2007年5月の調査
  
                                      沖縄の地域調査(もくじ)


2007年5月31日(木)

【運天・上運天のタキヌウガンとアブシバレー】

 
運天と上運天のタキヌウガンとアブシバレーの調査をする。今帰仁村の運天と上運天はタキヌウガンとアブシバレーを一緒に行っている。タキヌウガンの部分は運天のテラガマ(ウタキ)で合同で行っている。ムラの方々全員が参加するわけではない。テラガマに参加するのは、両字の区長と神人と一部の有志の方々。

テラガマ(運天のウタキ)
  ・テラガマの中(イビ)でのウガン
    テラガマの中で二ヶ所に向かってウガン(御願)をする。
      (最初の香炉のウガンは伊勢神宮?に向かって、二ヶ所目の香炉のウガンは上運天と
        運天の両字のウガンだという。

 テラガマでのウガンが終わると、運天の関係者は運天の神アサギへと向かう。上運天の関係者は戻り、三時に上運天の神アサギのアサギミャー(アサギ庭)に集まる。

 
 運天のテラガマ(ウタキ)に集合             テラガマの中(イビ方へ)へ入る

 
 一つのイビの前でのウガン(伊勢神宮にと?)    もう一つのイビでのウガン(両運天へ)

【運天でのウガン】(脇地頭火神と神アサギ)

 テラガマ(ウタキ)まで行かなかった運天の方々は神アサギミャーで待機し、拝所(脇地頭火神)と神アサギでのウガンを見守りながら、合図がかかると一緒に手を合わせる。供え物は線香・酒(泡盛)・お米である。

 
    拝所(脇地頭火神)でのウガン         神アサギの中でのウガン(女性のみ)

 脇地頭火神の祠と神アサギでのウガンをする。神アサギでのウガンはテラガマ(ウタキ)に向かって祈願をする。二ヶ所でのウガンが終わると、待機していた運天の方々が飲み物やチンビーや昆布や揚げ物などの御馳走が出される。そこからはアブシバレーの直会や談笑をし、かつては余興が行われる場面なのであろう(20名余が参加)。


脇地頭火神と神アサギでのウガンを見守る

【上運天でのウガン】

 三時に神アサギミャーに集まる。オミヤと呼ばれる神殿からウガンをする。その次に根神屋(ニガミヤー)の拝所、掟火神の祠、神アサギの中(運天のウタキに向かって)、神殿の前からウキタのウタキに向かって遥拝する(かつてはウキタのウタキまで行っていたという)、井戸のある場所(前の通りは馬場の跡だという。拝む位置からすると馬場の中央部。来賓席あたり)。馬場でアブシバレーの余興を行っていたのであろう。馬場跡でのウガンが終わると、神アサギミャーで飲み物や御馳走を広げ直会が始まる(30名余が参加)。運天から区長と三、四名の方々が参加する。(ウガンの流れのみ画像で紹介)

 
            神アサギミャーに上運天のムラ人達が集まる

 
   オミヤ(神殿)からウガンを始める          根神屋跡でのウガン

 
     ウッチ火神でのウガン                神アサギ内でのウガン

 
     イビでのウガン(女性のみ)          ウキタウタキ(海神)へのウトゥーシ

 
  カーの前でのウガン(前の通りは馬場の跡だという)。ウガンの場所は馬場跡の中央部

【喜屋武グスク】
(現在うるま市)

 喜屋武グスクのある場所は、具志川市(現在うるま市)仲嶺小字仲嶺原となっている。具志川間切喜屋武村にあったのではないか。あの規模のグスクならグスク名と村名が一致しているはずだが。その何故かを紐解くことが面白い。納得いく答えを見つけ出したい。「はじめ喜屋武城南東の真下にあったが、のちに現在地に移動したという」(具志川市誌)。すぐに納得。
 喜屋武グスクの麓を歩いていると「喜仲公民館」をみつける。それと住居表示が喜仲何丁目となっている。よくある例であるが、喜屋武の喜と仲嶺の仲を取った字名ではないかと想像を働かしていた。その通りで昭和32年に喜仲の行政区になるが、地籍はそのままのようである。

