2008年2月の調査記録
沖縄の地域調査研究(もくじ)
新城徳助と新城徳幸の文書史料(2008.02.01) /兼次小4年生の発表会(2008.02.01))/小学3年生の発表会(2008.02.01)/各時代の人口(2008.02.03)/伊江島のヲエカ人(2008.02.05)/伊江島の複数のノロ(2008.02.06)/伊江島の折目(2008.02.06)/伊江島の印部石(2008.02.12)/オーレーウドゥンの二つの位牌(ガーナー)(2008.02.13)/今帰仁按司六世縄祖の位牌と阿応理屋恵(オーレー)(2008.02.13)/今帰仁村指定の文化財(2008.02.15))/平良新助関係の資料(2008.02.16)/ある一門の家譜(2008.02.16)/北山の歴史と文化(2008.02.19)/知念間切の番所(2008.02.20)/村指定の文化財(五件)(2008.02.15)/今帰仁グスクの四基の石燈籠(2008.02.23)/戦後すぐの土地測量に関する「備忘禄」(2008.02.26)/『新参政姓家譜』(大宗)を持つ一門(2008.02.16)/平良新助翁(2008.02.28)/大宜味間切の創設と両惣地頭家(2008.02.29)/大宜味間切と両惣地頭家(2008.02.26)/大宜味按司家(御殿)/大宜見殿内/脇地頭家
新城徳助と新城徳幸の文書史料の確認をする。今帰仁間切親泊村の出身で徳助(1841年生)と徳幸(1869年生)は親子である。徳助は明治の辞令書と「口上覚」(履歴)(16点)、徳幸は明治10年代の卒業証書と辞令書など(16点)である。1990年に公にし、後に寄贈いただいたものである。史・資料を所有されていた新城徳祐氏(故人:徳幸の子)の奥さんから、さらに多くの資料(書籍や写真や拓本、新聞スクラップ・直筆の原稿など)の提供があった。史・資料紹介を兼ねて「新城徳祐氏寄贈資料展―グスク・芸能・ノ-ト類を中心に―企画展(平成10年)を開催した。辞令書や明治の卒業証書や口上覚などの文書史料(32点)に目を通してみる。
▲新城徳助の「口上覚」(明治16年)
▲新城徳助の「今帰仁間切西掟」の辞令書 ▲新城徳幸の「今帰仁間切仮文子」の辞令書
【兼次小4年生の発表会】(2008.02.01)
兼次小4年生が今帰仁グスクでの発表である。この一週間で上手になりしっかり発表してくれました。
【小学3年生の発表会】(2008.02.01)
兼次小の3年生は館内での中間報告でした。5つのグループに分かれて自分達で調べてきた宝物を友達に伝えていく。グスクの桜をみての後でした。
・今泊グループ(コバテイシ・神ハサギ・エーガー・グスク・ワラビ細工など)
・兼次グループ(タンク・ウイヌハー・公民館・兼次バンタ・学校など)
・諸志グループ(ウプガー・二つの神アサギ・公民館・諸志御嶽の植物群落など)
・与那嶺グループ(長浜・貝塚・ユナンガー・安田ガーなど)
・仲尾次グループ(石橋・石切り場・神ハサギ・北山高校など)
【各時代の人口】(2008.02.03)
史料を読み取っていくとき、あるいはその時代を読み取っていく場合、その時代の人口がどの程度だったのかを想定して考えることにしている。それがないと、誇張した解釈になりかねない。『琉球共産村落之研究』(田村浩著:昭和2年発行)に、琉球の人口について触れている。その数字を示すと以下の通りである。
・3、4万人(英祖王代:1260年代)
