2009年1月31日(土)
27日~29日まで久米島調査。調査の目的はノロ関係の勾玉や水晶玉(ガラス)など。久米島自然文化センター寄託品、儀間ノロ関係遺品などの調査報告は別にされる。合間をぬって久米島の何カ所かを訪ねる。
①久米島仲地の君南風殿内
②久米島具志川グスク跡(仲村渠)
③島尻集落と板門墓(島尻)
④島尻のウティダ石(島尻)
⑤ソナミの烽火台(宇根)
⑥上江洲家(西銘)
⑦泰山石敢當(1733年)建立(西銘)
⑧登武那覇城跡(宇根)
⑨具志川間切蔵元跡
⑩石塘根(イシトーネ)(嘉手刈)
⑪兼城御嶽(兼城)
⑫ウティダ石(太陽石)(比屋定)
⑬宇江城グスク跡(宇江城)
などなど。
久米島の君南風については、今帰仁阿応理屋恵同様、三十三君の一人である。ノロ制度は、首里王府がクニを統治する手段の一つだと捉えている。久米島の君南風をクニを統治する手段とする視点でとらえてみたい。久米島には「君南風(チンベー)の配下に①具志川ノロ ②仲地ノロ ③西銘ノロ ④兼城ノロ ⑤儀間ノロ ⑥山城ノロ ⑦比嘉ノロ ⑧宇根ノロ ⑨城ノロ ⑩比屋定ノロの10名のノロがいた。今回勾玉や水晶玉などを入れる櫃の大きさに注目したい。
「君南風が果たした役割」と、その男方(太氏氏・美済氏・和州氏)と首里王府との関わりについて見ていくことに。首里王府と関わる烽火台や蔵元や湊などを手がかりとする。その手がかりがつかめたらと。
▲君南風がグスクヌムイをする具志川城跡 ▲海岸側からみた具志川グスク跡
▲久米島具志川城跡 ▲グスク登り口のトートー石
▲久米島君南風殿内(久米島仲地) ▲君南風殿内の屋敷にある雨乞い石
▲島尻のウテゥダ石から東に渡名喜と座間味島が見える。ウテゥダ石(割れ目は東西)
▲ソナミの烽火台(宇根)から奥武島方面を望む ▲烽火台の頂上部
2009年1月26日(月)
旧暦の元旦。早朝からの調査あり。古宇利島の旧正月のウガンから。お宮に島の方々が集まり、新年の祈願をする。その後にアガリガー、イリガー、最後に集落の東側で七つのウタキに向かっての祈願をする。今年は神人の参加なしでした。
(古宇利島の祭祀は一年通しての画像調査となる:参与観察記録)。
【古宇利島の初願】(旧正月)
▲お宮でのウガン(古宇利島) ▲お宮での供え物(古宇利島)
▲アガリガーでのウガン(古宇利島) ▲イリガーでのウガン(古宇利島)
▲ナナムイへのウトゥーシ(遥拝) ▲古宇利島の旧正の朝
【兼次小学校4年】(総合学習の発表)
兼次小学校4年生が今帰仁グスクでグスクにまつわる伝説の発表会をしてくれた(午前10時から)。4月から夏休み、その後もグスクについて学んできた。今日の発表は、発表の仕方、絵の描き方、色の塗り方など工夫を凝らしていた。桜が見ごろの時期、発表は印象に残るでしょう。舞台は今帰仁グスクの本丸!上出来でした!
▲「名刀千代金丸」の発表 ▲「北山騒動」の発表
▲「石切り妖刀北谷菜切」の報告 ▲「今帰仁御神―志慶間乙樽―」の発表
2009年1月24日(土)
グスクとは全く別のことで頭が一杯なので、夜のグスクでも画像で見ていただきましょう。来館者が今日一日で1500人余り。グスクは2000人余り。
2009年1月22日(木)
世冨慶(名護市)の字誌について具体的な話と進め方についての話題を提供。楽しく成果があがるように。世冨慶での話をまとめて置きたいのだが、すぐ頭の切り替えをしないと。次のが滞ってしまう。
ただ一つ、忘れないために「磨刀石」のこと。琉球国から明国への貢物の中に「馬・硫黄・生塾夏布・磨刀石」(『大明会典』)があげられている。外にもあるが、それは東南アジアや日本からの品物である。「磨刀石」が名護間切世富慶村産との記事を見たことがある。そうであれば、世冨慶から産出したことも。今帰仁グスクから出土した砥石がある。何種類かの石の砥石があるようだが、それはどこ産の石だろうかと。世冨慶産かも? そんな眼差しで見ると???!!!
