講義レジメ(2010年度)



2010年11月30日(火)

 「久米島のムラ・シマ」、受講しているほとんどの学生が久米島に行ったことがないので、久米島のムラ・シマ(30余)の紹介程度になりそう。国や県、そして久米島町指定の文化財を手掛かりに、久米島に渡った気分で島のムラ・シマを紹介(主な参考文献:「久米島町の文化財」)

  

 

 
  (レジュメから一部抜粋))

2010年11月27日(土)

 久米島をゆく。今回、確認したいことの一つに『琉球国由来記』(1713年)に出てくる久米具志川間切の「小御嶽」(仲地村)であった。小御嶽はクグシクと呼ばれているようである。そこに「香炉が70個ばかり集積されている」(『沖縄久米島』沖縄久米調査委員会 142頁:仲村昌尚)とのこと。それだけの香炉があることは、クニレベルの祭祀場であろうことは予想していた。まずは香炉のある場所の確認。

  小御嶽 仲地村
    神名:小森ノスデヅカサワカツカサガナシ
   右六御前、二八月、百度御物参、有祈願也。
      (ここでの右御前は具志川城内御イベ(三ヶ所)と具志川ノロ火神(一ヶ所)、大御嶽(一ヶ所)、
          そして小御嶽の一ヶ所のこと)

  
そこでの「二八月、百度御物参」は、「年中祭祀」のところで以下のように記してある。

   二八月百度御物参の事、右間切にて日を撰び、首里天加那志、並びに世子の御為に
   万事百加保のあるように、御嶽々々の御イベ、並びに君南風殿内ノロ火神、且根所火神
   御前へ、御香・御花・御五水居て、ノロ・頭・サバクリ中、朝八巻にて、御立願・結願仕、御
   祝として、肴一鉢、神酒一こがい宛にて、御祝仕也。造用は、所遣より出る也。 

 この祭祀は首里天加那志(琉球国王)と世子のための祈願である。今帰仁グスクの近くにある「コバウ御」(今帰仁村)で行われる祈願(今帰仁アオリヤエの祭祀と見られる)や国頭の辺戸の宜野久瀬嶽、大川での祈願と同様であろう。そこでの祈願はムラ・シマレベルの祭祀ではなく、クニ(首里王府)クラスの祭祀で、久米島では島の祭祀を統括する君南風、沖縄本島北部では今帰仁アオリヤエの役目であったことが伺える。

   
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御子スデモノヽ御為、又島国之、作物ノ為、
     唐・大和・宮古・八重山。島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メイシヨワレ。


     ▲クグシクへの道(右の森に香炉)        ▲香炉はクグシクに向けて置かれている

2010年11月24日(水)

 午後から天底の老人会(ゆいマールの会?)の案内。伊豆味から天底を通り運天まで。天底の字誌をやっているようなもの。30名の参加者で天底と伊豆味との関係(天底ノロの管轄村は天底、伊豆味、嘉津宇)。そして天底の地名は、伊豆味の場所(故地)で名付けられた地名なり。1719年に伊豆味地内から現在地に移動。そろそろ村移転300年記念も考えないといけませんね(そんな話が出ているようだ)。故地で名付けれた地名に納得。

 久米島での報告のデジュメの印刷完了。さて、これから頭の整理をしながら久米島へ。機内でレジュメに目を通すことになりそう。




   
(以下略)

2010年11月23日(火)

 24日(水)今帰仁村天底の老人会のメンバーが天底の故地(本部町伊豆味)と運天港まで行きたいとの依頼。バスを利用しての移動、そして高齢の方々が多いので、どうしても下見が必要。そのことがあって本部町伊豆味のウタキ・神社・神アサギ、ジングスク、通り道シイナグスク跡、そこから運天港に向う。テラガマ(運天のウタキ)の入口に円形の石囲い(約40cm×330cm)あり。印部土手か?(土手かどうかの確認必要、印部石は確認できず)

