今帰仁村字謝名のアヤーチ(操り獅子)調査報告
調 査 仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)(まとめ)
上間 恵子(今帰仁村文化財資料整理)
仲里 なぎさ(海洋博海洋文化館)
(肩書は2008年当時)
1. 今帰仁村謝名の概況
今帰仁村字謝名は今帰仁村の中部地区にありジャナと呼ばれる。『絵図郷村帳』(1649年)や『琉球国高究帳』(17世紀前半か)で「謝名村」と出てくる。謝名の大島原に御嶽があり、そこは遺跡となっている(ウンジョウヘイ遺跡)。御嶽の後方はグスクンシリー(グスクの後方)と呼ばれ、御嶽がグスクの呼び方がなされる。御嶽の南斜面はグスク系の土器や中国製の陶磁器類が出土している。集落も御嶽の内部から次第に南斜面に発達した痕跡がみられる。現在の集落部分は大島原(ウブシマ)と呼ばれ、御嶽を背にした古島タイプの典型的な集落を形成している。『琉球国由来記』(1713年)にも「謝名村」とあるが、同由来記の「諸間切諸島夫地頭?ヲエカ人之事」で平田掟がでてくる。後に平田掟は謝名掟となる。平田掟は首里に住む脇地頭でもある。『琉球藩雑記』(琉球藩臣下禄記)をみると「今帰仁間切謝名村作得七石余 平田親雲上」とある。謝名村と首里に住む脇地頭との関係が密接である。そのことが、謝名にアヤーチ(操り獅子)を導入した可能性はありはしないか。
昭和12年に越地が謝名と仲宗根の一部をとって分字する。分字した越地の祭祀は、謝名から分字した住民は謝名、仲宗根から分字した住民は仲宗根の祭祀とかかわる。ただし、謝名も仲宗根も玉城ノロの管轄村である。越地は出身地の祭祀や豊年祭に参加する。
▲上空からみた謝名の大島(ウプシマ)周辺
2.謝名の集落区分
謝名は『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』から「謝名村」と記され、また大島原にはグスク時代以降の複合遺跡があり、集落の発生は極めて古くからある。現在の集落は@ウプシマ、Aメーボロ Bナーボロ Cウイジャナ の四つに分かれる。分字した越地はフイジである。僅かな人家のあるスーダはウプシマに含まれる。謝名は@東仲原 A西仲原 B頭原 C伊佐那覇原 D大島原 E東大棚原 F謝名俣原 G前田原 H西大棚原 I上手名原 J大久保原 K真良地原 L迫田原 M美謝原 N前原 O乙羽原の16の小字からなる。
集落があるのは、東仲原と西仲原でナーボロ(ナカバル)、大島原にウプシマ、前原にメーボロ、そして上手名原にウイジャナの集落がある。ウプシマは御嶽や神アサギなど拝所があり、謝名村の発祥と関わる古島タイプの集落である。ナーボロ(ナカバル)はウプシマからの移動や分家筋の人々が集落を形成している。集落は整然とした区画がみられる。格子状(あるいは碁盤状)の形をした部分があり、近世の移動集落である。集落の形成は近世になされたようで、フイヤーやメーフイヤー、フイチヤーなどの屋号の家があり、地頭代や間切役人を勤めている。メーボロはウプシマやナーボロからの移住者で形成された分散型の集落である。ウイジャナは山手から降りてきた寄留人が形成した散在型の集落である。
明治13年の人口は平民が642人、士族が230人で士族の比率は26.4%である。今帰仁間切の士族の比率が19.9%なので、今帰仁間切全体より士族が多い村である。明治36年の『砂糖消費税法改正之儀ニ付請願』の謝名村の我那覇・伊是名・幸喜・宮里の姓は士族である。宮里姓は分字した越地に多い。謝名のアヤーチ(操り獅子)の謝名への導入がいつのことがはっきりしない。平田村掟(謝名村掟)の脇地頭の平田親雲上のこと、そして明治36年にすでに地割に参加できた寄留士族、それら士族の方々がアヤーチ(操り獅子)を持ち込み、村踊(ムラウドゥイ:豊年祭)に組み入れたのではないか。その可能性が大である。因みに湧川の路次楽は寄留士族によって村踊(ムラウドゥイ:豊年祭)に導入されたものである。
3.謝名の年中行事
