2002年9月            地域調査研究(もくじへ)         


2002.9.1(

 9月になると、気分として夏から開放された感じがする。しかし学芸員実習が続いているので、その緊張が続いている。大分疲れて来ているかな?
 さて、これから展示が一日一日大きく変わっていく。現物の展示物が搬入されていく。今日は、これからどんどん展示が展開していくので、変わる前の状態を確認。午後から厨子甕を洗う作業を行った。おじいやおばあ達が、きっと喜んでいるでしょう。若者達にゴシゴシ背中を流してもらって。
 厨子甕はいろいろあって無頸(ボージャー)・有頸・御殿型厨子甕などいろいろある。また銘書(メーガチ)のあるもの、ないもの。


            
一日の終わりの報告会です。


2002.9.4(水)

 古宇利島の海神祭(ウンジャミ)の調査を予定していたが、台風の接近で島に渡ることができず断念。それで今帰仁グスクで行われる海神祭へ参加することになった。昨日の様子を伺ってみたら神人(ノロ)と区長・書記の三名であった。
 ・一日目(旧盆明けの戌の日)
 ・二日目(旧盆明けの亥の日)ウンジャミ
 ・三日目(旧盆明けの子の日)シマウイミ(午後四時からシニグ?)

 今日は午後二時から今泊の海神祭に参加する予定だが、台風の動きはどうだろうか。
 午後2時学生達を今帰仁グスク(歴文から3分)へ行ってもらった。今朝区長さんから予定通り行うという連絡をいただいていた。ところが、風と雨が強くなり、ウンジャミは公民館で行うことになった。そのため実習生達は引き揚げ、帰宅させることにした。二箇所の宿泊場所は大丈夫でしょう。山荘の方は、台風対策であちこちゆわえてきたので一先ず安心。集落内の家は福木が防風林の役割を果たしているのでよっぽどのことがない限り大丈夫。

 今泊、古宇利は台風が接近しても祭祀を行った。これまで長年つづいてきた祭祀を、すくなくとも日にちをづらすことなく行おうとする姿勢は命をかけても・・・・という感じがする。神人たちの祈りは、ムラ・シマの豊作・豊漁やムラの繁盛、そして航海安全という公に対してである。今回の海神祭は、台風という状況の中でも行った。そのことは祭祀の意義を国(くに)という枠を外したところで、あるいはムラ・シマという社会の中でもっと深く考える必要がありそうだ。

 昨日はヤガンナ島に渡る。午前10時頃の干潮時にあわせての上陸。潮の引きがよく靴を脱がず渡ることができた。四グループに分けての現場踏査である。小さい島のようであるが、結構大きいなとの印象。道筋が数箇所の小さな半島と六ヶ所の浜がある。学生達は気に入った浜にチヒロ浜やアヤコ浜などと命名。
 大き目の亀甲墓、破風型の墓、掘り込みなど。掘り込みの墓が目立つ。最上部は比較的低く、中腹部分にしっかりした亀甲墓や破風型の墓がいくつかある。これまで確認できたのにサンゴ石を積み重ねた墓があった。島は砂岩で、表面はかさぶたのように硬く、内部は比較的柔らかいそうだ。いくつか特徴を見出すことができるが、企画展で報告の予定。墓の方向はバラバラといった印象。墓を作った一人ひとりに風水を合わせたのであろう。1基の墓はヤガンナの近くにある小島に軸線を当ててある。風水をあてる島なのかもしれない。一般的には頂上部分や谷間の一番低いところを避けている。見た目に少しずらしたら頂上にあたりすっきりするのにと勝手に思ったりする。そのずれが風水を当てた墓だとわかる。
 墓の方向は企画品でなく、11基が独立した墓の方向を持ち、個性ゆたかである。墓は個人主義を主張しているようだ。


2002.9.6(金)

 台風がまともにやってきました。学生達は元気です。宿泊先も潰れることなく。ご安心を。

 四日の晩から台風のため停電。夕方6時にやっと回復しました。学芸員実習は三日間、展示作業に手がつけられませんでした。他の資料館などを造る立場から見てもらいました。今日は海洋博の沖縄村と海洋文化館でした。先日は国頭村奥の資料館でした。帰り際、国頭村の安田と与那の間でヤンバルクイナと遭遇しました。「いい出会いでした」と学生の弁。

 四時から実習の総まとめ。一人ひとりの報告は明日にでも。
これから、最後のお別れ会だそうです。行ってきます。とり急ぎ。


2002.9.7(土)

 午前中は大北墓の展示作業に入っている。今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司とその一族の墓である。1500年初頭から1665年かけて今帰仁(北山)の歴史の主役を担った方々とその一族の墓である。