    ▲伊豆味のアサギ庭にある拝所         ▲ウタキのイビへの道       ▲ウタキのイベ


    ▲伊豆味のジングスクの墓      ▲運天のウタキ(テラガマ)         ▲為朝上陸之趾碑


   ▲運天のテラ原にある土手(印部土手?)          ▲環状に廻らされた石積み


2010年11月20日(土)

 「久米島のムラ・シマとグスク」をテーマにまとめている。ここでは①伊敷索城と嘉手刈村と儀間村 ②具志川城と具志川村と仲村渠村 ③宇江城城と中城村と堂村と比屋定村 ④登那覇城と上宇根・宮平・平良など。それとグスクに住む按司達とムラ・シマの祭祀との関わりで見て行く。どんな姿が見えてくるのか。これから整理してみることに。

 
 
   ▲久米島具志川城跡(平成22.3)                 ▲具志川城跡の様子(海岸から)

2010年11月20日(金)

 今日は今帰仁小4年2組の授業。31名の一人ひとりが道具と向き合ってスケッチをし、そこからみんなに報告する文章を書き記す。後半に一人ひとりがみんなに向って道具の絵を見せ、そして報告。最後に一言発見や感想を述べる。

 前に校区の5つのムラ・シマ(字:アザ)の調査をしました。それとつないで、そこに住んでいた人達の生活を道具を通して復元してみる。稲作、畑作と関わる道具、台所、蓄える物、加工する、運ぶ道具などなど・・・。

 
  ▲稲作と関わる道具         ▲台所の中の道具

 
    ▲さて、31名の報告のはじまり・・・      ▲まとめは学校でもやるのだ!

2010年11月18日(木)

 久しぶりに「北山(山原)の歴史」をテーマにした大学での講義。北山の滅亡、そして監守(今帰仁按司)の派遣、そしてその一族の墓(大北墓)まで。歴史嫌いだったり、歴史が難しいと思っていた学生達が歴史の面白さに気づいています。いいことなり。毎回、提出してもらっているレポート(100名余)がいい。歴史の限らず他の分野の質問も数多くあり、講義と関わるものに関してはできるだけ応えています。まだ「グスク」って何ですか?「間切」って何ですか?の質問あり。(毎時間、話しているのですが・・・。ハハハ)

 午後から今帰仁小4年生(1組)の授業。道具を使って、いろんな知恵を学ぶ授業である。それとその時代の人々の暮らしから心を読み取るものである。失われつつあるもの、消えかかったものに気づかせる内容である。32名全員が32の道具について、スケッチをしそして報告する文章を書き、スケッチしながら何に使うのか、何でできているのか、何故その道具があるのか・・・・。クラス全員が、スケッチやいい報告をしてくれました(ご苦労さんでした)。明日は2組かな?


 ▲さて、クジであたった道具を調べるか!       ▲いよいよ出番がやってきます。緊張するな!


    ▲ぼくが調べた道具は・・・といいます。            ▲わたしは「・・・を調べました」

大学の講義のレジュメなり。30場面を準備したが、半分まで・・・
    





2010年11月16日(火)

 
沖縄の馬や競馬や馬場の件、おきなわ県民カレッジの講師の件、沖縄県地域史の研修会(久米島)、そして「地域文化―恩納村のムラ・シマ―」での大学の講義。頭はフル回転。頭を休めるために、まずは久米島の地図でムラ・シマの位置の確認。それが頭にないと、なかなか語れない!

