は脇地頭?(飛地の例は何例もあり)
 「いろいろのみかない」は「せちミかない」「おれつむミかない」「正月ミかない」などがある(今帰仁間切与那嶺の大屋子宛辞令書」(嘉靖42年:1563)、「今帰仁間切東の掟宛辞令書」(嘉靖42年:1563)にみられる。

〔国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕(1587年)
  しよりの御み事
    くにかみまきりの
    あたのさとぬし〔ところ〕
    この内に四十八つか〔た〕は
    みかないのくち
  御ゆるしめされ候
    一人あたの大や〔こ〕に
    たまわり申〔候〕
  しよりよりあたの大や〔こ〕か方へまいる
  万暦十五年二月十二日

〔国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕(1587年)
   しよりの御み事
     くにかみまきりの
     あたのしろいまち
     この内に十四つか〔た〕は
     みかないのくち
    御ゆるしめされ候
      〔脱けた部分あり〕
    このふんのおやみかない〔ハ〕
      〔脱けた部分あり〕
    のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕
    御ゆるしめされ候
    此ちもどは三かりやたにて候へども
    万暦十四年に二かりやたなり申〔候〕
    □□□にいろいろのみかないの三分一は
    おゆるしめされ候
    一人よんたもさおきて
    たまわり申〔候〕
   しよりよりよんたもさおきての方へまいる
   万暦十五年二月十二日




2020年5月25日(月)

 平成25年6月に現在の本部町の伊野波周辺の講座を開催している。隣接する本部町は1665年まで今帰仁間切の内。そのこともあって1665年以前を考える時、本部町域も視野に入れている。特に古琉球の辞令書では「みやきせんまきり」(今帰仁間切)と登場。

第2回 ムラ・シマ講座のお知らせ

ミャークニーに謡われたムラ・シマ平成25611

 本部町のムラ・シマを謡ったミャ-クニーがあります。今回はそれらのムラ・シマを踏査します。唄の歌詞は大堂から伊野波、満名(並里)、屋比久、山里、渡久地、辺名地(大辺名地)、健堅、崎本部までつづきます。この山手の道筋(歴史の道)は1666年今帰仁間切が二分し伊野波間切(本部間切)が分割する以前、今帰仁按司(監守)が今帰仁グスクに居住していた頃の伊野波への道筋の跡とみられます。今帰仁按司一族は伊野波村から嫁取りが何例があります。屋比久・山里、渡久地→辺名地→健堅→崎本部までの山手の道筋があります。今帰仁グスクから山手を通り並里まで。屋比久・辺名地・健堅・崎本部は、山里あたりから眺望します。

 下見をしてきた並里の上殿内(満名殿内)の拝所の見学ができます。そこには按司位牌、古櫃に古刀三振(大一本ニ尺七寸、小二本一尺五寸宛)などがあったといいますが、戦争で失ったようです。旧家の屋敷と内部、そして離れにある按司位牌なども拝見できます。

 ※伊野波は1665年今帰仁が伊野波(本部)と今帰仁間切に分割した時番所が置かれた村か。
  後に渡久地村へ移転、

平成27年6月20日:土(開催)

     9:00 今帰仁村歴史文化センター集合
          出席の確認
          大堂・並里・伊野波・並里(満名)の概要説明

     9:40 出発(バス)
          大堂(旧公民館)
          藍壷とガジマルのある家(比嘉家)
          山里公民館・民家の神アサギ(車中)
          伊野波へ降りる坂道(満名ターブク・渡久地の街・辺名地・健堅・八重岳などを望む)
          伊野波の集落(番所跡?) 伊野波神社 御殿火神 神アサギ
          伊野波いしくびり道

     11:20
         並里の集落とウタキ
         並里神社と神アサギとウタキ(銘書の香炉あり)
         並里家(満名上殿内) 土管

     1230 歴史文化センターで報告

 ・真下地ぬくびり 大道原若地 (大道原:大堂原、若地原)
   黒山ぬ下や 伊野波と満名 (伊野波:村名、満名:村名)
 ・満名から伊野波、流りやい浜川 (浜川:浜川原は伊野波)
   遊びする泉川 花ぬ屋比久 (泉川:シンカ(泉河)原は山里、屋比久も山里)
 ・遊で大多良浜 むどる与那城 (大多良原と与那城原は渡久地の原名)
   暁ぬまひやり 港わたい
 ・渡久地から登てぃ 花ぬ元辺名地(渡久地:村名、元辺名地は)
   遊び健堅に 恋し崎本部 (健堅と崎本部は村名) 


▲大堂旧公民館             ▲山里の藍(あい)壷

 
▲ガジマルの大木(比嘉家)           ▲山里区公民館


▲満名田圃(マンナターブク)跡              ▲満名上殿内(並里家)

 ※地図等の資料は当日配布します


2010年5月24日(

山原の神アサギ―神アサギとムラ・シマ―

       今帰仁村歴史文化センタームラ・シマ講座 配布資料 

山原のムラ・シマの踏査ほぼ完了。取りこぼしの補足調査と「まとめ」にはいります。これまで各地のムラ・シマ踏査をしてきました。特に『琉球国由来記』(1713年)に出てくる山原の村(ムラ)に神アシヤギ(アサギ)が出てきます。その神アサギは、廃藩置県・大正・昭和(戦前)と大和化、あるいは取り込まれていく中、戦後の社会の変化、復帰後、さらには平成の時代に至る約300年も継承され続けています。それは何を意味しているのか。

変貌しつづけているムラ・シマを研究対象としているものの一人として欠かすことのできないキーワードです。変化していく過程で神アサギとムラの祭祀は変わらず今に継承されています。もちろん、神アサギの建物が茅葺屋根から瓦屋根、コンクリートへ、祭祀を行う神人が少なくなり、あるいはいなくなったムラ(字・区)で区長、書記さん、神人でない方々が参加し行っています。ムラ・シマの祭祀は、公の行事であったことを示しています。

ここでは『琉球国由来記』(1713年)に登場する今帰仁間切(現在の今帰仁村)の村(ムラ・字)について紹介します。今帰仁村、親泊村、志慶真村、兼次村、諸喜田村、与那嶺村、中城(仲尾次)村、崎山村、平敷村、謝名村、仲宗根村、玉城村、岸本村、寒水村、天底村、勢理客村、上運天村、運天村、郡(古宇利)村の18か村があります。『琉球国由来記』に登場する村は、全て神アサギをもち、現存しています。『硫球国由来記』から300年余の間、継承しつづけています。

そこで神アサギと村の関係から興味深いことがいくつも見えてきます。まず一つは『琉球国由来記』にあった村には神アサギがあります。それが現在まで継承されています。明治36年に今帰仁村と親泊村が合併、村名は今泊となりますが、神アサギは一つにすることなく二つのまま。諸喜田村と志慶真村の合併で諸志となりますが、昭和25年に神アサギを一つにした時期がありますが、再び二つの神アサギとしてあります。玉城・岸本・寒水の三ヶ村も明治36年に合併し字名は玉城となりますが、神アサギは玉城神アサギ、岸本神アサギ、寒水神アサギと今でもあります。

そこから見えてくるのは、行政は一つになっても祭祀は一体化しない。他の市町村の事例に本部町の瀬底と石嘉波、崎本部の本部と崎浜、具志堅の具志堅と真部と上間、名護市の我部(我部と松田)、大宜味村の津波(津波と平南)などがあります。

『琉球国由来記』以後に創設(1738年)された村に湧川村があります、そこにも神アサギが創設し、祭祀を行っています。また、移動した村も移動先で、御嶽(ウタキ)や神アサギを建て祭祀を行っています。それは何を意味しているのでしょうか。新しく創設された村が何故神アサギを設置する必要があったのか。祭祀が「神遊び」とあるように、一般の百姓にとっての休息日(首里王府が認めた公休日)であり、祭祀を行わなければ休息日がないということになります。

それは土地制度(地割:納税)との関わりで、祭祀が機能していたと言えそうです。そのために明治以前に新設された村では祭祀を行い、祭祀場としての神アサギ、あるいは上納(穀物)の集積場として必要としたとみられます。

それだけではなく、「間切公事帳」に「月並公事」の項目があり、麦穂祭(二月)、アブシバレー(四月)、稲穂祭(五月)、稲大祭(六月)、柴差・麦初種子・みやだね(八月)、粟豆初種子の日取り(十月)、新早植の日取り(十一月) などの祭祀の日撰びは王府が行っています。作物の植え付け時期や収穫時期、アブシバレー(ムシバレー)のように作物の管理など、それらの達(たっし)は祭祀の名のもとに、その多くが貢租(納税)に関わっています。明治以前に創設された村に神アサギを設置し、祭祀を行う必要があったのはそのためです。

 今帰仁村に神アサギを持たない字(アザ)があります。越地が昭和12年、呉我山が大正9年、渡喜仁が昭和15年にそれぞれ分字しているからです。明治36年以降、税は穀物ではなく金銭での納税ですので、一時期穀物を保管する施設は必要なくなります。しかし長年継承してきた祭祀は、明治36年以後に分字した村(字)でも継承されてきています。地割が廃止され休息日としての祭祀は必要としなくなります。しかし、神行事は分字する前の字と関わっていました。例えば、越地は謝名と仲宗根の一部からなり、豊年祭や神行事などになると、それぞれ出身地のムラ(字)と関わります。そこでも村(字)と祭祀との関係がみえます。新設の字ができても、祭祀はもとの字で行っていた。その様子は今帰仁ではほとんど、消えかかっています。消えるのは祭祀が農耕暦であったのが明治以降新暦に変わったことにあります。それでも祭祀は旧暦で行っています。