・11万1千人(1637年:男54,400人、女57,196人 計111,596人)
・20万人(蔡温当時)
・31万540人(明治12年:1879)
・約55万人(大正2年)(沖縄統計書)
明治以前の人口は、そのまま鵜呑みにできる数字ではない。各時代の人口は見当を必要とする。そのままの数字では実態とかけ離れている可能性がある。2倍あるいは3倍にして考えることも必要であろう。
【伊江島のヲエカ人】(2008.02.05)
『琉球国由来記』(1713年)の「諸間切諸島夫地頭□理ヲエカ人之事」の伊江島に、西江大屋子(地頭代)東江大屋子・大城大屋子(三員夫地頭)首里大屋子・大掟・東江掟・西江掟・東江目指・西江目指・大掟(七員赤冠也)謝花掟・上地掟・今帰仁掟・川平掟(四員青冠也)とある。伊江島にない村名の謝花と今帰仁のつく掟がいる。明治13年の伊江島には東江村・西江村・川平村の三つの村が登場し、明治8年に分村し東江上村・東江前村・西江上村・西江前村・川平村の五つの村となる。いずれにしろ、謝花と今帰仁は伊江島では村名として登場しない。本部間切の謝花と今帰仁間切の今帰仁の名の掟が何故置かれたのか。どなたか、そのことについてすでに説明されているかもしれない。
『琉球国由来記』(1713年)で今帰仁間切の謝名村のことを平田村と出てくる事例はいくつかある。謝名の場合の平田村=謝名村の平田は脇地頭の姓である。村との関わり、あるいは脇地頭でありながら村に貢献したことで脇地頭の姓が掟名となったとも考えられる。『琉球国由来記』(1713年)から明治28年まで伊江島に今帰仁掟が置かれ、その辞令書が現存しているのは、興味深いことである(『伊江村史』)(下巻所収)。
伊江島の場合はどうだろうか。首里に住む謝花と今帰仁を名乗る脇地頭が島に貢献して伊江島にない村名の役職が置かれたのだろうか。それとは別の理由があって本部間切と今帰仁間切の村名の掟を置いたのか。その答えは出せなかった。
伊江島の夫地頭の一人に大城大屋子がいる。伊江島に大城村がないが大城地根所火神があり、そこは大城大屋子を出した家なのであろう。村名のない今帰仁掟と謝花掟も同様な理由なのかもしれない。それにしても『琉球国由来記』(1713年)に登場する伊江島の17の火神は、集落(マキヨ・マキ規模クラス)の展開と関わっている。そして「根所」は奄美大島のトネヤと同様なものとみられる。
①エ地ノ根所火神 ②本十三里地根所火神 ③徳十三里地火神
④セド神但大ノロ火神(公儀御祈願所) ⑤東ノロ火神(公儀御祈願所)
⑥佐辺ノロ火神(公儀御祈願所) ⑦佐辺地根所火神(公儀御祈願所)
⑧玉城知根所火神 ⑨中ノロ火神(公儀御祈願所) ⑩前スカ地根所火神
⑪島中地根所火神 ⑫仲村渠地根所火神 ⑬大水ノロ火神(公儀御祈願所)
⑭伊是名大水地根所火神 ⑮セマタ地根所火神 ⑯大城地根所火神 ⑰石那覇ノ火神
伊江島の原石の採拓とノロについての調査をする。伊江島に渡る前に少し予備知識を持つことにする。伊江島にある謝花掟と今帰仁掟は気になる。
▲伊江島今帰仁掟の辞令書(明治28年)
【伊江島の複数のノロ】(2008.02.06)
伊江島には伊江大ノロのもとに仲ノロ・大水ノロ・東ノロ・佐辺ノロなど複数のノロがいる。
【伊江島の折目】
