のろ関係調査(ノロ制度の終焉)

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 これまでノロ関係の調査を進めてきました。他の調査との合間に行ってきたので、ノロ関係に徹しての調査してきたものではありません。(他の記事もはいています。当時の動きを知るために)。まずは、ここまで報告してきたのを集合させてみます。・ノロ制度の終焉


2010(平成22)年9月30日(木)

 「地域文化に与えたノロ制度」(沖縄の地域文化論)と「沖縄の歴史を見る視点」(沖縄の歴史と文化)の大学での講義のスタートを切る。15週の連続講座は久しぶりなので、息切れがするかも。早速、二つの講座の学生達(100名余+50名余)(計150名)と顔合わせができたので一段落。二つの講座の講義内容は省略。「地域文化に与えたノロ制度」は、ガイド講座でも話題にする。

 ノロ制度が地域に与えた影響は大きなものがある。「三十三君」(37名)は、もしかしたら「間切数+三あむしられ」なのかもしれない。つまり、ノロ制度は首里王府が末端まで統治していく手段としたのではないか。ノロ制度は各ムラで行われていた祭祀を巧みに入れこみ、ムラの上に公儀ノロを配置し首里化していく。すると、ムラの祭祀と首里王府からの祭祀との兼ね合い。・・・


       ▲「ガイド講座」(歴史文化センター) ▲「沖縄の歴史と文化」(歴史をみる視点)(大学)


2010(平成22)年9月28日(火)

 「ノロ制度の終焉」と「ノロ制度に影響を及ぼした地域文化」なのか、それともノロ制度が地域文化にどう影響を及ぼしたのか」。両方の視点が交差しているような。どんなまとめになるか。楽しみだ!

 頭の中が飽和状態なので、宮古にでも飛んでみましょうか。1954年の宮古平良市の風景や建物(琉米文化会館)などである。



2010(平成22)年9月24日(金)

 名護市(旧羽地間切)の屋我と鐃辺名、そして我部までゆく。屋我ノロドゥンチが何故鐃辺名にあるのか。ノロが鐃辺名から出てもノロの名称が変更されずにある(今帰仁村(間切)の中城ノロも諸喜田村に移っているが名称はそのまま中城ノロである)。そのこと史料を踏まえて考えてみる。(久しぶりに各地の拝所等回って見ると窓やカギなどが壊されている)

 まず、屋我ノロが、いつ屋我村から頃鐃辺名村に移ったのか。屋我ノロが公儀ノロとして任命された時、羽地間切屋我村に居住していた家の人物、あるいは任命して屋我村に住んだということであろう。1625年の屋我ノロの辞令書がある。その時、「やかのろ」が屋我村に居住していたか明確に記されているわけではないが、屋我村に住んでいたのであろう。その後の『琉球国由来記』(1713年)に屋我巫女(ノロ)の記述をみると、「屋我巫火神」は屋我村にあり、屋我ノロは屋我村と鐃辺名村と済井出村の祭祀を掌っている。

 現在、屋我ノロ家は鐃辺名に移っているが、『琉球国由来記』(1713年)の屋我巫火神は屋我村に残っているに違いない。屋我村の集落は1858(咸豊8)年に墨屋原に移動している。ならば屋我巫の火神の祠は集落移動前の故地に残されている可能性がある(その確認がしたくての屋我行きである)。

 屋我村の集落は屋我グスク周辺にあったと見られる。屋我グスクを中心とした一帯は阿太伊でアテーと呼ばれる。アテーはアタイのことで集落の中心に付けられる地名である。移動前の屋我の集落の故地は、屋我グスクの周辺にあったとみてよさそう。そこにはヤガガーがありグスクとヤガガーを拝む祭祀がある。グスクにあがる近くに火神を祭った祠がある。祭祀場はお宮に統合されているが、ノロ火神は元の場所に残された一つではないか。グスク近くにある火神の祠は屋我ノロ火神の可能性がある(確認必要)。

 屋我ノロが鐃辺名に移ったのはいつごろから。屋我ノロに関する明治の史料がある。明治26年段階で屋嘉ノロクモイは鐃辺名村に居住している。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定)によると屋我村にノロクモイが一人いて、鐃辺名村に根神がいる。その頃、屋我ノロはまだ屋我村にいたということか。しかし、「午年羽地按司様御初地入日記」(1870年)を見ると、羽地按司が管轄する羽地間切を訪問した時、屋我地御立願の三番目にによひな(鐃辺名)村の「のろこもい御火神」を訪れている。その時、のろこもい火神は鐃辺名村にある。屋我村から鐃辺名村にノロが移り住んだ理由は、今のところ不明。

              証
          羽地間切鐃辺名村三拾九番地平民
                 屋我ノロクモイ  玉那覇マカ
        右ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切内ニ現住ノロクモイナルヲ証明ス
       明治廿六年八月九日 羽地間切地頭代 嶋袋登嘉
        国頭役所長 笹田征次郎殿

