沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
               今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
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2020年6月(今月の業務日誌)  5月(先月へ)


今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
今帰仁の墓の調査                今帰仁と戦争(企画展)
大宜味村の神アサギ              今帰仁と戦争 
・今帰仁の印部石                  運天港と戦争
                            今帰仁の戦争体験記録1
                         ・今帰仁の戦争体験記録2

・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年)     ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史           ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)         ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
古宇利島のムシバレー
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告

※4月から「業務日誌」として日々の動きを記すことに。


2020年6月30日(火)

 6月の最終日は「国頭村辺土」で締めましょう。麓から眺めることはあるでしょうが、頂上まで登ることわないでしょう。(結構踏み込んでウタキを考えたような)

【国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004725日)メモ

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

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 ▲辺戸岬から見た安須森      ▲辺戸の集落から見た安須森


【辺戸のシチャラ嶽

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

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▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望  ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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   ▲御嶽の頂上部にあるイベ        ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある 


【国頭村辺戸】(2005624日)メモ

 沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。

 空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。

 安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。

 『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、

   新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
    アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
    八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
    託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
    三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

     
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 ▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ)     ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)

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 ▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島   ▲辺戸岬からみた与論島

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 ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が  ▲国頭村奥の港(干潮時)


2020年6月29日(月)

 休み明け、問い合わせ三軒。字誌の原稿校正、「山原の間切の御殿」の原稿整理(40頁)、紙だし。戦後処理の深刻な問題。「寡黙庵」から元の業務に戻りそう。それも楽しいもんだ。明日はなにがあるやら! 

今帰仁間切村全図など
(参照)
  


2020年6月28日(

 
寡黙庵のイチゴの土の入替。コロナウィルスの影響ではないが、手入れが行き届かず実りが悪かった(粒が小さく:数粒:甘い甘い、甘さは変わらず)。夕方嫁と孫が自宅にきて「じじいのお腹、大きい」とベルトのプレゼント。

  
 ▲土の入替てイチゴの植え替え             ▲実ったイチゴ、今度はどうかな?

北山の歴史」(一部)原稿


2020年6月27日(土)

 金曜日だと勘違いして出勤の準備、金?土? 土曜日、損したような、得したような。「新城徳裕関係資料」は今帰仁村歴史文化センター蔵。展示会を開催したことがある。企画の資料は『なきじん研究10巻』(2001年発行:297頁)に掲載。「寡黙庵」の調査記録は、新城徳裕氏の記録ノートを整理したことがあり、その延長に位置づけている。


以前、「今帰仁と戦争」で紹介した新城徳佑氏ノートの「大浦崎」を紹介。直に戦争を体験し収容された記録です。大浦崎は現在の名護市辺野古のキャンプシュワーブ。そこで作詞・作曲もしています。三線(サンシン)の楽譜もあります(二曲のみ)。戦後10年間新城氏が公務につけなかった理由が「大浦崎」でわかります。新城徳佑資料の調査記録ノートと写真は『なきじん研究 10号』(297頁)に収録してあります(「大浦崎」や芸能関係は目録は未掲載)。 

【新城徳佑氏資料】(「大浦崎」)

 七月二一日夕刻(昭和20年)、余は捕らはれの身となった。海軍飛行中尉渡辺芳雄をかくまった理由によって、遂に米軍の知る所となり大浦崎なる米軍政府へ引かれし、数時間の尋問をされ、其の処へ一晩泊置かれ、翌早朝宜野座なる情報本部へ移され、数日間の尋問の後宜野座大久保にある金網に入れられた。

 爾来朝夕二食に空腹をかかえつつ解放となる事を祈ったが、益々苦しさが増すばかりにて愈よやせ細り我が手我が足かと思うばかり骨と皮とに、やっと息を通わせている。夜ともなれば我が特攻隊の敵状偵察に手に汗を握り、かすかなる爆音に無事を祈るのであった。

 かくして一月余り、八月二五日(昭和20年)裁判する事に決まり、大浦崎本部へ移され、家族並びに衆人多数傍聴の前にて裁かれる事とはなったが、既に罪状決して居ると見え、芝居じみた裁判を一週間も続け、八月丗一日其れぞれ刑が決まり、余は九月一日より翌五月三十日までの九ヶ月間禁固の刑を言い渡された。

  思へば余等の行為は日本人として当然の事と思うのであるが、敵米からすれば矢張り罪人であり、敵対行動であるが、それにしても、余りに重い罪刑である。然るに尚女の子等も余と同じ刑とは、気の毒至りである。判決に依り、爾来大浦崎なる金網へ入れられる事となり。家族の面会及び差入等も許され、不自由ながらも楽な生活を導く事が出来た。同志男十名、女四名は□国情を論じ、或いは世界の情勢を語り合い、尚不遜米国の非をならし、時としてはトランプに興を乗せ、余は初□の□を得る。

 斯くする内に一ヶ月すぎ、十月(昭和20年)と成りぬれば早や朝夕肌寒く毛布の請求すれど、何らの手□りとなく、一同がこち居る内、伊江は久志に移動、本部、今帰仁は郷里へ移動する事と成ったれど、何時とも分り得ざりて、只民心の動揺するのみなりしが、十一月の声を聞くや秋に移動開始され、家族も郷里へ帰る事となりたり。然るに我等は如何になるか定めつかず、依って警察を通じて幾回となく交渉せるも何等の便りなく遂に意を決して逃亡せる者六名、二日後には女二人、男三人逃げ去りて今や我一人、女二人となりたれど解放の報あるによって、我等三人は最後まで残りて解放となり。其の報を彼等に知らさんとせるも遂に解放とならず、然も久志へ移転とて、米憲兵のトラック持ち来たりて、引き去らんとす。

  今やこれまでと我も直ぐに逃げ去れど、逃げおくれて久志へ連れ去られし、二人の女共の気の毒よ。其の日十一月八日余は移動のトラックに乗せて貰う事にして、遂に此処まで逃げ伸びたり。然るに尚探査の由にて部落へ落ちつかれざる故、一泊の後翌九日は里今泊へ行き、其処へ宿泊し翌日謝名なる同志と打合わせて、今後の身の振り方を決める可く一夜を語り、世を遊る可し、山奥の苔屋に老人と活らす事とせり。時に十一月十日は曙なりき。

  翌十二日朝老母(彼も米軍の為に家は焼かれ一人息子を戦地へ送り生死の程も知らず、只朝夕息子の生還を祈りつつ細々と然と彼の老爺の家に寝起き致し居りたり)の湧かす茶を啜りつつ過ぎ越し方を思い浮かべながらペンを走らせたり。

 午前九時頃、初めての山道を迂回して謝名へ向う。鬱蒼たる椎の下道を幾度となく、行き過ぎ、又後戻りしつつ、やっと謝名林道を探しあて、ひた下りに下りて、昼頃漸やくにして着く事を得た。例の小屋には矢張り同志が陰れ居り、明日の事を約して、午後五時頃我が茅屋へと急ぐ。近道をと思へど山道の事とて、又もや踏み迷いしが、辿り辿りてやっとの事、夕暮れと共に着き、前の小川にて汗まみれのシャツと体を洗い、苔屋へ入れば、老人二人夕食をすませ、茶鍋のいろりを囲み、我が来るのを待ち居たる様子。老婆の入れしカンダ葉のおぢやのおいしい事、瞬く間にお碗の二杯を平げたり。

  昨日(昭和20年11月13日)同志との約束、雷管探しに午前中に我が茅屋へ行く。若し来なければ先方で馬をあつらえるからあちらへ来いとの事。故昼迄待って見たが何のおとづれもない。さてはと馬肉が久し振りに食べるぞと急ぎ行けば案の定、朝未明にやったとの事で一同ゴロ寝致し居り、何だか血醒い匂がすると思ったら、早や宿のおばさんが芋膳においしそうな肉を盛り立てて持って来る。皆で舌鼓を打ちつつ四方山の話が次から次へと果てしなく続く。

  夕方肉を同志の家から貰い我が家へ帰れば、老人二人我が帰るを待つ。二人にそれを与え、家族の安否と移動を尋ねべく、部落へ来れば妹の家族のみ着きいたり。れば、老人二人我が帰るを待つ。二人にそれを与へ家族の安否と移動を尋ぬべく部落へ来れば妹の家族のみ着きいたり。