伊江島の旧7月に日を選んで行われる大折目がある。根所火神の前にノロ・掟神が参加し、オタカベを唄い、朝から晩まで根所を廻り、一日中遊ぶ。百姓も同じように遊ぶ。二日目の折目はマイスカミヤという根所へ、ノロ・掟神が揃い、神遊びをするのに一石につき粟一勺、干魚二匁づつ取り合わせ、粟神酒を作り、ノロ・掟神に御馳走をする。島中の男女、そして惣様も揃って拝みをして一日遊ぶ。三日目の折目は、根所、宮里庭・城の庭の両所でノロ・掟神が揃って神遊びをし、そのとき高一石に付き、粟一勺、干魚二匁づつ取り合わせ、粟神酒を作り御馳走をする。
『琉球国由来記』(1713年)にある伊江島の折目を祭祀の流れで見ていくと興味深いことがわかりそうである。今帰仁グスクで行われる三日間の祭祀(大折目:海神祭)と共通する場面があり比較してみると面白い。
「伊江島のノロ」や伊江ノロ殿内については伊江島を訪ね、調査をしてからまとめることにする。
【伊江島の印部石】(2008.02.12)
「山山民俗資料館」(私設)に立ち寄る。資料の収集や展示など学ぶことが多い。その中に「つ なみさと原」の印部土手(原石:ドゥティグヮー)が一基展示されている。島村家には6基ある(一基は砥石に使われたため文字は見えず)。実測と採拓の予定であったが、別の要件がはいり時間切れとなる。
伊江島ゆきは、伊江島の今帰仁掟・謝花掟・上地掟、それと「伊江島と伊江殿内(伊江按司)」との関わり、その影響についての調査である。そのテーマは今帰仁間切と首里に住む今帰仁御殿内(後の具志川御殿内:今帰仁按司)の関係と近いのかもしれない。
原石(印部石)は1744年に行われた時に設置され、「元文検地」の時、「畠・山野針竿帳」(六冊)、畠方竿入帳(三冊)などが1749年に出来上がったという(『伊江村史:伊是名・永山メモ』)。
・つ なみさと原 (現在の原に並里と北並里あり)(山山民俗資料館)
・の つなたう原 (西江上にある津那堂池があり一帯か)(島村家)
・ま な加□□ (現在のナガラ原か。□部は不明)(島村家)
・こ はまさき原 (現在の原に浜崎原あり)(島村家)
・リ こはま原 (現在の原に小浜原あり)(島村家)
・こ つな□う□ (西江上にある津那堂池付近か:□部分は不明)(島村家)
・□ □□□ (全文字不明)(島村家)
▲つ なみさと原 ▲の つなたう原 ▲ま な加□□
▲こ はまさき原 ▲リ こはま原? ▲こ つな□う□
【オーレーウドゥンの二つの位牌(ガーナー)】(2008.02.13)
今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)に二つの古い位牌(ガーナー)がある。その一つは六世縄祖の位牌である(表に「帰一瑞峯須祥大禅定門」、裏に「順治十五年戊戌六月二十九日去」と線彫されている)。何故、今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にその位牌あるのか。そして銘のないもう一つのガーナー位牌は次男の従宣(阿応理屋恵按司(童名思武太金)の夫)のものか。あるいは、五世克祉の次男縄武も阿応理屋恵按司(童名思乙金)を妻にしているので縄武の位牌の可能性もある。
そこに長男の縄祖の位牌がある例からすると五世克祉の位牌があってもおかしくはない。次男の縄武も阿応理屋恵按司を娶っている。もっとあった古いタイプのガーナー位牌が二つのみ残ったのかもしれない。『向氏家譜(具志川家)』(那覇市史家譜資料(三)首里系)の記録を手掛かりに読みとることができればと考えている。
【今帰仁按司六世縄祖の位牌と阿応理屋恵(オーレー)】(2008.02.13)