世冨慶の祭祀から、今帰仁グスク→名護グスク→世冨慶の流れの歴史認識、あるいは伝承がある、あったことが伺える。それと世冨慶で産出する砥石にする石と結びけるのは早計であるが・・・。1427年に柴山(中国人)が琉球に「生漆や磨刀石」などを購入しにきたという。
2009年1月20日(火)
「なきじん研究」(第16号)の原稿だし(第1編~20編(270頁)まで済み)。最終編21編(20頁)は明日にでも。22日名護市世慶冨で講演あり。それで、南に向かう途中立ち寄る。
ちょうど、世冨慶では旧暦12月24日のフトゥチウガンをしている最中であった。供え物を見ると、山原らしさものではない。中南部方式か。それともユタ方式なのだろうか。世慶慶の様子を知らずして、話をしたのでは・・・大臣みたいな言葉や知識の羅列になってしまう。それは性に合わない。ちょっと、世冨慶区の区長さんや神人などと声をかわし、集落内を急ぎ足でまわる。
集落は小規模である。規模は小さいが独特の空間が目にはいる。リュウグウの神・ムラ火神・神アサギ・根ヤー・根神ヤー・アサガーなどが、集落内に散在してある。ムラ火神の前の広場にかつてムラヤー(公民館)があったという。ムラ火神の呼び方やムラヤー敷地跡にあるので理にかなっている。そこでフトゥチウガンをしている。
集落区分のクシファーリ、メーファーリの呼称が残っている。今はクシグミ・ナハグミ・メーグミ・ヒサグミと呼ばれている。墓地は世冨慶川の左岸の河口にまとまってぎっしりとある。墓碑のヤゴー(屋号)を整理するだけでも世冨慶の特徴が見えてきそうである。
「世冨慶」について、どんなことを話題にしようか。これから思案することに。二度は断れないし、極端に資料の少ない区である。難題だ。「もくじ」立てでもしてみましょう。「区の議事録」(戦後)がないだろうか。
2009年1月18日(日)
『家譜』から今帰仁間切、あるいは山原と関わる記事を拾ってみる。すると興味深いことが見えてくる。時間がないので、ほんと少しだけ! はまり込むと抱えている業務がストップしてしまう!
・栢姓一世良正(今帰仁親雲上)(1490~1556年)(栢姓家譜)
嘉靖年間に那覇筆者となり、後に今帰仁間切惣地頭職となる。
・向姓六世 朝智 玉城親方(1582~1640年)(向姓家譜 六世朝智)
父尚韶威(今帰仁王子朝典)の五世孫。
万暦37年(1609)薩州より当国に兵船を遣される旨の知らせあるの故に兵船の番手として宣旨を承けて徳の島に航す。
幾程もなく兵船来着し多勢を以て襲い来り小島をの知らせあるの故に圍攻む。籌を廻すと雖も小勢の故に一戦を力
むるも萬死に一生なし。此の時軍中に一人の入道浄休なるものあり。予め旧識あるに因り其名を軍将に告ぐ。故に死
命を免れて軍将椛山権左衛門殿乗船より運天に来着す。
・藺姓二世 篤? 今帰仁親雲上(1595~1659年)(藺姓家譜)
崇貞元年戌辰(1628年)に今帰仁代官となる。
順治元年甲申(1644年)今帰仁間切惣地頭職となる。
順治12年(1655年)に老を告げて今帰仁間切惣地頭職を返上する。
※今帰仁按司六世(縄祖)と七世(従憲)との間に藺姓二世篤?(今帰仁親雲上)が1644年~1644年までの間、今帰仁
間切惣地頭職を務めたということか?