謝名のウプシマには御嶽(グシクやオミヤともいう)をはじめ、旧家のウペーフ家(クシヌ殿内:桃原家)や前ヌ殿内(運天家:現仲原家)。があるまた神アサギ(アシャギ)や根神内、(脇)地頭火神、東殿なの拝所がある。豊年祭(ムラウドゥイ)は神アサギのある広場で行われる。
・1月1日 初御願(根神殿内→お宮→桃原家→仲原家→シカー→世神殿内→公民館)
・2月15日 ウマーチ(ウカタビ)(神アサギ内)
・3月15日 ウチマチ(ウカタビ)(神アサギ内)
・4月15日 タキヌウガン(スムチナウタキ→サンケモー)
・4月(大安の日) 麦御願(お宮の後方→桃原家の庭→仲原家の庭→神アサギ→アサギの東側)
・5月15日 ウマーチ(ウカタビ)(神アサギ内)
・6月15日 ウチマチ(ウカタビ)(神アサギ内)
・6月25日 ウユミ(ウカタビ)(桃原家の東門でお宮に向かって拝む→神アサギ→世神殿内)
・旧盆後の亥の日 大折目(ウカタビ)(桃原家の庭→桃原家の東門でお宮に向かって拝む→神アサギ)
・8月10日 8月10日の御願(ウカタビ)桃原家の庭→桃原家の東門でお宮に向かって拝む→神アサギ)
・8月15日 十五夜(根神殿内→お宮→桃原家→仲原家→アサギの庭→世神殿内→シカー→公民館)
・9月大安の日 九月御願(お宮の後方の岩→桃原家の東側→仲原家の東側→神アサギ→神アサ
ギの東側)
・11月15日 ウンネ御願(ウカタビ)(神アサギ内)
・12月24日 プトゥチ御願(根神殿内→お宮→桃原家→仲原家→世神殿内→シカー→公民館)
▲常設となった豊年祭の舞台 ▲祭祀の中心となる神アサギ
謝名の豊年祭は5年目に回ってくるので五年マールという。越地が分字するまでは、謝名でも棒術が行われていたという。豊年祭のプログラムはその年によって異なるが、はずせない演目がある。それは、長者の大主・稲摺狂言(別名:福念親雲上)・ヌンフル・クルク節・アヤーチ(操り獅子)である。
5.謝名のアヤーチ(操り獅子)
【聞き取り調査メモ】(今帰仁村謝名:米須清敬氏・桃原惣福氏より)
・アヤーチと呼ばれる。紐で操ることに由来するか。
・豊年祭の最後に演じられる。
・二頭(雄・雌)を舞台で操って踊らす(動きは前後・斜め上下)。
・二頭の中央に黄金の玉(ムンダニという)を吊るす。
・二頭の動きは、じゃれたり、跳ねたり、うずくまったり、ひょうきんな所作もする。
・中央部に吊るされたムンダニをとるため口を開けてとる所作をする。
・舞台の上にさらに台を置いて、その上で演ずる。
・天井にパイプ(以前は竹:カラダキ)を渡し、それに紐をかける。
・獅子の頭の部分と尻尾の根元に紐をつける。
・頭の紐は上部で交差させ幕の後に通し操る。
・尻尾の紐は、それぞれの後方の上部から幕の後ろに通し操る。
・紐はマーウーの糸?(わら縄に豚の血をぬる?)を使っていたが、現在はワイヤーや釣り用の手ぐす)
を使っている。
・操り獅子を吊るす糸は目立たないようにバックの幕と同じ系統の色とする。
・ムンダニ(黄金の玉)は天井のパイプ(かつては竹)から二頭の中央部に吊り下げる。
・操り手は一頭に一人ずつ。ムンダニに一人。計三人
・演じる前に雌雄の獅子を静かにさせる(二人)。
・三味線が始まると舞台の幕が開き、同時に獅子を押さえた二人が手を離す。
・獅子を押さえているのは、今にも踊り跳ねたいのを抑えている。
・操り手から獅子の動きが見えるように幕に穴があけられていた。(現在は獅子の動きの見える幕)
の踊り具合は、操り手、地謡(ジウテー)、押さえ手の三者の呼吸があったときによく踊るという。・祭祀用
のアヤーチ(操り獅子)は持ち出し禁止で、持ち出し可能のアヤーチが作られている。
【舞台と装置】
豊年祭のとき、謝名のウプシマの神アサギのミャー(庭)に豊年祭用の舞台を設置し、その舞台に更にアヤーチ(操り獅子)が踊る台が置かれる。以前は豊年祭のとき舞台を設置していたが、前回から常設の舞台となる。
・天井にパイプ(かつては竹)を固定し、紐(現在はワイヤー)をかける指位の10cm棒(図参照)
