今帰仁村上運天                         トップヘ

 ・上運天

上運天の概況(がいきょう)

・ウンシマウガンジュは遺跡になっていたグスク系土器、磨石、叩き石、須恵器、青磁器などが
 確認されている。
・上運天はもともと運天と一つの村であった。
・運天の村が二つになったためウインシマ(上の島)とヒチャンシマ(下の島)と呼ばれる。
・ウタキの内部に神アサギ・ウタキのイベ・神殿などがある。
・ウタキの内部に集落があった痕跡が見られる。集落はウタキの周辺から下の方に移動している。
・オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」とあるが、「こみなと」は浮田港ではないか?
・1741年(乾隆6)に大島に漂着した唐船を運天津に回したことがある。唐人を運天に囲っている間
 大和船は古宇利島に停泊するよう指示がなされる。
・その時、具志堅親方(蔡温)も訪れている。その時の宿は上運天村である。
・大和役人の藤山藤兵衛、与力宮之原四郎右衛門などは上運天村で指揮をとっている。
・上運天には年二回のタキヌウガンがある(4月と8月)。その時のウタキのイベは運天のティラガマ
 である。
・4月15日はアブシバレーとタキヌウガンが同時に行われる。
・6月25日にはシチュマとサーザーウェーがある。
・7月の後の亥の日はウフユミ(ワラビミチ)が行われる。勢理客ノロがやってくる。
・ウフェーの森があり、上運天と下運天の人たちが十五夜の行事を行っていた。
・上運天は毎年豊年踊が行われる。その会場は運天地番のウフェーで行う。何故?
・上運天の獅子は神アサギの中に置かれている。
・上運天の古い集落はアナガーバーリーとアサトゥである。
・1917年(大正6)に仲宗根に台南社の製糖工場ができ、浮田港に桟橋をつくり、仲宗根までレール
 を敷きトロッコで運搬がなされた。
・戦争中は日本軍の高速輸送及び特殊潜航艇魚雷基地であった。そのため爆撃を受けた。
・1934年(昭和9)に国会議事堂の門柱につかわれたトラバーチン(石材)が積み出された。
・1955年(昭和30)貿易補助港の指定をうける。
・1959年(昭和34)北部製糖工場の建設に伴って岩壁の建設がなされる。
・1987年(昭和62)伊是名島へのフェリーは運天港(浮田港)から発着する。
・1990年(平成2)伊平屋島と運天(浮田)港間のフェリーが運航する。

上運天の位置図


【上運天】(2004.2.12) 

 上運天は今帰仁村の東側のムラ(現在の字)の一つである。ウイヌシマ(上の島)と呼ばれ、運天のシチャヌシマ(下の島)に対しての呼び方である。上運天と運天は一つの村であったが、近世初期に分かれたのではないか。1713年の『琉球国由来記』の頃には上運天村と運天村に分かれている。当時の祭祀はシマセンク(勢理客)ノロの管轄である。ノロ管轄の祭祀は現在も踏襲されている。

 『琉球国由来記』(1713年)に上運天村に「上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)」と「ウケタ嶽(神名:不伝」が記され、二つの御嶽は今でも残っている。上運天の御嶽の周辺に神アサギ・アサギナー・お宮・ムラヤー跡・根神ヤー跡などがある。

 ウケタ嶽は運天港(伊是名島・伊平屋島の発着場)の近くにあり、森になっていて入口に「浮田御願所」と彫られた碑がたっている。『琉球国由来記』にはウキタ御嶽での祭祀は記されていないが、現在でもムラの祭祀場として御願がなされている。

 上運天の神アサギでの祭祀が『琉球国由来記』に記されている。( )内の記事は『琉球国由来記』に記載されているものではない。

    ・麦稲穂祭(麦穂祭は2月ウマチー:稲穂祭は5月中)
    ・麦稲大祭(麦穂大祭は3月:稲大祭は6月中)
    ・年 浴(8月中)
    ・大折目(7月)     
    ・柴 指(8月中)
    ・芋折目

 

【現在行われている上運天の祭祀】

    ・1月1日    チータチウガン(一日御願)
    ・2月15日   ウマチー
    ・4月15日   アブシバレーとタキヌウガン(運天のティラも拝む)
    ・5月15日   ウマチー
    ・6月25日   シチュマー・サーザーウェー
    ・7月後の亥日 ウフユミ(勢理客ノロがやってくる:四カ字合同)
    ・8月15日   ジュウゴヤー(十五夜)
    ・8月17日   タキヌウガン(運天のティラも拝む)


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  ▲今帰仁村上運天の神アサギ       ▲ウキタ(浮田)御嶽のイビ

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  ▲上運天の御嶽の中のイビ(貝あり)   ▲ムラヤーの跡(火の神の祠) 


【上運天の8つの小字】

 上運天は現在8つの小字(コアザ)からなる。「ユ うけた原」の原石があり、『琉球国由来記』(1713年)にウケタ嶽が登場することから、以前「うけた原」があったことがわかる。ウケタ御嶽あらりが「うけた原」だったにちがいない。うけた原は現在の親川原に組み込まれた可能性がある。

    @上運天原
    A阿那川原
    B親川
    C大川原
    D唐の森原
    E大籠原
    F大久保原
    G上 原



上運天(2009年12月12日)

・上運天の概要
・上運天の神アサギ
・上運天の神殿(敬神の扁額)
・掟(ウッチ)火神の祠
・根神火神の祠
・上運天のウフェー(地番は運天)
・穴泉(アナガガー)
・ウキタのウタキ

 
       ▲上運天の神アサギ                ▲根ヤー火神の祠

   
        
 ▲上運天の神殿                       ▲ウフェーへの階段