  【旧仲里村】
    ①島尻 ②銭田 ③真我利 ④比嘉 ⑤謝名堂 ⑥泊 ⑦真泊 ⑧宇根 ⑨真謝 ⑩奥武
    ⑪阿嘉 ⑫比屋定 ⑬宇江城 ⑭山城 ⑮儀間

  【旧具志川村】
    ①嘉手刈 ②兼城 ③大田 ④仲泊 ⑤久真地 ⑤西銘 ⑥上江洲 ⑦山里 ⑧仲地
    ⑨具志川 ⑩仲村渠 (北原・大原・鳥島) 


             ▲『仲里村誌』所収図のから

2010年11月13日(土)

 「山原のムラ・シマ講座」(5回目)は恩納村山田でした。雨の中の踏査お疲れさんでした。最後は恩納村博物館の研修室でぬくぬくと「まとめ」。その後は、隣接する「恩納村の道の駅」で、各自好きなものを食べました。メンバーの多くがイカの墨汁でした。墨を唇につけたままの人もいました。いい講座でした。恩納村の博物館や村史のみなさん、山田の比嘉さん説明までいただきありがとうございました。感謝


     ▲雨の中、比嘉さんの説明を聞く        ▲恩納村博物館の研修室で「まとめ」でした!


2010年11月12日(金)

 明日の一般向けの「ムラ・シマ講座」のレジュメを作成。書き込みする時間がないので、レジュメを入れておきます。手抜き作業です。来週の大学の講座で使えば一石二鳥です(きっと使うでしょう。ハハハ)。レジュメの文字はつぶれて読めませんので、雰囲気だけでも味わっていただければ幸いです。現場は蚊が右往左往していますので、それどころではありませんが・・・。

 

 
     (以下略)

2010年11月11日(木)

 明治43年の「久米島事情」に目を通している。24項目について調査事項があり、報告されている。その中からいくつか紹介。久米島を見て行く上で、土地制度を念頭に入れておく必要あり。沖縄本島の地割と異なり「人頭税」である。地割制度のもとでは村内での婚姻が多いが、人頭税のもとではどうだろうか。それと、村としての神行事が主か、それとも一門としての祭祀が主か? 家族に死者があったときの儀式の習慣は? 久米島は沖縄本島北部とは、別のものさしで見る必要がありそう。果たして?
 
1.久米島 戸数1973、人口10284 内男5260人、女5024人、外国出稼ハワイ男一、女ナシ 
  ブラジオ男四、女一、ペリユウ男七、女ナシ

2.久米島於ける旧藩時代より現今に至る統治に関する略沿革。
 一、各村の村屋には、掟・目差・文子・耕作当・水路当の六人勤務し、地頭代の指揮命令
    受く。
 一、久米島人民(士族ナシ奉公人あり平民即ち農民あり)役人の外男女共十五才以上六十六
   才まで人頭税を賦課せられ(不具者は無税)、一人に付毎年春期は真綿二十五匁、秋期
   は十二匁半を納めたり。
     ・人頭税は上人、中人、下人の区別なく平均一人に付きての規定なりしや。


4.久米島に於ける年中行事の略述
 一、旧四月、日一定せず。ムランタガイという祭日ありて、稲の害虫を全滅するを祈願せり
    (男女共二日間休業す。男子は酒の肴携帯。原野に集合、飲酒sるの習慣あり。アブ
    シ払いなり)
 一、旧五月に「稲穂祭り」ありて二日間は家中に於いて男女共家業を休み、家外に於いて
   仕事を為すは差し支えなしという。
 一、旧六月「稲穂祭り」仝様なる五穀の神に豊作を祈願するを為す。
 一、旧六月ヲユミ、即ち節句なり。同月廿五日赤飯を仏前に供え、后家族一同之を食用す
   るという。
 一、旧八月十日、十五日の二回ヲユミ前項仝様節句祭りを為す。
    右祭日は善日を撰ミ村役場より各字へ通知する習慣あり。
 一、稲穂祭りのときは神人と称する神職の如き婦人が(ノロコモヒ)、各城並に各山嶽へ到り
    大口部神火の神五穀の神拝みし、豊作を祈願するの習慣なり。
    但し城跡及び山嶽は神のまします所なりと言うも、家屋神体等なし。只香炉一、二個
    置きあるのみなり。
 一、畦払は「虫払い」と称し、甘藷及び稲の害虫を除去するの目的なり。その時甘藷虫稲の
   虫鼠の各一匹づつを捕獲して之を海中に流し、男女共海浜に於いて休業、遊びを為すの
    習慣なり。其の当日屋内に於いて家業に従事するときは飯匙蛇(ハブ)が家屋内に入り
    来り、害を為すとの迷信あるにより海浜に於いて遊びを為すものの如し。