 喜屋武グスクは標高104mのところにあり、具志川間切域では最も高い所にあるという。喜屋武マーブ公園として整備?され、グスクとしての風情はほとんどない。グスクの雰囲気はどこかにありはしないかと反対側に回ってみた。森の奥の方へと整備された遊歩道がある。しばらく行くと切り立った崖がの途中に墓がある。「喜屋武按司の墓」と書かれた標柱がある。

 
 喜仲から見た喜屋武グスク(後方の森)          グスクからみた集落

 

 
     喜屋武グスクの内部               喜屋武グスクの崖にある墓


2007年5月30日(水)

 多忙中である。最近は時間があると沖縄本島の中頭地域に足が向いている。27日(日)も沖縄市とうるま市(具志川市)へ。中頭地域のグスクとグスクのある集落との関わりが気になっている。間切規模のグスク名と間切名が同一である。それが何故なのか。それとグスクに住み按司名がグスク名になり、集落名になったのか。それとも、その地名のところに按司が住み名前がつけられたのか。どちらなのだろうか。さらに間切(地方)にグスクがいくつもあるが、越来間切では越来グスク、具志川間切では具志川グスク、そして勝連間切では勝連グスク、中城間切は中城グスク、北谷間切は北谷グスクなどである。今訪れているのは、間切名とならなかったグスクである。前回の安慶名グスクもその一つである。それと、今帰仁グスクには見られないのであるが、グスク名のつく按司の墓がセットになってあるのも興味を引く。

 今回は訪れたのは、伊波グスク(美里間切:越来間)と知花グスク(越来間切)と喜屋武グスク(具志川間切)である。各地にグスクが息づいていた時代、まだ文字で記録されることは稀であったのであろう。グスクの時代は学問からすると考古学の力を借りて論じられる世界である。伝承と後に記された「野史」と言われる世界である。全く手に負えません。
 
【伊波グスク】(現在うるま市)

 伊波グスクはうるま市(石川市)の伊波にあるグスクである。伊波は1672年から美里間切、それ以前は越来間切伊波村であった。美里間切が分割する以前は越来間切に含まれ、越来間切の北側の外れに近いところに位置する。伊波グスクの出土品やグスクの規模からして有力な支配者がいたことは疑いがない。越来グスクを中心とした越来間切の領域が何故そう決まったのかに興味がある。安慶名グスクでも、同じようなことを述べたのであるが、伊波按司が強豪な按司であったなら、周辺のグスクを支配し、伊波グスクを中心とした間切(伊波間切)になってよさそうである。そうならなかった不思議さといろいろな条件を考える歴史の面白さがある。

 やはり、関心は伊波グスクとグスクの側にある伊波集落との関わりである。伊波按司の墓は隣りの山城にある。バイパス沿いの崖の中腹にある。

 
  伊波グスクの最高部への道筋             後方の森が伊波グスク

 
      伊波グスクの入口               グスクの一番高所にある拝所

 
 神アサギ(左側はノロドウンチの祠)          石積みの屋敷が見られる


2007年5月26日(土)

 「北山(山原)の歴史」の全体の柱をHPで組み立てる。まだ20数年前の柱を立て直すところまでいかず。素直に、それをベースに進めることに。今帰仁から北山(山原)全域に広げることに。

【うるま市具志川の安慶名グスク】

 安慶名グスクは、かつての具志川間切安慶名村にある。一帯は小字亀甲原にある。亀甲原は安慶名グスクのある森が亀の甲羅に似ていることに因んだ名称かもしれない。昭和30年代の安慶名グスクの写真をみると亀の姿に似ている。新城徳祐氏は安慶名グスクの石積みの場所によって亀甲乱石積のところもあるが、そこに因んでいるかははっきりしないと。

 内陸部の低地に飛び出た森がグスクになっている。安慶名グスクの麓を天願川が流れる。内郭の門の手前にある半洞窟を利用した墓が按司墓だという。『琉球国由来記』(1713年)にある安慶名村に、グスク嶽(神名:クニヅカサノ御イベ)があり、それはグスク内にある拝所。グスク嶽ノ殿は安慶名グスク内、あるいは近くにある拝所とみらる。グスク嶽ノ殿での祭祀に、脇地頭・百姓・掟アム・根人が関わっている。