・獅子を踊らす台(奥:400cm×奥行:200p×高:50p)
・後ろの幕は紐と同じ色にする。
・二頭の獅子の中央部に天井のパイプ(かつては竹竿)から黄金色の玉(ムンダニ)を吊り下げる。
・装置は以前と異なっている。
※(以前の装置と分けて記す必要あり)
【アヤーチ(操り獅子)の形態】
・獅子頭は厚手のボール紙を使う(色彩をつける)。外だし用はデイゴ。
・耳もボール紙を使用する。
・胴体は割った竹で編む。
・編んだ胴回りに麻や芭蕉の繊維を結びつける(麻より芭蕉糸の方が軽いという)。
・四本の足先に古銭や穴のあいた金具を取り付ける。
・グンジョミーといって寛永通宝などの古銭が付けられていた。
・獅子が踊るとグンジョミー(古銭)が床に当たって音をだす。
・滑車やワイヤー、スチールパイプを使っている現在と、以前の竹竿やマーウー(紐)を使っていたのとは
の張り方が異なっている(再確認要す)。
▲アヤーチ(操り獅子)を吊るすパイプ(元は竹竿) ▲豊年祭の最終演目で踊るアヤーチ(操り獅子)
獅子は二頭で雄・雌の対となっている。
・獅子頭は厚手のボール紙(外だし用はデイゴ)
・胴体は竹(カラダケ)
・雌雄のスケールは図参照。
・雌雄の獅子の口の中に鈴がつけられ動くと巣鈴の音がでる。
・アヤーチ(操り獅子)の保管は公民館内。
▲アヤーチの頭(オス) ▲アヤーチの頭(メス)
▲ムダニ(黄金の玉)とドラ ▲アヤーチを補修する毛(芭蕉糸)
・直径10数センチ。
・ダンボールの厚紙でつくる。
・吊るし様の結びをつける。
・黄金の金紙をはりつける。
【アヤアーチ(操り獅子)を踊らす曲】
・三線と太鼓とドラ(以前はボラもあった)
・緩やかな曲から、しだいにテンポの早いカチャーシーにかわる。
・曲目はチチウトゥシー・カニクー・カチャシー
6.謝名アヤーチ保存会の活動歴
・これまで謝名の5年マールの豊年祭の演目の最終で行われてきた。ムラ(アザ)への出しは禁止。 ・平成7年旧8月謝名区豊年祭
・平成9年4月6日 佐敷町シュガホールに出演する。
・平成9年10月19日 具志川市安慶名闘牛場に出演する。
・平成11年(旧8月)謝名豊年祭
・平成14年1月 沖縄県指定無形文化財に指定される。
・平成12年6月28日 安田生命文化財団より助成を受ける。
・平成12年9月9日 県庁よりアヤーチ視察(22名)
・平成13年2月15日 今帰仁グスクまつり村文化祭に出演する。
・平成14年2月15日 名桜大学に出演する。
・平成15年3月 野外常設の舞台が完成する。
・平成15年(旧8月)謝名豊年祭
・平成17年8月3日 NHKホールにてアヤーチ(操り獅子)を披露する。
・平成17年8月14日 海洋博に出演する。
・平成18年 沖縄県文化協会から表彰を受ける。
7.地方(間切)への芸能の導入の痕跡
謝名にアヤーチ(操り獅子)がいつ導入されたか明確な史料の確認はまだできていない。導入の可能性は、豊年祭で行われる組踊りや路次楽やしゅんどうなどの導入と同様な経過をたどったと見ると、寄留士族・脇地頭・御殿や殿内への奉公人・江戸上りに随行していった踊人(奉公人)などが、その役割を担っていたとみられる。各地のウタキなどの拝所に奉納された香炉が按司や王子などの上国と密接に関係している。それらに随行し、踊人として大和の芸を学んでくる。また上国のときの芸能を帰国して、領地である間切や村の豊年祭に導入していった可能性が大きい。
「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。
ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。
・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍(ママ)奉行格式ニ而御座候
・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也
▲今帰仁村湧川の「路次楽」(県指定) ▲今帰仁村古宇利の「しゅんどう」