◎あはれなつかし故郷から
 大浦崎へと運ばれて
 日毎夜毎にやせほる

 六月下旬米軍の命により久志村辺野古長崎へ移動、赤土の禿山で、然もマラリヤ地帯、住民は毎日作業で黒くやせる。

◎国を思ひねられざる夜の
  うさつらさ
  月さす窓に見る女かな

 無惨にも物量の為めに征服せしめられた沖縄、大八車も悉々斯くなりしか。否悠久の歴史は尚燦然と輝やいているのだ。然るに何たる態だ。物量の前に心から服しあさましくも飯を得んと操までみつぐとは。而も彼女等も数カ月前まで、我ぞ大和撫子なりと皇軍将士を慕いし者であったが。

◎教え子をいくさに送りし先生も
  いま米兵の壮途を送る

 敵激心昂揚に時局講演に寧はなく、只上御一人の為めにのみ教鞭をとっていたのであるが、今や物量の勝利者の前に路を□□とめられた。

◎秋風や強者共が□を吹き
  戦い破れて山に潜んで再起を
  待てど其の甲斐なく遂に
  捕らはれて引かれ行く
  あゝ何たる恥ぞ
  敗戦の哀れ益々身にしみる 

◎相川の清き流れの徳うけて
  稔る稲穂の黄金波かな

(自今相川と改姓し、名も徳祐(トクユウ)と改む)

(昭和二十年十月十日)

◎共に働き共に語りし       ◎あの日あの時  
  去にし年            感激の 雨にぬれて
  我が強者            歌うた歌
  雨もよひの夕方         君が靴音と共に
  君が首途を見送った       消えて行った

◎送るも送られも         ◎思へば君から貰った
  只君の為めにと         あの歌も
  思へど其の日は         あの画も
  みんなの             戦場に焼かれ
  瞳がうるむのだった        今は果散なき
                    思出となった

◎あゝ君よ
  永久に眠れ
  瞑して護国の神となれ
   永久に
   永久に
  護国の神となるのだ

一、おはれなつかしき故郷から  二、去年の今頃一億が
  大浦崎へとはこばれし      進軍するぞと誓ったが
  日毎夜毎にやせ細る       今ぢゃヤンキの保護の下

三、瞼に浮かぶ兄さんが       四、怒りは深し四百の
  待てど帰らず今日も亦        魂はねむる長崎に
  夕日は沈む久志の嶽         今日も降る振る涙雨

五、大浦崎の灯ともし頃
   大浦湾に風あれて
   心すさぶ哉波の音 





2020年6月26日(金)

 『今帰仁村史』歴史編(上・下)の編集から字誌や問い合わせなどで、ちょっと離れている。もとに戻すことに。「千代金丸」(国宝那覇歴史博物舘蔵)の複製のとき、「北山の滅亡と千代金丸」のシンポジウムや大学の講義で紹介したことがある。その時代を整理してみるか。





2020年6月24日(水)

 墓調査データが見つかったので記録アップ。それと過去の古墓を開けた時の立ち会いの画像も。平成の初期は調査というより、「墓を開けるので見て欲しい程度のもの。墓を開けたら分けのわからない年号があるや、墓の銘書にある村、ウチはその村出身でないのに?」その程度の知識の頃。

今帰仁村謝名トーヌカでの遺骨の移葬記録(6月21日調査)
今帰仁村大井川下流域の古墓①②③④・・・・


2020年6月23日(火)

 沖縄は「慰霊の日」、一週間前から「今帰仁と戦争」の記録を思い浮かべる気の重い日々を過ごしている。昭和15、6年頃の児童生徒の作文に目を通している。戦争体験の話や戦争について限られた時間で「戦争の悲惨さ」や「平和のありがたさ」を身に染みつかせる学問はないものか。風化させないことも含めて学校教育の過程で義務化する必要がありはしないか。「沖縄の歴史」さえできていないし。コロナウィルスの最中、人の移動、経済の流れ、国債の発行、一部物の配給、マスコミのニュースの流し方、コロナ爆弾で脅かされいる今は、まさに戦時中の様子を思い描いている。「あなたはどうするの!」の声が聞こえてくる。昨日のトーヌカ調査も戦争避難場所の一ヶ所である。その方に逢いに伺ったが留守。平和記念記念公演に参拝に行ったかも。今帰仁の戦争体験記録2 の仲嶺氏。

 運天の海軍壕の何カ所かいく。歴史の場であった運天港、平和学習にどう活かせるか? 

2020年6月22日(月)

 日曜日のトーヌカの墓調査のメモと画像がメモが不明。銘書の詳細はメモが出てきてから。概要のみ。
 トーヌカの開いた墓の確認(移された墓が目立つ)
 今回移葬したT家の墓も古墓の並びにある。
 午前10時頃に現場に着く。しばらくして業者がくる(二人)
 午前11時頃は墓庭の掃除をし供え物を置きお坊さんの祈りをする準備をする。
 11時半頃、墓主と一族(数人)が集まる。
 お坊さんの祈りが終わると墓を開ける(業者)。開ける間、主は葬られている親?
 は音楽が好きだったということで民謡を流している。
 坊さんの開ける祈りが終わると、参加者一人ひとり線香を添える。
 墓は柔らかい岩壁へ横への掘り抜き。墓口は二月に一度開けたとの事で、
 ブロックで閉じてあり、ブロックを取り除く。
 10基余の厨子あり。
 火葬された骨壺は二、三基。(今帰仁村での火葬は昭和36年から)
 幼児の骨壺が二基。
 洗骨されたのが□基。
 銘書の一番古いのは墓を造った方とみられる人物。□□年人物名、生まれ年、
 年齢など(ノートメモが見つけてから)
 一族に厨子甕の確認。一族はそれぞれ帰宅。墓主は遺骨を移すまで立ち会う。

などなど。(私のウガン不足だったのか記録メモと画像が不明。画像はパソコン内、メモは職場か、寡黙庵か)


2020年6月21日(

 今帰仁村謝名のトーヌカへ。戦争体験で紹介した仲嶺盛仁氏の一族が避難した場所である。それとトーヌカの墓地にある田港家(砂糖消費税請願に登場する人物がいる:明治34年)の移葬が行なわれるというので、その立ち会い。岸本村(現玉城)に明治初期、首里→大宜味村田港→今帰仁間切へ)の伝承を持つ。

  (詳細は明日にでも)


2020年6月20日(土)

 
以前「今帰仁と戦争」をテーマに記録づくりをしていた。その原稿は途中で記憶の彼方へ。「今帰仁と戦争」の企画展の展示資料を復活させていると「今帰仁の戦争体験記録」があり復活させることに。「体験2」は復活させることができましたので掲載。「体験1」も復活途中(後半部分)どこか彼方へ。それで2から。高校や小学校でなんども「平和学習」をしてきたが。

今帰仁の戦争体験記録1

今帰仁の戦争体験記録2

 さて、午後から庭木の剪定と草刈り作業。熱射病にならないように。


2020年6月19日(金)

 6月23日が近づいてくる。「今帰仁と戦争」(企画展)開催しています。その後も戦争につての聞取りをしています。それは『今帰仁と戦争』編に集約していきます。コロナウィルスの状況は、戦争状態。病院がない、薬もない時代、病がはやってお手上げ状況。おさまるのを待つのみ。

 そのような時代、行なってきた祭祀がある。古宇利島のプーチウガンである。旧暦の4月と10月の吉日に行なわれる。島に流行病がはやらないように、島や集落への出入り口でのウガンをする。歴史を読み取っていく時、その時代の状況も念頭に入れての読み込む必要がある場合がありそう。プーチウガンの様子は『なきじん研究 第17巻―古宇利島の祭祀の調査・研究―』所収(平成22年今帰仁村教育委員会:歴史文化センター発刊)。(調査まとめ:仲原・ナミジ・石野)

 「今帰仁と戦争」の問い合わせあり、説明したら企画展のことが頭の中を駆け巡り急遽アップ。頭がスッキリ軽くなりました。それ、出勤。待ちかねた金であるが、日曜日は墓調査。月は文化協会の20周年の記念誌の編集打ち合わせ。

 戦争については、以下のHP参照。
   今帰仁と戦争(企画展)
   今帰仁と戦争
    ・運天港と戦争


2020年6月18日(木)

 編集委員の皆さん、「コロナ(冠)でいい意味だろうにね」「各地で悪しているね」「ノロウイルス時もだね。沖縄のノロさん迷惑したさ」。マカイワイドゥクル(お椀割る場所)とシマワカリ(島ワカレ)の場所の確認。小学校のグランド近く。

 第□編の人物紹介編の説明(執筆者が紹介:大城秀昭氏)。40名余の紹介。シマを出た方々が大半、人物一人ひとりのエピソードを聞いていると活きた字誌、血の通ったとなりそうだ。兼次大工の技術、山城時計店(時計店は山原人:ヤンバルンチュ)

 「兼次エイサー節集」(兼次青年会)(区長)や「シマの方言集」(諸喜田佳春氏)、故島袋源一郎氏奥さんのアルバム(貴重な写真たくさんあり)、兼次のグシクジ岩の絵(諸喜田誠氏)などの提供あり。次回は「兼次エイサー節」を謡うことに、サンシン持参のこと。兼次の方言は執筆者に方言で発音をしてもらうことに。楽しみ!