 安慶名グスクの歴史は、ほとんど知られていないようで、野史で述べられているにすぎないようである。安慶名グスクは安慶名大川グスク、安慶名按司は安慶名大川按司とも呼ばれいるという。

 また、表採される陶磁器類から安慶名グスクと天願川の下流の港と結びつけ、海外貿易を行っていたのではないかと。安慶名按司は伊波按司の系統だとして、伊波グスクと今帰仁グスクへ遥拝所があるようだ。安慶名グスクと安慶名集落、そしてグスクの裏側にある安慶名ガー(マーガー)などとの関わりが気になる。具志川間切の同村は具志川村で具志川グスクがある。安慶名グスクは具志川グスクに及ばない勢力であったのであろう。もし安慶名グスクが具志川グスクより勢力があったのなら、具志川地域は安慶名グスクに因んで安慶名間切となり、安慶名村が同村になっていたのではないか(間切名と同村とグスクの関係から)


     安慶名グスクの遠景               岩の門からみた安慶名のマチ


     頂上部の内郭への門              主郭(本丸)にある狭間(さま)?


                  外側の郭の石積み(城壁)


2007年5月25日(金)

 沖縄博物館協議会の研修会があり、南城市玉城字前川までゆく。会場は玉泉洞王国村で。総会と研修会の後、施設内にある洞窟と墓をみることができた。その後、前川の集落をゆく。現在の前川集落と洞窟や墓地との位置関係が知りたくて。

 現在の前川の集落は斜面にあり、集落内に石垣のある屋敷が目につく。集落は高台にあり、墓地や洞窟のある玉泉洞あたりが麓に見ることができる。崖になっているため緑地帯となっている。崖や崖の半洞窟に墓をつくってあるのは、与論・沖永良部・徳之島、喜界島などの琉球的な墓がある場所と言われている地形と酷似している。古琉球の時代、墓は崖やその麓や半洞窟などに葬るのが一般的な習俗(風葬?)だったのではないか。

 前川の村(ムラ)は『球陽』の記事をみると、1736年に糸数グスク付近から、現在地に移動してきた村である。玉泉洞あたりにある墓は、18世紀以前からの墓なので、移動してきた前川村、それ以前の故地にあった頃の前川村との関わりはあると見るべきか。故地と玉泉洞の洞窟まで直線距離にして1.5kmなので、移動前と後の集落と墓とは連続性があるとみてよさそうである(『琉球国由来記』(1713年)の祭祀場と現在の小字から見ると、村内での集落移動のようである)。ただし、洞窟に居住していた頃の人達(沖縄貝塚時代)との連続性については?!

 『琉球国由来記』(1713年)の前川村には、識名之殿・呉屋之殿・知念之殿・上川崎之殿・下川崎之殿がある。村が移動する前の記録である。現在の前川に知念原と識名道原があるので、村移動というより、村の集落部が同じ村内で移動したと見られる。そうなると、前川の人々と玉泉洞一帯の墓と密接な関係にあるとみてよさそうである。因みに前川村の祭祀は糸数ノロと屋嘉部ノロの管轄である。  

 (今帰仁村運天の百按司墓や周辺の古墓との比較研究をしてみる必要がありそう。手に負えそうにあ
  ません。どなたか)

【南城市玉城字前川】

 前川の集落は、どのような歴史を持つのか調べたことがないが、集落と玉泉洞琉球村内にある洞窟を利用した墓との位置関係を確認をする。

【最初にみた墓所】

 最初に見た墓の印象をあげると、どこまで遡るかわからないが、古琉球から明治まで利用されている。ある一門(一族)が利用していたのか、前川の集落の多くが利用したかは調査してみないとわからない。棚(イケ)の集められた骨が気になる。近世の初期、まだボージャー型の厨子甕や口広の厨子甕が使われていない以前の墓や遺体を葬る様式の名残ではないかと考えている。まだ一般化できるものではないが。

【古琉球】
  ・半洞窟を使い、遺体を葬る。集骨する。

【近世前半】
  ・古琉球から使っていた半洞窟をそのまま利用。
  ・石棺やボウージャーの厨子甕を使う(洗骨)。
  ・三十三年忌を過ぎるとイケにこぼすと言われているが、それはほんのわずかである。

【メモ】

  ・半洞窟を利用した場所
  ・琉球石灰岩を利用した野面積み
  ・棚(イケ)の集骨
  ・木棺がある
  ・石棺がある
  ・ボージャー型の厨子甕(洗骨)(近世:前半~18世紀?)
  ・口広の厨子甕(洗骨)(近世:18世紀~明治?)