『琉球国由来記』(1713年)の村と神アサギ、それと祭祀、もう一つ地割とムラの関わりを通してみると近世のムラの様子が年中祭祀、山原で神アサギにその痕跡を遺しています。そのように見てくると、民俗で扱われる祭祀が歴史の変わらない(変わりにくい)部分を今に伝えていると言えそうです。

グスク内や集落から離れた高地にある神アサギは祭祀空間としての役割を果たしているが、集落内にある神アサギは、祭祀を行う施設と税(穀物)を一時集積場としての機能を果たしています。



 
▲玉城ノロ管轄の大折目(スムチナウタキ:ウカマ)▲玉城のウタキのイベでのウガン 

村 名

『琉球国由来記』

1713年)神アシアゲ

『琉球国旧記』

1731年)神軒

明治17

平成29

ハサーギ・アサギ

今帰仁村

 

 

今泊●●

 

(城内神アサギ)※

 

親泊村

 

兼次村

 

志慶真村

 

諸喜田村

 

与那嶺村

 

仲尾次(中城)村

 

崎山村

 

平敷村

 

謝名村

 

仲宗根村

 

玉城村

 

岸本村

 

玉城●●●

寒水村

 

勢理客村

 

上運天村

 

運天村

 

郡(古宇利)村

 

湧川村

 

(越地)

(昭和12年分字)

 

×

×

(呉我山)

(大正9年分字)

 

×

×

(渡喜仁)

(昭和16年分字)

 

×

×

   ※『沖縄県地域史協議会 会誌』掲載(20146月)を一部書き改めたものです。


2020年5月23日(土)

 尚従憲は1665年今帰仁間切が今帰仁間切と伊野波(本部)間切に分割した時の今帰仁按司(最後の北山監守)である。順治11年(1654)に今帰仁間切惣地頭職を賜わる。従憲は首里赤平村に引揚げ、首里でなくなるが葬られたのは城下のウツリタマイであるが、後に運天の大北墓に移葬(1726年)される。墓と位牌は生誕地の今帰仁にある。
 七世従(今帰仁按司)は今帰仁の歴史の流れが変わる渦中の人物である。

向姓七世 向従憲(今帰仁按司)(16271687年) 

 今帰仁按司童名思五良名乗朝幸号北源行一天啓七年丁卯四月八日生康煕二十六年(1668)
  丁卯三月十三日卒享年61

 父縄祖
 母向氏
 室孟氏思武太金
 長男洪徳 次男洪秀 三男洪奏
 長女思玉金 順治八年辛卯七月三日生康煕四十六年丁亥十二月三十日子時卒
 次女真牛金康煕四年乙巳九月二十日生康煕五十二年葵巳十一月二十五日卒
 三女真加戸樽康煕八年酉十月二十七日生
 四女真呉勢康煕十年辛亥五発朔日生 

官爵
 崇禎十六年葵未十一月結欹髻 

勛庸
  順治十一年甲午二月一日為伊野波在番
  康煕四年乙巳十一月十二日
 康煕四年乙巳十一月三日俱奏文乞 命復中山初宅首里赤平村
  康煕五年丙十一月十二日分今帰仁間切為両間切名其一曰本部間切
  康煕五年丙午轉為運天在番
  康煕十四年乙卯八月十八日致仕矣 采 地
  順治二年乙酉正月二十一日賜今帰仁間切与那嶺之名
  順治十一年甲午二月一日續父縄祖任今帰仁間切総地頭職  

俸 禄
  順治十一年甲午二月一日為迫襲事賜知行高五十六斛後諸知行滅少之時為高四十哭斛


   
▲七世従憲の位牌(左表・、右裏)




2020年5月22日(金)

 原稿の紙だし(印刷)作業を進めている。まだ、紙だしにしていないのが、半分程度。今月も残り少なくなり、急ぎで進めるか。コピー器械がうなる。一台は故障中。「10万円が届いたらコピー器でも買おうか?」「これで何台目?」の声が・・・・。昨日、「寡黙庵」の二粒のイチゴを収穫してあげたので!

2011年12月1日(木)記録

 川田の根謝銘屋のカブの簪の記事を紹介したことがある。忘れかけているので、再度紹介することに。

  2003年2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表した記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介。北山城主末裔についての伝承は久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもある。大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。

   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。
・・・・」

とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。

 黄金の簪は公儀ノロのものであろう。すると根謝銘屋からノロを出していた時代があった可能性がある。ただ、『琉球国由来記』(1713年)の頃は川田村と平良村は大宜味間切の村で、川田ノロはなく川田村の祭祀は平良ノロの管轄である。黄金のカブの簪や絹の衣類などと北山の流れをくむ伝承と結びつけるのは早計かと思われる。それよりも平良ノロの継承者がなく、平良のノロが根謝銘屋に嫁にきてノロをし、遺品はそのままのこった可能性もある。

 二つの村から大宜味間切の三人の夫地頭の内二人の夫地頭(平良大屋子・川田大屋子)を出している。両村が大宜味間切の村であった頃、重要な役職を出している。

 


2020年5月21日(木)

 「ふるさとの顔」(沖縄タイムス)1967年の記事に目を通していると「天底のメイン通りに、学校、公民館。売店、教会がある」とあり、「教会や売店の場所を知っていますか?」「教会のプレハブはありますよ」とのこと。帰り道立ち寄ってみた。公民館に区長さんがいて、周辺のことを伺ってみた。「教会はあのプレハブ。売店は自動販売機のところ」と。100回シリーズで紹介した「天底の馬場(マーウィ)付近」(平成10年3月)(天底公民館の後)を思い出す。100回シリーズは『なきじん研究』(□□号)に収録。


      ▲「寡黙庵」のイチゴ(時々二、三粒の収穫あり)

▲教会跡のプレハブ(仲宗根に移転)    ▲売店跡            ▲天底公民館

89.天底の馬場(マーウィ)付近(平成10年3月)記録

 今帰仁村の中央部に仲原馬場(ナカバルババ)、西側に親泊馬場(エードゥメーババ)、そして東側に天底馬場(アミスババ)があった。仲原馬場と親泊馬場は,現在でも馬場跡の様子を残している。ところが天底の馬場はその痕跡はほとんど残していない。

 「明治二十年十二月二十五日天底校の新校舎二十一坪を天底村後原(天底馬場の隣)に落成」(『天底小学校百周年記念誌』)とあり,天底馬場は天底小学校に隣接してあったことがわかる。また、戦後も一部末並木がのこり、馬場の面影が残っていたという。馬場は別名マーウィ(馬追)と呼ばれ、仲原馬場では間切(村内)の連合運動会や旧暦4月15日のアブシバレーの時の原山勝負の会場になった。中央部の壇上に招待された吏員(役人)の席が設けられ、弁当を開いて競馬や催物などを見物したり、闘牛や相撲などを眺めたという。天底の馬場でもそのようなことがことが行われたのであろうか。旧暦の4月15日アブシバレーの日は仲原馬場で,翌日は今泊と天底の馬場で催物が行われた。

 上の写真は天底馬場での記念撮影である。天底馬場は天底小学校に隣接し、松並木の下は絶好の記念撮影場所でもあったようだ。天底馬場は公民館の裏から北西側に伸び、写真の場所は馬場の東端(現在の公民館の後方)あたりだという。

 写真の裏に「昭和拾六年五月五日撮影、今帰仁村天底青年団一周年記念」とあり、撮影者は昭和9年大阪から今帰仁にきて写真館を開いた川上清永氏(故人)である。天底馬場は松の大木が並木をなし、仲原馬場や親泊馬場と同じように150メートル余の細長い広場があったようである。左側に置かれた団旗に「今帰仁村・・・・・・天底支部」と見え、整列している方々は天底青年団のメンバーである。当間(旧姓安波根)ヨシコ・田港ヨシコ・伊波ヨシ・与那栄信・真栄田義成・桃原広・西平守福・西平守勇・立津政好・川上清一・西平守信・幸地輝美・嶺井政勇・田港朝寿・などの面々の姿が見える。その後、本土や外国に出た方戦争で命を失った方、戦後も生き続けた方など様々である。

 下の写真は昭和60年頃の天底馬場と交差する旧道である。馬場跡は民家が立ち、あるいは畑となり、かつての天底馬場の風景や様子は先輩方の脳裏におぼろげにきざまれているにすぎない。



2025年5月20日(水)

 1967年の今帰仁村19字の記事に目を通している。戦後、今帰仁村の各村が大きく変わる時代である。それぞれの字(アザ)によって変わり興味深い。道路・電気・水道・公民舘・テレビ・バス運行・水田・パインナップル・パイン工場・映画館・蔡温松(松並木)・ブー(夫)・清浄野菜・タバコ・旧暦・ドルから円へ・弁務官資金、などなど。
     (その頃まで、農耕暦での農業が行われ、まだ近世の農耕が続いている)

2004.11.27(土)メモ

 ここで触れておきたいことは、『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀に出てくる按司地頭や惣地頭、そして脇地頭のことである。それらの地頭は、首里・那覇などに住んでいたとみられる。

