2005年4月の記録
                    
沖縄の地域調査(もくじ)



2005.04.30(土)

 
4月最終日。新聞原稿(『南風』山原の神アサギ)送付。山原の神アサギについて触れたが中・南部の「殿」(トゥン)について確認が必要。神アサギもトゥンも祭祀空間に違いないが、どうも神アサギとは異なっているように思える。

 『琉球国由来記』(1713年)に出てくる殿(トゥン)の数が579(中南部の村数296。北部の村数107)。そのうち二ヶ所が恩納間切で、577は中・南部の間切である。因みに中・南部に神アシアゲは12である。それだけの数字の違いは、やはり神アサギとトゥンは異なるものとみた方がよさそう。それは文化の違いとみてもいいのではないか。

 『琉球国由来記』に登場しているトゥンの確認を十分していないので、どのような結論が出てくるのか楽しみである。中・南部のトゥンの確認をやってみたいものだ。トゥンがテーマになっていないのは確認し特定するのが困難なのかもしれない。「神アサギ文化(圏)」を提唱するなら「トゥン(殿)文化(圏)」の提唱があっていいかも。

    (工事中)


2005.04.28(木)

  
29日(金)は公休日のため休館となります。

 晴天。沖縄の空と海は美しい。今帰仁グスクから眺めた海は干潮時にあたりリーフが干上がっている。入道雲はまだ。「北山の歴史」を画像(パワーポイント)を使って説明することに。その方が理解しやすいであろうということで。

 近々伊是名島にゆくことに。以前にメモをとったことがあるが、どこかへふっとんでしまい、それでもう一度確認。

 私の関心は伊是名(伊平屋島もふくむ)は「沖縄の歴史」の三山統一後、首里王府が理想的な形で統治できた島(地域)ではなかったか。首里王府の天領(直轄地)とみることができ、直轄地的な支配が首里文化が浸透していったのではないか。その首里文化をはずしてみたとき、そこに沖縄本島北部(山原)と色濃く共通するものがありはしないか。もしあるとするなら、それを北山文化として見ていけるのではないかと考えている。祭祀(三名のノロ)や夫地頭を世襲させ、それが廃藩置県後も継承されている(現在継承者なしもある)。

 伊江名(伊平屋を含む)が首里王府の支配を直轄地的な形をなしたのは、以下の四殿内(ユトゥヌチ)の世襲である。四殿内には古文書や伝世品(玉貫や酒器や盆など)、扁額、櫃や勾玉、衣装などの遺品が遺されている。その四家に関わる「伊是名玉御殿」(墓)である。

  ・銘刈地頭職(大屋子)(ミケル)(銘刈家)
  ・伊平屋の阿母加那志職(アンジャナシー)(名嘉家)
  ・南風のニカヤ田の阿母(フェーヌハタダ)(玉城家)
  ・北のニカヤ田の阿母(ニシヌハタダ)(伊礼家)

 
もう一つの関心は伊是名島の神アサギである。現在伊是名島に四つの神アサギ(アシャギ)があり、村指定の文化財となっている。『琉球国由来記』(1713年)に神アシアゲが山原のような項目立てての表記はされていないが、祭祀の中に「村々神アシアゲ」と出てくる。中南部のような「殿」のような表記ではない。祭祀など首里化していくが、祭祀空間としての神アサギは根強く遺しているのではないと考えている。山原のほとんどの神アサギが集落の中心部となる場所に置かれ、豊年祭を行なうアサギナーがある。伊是名の神アサギは屋敷内である(近々確認してみたい)。
   ・伊是名の神アサギ
   ・仲田の神アサギ
   ・諸見の神アサギ
   ・勢理客の神アサギ



2005.04.27(水)

 
運天の戦争体験を伺うことができた。運天の字誌の編集でいつも顔を合わせている方々だけでなく、戦争の体験を持っている方々の参加があった。昭和の初期に産まれた方々7名である。一人ひとりの語りは改めて活字にして還すことになる。今日は方言で語ってもらった。

 昭和19年の10.10空襲前後を中心に語ってもらった。戦争体験にシナリオがあるわけではなく、渦中の中にいた自分の動きや状況を記憶をたどりながら・・・。伊江島飛行場づくりへ徴用される期間は10日間、10回余り徴用された方も。読谷飛行場に徴用された方もいる。

 昭和19年の10月10日は天気がよかったようで、潮干狩りに出ていた人たちが何人も。飛行機から爆撃があったが、しばらくは日本軍の演習だと思っていたという。昼間は壕や山の中に隠れ、晩になると食糧さがしをしたという。「青い目の米兵は夜には物が見えない」との常識であったようだ。爆撃の恐ろしさもあったが、食べ物がなかったこと、空腹がどうにもならなかったとのことが何人かの口からでた。昭和20年の3月に今帰仁村あたりに米軍は上陸し一掃作戦にはいている。壕や墓に隠れたりしている。

 運天あたりの人々は屋我地から田井等、あるいは捕虜がはやかったようで近くの呉我に収容された人たちが多いようだ。田井等のカンパンに収容された人たちもいる。爆撃から逃れたものの崖を飛び降り負傷した人たちもいる。那覇で戦争にあり、今帰仁に逃げのびてきた人たちもいる。

 収容される場面、テーラ(現在の名護市田井等)や呉我などの収受所での様子、引き揚げ後の生活など。

 60年前の記憶を一つ一つ記録にとどめていくが、記録が史料として遺されるだけでなく、平和につなげていく。記録する側のスタンスも問われている。


       ▲戦争体験を方言で語ってもらった(今帰仁村字運天公民館)

2005.04.26(火)

 
4、5日前からアカショウビンの鳴き声が聞こえている。アカショウビンの声でやってくる今の季節。???と首をかしげているのではないか。山原の人工物の増加。昨年まで使っていた営巣の木がないない・・・と。『運天の字誌』の教育編のテープおこし(原稿化)を進める。戦前・戦後の学用品・授業の様子・当時の弁当・学校行事など。「南風」の原稿の確認。あと4回なり。次回は「山原の神アサギ」予定。

