粟国島 トップヘ
平成19年11月11日12日の両日粟国島調査にはいる。平成12年10月4日〜6日に沖縄県地域史協議会の研修会に参加している。その後、もう一度訪れているはずである。まずは、粟国島と関わる関係記事を拾うことから。
粟国島への渡りはキツイものがあった。原稿締切で未明まで。フェリーの出発時間ギリギリ。空きっ腹で乗船、揺れも大きく船酔い。昼食をしようにも食道は休み。近くの店で菓子類で腹ごしらえ。船酔い気分も取れずに島回り。車を借りることができたのは幸い。
島に渡ると集落の展開をみていくのがいつものパターンである。集落が望める高台へ。粟国島は大正池の展望台がいい。
集落の後方に草戸原の小字がある。それはクサティ(腰当森)のことで集落の発祥地とみられる。粟国島の現在につながる集落は、草戸原から展開していき、港近くの浜は後世になっての集落であろう。現在の西と東はもともと一つ、浜は新設との認識が島人たちはもっている。それは行政村としての認識で、それより古くは御嶽(海岸沿いの大嶽・中嶽・南嶽は除く)を中心とした小規模の集落があったことがうかがえる。五つの殿(八重ノ殿・ババノ殿・カキノ殿・トゥマンナ殿・アダナノ殿)は、そのことが反映しているのかもしれない。
【球陽】始めて、慶良間・粟国に在番を直授することを定む。
往古から慶良間と粟国の地頭は兼任していたが、尚敬13年に在番を別々において、それぞれの島を監守させ、それと外国船の漂来や地方の船隻の行き来を監視させた。
【康煕49年3月20日の僉議】(『沖縄の人事法制史』所収176頁)
この僉議は具体的事件を扱ったもので、子供の出世と飢饉の二つの事情を酌
んで特に粟国島から本島に移転するのを許可したものである。
僉議
運天親雲上粟国島罪之節花城
のろ取合出生仕候女子
かめい

▲大正池の展望台からみた粟国島の西・東の集落。その向こう側が浜集落

▲烽火台跡(番屋原) ▲ウガンヤマ(エーガー)

▲ウガンヤマ(エーガー)洞窟の内部 ▲ヌルガー(現在)(大正池公園)

▲マーチンニー(シマイ御嶽)の遠景 ▲シマイ御嶽のイベ(冠のイタジの葉をとる場所)

▲観音堂の梵字碑 ▲洞寺への道


▲エーウフナカ(八重大中)の拝所

▲エーフナカにある今帰仁祠 ▲ヤガンウイミのカーブイ(冠)
▲ウガンヤマ(ガダヌク御嶽・ミルクガマ) ▲ヌル拝所

▲粟国島の大型の墓 ▲墓口は番号が付され現在でも開け閉め

▲筆ん崎(番屋原)の番屋跡 ▲烽火あげ場を模したものか?