『向姓家譜大宗尚韶威』などの家譜から、今帰仁と関わる人物の上国の記事を拾い掲げてみる。
・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将 宮古→薩州→長崎
・康煕15年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
・康煕48年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
・乾隆11年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
・乾隆12年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
(今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
・乾隆17年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
・嘉慶25年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山→与那国島(慶賀改めて)
・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州→東京へ
勢理客の御嶽(ウタキ)とスムチナ御嶽に石香炉がある。そこに彫られた年号と「・・・仁屋」の人名の何人か確認ができる。他の史料とのかみ合わせをしてみると、その多くが上国と関わっての「奉寄進」である。
▲勢理客のウタキ香炉の拓本(二基) ▲スムチナ御嶽の香炉の拓本
『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」(勢理客村)に、以下のような記録がある。
一、嘉慶二十四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同七月
十五日
また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信:謝名村)に、
一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟・・・・
一、二男武太(光緒5年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地
頭
新城徳助の「口上覚」(親泊村)にも、以下のようにある。
一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子様屋嘉被仰付光緒
元年亥八
などの記事を拾っていくと石灯籠や石香炉に確認できないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)と密接な関わりがあったことがしれる。奉公人は間切や村へ、豊年祭の演目などに首里文化を運び込む(導入する)重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だと言われている。薩摩からの帰りの船底に敷くバラストとして持ち帰った石(那覇港などでおろさされた)を、さらにグスクやウタキなどに石灯籠や香炉を「奉寄進」したとみていい。
勢理客のウタキの二つの香炉の年号の確認が必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったかと見られる。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)(勢理客村)に以下のような記事があり、奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。
勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候
勢理客村兼次親雲上(覚)