 昨日は、なんの目的もなくブラリブラリ。とは言っても午前中は1736年に今帰仁側から移動した呉我・振慶名・屋我(松田)を回ってみた。画像は呉我の嵐山から我祖河(右側)と振慶名(左側)方面を眺めてみた。中央部を流れているのは、我祖河川である。旧羽地大川は画像では見えないが左側を流れる。

 振慶名村が今帰仁村の現在の湧川地内から振慶名村は羽地間切のはずれではなく、ほぼ中央部に移動している。我部村と松田村は屋我地島への移動である。蔡温の林業政策の一環ではあるが、もっと別の意味があったと見ている。因みに『琉球国由来記』(1713年)の呉我・我部・松田・振慶名の各村は羽地間切で祭祀は我部ノロの管轄である(由来記に桃原村は出てこない)。

 1736年に村は移動し、羽地間切の内へ移動するがノロ管轄は変動することはなかった。この『球陽』の記事の内容から現在の今帰仁村の湧川地は村(ムラ)が移動するまで羽地間切内であった。村を移動させ今帰仁間切の地とし、1738年に湧川村を創設した。1600年代中頃の史料では、これらの村は今帰仁間切の村であった。1690年頃に間切の境界線(方切)の変更があったようである。

【球陽】尚敬24年条(蔡法司、諸郡の山林を巡視見して、村を各処に移す)
   国司、法司蔡温(具志頭親方文若)、御物奉行毛鴻基(奥平親方安三)・高奉行東景仁
  (天願親雲上政房)を率領し、諸郡の山林を巡見す。而して羽地山林内呉我・桃原・我部・
  松田・振慶名等の村、・・・・今帰仁山林は甚だ狭し。仍、羽地県内に属せしむ。・・・


▲中央部を流れるのは我祖河川。旧羽地川はもっと左側を流れる。左側上部に振慶名がある。


【南 風】(琉球新報)原稿出稿
(確認)

  山原の歴史散歩(1月17日掲載)山原の歴史散歩 
  今帰仁グスクに立つ(1月31日掲載)今帰仁グスクに立つ
  島に橋が架かる(2月14日掲載)島に橋が架かる
  名護は和(ナグ)?(2月28日掲載)名護は和(ナグ)?
   
山原のムラ・シマ講座(3月14日掲載)山原のムラ・シマ講座
  久米島のグスク(4月4日掲載)御嶽にグスクを築く
  塩屋湾岸のムラ(4月18日掲載)塩屋湾で歴史を思い描く
  ⑧山原の神アサギ(下書き済)
  ⑨羽地大川と移動村(下書き済)
  ⑩奥・辺戸と与論島(下書き済)
  ⑪運天港(下書き済)

  ⑫根謝銘グスクと国頭地方(予備)
 
 1月に予定していた原稿はいつの間にか変更。何を予定していたのかも忘れている。再確認。次回の「山原の神アサギ」は予定外の原稿。全部で11回である。テーマは気まぐれなり。 

2005.04.24(

 
月曜日は休館です。久しぶりの休日なり。

 
沖縄本島北部の東海岸の港や山原船の様子を整理してみた。『東村史』(第1巻通史編 73頁)にその様子が解説されている。現在の東村は大正12年に久志村から分村する。それ以前は久志村(間切)の字(あるいは村:ムラ)であった。ここでは現在の東村内の出来事を紹介する。

  有銘から北の地域を上方と呼び、天仁屋から南を下方と呼んで、人情も気風も異にして
  いた。行政区域として久志村となっていても、経済的には必ずしも一体ではなかった。農産物や林
  産物の出荷は、陸路を利用することはほとんどなく、たとい陸路を利用するとしても、それは塩屋湾
  を経て西海岸を羽地・名護と行くのが普通であった。中南部向けの産物は、ほとんど山原船によって
  泡瀬・西原・与那原方面、さらに糸満・那覇へと運ばれていたから、上方と下方の住民が物資の流
  通で直接に関わりを持つことはなかった。日常の生活用品も、山原船によって中南部から運ばれて
  きた。また、与論・沖永良部・徳之島・奄美大島などの道之島へ北上する物資の流れも、山原船に
  よる輸送であったから、経済的な意味では山原船を主要な仲介とする交流であった。

【港(津)と関わる地名】
 ・アラカードゥマイ(冬場の漁船の避難場所)
 ・メードゥマイザキ
 ・メードゥマイバマ(津堅島・伊計島の漁師が浜で宿をとったという)
 ・ウフドゥマイバマ
 ・ウフドゥマイトゥガイ
 ・ンナトゥグチ

・清国へ渡航jする船の帆柱などの資材を拠出していた。
・旧藩時代久志間切の年貢(租税)は、羽地間切の勘手納港へ納め、
 辺野古と久志の両村は名護(湖辺底)へ運んでいた。

【東村平良】
 道路網は未整備であり、中南部との物資の交流はもっぱら山原船にたよった。主な産物である
 林産物の出荷・販売と生産資材の購入・日常生活用品の調達は、山原船にたよる以外なかった。
 ・・・山原船の運航と商品の取り扱いが、ほとんど外来の商人に握られていた。・・・一般的に経
 済的に遅れた地域においては、外来の商人や士族たちは特権的な意識が強く、彼らは商品知
 識の乏しい農民に対して、はなはだ不等価格交換で暴利を得ていたであろう。外来の商人資本
 家はムラで町屋(商店)を経営し、農村の林産物の売却代金をそっくり町屋が吸収する仕組みと
 なっていた。・・・ムラの大半の人たちが町屋に従属して、入港する山原船に林産物を自由に売り
 さばくことができない状態にあった。