六世縄祖今帰仁按司の童名は松金、名乗は朝經、号は瑞峯である。万暦29年(1601)に生まれ順治15年(1658)6月29日に亡くなる。58歳であった。縄祖の父は克祉(五世:薩摩の琉球侵攻のとき死亡)、母は向氏の真鍋樽、室(妻)は向氏宇志掛按司。(勛庸や妥地、俸禄などがあるが略) 婚嫁のところで次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の女阿応理屋恵按司(童名思武太金)を娶っている。
五世克祉今帰仁按司童名真市金、名乗朝容、号宗清である。万暦10年(1609)3月28日に28歳でなくなる(薩摩軍の今帰仁入りの時)。その長男縄祖の位牌が阿応理屋恵(オーレー)にあるので、克祉の位牌の可能性もある。それまた、縄祖の次男同様克祉の次男縄武も中宗根親雲上の女(娘)の童名真比樽(阿応理屋恵按司)を娶っている。
他の位牌が置かれる事例を合わせみる必要がある。ここでは触れないが、大北墓の五世、六世、それと四名のアオリヤエ(オーレー)との関係も言及できそうである。
▲六世縄祖(瑞峯)の位牌 ▲死去日が線彫されている
▲古いタイプのガーナー位牌(無銘)
【今帰仁村指定の文化財】(2008.02.15)
このほど今帰仁村指定の文化財として五件(計168点)が指定されました。指定にあたり歴史文化センターで展示公開し、2月23日(土:14:00~16:00)にはギャラリートークを開催致する。資料にまつわる話や図(地図)の移り変わりや読み取れる話を南島文化研究所の崎浜靖専任研究員と歴史文化センターの館長の仲原が行う。100点余の資料を一堂に展示公開をする。
・仲村源正宛辞令書及び関連資料(101点)
・新城徳助・徳幸宛辞令書及び関連資料(33点)
・諸喜田福保宛辞令書及び関連資料(2点)
・国頭郡今帰仁間切各村全図及び字図(24点)
・平敷村略図及び今帰仁間切平敷村字図(8点)
【平良新助関係の資料】(2008.02.16)
「平良新助」関係の資料をあける。手紙や氏の新聞スクラップ、琉歌などである。平良新助のヒヤミカチ節(作詞)を手掛かりとした番組を制作するようだ。移民や自由民権運動とも関わった人物である。スケールのでかい人物である。平良新助翁についての記憶やエピソードは幼い頃直に体験している。
【ある一門の家譜】(2008.02.16)
ある一門の家譜と日記(古文書)を紐解いている。新参家譜なので記事は非常に少ない。系図を辿ることで事は済む。その一門が持っている日記は、一門が拝む場所と祖先の伝来を伝えている。一門の名誉ばん回できる内容なので了解をいただいて公にすることに。一門と関わるノロ関係の文書も残っている。山原に寄留した後(明治)の資料もあるので整理にかかる。
▲新参政世系図の表紙
▲一門の日記の一部 ▲一門と関わるノロ関係文書
【北山の歴史と文化】(2008.02.19)
日々忙しくしている地域史や沖博協のみなさん、今帰仁グスクの桜は終わりに近づいていますが、今週の土曜日までは一、二本咲いています。桜は見れなくても、このたび今帰仁村指定にした文化財の古文書や近世から近代にかけての図(地図)が見れます。桜以上に輝いて見えるはずです。地域史や学芸員の方々にとっては。また、史料にまつわる話も聴くことができます。
なかなか山原(北山)に足を運ぶことのない中山・南山の方々、今帰仁グスクの桜見(葉桜ですが)を口実に、また息抜きにぜひどうぞ。とり急ぎのコマーシャルです!