 『琉球藩臣家禄記』(明治6年)から今帰仁間切と関わる按司地頭や惣地頭、そして脇地頭は以下の通りである。そこに登場する今帰仁王子と譜久山里主、そして以下の脇地頭は首里に住み、間切と扱村から作特(年貢・上納)得ていた。中には脇地頭が村名を名乗っていた事例がある。平田親雲上→謝名村、謝名村は平田村と出てくる場合がある。

   ・今帰仁王子(家禄:400石、領地今帰仁間切作得24石余)
   ・譜久山里主(家禄:80石、領地今帰仁間切作得29石余)
   ・平田親雲上(領地:今帰仁間切謝名村作得7石余)
   ・仲尾次親雲上(領地:今帰仁間切中城村作得6石余)
   ・運天親雲上(今帰仁間切運天村作得12余)
   ・上運天親雲上(今帰仁間切上運天村作得5余)
   ・岸本親雲上(今帰仁間切岸本村作得3石余)
   ・崎山親雲上(今帰仁間切崎山村作得6石余)
   ・平敷親雲上(今帰仁間切平敷村作得8石余)
   ・仲宗根親雲上(今帰仁間切作得4石余)
   ・豊村親雲上(今帰仁間切勢理客村作得7石余)

 『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」をみると、按司と惣地頭は今帰仁里主所火神と今帰仁城内神アシアゲでの祭祀に参加(あるいは代理参加か)し、花米や五水、神酒などを提供する。二カ所の祭祀に参加するのは按司・惣地頭・オエカ人・今帰仁ノロ・トモノカネイノロ・百姓(今帰仁・親泊・志慶真)など村あげての行事である。

 按司や惣地頭の参加のない中(仲)宗根村の神アシアゲでは、掟・百姓・ノロ(玉城ノロ)・掟神・中宗根地頭(脇地頭)・居神の参加や五水や米や神酒などの品々の提供、あるいは賄い用にとなる。そこでも村あげての祭祀の様子が伺える。

 勢理客ノロ管轄(湧川・勢理客・上運天・運天)のウフユミ・ワラビミチの様子である。かつては役人をはじめ村の人たちが集まって祭祀を行っていた。祭祀の部分が強調されてきたが、祭祀はムラをまとめ、そしてクニを支えてきたムラや人々の関わりでみていく必要がある。祭祀が何か、あるいは神観念の議論も大事だが、もう一方で穀物を生産し貢租していく制度としてみていくべきではないか。本来、その制度を運用していく担当としての神職であり、間切役人であったにちがいない。


20年5月19日(火)

 過去の記録・メモを拾っていると、今日の日付がわからなくなってくる。勢理客ノロ家の文書(現在流大図書館蔵:島袋源七文庫)についてのメモ書がある。源七文庫の「口上覚」の外に同家(大城家)の文書(男方間切役人)が「宝令文庫」の口上覚の中に含まれているようだ。島袋源七文庫の資料展のとき、資料の解説と講演をしたような! 勢理客ノロについては、フプユミとワラビミチの調査、湧川の奥間アサギは奥間家の跡だと気づかされた。丁寧に資料を見てみるか。

平成22年(2010)4月17日(土)メモ

【諸々事日記】(今帰仁間切勢理客村大城仁屋)
(島袋源七文庫:琉球大学図書館)

 今帰仁間切勢理客村兼次親雲上の「口上覚」に以下の一文がある。道光16年(183612月に恩納間切の安富祖村の外干瀬で唐船が破船したとき、兼次親雲上は昼夜して勤めを果たしたいうもので、それが勤星として加算されたわけである。そのことは『中山世譜』に記されている以下の出来事の時とみられる。

【中山世譜】
  「中国広東省潮州府澄海県の商船一隻が安富祖村の湾内に入ろうとし岩礁に衝突して
   破船したが、乗組員五十名は全員無事に保護され、泊村(那覇)に護送されている」

【諸々事日記】(今帰仁間切勢理客村大城仁屋)

  道光拾六年丙申十二月恩納間切安富祖村外干瀬江唐船破船之時昼夜シテ而差越
  大番詰並諸御用向相済置申候事

 
    ▲恩納村安富祖の河口          ▲右手が安富祖の外干瀬

 「大城仁屋元祖行成之次第」

 奥間親雲上羽地間切我部村生同間切親川村地頭代立川親雲上と申者間切中問答差起候ニ付、表御方より彼ノ家内御取揚、立川親雲上流刑被仰付候ニ付、奥間親雲上者其時南風掟役ニ而候処□、間切ニ而ハ役職之勤方難仕、今帰仁間切勢理客村江屋敷相奉新村相立於当間切首里大屋子江役職順々戴頂仕□之役目相勤、地頭代並順仕候段伝承候

メモ
【道光10年】(1830
 ・玉城村之儀、先年村側居候処身買三人請出村被仰付諸事仕立方並田畠御帳面表相糾坪入叶米取立地割松


 平成7,8年頃かと思うが、「図像」の調査をしたことがある。まだデカメを持っていない頃である。図像の撮影は一眼カメラでの撮影は難しかった印象。調査データが出てきたのでアップ(アップ)。学芸大学の先生方との調査。芸大で展示会もやりました。(絵画と音楽と外国語に全く能力のない私が参加したのは不思議)

 
本部町崎本部(位牌・七福神・千手観音坐像が掲げてある)

2020年5月18日(月)

 2002年各地のカー踏査をしている。出勤前、カーを訪れる目的は、ムラ・シマの成り立ちとムラ人の生活を識ることと、数多くムラを記憶に遺すことであった。その時の画像とメモが古いパソコンに遺っていた。外に「図像」その後が神アサギ踏査である。18年経っているのでどうなっているのか。各ムラは異なっているのだとの認識を植付けられたのは、それらの調査からである。

   (工事中)

.謝名のシカー(2002.10.3 木)〔曇〕

 いつもの通り、今帰仁村中部の謝名にあるシカーを訪ねてみた。そこは私にとって今につながる原風景を体験した場所でもある。朝のちょっとした時間寄って立ち止まってみた。台風の後なので、かつての記憶に残る鬱蒼とした雰囲気ではなく、明るかった。そこには30年から40年前のかすかな記憶によみがえらせてくれる石積みや香炉や凹石、そして辛うじて竹林が残っていた。
 シカーに来て喉を潤したり、凹石で鎌やナタなどを砥いで草刈や竹や薪取りへと山にはいった。凹石に仏葬華やさつまいもの葉をいれて、グチャグチャにし、それで髪を洗う洗剤やリンス代わりに使っていたという。

 謝名のウプシマ集落からシカーまで約400mあるだろうか。途中に前田原があり、昭和30年代まで水田が広がっていた。水道が引かれる前はウプシマの人たちの水汲み場であった。今でもハーウガミにムラ人達はやってくる。簡易水道が引かれた後も旱魃の時には、そこまでシチタンバクをかつでヨタヨタ水を汲んだ記憶ある。また、ハーウガミの時は一門揃って訪れ拝みをしたものだ。今でも行われている。

 シカーのカーはハーと同様湧泉のこと。シが何かということになるのだが。シは木の精のセイ(シ)ならば木の精のいるカーということになるのだか。シマの大先輩方の話では、シカーには大きなウナギがいて、それは神さまだそうだ。

 

     謝名のシカー      シカーの入口の香炉

 


.玉城(寒水)のソーリガー(2002.10.2 水)〔晴〕


ソーリガーへの足跡の残る道筋 コンクリートづくり湧口


 記念碑   ハー拝みの香炉   清水が流れている   


2020年5月17日(

 学生達のレポートが1m余ありダンシャリ中。どんなことをテーマにしたか確認してから。(大学の講義レジメ100本余、講座・講演などのレジメで600本余)(3年前の確認)。それらもダンシャリ中。「寡黙庵」でゴロゴロしていると庭の木(イヌマキ)の枯れ枝でヒヨドリやメジロが誇り高く鳴き声をあげている。すぐ側で名前のわからない小鳥が羽くつろをしている。イヌマキの葉のついた枝をたたくと蛾の幼虫がブラリブラリと無数ぶら下がってくる。

  

▲チャーギのてっぺんのヒヨドリ ▲同木の枝で毛くつろい  ▲チャーギを枯らす蛾(
キオビエダシャク)

2011
年2月3日(木)過去メモ

 「沖縄の歴史と文化」の後期の2011年度後記 最終講義。学生達のレポート(報告)には涙がでる。15回の講座を受講しての総まとめ。沖縄の歴史の凄さにまずはびっくりとのこと。沖縄の歴史を見ているが、中国、もう一方では日本、近世末になると欧米諸国との関わり。沖縄の歴史を知ることは回りの国々まで視野を広げて見ていることに気づかされたとのこと。

 画像(ピロゼクター)を使っての講義がほとんどだったこともあって、「わかりやすかった、各地へ、そしてグスクの時代や古琉球の時代、近世、近現代まで足を運んで現場での授業(実際は私が訪れた各地の画像であるが)。また連れて行ってください」.とのこと。毎回、質問に対して解答をくれたこと。100名余りの毎回のレポートに目を通していること。「沖縄の歴史と文化」を学んだことで名護や山原、そして大学に自信と誇り持たせきれたこと。その手ごたえが十分にあったことに。それは学生達に感謝である。(「沖縄の地域文化」の講座が、まだ残っている)。

