やんばるの戦後を考える視点
生業と祭祀から見る戦後の生活変容
仲原 弘哲(南島文化研究所特別研究員
今帰仁村歴史文化センター館長)
はじめに
T 生業の変容
1. 山原(やんばる)の歴史的背景
2. 風景や生業の変貌
3.戦後の公民館資料(一事例)
U 祭祀の変容
祭祀の位置づけ
1.祭祀は休息日(遊び)である
2.祭祀を執り行う神人は公務員である
3.神人の消滅はあるが、祭祀は行われている
4.祭祀の廃止
結 び
はじめに
沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は北山(山北)や国頭方と記される。山北(北山)は、北山・中山・南山が鼎立していた時代の名残りである。その北山の領域が山原である。近世になって領域(間切)の線引きの変更や町村の合併がなされ現在に至る。
その山原の領域は明治29年に国頭郡になるが、伊平屋島と伊是名島は島尻郡に入る。国頭郡には名護市・東村・恩納村・金武町・宜野座村・本部町・今帰仁村・大宜味村・国頭村・伊江村がある。山原には1市、2町、7村がある。近世から現在に至る変遷を記すと以下のようになる。
山原の市町村に字(アザ)や区と呼ばれる行政字(区)が170ある。字のことをムラやシマと呼ぶが、明治41年に間切は村に、これまでの「…村(ムラ)」は字(アザ)と改称された。そのこともあって現在の沖縄の「…村」は「…ソン」と呼んでいる。以前の村(ムラ)と混同を起こさないためでもある。村(ムラ)と呼ばれてきた行政区が近世初期から明治41年まで長年にわたって使われてきた。そのムラに住む人たちのほとんどが、そのムラで生まれ育ち結婚し、そして人生を閉じていったのが多かった。土地制度(地割)との関わりである。
その環境で培われた習慣や伝統が、明治以降の県政やムラ・シマにおける生活改善などで、その多くが失ってしまった。それでも山原に、まだ生活の一部として息づいている。特に祭祀や神アサギや言葉や生業など。廃藩置県後、130年という歳月が経ている。それでも、山原の人々がムラの歴史や伝統や祭祀、言葉(方言)、あるいは生業、自然などのことを消えることなく今に伝えているのは、伝統や文化と捉えてもいい。集落の発生と切り離せないウタキや神アサギやカー(湧泉)、それだけでなく山原に残る自然(ヤンバルのつく動植物)なども、山原のムラ・シマを見ていくキーワードである。
そこでは、「山原とはなにか?」との答えを出そうとする姿勢ではなく、山原には170のムラ・シマがあり、それぞれの歴史を刻んできたし、170のムラ・シマのもつ多様性を個性として引き出していく作業(記録)が必要である。一言でくくる、あるいは一つの答えを出すことも大事であるが、170のムラ・シマのそれぞれの個性を描き出し、記録していくことが重要である。
ここでの学問は、「山原とは何か」を問う手段であって目的ではない。山原を、そしてムラ・シマが何かをいろんな学問を通して究めていく。また、一つに結論を見つけようではなく、ムラを構成する要素を数多く拾って記録していく作業が大事である。各地で発刊される「字誌」の世界はその例である。
ムラ・シマに生きる70歳以上の方々は、戦前・戦争・戦後の物のない時代、そして昭和30年代かたっていた時代を体験した方々は、過去にいくつか黄金時代があったが、裸足の時代から裸足の時代であった。今の70歳以上の方々は、裸足の時代から宇宙の時代の体験してきた方々であり、そのような三つの時代を経験した方々は過去になかった。
1.山原(やんばる)の歴史的背景
北山の時代/第一、第二監守、今帰仁アオリヤエの時代/その後/伊平屋島との対比
2.風景や生業の変貌