 外来の商人に対抗して生活防衛する方策として、部落単位の共同売店が登場する。

【東村慶佐次】
 
山稼ぎは戦前から盛んに行なわれており、戦後になっても昭和30年代のはじめまで続けられて
 いた。山稼ぎは主に燃料用の薪を伐採するもので、自給中心の農産物と違い中南部に搬出する。
 ・・・・林業は貴重な現金収入源であった。慶佐次に字で所有する山林(ムラヤマ)があり、日を決め
 て字の共同作業が行なわれた。納税には現金が必要であり、また字費もこの作業から捻出してい
 た。共同作業は仕事量に応じて等級がつけられ、字から給料が支払われていた。共同作業日は薪
 を中南部に運ぶヤンバル船の到着を見計らって設定されサジイが字民に山稼ぎを告げていた。給料
 は村民税と字費を差し引き当人に渡された。ヤンバル船で運んできた様々な日常雑貨品と交換した。


   (続)

【参考文献】
 『東村史』(第1巻通史編:昭和62年発刊)
 『東村史』(第3巻資料編2:昭和59年発刊)

2005.04.23(土)

 午後から大雨。大宜味村の舟や港に関わる記事を拾ってみた。やはり多いのは塩屋湾(港)である。大宜味番所があったこともあるが、塩屋湾を渡らなければならず、渡し場として交通の要所にあった。

 断片的な資料であるがクリ船やハギ船に税がかけられている(道光6年6月原取納座国頭方定手形)。
  ・クリ船一艘に付き、一年に納銭一貫文
  ・ハキ船一艘に付き、一年に納銭五十貫文
  ・クリ船三拾三艘  納銭三十三貫文
  ・ハキ船三艘  納銭百五拾貫文
  

【上杉県令巡回日誌】
(明治14年11月22日)の塩屋湾の様子
  「・・・宮城島あり。島中小村落あり。渡舟相往来す。湾頭弦月形の処を過ぎ、小村落あり。
  サオ師舟を艤して待つ。舁夫輿を舁き、舟に移す。・・・・・・舟容与として行く。風波平穏なり。
  舟路半程にして、雨俄に至る。・・・・渡舟岸に達す。即ち大宜味番所なり。・・・・海を隔て、
  宮城島に対す。山原船五艘碇泊す。」

 明治から大正にかけて大宜味間切(村)の物資の運搬は海上が主である。運搬に使われたのが山原船(マーラン船)である。大宜味間切から出荷されたのは、主に割薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・米・松薪・木炭・製藍・建築材など。輸入品は焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶・昆布などである。山原船の向う津(港)は泊港や那覇港である。

・樽板と蓋底板(明治34年3月9日)
・船舶取締規則違犯者(明治35年3月13日)
・塩屋湾の風光(明治35年4月19日)
・国頭郡の鰹製造業(明治38年8月11日)
・大宜味間切の造船所(明治39年2月7日)
・国頭旅行(明治39年10月17日)
・大宜味より(明治40年8月13日)
・大宜味の海神祭(明治44年9月19日)
・大宜味村より(大正2年10月12日)
・大宜味よりの帰途(大正2年10月14日)
・今日の話題(昭和19年4月9日)


2005.04.22(金)

 
午前中、村内の小学校を回る。「ムラ・シマ講座」の生徒の募集で。校長先生を通しての募集である。先生方の異動もあるが、学校の雰囲気が変りつつある。

 5月に「今帰仁グスクの歴史」をテーマに話をする。どんな視点で話そうか。「今帰仁グスクと港」にでもしようかと思いつつ、今帰仁グスクと今泊(親泊集落)を画像に収めてきた。
   「今帰仁グスクのあるその杜は、もともと今帰仁村(ムラ)の御嶽だった。
    その痕跡は?」
とでも話を展開させようかと。

  「今帰仁グスクが機能していた山北王の時代は親泊が港(津)だった。でも
  親泊沖のクチから冊封船のような大型船の出入りは不可能。ならば運天港
  が使われたか?」

 まだ時間があるので、話の骨子はこれから詰めることに。

 午後から今帰仁村仲尾次の方々18名がやってきた。仲尾次はかつて中城であったことから話をする。そして仲尾次の御嶽はスガー御嶽(中城)である。何故か現在の地番は平敷である。中城はスガー御嶽付近から現在地へ移動してきたようだ。スガー御嶽一帯は炬港からジンニサガーラを遡った位置にあり、発掘すると中国製の陶磁器類が出土してくるであろう(表採で拾っている)。

 仲尾次が中城であった痕跡は中城ノロの呼び方に見ることができる。古い時代の中城ノロ辞令書に確認することができる。などなどの説明をする。

 仲尾次の喜友名氏から「内に古い位牌があるから見にきて」とのこと。近々確認にゆく予定。

 古宇利の字誌「古宇利の歴史」原稿アップする。明日は行財政の編と方言部分。あれこれ事業に追われてくると5月の連休が待ち遠しいものだ。
  

 ▲今帰仁グスクのある杜はもともと御嶽?      ▲志慶真郭と本丸郭の城壁


▲今帰仁グスク前方から移動した今帰仁村側         ▲親泊村側の集落

2005.04.21(木)

 
そろそろ、今年度の「ムラ・シマ講座」の生徒募集にはいる。13年目の講座である。学校が月二回土曜日の休校になった平成5年にスタートした。その頃、土曜日の休校にあわせて村内でいろいろなことが行なわれた。土曜日の午前中図書館を開放する、地域の川や公園の清掃をする、あるいは海の生物を調べるなど。子供たちを学校から家庭へ、地域へと。そのことで「ゆとり」を取り戻すことが狙いだったような。その後、完全周5日制が導入されたが、その結末は?

