今帰仁村天底                               トップヘ

・天底のアブシバレー  ・タキヌウガン ・天底のタキヌウガン


【今帰仁村天底】

 天底を見て行く場合、どうしても天底の歴史を踏まえておく必要がある。それを踏まえないでいると、議論がひっくり返る場合がある。「天底」の村名もそうである。移動当初は今の天底の外田原(神アサギ・ウタキ・ネガミヤー・天底ノロドンチがある)あたりに集落が形成され、次第に天底校付近へ集落が移動している。
 
 天底に元文検地(1743年頃)の印部石が一基確認されている。「ノ □□や原」(しつや原か)である。天底村の移動は1719年なので、元文検地が行われたのは村が移動してきた後である。「しつた原」は今の小字にはない。現在の天底は、中福原・山岳原・城石原・後原・安谷原・新久保原・外田原・毛川原・和呂目原・墾謝堂原・地呉骨原の11の小字からなる。


  ・1646年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『絵図郷村帳』)
  ・1648年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国高究帳』)
  ・1666年 今帰仁間切を分割して今帰仁間切と伊野波(本部)間切となる。
         (
天底村は本部間切にはいる)
  ・1668年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国郷村帳』)
  ・1690年頃 今帰仁間切と羽地間切との間で「方切」がなされ、呉我村は羽地間切に組み込まれ
        る。(呉我山地まで羽地間切)
  ・1701年 「元禄国絵図」に「今帰仁間切之内 あめそこ村」とあり、
本部半島の中央部に描かれ
        ている(天底村の位置)。
  ・1712年 『琉球国由来記』では「今帰仁間切天底村」である。(
村の位置は伊豆味付近)
        (天底村故地での祭祀)
        ・伊豆味・天底二ヶ村に「中森 神名:カネマツノ御イベ」とある。
        ・天底村 神アシアゲ  ・天底巫火神
   (天底村・伊豆味村・嘉津宇村は天底ノロの祭祀管轄。伊豆味と天底二カ村の御嶽の中森は
   今の伊豆味のウタキか)
  ・1719年 
天底村が伊豆味付近から現在地に移動する。
   享保三戊戌年天底村今帰仁間切へ村越被仰付候」「當村疲入候付具志堅村へ一応加勢」
  ・1736年 1719年まで天底村と隣接していた呉我村(羽地間切)が1736年に羽地間切(現名護市)
        に移転する。
        羽地間切へ呉我山から湧川地内にあった呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地
        間切内部に移動させ、その地を今帰仁間切に組み入れる。それらの村を移動させると、
        そこに湧川村を新設する。
  ・明治13年 天底村の世帯数73戸、336人。内士族49戸、332人。今帰仁村では士族の比率の高い村。 

  ・明治17年? 「沖縄島諸祭神祝女類別表」
           ・ノロクモイ火ノ神所  ・根神火ノ神所  ・神アシヤゲ  ・クカナレ嶽 
           ・伊豆味に伊豆味の神アシアゲと大島の神アサギがあり、大島のアシアゲは天底の
            故地の神アサギ?)
  ・明治21年 天底に天底尋常小学校が後原に造られる。
  ・大正8年  呉我山が分字した時、天底の三謝原と古拝原と古呉我原は呉我山に編入された。
           (明治36年の「今帰仁間切天底村全図」には三謝原・古拝原・古呉我原がまだ
           天底村にある)


 

2010年6月5日(土)メモ

 明日は今帰仁村天底のタキヌウガン調査あり。『天底の字誌』をタキヌウガンに集まった天底の方々に協力の声掛けをする予定。「タキヌウガン」などの調査記録が字誌に収録されますのでと。調査記録は早速画像で公民舘に提供していきます。また勉強会もスタート。「地域からいただいたのは地域に還す」のが歴史文化センターがとってきた方針。それは健在なり!