 運天の百按司(ムムジャナ)墓の第二墓所にあった家型の屋根部分を組み立ててみた。二枚の板と材木として使おうとして切断された板をつないでみた。うまくつながった。一枚の板を三枚、あるいは四枚に切断したものである。表面はカンナがかけられているが、それは切断したときのものである。一枚は破風部分の板である(内部に置いてある板)。ノミで彫られた穴やはめ込む凹などがある。家型の全体の形を復元するには材料が不足している。現在残っている百按司墓の第三墓所の家型から復元できる可能性がある。木材は一般的にザフンと言われている。
    ・屋根部分の上 長さ314cm 幅28から31cm 厚み5cm
    ・屋根部分の下 長さ315cm 幅32から37cm 厚み5cm
    

          
運天の百按司墓の第二墓所にあった家型の墓の材木
  
 今朝8名の学生達が学芸員実習を終えて歴文を去っていった。正直言って大変な実習だった。台風という自然の大きな力にはかないませんね。「ハプニングや苦労した旅や経験が印象に残るのですよ」と一言。

 早速残った三名(与那嶺・安田・チヒロ)が、もくもくと展示作業をしている。広島のメンバーが抜けたので気が抜けているようだ。明日が最終日だ。もう少し、展示を進めることにしよう。最後まで立ち会えず残念だね。広島のメンバーは。逐次、画像で報告しましょうかね。

 新聞社から「仲原馬場の松」についてコメント取材があった。200年の年輪を重ねた松が横風で倒れるのは寿命もあるでしょう。これだけの樹齢の老松の枝ぶりに感動する。そこで学ぶべきことは、先人達が100年あるいは200年先の人たちへの贈り物として植樹したことであろう(?)。そうと理解したいものである。「支えをしておけばよかったのに!」の文化財保護の声も聞こえるが、「若い松の木を植えよう。100年200年の人たちに向けて」の方が賢明だと思う。4050年では、いい枝ぶりを見せるのだから。台風が作物や文化財などを容赦なくなぎ倒していく恐ろしさを知らしめたいのであろうが。

 
      
 台風16号で倒れた仲原馬場の松(2本)


2002.9.8
  
 
午前中、展示に関わる墓の確認へ。池城墓(平敷)・大主墓(平敷)・百按司墓(運天)へ。これまで展示パネルでしか知らなかった墓の現場踏査である。規模・場所・外観・墓室内など、現場で見ることの大切さを知ったようだ。そして、これまで手作業で作ってきたパネルや台や説明文やキャプションなどを使っての作業へと進んだ。自分達が作ったのが、展示されるのだという興奮を覚えるようだ。今日は展示の面白さを実感できた一日だったようだ。
 具体的に展示したのは昨日の続きではあるが、大北墓と運天の百按司墓(第二墓所)である。百按司墓の第二墓所は木で組まれた建物が現存しているので組み立てのモデルになった。屋根板の組み方や破風部分がどのように組まれているが知ることができる。内部には壊れた木棺(材木でできた厨子甕)が散在していた。
 学生達の学芸員実習は今日が最終日であった。積み残しがいっぱいあるが、職員との関わりで学芸員の業務の大変さ、そして楽しさを存分体験できたと一人ひとりの言葉から察することができた。

 
      
しだいに展示が本格的になってきました(与那嶺・チヒロ・安田の三君)

 今日調査した運天の百按司墓の一部である。訪れるたびに多くのことを学ばせてもらっている。感謝ですね(詳細な報告は別にする予定)。まだまだ未知の部分だらけであるが、それぞれの墓に葬られた方々や厨子甕や木棺などを通して時代を見ていく作業は厳しいものがある。しかし、解き明かされることなく葬り去られていくことへの警鐘。今回の企画展は墓を歴史的な視点で見ていくこと。さらに身近なテーマとしてもっともっと研究を深めていくことの大事さを教えてくれる。

 
      
運天の百按司墓(第四墓所)(左)と第三墓所(右)の内部の様子


2002.9.10(火)
 

企画展のスタートが一週間後にずれ込んでしまった。台風のお陰で。一つ一つの墓の素性がわかってくると、次第に嬉しくなってくる。そうならないと展示していくのに苦労しそう。当初は距離を置き遠くから眺めていたのが、近づき銘書を読み、どなたがはいていたのかをしると親しくなっていくのがよくわかる。関わるものがどれだけ親しく丁寧に付き合っていくか。そこが大事だと実感。展示していく墓に慣れ親しんでいくもの(職員)にとって、墓や後生の世がどんな世界なのか未知なのであるがほのぼのとした世界があるにちがいない。あって欲しいとの願望がある。だからこそ墓の展示をしていこうと思う。

 もちろん、銘書や厨子甕や墓などから琉球国時代の人々の世界観やあの世に向かう姿勢や送り出す現世の人々の思いなどを拾ってみたい。しばらくお墓との付き合いが続く。いい付き合いで行きたいものだ。(どこかの島の議論にならないよう、細心の注意も必要)