 この「ムラ・シマ講座」は、学校の週休の流れでスタートしたものである。多々考えさせられることもあるが、時間があるから「ゆとり」があるといったものではない。同じ場所に二回、三回ゆくことで、まわりを見、そして考えるゆとりが出てくることに気づかされる。13期目の講座は、子供たちがゆとりをもって、ムラ・シマを見ていける講座にしていければと考えている。

 そろそろ募集をかけるが、どんなメンバーの参加になるか。職員一同楽しみである。要綱は「ムラ・シマ講座」(トップページ)を参照していただければ。


2005.04.19(火)

 
座間味村の座間味(座間味島)をゆく。島へは石野・松村、そして運営委員長の仲尾次先生、石野槙一朗くんが同行した。時々小雨模様の天気。

 主な目的は慶良間海洋文化館のマーラン船(山原船)やテーサン舟(組舟)やサバニなどの確認である。午前9時発のクィーンざまみ(高速艇)はパスして、10時とまりん発のフェリー座間味に乗り込んだ。座間味島まで約1時間半。穏やかな海上だったので、しばらく甲板に出て島々を眺めながら。フェリーから泊港の現在の様子や外人墓地あたりを確認する。それと沖のリーフが切れた大和口(倭船口)・唐口(唐船口)・宮古口(八重山口)が見えるか。

【泊 港】
・安里川の右岸
・13世紀から14世紀にかけて国頭地方、宮古・八重山・久米島などの船が出入り。
・諸島の事務を扱う公館(泊御殿)や貢物を納める公倉(大島倉)が置かれた。
・近世期に漂着した中国人や朝鮮人などは泊港へ送られた。そこから本国へ。
・漂着人に死者が出ると泊北岸の聖現寺付近の松原に葬った(外人墓地)。
・19世紀になると英・仏・米国の船は泊港沖に碇泊、外人の上陸地。
・明治になると本土と結ぶ大型船や中南部や八重山からの船は那覇港へ、
 山原からの船は泊港へ。

【座間味島】
 ・座間味港
 ・慶良間海洋文化館
    (山原船(マーラン船)・サバニ・伝馬舟など)
 ・ヌル宮(ヌンルチ)
 ・鰹漁業創業碑(役場前)
 ・バンズガー(番所井戸)
 ・番所山
  標高143.5m、王府時代の烽火台が設置される。
 ・イビヌ前
   座間味集落のハマンダカリ(浜村渠)にある拝所。イビヌメーは海神宮である。イビヌメーで
    イビヌメーの話を一生懸命してくれた方がいた。

 ・高月山(座間味集落と港)
 ・阿護の浦
   進貢船や冊封船の寄航地阿佐船・座間味船・慶留間船などの潮掛地
 ・稲崎
 ・女瀬の崎
 ・安真集落
 ・マリリンの銅像
 ・古座間味
 ・ウフンナートゥ(現在の漁港)
 ・座間味の集落
   座間味の集落は内川を挟んでウチンダカリとハマンダカリに区分される。ウチンダカリに
    古座間味から移動した集落ではないかと言われている。


【慶良間薪】(キラマダムン)『座間味村史』(上)参照
  
慶良間薪は山原薪を比較され、慶良間薪は山原薪よりよく火つきがよく火力があったという。
  那覇の泉崎橋から旭橋あたりは船蔵(フンングヮ)と呼ばれ、山原や慶良間の船がやってきて薪や
  材木などを陸揚げしていた。一帯に薪や炭や材木問屋が並んでいたという。薪は泉崎の湧田や
  牧志の瓦焼きの業者が瓦焼きの燃料にした。瓦焼き用の薪はカーラダムンと呼ばれ、安里川の
  河川から水運で運ばれた。カーラダムンは松を輪切りを大割にしたもの。

 座間味の集落は古座間味からの移動か?座間味村役場の前に阿佐儀名の民宿?を見つける。山原の神アサギと同じ?


            ▲フェリーからみた現在の泊港(那覇)の様子


           ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館)


 ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館)     ▲テーサン舟(組舟)   

2005.04.17(

  明日(月よう日)は休館です。

 月曜日は職員で座間味島の山原船やサバニなどの現物の調査で出かけます。どんな収穫があるか。楽しみです。本日は書き込みなし。これから祝賀会で那覇までゆきます。


2005.04.16(土)

 
今朝は午前6時半頃家をでた。大宜味村塩屋までゆく。締め切りの原稿は書いたのであるがなかなか腑に落ちないでいる。それで塩屋の集落にあるハーミンゾーの森に上がり塩屋湾と塩屋大橋、そして集落内を歩いてみた。さらに塩炊きに使われたという赤みを帯びた焼けた石の確認。そしてアーミンゾーにある「宵もあかつき なれしおもかげ乃 立ゝぬ日や無いさめ 塩屋のけむり」の碑の文字の確認をする。早朝の塩屋湾はいいものだ。その後、原稿を送付する。やれやれ。


     ▲朝靄のかかった塩屋湾       ▲宮城島から塩屋に架かった塩屋大橋


    ▲後方の森がハーミンゾー        ▲ハーミンゾーからみた塩屋小学校


▲ハーミンゾーから眺めた国道寄りの集落   ▲塩炊きに使われた焼けた石


       ▲屋古あたりから眺めた塩屋小学校とハーミンゾーの森

2005.04.15(金)

 
宜野座村祖慶の戦前の交通の様子をみる(『祖慶誌』20頁)。東海岸の山原船と関わるムラの様子である。
     海上交通は、前の浜から山原船が林産物の薪炭、竹木を積んで、
     平安座湾を通り、泡瀬、与那原、糸満、那覇まで往来していた。山原
     船は、帆まかせ風まかせに走り、那覇・糸満へ旅するには一、二週間
     もかかった。そのため、早旅をするには「泡瀬旅」といって、泡瀬まで
     山原船、泡瀬から陸路によっていたという。
      明治・大正の時代、村の賢母たちは、農民の主産物である黒糖樽
     詰め百三十五斤を頭に乗せて前の浜まで運び、山原船に積み込ん
     だという。

 祖慶の林業は山原船を切り離すことができない。薪や木材は売って生活していた。昭和30年代まで薪の切り出しが盛んに行なわれていた。税金を払うために山ゆいや造林をしたりしていたという。燃料が薪から石油に変ると薪の需要が激減してしまい、また車の出現で山原船での海上輸送がなくなっていった。

参考文献:『祖慶誌』(宜野座村祖慶)(昭和53年発刊)  