【琉球石灰岩の野面積みの墓】

 運天の百按司墓の修復図に類似した石積み。その関係?

【家型の建物と木棺】

 家型の建物と木棺は区別して説明する(二つを混同して議論される場合があるので)。半洞窟を利用し、そこに家型の建物を造り、その中に複数の木棺や厨子甕を入れてある。家型の建物に使われている木材をザフンと呼んでいる。玉泉洞のは運天の百按司墓のザフンと似た木材と異なる木材もある。棟木と壁を支えている中央部の細木はチャーギ?三角部分の壁板はデイゴ?向かって左側の壁板はイスノキ(ユシギ)?奥にしっかりした家型の建物がありそう。壁の一部がみられる。

 内部に木棺が少なくとも二基以上確認できる。中央部に木棺の向こう側の横板と手前は杉板である。散在している木材にユシギ?か。木棺の横板を固定するのに角釘が使われている。また、板に黒と朱色の漆の薄く塗られた板が散見できる。丸形(巴紋ではないでしょうが)の模様が描かれている。

 ほんの数分、散見してのメモ書きである。学術的な調査がなされるといいのだが。1516世紀から明治までつながる墓の変遷をしる手掛かりが凝縮されている場所ではないか。

 (詳細な比較は改めてするが、今帰仁村運天の百按司墓と古墓の手持ちの画像を掲げておくことに)

 
    上の方からみた前川集落                麓から前川集落をみる

 
     集落内の石畳の道               集落内には石積みの塀が目立つ


     半洞窟を利用した墓           イケの集骨、石棺、木棺、厨子甕など

 
   集骨用の家型の建物(墓)?         家型の建物の内部(木棺あり)

【与論島の崖葬墓参照】


【今帰仁村運天の百按司墓と古墓】


 運天の古墓の一つ。は下部分のみ?    琉球石灰岩で積まれた囲い(第三墓所)

 
    右から第一・二・三墓所           第三墓所の内部(壊れている木棺)

 
第三墓所の屋根部分(家型の建物)              第二墓所の外観


2007523日(水)

 
沖永良部島の和泊町と知名町の小学生達100名余がやってきた。後ろの組は雨のため今帰仁グスクまでゆくことができず、歴史文化センターから海洋博(ちゅら海水族館)へ。明日は与論島の三小学校(与論・那間・茶花)がやってくる。沖永良部・与論と北山(今帰仁グスク)との関わりの話。24日の与論のレクチャーはお願いしてあります。よろしく。

 これから運天の字誌の編集会議。運天と学校教育(戦前)部分のまとめ。戦後は次回。大方整理できていたのに画像を入れると固まってしまい、上書きされずに消えている。時間がないので残った原稿で。

 24日(木)沖縄博物館協議会の研修会。一日南城市玉城。うるま市山城や大田や上江洲、それと安慶名グスクなど書き込みするのがあるが、土曜日に。それと企画展と渡喜仁誌原稿も。何もなかったかのように忘れてしまいたいもんだ。ハハハ


2007年5月22日(火)

 21日は字誌(渡喜仁・運天)や企画展、それと次回の「ムラ・シマ講座」の件もあって、渡喜仁運天古宇利島までゆく。現場まで行かないと、次のテーマへの切り替えができない。22日はうるま市の山城・大田・上江洲、安慶名グスグまで。

 ここでは「北山(今帰仁)の歴史と文化」を描くキーワードの一部を画像で紹介することに。詳細は企画展のところで、随時まとめていく。

【運天の概況】

           
     運天のムラウチ集落           運天港の様子


【源為朝公の渡来伝説と運天】

 
   運天のウタキ(内部にテラガマあり)            テラマガの入口

 
    源為朝公上陸の碑       碑の側にある拝所

【山北王と百按司墓】

    
 運天の百按司墓(第一~三墓所)         百按司墓の第三墓所

【運天の古墓群】

 
   崖の中腹にある運天の古墓郡                古墓の一つ

【今帰仁間切と運天番所と宿道】


   宿道の面影を残している松並木(運天)         運天番所跡

【古宇利島の遠見所跡】


  古宇利島の遠見所跡               伊是名島から引継ぎ大嶺原へ


2007519日(土)