今帰仁城跡調査研究整備委員会に出席する。今年度と次年度の整備(特に外郭)についての会議である。現場踏査、これまで発掘された現場での説明をうける。会場を移し、事務方の説明、そして意見を出し合い、これからの整備の方向性を確認する会議である。整備状況や発掘現場での説明は興味深いものがある。
▲志慶真郭での説明 ▲志慶真郭への下り道の整備状況説明
▲外郭の発掘現場での説明
【知念間切の番所】(2008.02.20)
『球陽』の尚穆王10年(1760)の条に「知念郡 番所を遷す」とある。
本年(1760)7月23日、本省検者、総地頭、聞得大君御殿大親等に同じうし、
題請して本省の城内地勢尤勝なり。乞ふその番所を城内に還すを准すんせん
ことを。王之れを允す。
1760年に知念間切の知念村(ムラ)から知念グスク内に番所を移したという。「…等に同じうし」とあるのは検者や総地頭、そして聞得大君御殿がすでにグスク内にあり、そこに番所を移すことが許されたということなのであろう。以前、番所のみ触れたが、全文を通して見ると、1760年に知念番所が知念グスクに移る前から検者や総地頭や聞得大君の殿があり、場所がいいので番所もそこに移ってきたということであろう(総地頭や聞得大君が、そこに常に住んでいたわけではない。首里に居住)。
知念グスク内にいくつもの拝所があり、その中に火神が祀られている。検者や総地頭や聞得大君の火神の可能性がある。まだ特定していないが、久高島に向かって遥拝しているのが聞得大君の拝所、セメントの建物の火神は地頭代火神(そこに番所があった)。首里に向いているのは総地頭火神と推定できるが、そこでの祭祀をみないと特定しがたい。
それと『琉球国由来記』(1713年)の「知念城内之殿は「御殿前之庭に席を設ける」とあるので、知念城殿もグスク内にある。その時には番所はまだグスク内に移動していない時代である。
そこでは、首里に住む聞得大君と総地頭、そして後に移動してきた間切番所、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる知念里主所火神、地念城御殿、知念城内之殿などと現在の拝所、それと首里に住む総地頭や聞得大君と知念間切との関係はどうだったのか。五代目の聞得大君が知念間切の惣地頭職に任命される(「女官御双紙」)。知念間切は聞得大君の地頭地となる。知行高は代によって異なるが、200石~500石が与えられている。十一代目の尚敬王の二女(向氏伊江王子朝倚室)で乾隆49年4月29日の辞令書がある。それによると「聞得大君並知念惣地頭」の知行高は200石である(「向氏伊江譜」(伊江家)。
【村指定の文化財(五件)】(2008.02.22)
「村指定の文化財」(五件)の解説会を開催します。文化財係の頑張りがあっての村指定です。資料の紹介を兼ねて展示をします。ここに展示の様子を画像でお見せしますが、資料は直にご覧になった方が読み込みもでき面白いです。東京から来られた方は、新聞で知りわざわざ立ち寄って、深くしっかりと読み取って行かれました(修復したものの大半を展示)。
【今帰仁グスクの四基の石燈籠】(2008.02.23)
今帰仁グスク内の火神の祠の前に四基の石灯篭がある。「奉寄進 石燈爐」「今帰仁王子朝忠」「乾隆十四年己已仲秋吉日」と、摩耗しているが辛うじて読み取ることができる。乾隆14年は1749年で今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世の宣謨(1702~1787年)のことである。宣謨が王子になったのは乾隆12年(1743)である。その時、薩州(薩摩)へ使者として赴いている。詳細について触れないが、これら石燈爐の二年後の建立は薩州へ赴き無事帰ってきたことと無縁ではなかろう。それと下記の「覚」の「城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある」ともある。