 ①歴史をみる視点
 ②グスクからみた沖縄の歴史
 ③古琉球の時代
 ④ノロ(神人)制度からみた歴史(中央集権国家)
 ⑤道からみた歴史
 ⑥北山の歴史を中心に―沖縄の歴史―
 ⑦運天の歴史―港・津―
 ⑧久米島の歴史と文化
 ⑨徳之島と琉球(古琉球)
 ⑩烽火制と近世
 ⑪近世の沖縄―江戸参府から―
 ⑫近・現代の沖縄―ウタキの神社化・桜(上)―
 ⑬写真史料にみる沖縄―現代―
 ⑭近現代の沖縄と桜・各字の神社(下)
 ⑮「沖縄の歴史と文化」のまとめのレポート提出
   (総まとめ―通史的に)

 


2020年5月16日(土)

 平成28年まで「ムラ・シマ講座」を開催してきた。平成3年から25年間開催してきた。平成28年度が最終である。私が再開することはないでしょう。160回(余)だと思う。毎回、以下のようなレジメを作成してきた。多人数で現場まで出かけることはないでしょう(バスを使用するので)。講座で行った場所で、数多くのことを学ぶことがあった。そのことを一つひとつ確認していくことに。(ムラ・シマ講座は終了しました)

平成27年度「ムラ・シマ講座」(第1回)  (平成28年5月21日:土)(過去記録)                

         第1回 伊差川の金川銅山~仲尾(勘定納港)

 第1回の「ムラ・シマ講座」は名護市伊差川の金川銅山からスタートです。金川銅山跡(銅山坑口・金川銅山跡碑・金川)・カニフキムイ、そこから羽地グスクへ。羽地グスクから仲尾古島遺跡へ。古島遺跡の森に最近立て替えられた仲尾ノロドゥンチ(仲尾ノロ(親のろ辞令書:1622年)・根神ヤー・神アサギ・ペーフヤー火神の祠、そこから御嶽(ヒチグスク:イベ)を遠くから見ます。

 仲尾の古島跡からトンネルを抜け仲尾集落へ。仲尾集落はフルジマから1835年に移動した移動集落である。仲尾集落にはマーウイ(馬場跡)やブリグラ跡などがあり、海岸は勘定納港と呼ばれ、1416年に北山(今帰仁)を攻めた中山と北山の国頭・羽地・名護の連合軍が集結した場所です。

 そこは1609年薩摩軍の一行の一部が羽地内海まで偵察し、余裕を見せています。1816年にバジル・ホールが一帯を踏査し記録を残しています。羽地内海の入り口には運天港、運天番所があり、12世紀初頭源為朝公運天渡来伝説があります。

今回は歴史的な出来事、そして伝承の場面を踏査していきます。お楽しみに!

 9:00 歴史文化センターへ集合
     (20分ほどレクチャー)

 9:40 出発 名護市伊差川の銅山跡へ

     ↓(カニフキムイ・金川・渡名喜橋・羽地大川)
     ↓羽地(親川)グスク(グスク内の神アサギ)
     ↓仲尾古島跡(仲尾ノロドゥンチ・根神ヤー・神アサギ・ウペーフヤー・ヒニグスク)
     ↓仲尾トンネル
     ↓仲尾集落(1835年に古島から移転)(移転集落)
     ↓馬場跡・勘定納蔵跡
     ↓勘定納港

 12:30 歴史文化センター着予定

 
▲伊差川の小字(名護市史より)     ▲伊差川の金川銅山跡碑

 
   ▲銅滓           ▲銅抗入口
 
▲仲尾の小字図(名護市史より)          ▲羽地グスク内の神アサギ  ▲仲尾古島遺内の拝所

  ▲羽地内海の勘定納港     ▲仲尾トンネル  ▲仲尾(大のろ)ノロ辞令書(1622年)


2020年5月1日(金)

 戦前のムラ・シマの様子を書き記す時、昭和18年の農村の社会状況を頭に入れてものをみる。その時代時代の風土を呼び起そうと以下の記事に目を通す。(記事は池間主事の娘さんより)
 昭和16年から20年にかけての「西部耕地整理組合」記録や出納帳など8冊あり、将来、羽地大川の改修工事に匹敵する記録だと自負したことがある。

 この排水路はナハガーラと呼ばれ諸喜田村(現字諸志:明治36年に志慶真村と合併)を流れる。ナハガーアラ流域は仕明地で他のムラの人々が耕作地としている。明治36年の土地整理で田畑を耕作していた人々に土地の所有権を与えている。明治34年の「一筆限帳」(諸喜田村・志慶真村)には周辺の村人、本部町、泊の人々の所有者名がある。砂糖消費税請願の署名者があり、ムラの歴史を現場から描くことができるのではないか。そのことが「土くささとか、足が地についた」とポロンとこぼす言葉である。

蔡応瑞(越来王子尚真王四男一族の嘉味田家の墓参照) 嘉味田家の墓2

中国留学を盛に行なっていた久米村では、先に紹介した周国俊さんだけでなく、当時の 首里王・尚貞の命令により蔡応瑞という人も銀30両を与えられて福州に留学、儒学だけ でなく風水を学びました。 帰国後の1685年、彼は伊是名島の風水をみている。 

・1685年 蔡応瑞が王命により伊平屋諸島の風水を見聞する。
・1686年 蔡応瑞が護佐丸の墓の風水を見聞する。
・1687年 伊是名玉陵が改修される。
・1688年 伊是名玉陵が修復される。風水にかなった景観であると判断された。
・1688年 喜屋武按司向殿柱が東風平間切富盛に風水にかなった墓地をみつける。
・1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
・1689年 内間東殿が瓦葺きになる。

  蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。

・1751年 地理師阮超陛の風水判断で7世喜屋武按司向棟、五世向殿柱の富盛の墓地を安里に移動する。


臍まで没す泥沼の中

  増産隊員必死の排水掘鑿        昭和十八年十月六日  

                             西部毎日新聞所載

 国頭郡下の農村に汗の挺身をしている食料増産隊は、大宜味村大保に美田五町歩の開拓を終ると息つく間もなく、こんどは今帰仁村諸志に移動して、悪条件を克服して見事初期の目的を果たしたが、以下は同増産隊から本社那覇支局に寄せた諸志排水路作業の手記である。

大宜味村大保で美田五町歩を完成した食料増産隊は、九月十日トラックで今帰仁村字諸志に移動を開始、午後六時全隊員の移動を完了。それぞれ宿舎に入った。

諸志の部落は戸数百五十余戸、コーヒーの産地として知られている。今帰仁村は全般的に農産物においても、他に例の少ない程豊富なところであるが、諸志中心としての兼次校区の各部落は農作物が豊富に出来、水田に畑作に園芸作物に恵まれたところである。

十一日の早暁から作業が開始された。増産隊員とともに出動したのは天底校区の青年団員五十名で同校区の団員は今帰仁村四学区中、最も活発なる活動をしているということであった。作業振も見事で引率の青年学校の先生を先頭に泥ンコになって活動して貰った。幅員七メートル半の排水路を掘鑿するのであるが、何しろ尻無川の尻をあけようという作業であり、最も難工事とされていた区域だけに、ヘソのところまで泥中に没し、水につかったままで泥をすくい上げる有様、作業の進捗が思わしくなく、遂に作業の方法をかえて、杭を打ち込んで、シダをからませ、その中へお粥のような泥を積むという苦難を続けた。延長四百五十メートルであるが、困難だとされていた作業も、初日の作業成績に照らして五日で完成する見透しがついた。滞在予定は十日間である。 

 次の移動地との連絡をとっていては間に合わない。これでは行詰ってしまうというので、地方事務所を煩わして工事の繰り上げ施工をさせてもらうことにした。作業量が足りない。そうかといって五十名の隊員が行詰ったのでは大変なことになる。各部落の区長も集り、島袋村長も煩わすようだが、増産隊長は「作業への協力をやらず慰問でゴマ化したってダメですよ」といっていた。しかし七日に作業を修了しホッとしたところへ兼次部落民揃って演芸会に招いて貰ったことに心から満足して和むことが出来た。作業を完了し、一つの陸地を占領したという喜びも隊々各員にあふれ盛会であった。今帰仁での作業をみると、排水路幅員七米五〇、土手の□□□、高さ一米七〇、上□平均二米、杭打二五〇□本、シダ押込み一三〇束。

ふりかへってみてもよくもやったと満足し、仕上った排水路に敬礼をするような感激にあふれた。最後は頗るに精進してもらった婦人会、女子青年団員請うに感謝し、今帰仁村諸志難工事の経過報告を終ることにしよう。作業主任宮城仙三郎氏は特に謝意を表し□員に遷された隊員も□る□る移動までに快憶せしめてもらった努力に感謝をささげたい。(沖縄県支部池間主事) 

おばさん有難う!

隊員の炊事を賄ってくれたオバさんが女子青年団員を指揮して極めて

 

ずっと後の方にはソロバンを手にしたオヂさんも見える。病人がでたのは炊事に落ち度があったのではないか?



毎晩のように論議するのは常である。今帰仁村に限ったことではなく、大宜味村病人の寝た軒下で三人の炊事係が一睡もとらずに、ひたすら病気回復を祈りつづけたという。オバさん有難う! オバさん有難う!