 見に来られる方々がどう反応するか。それは大きな問題だとの議論。さわやかに入って、さわやかに帰す。墓のイメージががらりと変わる。その工夫が必要だとの大方の意見。

 今帰仁の墓には感謝せねば! 今帰仁研究の初期の頃、百按司墓や池城墓、そして大北墓がスタートだったことが思い出される。角川の沖縄県地名辞典のそれらの墓を執筆したことを思い出している。20年前になるかな?過去の墓との関わりを思い出すと、今回の墓をテーマにした企画展は20年前より数歩も踏み込んだ中身になるにちがいない。そんな思いにふけながら作業をしているのだ(感謝)。


2002.9.11(水)
 

 午前中、K出版社の取材があった。琉球の12,13世紀の歴史をはじめグスクについてであった。二時間ばかり。ここで書き記すのはよそうと。

 これまで調査に関わった墓の展示にはいている。10年前のものがほとんど。当時の墓調査は、遠くで眺めていたようなものだ。そのため記憶を呼び起こすのに四苦八苦だな。いつの間にか、墓調査となると銘書読みや撮影など中心的な役割を担うようになっている。時々、「われは見学者なのだ」と自分に言い聞かせているが、いつの間にか墓の所有者と相談しながら事を進めている。
 それぞれの墓に思い出がありますね。

 広島に帰っていった学生達も展示の進捗状況が気になるようだ。ニ、三人からお礼のメールいただいています。サンキュ。あなたの分、展示残しておきますからね。
 
 今日は展示室にこもりきりといった感じ。それには理由がある。もちろん作業の遅れもあるが、それはいつものことなので心配はしていない。もっとも基本的なことを忘れかけていた。「戴いた資料は返す」ということ。文書資料や写真などもそうであるが墓の情報もそうである。ここ十年余り墓調査をしてきたし、墓の内部の情報を数多く提供いただいた。いくつか公にして返してきたが、その多くがまだなのだ。今回の展示で幾分返すことができそうだ。もちろん詳細な報告は「なきじん研究」にいずれ納めたい。

 夕方から数件の墓にはまり、解説をかきパネルをつくり、そして展示をしてみた。一軒一軒の墓が絵になっていく。さらにスポットライト浴びた墓が喜ぶ様は見事である。展示を作り出していく過程で何度か山場がある。「あっ、いけるぞ」と手ごたえを感じることができた日でもあった。意外と早かったな。
 画像で全体を見せることは、まだしません。明日は一部紹介する予定。とにかく戴いた資料は返す、それが歴文の基本なり。


2002.9.12(木)

 古い墓の分布図の展示とあいなった。今帰仁村全体図は学生達に手伝ってもらったもの。それに墓の分布とガンヤー、さらに「島別れ」のポイントを落としていく作業が残っている。
 古い墓の分布をみると、海岸・河沿い・集落周辺の森など、言ってみれば不便な場所に墓を作っている。いくつか理由があるのであろう。その一つに首里王府の墓制限の達(タッシ)がある。平坦地にはダメで、畑に利用できない場所にということであろう。
 集落から離れた場所に造るということ。それは・・・・

 ふい掟が、こっそり下見にきて「おお、大掛かりだな・・・」と一言。古宇利島の古い墓の分布、ガンヤーの情報もらいました。ありがとうございます。タコの差し入れでもあれば、もっと展示スペースとってあげるのに!



 ああ、眠たい。疲れました。ボツボツ企画展の問い合わせが来ています。急げ、急げですが、遅々と進まず。あせっているのは回りの方々。チラシは明日?(今日か)仕上がり。どうにかチラシの案を作ってみました。冷まして、もう一度検討するなり。キャプションとリード原稿を入れて・・・。ではでは、お休みなさい。頭が回転しません。こくりこくりじゃ。


2002.9.14(土)

 午前中はムラ・シマ講座。詳しくは「ムラ・シマ講座」のページをご覧ください。うし丸さんが報告してあります。9月中旬になっているが、日差しは針を刺すような暑さと言おうか痛さと言おうか。運天森から運天のムラウチ集落がよく見えた。台風のお陰で枯葉だけでなく青葉もきれいに吹き飛ばしてあったので、枝の間から集落が見えた。大型の台風でびくともしていない木は福木でした。葉っぱ一枚も吹き飛ばされていないといった感じ。他の木々は枝が折れ葉がなく痛々しいのだが。先人達が家の周りの防風林に福木を植えたことに納得。運天の番所跡地に残っている大木の福木、そして向こう側の屋敷の福木が台風の直後だというのに見事。蚊が多く、虫除けの殺虫剤をまいたので頭が皆さんポワーン?
 歴史の難しさを実感したような講座でしたな!!