『具志川家家譜』(那覇市史 家譜資料首里系)に、次のような「覚」書きがある。そこには、今帰仁グスクを関わる重要なことがいくつも記されている。
・此節御支配…元文検地のこと(今帰仁グスクは乾隆7年(1742)に行われる)
・尚巴志王の時落城する。
・国頭方は險阻で殊さら難しい所である。
・権威のある人物を派遣して守らせる。
・尚真王の時、今帰仁王子(一世の尚韶威)が鎮守する。
・今帰仁グスク内に住み六代まで相続し勤める。
・今帰仁村と志慶真村は城の近方にあったが場所がよくないので敷き替えをする。
・そのため村が遠くなったので城の住居は不自由となる。
・高祖父?の時代今帰仁村へ引っ越す。
・城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行
う仕事がある。
・宗仁以来十代までやってきたが、この節所中(間切)に渡したならば後年旧跡は廃れて
しまう。
・それは黙止することはできない。
・そのようなことで、城囲内は子孫へ永代御願地にして下さるよう願いでて許される。
覚
今帰仁城之儀、此節御支配ニ付而間切江被下候旨承知仕候、然者今帰仁城之儀
尚巴志王御代致落城候得共、国頭方險阻殊六ケ敷所ニ而
尚真様御代元祖今帰仁王子宗仁右為鎮守奉
命、今帰仁城内江被詰居、高祖父迄六代右之勤致相続候、然処今帰仁村志慶真村之儀、
城近方ニ有之候処、場所能無之故、當村江致敷替候ニ付而、村遠相成城之住居不自由
有之候之処、
● (工事中)
【戦後すぐの土地測量に関する「備忘禄」】(2008.02.26)
戦後すぐの土地測量に関する「備忘録」(仲里:1947年)がある。仲里朝睦氏が今帰仁村崎山に住んでいた時にコピーさせてもらった資料である(後に糸満市に移り住み、『風水卜易関係資料』としてマイクロ化されている)。
戦後すぐの土地測量についてのメモである。仲里氏(朝睦氏ではない。土地所有委員を務めたのは仲里源五郎氏か)は土地をどのように測量したのか。昭和22年当時の測量状況が把握できるメモ書きである。
「備忘禄」(1947年:仲里)
土地所有委員出席 1月28日 1月29日
食糧調製会 1月25日役場、26日字、27日事務
1月28日
図面作製準備品 間縄 60k、30k、15k
ポール 2k 1.5k 1k
図紙台 2尺×4尺
縮尺 1200分の1 5厘1間
巻尺
鉢ニ三本
簡易測量
1.前進法
2.光線法
3.オブセット法
平坦部 内則法 外則法
製図(図省略)
凡例 郡界 町村界 字界 小字界 図根点 道路 河川 溝渠
求積 三角形 梯形 普通面積計算
調査員
一、各大字ハ小字及各地図ノ調査ヲナシ置イテ、各小字ノ境界ヲ明ニ入スル
一、地主ヲシテ立札ヲセシメル事
一、境界争ヒノ分ヲ明瞭ナラシメル事
写
所有者住所氏名
一、指名ハ近親者ヨリトシ所有明記シ代理人続柄氏名 印
一、未青年ハ名記セヌコト
父母ニ記入スル事無キ場合ハ後見人ト名記スル事
一、共有地(字有地トシテ)名記村長ニスル事
摘要ノ件
一、現況ヲ書ク事
◎軍要地、公用地、道路
名称ト坪数ヲ書ク事
◎保証人
一、交換ニハ保証人出来ズ
一、或ル土地ニ対シ立証不可能ノ場合ハ字ノ委員会カラ二人ニスル事
◎図 面
一、千二百分ノ一 五厘一間ノ事
一、各地目毎ニ等級別
◎地積筆数
一、字委員 委員長ヲ定メル事
一、地目ガ同人ノ土地多数連続シタル時申請ハ一綴ニシテ申請スル事
但シ図面ハ一括ニシヨロシイ
◎田畑原野
一、同一等級ナラバ一筆シテヨロシイ
一、字境界小字境界ハ変更セヌ事
一、地番ハ字ヲ単位ニシ地目毎ニ附ス事(通番号)
一、部落カラスル事
一、地番ガ漏レタ場合ハ官有地取上ケナルカラ注意スル事
◎有祖地、無祖地
一、有祖地
田畑、宅地、塩田、池沼、共同井戸、山林、原野、雑種地
◎無祖地(公用地、墓地、公共用地、道路)
一、戦□地通ズル新道路ハ何坪、地目、何坪トシ道坪ハ摘要ニ入レル事
一、保安林ハ別ニ申請スル事
一、拝所ハ(字有ハ字名ニ入)右管理者村長某