 バタバタの一日。原稿の締め切り、すっかり忘れていました。今日はクタクタなので明日中に送付します。今回はなんだったでしょうか。ハハハ


2005.04.14(木)

 久しぶりに運天の字誌の編集会議に参加する。これまでの進捗状況の報告をいただき、それに対してコメントする役目。直面している問題や課題についての報告。

 寿志会の皆さん方の案内。歴史文化センター、崎山の神ハサギ、そして運天港(大北墓・オランダ墓・運天が果たした役割・源為朝と日琉同祖論・寄留人の世界など)。さらに古宇利大橋と島を一周のコース。歴史に関心のあるメンバーなので質問が豊富。その全てに答えることはできないが、やはり歴史の面白さを伝えてゆくのが第一。

 参加者は古宇利大橋(1960m)を歩いて橋詰め広場まで(20分~30分)。健脚の方は1kmを10分で歩くという。2kmなので約20分の計算のようだ。私は体調が十分ではないのでバスで。橋詰め広場の子供たちの絵や文の夢はいい。サブセンター周辺の芝生や木々やグラジオラスなど大部落ち着いている。島の方々のご苦労が窺われる。感謝

 ???とやってくる質問に、なるほどと納得させる答えを即座に準備しなければならない。それと書かれた常識が視点をかえて見たとき、それが必ずしも常識でないことに気づかせること。そして歴史をみる柔軟さと寛容さが大事だと思っている。そんなことを考えながらの案内であった。


    ▲古宇利島の橋詰広場の風景         ▲橋詰広場にある子供たちの夢

2005.04.13(水)

 午前中今帰仁村渡喜仁の石川家の家譜の調査があり出かける。『馮(ヒョウ)姓世系圖』と『馮姓系図』の二冊である。時間がないので、詳細については改めて紹介することにし、今日は概略のみ。

 『馮姓世系圖』を見ると、「馮姓家譜支流」とあり、記録は五世清孟(童名真亀唐名馮永恭行二康煕二十四年乙丑十二月三日生)から十二世清茂(童名思仁王唐名馮丕冨行一同治二年癸亥十二月二十四日)までのである。(この家譜は昭和37年1月に印刷されたものである)。

 もう一冊の『馮姓系図』は昭和二年に馮氏石川清賀によって仕立てられたものである。「馮姓先祖之由来記」とあり、『馮姓世系圖』をベースに一族の由来を記録したものである。

 馮姓(石川家)は那覇籍の士族で、その家譜である。『氏集』(那覇市史発刊)の「元祖小禄親雲上清乗四世石川親雲上清信支流二子馮永石川筑登之親雲上清孟 馮氏 石川筑登之親雲上」(2383)の家譜である。

 今帰仁村の渡喜仁へは本部町の桃原を経由してきたという。明治以後の系図も作成されており、山原へやってきた年代もわかりそう。内容まで読む時間がないので改めて報告することにする。


   ▲『馮姓系図』と『馮姓世系図』と馮姓世系図の下の太宗清乗に「首里之印」


【山原の津(港)と山原船】の資料メモ

●黒糖の輸送
   東海岸の平安座・金武・久志・宜野座辺りは山原船で与那原に陸揚げし、
   ここより軽便鉄道で那覇に送られた。
   伊江島・名護・久米島・粟国は機帆船で「中の海」(西新町2丁目)・渡地
   (通堂町)に陸揚げされた。その他の地域は山原船で「中の海」に陸揚げし、
   荷馬車で運んだ。
   泊港に山原船で輸送し、大型の伝馬舟に積み替え「中の島」へ。
   中南部は荷車で陸路運んでいた。

●薪の産地と輸送
   国頭方面の山林、東海岸の平安座・奥・久志方面、西海岸の名護・許田・
   恩納・慶良間列島  山原船での輸送→渡地(通堂町)、中の海
   (西新町2丁目)
   「中の海」や渡地で山原船から大型の伝馬舟に積み替えて北明治橋、
   月見橋、旭橋、松田橋の下をへて集荷していた。
   大伝馬舟一隻に千把ばかり。久茂地川沿いの薪商は泊港から伝馬舟で
   泊高橋・前島の板橋・美栄橋・久茂地橋をへて運送。 

●山原船(平安座島)
   ハギ舟(杉板や松板を接着)で竜骨のあるやや大型の船。
   王府時代から沖縄の島々の沿岸を主に航行。
   沖縄本島北部(山原)の薪や材木などを中南部に輸送。
   風まかせの航行。年に8航海程度。
   北は徳之島・沖永良部島・与論島など。
   東海岸の山原船の全盛は大正から昭和の初期の頃(100隻近い船)。
   平安座島では昭和30年代まで山原船がみられた。
   東海岸の山原船の製造は平安座島の船大工による。
 
●山原船の渡航する津口(東海岸)
   
屋嘉・伊芸・金武・漢那・祖慶・宜野座・古知屋(松田)・久志小・久志
   辺野古・ナビゴー・大浦・瀬嵩・汀間・安部・嘉陽・天仁屋・有津・有銘
   慶佐次・伊是名・平良・川田・宮城・魚泊・東・新川・嵩江・安波・安田

●山原船の仕向地(東海岸)
    泡瀬・与那原・場天・富祖崎・奥武・港川・糸満・那覇・泊・屋慶名


参考文献
・『那覇市史―那覇の民俗』資料編第2巻中の7 418頁。
・『私とふるさと―古希記念回想記』中村栄春(昭和58年)

2005.04.12(火)


 
山原船について写真では詳細なことはなかなか読み取れない。山原船の各部の名称を吉田真栄氏の馬艦(山原)船の各部の名称から学ばせてもらった。素人には名称を確認するのに精一杯である。カタカナ(方言呼び)で表記されているので横文字の単語のようである。主な部分(真上と真横からみる)の名称にとどめる。ボツボツ山原船の各部の名称と構造についての知識ももたないといけません。