(今帰仁村における炊事奉仕隊の活動振)


2020年5月14日(木)

 東日本で地震と大津波が押し寄せた直後に、名護湾に大津波が押し寄せてきたらどうなるのか、1950年の名護のマチの画像(メルビン・ハッキンス氏提供)を見せながら避難するなら名護グスクや名桜大学へと講義をしたことが思い出される。コロナウィルスは避難場所がありません。戦時中の中南部から北部へ、学童疎開で九州へ避難がありました。物不足、配給・・・

・名護域の歴史的変遷

・名護湾岸のムラ・シマ

・屋部・安和・名護の事例

・各村のムラの公民館と神アサギ

・屋部村(ムラ)の成り立ち

・名護グスクと名護のムラの展開

・名護が造りだした歴史・文化
 
  ▲宮里の上空からみた名護のマチ(昭和25年頃)

 名護湾岸に安和・山入端・屋部・宇茂佐・宮里・名護(大兼久・城・東江)・世富慶・数久田・許田・幸喜・喜瀬のムラがある。名護グスクから名護湾を眺めると、それらのムラが名護湾岸にみることができる。名護グスクを要(拠点)にした時代があったのではないか。

 1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に那五とある。それは方言音のナグに表記上「那五」を充てたのではないか(ナゴの方音がナグになったとの見解もある)。 ナグは「和む」意味合いからきた地名ではないかと考えている。名護のナゴマサーの気質からすると、願望かもしれない。

 名護グスクはグスクのイメージを一転させるグスクである。亥一般的にグスクは防御的な施設である。ところが、名護グスクは石積みがないのである。グスクの後方に丘の丘陵地を堀切った二つの堀切りがあるが、防御的な施設とするには規模が小さすぎる。防御的な施設としては頼りないのであるが、それでも名護湾岸のムラを統治したとするなら、権力で統治せず、統治できたのであれば、グスクの按司は人望の厚い、仁徳のあった支配者だったに違いない。

 名護間切名護村に東江掟と大兼久掟の二人の掟が置かれている。名護村は明治になって東江村・大兼久村・城村と分かれる。番所は東江村に置かれる。名護間切に按司掟廃止されたのは1600年代になってからのようである(『名護六百年史』)。名護按司が首里に移ったのは按司掟の廃止と同時期ではないか。名護間切と金武間切の一部で久志間切が創設されるのは1673年で久志間切番所が久志村に置かれ10数年で瀬嵩村に移動する。名護間切で按司掟が廃止され地頭代が番所の頭になるが、それまで名護按司が按司掟の役割を果たしていたのではないか。その事例は今帰仁間切でも今帰仁按司(北山監守)が1665年に引揚げで、今帰仁グスク(1609年以後麓の今帰仁村(ムラ)の集落内へ)同様なことが見られる。

 金武間切は名護・羽地・今帰仁とは事情が異なるようである。それは1526年の尚真王の各地の按司の首里への集居のとき首里に引揚げたことで『琉球国由来記』では金武グスクそのものの記述が薄い。(詳細は別で) 金武間切の金武村に金武掟と並里掟が置かれる。その例は恩納間切恩納村に恩納掟と久留掟、大宜味間切の喜如嘉村に喜如嘉掟と福地掟が置かれる。

 山原のムラ・シマにはウタキがあり、集落内にムラヤー(村屋:今の公民館)や神アサギがあり、その周辺に集落が発達している。ムラ・シマに住む人々は、ウタキやカー(湧泉)や神人を出した家(旧家)跡に火神を祀っている。祭祀はムラ・シマに住む人々の休息日にあたり、祭祀を今でも「神遊び」と呼び、神に名付けて休息日をとっていた名残りである。

 山原のムラ・シマを見る時、集落内のムラヤー(今の公民)に行き、そして周辺の神アサギを見つける。さらに神アサギからウタキの確認をする。ムラヤーや神アサギや拝所、旧家などから集落の成り立ちをしる。ムラ・シマの歴史を辿ることで、そのムラ・シマの伝統芸能であったり、ムラ・シマの文化を体で感じとることができる。




2020年5月13日(水)

 しばらく久米島まで足を運んでいないので、記憶をよみがえらしておこう(大学講義のレジメの一部)。久米島にいくつか積み残しがある。久米島には沖縄本島北部にのこるムラ・シマの原初的なマク・マキヨが各字に遺っている。それが久米島のオモロに呼称は別だったが、同様地名と遺している。その確認がしたくて。それと今帰仁間切公事帳がなく、具志川間切公事帳と仲里間切公事帳があり参考となる。おの地に立って、考えてみたいと思いつつ積み残してある。

2010年11月24日(水)レジメ(過去メモ)
 
 久米島での報告のデジュメの印刷。さて、これから頭の整理をしながら久米島へ。機内でレジュメに目を通すことになりそう。


20101130日(火)レジメ

 「久米島のムラ・シマ」、受講しているほとんどの学生が久米島に行ったことがないので、久米島のムラ・シマ(30余)の紹介程度になりそう。国や県、そして久米島町指定の文化財を手掛かりに、久米島に渡った気分で島のムラ・シマを紹介(主な参考文献:「久米島町の文化財」)

 
  

2010年11月27日(土)メモ

 久米島をゆく。今回、確認したいことの一つに『琉球国由来記』(1713年)に出てくる久米具志川間切の「小御嶽」(仲地村)であった。小御嶽はクグシクと呼ばれているようである。そこに「香炉が70個ばかり集積されている」(『沖縄久米島』沖縄久米調査委員会 142頁:仲村昌尚)とのこと。それだけの香炉があることは、クニレベルの祭祀場であろうことは予想していた。まずは香炉のある場所の確認。

  小御嶽 仲地村
    神名:小森ノスデヅカサワカツカサガナシ
   右六御前、二八月、百度御物参、有祈願也。
      (ここでの右御前は具志川城内御イベ(三ヶ所)と具志川ノロ火神(一ヶ所)、大御嶽(一ヶ所)、
          そして小御嶽の一ヶ所のこと)

  
そこでの「二八月、百度御物参」は、「年中祭祀」のところで以下のように記してある。

   二八月百度御物参の事、右間切にて日を撰び、首里天加那志、並びに世子の御為に
   万事百加保のあるように、御嶽々々の御イベ、並びに君南風殿内ノロ火神、且根所火神
   御前へ、御香・御花・御五水居て、ノロ・頭・サバクリ中、朝八巻にて、御立願・結願仕、御
   祝として、肴一鉢、神酒一こがい宛にて、御祝仕也。造用は、所遣より出る也。 

 この祭祀は首里天加那志(琉球国王)と世子のための祈願である。今帰仁グスクの近くにある「コバウ御」(今帰仁村)で行われる祈願(今帰仁アオリヤエの祭祀と見られる)や国頭の辺戸の宜野久瀬嶽、大川での祈願と同様であろう。そこでの祈願はムラ・シマレベルの祭祀ではなく、クニ(首里王府)クラスの祭祀で、久米島では島の祭祀を統括する君南風、沖縄本島北部では今帰仁アオリヤエの役目であったことが伺える。

   首里天加那志美御前、百御ガホウノ御子スデモノヽ御為、又島国之、作物ノ為、
     唐・大和・宮古・八重山。島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メイシヨワレ。

 
  クグシクへの道(右の森に香炉)    香炉はクグシクに向けて置かれている


2020年5月12日(火)

 菊池幽芳は明治39年今帰仁村運天を訪れている。その時、案内をされたのは、当時国頭郡役所に勤めていた仲村源正である。菊池幽芳は『為朝と琉球』を記すにあたり、『中山伝信録、『元史』類、『琉球国事略などを参考とされている。それだけでなく琉球の『正史』の『中山世鑑』、『中山世譜』、『球陽』、を参考にされている。氏は為朝の渡来、城(ぐすく)、運天など、為朝の遺跡を訪れ、そして根強くのこる伝説、から為朝の渡来は疑う余地なしと。

 今回の狙いは『琉球と為朝』の運天番所と所収の運天番所の写真である。

【明治の今帰仁間切役場(番所)】

 明治39年に今帰仁間切運天村の今帰仁間切役場を訪れた菊池幽芳は『琉球と為朝』で今帰仁間切役場(番所)について克明に記してある。それと役場(番所)の写真まで。以下に記された文面から、写真は運天の役場(番所)に間違いないと、以前からそう断定してきた。しかし、私の脳裏に断定したものの気がかりが残っていた。

 先日運天のタキヌウガンの時、ふと村の方から「そこにガヂマルの木があって、枝を伝わって海に飛び込んでいたよ」と聞かされた。その時「間違いない」と確信はしたものの、まだ腑に落ちない。それで今朝、他の方にガジマルのことを伺ってきた。「そこの角にガジマルの大木があったよ」と、さりげない答えであった。


  「われ等の今宵の宿と定めた今帰仁間切役場は髑髏塚を後に背負った海岸にある。
  余は随分琉球を歩いて廻ったが、今宵の宿所ほど気に入ったところは無いと思った。
  前に帯のような入江を抱込み、三方崖で仕切られて居るので、実際浮世の縁の放た
  れた土地へ来たような心持である。そのまた静かな事と云ったら、無人島へ漂着した
  場合を思い出させる位だ。

  間切役場は湾の奥、船つきの極めて安全なところに建てられている。為朝の上陸した
  のもこの辺からであろう。役場の建物は昔の番所をそのまま用いているのも嬉しい。
  役場の前には一列に大きな福樹が数本、他にまた五本の榕樹が枝を連ねているが、
  その中三本の榕樹は凄まじい大きさのものだ。琉球にはそこそこ随分巨大な榕樹が
  あるが、こんな立派なものは余り類が無い。一寸この榕樹だけでも見て置く値打ちが
  あろう。