 5月になって大学の新入生の来館が目立つ。他府県からの入学が多いようだ。先週見えた県立芸大は10名の内、地元は3名だったような。名桜大も琉球大学も半数は以上が他府県からの学生なのかもしれない。そういうこともあって、肌で沖縄を感じる、体験する授業なのかもしれない。卒業間際になって、沖縄を肌で感じておけがよかったともらす学生がいます。そうならないようにとの狙いがあってのことかもしれない。学生達に「まずは、アッシー(車をもつ友人)を見つけなさい」とアドバイス。

 今年の学芸員実習のメンバーが揃ったので、実習の中身を見せていきます。実習期間は限られています。「北山(今帰仁)の歴史と文化」(仮称)をテーマに企画展をします。大きなテーマですが、展示をどれだけコンパクトにできるか。北山(今帰仁)の歴史を描いてきた史料を、ここでもう一度踏み込んで見直す作業を進めています(机上の作業)。スタートしたばかり。

 実習期間の展示作業は仕上げの部分になります。それで展示に入るまでの作業工程や進捗状況は、「北山(今帰仁)の歴史と文化」のページで公開しています。しばらく、史料の読み込みが続きます。学芸員実習の学生達は、展示作業に入るまでの流れを時々見ておいてください。非常に難しいところから入いています(心配いりません)。今日は琉球大学の学生達(歴史に関心のある?)がやってきたので、沖縄の歴史、特に山原の歴史は下の風景を頭に入れて描いて欲しいと。

 
  本部町崎本部の集落(昭和27年頃)          藍壷のある風景(昭和27年頃)


2007518日(金)

 『渡喜仁誌』の原稿出し(三編分)をスタートさせる。6月末には原稿出し(約450頁)を終えるようなスケジュール。運天の字誌も並行して進める。数本の柱を並行しての業務。楽しくいこう。

 
午前中、4年生達が総合学習でやってきた。三山鼎立時代の伝承を学ぶために。石切り妖刀(北谷菜切) 今帰仁御神乙樽 北山騒動 名刀千代金丸 の物語をやることに。最初なので、歴史文化センターで四つの物語の読みあわせをする。物語がわかってくると、登場する場所や人物、そして当時の様子を理解させることに。分担が決まってくると、今帰仁グスクで石積みや千代金丸が切った場所、乙樽の生れた集落跡などの確認。

 読み合わせをしただけなのだが、一人ひとり自分がやりたい部分を内々決めているようだ。


      ▲1年間の流れの説明              物語原稿の読み合わせ


2007517(木)

 小学6年生の総合的学習がスタートする。700年の今帰仁の歴史をクラス全員でドラマにして行こうと。三年間付き合ってきたメンバーなので、今年はこれまでの仕上げでもある。最終の目標は、全員で歴史をテーマに今帰仁グスクで歴史ドラマを演じることである。今年のスケジュールとその進め方、そして何をするのかの説明。最終の目的は今帰仁グスクで歴史を演じ、16名一人ひとりが分担をしっかりと自分のものにし、さらに16名が手をつないだ時に、700年の歴史が見えてくるものにできればと。1月には今帰仁グスクの来城者に披露することに。便宜上、以下の8グループにわける。

 北山王の時代(怕尼芝・珉・攀安知)
 第一監守時代(尚忠・具志頭王子)
 第二監守時代(前期)(尚韶威・介紹・和賢・克順・克址)
 第二監守時代(後期)(縄祖・従憲)
 間切時代(前期)(1666年~明治12年:廃藩置県)
 間切時代(後期)(廃藩置県~明治41年)
 村政時代(戦前)(明治41年~昭和20年)
 村政時代(戦後)(昭和21年~現在)

 説明が終わると解散であるが、生徒たちはどの時代にしようかと、早速展示からヒントを得ようと館内を。やる気マンマンのクラスである。一緒にどこまでやれるか。それは楽しみである。


     ▲10名の女生徒グループ       押され気味の男性達。担任もはいて!