一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付九月より
一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能
相勤置申候事
一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事
8.アヤーチ(操り獅子)の謝名への導入の可能性
操り獅子(アヤーチ)がどのようにして、今帰仁村謝名の豊年祭(村踊り:ムラウドゥイ)に導入されたのか、そのことについて、今のところ不明である。首里・那覇からの寄留人(脇地頭)の影響もあるが、地元間切役人の奉公先が首里の殿内や御殿である。
間切役人の勤書や文書から、謝名の近世文書から首里と関わる記事を拾ってみる。首里奉公をした人たちと操り獅子(アヤーチ)を導入した直接史料は、まだ確認できていないが手掛かりになりそうである。
首里奉公した間切役人の奉公先との関係をしることができる。首里奉公した間切役人は、後々まで奉公先と密接な関係があることがしれる。そのようなことから、操り獅子(アヤーチ)の謝名村へ導入された可能性がある。ここで掲げていないが、謝名村=
[平田家文書(フイチヤー:古宇利掟屋)]
・兼次親雲上御事第四代世ノ長男、幼少ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ
御奉公勤勉之為メ、掟・捌庫理・兼次夫頭役仰付次ニ惣山当ト・・・(道光20年死去)
・二男武太ハ両惣地頭ノ御奉公全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、
志慶真大屋子ト云フ。(光緒5年死去)
・長男屋真事、幼少ヨリ今帰仁御殿御奉公全ク勤勉ノ為、二十四五歳ニ古宇利掟役被付、…(咸豊11年死去)
[玉本家(ナビタマヤー)文書]
・嘉慶24年4月御殿大按司様上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同7月15日那覇川出帆与那国嶋
漂着翌辰年6月帰帆仕申候事(上国できなかったが当時の奉公の様子がしれる)
[勢理客村大城仁屋の諸事日記]
・嘉慶20年亥2月御殿御供被仰付寅年迄4ヵ年御仰詰相勤置申候事
・嘉慶23年寅正月故岸本按司加那志様生年御祝儀之時、躍人数被仰付首尾能相勤置申候
・嘉慶24年卯五月御嫡子今帰仁里之子親雲上屋加被仰付丑四月まで11ヶ年相勤置申候事
・道光11年卯11月24日御嫡子今帰仁里主親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤置申候事
・道光19年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候事
・咸豊20年子3月故湧川按司様御元服之時肝煎人被仰付罷候首尾能相勤置申候事
・咸豊23年卯3月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付□□首尾能相勤置申候事
【資
料】今帰仁村謝名の御願(ウガン)の唱え
◎初御願 (拝む場所:根神殿内、お宮、桃原家の仏壇、仲原家の仏壇、ユーガミドゥンチ)
御尊サ アミセール 城ヌ御神加那志前 按司加那志ヌ前 佳ル日 勝ル日御正月明 ヤビテ 今年ヌ年頭(□□□)年ヌ 1日ヌ
1月1日 チャビタン 村ヌウクデー前ナイビテ 村頭スルテ (□□□)年ヌ 謝名村ヌ御願立 デービル 十段ヌ恐り 萬段ヌ恐り アギヤビテ 日々ヌ営ミ 頭脳ヌ頭数 夜ヌ 時間 昼ヌ時間 御守イ 立派 御囲い立派 笑い福い シミラチ ウタビミソーチ 衆人 萬人ヌ 御心 和合 輪 健康立派 ウタビミソーチ 誠ニ 一年中ヌ 嘉利吉ヌ 御願デービル サリ ウートートゥ
◎初御願 (拝む場所:桃原家の火の神、仲原家の火の神)