 
       
百按司墓で                    大北墓で
 

 
展示作業は大分進んでいますが、オープンするにはもう少しお待ちを!
最後の仕上げはそう簡単ではありませぬ。普段は作業風景も来館者にあるところまで見せているが、ある段階から見せません(企業秘密?)。今はシャットアウト中です。そのワケはいつかですね。悪しからず。


2002.9.13(金)

 
そろそろ展示作業もピッチがあがってきます。ではあるが、みんなの疲れがピークにさしかかってくるころでもあります。家々の墓、厨子甕、銘書、分布、ヤガンナ島、木(板門)墓などなど並行する形で作業が進んでいます。
 百按司墓の木棺の実測サイズの模型ができあがっています。見事。「わたしも入りたい」となぎさ。「後生の世まで一緒に行きたい人となら入るさ」などの声。「貴族が入るものだよね? 私はダメか。平民だから」など話題のつきない木棺になりそう。赤い漆を塗ったように見えます。「本物もつくって見たいね」との女性軍達の声。まだ、未公開。撮影禁止でした。
 腹ごしらえが済むと展示作業です。大分進むでしょう。少し、いっぷく。歴文の委員長の仲尾次先生も激励に。

  残業が続いています。体を壊さないように! いい展示会ができますよ。
チラシも出来上がりました。急ぎで送付です。展示会は一月ありますからね。とのんびり構えています。墓の展示会のせいでしょうか、神様と関わっているとおぼしき方々の来館が多くなっているようで。

 


2002.9.15

 ヤガンナ島あたりの展示は解説を入れると終わりですよ。すっかり「墓の島」になりました。島の前に厨子甕がしっかりと並んでいます。学芸員実習で若者達がしっかり、やさしく、丁寧に綺麗に磨いてくれました。おじい、おばあさん達は喜んでいます。一つ一つの厨子甕が、自分の居場所に腰をそえ、展示の役目をしっかりと果たしています。ムラ・シマ講座に参加の渡名喜長栄さん(88歳)に声かけられていました。
 島にはチヒロ浜・アヤコ浜・アッコ浜・サヤカ浜・トモコ浜・トモミ浜・ジュンコ浜・ソラクボ浜・ワタリ浜、そして安田浜・シュン浜の11の浜がある(あれ、浜のキャプションはまだだね。近隣の方々に認証されていませんね。まだ)。誰のスケッチだろう。ありがとさん。


    
御殿型の厨子甕など       ヤガンナ島の墓の分布       墓のスケッチ


 本日休館日でした。出勤途中で気づく。昨日、うし丸さんは「午後からの出勤でいいですか?」「いいですよ」と答えていた。休みとは知らずである。HPは昨日更新できずでした。パソ姫がいないとダメだね。新しいことやるの面倒くさくなっている。歳のセイかね。これから、展示作業に入る。昨日までの部分の一部を紹介しましょうかね。待ち焦がれている方もいるようで。

 学生達がミーティングで使っていたテーブルやイスなどが片付けられ、一度は中央部がガランガラン状態。パネルで仕切りが入ったり。テーマ別のコーナーができてきます。展示は二日、三日で完成するものではありません。現在は展示にかける時間が増えているが、普段はあれこれ業務が間に入り中断すること度々。館が休みの時は仕事がはかどりますのじゃ。

    
        
 個人の家の墓             歴史を語る大北墓


2002.9.16(月)

 世間は振り替え休日。企画展オープンまで二日。さて、まだのコーナーの展示にかかりましょうかね。厨子甕の「銘書」から読み取っていく世界ですね。午前中は。「後世の世」も現世と変わりなく肩書きの必要な世の中なようです。それは現世の人たちの世界観の投影に違いない。文字で書き記してくれただけでもありがたや。明治初期以前は、今帰仁村で一例を除いて全て中国年号を使っている。沖縄(琉球国)の立場を象徴している。「銘書」があるだけでも感謝せねばバチがあたる。(9:30

 とうとう、ダウンです。節々が痛い。風邪かな???
 明日は老人クラブのムラ・シマ講座あり。天底・勢理客・上運天・運天なり。資料づくりは明日にしよう。間に合わない。  


2002.9.17(火)

  おおー、起きたらすっきりカンカン。「今日は今日の風が吹く」その通りであった。昨日のダウンはなんのそのである。体力のある限り使い果たす日だな。覚悟しています。
 午前中、展示作業。午後から老人クラブの「ムラ・シマ講座」。どうもバスからはみ出す人数のようだ。覚悟だ。夕方から展示の最終仕上げだ。
 では、スタートです。

 
展示会場からやっと上がってきました。まあ、どうにか展示の形ができました。オープニングはいつも静かに。今回もいつもの通り。10ほどのコーナーができたかな。昼間、チラシ配りをしてみたのだが、年配の方々が多いのでなかなか配りにくいもんじゃ。「あ、館長さんはまた何かやらかすんでしょう」との声。「今回はゆらり、ゆらりの幽霊さんと遊ぶことにしました」「ほんと。怖いね。怖くないの!!!!」「大丈夫。大丈夫。あの世の勉強でもしましょう」「あの世の友達がいっぱいできました」と。これまで何名かに墓の展示の印象を聞いてみた。いたって冷静に見てくれます。ありがたいです。ただ、会場まで足を運ぶ前に判断されるとね。無理に見に来てください」とも言えませんね。おそらく、墓の展示会は二度とできないと思っています。この一月間いろいろなことを考えながらの展示作業でした。