 
   ▲久しぶりの兼次誌編集会議(第7回)

 
▲兼次のグシクジ(諸喜田誠氏画)   ▲水倉の工事会計簿(1953.10)


       ▲「兼次のエイサー節集」(一部)

2020年6月17日(水)

 1846年今帰仁間切運天港を訪れている。『幕末日仏交流記』から幕末の運天港での様子を見る。船員の病死、埋葬の様子。墓地の選定、 琉球側から牛一頭、羊二頭、雌鳥一五羽、卵一五〇個、野菜五〇ポンド、薪五〇束の贈り物提供するなど興味深い様子が伺える。

 
   ▲船員と兵員を葬ったオランダ墓(二人の墓碑)(フランス船)

『幕末日仏交流記』フォルカード神父琉球日記より 

1846年(弘化四) 五月二日
 ・サビーヌ号(艦長ゲラン)那覇港に入港、那覇にレチュルデュと呼ぶ宣教師を上陸させる。

1846年(弘化四)五月三〇日
 ・コルヴェット艦早朝運天港に向けて錨をあげる。フォルカードは寺に残る。

1846年(弘化四)六月三日

 ・運天港からフォルカードに陸路手紙が届く。

1846年(弘化四) 六月四日

 ・朝九時頃、ヨーロッパの船が到着する知らせを受ける。
  コルヴェット艦ヴィクトリューズ号(Victorieuse)が那覇港に船首を向けて停泊の体勢に入っていた様子。突如帆を揚げ北の方に向った。

1846年(弘化四) 六月六日

 ・クレオバトラ号が姿を見せた。フォルカードは荒れた雨の中を小舟でクレオバトラ号に接舷した。
  セシーユ提督は不安げな様子でフォルカードを待っていた。

1846年(弘化四 ) 六月六日(旧暦五月七日)

※風が吹いて運天港に入ることができなかった。

二~三時頃、水先案内人の指示で狭い難所を通り抜けて入港した。

・フランスの東洋艦隊の司令官セシル提督が軍艦三隻(クレオバトール号、サビーヌ号、ビクトリュウズ号)を率いて、琉球本島の運天港に人港してきた。

・クレオバトラ号は投錨しようと決めていた地点まで来たが、識別できない暗礁に乗り上げてしまった。他の二隻や大勢の水兵たちのお蔭で離礁することができた。

1846年(弘化四) 六月七日

朝、上陸する。ルテュルデュ師が手に入れた家でミサを捧げた。

1846年(弘化四 ) 六月八日

・昼頃、紫冠が黄冠と赤冠を大勢引き連れてやって来た。北山の府官だと名乗った。高官を首都から派遣してもらい交渉を進めたいと要望した。

・首里に行くには三日、戻ってくるまで六日かかると返事する。必要なだけ待つと返事する。金は支払うから艦に必要な食糧を与えてくれるよう要請する。

琉球側から牛一頭、羊二頭、雌鳥一五羽、卵一五〇個、野菜五〇ポンド、薪五〇束の贈り物をしようとする。

1846年(弘化四 ) 六月十日

・セシール提督、午後から陸路を歩く。港の近辺は首都の町はずれの田畑ほどではないが、手入れが行き届いている。

1846年(弘化四 ) 六月十一日

提督の御供をして古宇利島に出かけた。地図で確認すると小さな島。島と同じ名前の村が一つあるだけ。耕地もあるが、島の大部分は巨岩と原始林のような鬱蒼とした森で覆い尽くされている。

1846年(弘化四 ) 六月十一日

・ビクトリューズ号 船員 亜各伯病死

1846年(弘化四 ) 六月十二日

・フォルカードはルテュルデュ師の補佐でヴィクトリューズ号の水兵の葬儀を執り行った。

埋葬の場所は港方にせり出した岬の突端で、見晴らしのよい場所が選ばれた。

墓には木の十字架が立てられた。

住民たちは墓や大砲には敬意を払っているので、侮辱的な扱いをすることはないだろう。

・午後、提督は首里から来る高官に渡すために容易した覚書の内容をフォルカードに聞かせた。

1846年(弘化四 ) 六月十五日

・提督とフォルカードは屋我地島へ行く。島には村が四つしかない。美しい小川がある。

1846年(弘化四 ) 六月十六日

・昼食後、古謝(尚延柱)という名の総理官が到着する。明日一時に接見する予定。

1846年(弘化四 ) 六月十七日

・正午か一時頃、フォルカードと副官は提督のボートで陸地まで総理官を迎えにいった。他に二隻のボートが出て総理官の共の者達を乗せることになっていた。 

― 省略 ―  

1846年(弘化四 ) 六月二〇日

・クレオパトール号の船員 方済加略病死
・軍医から使いが来て夜中に起こされた。

長いこと病に伏していた兵器係の二等兵が突如として絶的な状態に陥った。

この気の毒な男は意識がはっきりしているのだが、自分の最期がそれほど近いとは思って
いない様子。

フォルカードが何と言おうと告解する決心がつきかねていた。

朝の五時か六時に病室に行ってみると、誰にも気づかれず他界した直後であった。

1846年(弘化四 ) 六月二三日

・最近埋葬された二人の水兵の墓の上に墓石を建てることを提督が了承してくれるかどうか聞きにきた。

  ・オーギュスタンが戻ったら、墓碑銘を考えるだろうから、それを刻むとよいでしょう。

  ・中国で普通キリスト教徒の墓に刻んでいる漢字の墓碑がよいと思う。既に木の十字架が
   立っている
が、これはそのままにしておけばいい。その上にフランス語で死者の名前、年
   齢、死亡年月日などを入れるとよいだろう。

1846年(弘化四) 六月二三日

・今日府官は、二人の水兵の墓の工事を開始させた。

1846年(弘化四) 六月二六日

・サビーヌ号が停泊している背後に小さな洞窟があり、水兵が牛を二、三頭世話をしている。貧しい人々の家が三、四軒あり、水兵はここの住人たちと深い友情で結ばれていた。水兵はどの家にも出入り許されていた。そこで船での食糧やサツマイモを住民たちの間で分け合っていた女たちは西洋の野蛮人から逃げるどころか、夫たちと共に彼の前に平然と座っている。

首里王府や薩摩役人は外国船の乗組員の監視をする。

・運天港に入港したセシル提督は、地区の長老(親方)を艦上に招く

・セシル提督みずから上運天村の海岸に上陸して威勢を示す。

交易の交渉を進めようとするが失敗に終る。

薩摩藩の首脳部と江戸幕府との間で琉球国問題について会議が行なわれる。

・島津の支配下にある琉球での部分的な交易を鎖国の方針に影響を及ぼさないという条件で、幕府は暗黙の了解を与えた

・首里王府はセシル提督の申し入れに大して、物産がない、外国貿易を行なうにたりる生産物の余剰がないことを理由に拒否した。

1846年(弘化四 ) 七月五日

運天港を出港して長崎に向う。

・宣教師フォルカードもフランス艦船に乗船して琉球を去る。

1846年(弘化四 ) 八月二七日

・一隻のフランス船が入港してきて、レチュルデュと高オウガスチヌ(フォルカードの助手)を乗せて引き揚げる。


2020年6月16日(火)

 「第7回 兼次字誌」の編集委員会に向けての原稿整理。下の「第五タンク」(整備の集合写真あり)の紹介をしたことがある。その調査が今帰仁村の調査(昭和56年頃)のきっかけだったような。当時のこと整理していませんが、今帰仁村の印石(パル石)、史料紹介、村の変遷、百按司墓、池城墓など。北山の歴史、運天の歴史などコンスタントに発表しています。そのつながりで「今帰仁村教育委員会」へ(平成元年4月)。歴史資料館準備室(平成7年歴史文化センター改称)、『なきじん研究』(1巻~19巻)の発行。執筆や編集が思い出されます。また、今帰仁村には小字図がなく小字の境界線を一筆づつ確認作業をしながらの線引き(村全域)、そんなことを思い出しながらの字誌や村史の原稿整理。(編集委員会は明日:水)