御正月ン 明ヤビテ 今年ヌ年頭 1日ヌ (□□□)年 1月1日 デービル 御尊サ アミセール 御火ヌ 神様カラ 1年ヌ 嘉利吉ヌ御願デービル 謝名村ヌ ウクデー前ナイ ナイビテ 村頭スルテ 御酒 花米 花米 御供ビテ 十段ヌ 恐リ 萬段ヌ恐リ 上ギヤビテ 上月 中月 下月 日々営ミ 頭脳ヌ頭数 夜ヌ時間 昼ヌ時間 御守い立派 御囲い立派 笑い福い シミラチ ウタビミソーチ 衆人 萬人ヌ御心 和合 村ヌ和合 輪 健康立派 ウタビミソーチ 誠ニ 1年中ヌ 嘉利吉ヌ 御願デービル サリ ウートウトゥ
◎初御願 (拝む場所:シカー)
四川(シカー)ヌ川ヌ御神加那志ヌ前 正月ン明ヤビテ(□□□)年ヌ 1月1日チャービタン 昔 祖先カラヌ 今が世マデン 水ヌ御恩ヌ御願立デービル 謝名村ヌウクデー 前ナイビテ 村頭スルテ 御酒 花米 波ヌ花 ウサギトーテヌ 正月ヌ 嘉利吉ヌ御願デービル 雨露ヌ御恵ミ 五穀ヌ御恵ミ 日々ヌ営ミ 頭脳 頭数 御守立派 御囲イ立派 笑い福い シミラチウタビミソーチ 衆人 萬人ヌ村ヌ御心 和合 輪 健康立派 ウタビミソーチ 誠ニ 1年中ヌ 嘉利吉ヌ 御願デービル サリウートートゥ
◎初御願 (拝む場所:公民館)
謝名公民館ヌトパーシリヌ 御神加那志ヌ前 今日ヌ
佳カル日 勝ル日( 巳 )年ヌ1日ヌ正月デービル ウクデー前ナイ ナイビティ 村頭スルティ 松内ヌ御願所 六ヶ所 御願立テ サビタンディル アンネーヌ 御香ブンデービル 今度ヌ(□□□)年ヤ(□□□)年ニ勝テ 嘉利吉ヌ御願デービル
◎ウマーチ(旧2月15日)
【アサギの中】
謝名村ヌアサギヌ御神加那志ヌ前 今日ヌ佳カル日 勝ル日(巳)年ヌ 旧ヌ2月15日 ウマーチヌ時節ナイビタン 昔カラ 旧ヌ2月15日ヌ ウマーチヤ 麦ノ穂祭ヌ御願デービル 謝名村ヌ ウクデースルテ 御取次デービル 雨露ヌ御恵ミ 御太陽 御月ヌ御力 五穀ヌ 御恵ミ 村ヌ繁栄 無病息災 御守立派 輪 健康立派 ウタビミソーチ 誠ニ 一年中ヌ 嘉利吉ヌ御願デービル サリウートートゥ
◎ウチマチ(旧3月15日)
【アサギの中】
(□□□)年ヌ旧ヌ3月15日 今日ヌ佳カル日 勝ル日 ウチマチヌ節句 ナイビタン アサギヌ 御神加那志ヌ前 謝名村ヌ敷内ヌ 御神加那志ヌ前 昔カラ 3月ウチマチ 麦の収穫祭ヌ御願ヤイビン 雨露ヌ御恵ミ 御太陽 御月 五穀 ヌ 御恵ミ 授ミソーチャル 御恩ヌ御願ヤイビン 謝名村ヌ ウクデー スルテ 麦ヌ豊作ヌ 御恩 上ギヤビテ 謝名村ヌ御心 和合 輪 健康立派 ウタビミソーチ 誠ニ 一年中ヌ 嘉利吉ヌ御願デービル サリ ウートートゥ
◎嶽の御願(旧4月15日)
御尊サ アミセール 阿武理花 嶽 ヌ 御神加那志ヌ前 今日ヌ佳カル日 勝ル日 (□□□)年ヌ 4月15日 謝名村 玉城 平敷 仲宗根 ヌ 住民 集テ 花米 花米 果物 御供テ 五穀ヌ御恵ミ 御太陽 御月ヌ御恵ミ 雨露ヌ御恵ミ授ミ ソーチャル 御恩ヌ感謝 ヌ 御願デービル 今年ヌ(□□□)年ン 4ヵ村ヌ繁栄立派 御心 和合 輪 健康立派 授ミソーチ 御奉納立派 ウタビミソーリ サリ ウートートゥ(頂上) 線香1束 12本 3本
(下) 線香2束 24本 6本
(サンケー毛)線香1束 12本 3本 各1人 3本
◎嶽ヌ御願(サンケー毛) 旧4月15日
サリ ウートートゥ 御尊サ アミセール 謝名村ヌ 三ヶ毛 ヌ 御神加那志ヌ前 (□□□)年ヌ
◎麦御願 (旧4月の大安の日)
今年ヌ(巳)年ヤ 4月ターチャヌ御年ヤイビン 御嶽ヌ御神加那志ヌ御前ニ村ヌ ウクデー前ナイビテ 村頭スルテ 御酒 花米 花米 麦フチャギ 献上ビテ 麦ヌ穂ヌ 御願ヤイビン 夜ヌ時間 昼ヌ時間 御太陽 御月ヌ御力 授ミソーチ 今度ヌ(□□□)年ヌ 村ヌ 繁栄立派 輪 健康立派 ウタビミソーチ 今度一年ヌ 嘉利吉ヌ御願デービル サリ ウートートゥ
◎ウマーチ御願 稲ヌ穂ヌ御願 (旧5月15日)
アサギヌ 御神加那志ヌ前(□□□)年ヌ 旧ヌ5月15日 ウマーチ時月ニ ナイビタン 村ヌウクデ前ナイビテ 御酒 献上ヤビテ 昔カラヌ稲ヌ穂ヌ豊作ヌ 御願ヤイビン 夜ヌ時間 昼ヌ時間 御太陽 御月ヌ 御力 授ミソーチ 雨露ヌ御恵ミ 五穀ヌ御恵ミ 授ミソーチ 今度(□□□)年ン 村ヌ 繁栄立派 輪 健康立派 ウタビミソーチ 今度一年ヌ 嘉利吉ヌ御願デービル サリ ウートートゥ