  ・クシカキー   ・ミッキー    ・フチバイタ     ・カンダン
  ・クルマチヂ   ・クヌトシー   ・オージ        ・シガタ
  ・ウクシトゥー  ・ミンタマ     ・トダナ       ・ソコダナ
  ・メーガーラ   ・シーガーラ   ・ハラダナ     ・カーラ
  ・クルブチ    ・テヤンチー   ・アカブチ     ・ダンカチ
  ・トモガーラ   ・ヤンザシ     ・サンデンカクー
  ・ミッキヤー   ・ダンガチ

参考文献
  ・『故きを温ねて』(平安座自治会)昭和60年発行
  ・『懐かしき沖縄―山崎正薫らが歩いた昭和初期の原風景』(写真集)
                野々村孝男編著 運天港の山原船
  ・『私とふるさと―古希記念回想記』中村栄春(昭和58年)

2005.04.10(

 
親川(羽地)グスクから勘手納港へ向う途中の道路にハブが轢き殺されていた。昨日今日の暖かさだとハブはエサを捕まえるのに活発に移動するでしょう。ハブに打たれないように気をつけましょう。これからの調査には。

 親川(羽地)グスクは勘手納港と深い関わりを持つ。中山の尚巴志の連合軍が1416年に今帰仁(北山)グスクを攻め入ったときに勘手納(寒汀那)港に集結したという(『球陽』『中山世譜』)。山原の今帰仁を除いた国頭・羽地・名護の各按司は中山軍に組した(金武按司は中山に組しなかったのか記載がない)。

 近世になる定物蔵がつくられ羽地間切を主とした近隣の間切の上納物が集積され運ばれた。勘手納港は琉球の四津口の一つで、薩摩への仕上世(シノボセ)米の集積港でもあった。

 現在仲尾次側に漁港としての港があるが、かつての港は羽地内海に面した内海で船を接岸するような桟橋があったわけではない。浅瀬のある海岸が港(津)であった。

    (工事中)








2005.04.09(土)

 山原船の写真を探してみた。山原船が往来していた頃の世代ではないので、なかなか実感として体に落ちてこない。それで、まずは写真から山原船の外見や構造などから見ていくことに。

 歴史文化センターが所蔵している山原船の写真からみると、昭和30年代まで運搬に使われている。下の右の写真は昭和32年頃のクリスマン氏撮影の山原船である。場所の特定はまだできていないが、他の写真とあわせみると山原のどこかの津(港)である。

 
本部小学校の百周年記念誌に、「今のナンシンハラの前あたりは自然の港で、そこには山原船が、多いときには40、50隻も並んでいました。饒平名船・アジマー船・原田船等がそこに避難しているのをよく見かけました」(座談会)とある。山原船ではあるが、本部町渡久地では所有者の名で呼ばれている。また、「帆柱には風見といって旗みたいなのが翻ってとても勇壮でありました」とある。

 下の写真を見ると、二隻の山原船があり帆をかける柱がそれぞれ二本。その先端に風見が。これから積み込むワイダムン(割った薪)が置かれている。またバーキにはいているのは種稲だろうか。船の構造や積荷なども・・・。荷を積んだらどこの津(港)へ運んで行ったのだろうか。
 

2005.04.08(金)

 
本部町渡久地港までゆく。渡久地のマチ、もう少し正確にいうなら谷茶の港付近のマチのことであるが、かつて勢いのあった頃のマチの風情が残っている。旅館やさしみ屋、食堂、雑貨店、かまぼこ工場、鰹節工場など。そして繋留されている船(かつてはサバニ)。港付近のマチに漁港独特の匂いがあり、それが好きだ。

 明治の新聞記事(『本部町史』(資料編1)から船に関わる記事(タイトルのみ)を拾ってみた。それらの記事から港や船について拾っていくが、船にまつわる興味深い出来事がある。

 ・公私往来(明治34年11月)
 ・難破船(明治36年8月)
 ・朝日丸の無事帰着(明治36年11月)
 ・難破船二艘(明治38年5月)
 ・国頭郡の鰹節製業(明治38年8月)
 ・暴風雨と遭難船(明治39年11月)
 ・暴風雨と溺死人(明治39年11月)
 ・美人海中に溺死す(明治40年6月)
 ・名護硯滴(明治40年10月)
 ・貨物の停滞(明治40年11月)
 ・瀬底島の一日(明治41年1月)
 ・漁業者間の紛議(明治41年11月)
 ・名護の商業と運輸交通(明治42年4月)
 ・鰹漁業並に鰹節製造法(明治42年6月)
 ・本県と鰹節(明治43年9月)
 ・金沢丸擱礁詳報(明治44年4月)
 ・渡久地丸の試運転(明治44年4月)
 ・渡久地丸(明治44年5月)
 ・渡久地丸と福山運送店(明治44年7月)
 ・本部村の難破船(大正元年12月)
 ・山原船の遭難(大正2年3月)
 ・難破船一隻(大正2年4月)
 ・本部だより(大正3年11月)
 ・山水行脚(大正4年8月)
 ・鰹漁及帆船及発動船(大正5年7月)
 ・遠漁と帆船(大正5年10月)








2005.04.07(木)

 今帰仁グスクの麓の親泊(現在今泊)までゆく。それは山原のグスクと津(港)を結びつけて考える必要があるからである。山原のグスクから出土する中国や東南アジアなどの陶磁器類がどのような経路でグスクに搬入されたのか。その疑問を解かなければならないからである。山原の規模の大きいグスクと麓の港と結びつけられるが、その実態も考えてみる必要がありそうである。今日は今帰仁グスクと結びつく親泊をゆく。麓のナガナートゥや津屋口あたりから今帰仁グスクが見える位置にある。

 時代は下るが1609年3月27日の薩摩軍の琉球侵攻のとき、親泊沖で和睦の交渉を行なおうとしたが失敗に終わる。薩摩軍は1500名あるいは3000名とも言われている。親泊から今帰仁グスクまで約1.5km。薩摩軍が一列に並ぶと海岸から今帰仁グスクまでつながってしまう。そのことも触れる必要がある。