・孫姓六世 嗣冝 並里親雲上(1638~1721年)
康熙元年壬寅(1662年)今帰仁代官となる。
・朱姓四世 直昌 喜瀬親雲上(1632~1699年)(朱姓家譜)
薫姓己酉(1669年)今帰仁間切親泊の名を賜う。
・薫姓六世 仲眞(屋親祖親雲上)(1646~1710年)(薫姓家譜)
康熙11年今帰仁間切玉城地頭職に任ず。
2009年1月16日(金)
昨日は旧暦の12月20日。古宇利島では今年度(旧暦)最後の神行事が行われた。ムユー折目で、ウットミ、ハットミと呼ばれている。昭和2年に調査をされた宮城真治は「ウットミ、ハットミ(打とめ、余とめ)、ムユー折目ともいう。村の頭にスンカンヌヂの飯を字から配った。今はなし)」と記してある。
ウットミパットミは今年の神行事の最後、締めの意味合いのようである。古宇利春夫氏宅に集まり、お宮へ。線香・泡盛・塩・米が供えられる。お宮での祈願が終わると、シラサ(岬)の先端へ。そこで東の塩屋に向かって祈願がなされる。これで一年間の神行事の締めを行った。そこでの東に向かっての祈願であるが、神人の観念は塩屋に向いている。神人の参加は古宇利春夫氏と兼次フサエさんの二人。この行事は本来ノロの持ち分のようである。ノロが出ていないので、山川さん務めているようであるが、体調が思わしくないので兼次フサエさんが行った。
▲お宮での祈り ▲供え物(塩・米・泡盛など)
▲シラサ(岬)に向かう古宇利氏 ▲塩屋に向かって祈る神人
2009年1月14日(水)
ちょっと職場から離れていたため、あれこれ山積状態。報告書の追加原稿(伝統芸能の伝播の可能性)の飛び込みがありドタバタ。調査・出張の依頼などあり。3月まで講演が何本か。飛び込み原稿があったため、「山原の歴史と文化」原稿(300頁)のアップが遅れそう。この段階になると、校正というより機械的に形を整える編集作業である。いずれやろうと考えていた「山原の歴史事典」風になりそう。
下の香炉は本部町辺名地の拝所にあるものである。「咸豊九年己未九月吉元 奉寄進 本部按司内 松田にや」とある。咸豊九年は1859年である。「本部按司内」とあるが、本部按司殿内のことではないか。そこに奉公していた人物が「松田にや」なのかもしれない。その年本部按司朝章が、順聖院様が薨逝なされたので派遣されている。六月十日に薩州に到着し、十月六日に帰国している。薩州に赴いている間に御殿奉公していた松田にやが寄進した香炉なのだろうか。他の事例からしても本部按司の上薩と無縁ではなかろう。香炉は神アサギの後方の祠の中にある。シニグの時に、拝所の扉を開けるので拝見することができる。
▲辺名地の拝所の香炉(1859年) ▲本部町辺名地の神アサギ
2009年1月10日(土)
最近の委員会や会議編集委員会などキャンセル(申し訳ない)。それでも進めなければならない物もある。300頁の原稿整理と割り付け作業。体系的に組むのに四苦八苦。パンク状態。それと目の前が曇って字が見えません。歳のせいか。それで、時間を見て今帰仁グスクへ。頭を冷やしてから。一気に片付けましょうかネ。
風が強く海上は白波が立っている。冬の沖縄の海。それでも海の青さは美しい。強風で冷めたか。下のウタキのイビに五基の香炉があるが文字は判読不能。神アサギ跡の香炉も。
▲参拝道から見たクボウのウタキ ▲下のウタキのイビ ▲城内の神アサギ跡の香炉
2009年1月7日(水)
正月2日には今帰仁村謝名の大島(ウプシマー)周辺を歩いてみた。そこは小・中学生時代歩き回った地域である。そこで培われた物の見方というのがある。山原の集落の展開、御嶽・グスク、古島と大島などなど。ムラの歴史を最初に書き上げたのが謝名であった。その成果は『じゃな誌』に納めた。30年近くなっているので、全面的に書き改めたいと筆を進めている。
謝名の大島(ウプシマー)集落は南斜面に展開している。一番下方は前田原の小字がある。昭和30年代まで水田が広がっていた。前田原の地名は、集落から見た前方にある水田地帯に名付けられた名称である。小地名は集落を中心として名付けられるという、一つの法則を見出すことができる。
ムラ・シマや村落、行政区などと概念を異にして考えなけらばならない「集落」。その集落はムラ・シマ、字(アザ)や村落と概念を異にして、区別して考える必要があるとヒントを得たのは、そこからである。特に、ウタキやグスクは集落と切り離せないキーワードである。また、ウタキは集落と関わる杜であり、その中に一番神聖の場となるイベがあり、両者は区別をして考えるべきものだと。
謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。
同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。

▲お宮(ウタキ)への神道 ▲昭和9年に建立された「謝名神社」(お宮)

▲同治9年の香炉 ▲ウタキのイベにある香炉

▲ウプシマ集落の神アサギ(後方にウタキ) ▲世神殿内の拝所(脇地頭火神?)
2009年1月1日(木)
新年おめでとうございます! いい年でありますように。
今年は今帰仁グスクからのスタート。3月に「北山の歴史」の予定で作業を進めてきた。20数年前にまとめた「北山の歴史」の全面書き変えを予定していたが、進めているうちに予想以上のページになったので急きょ変更。これまで講演や研究会などで報告したもの、それとノートからの記事を整理しなおすことに。「北山の歴史と文化」として発刊することに方針を変更。正月休みで、原稿アップ。後、数日しかないが。
その後に、600ページの刊行物の編集が待っている。それも待ったなし。新年早々から大変な年になっている。
下の画像は元旦の今帰仁グスクの様子。