▲粟国島の集落

【粟国島に関わる資料など】
・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に「粟島」とある。
・『絵図郷村帳』 粟島
・『琉球国高究帳』 粟島
・『琉球国郷帳』 粟島
・1644年粟国島の南西部に烽火台が設置される。烽火台近くに番屋敷があった。
・梵字碑(1692年)(浜の観音堂内)
粟国村浜にある観音堂内にある梵字碑
大清康煕三十一壬申 立春 花城光門
・梵字碑(1692年)(カダヌク御嶽内)
粟国村字西土倉原にある梵字碑
大清康煕三十一壬申二月九日 花城光門
上記の花城光門なる人物は『琉球藩家臣記』に登場する粟国島の脇地頭で
はないか。花城光門が同年二か所に寄進したものかもしれない。同島の花城
ノロとの関係はどうだろうか。明治43年に花城ノロクモイと粟国ノロクモイの二人
のノロが存在する。
・『琉球国由来記』(1713年) 粟国島
8つのウタキと1イベ
『琉球国由来記』(1713年)から粟国島の様子を伺い知ることができる。そこに登場する役人や神人が以下のように見える(新里大屋子(地頭代)・首里大屋子・大掟・東掟・泊掟・目差)。
・在番の地頭
・サバクリ
・ノロ/根神
・百姓
・首里大屋子
・地頭代
・大掟
・大文子
・掟
・根人
・地人
・居神人
・里主
・1725年(雍正3)粟国と慶良間の地頭の在番の兼任を廃止、別に在番を置く。
・1731年『琉球j国旧記』に粟国島に八重村と浜村が出てくる。
・1734年(雍正11)に夫地頭が置かれる。
・『当時用候表』 浜村・八重村ニカ村の記録あり。
・『琉球藩雑記』(明治5年) 粟国島(八重村・浜村)
・『琉球藩臣家禄記』(明治5年)
花城親雲上 領地粟国島花城作得七石余
粟国□□□ 領地粟国島粟国作得七石余
・1824年から4年間島は飢饉、疱瘡が流行り苦しめられる。与那城筑登之など
に救済される。
・与那城菊太郎の経歴
・粟国島大掟心得(明治15年6月14日付)久米島役処出張所
・粟国島大掟(明治15年6月20日付)沖縄県
・粟国島首里大屋子((明治17年3月26日付)沖縄県
・粟国島夫地頭(明治19年3月13日付)沖縄県
・粟国島仮主取(明治21年6月15日付)沖縄県
・粟国島総山当(明治24年4月8日付)沖縄県
・粟国島総耕作当(明治27年5月9日付)沖縄県
・粟国島地頭代(明治30年4月1日付)沖縄県
・粟国島長月俸(明治30年4月1日付)沖縄県
・粟国島郵便受取所取扱人(明治37年12月11日付)沖縄県
・粟国郵便局長(明治38年4月1日付)沖縄県
・粟国村長月俸十一円(明治41年4月1日)沖縄県
・大正四年四月二十一日付本職を免ず(当時月俸十四円)沖縄県
この資料は『南方文化の探究』(昭和14年:河村只雄)に収録されているものである。経歴を通していくと明治の役人の役職や昇給過程を追うことができる。与那城氏は最後の地頭代で、最初の間切長とみられる。さらに最初の村長でもあるとみられる。
・明治12年に八重村を廃止し東村と西村とする(?)。
・明治36年の土地整理まで八重村・浜村・西村の三ケ村があった(?)。
・明治41年粟国村となる。
・明治43年「諸禄処分による社禄調表」(『琉球宗教史の研究』所収)による
ノロクモイの給与額(証券・現金)
・粟国ノロクモイ 証券50円 現金20円86銭 計70円86銭
・花城ノロクモイ 証券50円 現金20円86銭 計70円86銭
明治43年段階で粟国ノロと花城ノロ二人の存在が確認できる。
【粟国島の烽火台と番屋敷】
【祭祀の中心となるウフナカ】
【マーチンニーとカーブイ】
【今帰仁祠とカーブイ】
【大嶽・中嶽・南嶽にある一門毎の遥拝所】
島の東側のウーグ浜沿いに大嶽・中嶽・南嶽の三つのウタキがある。それらのウタキはウガンヤマのウタキとは性格が異なっているようだ。ウタキの中に数多くの遥拝所が置かれている。聞くと一門毎のウトゥーシだという。先祖が首里、あるいは那覇、中には北山もいた。つまり、島にやって来る前の先祖に向かってのウトゥーシ(遥拝)である。その人たち(一門)の祈りをする方向(観念)を示している。集落内で行われる神人を中心としたムラ(シマ)の祭祀の祈りの向きとは別である。それは一族、一門の祭祀である。一部ムラの祭祀と重なる部分はある。
【クサティムイと集落】
ウガンヤマの裾野に広がる集落の展開が読み取れる。
【粟国島の葬式と墓】(戦前)
・葬列が野辺に延々とつづく。
・ダビの先頭にたいまつもったのが二人。
・女のいたましい泣き声。
・魔物を追い払いながら冥土への道を照らして死人を送る。
・お経の文句を書いた旗が続く。
・位牌をもった相続人、一族近親の男子、一般会葬の男子が龕を先導する。
・龕の直後に女が着物をかむり、顔を覆って泣き崩れながら・・・。
・近親の女のも同様かんむり物をして大声で泣きながら続いていく。
・粟国の墓は門中ごとに作られている。
・堅い粘土岩の岩山のところどころに岩をくり抜いて作られている。
・大きなものは六、七十坪も広くくりぬいたのもある。
・内部は本島と大差なく奥が雛壇になっていて骨壺が並べられている(トーシー)。
・その前に棺を置くシルヒラシがある。
・シルヒラシのところに洗骨前の棺がすでに六つも置かれていた。
・最近のもありおびただしい蠅がウヨウヨしていた。
・近親の男たちが臭気の強い墓の中に新しい棺を運びいれた。
・近親の女性達は泣きながら棺によりすがり最後の別れを告げる。
・会葬者は無言で行列をなし集落に帰っていく。
・途中海浜に降りて潮水で身を清めて各々家に帰る。
・近しい女などは葬式の後も一週間位墓の入口の石をはずして亡き人に会にいく。
・臭気が甚だしく堪えられなくなって初めてやめる。
『南方文化の探究』から拾った上記のことを思い描きながら粟国島の墓をみ、そして話を伺ってみた。島に火葬場がなく、まだ風葬である。風葬と言っても野ざらしではなく、棺に入れたまま墓にいれ、時期がくると洗骨をしてりっぱな厨子甕にいれるという。火葬場の建設については、以前から持ち上がるようだが、「自分の時代には怖くて作れませんよ」との巷の声が聞こえてきた。洗骨のときに入れる大きめの厨子甕は手に入りにくくなったているとのこと。
島の西側(上寺原・下寺原)あたりに、集団墓地が数多くみられる。それと白洲原・土倉原・巣飼原にかけての断崖の墓地も気になる。その日も本島からお参りに来たという人たちに何組もあった。尋ねると粟国島出身で本島に住んでいるので先祖の墓にお参りにきたという。集落の後方は、集落のクサティムイになっていて、また御嶽にもなっている。
西集落のクサトゥムイとなっている森はウガンヤマと呼ばれ、ガタノコ御嶽(西ウガン)とヌルが拝む祠(ヌルウタキ?)、クバムイ、エーガー(ガマ)などがある。その東側の崖沿いにも一門で使う規模の墓がいくつかある。それらを見ると、ウガンヤマ一帯は古くは風葬地として使われていたにちがいない。