  三本とも一丈三四尺廻りもあって、その象のような幹がいづれも人の丈ほどのところ
  から、海の方へだけ向けて指を広げてたように分れ、その分れた幹がまた幾個かの
  太い幹になって、枝から枝を網の目のように交へ、地上から一丈二三尺の空間をはっ
  ているので、余り気根は垂れていないが、その密集した葉は四時日の目を遮り、その
  下優に三百人を座せしむるに足りる。・・・・」

  
【伊江島番所の原型図】(伊江村史下巻所収)
  ・ウシャパド毛(番所毛ともいう) ・ウシャパド池 ・表門 ・裏門 ・敷地約400坪 ・便所 
  ・タンク(二ヶ所) ・周辺石垣 ・御物倉(2.25坪) ・湯ワカシ所  ・火神 ・書架タナ
  ・役人の宿泊所(六畳) ・地頭代、夫地頭所(八畳) ・サバクイの詰所(八畳) ・テクグ詰所(十二畳)
  ・村掟集会所並宿泊室(八畳) ・番所火神は伊江御殿火神の分身 ・川平殿内火神の分身
  ・元検者屋敷跡 ・番所井戸(明治初め開鑿) ・議事堂(一五坪)大正初期建築

  ・拝所 ・御殿山 ・石垣 ・通路 ・フシャテ森 ・樟木
  ・天保13年(1808年)に瓦葺建築
  ・1945年に戦災

i
 伊江島の番所の事例であるが、そこから今帰仁城に番所があった時代(1666年以前、今帰仁按司が首里引揚)の今帰仁間切番所の痕跡を見る事ができる。運天に番所ができるが、その中で間切吏員、検者などが詰めていたことがわかる。伊江御殿の火神の分身が、今帰仁グスク内にある「火神」は今帰仁按司家(具志川家の火神である。菊池幽芳が運天を訪れたとき、番所にオフロがあったことに歓喜を発している。そのオフロが伊江島番所内にあり、菊池は異例の来客のとき湯を沸かすとある。

 伊江島の番所の様子を頭に運天の番所跡を訪れる。菊池幽芳の『為朝と琉球』所収の運天番所の写真を手に。運天番所や周辺のことについて克明に記してある。

・地頭代古宇利親雲上     米ナシ     雑石  7石85194

 ・夫地頭帳面表
     新田湧川筑登之    米1石33584  〃     4石19001
 ・夫地頭諸喜田親雲上     米2石09034   〃     5石32782
 ・夫地頭志慶真親雲上     米3石06183  〃     3石46437
 ・夫地頭兼次筑登之      米0石21153  〃     7石31042
 ・首里大屋子          米4石31577  〃    17石17369
 ・大 掟              米2石18094  〃   10石19414
 ・南風掟             米5石06291  〃    4石27245
 ・西 掟             米2石91555  〃    8石94941
 ・玉城掟             米4石27320  〃    3石28258
 ・今帰仁掟            米3石70287  〃    6石68131
 ・崎山掟             米2石14184  〃    7石31202
 ・仲尾次掟            米1石50640  〃    7石71774
 ・平敷掟             米4石70267  〃    3石75462
 ・謝名掟             米2石83234  〃    6石78234
 ・仲宗根掟           米1石76126  〃    10石20016
 ・天底掟             米3石52050  〃   11石78726
 ・上運天掟            米1石55525  〃     9石14174
 ・運天掟             米2石41393  〃     9石52936
 ・古宇利掟            米ナシ       〃   14石92565
 
     ▲運天番所(海岸側から撮影か)(南側から)            ▲運天番所があった場所(数本のフクギが遺る) 

 
   ▲番所跡から東側の望む               ▲番所跡から南側を見る


2020年5月11日(月)

 王都(首里)を名護に遷都する議論があったようである。その時、屋部川の開鑿の話も。思い出しました。入院したことを。その前に「三府龍詠碑記」(1750年)について『名護碑文記』で報告していた。入院中、病院の8階から屋部川を見下ろしながら考えていた。その後、リハビリかねて運河のもう一方の河口まで行ってみた。運河の開削は十分可能だと思ったが、蔡温は先年羽地大川の大改修をした直後なので実務家の蔡温はそれには消極的だったのだろうとの私見。運河開削に積極的だったのは、今帰仁按司十世の宣謨(王子)だったのではと?

屋部川と運河開削 2002.11.21(木)メモ

 屋部川を見下ろしながら運河開削について思い描いていた。やはり、もう一つの河口の様子が気になる。それで羽地内海側の呉我の集落、それと奈佐田川の流域を散歩してみた。運河開削は当時にあっても可能な事業だった、奈佐田川沿いを歩きながらの印象である。

 三府龍詠碑記(1750年)建立の裏面に「我が国のことを、諸々の山脈地理で考えるならば首里ほど国都の地理的条件が優れた所はない。名護・羽地・今帰仁の間に屋部湊と古我知湊があり、二つの湊は小嶺で隔てられている。そのため本部・今帰仁が気脈が連続している。そうであるのに噂で名護の地は平坦で広く国の都を建てるべきだと。また屋部湊と古我知湊の間にある嶺を切り開いて繋いだならば諸国の船の往来が容易くできるに違いないなどと言っている人がいると聞いている。もし、そうしたら我が国は気脈を失い将来国土を維持することはできない状況が生じる」(現代語要約)と。蔡温は地理(風水)論で首都遷都論と水路開削論を封じ込めたのである。

 この碑文はその時代を歴史を読み取っていくことのできる史料であるし、現在山原だけでなく沖縄県が抱えている基地移転や東海岸の埋め立など将来を見通す議論が展開できるのではないか。
 

     ▲奈佐田川の河口にある呉我の集落と河口付近

..
   ▲奈佐田川の上流           ▲中流付近の様子

『旧琉球藩各間切夫地頭以下役俸人別取調帳』(明治12年8月調)

〔今帰仁間切内ののろ〕

 ・今帰仁のろ    米3石00898    雑石 3石41455
 ・供のかねのろ  米1石48398    〃  3石60783
 ・仲尾次のろ    米1石18622    〃  5石18320
 ・岸本のろ      米0石46488     〃  2石23684
 ・玉城のろ     米0石33872    〃  0石80357
 ・湧川のろ     米0石63791     〃  0石24080
 ・天底のろ     米1石93919       〃  0石30003
 ・勢理客のろ   米1石35074      〃  4石60173
 ・古宇利のろ   米ナシ       〃  8石26152

〔今帰仁間切役人の役俸〕
 
 
 ・地頭代古宇利親雲上     米ナシ     雑石  7石85194
 ・夫地頭帳面表
     新田湧川筑登之    米1石33584  〃     4石19001
 ・夫地頭諸喜田親雲上     米2石09034   〃     5石32782
 ・夫地頭志慶真親雲上     米3石06183  〃     3石46437
 ・夫地頭兼次筑登之      米0石21153  〃     7石31042
 ・首里大屋子          米4石31577  〃    17石17369
 ・大 掟              米2石18094  〃   10石19414
 ・南風掟             米5石06291  〃    4石27245
 ・西 掟             米2石91555  〃    8石94941
 ・玉城掟             米4石27320  〃    3石28258
 ・今帰仁掟            米3石70287  〃    6石68131
 ・崎山掟             米2石14184  〃    7石31202
 ・仲尾次掟            米1石50640  〃    7石71774
 ・平敷掟             米4石70267  〃    3石75462
 ・謝名掟             米2石83234  〃    6石78234
 ・仲宗根掟           米1石76126  〃    10石20016
 ・天底掟             米3石52050  〃   11石78726
 ・上運天掟            米1石55525  〃     9石14174
 ・運天掟             米2石41393  〃     9石52936
 ・古宇利掟            米ナシ       〃   14石92565

   ※古宇利島は田がないので役奉は雑石(麦・豆類か)
     古宇利島神役人(男性)は屋我地島や羽地間切源河に田を持っていて、
     祭祀に必要な稲を供えていた。その田は古宇利田(フイダー)と呼んでいる。
     現在は手放している。


2020年5月10日(
 
 古宇利島にはプーチウガン(年2回)とムシバレー(旧暦4月日撰)がある。
プーチウガンは流行病の島に入ることを排除する祭祀である。古宇利島に畔(田)がないのでムシバレー(虫祓い)がある。ムシムシバライはシニグの所作の「ナガレ」(流れ)・祓い)と類似する場面だと捉えている。プーチウガンは、医学などの十分発達していなかった時代、島への出入口での流行病を防ぐ所作として今も遺っている。コロナウイルスが発生している今、手をこまねいておさまるのを待つしかないか。(神だのみしかなかった時代、それが今でも継承されている)(久米島での人口減少が土地制度まで変えている。地割から人頭制度へ)(田代安定は琉球のマラリア撲滅で機那(キネ・キニーネ)を植栽をしていく)

 平成21年(2008年)のプーチウガンとムシバレーの調査記録を振り返る。(表記は当時のまま)

 昨日に続き、「寡黙庵」の庭木の剪定と原野の草刈りで、コロナウィルス対策、体力づくり、清掃の一石二鳥のつもりで肉体労働でもするか。

②古宇利島のムシバレー
(2008年(平成21年5月12日):旧暦4月 日選)調査記録

 古宇利島のムシバレー調査。旧暦4月の日を選んで行う祭祀。時間は引き潮。他の地域ではアブシバレー(畦払い)。午前中、雨が降ったり曇ったりの中行われた。11時頃、神人や関係者がサブセンターに集まり、供え物などの準備が行われる。サブセンターから島の東側のハヤハンサチへ。かつては、ムシバレーの祭祀場として独立した突堤があったが、今はアサギマガイから橋詰まで長い護岸となっていて、大体の場所取りとなっている。(ハヤハンサチは茅刈り場の先?)