 
  
▲第一号タンク           第二号タンク

 
   ▲兼次の第五タンク           ▲ウイヌハーでの集合写真(昭和8年)

1、字名と概況

 兼次は古くは兼城村(『絵図郷村帳』、一六四八年)と記され、方言でハニーシやカニーシと呼ばれている。玉城がタモーシ、中城(仲尾次)がナコーシと呼ばれるのと同様、兼城(兼次)をハニーシやカニーシと呼ぶものである。兼次のハニやカニは金属(鉄)に関わり、「りっぱな」「すぐれた」などの意味を持つ地名だろうか。そして「…シ」は玉城や中城の「城」にあたり、「りっぱな城」とでも解されようか。しかし兼次は志慶真川を挟んで今帰仁城跡と相対する場所にあるが、「りっぱな城」に隣接する、あるいは望める地に由来するとするには早計すぎる。

兼次は宿道(スクミチ、現在の国道五〇五号線)を挟んで北側と南側に集落が発達し、北屋敷原と南屋敷原の小字名で呼ばれている。集落のある一帯はムラウチと呼ばれ、山手の方から移動してきたもので、故地を古島原という。

兼次の小字の名づけ方には、古島を基点にした場合とムラウチを基点にした場合がある。古島原はムラウチから見た地名で、かつて兼次の集落があったことを示す。前名原は古島から見た位置での呼び方である。後原は古島とムラウチ、どちらの位置からも読み取れる地名であるが、他の字ではアタイ原(集落となる所)の北側にクシバルやシンボロが位置していることから、兼次の後原は古島から見た呼び方と見た方がよさそうである。

兼次は北屋敷原・南屋敷原・福地原・西後原・東後原・山蒲原・川原・糸川原・前名原・古島原・大道原・猪之平原・山之堂原の十三の小字からなる。兼次から二基の原石(ワとソの加祢寸原)が確認されているが加祢寸原は現在の小字にはない原名である。

【兼次の小字一覧】

No.

現在の小字

方言読み

明治36年の字名

備考

1

北屋敷原

ムラウチ

字北屋敷

 

 2

南屋敷原

ムラウチ

字南屋敷

 

 3

福地原

フクチバル

字福地原

 

 4

西後原

イリクシバル

字西後原

 

 5

東後原

アガリクシバル

字東後原

 

 6

山蒲原

ヤマガンバル

字山蒲原

 

 7

川 原

ハーバル

字川原

 

 8

糸川原

ヒチュハー

字糸川原

 

 9

前名原

メンナー

字前名原

 

10

古島原

プルジマ

字古島原

 

11

大道原

ウフドー

字大道原

 

12

猪之平原

イリンビャ

字猪之平

 

13

山之堂原

ヤマンドー

字山之堂

 

「ワ 加祢寸原」と「ソ 加祢寸原」の原石がある。

2、兼次の小字 

①北原屋敷(キタヤシキ、ムラウチ)

 国道五〇五号線北側の集落一帯で兼次の北端に位置する。東および北は字諸志と、西は字今泊と接している。南に隆起する緩斜面に石垣と福木に囲まれた屋敷が多く見られ、北へ展開して北端部で諸志の集落と接している。東側の現在植物園になっているあたりは学校地屋敷といい、明治二一年から一時期今帰仁尋常小学校が置かれた場所で、学校や集落東側の人達が使用した井戸(アガリガー)が残っている。現在の兼次小学校の敷地内にはイリガーがあり、集落西側の人達が生活用水として利用したという。学校地屋敷には戦前シジマサーターヤー(志慶真砂糖屋)があり、兼次と諸志両字の人達が使ったもので、戦後も機械化されたサーターヤーと精米所があった。集落北側に広がる平地は地番は諸志であるが、兼次の人達も耕作している。隆起珊瑚礁よりなる島尻マージ(『今帰仁村史』)で、一九六〇年後半まで稲作が行われていた。土地改良事業で客土がなされ、現在は緑化木やビニールハウスによるスイカの栽培が行われている。 

②南屋敷原(ミナミヤシキ、ムラウチ) 

 国道五〇五号線南側の集落一帯で兼次の北部に位置する。緩斜面に集落が形成され、石垣や福木の屋敷囲いが多く残っている。中央部に公民館、神ハサギがあり兼次の中心地である。かつて南側台地上の古島原にあった兼次の集落はここ南屋敷原に移動し、さらに北に広がっていったという。公民館北側のゲートボール場は、お年寄りがゲートボールを楽しむほか、子供たちの格好の遊び場になっている。八月の盆踊りもそこで行われている。その東側の空き地には五、六年ほど前まで煙草の乾燥場があった。乾燥場のできる以前は芋などを洗う池だったという。北東部の国道沿いには昭和八年三月に竣工された水道開通記念碑が建ち、これが第五タンクでお茶用の水として利用する人が多い。南屋敷原には他に第一、第二タンクが残っている。

③福地原(フクチボロ)

 兼次の北東部に位置する。西は台地の縁にあたり斜面に広葉樹が茂る。東は字諸志に接し平地が広がっていて、かつては田んぼであった。西側集落近くに兼次団地があるほかは民家は少い。団地東側の森の下には戦後しばらくまでサーターヤーがあった。上組と下組の二基のサーター車があり、牛に引かせて砂糖を絞っていたと

④西後原(イリクシバル)

 兼次の北西部に位置し、西は今泊に接する。集落の西側後方(クシ)にあるごく小さな小字で、農道北側緩斜面にガジマルが植えられているほかは潅木が茂っている。南屋敷原との境界線の西側に、かつて使用された第三水道タンクがある。 

⑤東後原(アガリクシバル)

 集落のクシ(後方)東側にあり、兼次の北部に位置する。北側緩斜面に南屋敷原から集落が続く。南側にカネシバンタと呼ばれる崖があり、以南は海抜七〇mから一〇〇mほどの台地になっている。カネシバンタにはかつて三〇本近くの並松(ナンマチ)が続き見事な眺めだったというが、沖縄戦や台風、松食い虫の被害で倒れ、現在は東側に一部残っているのみである。西側では代わりに木麻黄が植えられている。カネシバンタ南側には兼次古島遺跡があり、沖縄貝塚時代中期から後期の土器、石斧、叩き石類のほか青磁器、褐釉陶器などが出土している(『今帰仁村の遺跡』)。東側崖下のウイヌハーは拝所であると同時に、昭和八年に作られた簡易水道の水源として兼次住民の生活に大きな位置を占めてきた。現在もお茶用の水として利用されている。西側斜面、南側台地上では赤木、コバテイシなどの緑化木が植えられている。数年前までは砂糖キビが主だったというが、人件費を払うと採算が取れず、数年前から沿道や公園に植える緑化木に切り替えられている。 

⑥山蒲原(ヤマガマボロ、ヤマガンバル)

兼次の北東部に位置し、東側は諸志に接する。南に上昇する傾斜地で、西は谷になっている。民家はなく、松、椎、想思樹などの森になっている。
 
⑦川原(カーバル、ハーバル)

兼次の中央部に位置し、北は北東から北西へ谷が切れ込んでいて、森林となっている。南の台地上では緑化木が植えられている。 

⑧糸川原(ヒチュハー)

兼次の北西部に位置し、西は字今泊と接する。南に緩やかな傾斜をなし、緑化木が植えられている。北は谷が切れ込み、森となっている。言い伝えによると、ヒチュとは糸のことで北山王の時代に南側の泉で絹糸や絹織物をさらしたことからヒチュハーというようになったという。ヒチュハーには御嶽があり、兼次住民の聖地となっている。旧の五月と九月のウフウガンには神人を先頭に字民が御嶽で御願をし、アサギの庭でごちそうを食べながら談笑する。以前は若者や子供達も皆参加してにぎやかだったというが、最近は少なくなっている。現在諸志の出身の与那嶺ユキさん(本部在住)が神人を勤めている。 

⑨前名原(メンナーボロ)

兼次の北西部に位置し、西は字今泊に接する。北側に緩斜面が広がり、砂糖キビ、緑化木が植えられている。原野が多く、南側は志慶真川に下る急斜面で森になっている。明治中期に瓦工場があり、今でもそこの畑に多くの瓦片が散在しているという(『今帰仁村史』)。言い伝えによると兼次が海と面していないのは昔の土地割の時、多く土地をもらうと多く納税しなければいけなかったので畑作に向いていない海の方は取らなかったからだといい「メンナーボロんちょん、けーびらぬ」(土地の良くない前名原とでさえ交換しない)という言葉が残っている。 