◎ウチマチ御願 (旧6月15日)
サリ ウートゥートゥ 御尊サ アミセール アサギヌ御神加那志ヌ前 屋敷内ヌ御神加那志ヌ前 (□□□)年ヌ 旧ヌ6月15日ヌウチマチ 時月ニナイビタン 村ヌウクデー 前ナイナイビテ 御酒 献上ヤビテ 昔カラ 稲ヌ収穫 ヌ 御拝ヤイビン 夜ヌ時間 昼ヌ時間 御太陽 御月ヌ御力 授ミソーチ 雨露ヌ御恵ミ 稲ヌ豊作授ミソーチ (□□□)年ヌ 謝名村ヌ 繁栄立派 輪 健康立派ヌ御願 上ギヤビラ サリ ウートートゥ
◎ウユミ御願 (旧6月25日)
世神 殿内ヌ 御神加那志ヌ前 今日ヌ 佳カル日 勝ル日 (□□□)年ヌ 旧ヌ6月25日 ウユミヌ 時月ガチャビタン 五穀ヌ取入ン ウワヤビテ 村ヌ ウクデー前ナイビテ 村頭スルテ 御酒 花米 花米 献上ビテ 御太陽 御月ヌ 御力 授ミソーチ 今度ヌ (□□□ )年ン 謝名村ヌ 御心 和合 繁栄立派 輪 健康立派 授ミソーチ 太鼓 鳴チ 7月エイサー踊イ ハネーアシデ 謝名村 ヌ 世 願 ヌ 御願立テ デービル サリ ウートートゥ
※東に向かってタイコを3回たたく
◎大折目御願 (旧7月のゐの日)
城ヌ 御神加那志ヌ前 (□□□)年ヌ旧ヌ7月後ヌ ゐ(イ)ヌ日 今日ヌ 佳カル日 勝ル日 村ヌ ウクデー 前ナイ ナイビティ 今度ヌ (□□□)ン 五穀ヌ 御恵ミ 授ミソーチャル 御恩ヌ 印ト シチィ サンニンカーサ ムーチー 献上ヤビテ 大折目ヌ御願 ヤイビン 謝名村ヌ 繁栄立派 輪 健康立派 授ミソーチ 今度ヌ(□□□)年 豊年 願ヌ 御願デービル サリ ウートートゥー
・8月10日の御願 (旧8月10日)
城ヌ 御火ヌ 神様ヌ前 御神加那志ヌ前 按司加那志ヌ前 (□□□)年 旧ヌ8月10日 今日ヌ佳カル日 勝ル日 謝名村ヌ 五穀ヌ収穫ン ウワヤビテ 家庭 屋敷内カラ 稲ヌ豊作 御恵ミ 授ミソーチャル 御恩ヌ 御願 ヤイビン 御太陽 御月ヌ御力 雨露ヌ御恵ミ 授ミソーチ 謝名村ヌ 繁栄立派 輪 健康立派 御心 和合 授ミソーリ 誠ニ 一年中ヌ 嘉利吉ヌ御願 上ヤビラ サリ ウートートゥ
・フトゥチ御願(旧12月24日)
御献上 サビテ 一年中ヌ 御帳簿 謝名村ヌ ウクデー 前ナイナイビテ 村頭スルテ 真心カラ 御報告サビラ 又 年夜ヌ 明キティ 正月元旦 七橋カラ 福ヌ神 徳ヌ神 御迎サビティ (□□□)年ヌ 一年ヌ御加護 立派ニ 組立シ ウタビミ セービリ サリ ウートートゥ
・フトゥチ御願(拝場所:桃原家、火の神、仲原家、火の神)
サリ ウートートゥー 御力 アミセール 玉ヌ御火ヌ神 加那志前 今度ヌ年時 (□□□)干支年ヌ 12月24日 佳カル日 勝サル日 黄金日 御取立ティ 申ギヤビティ 一年中ヌ 感謝デービル 十段ヌ恐リ 百段ヌ恐リ 万段ヌ恐リ 申上ヤビティ 立派ヌ盃 白餅 花米 花米 献上ビティ 一年365日 年ヤ12ヵ月 月ヤ30日 日々ヌ営ミ 上月 中月 下月 加護美ラサ ウタビミソーチ 誠ニ 感謝 今日ヤ 12月24日ヌ御願解チ デービル 時刻ン 時間ヌン 米ビタン 尊サ アミセール 御火の神 加那志前カラ 七段ヌ橋 掛キヤビティ 御天七役場 御天七宮カイヌ 御献上サビテ 一年中ヌ 御帳簿 謝名村ヌ ウクデー 前ナイナイビテ 村頭スルテ 真心カラ 御報告サビラ マタ 年夜ヌ明キティ 正月元旦 七橋カラ 福ヌ神 徳ヌ神 御迎サビティ (□□□)年ヌ 一年ヌ 御加護 立派ニ 組立シ ウタビミセービリ サリ ウートートゥ
・フトゥチ御願(旧12月24日)
【シカー】
サリ ウートートゥー 尊サ アミセール 四川ヌ湧泉 七湧神ヌ 御神様 今度ヌ年時(□□□) 12月24日 佳カル日 勝サル日 黄金日 御取立ティ 申ギセビティ 一年中ヌ感謝デービル 村ヌウクデー 前ナイ ナイビテ 村頭スルテ 御酒 白餅 花米 花米 献上ヤビテ 世立 サビタル時カラ