【天底のサーザーウェー】(調査:平成元年7月27日)

 平成元年(1989)7月(旧6月24日)の天底のサーザーウェーの調査記録である。この調査は「すくみち」(第5号)に収録してある。後に『なきじん研究 2号』に再録。当時、歴史資料館準備室(平成7年に歴史文化センターに名称変え)時代の調査である。平成3年(1991)にも調査しているが、その年にサーザーウェーに新しく婦人会の踊りが組み込まれたことが記憶に残っている。

 タキヌウガンの調査にあたってサーザーウェーのことも引き出しておくことにする。当時の職員の姿も思い出される。また、サーザーウェーの歌はレジカセで流しながらであった。タキヌウガンはサーザーウェーと別の祭祀であるが20年経ってどうなっているだろうか。(今年の天底のサーザーウェーは8月4日(旧6月26日)調査予定)



   ▲天底の神アサギでのウガン        ▲神人が神アサギからムラ人に向ってのウガン


   ▲神アサギに向ってススキをサン仕立てる     ▲サンを手渡すと漕ぐ所作をする


▲サンを持ち鼓を叩きながらニガミヤーとヌルドゥンチへ   ▲ヌルドゥンチから神アサギに戻る


  ▲アサギ庭に待機していたムラ人と踊り   ▲神行事が終わると区民に向って区長の挨拶


【サーザーウェー】(『山原の土俗』島袋源七 大正14年)

 大正の頃の天底のサーザーウェーの概略を記してみる。現在行われている様子と大正の頃を比較してみる必要あり。その変貌ぶりがよくわかると同時に、祭祀の何が今に伝えられているのか。そのような比較ができる調査記録が必要だと実感させられる。

[1日目]
  ・旧6月25日(26日)に行われる。(今は旧暦6月の最後の亥の日)
  ・当日神人(ノロ・ウチガミ・根神)等が祝女(ノロ)殿内に集まる。
  ・白装束で頭にはチヌマチ(三味線蔓)を冠にして被る。
  ・手に団扇を持って字内の根所を数軒廻る。
  ・道々団扇を振り振りサーザーウェーの唄を歌いながら練り歩く
  ・むかしは各戸を廻ったという。
  ・それが終わると字の南側にある神アシャギに行き、ノロ以下の神人が祈願して宴をやる。
  ・男の神人はノロの前に出て座り祝いの言葉を述べる。
  ・終わりに左の親指と人差し指で輪を造り、右手の人差指を入れる
  ・その後に漁取りの真似をして筵で子供等を追いまわす
  ・その時追い回されて神人の筵を被せられたり、捕まったりすると一生太ることができないという。

[2日目]
  ・神アシアゲで漁りの真似をする。人を海豚に見立てて筵を被せ、槍で突き捕獲する。


2003年5月13日(火)メモ

 午前中会合。午後からも来客が続きヘトヘトなり。今日も更新できず。カウントも000001のままなり。ごめんなさい。訪ねてきてくれた方々。開き直って笑うしかありませへん。・・・ネットさん。利用者から怒られぱなっしかもしれませんが。

 明日は午前中「教頭研」あり。中身とコースはこれから思案するなり。その前に明日は旧暦4月14日でアブシ(ムシ)バレーの日。15日のところもある。字(ムラ)によってはタキノウガン(嶽の御願)をする。天底が14日にタキヌウガンをするので説明をして欲しいとの依頼が先日あり。少し整理して臨むことにする(『今帰仁村史』参照)。以下の予備知識を頭にいれて臨むが、できるだけ天底の方々から教えを請うことにする。

〔天底のアブシバレー〕と〔タキヌウガン〕

 天底のアブシバレーは旧暦の4月14日か15日に行われる。タキヌウガンは亥(ゐ)の日に行われていたようだ。今年の旧暦4月14日がゐの日にあたるため、ムシバレーとタキヌウガンをまとめたのかもしれない。天底からタキヌウガンだからと連絡があったのでゐの日だから、今年はアブシバレーとタキヌウガンを一緒にやる形なのかもしれない。ムラ人達にとって休息日でもあった。