 神人は兼次フサ子さん、山川シズさん、玉城ユキ子さん。古宇利春夫氏、舟づくりや舟の送りだしは兼次光男氏。風は島に向かっていたため、舟はなかなか沖に流れず、何度も戻っていた。虫を流すのであるが、最近はかたつむりが多いとか。

 ハヤハンサチでは線香(火をつけず)、モチ、豆腐、三枚肉、神酒(泡盛)、米が供えられた。今回は虫入れ箱まで準備されていた。害虫が島から逃げてくれたらいいとのこと。祈りが終わると神人たちは神酒やモチなどをウサンデーする。

 再びサブセンターに戻り、そこでウサンデーをしながら談笑。14日のプーチウガンの確認。ムシバレーはサブセンターとハヤハンサチのみ。車のない時代は、公民館からハヤハンサチまでの道筋があったようだ。その日は、鍬やカマを置いて休息日であったはず。

 
     サブセンターで供え物の準備        供え物(モチ、豆腐、三枚肉など)
 
     舟は兼次氏が準備                    舟に虫を乗せて海上へ

 
     ウガンが終わり、ウサンデー            虫を乗せた帆舟は沖へ?

2020年5月9日(土)

 古宇利島の遠見所について。「烽火制と近世の琉球」の講義をしたことがある。遠見番を勤める役人は、現在の天気予報士。方角、風向・船種などの判断をし文書で伝えたり、烽を上げたり。廃藩置県直後に廃止の意向。吏員の削減。

 「寡黙庵」に出勤することが多くなった。庭にでて深呼吸。ゴロゴロしていることが多い。テッポウユリ・イチゴ・パパイヤ・ツルバラ・ハイビスカスなどの花が咲いている。



 
2011年1月5日(水)メモ

 なかなか沖縄全体をみる機会がないので、波照間島・与那国島などの八重山、宮古の島々、久米島、慶良間諸島、そして沖縄本島と周辺の島々にある遠見台(遠見番)を繋ぎながら見て行くことにする。その総てを紹介できないが(今回は20余)、これまで踏査してきた遠見台跡に立ち、近世の琉球の歴史の一端を話していくことにする。烽火台(遠見台)を目的に踏査してきたわけではないが、よくもそんなに記録を遺しているなーと驚いてしまう。

 今回の主役である「遠見番」という役人。どのようなことをやっているのかというと多良間島の史料から風の向きや強さ、天気、そして通過する船の往来などの報告をしなけらばならない。いまでいう「天気予報士」である。遠見台に方位石が置かれているのは、風の向き、時刻、船の進行方向などの情報を記録するためのものであることがわかる。

 これから頭の整理をして、受講者が行ってみたくなるような歴史の話ができればいいかと。波照間島から与論島まで沖縄諸島を一気に駆け抜けます。最終の目的地は弁ヶ嶽(首里王府)です。煙にまかれず、無事伝達できるか? 言葉で簡単に説明できるが、広い自然空間の中でのことなので、そう簡単ないくものではないですよ。実際は!

 「遠見番」の役目は遠見台での異国船か帰唐船などかの判別や日々の気象状況の報告であるが、「異国船、帰唐船をみとめたら、早々に番毎方へ申し出るよう、百姓たちへ申し渡しておくこと。立火が見えたら本文と同様」(間切公事帳)。



2020年5月8日(金)

 「19のムラ・シマ」の編集に入る。過去の調査報告(平成元年7月)の天底のサーザーウェー記録が懐かしく思い出される。2010年(平成22)当時の職員の調査記録も組み込んでいく。「天底」からスタートである。天底村は本部町伊豆味地内から1719年に現在地に移動した「移動村」である。

 そこで見えてくるのは、移動地でウタキを置き、神アサギ、そして祭祀を行う。それが『琉球国由来記』(1713年)から300年経った現在まで踏襲されている。大正以後創設された字(アザ)に神アサギの設置されず、祭祀は独立しる前のムラと一緒に行っている。村(ムラ)が統合されても神アサギは一つにされず、統合される前の数継承されている。そこから近世のムラの形を観ていくことができる。(原稿は当時のまま)

【今帰仁村天底】天底のサーザーウェー参照) 天底参照

 天底を見て行く場合、どうしても天底の歴史を踏まえておく必要がある。それを踏まえないでいると、議論がひっくり返る場合がある。「天底」の村名もそうである。移動当初は今の天底の外田原(神アサギ・ウタキ・ネガミヤー・天底ノロドンチがある)あたりに集落が形成され、次第に天底校付近へ集落が移動している。
 
 天底に元文検地(1743年頃)の印部石が一基確認されている。「ノ □□や原」(しつや原か)である。天底村の移動は1719年なので、元文検地が行われたのは村が移動してきた後である。「しつた原」は今の小字にはない。現在の天底は、中福原・山岳原・城石原・後原・安谷原・新久保原・外田原・毛川原・和呂目原・墾謝堂原・地呉骨原の11の小字からなる。


  ・1646年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『絵図郷村帳』)
  ・1648年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国高究帳』)
  ・1666年 今帰仁間切を分割して今帰仁間切と伊野波(本部)間切となる。
         (
天底村は本部間切にはいる)
  ・1668年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国郷村帳』)
  ・1690年頃 今帰仁間切と羽地間切との間で「方切」がなされ、呉我村は羽地間切に組み込まれ
        る。(呉我山地まで羽地間切)
  ・1701年 「元禄国絵図」に「今帰仁間切之内 あめそこ村」とあり、
本部半島の中央部に描かれ
        ている(天底村の位置)。
  ・1712年 『琉球国由来記』では「今帰仁間切天底村」である。(
村の位置は伊豆味付近)
        (天底村故地での祭祀)
        ・伊豆味・天底二ヶ村に「中森 神名:カネマツノ御イベ」とある。
        ・天底村 神アシアゲ  ・天底巫火神
   (天底村・伊豆味村・嘉津宇村は天底ノロの祭祀管轄。伊豆味と天底二カ村の御嶽の中森は
   今の伊豆味のウタキか)
  ・1719年 
天底村が伊豆味付近から現在地に移動する。
   享保三戊戌年天底村今帰仁間切へ村越被仰付候」「當村疲入候付具志堅村へ一応加勢」
  ・1736年 1719年まで天底村と隣接していた呉我村(羽地間切)が1736年に羽地間切(現名護市)
        に移転する。
        羽地間切へ呉我山から湧川地内にあった呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地
        間切内部に移動させ、その地を今帰仁間切に組み入れる。それらの村を移動させると、
        そこに湧川村を新設する。
  ・明治13年 天底村の世帯数73戸、336人。内士族49戸、332人。今帰仁村では士族の比率の高い村。 

  ・明治17年? 「沖縄島諸祭神祝女類別表」
           ・ノロクモイ火ノ神所  ・根神火ノ神所  ・神アシヤゲ  ・クカナレ嶽 
           ・伊豆味に伊豆味の神アシアゲと大島の神アサギがあり、大島のアシアゲは天底の
            故地の神アサギ?)
  ・明治21年 天底に天底尋常小学校が後原に造られる。
  ・大正8年  呉我山が分字した時、天底の三謝原と古拝原と古呉我原は呉我山に編入された。
           (明治36年の「今帰仁間切天底村全図」には三謝原・古拝原・古呉我原がまだ
           天底村にある)


2020年5月7日(木)





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2020年5月6日(

 各間切番所は地方吏員の勤務先である。間切によって吏員数は異なるが伊江島は58名である。今帰仁間切は121名である。それらの吏員が勤めた番所の内部はどうなっていたのか。内部を示しているのが伊江島番所の原型図である。外見はペリーの恩納番所・金武番所・喜納番所、中城城跡の城内の建物(番所か)があるが平面図(外形)までである。(伊江蕃藷番所の沿革は今帰仁間切番所の沿革に参考になる)
 本部町を含む今帰仁間切(1666年以前)の番所(今帰仁城内、集落内)、1666年以後の運天番所への移行について。そして番所内の様子が参考となる。1863年頃ペリー一行が絵にした恩納番所・金武番所・喜納番所、平面図で記された中城城内の平面図など内部の様子が見えたくる。按司掟の廃止と番所。

 伊江島番所の原型図の説明をみると番所内の配置で吏員の控え室、来客、火神などについての記述があり、今帰仁間切番所(今帰仁グスクにあった頃、運天にあった番所)に様子が見えてきそうである。