 今、展示の全体画像をお見せしたいのですが、オープンしてからですね。お楽しみに。お陰さまで、午前9時にはオープンすることができそうです。

 手作りのいい展示ができたと自負しています。パソ姫、うし丸、なぎさ、みなさん遅くまでお疲れ様でした。みんなの協力でいい展示ができました。では、最後の仕上げに下ります。もう今日か。ひっからびたミイラにならないように。では、では(まだ、午前1時半です)。もうひと踏ん張りじゃ。


2002.9.18(水)
 長いトンネルをくぐり抜けてきた気分である。まだ、あちこちキャプションを入れながら全体を眺めている。7点の画像で展示を紹介しましょう。
 間に合うか間に合うのかと心配してくださったみなさんへ。詳しいのは「企画展 今帰仁の墓後生の世」(画像20枚ほど)で紹介します。

 
     
正面からみた展示               運天の歴史的な墓

 
   今帰仁監守(按司)を勤めた一族の墓      ・・・家の墓(個人の墓)

 
    墓の島ヤガンナ島               木(板門)墓
   

   墓の型や墓室内にあった誌板や墓中符など

 企画展 今帰仁の墓後生の世がスタートした。
 導入部分で「今帰仁の墓の分布」を示し、そこで集落と古墓との位置関係、ガンヤーとシマ別れの場所、現世と後生の世との境界線でもあった。それも失われ風葬時代を体験された方々の記憶に留まっている。それは風葬から火葬になると大きく変貌をきたす。墓の場所が海辺や川沿いなどの崖や不便な場所から墓団地へと移動している。その過渡期なのかもしれない。
 次に歴史的な墓として運天の百按司墓、大北墓、津屋口墓、そして赤墓、池城墓へと展示は続く。ここでは墓を通して歴史を読み取っていく大事な作業があった。なぎささんと松本綾子さんが百按司墓の木棺の実物大の模型をつくってくれた。展示に花を添えている。朱塗りの木棺はいろんな話題を提供している(個々の墓については別に報告)。

  墓の展示のおもしろさ、そこから学ぶものの多さ。ものを作るおもしろさ、そして学ぶことの多さ。展示に関わったメンバー一人ひとりが、展示作業を通して様々なことを学んでいるし、また気づいている。それは有難いし、嬉しいものです。
 展示パネルやヤガンナ島調査、厨子甕洗いなど、みなさんの働きで見事な展示ができました。画像でお届けします。広島の8人組、そして沖縄の3人組。展示に関わってくれたみなさんに乾杯。


2002.9.19(木)
 

有難い来客のおでましでした。歴文の事業をよくご存知の方々がほとんど。それと看板やチラシのタイトルに引かれて飛んできた方々。「後生の世って、どんな?」「いいところだよ。でもね、早く行っちゃダメ」「この世で難儀しておくこと。あの世でずっと寝ていられるから」など、冗談が飛び交って楽しそう。「あの、紫の厨子甕が欲しいな」「欲しいけど飾る置き場所がないね」などなど。これまでの墓や後生の世のイメージが変わっていく来館者。まだ、新聞の宣伝がはいっていませんので、コマーシャルが入ると中南部からのお客さんが増えるでしょう。

 これから渡喜仁の字誌の編集会議。「もくじ」だての検討会。そこでどんな話が聞けるか楽しみじゃ。20時からだ。急げ!!


2002.9.20(金) 

 
展示会がスタートすると歴文はいつもの業務となるが、一部展示会のレファレンスが加わってくる。来館者の感想を敏感に感じ取っていくのも大事なこと。作る側と見る側の視点は自ずと異なってくる。それは当然のこと。
 大北墓の前に立ち止まって今帰仁按司(監守)達の表情を読み取っていく方、厨子甕の前で、
   「これに入っていた人は金持ちだったはずね」
   「古そうだね」
   「・・・家の墓だ」
   「木の墓、入ってみたくなるさ」
   「おお、これがボージャーか!」
   「お坊さんに似てるさ。袈裟被って」
   「この型の厨子甕がいいな」
   「どこで売ってるのかね」
   「獅子とにらめっこ」
などなど。そのような来館者の言葉を聴くのが楽しみだ。来館者の帰り際の様子をみていると、墓のイメージがドンと変わっていく姿がいい。
 これから学問的にどうだろうかとやってくる方々もいらっしゃるでしょう。今帰仁村の墓を通して、いくつも物差しができる。
 展示をテーマで分けると24のコーナーになっている。墓はそれだけ、展示できるテーマがあるということ。展示にはならないが、人々の世界観や墓づくりの風水(特にヤガンナ島)、墓に関わる家文書や位牌なども、墓との関わりでテーマに含まれてくる。
 位牌・墓・家文書の三本柱の一つが墓である。これから墓を通して歴史をみ、さらに「後生の世」の観念も変貌しつつあることを知らしめる必要がありそうだ。厨子甕のタイプはいくつもある。また厨子甕に文字を書き記す習慣が地方では17世紀中頃から始まっているようだ。そのようなことを含め、展示を通してまとめていくことにする。墓を通していくつものテーマと課題が見えてくる。先はまだまだ長い・・・・。なかなか面白い。