⑩古島原(プルジマバル)

兼次の北部から中央部へ細長く伸びる小字で、標高約五〇mの石灰岩の台地上にあり、北は緩やかな斜面をなす平地、南は東半分が平地で西半分が志慶真川へ下る急斜面になっている。北側の平地部は現在地へ移る以前の兼次の集落(中期~グスク時代の遺跡)があったことからプルジマあるいはウンシマ(上島)といわれる。「中期~後期の土器、石斧、叩き石類、青磁器、褐釉陶器、鉄滓、獣骨、貝殻類が採取される」(『今帰仁村の遺跡』)。北東部にある農業用水の溜池(ミジグラ)付近は、稲作当時の苗代があった場所で、もともと小さな池が作られてあったのを大きくして苗代にしたという。耕作は北は一部でパインと砂糖キビが作られているほかは緑化木が多い。中央部では肉牛の放牧が行なわれ、畜舎がある。南は西側急斜面が森林、東側は原野である。

⑪大道原(ウフドーボロ)

 兼次の中央部に位置し、東は字与那嶺に接する。南側が急斜面になっているほかは台地上の平坦地が広がり、昭和四〇年代頃には五,六軒の民家があったが、全てムラウチに降りてきたという。現在では大半が県畜産試験場敷地として利用されている。 

⑫、猪之平原(イリンビャー)

 兼次南部の山林地帯で東は与那嶺、西は今泊に接し、全体の三分の一程の面積を占める。昔猪を捕ったのでこのような地名がついたといわれるが、「西の方の坂(ビラ)が多い場所」の意味であると思われる。中央を南北に志慶真川の上流部が流れ深い谷を形成する。地形は起伏に富み、南端部では海抜二〇〇mに達する。南側には海洋博当時のコンパニオンの宿舎跡が残っているが、一帯は開発が計画されている。

⑬山之堂原(ヤマンドー)

 兼次の最南端で東は字与那嶺、西は字今泊、南は本部町に接する。山林地域で南端部は二九八mに達する。北側は一部開発が計画されている。 


2020年6月15(月)

 休んでいた
「兼次誌」の編集委員会を再開します。今日明日とその準備。シマの人々、砂糖消費税の先人達(明治34年)と土地整理の「今帰仁間切兼次村全図」、現在の屋号、グラビア、公民館資料(主に戦後)などの報告。


                    
▲戦後二回目の公民館前での消防団初会式

2020年6月14日(

 昨日、1719年に本部町具志堅村地に移動した嘉津宇村の跡地(古嘉津宇原)をゆく。村の痕跡が遺っていないか。それと数多い原名である。以前、伊豆味について集落中心に調査したことがある。伊豆味参照

①大当原 ②内原 ③上埋原(アブシ→ウズス→ウズン原?) ④弥上原(イヤーガイ)(現名護市との境) ⑤成志堂(ナンシドウ、難儀堂) ⑥農会原(明治20年国頭農会の試験地) ⑦仲之川原 (明治30年後の集落) ⑧陣城原(北山落城の伝承) ⑨樫名原(樫敷き) ⑩灰原原(石灰を焼く窯に由来) ⑪上土茶原(ウイドチャバル) ⑫しげー原? ⑬久嘉留原(クカルビバル、雑木林?) ⑭石水原(イシンズ?) ⑮恩納原(ウンナバル)上の広場、大きな広場か) ⑯古嘉津宇原(フルカツウバル)(嘉津宇村があった地) ⑰唐又原(カラマタ)(川又か) ⑱大友利原(ウフトムイバル)(トムンは大きなタブの木に由来?) ⑲大根作原(ウフダイコンサクバル)(デーク竹に由来) ⑳亀石原(カミイシバル)(神石か)
㉑下之川原 ㉒福元原 ㉓水当原 ㉔嶽之当原 ㉕寺原 ㉖前田原 ㉗古島原 ㉘下埋原 ㉙伊豆味原 ㉚大当原 ㉛真謝喜名原 ㉜涸川原 ㉝陣名原 ㉞谷窪原 他に

 ・三つ堤(原名はなし、地名としてあり) ・テンジョウ敷(地名) ・みち田(地名:古嘉津宇などの小地名がある。(小地名など未踏査あり) 

 
   ▲窪地が古嘉津宇原          ▲正面の山の中央部に竹を植えて間切境(方切)がある

2017年8月2日(水)調査

 本部町伊豆味をゆく。伊豆味公民館のある内原に集落が発達している。30近い班があり、それが近世期の寄留人が形成した散在集落である。そこには、大当原に伊豆味村、内原に天底村、そして古嘉津宇に嘉津宇村の三つの村があり、祭祀は天底ノロ管轄であった(『琉球国由来記』1713年)。1719年に天底村と嘉津宇村の二つが移動、その地に伊豆味村(大当原)が残り、地割で土地の配当にありつけなかった寄留の人々は山あいに寄留。特に廃藩置県直後に首里・那覇からの寄留が山地で藍づくりが盛んになる。その藍壺が散見できる。

 二つの村の移動、伊豆味内での集落移動、寄留人の多い村、二年おきの豊年祭、組踊り、アヤーチ(操り獅子)など。大正頃まで移転した天底に居住していた天底ノロが伊豆味まできて祭祀を行っていた。ノロ管轄村の変更はなし。移動地でウタキ、神アサギをつくり祭祀は行う理由は?

 内原にあった伊豆味集落も古島へ移動。そこからウタキや祭祀場のある大当原(大内原)に移動した伝承をもつ。祭祀場にはアサギマー、神アサギ、伊豆味神社(昭和4年:お宮)があり、学校の後方はウタキになっていて、そこのイベがある。伺うと今年は豊年祭はないとのこと。

 伊豆味は藍づくり発祥の伝承、明治30年頃になるとパインや果樹栽培が根付いていく。昭和2年頃沖縄県が台湾から導入。加工工場がなかったため、保存のきかない販売だったため飛躍的な発展にはならなかった。旧盆の供え物でアダンの実からパインに変わって供えられるがパイン収入が経済を潤すまでにはならなかった。

 1955(昭和30)年頃にパインブームがおきる。パイン工場が新設され、パインムラとなり、同時に柑橘類や柿、ナシ、ブドウ、栗などの栽培が行われるようになる。ミカン類は王府時代から上納として納められていたようである。「クヌブン木敷」の地名があるようでミカン木を植え管理する山があったようだ(未調査)。ほとんどの屋敷にミカンが植えられている。種類は、オートー、カーブチ(皮厚)、シクヮーサー、羽地ミカン、文丹など。

 ジングスク(陣城)までいく。岩山の下を大井川が流れる。かつては一帯にあった村人の風葬地(ガンサ:合葬)か。戦前は人骨が散在していたという。
 
  
  ▲アサギマーの舞台前に拝所が並ぶ       ▲旧盆にアダンの実が供えられた(今はパイン)

  
▲左側の拝所(古島への遙拝所?)    ▲伊豆味神社(お宮)       ▲神アサギ(豊年祭の用具入れに活用)

  
 ▲ウタキのイベへの神道          ▲ウタキの頂上部にあるイベ            ▲ジングスク(陣城)墓


2020年6月13日(土)

 1719年に伊豆味から移動した古嘉津宇の跡地までまでゆく。伊豆味には興味深い原名がいくつもある。嘉津宇村があった地は古嘉津原の地名がある。今帰仁村天底はこの伊豆味内にあり、天底地名の儀は伊豆味で考える必要がある。

 第6回(平成291111日)「山原のムラ・シマ講座」で本部町嘉津宇を行なったことがある。嘉津宇は1719年に伊豆味の古嘉津宇から具志堅の地内に移動した村である。具志堅村の一部となり、昭和22年に分離し現在の嘉津宇となる。移動する前の故地は伊豆味に古嘉津宇として残っています。1719年の村移動の理由は、旱魃で税を納めることが出来ず、王府に願いでて移転が許される(村移動)。同じ年に天底村が現在の伊豆味地亡いから今帰仁間切へ移動。

具志堅の地に移転するが、税が免除されるのではなく移転地にウタキを置き、祭祀を行う必要があった。祭祀は農耕暦で行われ、祭祀は「神遊び」(休息日)で王府が決めた公休日であるで積極的に取り入れている。嘉津宇村は『琉球国由来記』(1713年)には故地でのことが記され、天底ノロの管轄でした。