【伊江島番所の原型図】(伊江村史下巻所収)
  ・ウシャパド毛(番所毛ともいう) ・ウシャパド池 ・表門 ・裏門 ・敷地約400坪 ・便所 
  ・タンク(二ヶ所) ・周辺石垣 ・御物倉(2.25坪) ・湯ワカシ所  ・火神 ・書架タナ
  ・役人の宿泊所(六畳) ・地頭代、夫地頭所(八畳) ・サバクイの詰所(八畳) ・テクグ詰所(十二畳)
  ・村掟集会所並宿泊室(八畳) ・番所火神は伊江御殿火神の分身 ・川平殿内火神の分身
  ・元検者屋敷跡 ・番所井戸(明治初め開鑿) ・議事堂(一五坪)大正初期建築

  ・拝所 ・御殿山 ・石垣 ・通路 ・フシャテ森 ・樟木
  ・天保13年(1808年)に瓦葺建築
  ・1945年に戦災

 

『琉球国由来記』(1713 年)の「諸間切諸島夫地頭□理ヲエカ人之事」の伊江島に、
         西江大屋子(地頭代)東江大屋子・大城大屋子(三員夫地頭)
           首里大屋子・大掟・東江掟・西江掟・東江目指・西江目指・大掟(七員赤冠也)
           謝花掟・上地掟・今帰仁掟・川平掟(四員青冠也)

「沖縄旧慣用地方制度」の地方吏員
 伊江島(計58名)
  地頭代         一名
    惣耕作当     四名
    抱護主取     二名
    勘定主取     二名
    小横目       二名
    夫地頭       四名
    首里大屋子    一名
    大掟        一名
    南風掟      一名
    西 掟       一名
    村 掟        七名
    目差        一名
    文子        十四名
    遠見番       六名
    升取         一名
    耕作当    二十一名  
        (計69)

運天番所屋敷内に設置された唐人収容所(1742年)


2020年5月5日(

 今帰仁村与那嶺のカマゴロウ家の家文書である。同家の取り壊し中、通りがかり立ち寄ったときに数駒撮影した家文書である(戦後)。改めて訪れているが家主とお会いすることができていない(当時那覇在住と聞いている)。技官高江洲氏住宅建設ノ関する記録 与那嶺区 家庭日誌(与那嶺) 農業日誌(1949年)など。戦後まもない頃の農業、家建築について興味深いものである。まだ、遺してあるか?

 この文書に注目しているのは、霜多正次氏の「生まれ島」、それには明治から昭和初期にかけて時代を、婚姻関係、地割制、移民、杣山のことなどが記され、当時の社会のことが記されている。それはこれまで聴き取ってきたに肉付けしてくれるものである。

 仲宗根政善先生が「方言辞典」や「美しい琉球語」を著わした与那嶺の風土に触れることができるのではないか。下の土地改良前の与那嶺の写真である。土地が壊されることは地名が消えることであり、その人が亡くなるとその人が持っていた言葉は消えてしまう。そのことを与那嶺土地改良の姿と重ね、何枚も遺している。先生が涙された場面である。

 その事があって以下の文書に目を通すことなくきたので・・・・





【仲宗根政善先生写真資料より】(土地改良前)
 

 

 

2020年5月4日(

 今帰仁村には19のムラ・シマ(現在の字)がある。①今泊 ②兼次 ③諸志 ④与那嶺 ⑤仲尾次 ⑥崎山⑦平敷 ⑧謝名 ⑨越地 ⑩仲宗根 ⑪玉城 ⑫呉我山 ⑬湧川 ⑭天底 ⑮勢理客 ⑯渡喜仁 ⑰上運天 ⑱運天 ⑲古宇利の19である。ムラ名の変遷だけでなく、人々の動きや生業まで。平敷には貴重な「平敷村略図」がある。そのような史料の紹介もしていく。

⑦平敷―平敷公民館の棟上げ式(平成2年12月号) 記録(平敷参照

 この写真は、今帰仁村のほぼ中央に位置する字平敷の旧公民館建設(昭和30年代)の棟上げ式の場面である。公民館建設に関わっているムラの人たちが屋根に11名、下に7名が写し出されている。当山清紀氏(字平敷在)が区長をして後に請負い建設したものである。

 写真には大城忠三(屋根右から五番目)や当山清紀(屋根左から三番目)、当山清勝(屋根左から四番目)、伊集万助(下右から四番目)、大城寿助(下左から三番目)などの顔がみえる。写真に出てくるセーク(大工)達のほとんどが平敷出身である。着ている洋服をみると、ほとんどが長袖で、季節は冬である。

 戦後、復興期に茅葺屋根の公民館、そして昭和30年代に瓦屋根の公民館(写真)を建て、さらに昭和52年にスラブの公民館を建設した。平敷の公民館も例にもれず、茅葺→セメント瓦→スラブの変遷をたどっている。

 今帰仁村内で使われている瓦屋根の公民館は兼次と与那嶺だけとなった。新しく公民館を建設し、旧公民館がそのまま使われずして残っているところは、仲宗根(平成5年取り壊し)と玉城と呉我山である。仲尾次の公民館が平成元年ハサギと一緒に取り壊された。部落(字)の施設と言えば、共同売店やアサギなどがあるが、まず第一に公民館があげられる。その公民館は、ムラヤー(村屋)や事務所などとも呼ばれ、村内のどの字にもある施設である。昭和49年の平敷公民館の現況をみると「木造建設、広場は道が広がったような形であるが公民館や遊具・農機具格納庫(前は幼児園であった)に囲まれている。細長い方形の敷地を上手に利用している」(「今帰仁村基本構想」)と記している。公民館の間取りは、常会用と青年クラブ用に分けられるようになっていたという。公民館と農機具置場との間は広場となり子供たちの遊び場に利用された。

 現在の公民館は、旧公民館の老朽化にともなって、昭和52年に建設されたものである。棟上げ式は、建物をたてる工事の最大の行事だと言われている。一般的には建物を建てる部落(字)の施設と言えば、共同売店やアサギなどがあるが、まず第一に公民館があげられる。その公民館は、ムラヤー(村屋)や事務所などとも呼ばれ、村内のどの字にもある施設である。昭和49年の平敷公民館の現況をみると「木造建設、広場は道が広がったような形であるが公民館や遊具・農機具格納庫(前は幼児園であった)に囲まれている。細長い方形の敷地を上手に利用している」(「今帰仁村基本構想」)と記している。公民館の間取りは、常会用と青年クラブ用に分けられるようになっていたという。公民館と農機具置場との間は広場となり子供たちの遊び場に利用された。

  現在の公民館は、旧公民館の老朽化にともなって、昭和52年に建設されたものである。棟上げ式は、建物をたてる工事の最大の行事だと言われている。一般的には建物を建てる場合、屋敷御願→起工式(トゥンダティ)→柱建て→棟上げ式→屋根葺き→家移り→落成式の儀礼がある。棟上げ式は、その中で重要な儀式の場面である。写真をみると、二本の弓矢(メスと雄がある)を棟木の両端にたて、矢先を向かわせ、その中央にノボリが立ててある。そのような儀式はいつ頃から行なうようになったのか定かでないが、『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)で「家造の際、柱梁桁等の組立をなして上棟式を挙ぐ、板の表に『紫微鑾駕』の四字を認め、其の裏に『霜柱氷軒雪桁雨棟上露之葺草』の十二字若しくは『福如東海広』の五字を横書きにして棟木に吊し、酒肴を供へて深更に式を行なふ」と記している。

 平敷の公民館の棟上げ式のときも、「紫微鑾駕」と記した棟札を打ち付けたという。平敷の公民館建設に使った材料の杉材は那覇で、セメント瓦は名護の宮城コーエイ氏から購入したものである(当山清紀氏談)。  下の写真は、幕が寄贈されたときの記念写真(昭和45年頃)である。後方に瓦屋根がみえるのは公民館で、まだ健在のころである。この建物も、今では姿を消してしまった。公民館の建物も時代とともに変わっていく。

 

   ▲平敷村略図に19の原がある。  ▲19の原が11の小字(原)に整理される。


2020年5月3日(

 五月の連休。自宅と「寡黙庵」を行き来するのみ。「北山(今帰仁)の歴史」の「ムラ・シマの歴史」の集約をすることに。





2020年4月2日(土)

 先日、寡黙庵の庭にオオゴマダラの姿をみかけた。三年前に植えたホウライカガミ(食草)がどうなっているか足を踏み入れてみた。草むらの中に3、4mに伸びていた。3本植えたが蔓に巻かれほとんど枯れた状態。世話してあげると育ちそう。先日、蜜を吸っていた花はまだ咲きほこっているのでやってくるかも。アゲハチョウ類が乱舞している。イチゴが色づいてきた。二、三日で口にはいるかな(虫に食されていなけば)。

  
▲成長していたホウライカガミ    ▲植えたとき(2017年6月
)    ▲先日、庭先にきたオオゴマダラ

  

 北山(今帰仁)の歴史の三本柱の一つが運天の歴史である。今帰仁村の西側に「北山の歴史」、東に「運天の歴史」、そして中央に19の「ムラ・シマの歴史」を置いている。ムラ・シマに住む、住んでいた人々が歴史の主人公である。そのことは現今帰仁村歴史文化センターをつくる基本方針であった。そのことを念頭にいれながらの新今帰仁村史の編集作業である。





2020年5月1日(金)
 
 5月に入りました。これまで「北山(今帰仁)の歴史」と関わるテーマで数多く積み上げきた。それらを紙(印刷)出し(1500枚近く?)をし編集に入ることに(コピー器故障中なので仕事にならず)。

 出勤日!忘れています。「寡黙庵」へ出勤とするか。


【明治の今帰仁間切の役人】



「「「庭の