〔天底のアブシバレー〕

 アブシバレーが行われる旧暦の4月5月は稲の結実のころである。本来アブシバレーは田の草を除き、畦の草を刈り、虫(特にイナゴ)を駆除し豊作を祈願する祭祀であったであろう。古宇利島(今でも行っている)や今泊などでは害虫を集めて海に流す行事があった。
 その日はインジュミをつくったという。インジュミは大麦を煎って石臼で粉にし、それに黒糖を混ぜ、おわんや皿などに入れてユシン木の葉をサジがわりにして食べたという。アブシバレーの日にはマーパラセー(馬走らし)があり、会場は仲原馬場・天底馬場・親泊馬場がる。相撲もやったようだ。マーウイの会場では俄か店ができ、
   ・雑炊飯(ジューシーメー)
   ・カーカシドーフ(乾燥豆腐・焼き豆腐)  
   ・クルアミグァー(黒飴小)
   ・シルアミグァー(白飴小)
   ・松葉菓子(松葉の形をした焼き菓子)
   ・グンジューピャーガー(一厘菓子)
のようなものがでたという。(インジュミや雑炊飯はわかるが、他のものは知りません)

 食べ物の他に、つぎのようなものが売られたという。
   ・指輪
   ・ベル
   ・オージナ(扇子)

〔天底のタキヌウガン〕
 このタキヌウガンに天底の多くの方々が参加するという。天底の神アサギに集まり、神アサギの中に神人が座り、アサギに向って右側の一段下がったところに男衆、左側に女性が座る。
 現在は区長がムラの行政の報告をし、持参した重箱のご馳走を食べながら昔話や世間話をする場になっているようだ。


2003.5.14(水)メモ

 午前中は村内の教頭先生方の研修会があった。いつもご苦労をなさっているので、パッと天底のタキヌウガンの会場へ案内。普段、板ばさみの教頭先生方ですから気晴らしをかねて!(とは言っても、中身のある総合学習の研修でしたよ)

 午後2時から天底(アメソコ)のタキヌウガン(アブシバレー)に参加してきた。二時に村の人たち(約30名)が神アサギの庭に集まってきた。今日のタキヌウガンの参与観察記録を簡単に報告する。(新城さんと松田さんから、いろいろとご教示いただいた。それは本報告に収録する予定)。ターガミ(田神)はシチャウガンでした。

 村の人たちが揃うと、まず根神屋(ニガミヤー)に向う。今日ウガン(御願=祈り)をしているのは新城栄一さん。供え物は区長と書記さんが手伝う。

@神アサギ
 村の人たちが午後2時に神アサギに集まる。

Aニガミヤー(根神屋)
 根神屋の祠にはいてウガンをするのは新城さん。線香(平線香)に火をつけたり、泡盛と神酒(ミチ)とお米を供える準備をするのは区長と書記。参加者の数の線香に火をつけると村人に一本づつ渡し、また集めて祠の中の新城さんが火神の前の香炉に線香を立てる。合図をするとみんなで手を合わせてウガン(祈り)をする。前方に女性、後方に男性が座って祈りをする。ニガミヤーが済むとヌルドゥンチの祠へ。

Bヌルドゥンチ
 ヌルドゥンチは、かつて天底ノロの住宅。供え物はニガミヤーと同じように線香・泡盛・神酒・お米である。区長が線香に火を付けてみんなに一本づつ配り、再びあつめて祠の中の新城さんが四ヶ所の香炉に分けて立てる。手を合わせてウガンをする合図をすると参加者も手を合わせる。ニガミヤーやヌルドゥンチでの神酒のウサンデーはなかった。ヌルドゥンチでのウガンが済むと御嶽(ウタキ)へ。

Cウタキ(ウイウガンともいう。オミヤ)
 ウタキは森になっていて、頂上部のイベまで綺麗に草刈がなされていた。ウタキの中の途中から神人を掌っている新城さんと区長、そして女性の参加者が階段を登ってイビの祠まで。男性はウタキの途中まで行き、そこでウガンをする。そこから奥は男子禁制の場として入ることを慎む。イベの祠からウガンの合図があると下の方で待機している男性たちも手を合わせてウガンをする。