 今帰仁グスクは麓に親泊がある。
 名護グスクは名護湾(東江辺りか)
 親川(羽地)グスクは勘手納港(名護市仲尾~仲尾次)
 根謝銘グスクは屋嘉比港

【今帰仁グスクと親泊】

 今帰仁グスクの麓に親泊がある。現在今泊となっているが、今帰仁と親泊が統合して今泊となっている。その親泊は今帰仁グスクが機能していた頃の港(津)だったに違いない。泊はトゥマイのことで舟が碇泊することであろう。親はウェーやエーなどと発音され、「りっぱな」な「大きな」の意がありそう。すると親泊は「りっぱな碇泊地」あるいは「大きな碇泊地」だったと見られる。

 それが村名(ムラメイ)として親泊と名付けられたのではないか。親泊集落の東側にチェーグチ(津屋口)の地名があるが、津口(港)に由来している。そこには今帰仁グスクで監守を勤めて第三世和賢が葬られている津屋口墓がある。

 現在の今泊集落の西側にシバンティーナの浜近くのナートゥ(港)、そして東側にナガナートゥ(長い港)があり、そこも港として使われたのであろう。今帰仁グスクから出土する中国製の陶磁器類がどのような経路で搬入されたのか。この親泊という港と結びつけて考える必要はある。しかし大型の船の出入りは狭いリーフの切れ目のクチから不可能にちかい。ならば、どのような経路で搬入されたのか。考えて見る必要がありそう。あるいは、今の常識を超える搬入の経路や方法があったのか。考えさせられることが多い。

 これらの港地名の着く場所が港として機能したことは間違いなかろう。ただし、小さな舟が発着した程度の津だったのではないか。海上はリーフが広がり、一部にクチが開いているにるにしぎない。その小さなクチから進貢船や冊封船などのような大型の船の出入りは不可能である。大型の船は運天港や那覇港など他の港に停泊し、そこから小舟で荷物の運搬をし、その発着場としての役割を果たしていたと見られる。


  ▲志慶真川の下流域(ミヂパイ)              ▲津屋口付近


 ▲東側から見たナガナートゥ(長い港)      ▲西側から見たナガナートゥ

【千代金丸と志慶真川】(水はり:ミヂパイ)(『琉球国由来記』 1713年)
「折節、山北王、本門の向敵、過半討ふせぎ、殿中に入て見れば、妻子悉く、自害せり。依之、城内の鎮所、カナヒヤブと云う盤石あり。夫れに向て申様は、代々守護神と頼しに、今我於敗亡には、汝と共に亡んとて、千代金丸と云う。刀を抜て、彼の鎮所を十文字に切刻、其刀を以て、自腹を切らんとすれば、誠に名刀とかや。主を害するに忍ばず、釖鈍刀と成て、敢彼膚に立たず、然故、志慶間(真)川原と云う所に釖捨、別刀を以て釖自害す。

 
その後千代金丸、志慶真川原より流下、親泊村の東、水はりと云川原に流止、夜々光輝天に。伊平屋人、是を見て、不思議に思へ、態々渡来、見るに、水中釖あり。則捕揚げ、持ち帰りければ、従此光止ける。名釖たることを知て、中山王に献上す。干今、王府の宝物、テガネ丸御腰物、是なり。但千代金丸と云つつ、替への由、申也。干今、カナヒヤブと云鎮所者、差渡五尺計の黒石にてありけるを、千代金丸を以て、十文字に切刻たる旧跡、有之也。


2005.04.06(水)

 
1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)に目を通してみた。何度か引用(197~198頁)してきたが、少し19世紀初期の運天港周辺の外国人がみた様子をたどってみた。1816年頃の運天の風景が、今の運天にどれだけ見い出すことができるだろうか。そのいくつかを画像に収めてみた。

 この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き
清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとし
たものであった。
 垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえ
ぎっていた。

 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、
われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りする
ことさえ認めてくれたのである。

 この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在
するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港jするつもりはない、と答えたのだが、
だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。
 村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出
た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。・・・・全長約4分の1マイル
(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の
大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハン
グとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート
(2,3m)上がった位置に、堅い岩をうたって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの
小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。

 この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除
けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。・・・
 ・・・だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行き
あたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。
 この村は運天Oontingという名前である。・・・・

われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル
港と名付けられることになった。





2005.04.05(火)

 
「山原の津(港)と山原船」の図録(カラー版)の編集に入っていく。モデル的に運天港(今帰仁村)からスタートである。運天港が果たした役割と山原船が往来していた時代を中心に描く。10ページ程度に集約する予定。運天港では以下のテーマで描くことに。

   ・運天港の位置図
   ・運天港と源為朝公渡来伝説(テラガマ・石碑)
   ・オモロに謡われた「うむてん」(運天)
   ・「雲見泊 要津」(『海東諸国紀』(1471年)
   ・山原の歴史と百按司墓
   ・薩摩軍の琉球侵攻と運天港
   ・運天港と今帰仁間切番所と在番
   ・運天に移された山北(今帰仁)監守の墓
   ・大島に漂着した唐人を運天に収容する(1743年)
   ・バジル・ホール運天を記す
   ・フランス艦船の来航とオランダ墓(1846年)
   ・ペリーの一行と運天港
   ・仕上世米の集積津の運天港
   ・大和人墓と運天港
   ・上杉県令の運天視察
   ・笹森儀助と運天
   ・運天隧道(トンネル:道路)の開通と山原船の衰退
   ・今帰仁村役場の移転と運天
   ・古宇利島へ渡船の廃止と運天港
   ・運天港と歴史的な出来事(略年譜)


    ▲現在の運天トンネル                   ▲運天の海岸


     ▲運天港から見た古宇利大橋           ▲ヤラブの木の側まで海岸


   ▲山北監守一族の墓(大北墓)          ▲崖の中腹につくられた古墓


 ▲かつて並木をなしていたコバテイシの一本        ▲大和人の墓(二基)