 下の木棺(木製の厨子甕)は文化財のなぎささんとあやこさん作製です。実物大です。「きっと注文がくるはずね」「注文こないかな!?」と開けてのぞいてもいいですよ。何がでてくるのかな!!!

 
    
人気上昇中の木棺(木製の厨子甕)(実物大の模型)


2002.9.21(土)
 

木曜日「渡喜仁の字誌」の編集委員会がありました。「もくじ」(案)をつくり、内容の説明をし、編(項目)の分担に入りかけました。ニ、三の方々が得意とする分野やできそうな編(項目)を受け持つことになりました。十数編あるので、これから随時決まっていくでしょう。
 公民館にどんな資料があるのか、近々調査すること提案したところ、戦後の「議事録」(90頁)があることがわかりました。区長さんがすぐ出してくれました。戦後の基本資料となる一冊が出てきました。ありがたいですね。

 タイトルは表紙に『一九四七年四月 議事録簿 字渡喜仁』とありました。この一冊に194610月から196610月まで20年間の渡喜仁と直接関わる記事が満載。以下のような事項です(ほんの一部だけ紹介)。
   ・他字他町村ヨリ転入者ニ関スル件(194610月)
   ・鶏盗取締リノ件(1947年3月)
   ・道路修理ノ件(19475月)
   ・衛生ニ関スル件(同上)
   ・軍部隊労務員賃金支払ノ件(同上)
   ・村夫役出夫ニ関スル件(同上)
   ・区長・書記ノ給料制定ノ件(19483月)
   ・区長・書記ノ勤務年限ノ制定(同上)
   ・各戸等級制定ニ関スル件(19485月)
   ・天底校修理負担金割当方法(194810月)
   ・ララ送り物山羊の配給(飼育者決定)(19496月)
   ・輸入馬配給ニ関スル決議事項(19497月)
 このように主な項目を並べてみるだけでも、戦後復興期の渡喜仁の様子がしっかりと姿を現してきます。50年余の歳月が、出来事を記憶の彼方に追いやっているが、関わった方々に一つ一つよみがえらせ語ってもらいたい。
 もちろん、この資料から得たものは『渡喜仁誌』に入るものです。特に戦後の渡喜仁の歩みの柱となりますから。「歩み」だけでなく、行政・教育・土地改良・農業・畜産など様々のことを引き出すことのできる資料です。こういう資料との出会いは有難いものです。まだ何冊かあるようだ。取り急ぎ、20年分を筆耕することになりました。
 
 今、墓の企画展をやっています。それに関わる記事を「議事録簿」で目にしたので紹介しましょう。龕道具、それを置く場所が龕屋(ガンヤー)です。

  ・一九五三年十月七日渡喜仁区龕道具作製。同年十月九日完成す
   但し、他字よりの借金は五十円也とす
  ・龕道具外字使用 一、金五十円也
  ・一九五三年拾弐月参拾日天底区K使用
  ・一九五四年壱月弐拾五日天底区T使用  
  ・一九五四年五月拾参日天底区I使用
  ・一九五四年八月二十八日天底区民使用

とあり、渡喜仁で龕(ガンヤー)をつくり龕を隣の天底も貸し出しています。龕は隣接する複数の字で使用していたことがわかります。例えば、上運天にある龕は運天と上運天。謝名にあった龕は謝名・仲宗根・玉城。また与那嶺にあったのは与那嶺・仲尾次が使っています(企画の墓の分布で紹介してあります)。

 渡喜仁の「議事録簿」から「戦後の動き」を具体的にどこまで記述することができるか。楽しみが増えましたワイ。

 
 戦後の動きをしることのできる貴重な資料「議事録簿 字渡喜仁」


2002.9.22

 「コーグヮーシ」は粉菓子と書くのかと思ったら「・菓子」と書くようだ。コーの字が出て来ませんのじゃ。コーは粉かなと思っていた。食べ物に全く無関心なので、よっぽどのことがない限り書くことはない。せいぜい祭祀の時の供物が餅や魚や蛸などであったと記しているくらいだ。