Dシチャウガン
 アミスガーの近くの森。ウタキのウイウガン(上のウタキ)に対してシチャウガン(下のウタキ)という。そこはターガミ(田神)でない。その森の中にコンクリートの祠がある。そこでも他の拝所と同様、線香・泡盛・神酒・米が供えられる。そこでのウガンが終ると神アサギに戻る。

E神アサギ
 神アサギのナー(庭:広場)にゴザが敷かれ、そこで車座になって飲みもの(ビール・お茶など)・オードブルが出される。かつては重箱にご馳走をつめ、区長の報告のあと談笑しながら飲んだり食べたりする。今日のウガンが通ったのかポツリポツリの雨になりかけたので神アサギから公民館に移動(私はそこで退散するなり)。
   (神アサギで天底のアブシバレーとタキヌウガンを中心に説明)

..
     @神アサギに集まり出発       A根神屋で線香に火をつける

...
B根神屋に向ってウガンをする    Cヌルヤーの祠に向ってウガンをする


..
  
 Cウタキに向って進む         Dウタキの中程でウガンをする男性たち

..
 
Eシチャウガンでのウガン     F神アサギでご馳走を前に談笑をする


【天底のアブシバレーとタキヌウガン】(2003.5.13)メモ

 明日は旧暦4月14日でアブシ(ムシ)バレーの日。15日のところもある。字(ムラ)によってはタキノウガン(嶽の御願)をする。天底が14日にタキヌウガンをするので説明をして欲しいとの依頼が先日あり。少し整理して臨むことにする(『今帰仁村史』参照)。以下の予備知識を頭にいれて臨むが、できるだけ天底の方々から教えを請うことにする。

〔天底のアブシバレー〕と〔タキヌウガン〕
 天底のアブシバレーは旧暦の4月14日か15日に行われる。タキヌウガンは亥(ゐ)の日に行われていたようだ。今年の旧暦4月14日がゐの日にあたるため、ムシバレーとタキヌウガンをまとめたのかもしれない。天底からタキヌウガンだからと連絡があったのでゐの日だから、今年はアブシバレーとタキヌウガンを一緒にやる形なのかもしれない。ムラ人達にとって休息日でもあった。

〔天底のアブシバレー〕
 アブシバレーが行われる旧暦の4月5月は稲の結実のころである。本来アブシバレーは田の草を除き、畦の草を刈り、虫(特にイナゴ)を駆除し豊作を祈願する祭祀であったであろう。古宇利島(今でも行っている)や今泊などでは害虫を集めて海に流す行事があった。
 その日はインジュミをつくったという。インジュミは大麦を煎って石臼で粉にし、それに黒糖を混ぜ、おわんや皿などに入れてユシン木の葉をサジがわりにして食べたという。アブシバレーの日にはマーパラセー(馬走らし)があり、会場は仲原馬場・天底馬場・親泊馬場がる。相撲もやったようだ。マーウイの会場では俄か店ができ、
   ・雑炊飯(ジューシーメー)
   ・カーカシドーフ(乾燥豆腐・焼き豆腐)  
   ・クルアミグァー(黒飴小)
   ・シルアミグァー(白飴小)
   ・松葉菓子(松葉の形をした焼き菓子)
   ・グンジューピャーガー(一厘菓子)
のようなものがでたという。(インジュミや雑炊飯はわかるが、他のものは知りません)

 食べ物の他に、つぎのようなものが売られたという。
   ・指輪

   ・ベル
   ・オージナ(扇子)

〔天底のタキヌウガン〕
 このタキヌウガンに天底の多くの方々が参加するという。天底の神アサギに集まり、神アサギの中に神人が座り、アサギに向って右側の一段下がったところに男衆、左側に女性が座る。
 現在は区長がムラの行政の報告をし、持参した重箱のご馳走を食べながら昔話や世間話をする場になっているようだ。