     (工事中)

 


2010年11月10日(水)

 山口県萩市、読谷村大木からの来客。頭を切り替えて、「道から見た山原の歴史」を講義のテーマとすることに。今回はほとんど借り物の資料である(ボツボツネタ切れか)。もちろん、『なきじん研究』3号、9号、14号などでまとめた内容ではある。以下の項目でのレジュメ(講義内容)。さて、どうなることやら。
   はじめに
   1.現在の道路線図  
   2.王府時代の道(15世紀~明治12年)
   3.宿次の道筋(ルート)
   4.王府時代の間切と行政
   5.18世紀初頭の山原の宿道と一里塚
   6.国頭方西海道の道
   7.国頭方東海道の道
   8.ペリー一行が辿った道(1853年)
   9.上杉県令が視察した道筋(明治14年)
   10.笹森儀助が視察した山原(明治26年)
   11.物資の輸送は主に海上交通
   12.近代沖縄の道に関わる出来事
   おわりに





     (以下省略)

2010年11月9日(火)

 奄美大島の報告をしなければならないが、その前にいろいろあり。目の前のことから。
 午前中、今小4年(53名)の授業。今帰仁村仲宗根がテーマ。報告者は14名。仲宗根の15のテーマを選び出し、画像や図で説明し、それから聞いた事を十五名が一人ひとり報告。一人数行の報告ですが、15名が報告してくれると仲宗根の歴史やそこにあるものがいかに大事かに気づいてくれる。いいムラ・シマにできるかは、一人ひとりの発する言葉と優しさにかかっている。お見事!

    ①仲宗根の公民館 ②仲宗根のマチの発達 ③仲宗根のマチ ④神アサギ 
    ⑤仲宗根を謡ったウタ ⑥大井川 ⑦大井川に架かる橋 ⑧お宮(ウタキ)
    ⑨獅子小屋 ⑩北部製糖工場 ⑪集団登校と旧市場付近 ⑫今帰仁村役場
    ⑬ムラヤー(公民館)の移り変わり ⑭道ジュネーと豊年祭 ⑮豊年祭


      ①仲宗根の公民館の報告                ⑤仲宗根を謡ったウタの報告


         ⑧お宮(ウタキ)の報告                ⑩北部製糖工場の報告

【地域文化―旧久志間切のムラ・シマ―

 沖縄本島北部の東海岸のムラ・シマは、西海岸のムラ・シマとは異なったイメージを持っている。それはどういうことなのか。まだ、具体的にどういう文化とまで言えているわけではない。久志と辺野古は1673年に金武間切から久志間切に組み込まれたムラであった。これまで金武間切金武村にあった番所に向いていた視線が、同村の久志、後に瀬嵩村に向いていく。それだけではなく東海岸を往来する山は船。それらの動きと東海岸のムラ・シマの文化の独自性は切り離せないのではないか。そんなことを念頭に入れながらの講義である。





2010年11月4日(木)

 明日から奄美大島(5日~8日)へ。大雨での被災地での研修会。奄美大島に歴史に刻まれる大きな災害である。目にしておきたい。

 午前中、「運天の歴史―運天港が果たした歴史的は役割」がテーマ。先週台風の接近で休講でしたので今週に行う。「運天の歴史」は若い頃(20数年前)にまとめた論文の一つである。以下のことを紹介しながら、運天(港)が果たした役割について考える。
  ・運天の位置
  ・古琉球の運天(源為朝公の伝承・海東諸国紀・百按司墓、薩摩軍の運天港の碇泊など)
  ・近世の運天(番所・地方役人・大北墓の移転・大和人の墓・唐人の収容など)
  ・近世末の運天(バジル・ホール・フランス艦船の来航・ペリー一行・伊是名島へ航路など)
  ・明治の運天(上杉県令・笹森儀助・菊池幽芳・番所・役場・明治の間切役人など)
  ・大正・昭和の運天(源為朝公の碑の建立・トンネルの開通・役場の移転など)
  まとめ―運天港が果たした歴史的な役割