 ちょっと息抜きにといったところか。戴いたお菓子を前にお茶でも。食べ物については回りの者は、アンパンが書物の間に挟まったままカビがはえていたとか。イカの食べ残しはゴキブリの餌とか。食べ放しの菓子や黒砂糖にゴキブリがたかり、それを食べて病気にでもなりはしないかと心配して輪ゴムやテープでしっかりと閉めてくれたり。しかし、出勤してみると開いたままになっている。お陰様で健康である。
 そういうことはさて置いて、コーグァーシ(クシチィー)であるが、それは懐かしい。もちろん、懐かしさと美味しさが今でも記憶に残っている。「そんな甘いの」と言われるが、やはり美味しいものは美味しいと密かに思っている。今でも変わらないが、甘いのを食べたら、すぐ辛いのを食べるクセがある。どうもその繰り返しのようだ。甘いのと辛いので、ちょうどバランスをとっているのだなと、時々わけのわからないバランス取りをしている。

 下の画像は墓調査でいただいたお餅・饅頭・コーグヮーシ(クシチィー)・ハナボール(山原形)である。なぜかお皿にはカルビーのポテトチップス(うすしお味)と揚げたての剣先がおかれている。コーグァーシはもう大分かじられている。


        
今日の墓調査でいただいた沖縄のお菓子です。


2002.9.25(水)
 

 連休明けはなかなかペースに乗りませんね。いろいろとあるので、パソコンに向かうことがでません。これから『運天誌』に呼ばれていたような気がする(20時)。連絡がつき次第すっ飛んで行かねばならない。連絡がつかない。きっと別の日だったのでしょう。明日、問い合わせることにしようと。
 
 明日は琉球大学(教育学部?)から明治期の「学校の運動会」について話を伺いたいとやってくる。まだ、資料は確保していない。頭にあるのをニ、三出しましょうかね(悪しからず)。

 「企画展」のことが二誌(沖縄タイムスと琉球新報)に出ているようだ。そういうのにウトイ私は外から聞かされ、ほんと!!! マイペースじゃ。

 今日は、あれこれありすぎてなんにも書けません。ハイ

 新聞記事を載せて逃げようと思ったのに。新聞は画像にすると濁ってしまうのでヤメました。そうそう、新報の写真に登場しているお二人さん(東京の方でしたね)約束通り載っていますよ。館長ウソつかない!


2002.9.26(木)
 

 一日ほとんど展示会場。自由に見学できる方。そしてサポートを必要とする方。ほっとくとあちこち勝手に遊び回っているどこかの掟殿。歴文の広報係にでもしたいもんだ。さっそくの宣伝ありがとうございます。 
    企画展のコーナーの画像を
      「今帰仁の墓」でだしてあります。


 助役さんと墓と田園空間事業談議(特に運天と古宇利島について)。午後から琉球大学から明治期の運動会についての調査あり。糸満市から墓と位牌専門家が来館。「浦添ようどれ」について情報をいただいた。
 
 墓の話をしていると、墓室から、つながるもう一つの墓室。今帰仁村の墓に墓室の中にもう一つ墓室を造ってある例がある。墓の中のもう一つの墓室は「先祖骨移葬此所」(仲宗根と諸志の二例あり)と墨書した石板で閉じてある。百按司墓の屋型の墓の上の方にもう一つの墓(あるいは室)がある。それは「浦添ようどれ」の奥室と同様な役割だろうか。どんな役割を果たしているのか、まだわからないが、ヒントが得られそうな発見があった。
 
 
下の二例は「先祖骨移葬此所」と墨書され、二室目の口を閉じるのに使われている。左側は仲宗根、右は諸志(但し、この石は現在なし) 

 

 早速、横浜の方から「私です」とのメール。画像の取り込みがあまりよくないのですが掲載しました(現物はいい色合いで写っていますよ)。


     
『琉球新報』9月25(水)朝刊

   『沖縄タイムス』9月23(月)朝刊


2002.9.27(金)


 
古宇利島をゆく。海神祭(ウンジャミ)の時、島に渡る予定が台風で渡れなかったのでいい機会であった。今日は案内役もあったが、途中目的をすばやく切り替えた。それは、これまで足を踏み入れたことのない御嶽の一つがマチヂ(七森七嶽の一つ)であったということ。その確認をしたいということに。

 今日参加された方々が、そこに入るのにどれだけ意義をみつけ出したか。はっきり言って、御嶽に入る意義や緊張感などもっていなかったのではないか。大半の方々が。それは島に入る前の予備知識のなさもあるが、シマチャビを背負った島の方々への思いやりのなさでもある。それは批評家のどこかの管理人の言葉の端々にもチラチラ出てくる。

 それは別にしてマチヂへの側を通る旧道が今でもあり、その道が上原への通路であったということ。タキヌウガンの時(旧4月と10月の吉日)、マチヂへの旧道の入口で遥拝している。神人達がもっと若ければ、マチヂまで行ってウガンをしたでしょうが。それは致し方ないことである(神人達は、そのことについて気にかけている)。国の神人制度そのものが消え去ってしまったのであるが、長いこと制度としてやってきたことを伝統として今に伝えているのである。もちろん島にとっては今でも生活と結びついた生きた祭祀である。