 宮城栄昌氏のノロ調査を見ると、ノロは鐃辺名にあるノロドゥンチ、ノロ殿内の根屋、アシャギ、島の川三ヶ所、大てら二ヶ所、小てら一ヶ所、群松。屋我のアシャギ、屋我グスク、屋我ガーも拝んでいる。
 明治32年の以下の資料(文書)と牛角の簪が一本保存されているようだ。


      国頭郡羽地間切鐃辺名村平民
              玉城喜三郎
              外三名
     明治三十二年二月廿八日付願
     屋我ノロクモイ死亡跡役採用ノ件聞届
          明治三十二年四月八日
       沖縄県知事男爵  奈良原 繁 (沖縄県知事印)
  

【現在の屋我域】
 
▲羽地間切の屋嘉ノロ補任辞令書(1662年)   ▲アテー(原)にある屋我グスク


  ▲屋我グスク入口付近にある火神の祠         ▲アテー原にあるヤガガー

【現在の鐃辺名域】


▲鐃辺名にあるノロドゥンチにある火神の祠      ▲ノロドゥンチの側にある神アサギ

2010(平成22)年9月22日(水)

 国頭村の安田を訪れたのは古琉球の辞令書が二枚あったからである(現存せず)。ヤンバルクイナの鳴き声が聞こえたり、餌をついばんでいる姿が見られるムラである。

 二枚の辞令書は『沖縄県国頭郡志』(大正8年発刊)で紹介されたものであるが、「辞令書等古文書調査報告書」(昭和56年)でも「逸存辞令書」として二枚が紹介されている。同年月日で、二枚の辞令書が同時に発給さている。

 古琉球の辞令書で関心を持っているのは、「にしはらまきり」(西原間切)、「みやきせんまきり」(今帰仁間切)、「まわしまきり」(真和志間切)「とよミくすくまきり」(豊見城間切)、奄美の「せんとうちひかまきり」(瀬戸内東真切、「やけうちまきり」(屋喜内間切)、「なせまきり」(名瀬間切)「とくのにしめまきり」(徳之島西間切)、「かさりまきり」(笠利間切)など、まきり(間切)が登場していることである。

 ところが、後の村名に位置づけられる地名は登場するが、その後に「・・・むら」(村)とは出てこない。「あめくのさとぬし」(天久)、「きまのかなくすくの」(儀間、金城)、「大ミねのさとぬし」(大嶺)、「へなちのめさし」(辺名地)、「くしかわのろ」(具志川)、「ちやはなのおきて」(謝花)、「よなみねのうちま人」(与那嶺)「あたのさとぬし」(安田)、奄美の辞令書でも同様である。

 そのこともあって、古琉球の時代にまぎり(間切)の行政区分は成り立っているが、むら(村)の行政的な位置づけは、まだ十分ではなかったとみられる。村は近世の産物と言えそう。それは税制度と一体のものといえそう。しかし、税制度(行政的)な村が成立したのであるが、祭祀と関わる部分まで行政的な村にすることができずに、今に引きずっている。村の変遷を文献史料で整理しても、祭祀や神人の出自、あるいは首里王府の辞令が発給されるノロなどが絡んでくる。

 国頭間切の安田の辞令書に古琉球のむら(ムラ)の姿を見せるキーワードが内在しているのではないか。

  ①国頭間切の安田里主所安堵辞令書(万暦15:1587年) 
  ②国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15:1587年) 


  ▲メンバーから眺めた国頭村安田の集落    ▲シニグなどの祭祀場となる安田の神アサギ

2010(平成22)年9月20日(月)

 名護市真喜屋、国頭村辺土名(上島)、与那、安波、安田、辺戸まで行く。真喜屋は上地家の確認。与那は村墓とウガンの遠景、安波はノロドゥンチとウタキと安波川の河口、安田は古琉球の辞令書(1587年)に「のろさとぬしおきてかないとも(ニ) 御ゆるしめされ候」とあり、『琉球国由来記』(1713年)頃には安波巫女(ノロ)となっているが、辞令書の頃に安田にノロがいたということか。辺土名の豊年祭の道ジュネーが辺土名の公民館から上島のノロドゥンチまで行き、そこで奉納踊をする。上島と辺土名との関係。そのようなテーマを持っての国頭行きである(詳細報告は別に行う)。


      ▲安波のヌーガミ(ウガミ)           ▲安波ノロドゥンチ


    ▲安波ノロは上之屋一門から            ▲安波川の河口


          ▲安田の集落            ▲由来記でいうヨリアゲ森?