 明治13年の嘉津宇村の戸数は51戸、人口は252名(男139、女113)の小さい村でした。世帯数は変わらないが人口は激減している。昭和60年は49戸、160名でした。小規模の移動村でありながら、御嶽や神アサギや祭祀をしっかりと継承している。御嶽や神アサギの設置や祭祀を行う理由、行わなければならない理由が何かです。御嶽に入いたり、牛馬を踏み入れると咎めを受ける(ヤマサレル)との取り決めがありました(間切内法)。
 
 嘉津宇のタキ(御嶽)のイベは故地の反対に向けて設けてります。ただし、イベに向って祈った後は、振り返って故地に向って祈りをしています。移動した村は、必ずしも故地に向けて御嶽(イベと集落の軸線)は設けていない(天底や振慶名など他の移動村でも)。どうも集落の高いところに御嶽を設ける習性(本質的に持っている)があるようである。

 ウドゥンゲヮー(祠)の中にある七つの石は神人の数だという。今では神人はいないようですが、旧家の関係者が神行事を行っている。昭和30年代には神人達が祭祀を行っている(写真)。
  
 ☆ 平成29年9月10日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
   ↓ 出席の確認
    ↓ 嘉津宇の概要の説明
    ↓ 嘉津宇の集落が見える場所(故地の古嘉津宇との地形の比較) 
    ↓ 嘉津宇の公民舘
    ↓ 嘉津宇ウタキ/神アサギ/トゥン
    ↓ 旧家の一つの屋敷
   ↓ 旧家の一つのユレーヤー
   ↓ 歴史文化センター(12:00 

.  
▲昭和30年頃の公民舘とドゥンでのウガンの様子         ▲ユレーヤーの刺繍された衣装


2020年6月12日(金)

 金曜日が待ち遠しくなるこの頃。

戦後間もない頃の生活(今泊)

 戦前、あるいは戦後間もない頃の生活を、よく話として聞かされることがある。ここでは、戦後間のない頃の生活を三枚の写真を手がかりにみていくことにする。ここに掲げた三枚は、メルビン・ハッキンス氏のアルバムから提供していただいたモノクロ(白黒 250枚以上ある)写真の中の三枚である。年代が明記されていないため、はっきりしないが1950年代である。

  戦災で、ほとんどが家が焼き払われ、疎開先や収容所からムラに帰ってきた。自分の住む家のない人々は、仮住まいの家を建てた。その後、茅葺き屋根の自分の家に住めるようになり、次第に落ち着きを取り戻していった。材木やカヤなどの準備ができると隣近所の人たちが協力しあって家を葺いていった。茅葺きは、台風にあうと壁や屋根が吹き飛ばされ崩壊することもあった。そのような茅葺きの家の中には、土間に直接台所(トゥングヮ)があった。カマドの前で焚きつけをしている老婆の姿は1950年代である。戦前、あるいは戦後間もない頃まで、一般的にはこのような台所であった。石を積み、土で塗り固めたカマドにはご飯を炊くところ、おつゆやおかず、そしてシンメーナービーを置き豚のエサやイモなどを煮る三つのカマドがある。火をおこすのに松の葉や木の枯れ葉(アクタ)やサトウキビの絞りカスなどで、焚きつけは山や森などでとってくる薪であった。

 戦争の痛手から、十分立ち直っていない時代の食卓は、イモが主であった。白米がしだいに食べられるようになっていくが、三食をまかなうだけの水田面積を持っている家は少なかった。田を持っているにしろ、正月やお盆、あるいは特別な日でないと白いご飯を口にすることは少なかった。白いご飯が毎日食べられることを、夢みる時代であった。

 今泊の県道沿いのナースダ(苗代)で、ソーキに籾を入れ、種まきをしているのは仲宗根孫吉さん(故人)である。1953年の2月頃かと思われる。頭にタオルをかぶりズボンをまくり、素足で種をまく姿は、当時ではよく見かける風景であった。田を耕すのにクワを用い、馬や牛にユジェーをひかしている風景がよみがえってくる。

 三枚目の写真は、斧(ウーヌ)で材木の不必要な所を削ったり、生皮を剥いだりしている所である。丸太を角材にする製材所があったとみえ、二面はまっすぐ製材されている。縦縞模様の着物(チン)を来た上間新太郎翁(故人)の斧を打つ音が響き、木の香りが今にも漂ってきそうである。

 このような場面は、戦前、戦後間もない頃までよく見られた。これらの三枚の写真をみていると、戦前、あるいは戦後間もない頃の生活が彷彿してくる。そのような時代を知らない戦後生まれの私たちにとって貴重な場面である。言葉や話で聞くこともあるが、このように写真で視覚的に見ることで、ある時代の時と場所の一コマ一コマの場面に過ぎないが、当時の台所、水田、そして木を削っている場面をより具体的にとらえさせてくれる。写真が歴史資料のひとつであることを端的に示すものである。 

 


2020年6月11日(木)

 「今帰仁の歴史」の年表やコラムや画像などの整理に入る。

今帰仁(北山)城跡の正門付近(今泊)                    

 今帰仁城跡は別名北山城趾とも呼ばれ、今帰仁村では運天港と並んで、歴史的な場面のため多くの人々が訪れる場所である。そのため、撮影された記録的な写真が何枚か残っている。

 この写真は、昭和32年の5月に撮影されたものである。屋我地中学校の生徒が、遠足で今帰仁城跡を訪れた時のスナップ写真の一コマで、屋我地中学校で教頭をされた石川苗貞先生(故人)の撮影によるものである(名護市史編さん室提供)。そこで、目につくのは鳥居と松の大木、それにコイノボリと鳥居の右手の「北山城跡」と記された標柱である。松と鳥居は、写真撮影当時から30年余りたった現在でも健在である。視点をその奥の方に向けると、まだ平郎門と七五三の石段が造られていず、それ以前の状況をみることができる。    

 奥の方には、北殿に向かってまっすぐな道が通っている。昭和36年に琉球政府文化財保護委員会で造った七五三の階段は、写真を見るかぎり、それ以前から使われていた道路に階段を造ったようである。その時新しく道を造ったものではなく、すでに使われていた道筋に沿って階段がつくられていることがわかる。

  二枚目は、昭和371962)年頃の写真である。二枚の写真の違いは、七五三の階段が整備され、最初の石段の手前に「山北今帰仁城趾」の碑があり、この碑は現在の志慶真乙樽歌碑(1959年)のある場所から移されたものである。この碑は、さらに平郎門を造るときに移動させられ、現在は教育委員会で保管している。ここに掲げた図面は平面図・断面図・正面図があるが、その中の二枚である。昭和361961)年に「文化財保護委員会」(琉球政府)が「北山城復元工事」を行なうために設計図面を描いたもので、設計者は山里銀造氏となっている。先の二枚の写真にも平郎門が造られる以前の向って左側と右側に山のような形をした石垣が写しだされている。また、運よく平郎門を復元した時の図面が見つかり石垣の状況の一端がわかる。図面をみると、やはり写真にあるように左右に石垣が残り、また図面でも破線で記されており修復以前の石垣の残り具合が確認できる。

 今帰仁城跡の平郎門や志慶真門郭や本丸などの整備がなされているが、整備される以前はどうだったのだろうかよく問題にされる。その典型的なのが、昭和36年に造られた平郎門と平郎門から北殿に至る七五三の階段である。平郎門と階段が整備されたとき、どのような議論がなされ、またどのような判断で造られたのか、当時の資料が見つかっていないこともあって、よく批判される。平郎門や七五三の階段を造った理由や何故そのような形にしたのか。それが後世の人達が議論できる資料を残す必要があったのではないか。当時、整備した図面は出てきたが、門の造りや七五三の階段にした理由をもっと知りたいものである。

 昭和30年代の今帰仁(北山)城跡正門付近の動きを二枚の写真にみた。平郎門と七五三の階段の整備は、今帰仁城跡にとって戦後の大きな整備事業である。30年余りたった現在、やはり30年後、あるいは50年後にきちっと議論できる資料を残しておく。そのことを今帰仁城跡関係だけでなく、もっと身近なところで残しておきたいものだと痛感する。



2020年6月10日(水)

【知念間切の番所】(2008.02.20)過去メモ

 『球陽』の尚穆王10年(1760)の条に「知念郡 番所を遷す」とある。

   本年(1760)7月23日、本省検者、総地頭、聞得大君御殿大親等に同じうし、
   題請して本省の城内地勢尤勝なり。乞ふその番所を城内に還すを准すんせん
   ことを。王之れを允す。