 今回マチヂについて、いくつか考えることがあった。一つは古宇利島の七森七御嶽が意味するものは何かということと、もう一つはマチヂの語義である。
 七森七嶽が意味するのは、それぞれの御嶽一帯に小規模の集落を形成していたのではないかということ。マチヂの北側に中原遺跡(沖縄貝塚時代中期、縄文時代末)があり土器などの遺物を拾うことができる。マチヂやナカムイなどの周辺は遺跡になっているが、だから七つの御嶽の周辺にそれぞれの集落があったとするには早計である。

 マチヂの語義であるが、マ+チヂに分けることができる。チヂは現在でも使われる頂のこと。あるいは頂上部。問題はマである。マは間。地域空間を表すマ。例えば外間や仲間、あるいは上間などの間。そう見ると、頂上部の広場や空間ということになろうか。

 マを別の視点で考えると周辺にはアマジャフ原がある。アマのアが脱落する可能性はどうだろうか。アマ+チヂであれば、今帰仁グスクのテンチヂ・アマチヂと同類の語義と見てよさそうである。「天に近い頂上部」ということになる。但し、語頭部のアの脱落はなかなかないかもしれない。逆のハ(ha)のh部分が無声化してアになる例はある。(村内にアサギと呼ぶ地域とハサギと発音する地域があるように)。
 地名は人が生活する場所を基点に名付けられる場合が多い。その法則に従うならば、古宇利のムラウチ集落から眺めるとマチヂは頂上部に位置している。マチヂは「頂(頂上)部」や「頂上の場」ということになろうか。


        
古宇利島の七森七嶽の位置

 マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、北方である。現集落を背にして拝む形である。

   
現在のマチヂのイベの部分

 

  古宇利のタキヌウガン、左はビジュルメー、右マチヂへ遥拝(平成5年6月5日)


2002.9.28(土)

 午前中、NHK出演依頼で与那嶺まで(私が出るわけではありません)。もう出たくないですね。特に生放送には。何十年も見たことのない自分の姿が映し出されるのはダメじゃ。

与那嶺のユナンガー(フプガー)湧泉散歩」へ三歩移動します!
 帰り際、与那嶺のユナンガー(与那嶺ガー)、別名フプガー(大川や親川)に立ち寄ってみた。ユナンガーは豊原に位置し、道を隔てた反対側はナハガーラが流れる。一帯は前田原で、周辺は地名の示す通り水田地帯であった。湧泉をハーやカーという。
 
 ユナンガーは二つに分けられ、一方は飲料水を汲むところ。他方は洗濯したり水浴びをした所である。特に与那嶺の後原の人たちが使った。水田が広がっていたころ(昭和40年頃)は水量が多くハミガー(神河)として拝まれていた。線香が置かれ(火をつけない)現在でも拝みにくる方がいるようだ。周辺は畑である。今ではカーの水はキクや野菜などの灌漑用水に使われ、パイプが何本も引かれている。
 また、手前の方に製糖に使った木造のサーターグルマの台木を次使う時まで水に漬けて置いた(乾燥しひび割れしないようにと)。都合よくそれを洗濯板や腰掛に利用していたという(『与那嶺誌』)。
 旧暦の五月五日にはハーウガミ(河拝み)と言って与那嶺のそれぞれの一門揃って拝むハー(カー)である。そのためフプガー(大事な河)の名称が付いている。写真は本日なり。
 このユナンガー一帯は水田が広がり、初夏には稲穂が黄金色に・・・

 
  
与那嶺のユナンガー(フプガー)    水草はクレソン?


平線香(火をつけない)


2002.9.29

  今日は差し入れの多い日でした。沖縄市の池原先生は大きなケーキ持参で来館。『なきじん研究』も2冊購入。他の方々にも宣伝ありがとうございました。うし丸のご両親は、それまたまた一人孫の運動会の応援に。わざわざ来館。私の大好物のモナカ。半分はパソ姫がお土産に持っていきましたからね。うし丸殿。火曜日までないかも。まだ一個ですよ。

 火曜日の朝出勤して一個も残っていなかったら、「みんな一人で食べて!」と疑われそう。残っていなかったら「半分食べた」計算になりますね。とにかく、美味しい差し入れありがとうございました。

 さて、「最近、外に出たら館長はどこか寄り道しているようだ」との回りの目。必ずデジカメとノートを手にひょいひょいと、そして鼻歌(?)まじりに・・・。どうもおじいやおじいやおばあ達にあっている様子。そして湧泉(カー、ハー)で過去のことを思い出しながら涙しているようだ・・・。それで、そうだったんだ(いつも迎えてくれるミーちゃんも納得のようす)。「湧泉(ハー・カー)散歩」がスタートである。うし丸、パソ姫も原稿くださいませ。モデルに与那嶺と崎山のカーをやってみました。それは、おもしろ。「なきじん研究」で出せる中身になりますよ。