天底(アメソコ)のタキヌウガン(アブシバレー)(2003.5.14)メモ

 
午後2時から天底(アメソコ)のタキヌウガン(アブシバレー)に参加してきた。二時に村の人たち(約30名)が神アサギの庭に集まってきた。今日のタキヌウガンの参与観察記録を簡単に報告する。(新城さんと松田さんから、いろいろとご教示いただいた。それは本報告に収録する予定)。ターガミ(田神)はシチャウガンでした。

 村の人たちが揃うと、まず根神屋(ニガミヤー)に向う。今日ウガン(御願=祈り)をしているのは新城栄一さん。供え物は区長と書記さんが手伝う。

@神アサギ
 村の人たちが午後2時に神アサギに集まる。

Aニガミヤー(根神屋)
 根神屋の祠にはいてウガンをするのは新城さん。線香(平線香)に火をつけたり、泡盛と神酒(ミチ)とお米を供える準備をするのは区長と書記。参加者の数の線香に火をつけると村人に一本づつ渡し、また集めて祠の中の新城さんが火神の前の香炉に線香を立てる。合図をするとみんなで手を合わせてウガン(祈り)をする。前方に女性、後方に男性が座って祈りをする。ニガミヤーが済むとヌルドゥンチの祠へ。

Bヌルドゥンチ
 ヌルドゥンチは、かつて天底ノロの住宅。供え物はニガミヤーと同じように線香・泡盛・神酒・お米である。区長が線香に火を付けてみんなに一本づつ配り、再びあつめて祠の中の新城さんが四ヶ所の香炉に分けて立てる。手を合わせてウガンをする合図をすると参加者も手を合わせる。ニガミヤーやヌルドゥンチでの神酒のウサンデーはなかった。ヌルドゥンチでのウガンが済むと御嶽(ウタキ)へ。

Cウタキ(ウイウガンともいう。オミヤ)
 ウタキは森になっていて、頂上部のイベまで綺麗に草刈がなされていた。ウタキの中の途中から神人を掌っている新城さんと区長、そして女性の参加者が階段を登ってイビの祠まで。男性はウタキの途中まで行き、そこでウガンをする。そこから奥は男子禁制の場として入ることを慎む。イベの祠からウガンの合図があると下の方で待機している男性たちも手を合わせてウガンをする。

Dシチャウガン
 アミスガーの近くの森。ウタキのウイウガン(上のウタキ)に対してシチャウガン(下のウタキ)という。そこはターガミ(田神)でない。その森の中にコンクリートの祠がある。そこでも他の拝所と同様、線香・泡盛・神酒・米が供えられる。そこでのウガンが終ると神アサギに戻る。

E神アサギ
 神アサギのナー(庭:広場)にゴザが敷かれ、そこで車座になって飲みもの(ビール・お茶など)・オードブルが出される。かつては重箱にご馳走をつめ、区長の報告のあと談笑しながら飲んだり食べたりする。今日のウガンが通ったのかポツリポツリの雨になりかけたので神アサギから公民館に移動(私はそこで退散するなり)。
   (神アサギで天底のアブシバレーとタキヌウガンを中心に説明)


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   @神アサギに集まり出発        A根神屋で線香に火をつける

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 B根神屋に向ってウガンをする       Cヌルヤーの祠に向ってウガンをする

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      Cウタキに向って進む           Dウタキの中程でウガンをする男性たち

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 Eシチャウガンでのウガン          F神アサギでご馳走を前に談笑をする


A天底ヌルドゥンチ跡

【天底ノロ殿内】(明治30年頃)

 火神 一社一字 25坪 天底ノカネイ 社禄:143石3升6合 銘より 氏子93戸

・天底のろくもい
   社禄の給与額(明治43年) 250円(証券) 36円72銭(現金) 計286円72銭


     A天底ヌルドゥンチ跡

・山城マシ(天底ノロカネイ)