    
▲辺土名ノロドゥンチ(上島)      ▲辺土名の豊年祭(上島での奉納演舞へ)


2010(平成22)年9月18日(土)

 
名護市真喜屋(稲嶺)に「上地重福」が寄進した香炉が三ヶ所にある(稲嶺のマディキヤウタキ、真喜屋のウイヌウタキ、つるかめ拝所)。これまでどのような家の人物か、まだつかめていなかったが、『沖縄の古代マキヨの研究』(稲村賢敷著:135頁)で上地家について紹介されている。このように補足できる資料と出会うことは楽しい。香炉は上地福重が明治28年に上京し、帰ってきてから「奉寄進」したものである。

 「(真喜屋)巫女屋敷の西には幅一間位の通路があって、この通路を南に行くと約二十米程で、通路の西方に上地門中の根神屋がある。名護の天次嶽ではこの上地門中根神屋に相当する住居を掟神屋と称し、巫女の補佐役に当るという事であるが、真喜屋ノ嶽でもやはり上地門中の根神がこれを勤めたものであろうか。建物の内部は巫女屋と同じで神棚には御位牌を祭り、三ツ物の火ノ神が祭ってあった。」


 ▲マティキヤウタキの香炉(稲嶺)   ▲真喜屋のウイヌウタキの香炉 ▲真喜屋の「つるかめ」の拝所


 ▲[つるかみ」の拝所  ▲真喜屋ノロドゥンチの近くにあった上地門中の家(昭和30年代)

2010(平成22)年9月17日(金)

名護市汀間のウイミ(旧8月10日)】

 午後三時頃、汀間のサカンジョウ(三ヶ門)に神人などが集まる。サンカジョウ内でのウガンは世の神、ノロ神、根神の順に拝む。サンカジョウ内でのウガンが終わると、隣の祠へ。その祠はウタキグヮーのイベである。つまり、サンカジョウや神アサギなどがある森はウタキ(ウタキグヮー)である。サンカジョウの側のウタキグヮーの祠(イベ)を拝み、神人達は神アサギ内へ。旧8月10日の祭祀は名護市汀間ではウイミという。

 ①サンカジョウ(三ヶ門)(世神・根神・ノロ神はクシグミから移動)(統合されている)
 ②ウガングヮー(ウタキ内のイベ)(『由来記』の小湊嶽か)
 ③神アサギへ(ウンバーリから現在地に移動)
 ④アサギ内でのウガン(ウプウガンへ遥拝)(『由来記』の大湊嶽か)
 ⑤アサギ内で勾玉や水晶玉、神衣装などのお披露目(年一回の)。

 神アサギ内にはテーブルと腰掛けが準備されていて、テーブルの上に勾玉と水晶玉とビーズ玉のついた首佩け(首に佩くことはなかった)。それらを入れる櫃が側に置かれる(胴部は茶の漆塗、蓋は黒、中心部から外に向けてヒビ割れあり)。衣装が置かれる。汀間ノロは汀間・瀬嵩・大浦の三ヶ村を管轄。

 神人にお神酒がつがれ、神人は正面、そして右手(ウプウガン)に向ってお神酒を備える所作をする(二回)。それが終わると参加者にお神酒が配られる。神人の前に御馳走が配膳される。参加者に勾玉、水晶玉、ビーズ、衣装などがお披露目される(年に一度)。(途中大雨となる)

 ・現在行われている祭祀場と以前の祭祀場の比較
 ・ウプウタキとウガングヮーを規模の大きさで見ていく必要あり(古い新しい、あるいは分離したではなく)。
 ・ウガングヮーにも鳥居があり。戦前にウタキを神社形式に仕立ててあったのを公園整備で鳥居は取り
  払われている)
 ・嘉手刈村と汀間村との統合。祭祀にどう影響しているのか?
 ・神アサギの移動
 ・ウプウタキとウガングヮーの二つの村のウタキが山手ではなく川沿いに位置する(他地域から移住してきた人々の集落?)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に瀬嵩村に大湊嶽・スルギバル嶽・小湊嶽の三つのウタキがある。

 ・スルギバル嶽は大正14年に分離した三原(汀間のウンバーリ)にある。


        ▲汀間のサンカジョウ       ▲サンカジョウ内で勾玉や水晶玉が開けられる


 ▲世の神、ノロの神、根神の順でウガン      ▲神人の一人はサンカジョウから神アサギへ


 ▲サンカジョウの側の祠でのウガン▲ウタキグヮーでのウガン
  


▲神アサギ内で婦人方や村の有志と神人が合流▲神人はウプウガンに向ってウガン


 ▲勾玉や衣装などをお披露目(年一回) ▲ウガンが終わると参加者は直会(談笑)

 『琉球国由来記』(1713年)の久志間切汀間村とある。汀間ノロの管轄する村は汀間村・瀬嵩村・大浦村である。現在は汀間のみ。

      ▲ウプウタキの近景   ▲神アサギ跡からウプウタキ(左)とウタキグヮ(右)を望む