 1760年に知念間切の知念村(ムラ)から知念グスク内に番所を移したという。「…等に同じうし」とあるのは検者や総地頭、そして聞得大君御殿がすでにグスク内にあり、そこに番所を移すことが許されたということなのであろう。以前、番所のみ触れたが、全文を通して見ると、1760年に知念番所が知念グスクに移る前から検者や総地頭や聞得大君の殿があり、場所がいいので番所もそこに移ってきたということであろう(総地頭や聞得大君が、そこに常に住んでいたわけではない。首里に居住)。

 知念グスク内にいくつもの拝所があり、その中に火神が祀られている。検者や総地頭や聞得大君の火神の可能性がある。まだ特定していないが、久高島に向かって遥拝しているのが聞得大君の拝所、セメントの建物の火神は地頭代火神(そこに番所があった)。首里に向いているのは総地頭火神と推定できるが、そこでの祭祀をみないと特定しがたい。

 それと『琉球国由来記』(1713年)の「知念城内之殿は「御殿前之庭に席を設ける」とあるので、知念城殿もグスク内にある。その時には番所はまだグスク内に移動していない時代である。

 そこでは、首里に住む聞得大君と総地頭、そして後に移動してきた間切番所、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる知念里主所火神、地念城御殿、知念城内之殿などと現在の拝所、それと首里に住む総地頭や聞得大君と知念間切との関係はどうだったのか。五代目の聞得大君が知念間切の惣地頭職に任命される(「女官御双紙」)。

 知念間切は聞得大君の地頭地となる。知行高は代によって異なるが、200石~500石が与えられている。十一代目の尚敬王の二女(向氏伊江王子朝倚室)で乾隆49年4月29日の辞令書がある。それによると「聞得大君並知念惣地頭」の知行高は200石である(「向氏伊江譜」(伊江家)。

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2020年6月9日(火)

 昭和58年(1983)11月に「池城墓」の調査をしている。墓の概要、碑文について、二つの伝説と毛氏家譜、池城墓の意義についてまとめいる。「近世初期を反映」と、歴史的視点で池城墓を見ている。


  ▲池城墓の墓室の石棺      ▲池城墓の全景(1670年)


2020年6月8日(月)

 19年前、それ以前から「運天港」と関わるテーマ、それと歴史分かセンターの建設にむけて足を運んでいる。詳細については忘れているが、当時からの方針や目的は、ぶれずに継承しているかもしれない。手書き・ワープロの時代が長い、平成8年頃からパソコンである。手作りの博物造りであった。(もう、逆算できません)当時北九州、鹿児島県などの資料館・博物館レポートを何度か書いている。中国、長崎県、広島県、青森県、ワシントンDC、スミソニアンなどなど。

2001年12月30日(土)過去ノートより

 12月30日から元旦にかけて長崎・福岡を訪れた。家族揃っての旅は久しぶりである。ここでは歴文に関わる部分について、福岡・長崎の順で一部報告することにする。福岡では「蒙古(元寇)襲来の痕跡」、そして長崎訪問は琉球側にオランダ墓(1846年)と呼ばれている仏人の墓があり、その当時屋我地島と古宇利島を出島にする計画があった(実現しなかったが)。琉球にあるウランダー(墓)や出島計画を「長崎の出島」を通して見ていきたい。

博多(福岡県)を訪ねる

 1987年12月(15年前)に福岡県(特に北九州)を訪ねている。その時、10軒余の博物館などの施設を訪ねている。それは「福岡県内の博物館・資料館視察から」(上・下)として報告している(広報なきじん147、148号)。その前書きで「今回の視察の主な目的は、これまで積み重ねてきた(仮)歴史資料館設立準備委員会の調査研究を踏まえ、さらに県外の博物館や資料館を視察することで、広い視野から今帰仁村の今帰仁らしい特徴ある歴史資料館の建設に向けて反映」させたい。さらに「活動する・活動している資料館」を目指している(歴史資料館は現在の歴史文化センターのことである)。15年前の福岡ゆきは、資料館(現在の歴史文化センター)づくりのためであった。歴文センターは開館して足掛け8年目をむかえる(平成16年))。

蒙古(元寇)襲来の痕跡

 今回の福岡県を訪れた目的の一つに蒙古襲来(元寇)の痕跡を確認しておきたかった。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の痕跡である。というのは、時代は違うが1609年に「琉球国」が薩摩軍の侵攻にあった時の琉球国側の対応があまりにも貧弱すぎる。国力や武力などの大差があったにしろ、琉球国の国情を知る手がかりになりはしないだろうか。そんな思いで福岡市博多区の東公園の一角にある「元寇史料館」を訪ねた。明治37年に「元寇記念館」として遺品が陳列されたようである。昭和61年に新たに「元寇史料館」(現在)として開館している。開館後の史料館の元寇の調査研究が進んで いるのであろうか。そうであればありがたい。

 薩摩軍の琉球侵攻との比較研究をしていくために長崎県の「鷹島町立歴史民俗資料館」まで足をのばしたかったが、その願いは、今回果たせなかった。弘安の役(1281年)の主戦場が鷹島で、近年周辺の海底から見つかった元軍の遺品の数々が展示されているという。元軍が遺していった石の砲弾や石臼、元船の大きなイカリなどなど。それらの展示物から元の兵力の規模、当時の日本の兵力、そして時代は下るが琉球の兵力の規模。その違いが体感できたにちがいない。薩摩軍の兵力、そして琉球国の兵力や国情などを視野に入れながら「薩摩軍の琉球侵攻」をみ、さらに今帰仁間切における薩摩軍の「今きじんの焼きうち」など、もう少し踏み込んで考える手がかりしていきたい。

2002.1.5(土)メモ過去メモ

 長崎県は二度目である。4年前だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。

 ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。

 暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。

 大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。

 出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。

 ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告)


2020年6月7日(

 
今帰仁間切(村)の運天港が何故発展しなかったの?質問を何度か受けたことがある。それで各地の港マチを訪れたことがある。幕末に運天に出島を計画した人物(島津斉彬)がいた。運天の実測調査で薩摩から役人を派遣したことがある(幻の仏国との貿易構想)運天は港マチとして発展しなかったが、各地の港マチを訪れると「運天の歴史と文化」(出来事)を拾い上げている。徒歩での動き、旧暦、舟の時代の感性に引き戻して時代をみる必要がありそう。

港から見た歴史と文化


はじめに

1.運天の位置図

2.古琉球の運天

3.近世の運天

4.近世末の運天

5.運天の歴史近世末~明治

6.運天の歴史明治~昭和

7.間切番所で勤める地方役人

. コバテイシと運天港

9.明治初期の食生活

10. 近世の那覇港

11. 那覇港付近の様子(明治初期)
12. 那覇港周辺の様子
13.鹿児島市や渡久地港、名護湾、バンコク(タイ)・ベトナム・出島・平戸など

まとめ港からみた歴史と文化





現在の那覇港付近とバンコク(タイ)・那覇港・鹿児島・長崎出島・平戸など

 戦前の那覇市街地を廻るということで那覇港周辺の案内があった。先日訪ねたタイ(シャム)国のバンコクやアユタヤの港市と大交易時代(1516世紀)の那覇港とを重ねながらの巡見であった(有り難かったです。感謝)。久茂地川(旭橋~久茂地橋)一帯はタイ国のバンコクとよく似た街の展開(現在)をしている。「那覇読史地図」(明治初期)が配られたので1516世紀の大交易時代の琉球の那覇港付近の様子、そして先日訪れたタイ国のアユタヤ王朝時代の港市アユタヤの風景を彷彿させるに十分である。巡見の後、「那覇の成立・発展それは浮島から始まった」の田名氏の公講演があったので、なお理解を深めることができた。


①御物城 ②三重城 ③屋良座森城 ④スラ(造船跡) ⑤硫黄城跡 ⑥東町市場跡 ⑦仲毛跡 

⑧旭橋と旭町 ⑨中島の大石 ⑩泉崎町 ⑪泉崎橋跡 ⑫孔子廟跡 ⑬大門跡 ⑭天使舘 ⑮親見世跡 

⑯薩摩藩在番所 

  


▲チャオプラヤー川から眺めたワット・アルン   

       ▲バンコク


2020年6月6日(土)