2007516日(水)

 しばらく遠ざかっていた『明実録』の山北の記事に目を通したくなる。歴代宝案編集参考資料5に『明実録』の琉球史料(一)として、原文篇、訳文篇、注釈篇を掲げ公にされている(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室)。非情に有り難いことであり、感謝するものである。この訳文と注釈を通して、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を、一歩、二歩、踏み込んでいけるのではないかと考えている。まずは、山北王の記事の全てを拾い上げることから。

【明実録】(北山の歴史と文化)

 『明実録』に山北王が記されるのは洪武16年(1383)からである。洪武16年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。

 山北王怕尼芝は洪武16年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。
 
 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割はになっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。

 『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度36年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。

 攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。

 (『明実録』の記事を読み込んでいると、北山王の時代が少しではあるが見え隠れしているような。工事中)

【山北王怕尼芝】
(7)

洪武16年(1383正月丁未(3日) 
  詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。
  山南王承察度も亦た之の如し。亜蘭匏等は文綺・
・帛を賜うこと差有り。時に
  琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等
  を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、滄溟の中
  に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)
  えんや。

  王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣
  わして朝貢す。朕、王の至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何
  ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に
  符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わく、琉球の三王
  互いに争い
て農を廃し民を傷つく、と。
  
  朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、
  と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安か
  らん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民
  衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。
  邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察
  度も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近
  ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
  
  朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体
  し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然
  らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

洪武16年(138312月甲申(15日)
  琉球国山北王怕尼芝、其の臣模結習を遣わし方物を貢す。衣一襲を賜う。

洪武17(1384)正月己亥(1日)
  琉球国中山王察度・山南王承察度・山北王怕尼芝・暹羅斛国王参烈宝毘牙偲哩録及び
  雲南・四川・湖広の諸蛮夷の酋長、倶に遣使して表を進め方物を貢す。文綺・衣服を賜うこ
  と差有り。

洪武18年(1385正月丁卯(5日)
  琉球国の朝貢の使者に文綺・鈔錠を賜う。及び駱駝鍍金銀印二を以て山南王承察度・山北王
  怕尼芝
に賜う。又中山王察度・山南王承察度に海舟各一を賜う。

洪武21年(1388正月戊子(13) 
  琉球国山北王怕尼芝、其の臣を遣わして方物を貢す。

洪武21年(13889月丁亥(16) 
  琉球国中山王察度・山北王尼怕芝、其の臣甚結致を遣わし、表を上りて天寿聖節を賀を貢
  す。来使にを賜うことを差有り。

洪武23(1390)正月庚寅(26) 
  琉球国中山王察度、亜蘭匏等を遣使し表を上りて正旦を賀し二十六匹・硫黄四千斤・胡椒
  百斤・蘇木三百斤を進む。王子武寧、五匹、硫黄二千斤・胡椒二百斤・蘇木三百斤を貢す。
  山北王怕尼芝李仲等を遣使し一十匹・硫黄二千斤を貢す。而して中山王遣わす所の通事
  屋之結なる者、附して胡椒三百斤・乳香十斤を致す。守門せる者験して之を得、以聞すらく、当に
  其の貨を没入すべし、と。詔して皆之に還す。仍お屋之結等六十人に錠各十錠を賜う。


【山北王珉】(1)

洪武28年(1395)正月丙申(1日)
  是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・
   馬匹を進む。

【山北王攀安知】12

洪武29年(1396)正月己巳(10日)
  
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、
  各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

洪武29年(1396)十一月戊寅(24日)
  琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬
  三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
  是れより先、山南王其の姪三五郎を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢
  理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

洪武30年(1397)二月丙戌(3日)
  琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬
  及び硫黄を貢す。

洪武30(1397)十二月癸巳(15日)
  琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)
  りて馬及び硫黄を貢す。

洪武31年(1398)正月(8日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

永楽元年(1403)三月丙戌(9日)
  琉球国中山王の従子三吾良等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣
  使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯衣服
  を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び倍臣に冠帯
  を賜う。

永楽2年(1404)三月己未(18日)
  琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

永楽2年(1404)四月壬午(12日)
  
詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子
  無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷
  結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
  上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う
  所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜
  いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

永楽3年(1405)四月丙寅(1日)
  琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・
幣表裏を以てす。

永楽3年(1405)十二月戊子(26日)
  琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人
  を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

永楽13年(1415)四月丙戌(19日)
  琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

永楽13年(1415)六月辛未(6日)
  琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。



         今帰仁グスク(志慶真郭・主郭、後方の山はクボウヌウタキ)


2007515日(火)

 「今帰仁の歴史と文化」を描くための手掛かりとなり史料(資料)を一つ一つ取り上げていくことにする。「今帰仁の歴史」や「運天の歴史」を20数年前に書き上げたことがある。もう20数年もなるので、もう一度検討を加えるべき時期にきている。そのこともあって、今年の秋に「今帰仁(北山)の歴史と文化」(仮称)のタイトルで展示会を予定している。一つひとつの紹介は、展示会に向けての作業である。

【池城墓】(北山(今帰仁)の歴史と文化)
 池城墓まで足を運んでみた。今帰仁村平敷の小浜原にある。康煕9年(1670)に造られ池城墓はイチグスクバカと呼ばれる。墓名の所以ははっきりしないが、碑文や墓室の石棺に記された「さき山大やくむい」からすると、「さき山大やくむい」は、首里に住む脇地頭で、その人物は池城家の一人だったのであろう。そのために池城墓と名付けられたと見られる。墓室内にある石棺に「寛文三年」とあり、ちょうど、数年間日本年号を使った時期である。地名は漢字交じりの時期で、平仮名から漢字表記へ移る過渡期の史料である。また、首里に住む脇地頭と扱い村との関係を知る手掛かりとなる。

 墓の左側に石碑があり、以下のように刻まれている。
  表
     大清康煕九年庚戌八月廿一日
      寅十一月八日かけ                未十二月十九日かけ
    一さき山大やくむい 同人女房大あむしたれ 同人子たまくすくのろくもい
       右三人入申ために石さいくたのミ仕たて申候

  裏
         七月十六日八月廿三日まて仕候
      石さいくなはのせそこにやわきさいく内間にや
        戌八月廿三日こかのおきて

 
               今帰仁村平敷にある池城墓

 
  墓庭にある石碑       墓の前を流れるヒチョシナガーラ


2007512日(土)

 今年度最初の「ムラ・シマ講座」を開催する。スタートなので、参加者の顔合わせをしてクボウノウタキへのぼる。晴天なり。館内で今帰仁グスクとクボウヌウタキの予備知識をいれて、フィルドワークへ。

 ウタキとはどんな所だろか? ムラ・シマのウタキとクニレベルのウタキの違い。ウタキの内部の名称。クボウヌウタキの名称の所以。祭祀と関わる神人。上空からみた今帰仁グスク。郭や場所の名称など。

 
      館内で顔合わせ          館内でクボウヌウタキと今帰仁グスクの説明

 
       クボウヌウヌキのイベで             クボウヌウタキの頂上で


200759(水)

【今帰仁間切今帰仁村のクボウヌウタキ】(今帰仁の歴史と文化)

 
この御嶽(ウタキ)は国レベルのウタキと位置づけている。『琉球国由来記』(1713年)では、今帰仁巫(ノロ)の崇所とされる。本来、三十三君の一人今帰仁阿応理屋恵の崇所ではなかったか。『琉球国由来記』が編纂された頃、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていた時期、あるいは廃止されていた時期でもあり、今帰仁阿応理屋恵が今帰仁に居住していた時は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場としていたと見られる。勿論、祭祀に今帰仁ノロや村の神人や間切役人や村人たちの参加があったであろう。

 今帰仁阿応理屋恵が首里に引き揚げると、クボウのウタキでの祭祀は今帰仁ノロが肩代わりしたものと見ている。後に今帰仁阿応理屋恵は今帰仁で復活するが、今帰仁ノロが肩代わりしたのを、しっかりと元に戻すことができなかったのだと見ている。