2005.04.03(

 これまで踏査した山原の津(港)を地図に落としてみた。そのほとんどが漁港として整備されている。現在沖縄本島北部周辺の島々とフェリーが往来している港は、運天港、渡久地港、本部新港である。今帰仁村の古宇利島は平成17年8月に古宇利大橋の開通で定期のフェリーが廃止された。昭和60年(1985)に本部町健堅と瀬底島に瀬底大橋が開通し、渡し舟(ワタサー)は役目を終える。

  運天(浮田)港と伊是名島と伊平屋島
  渡久地港と水納島
  本部新港と伊江島

 山原の現在の港、そして歴史的に大きな役割を担った運天港、伊江島を結ぶ渡久地港(現在は本部新港)、車時代が到来する以前の山原船が運搬の主力となっていた時代に使われていた港、漂着船などが漂着し、救助され使われた津(港)、バジル・ホールやペリー一行が描いた運天港や塩屋湾や名護湾など。そして、近世の山原の三つの津口(運天・勘納名・湖辺底)など一つひとつ描きだしてみる。まずは、山原にどのような港(津)があるのか、その把握からである(港や船に関わる記事は「山原の津(港)と山原船」に集約していく予定)。
   

                 ▲山原の港(津)


2005.04.02(土)

 
今月中に座間味島までゆく予定。座間味島にある慶良間海洋文化館は平成14年に「海と海上交通の歴史展」を開催している(日本財団助成事業)。今年は今帰仁村歴史文化センターが「山原の津(港)と山原船」をテーマで10月から12月まで開催する。それに向けて慶良間海洋文化館の唐船・マーラン船・サバニ・タンク舟など多彩な船を見ておきたい。有り難いことに、今帰仁村歴史文化センターが、海に関わる展示会を聞きつけた慶良間海洋文化館の宮里館長から、展示会に関わる資料を送付頂いている。「早くこい!」と声がかかっている(感謝)。

 座間味島に渡る前にいくつか下調べをしなければならないことがいくつかある。沖縄本島の東海岸については平安座島の山原船を中心とした研究がすでに「あやひ文化館」(与那城町、4月1日からうるま市)中心に進められている。歴文では西海岸を中心とした海運の動きを描き出すことになりそう。まだ、ほとんど手をつけてないが、西海岸の慶良間諸島(座間味島・渡名喜島、渡嘉敷島など)や粟国島などの島々の海人達が、海をを介してどのような働きをしたのか。泊港や那覇港と、沖縄本島西海岸の津(港)と中心として役割を果たした山原船の果たした役割を歴史を通してみていけたらと考えている。

 これからの調査がどう展示会や刊行する「山原の津(港)と山原船」に反映させきれるか。楽しみである。まずは、現物の船をはじめ海に関わる話をどれだけ体験された方々から話を引き出していけるか。なかなか面白そうである。海に関して全くの素人が手をつけるのであるが、がしっとしたものにしていくつもりである。

 那覇港と泊港の西側40kmの地点にある慶良間諸島の島々の港がどのような役割を果たしていたのか関心のあるところ。那覇港や泊港の外洋としての役割を果たしていたのであろうか。あるいは西海岸を往来する山原船の船持が東海岸の平安座島のような拠点となる島であったのであろうか。泊港や那覇港と慶良間諸島の島々と往来するのに精一杯だったのだろうか。そんなことを思い巡らせながら調べてゆくことに。 

2005.04.01(金)

 船や海のことを調べていると風についてのことがよく出てくる。海の気象暦を知る必要がある。これまでいくつか教わっているが、名称を知っているだけのこと。単なる机上の知識で船を出したり、漁に出たのであれば命はいくつあっても足りない。まだまだ命は欲しいので、風について話を引き出すぐらいの知識を持って海人や船持ちへの調査にのぞみたい。そのため、気象と生活について整理しておきたい。まずは、過ぎ去ろうとしている二月風回り(ニングヮチカヂマーイ:台湾坊主)について。

・二月風回り(ニングヮチカヂマーイ)
  この言葉は、これまで何回も聴いている。旧暦の2月に発生する低気圧のこ
  と。次々と発生し過ぎ去っていく。南風から北風へ変ることが速く、船持ちや
  海人に恐れられている。3月15日(旧暦2月)頃は春の荒天の入り「2月風回
  り」(台湾坊主)が発生する季節である。4月上旬に寒さの戻りがあり、荒天は
  終わるようである。ボツボツ、今年の二月風回りは終わりということか。海人は
  次のようようなことで、二月風回りの終わりを知るという。
    ・浜に打ち上げられた海藻
    ・海水の濁り
    ・ツノミガニが海に入る

・陽春の入り(うりずん:若夏の季節)
  そろそろ陽春の入りようである。若夏やうりずんの季節である。 

 沖縄県には東風平、南風原の地名がある。風向きに因んだ地名か。北風や西風の吹く季節があればその向きに因んだ地名もありそうだが。北のことをニシという。初の北風をミーニシと呼んでいる。沖縄ではニシは北のことである。西原町の西は北のニシに西の字を充てたのあろう。西原の西(ニシ)が北風を指しているかである。ニシのニは子(ね→に:北の方角)のこと、シはカゼ(かぢ→し)ということか。「子の方向から吹いてくる風」(新屋敷幸繁氏は『歴史を語る沖縄の海』48頁)と解している。入風の地名がないのは、生活に影響を与えるような「入り風」(西風)の吹く季節風がなかったのであろうか。

 東風平町や南風原町、そして西原町を首里を中心とした地名の付け方だという。南風原(首里の南側)と西原(首里の北側)は位置している。ところが東風平は南風原のさらに南に位置しているので、首里から見て東側に位置していないので、別の理由があるのかもしれない(調べてみる必要あり)。

 そんなこと書いているが、エイプリルフールだからな。あ、忘れていました「南風」の原稿。推敲して明日には送付しなければ。