 古いアルバムに1989年(平成元年6月)の大井川下流(右岸)の木で閉じられた墓の写真が出てきた。平成元年は大学(非常勤)から今帰仁村へ職を変えた年である。平成元年以前から今帰仁村と名護市(羽地間切地域)調査・執筆をしてきていた(角川の沖縄県地名辞典)。そのことがきっかけで今帰仁へ(資料館を建設することで今帰仁村へ:平成7年開館で歴史文化センターと改称)。当初から調査し現在を記録し、遺していく姿勢であったことを以下の写真から気づかされる。(この墓は、直後ブロックで閉じられる。材木は歴史文化センターに展示) 別に玉城ノロがウガンをしている場面と内部の様子の画像があるので紹介。

 墓室内は未調査。墓の管理は屋号ワクガヌヤー。『琉球国由来記』(1713年)頃の地頭代(湧川大屋子)を勤めた家柄か。1735年以後の地頭代は古宇利親雲上(屋号はフイヤー)。1738年に創設された村を湧川村とし、以後の地頭代は古宇利親雲上(屋号:フイヤー、メーフイヤー)

 玉城ノロの独立した墓はないようで、玉城ノロを出した平良一門の墓に葬られたノロがいる。


▲大井川下流右岸のキーバカ(ドウルマタの墓)    ▲ドゥルマタのキーバカを拝む玉城ノロ(昭和46年)
   
  ▲墓室の内部(石棺が10基余)   ▲墓室内の頭骨                ▲対岸のキーバカ  

 明治36年今帰仁間切には16の村(ムラ)がある。土地整理期の「今帰仁間切村全図」がある。(村指定文化財、類似の図を含めて約200点) 間切村全図を一部紹介。以下の一覧表のように各村数点あり)、さらに村図の読み込みや小字(原)ついては本編で。大正以後独立した呉我山・越地・渡喜仁は旧村図にあり。

国頭郡今帰仁間切今泊村全図

6000分の1

国頭郡今帰仁村字今泊全図

6000分の1

国頭郡今帰仁村字今泊全図

6000分の1

国頭郡今帰仁村字今泊全図

6000分の1

国頭郡今帰仁村字今泊全図

6000分の1

国頭郡今帰仁村字今泊全図

6000分の1

Kunjan Gun, Nakijin Mura


 ①今帰仁間切今泊村全図(6000分の1)(今帰仁村と親泊村が統合で今泊村)
 ②今帰仁間切兼次村全図(6000分の1)
 ③今帰仁間切諸志村全図(6000分の1)(諸喜田村と志慶真村が統合で諸志村)
 ④今帰仁間切与那嶺村全図(6000分の1)
 ⑤今帰仁間切仲尾次村全図(6000分の1)
 ⑥今帰仁間切崎山村全図(6000分の1)
 ⑦今帰仁間切平敷村全図(6000分の1)
 ⑧今帰仁間切謝名村全図(6000分の1)(一部越地へ)
 ⑨今帰仁間切仲宗根村全図(6000分の1)(一部越地と渡喜仁へ)
 ⑩今帰仁間切玉城村全図(6000分の1)(玉城村・岸本村・寒水村が統合)(一部呉我山へ)
 ⑪今帰仁間切湧川村全図(6000分の1)(一部呉我山へ)
 ⑫今帰仁間切天底村全図(6000分の1)(一部呉我山へ)
 ⑬今帰仁間切勢理客村全図(6000分の1)(一部渡喜仁へ)
 ⑭今帰仁間切上運天全図(6000分の1)(一部渡喜仁へ)
 ⑮今帰仁間切運天村全図(6000分の1)(一部渡喜仁へ)
 ⑯今帰仁間切古宇利村全図(6000分の1)


  ①今帰仁間切今泊村全図      ②今帰仁間切兼次村全図        ③今帰仁間切諸志村全図


  ⑭今帰仁間切上運天全図        ⑮今帰仁間切運天村全図       ⑯今帰仁間切古宇利村全図

2020年6月5日(金)

 古宇利島の印部石(原石)の現場確認へ。三基の印部石の現場へ。島の変わりようにびっくり。目印にしていた屋敷跡や土手が見つからず。集落内の家へ。そこも見つけきれず。古宇利大橋が架かる前の調査。「歴史」は生き物だと実感させられる。島の周辺の海は、変わらず美しい。(シャッターをきる余裕なし)

 島の印部石はあきあらめ本島側の平敷へ。小高い森の中に、「ヰ 外さく原」はありました。小高い森はイナブスと呼ばれ、稲を干す場所だったと聞いている。この印部石のある「平敷村畧図」(明治の初期?)と「平敷村前田原」図なども提供。(図面は村指定)

 
      ▲「ヰ 外さく原」(平敷) 

   

   
     ▲「平敷村略図」での原は19ある          ▲平敷村畧図の小字(原)

 印部石(原石)が確認されている。原石の原が現在の小字と合致するのは22の内15である(69%)。「平敷村略図」でみるように、かつての原から現在の小字に移行していく過程で約三割の原が統合されたことになる。現在の小字名の地名の語義論をする場合は、いくつかの原が統合されていることをも念頭に入れて考える必要がある。


   ▲現在の小字と「平敷村畧図」の原の比較      ▲今帰仁間切平敷村全図(明治36年) 


2020年6月4日(木)

 今帰仁村制110周年の展示会を開催したことがある。その時、今帰仁村歴史文化センター蔵の資料の一部を紹介した。それらの資料を出しながら編集作業にかかっている。午後から久しぶりのフィールドワーク。









2020年6月3日(水)

 
「印部石」の件で取材あり。現場は雨降り直後のこともあり森に入れず。一基、一基の当時のことを思い出すため過去の記録を参照。
・今帰仁の印部石、
元文検地と今帰仁


2020年6月2日(火)

 2011年6月に「大宜味村のムラ・シマ―田港・大保―」で前期9回目(15回のうち)の講義を行っている。その地域からいくつものテーマを見つけることができる。塩屋湾に1853年にペリーの一行が滞留して調査行い地図やムラ人とのやり取りの様子が描かれている。また宮城島や塩屋、大保に塩田が描かれている。時間がないのでレジメのみ一部のみ。田港は北山の興亡で離散した一族だとする民がいるムラ、後の北山監守が今帰仁グスクから首里赤田村へ引揚は早すぎると反対した人物がいて、田港の滝川に隠遁した場所だという。田港ノロの遺品の調査をしたことがる。「大宜味村史」の職員に協力Jをいただいたことが思い出されます。




2020年6月1日(月)

 6月に入りました。頭の中はまだ五月。田港・屋古の神アサギの件で調査記録を捜していると神アサギを手掛かりに両ムラのことが駆け巡る。「北山の歴史」で中北山の興亡で国頭(大宜味)に離散した一族が「北山系統」との伝承を根強く遺しているムラである。もう一つは1665年北山監守が首里引揚は早すぎると反対した人物が隠居した滝川がある。反対理由が「首里化(教化)されていない」ことであった。もし北山監守がそのまま置かれたなら伊是名・伊平屋と同様になっていた想像できる。時々、伊是名・伊平屋は「首里王府の天領地」だったと見るのは、そこに根拠がある。

大宜味村田港・屋古

⑤田港田港間切創設時の番所があったムラ
 1673年に国頭間切と羽地間切の村の一部で田港間切が創設される。後に大宜味間切と改称(1682年頃)される。田港間切創設当時、同間切の番所は田港村に置かれたとみられる。大宜味間切の番所は田港村大宜味村塩屋村字大宜味へ移っている。

   ・1731年には大宜味村にある。

    (1695年頃に田港間切から大宜味間切に改称された時に番所を   田港村から大宜味村へ移動したか)

   ・1760年には塩屋村番所を大宜味村から塩屋村へ移転している)

   ・1925年(大正14)字大宜味に役場を新築し落成する。
  ・田港の御嶽/イビナー(イビの庭)(お宮)/お宮の中の香炉/
   田港の集落/田港の神アサギ/田港ヌルドゥンチ跡

       (神人が乗る籠:三カ所にあった。最近は一ヶ所)

   ・ウンガミの時、ハーリーが行われる塩屋が眺められる位置にある。 

⑥屋古―塩屋での海神祭を行う 
  屋古は田港に隣接し、塩屋湾に面したムラである。田港ノロ管轄のムラの一つ。塩屋のウンガミ(海神祭)に参加するムラの一つである。屋古の神アサギの側に海神祭に使われるハーリーを納める小屋がある。集落の上の方に神アサギがある。旧盆明けの初の亥の日に行われるウンガミ。田港・屋古・塩屋、白浜(渡野喜屋)の神人が行う。