一、戦前の地目デ変更手続未済ノモノ其地目ハ差□ナシ
一、地目ハ前通リ申請スル事
◎地 積
一、坪ハ六尺四方ノ事
一、坪未満ハ記入セヌ事 但シ、端ノ事
一、坪デ単位スルコト
◎等 級
一、等級ハ各人申請セズ委員会決定申請ノ事
一、等級ハ地価ニシ一筆毎附スル事
◎程 度
一、田畑五等迄デトス 其他二等迄デトス
一、等級ハ字単位ニスル事
▲昭和22年に作製された地堰図の一部
【『新参政姓家譜』(大宗)を持つ一門】(2008.02.27)
『新参政姓家譜』(大宗)を持つ一門の勉強会である。この『新参政姓家譜』を中心に、今帰仁村に住む一門についてである。また、一門と関わる玉城ノロクモイ(ノロ)について話題が及ぶ。手持ち資料は『新参政姓家譜』(写真)と「昔神代拝所日記玉城区平良門中」と「玉城村ノロカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(写真)である。写真から読みおこす作業をする。写真版なのでつながりに不安がある。一門の関心の一つは「新参」となった理由である。そのことは『家譜』の中の「覚写」に以下のように記してある。
尚泰王世代
同治十二年癸酉六月十二日陞新参士籍褒書記于左焉
覚 写
新家譜 泊村
平良筑登之親雲上
右者中城御殿御普請料為御加勢
銭百萬貫文差上度願出殊勝之心入一稜之
御奉公候間為御褒美右通被成下子孫江茂
相続被仰付被下度奉存候事
以上
酉六月十二日
泊村の平良筑登之親雲上が中城御殿の普請の加勢で百万貫文の銭を差しあげ、その褒美として新家譜を賜り、子孫へも相続させて下さるよう願い出て賜ったものである。中城御殿は琉球国王の世子中城王子が政務を執った。1873年首里高校にあった敷地から旧県博物館敷地(琉譚池の北側)へ移転している。平良筑之親雲上が寄付したのは同治12年(1873)であるので、中城御殿の移転に伴う普請への寄付であったとみられる。コーイサムレーとさげすみで見られる場合があるが、「新参家譜」を賜るにはそれなりの貢献があったことがしれる。平良筑登之親雲上が何故、百万貫文もの銭を寄付できたのか。泊村から何故今帰仁にやってきたのか。読谷山間切でのフェーレーだったのか(フェーレーをした方ではなくやっつけた方)。など、たくさんの質問あり。二時間余の山もりの勉強会となりました。
▲『新参政姓家譜』を賜った理由を記した「覚写」部分
【平良新助翁】(2008.02.28)
今帰仁村出身の平良新助翁のテレビ番組取材がはいる。平良新助翁は明治9年生まれ。中学時代謝花昇や当山久三と関わり、民権運動に奔走した人物である。明治34年にハワイ移民となり、同37年にサンフランシスコへ渡米する。さらにインペリアル・クロレー市。昭和15年にロサンゼルスへ移りホテルを経営する。昭和17年に戦争のためヒラの収用所に三年間抑留される。
昭和28年に帰郷し昭和45年94歳で他界される。記憶にあるのは昭和30年代の頃である。黒島直太氏からの聞き取り、平良新助資料と生誕地と戦後住んでいた屋敷跡がある。80歳になって壮大な構想をもって乙羽山まで登っている。そういう機会でないと資料を開くことがない(今回は、新助資料に目を通す時間にする)。
▲平良新助資料(手紙類) ▲平良新助資料
【大宜味間切の創設と両惣地頭家】(2008.02.29)
大宜味間切は1673年に国頭間切から11カ村、羽地間切から2カ村を分割して創設された間切である。当初、田港間切で番所は田港村に置かれたという。後に大宜味間切と呼ばれ、その頃に番所も大宜味村(ムラ)に移したようである。移された年は不明だが、番所はさらに塩屋村に移している。1731年の『琉球国由来記』では駅(番所)は大宜味邑(村)であるが、『大宜味村史』(通史編)に「1760年(乾隆25)に作成された大宜味間切の絵図には、塩屋村に移転していた」とある。