 クボウのウタキでの祭祀が、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場、つまり国(クニ)レベルの祭祀だったというのは『琉球国由来記』(1713年)に表れた「君真物出現」と以下の祈願の趣旨から読み取れる。クボウの御嶽での祭祀は村(ムラ)の御嶽での祭祀とは異なるレベルの祭祀であると位置づける必要がある。三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵が今帰仁按司(監守)と密接に関わっており、北山監守の設置と「君真物」を迎える今帰仁阿応理屋恵の祭祀と表裏一帯の関係にあったことが伺える。因みに三十三君は王室関係の女性である。

  【今帰仁間切今帰仁村コバノ嶽】
   謝名村ニ、アフリノハナト、云所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立時ハ、コバウノ嶽ニ、
    赤冷傘立、又コボウノ嶽に、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立ト、申伝也。


   首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・
    宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ


  【国頭間切辺戸村アフリ嶽】
    
昔、君真物出現之時、今帰仁間切、アフリノハナニ、冷傘立。時コバウノ嶽ニ冷傘立、又あふり嶽
     ニ立と、申伝也。神道記ニ曰。新神出給フ。キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上之深山ニ、アフリ
     ト云物、現ゼリ。其山ヲ即、アヲリ岳ト云。五色鮮潔ニシテ、種々荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニ
     シテ、一山ヲ覆尽ス。八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ、王殿ニ奏ス。其十月ハ、
    必出給フ也。時ニ託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳をウタフ。皆龍宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所
    トス。傘三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

  【国頭間切辺戸村宜野久瀬嶽】
   そこでの祈願の趣旨は以下の通りである。
    首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子、御スデモノゝ御為、又島国之作物ノ為、唐・大和・
    宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ

  
  【国頭間切辺戸村大川】

    首里天加那志美御子部、並、聞得大君加那志部、御水御撫メシヨワチヘ、拾百年、拾百歳之、
    御ガホウアルヤニ、御守メシヨワチヘ、御タボヘメシヨワデゝ


  
    クボウのウタキのイビの前              クボウのウタキのイビ


200758日(火)

 喜界島・奄美大島から、頭の切り替え中。奄美大島について、まだ全く手つかずなので、頭から消えてしまうので、今回訪れたコースのみ書き記しておくことにする。

【奄美大島】1日目)

 奄美空港節田用安赤尾木(屋入トンネル)大勝(ここまで素通り)戸口(港)田雲(途中道悪し)崎原(漁港)(崎原小中学校)名瀬勝小湊(港)大川和瀬トンネル)和瀬(港)東城見里三太郎トンネル西仲間住用(役所)石原山間(港)前山(行止まり:石原まで戻る:青久と嘉徳まで行けず)(国道85号線)湯湾田検芦検行勝久志(宇検)今里(今里トンネル)名音(名音トンネル)戸円大金久大和浜思勝国直(国直トンネル)根瀬部(根瀬部トンネル)知名瀬小宿トンネル)小宿朝仁(朝仁トンネル)名瀬(午後7時半着:宿泊)
   (奄美空港から嘉徳までの予定であったが、多くの村を回ることができた)

 
    戸田漁港(太平洋側)                      和瀬の集落

 
 住用村役場(現在:大島市の教育委員会)           大和浜の高倉(群倉)

【奄美大島】
(2日目)

 名瀬(午前8時スタート)浦上大浦(峠道)有良芦花部(芦花部トンネル)幾里秋名嘉渡安木屋場龍郷久場瀬留赤尾木芦徳(赤尾木まで戻る)嘉瀬手花部赤木名宇宿城間万屋奄美空港(午前11時着)
       (デジカメのカードを使い切ってしまい、画像はなし)


200755日(土)
 
 5月2日は奄美大島の東海岸から半時計回りに踏査する。瀬戸内町までゆく体力がなく、かつての住用村・宇検村・大和村・名瀬市・龍郷村・笠利町の村々。奄美大島の集落は、ここ三、四年で大きく変貌している。三年に一度は訪れないと・・・。過去の記憶やノートで議論するには心もとないことを実感する。「喜界島をゆく」「奄美大島をゆく」は別に整理することに(多分、途中でほうり投げるでしょう)。明日から頭の中身を切り替えないと。

【喜界島をゆく】(鹿児島県)

 4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。

  
    喜界島湾の港(現在)                    上嘉鉄の集落