 史料や場所を画像で示しながらの説明である。毎回学生達から戻ってくるレポートが面白い。感動させられる場面が多々ある。100名余のレポートは一気に目を通してしまう。結構、質問があるので次の時間に説明する。今回、ペリーやバジル・ホール・オランダ墓など、日本史で目にした出来ごとが運天港でも登場することもあって歴史の面白さにひかれていくようだ。学生からの注文も多いが、沖縄の歴史書は数多くでているので目を通してもらいたい。


2010年11月2日(火)

 旧久志間切のムラ・シマを踏査する。「企画展 山原のムラ・シマ」の一部である。先ずは①久志 ②辺野古 ③大浦 ④瀬嵩 ⑤汀間 ⑥安部 ⑦嘉陽 ⑧底仁屋 ⑨天仁屋まで。豊原、二見、大川、三原は改めて。東村の有銘、平良、川田、宮城も久志間切の内の村であった。但し、川田と平良は一時期(『琉球国由来記』(1713年)の頃、大宜味間切の内であった。久志間切が創設(1673年)される以前は、久志と辺野古は金武間切の内。残りの村は名護間切の内である。つまり、名護間切は1673年以前は名護湾沿いから東海岸の平良、川田あたりまで名護間切の領域であった。

【旧久志間切の村々】(東海岸のムラ)


①久志間切久志村
 久志の集落の後方から下の川(ヒチャヌカー)が緩やかなL字型に流れている。集落の中央部に体育館や公民館、そして図書館などの施設がある。集落の東側に拝所が集中してある。ノロドゥンチ・部落の創設と関わるという三神の祠、久志若按司の祠などがある。久志の故地と見られるアタイバルにウガミや観音堂がある。観音堂の石像は久志間切創設(1673年)と関わる惣地頭である尚径(豊見城王子朝良)と顧思敬(久志親方助豊)が康煕27年(1688)に招いたものである。番所はまだ久志村にあった頃である。『琉球国由来記』(1713年)に毎月朔日、十五日、十八日、二十三日に村中に人々が崇敬するとある。


 間切創設当初久志村に番所を置いたようである。そのことから久志間切としたと見られる。康煕58年(1719)に番所は久志村から瀬嵩村に移される。久志ノロは久志村と辺野古村の祭祀を掌り、惣地頭は久志村の神アシアゲでの祭の時、五水(御酒)を提供している。

 久志集落の東側にウィーザトゥ・メダムイ・ヌルガー・ウガミ・(観音堂)・トゥマイヤマ・クガニムイなどのウタキや拝所や葬地などあり、久志村の形態の一端が伺える。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の久志村の神拝所は四ヶ所である。また、久志村のノロクモイ員数は計七人である。
   ・神アシアゲ 一ヶ所  ・大城嶽一ヶ所  ・ノロ殿内火神一ヶ所
   ・根神火ノ神所一ヶ所  ・観音堂一ヶ所 
   ①ノロクモイ一人 ②ウチワ神二人 ③根保(ニーブ)神一人 ④根神一人 
   ⑤アタリ神一人  ⑥シト神一人


 ▲久志集落後方の下の川(ヒチャヌカー)   ▲現在の体育舘の前の広場


       ▲ウガミの遠景                ▲ウガミの中にある祠


 ▲三神と久志若按司の祠       ▲久志ノロドゥンチ      ▲久志の神アサギ


  ▲参拝者の姿のある久志観音堂 ▲ヌルガー(後方に香炉)    ▲前田森の中の墓?

【主な参考文献】
 ・『角川日本地名辞典:沖縄県』
 ・『沖縄県の地名』平凡社
 ・『名護市史:わがまち・わがむら』
 ・『名護市史:民俗Ⅲ 民俗地図』