大宜味間切と首里に住む地頭家との関わりがどのようなものだったのか整理してみる。『大宜味村史』(通史編)にまとめられているので参照する。それらのことを踏まえて大宜味間切から首里に住む地頭家をみると、地頭家と間切とは切り離せない密接な関係にあることがわかる。
【大宜味間切と両惣地頭家】
・新設された田港間切は摂政羽地王子朝秀(向象賢)と国頭殿内の当主屋嘉比親雲上朝隆
朝茲に与えられる。
・羽地王子朝秀が亡くなると羽地家は田港間切の地頭職をめしあげられる。
・1682年に北谷按司朝隆が按司地頭職を賜る。その時に田港間切→大宜味間切へ?(番所も)
・1695年に屋嘉比村が国頭間切へ。
・1719年に国頭間切だった屋嘉比村と親田村と見里村が大宜味間切へ。
・1796年(嘉慶1)大宜見王子朝規 謝恩使(尚温襲封)で江戸り(江戸立)。
・按司地頭家は大宜味御殿、親方地頭家は大宜見殿内。
・地頭は王府から家禄が与えられる(知行米)と間切の地頭地からの作得米を取得する。
・中には知行仕明請地として強制的に耕作させて一定の米を取得するのもいた。
・御殿や殿内は盆や正月や祝いのときなど、魚・肉・猪・薪・墨などを間切から調達した。
・領地の間切から奉公人(悴者)がおくられた。
・奉公人は地頭代の推薦で行われ間切役人層やノロ家の子弟。(御殿奉公・殿内奉公)
・殿内や御殿奉公は間切から見ると誇りであり、間切役人へのエリートコースである。
・役人層は競って子弟を首里奉公させた。
・羽地朝秀の頃、按司家13人、総地頭家12人、脇地頭家5人と制限する(実際は守られ
ていないという)。
・明治12年頃の大宜見御殿、殿内の奉公人は総勢60人に達していた。
・奉公人は御殿・殿内で間切役人となる筆算や読書などを学び、また首里・那覇での見聞
や文物を間切へ伝える役割を果たしている。
・1736年頃の大宜味間切の地頭作得地は田地の計1,167反の内405反(約35%)、畑地の
計327反の内地頭作得地は94反(約29%)である。
・大宜味按司と惣地頭は城村の城巫火神、喜如嘉村の神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球
国由来記』)。
・大宜味按司は屋古前田村の田湊巫火神での祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・喜如嘉脇地頭は城巫火神・喜如嘉神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・根路銘脇地頭は田港巫火神の祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・津波脇地頭は津波村神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・根謝銘(上)グスクへの登り口にあるトゥンチニーズ(殿内根所火神)とウドゥンニー
ズ(御殿根所火神)は大宜味按司の御殿、惣地頭の殿地か。それとも田港間切創設以前
の国頭按司と惣地頭のものか。
【大宜味按司家】(御殿)
田港間切(後に大宜味間切)の按司地頭職であった羽地朝秀(向象賢)が亡くなると、羽地家は田港間切は削減され、羽地間切のみの領地を世襲する。羽地家を継いだのが北谷家の系統。1679年から四代按司地頭職を継承した。その一族は北谷や大宜味姓を名乗っているようである。御殿は羽地家→北谷家→大宜見家と引き継がれていく。
北谷家の後を継いだのは大宜見御殿の一族で七代にわたって世襲したという。
【大宜見殿内】
大宜味間切の総地頭職を継いだのは間切創設当時から明治12年の廃藩置県まで、代々大宜見殿内の一族が世襲する。初代の屋嘉比親雲上朝茲は国頭間切は総地頭職であったが、田港(大宜味)間切の創設で大宜味間切の総地頭職となる。
【脇地頭家】
脇地頭は村を領有する。大宜味間切の脇地頭は津波脇地頭・田港脇地頭・根路銘(慶世村)脇地頭・喜如嘉脇地頭の四名である。脇地頭は首里に住むが、中には村に住み地頭作得地を耕すのもいる。