2008年3月の記録

                                            もくじ(地域研究)へ



2008331日(月)

 土は旧羽地村・大宜味村・国頭村と動いてみた。大宜味村でシンポがあったので参加。山原各地の動きをしるために。その後、大宜味村の喜如嘉、国頭村の辺土名まで。国頭村辺土名の「世神之宮」の祠にある四基の石香炉が気になってである。以前にも紹介したような記憶があるが、その時は石灯籠や銘のある香炉と按司や王子、あるいは親方や脇地頭、奉公人などの薩州や江戸登りと結びつけるまでには行かなかった。宮城栄昌氏が遭難や漂着船と結びつけようとされていたため、それにつられて見てきたため結論を見い出すに至っていなかった。

 王子や親方や按司、脇地頭などの薩州行きとの関係でみると、「世神之宮」の石香炉の三基は『中山世譜』(附巻)の薩州行きの記事と三基()とも一致する。仁屋クラスのメンバーは殿内や御殿に奉公していた各村の人物とみている。それは他の資料で紹介する予定。(以下の記事の左側は石香炉、右側は『中山世譜』(附巻)の記事)

 道光二十二年寅年 宮里仁屋(1842年)国頭王子正秀が薩州に赴いている。
 咸豊九己未 金城仁屋 仲間仁屋馬氏国頭王子正秀が薩州に派遣されている。
 咸豊十年九月?宮城仁屋(1860年)辺土名親雲上正蕃が薩州に派遣される。
 光緒十一乙酉 新門謝敷仁屋(1885:明治18年) 


 
       国頭村辺土名の「世神之宮」      ▲①②宜野湾王


2008328日(金)

 『金石文歴史資料調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書第69集)(昭和60年)に三基の石灯籠の拓本が掲載されている。「宜野湾王子朝祥寄進灯籠銘」(二基)と「普天間宮寄進灯籠銘」と「御船松保丸」の四基である。近々に現物を拝見に。

 宜野湾王子朝祥についての記事は、まだ拾うことができていないが、宜野湾王子朝陽は乾隆56年(1791)に年頭慶賀使として江戸や薩州に赴いている(『中山世譜』附巻四)。尚王の摂政として務めた人物である。山川や鹿児島の船持ち達が普天間宮に寄進しているのは珍しい。石灯籠は薩州や江戸への使者として赴き、帰国後の寄進である。航海安全(海上安全)を主目的としたものであることがわかる。

宜野湾王子朝祥寄進灯籠銘(1793年?)
    □□八年癸九月穀旦
        宜野湾王子朝祥

宜野湾王子朝陽寄進灯籠(1791年) 
    乾隆五十六年辛亥十二月穀旦
       宜野湾王子朝陽

普天間宮寄進灯籠銘(1804年)
    文化元申子年十二月吉日
   奉寄進 亀喜丸 海上安全
    山川之
     肥後平助
    鹿児島之
     岸尾吉左衛門
 
御船松保丸(年号不明)沈没?
    船頭
   奉寄進 濱崎弥七
   御船松保丸


  
 ①②宜野湾王子寄進の石灯籠    ▲③④普天間宮へ大和船から寄進された石灯籠

 


2008327日(木)

 これまで「山原のムラ・シマ」をテーマに調査をまとめてきた。切り口としてムラ・シマの歴史、神アサギ、集落を区分する呼称、あるいは御嶽やカー(湧泉)などである。山原のムラ・シマを見てきた視点で島尻のムラ・シマを見たらどうだろうか。多くの研究があるが、まずは自分の足で確かめてみたいと考えている。まだ、スタートしたばかりなので「山原のムラ・シマ」とどう異なるのか、どこが共通するのかはまだ見えていない。山原のムラ・シマの場合は、神アサギと御嶽と集落との関係を見きわめていくことからスタートするが、島尻のムラ・シマは果たしてどうだろうか。どれだけ続けられるが体力との勝負である(三日坊主かも)。

 ここ最近、島尻の旧玉城村と旧知念村のムラ・シマを訪れてみた。ここでいうムラ・シマは字(アザ)のことで、集落は字の家々がある地域を指している使うことにする。詳細については別でまとめるので、ここでは訪れた島尻のムラ・シマの概略と画像にとどめることにする。島尻でもムラ・シマの成立ちは御嶽やカーや殿などがキーワードになりそうである。

 中頭と島尻にみられる殿(トゥン)は山原と周辺離島にある神アサギとは性格を異にするのではないか。もちろん、祭祀空間としての機能は同じであるが。山原の神アサギはムラ共有の祭祀空間、中南部の殿はムラにおける集団(一族:一門)の祭祀空間としての機能をもっているのではないか。


【旧玉城村】(南城市)

船 越

 「船越」は『琉球国由来記』(1713年)で「富名腰村」と記される。富名腰村に中森嶽があり、またコバウノ嶽御イベ・友利門之嶽御イベ・神ノハタノ嶽イベ・フデラノ嶽御イベ・大嶽之御イベ・小嶽之御イベが記されている。また、富名腰巫火神の外に、内間之殿 富名腰里主所火神 山川之殿 与那原之殿 上間之殿 奥間之殿など六つの殿(トゥン)がある。

 富名腰巫の唄に、「内間クダ」「内間マキヨウ」「フナコシヲヒヤ」「山川ノヲヒヤ」「与那城ヲヒヤ」上間ノヲヒヤ」「奥間ノクダ」などと唄われていて、「殿」(トゥン)が何かを言い表しているのではないか。つまり、行政村(ムラ)が成立する以前のマクやマキヨなどの小規模集団、そして一団、一族集団を統括したヲヒヤの存在。それらの一団が行う祭祀場が殿ではないか。前にも触れたことがあるが、山原の神アサギはムラの祭祀空間、殿はムラの中の各集団の祭祀場であると。

 このような視点でとらえると富名腰村には少なく六つの集団があり、それぞれの殿で祭祀を行ってきたと言えそうである。殿が旧家の屋敷に置かれるのは納得がいく。オヒヤの存在は与論島のサークラ集団が思い出される。古琉球の時代、行政村が成立する以前の形態の名残りを示しているのではないか。

 
  旧玉城村船越樋泉(フナクシウッカー)          見事な石積みの屋敷囲い

 
     石積みの屋敷の正門                公民館の側にある火神の祠


【旧知念村】(南城市)

志喜屋

 『琉球国由来記』(1713年)をみると志喜屋村と下敷屋村が出てくる。志喜屋巫(ノロ)の管轄である。『琉球国由来記』に両村に殿(トゥン)が一軒も登場しないが、今でもトゥンチ山や古間殿、公民館前に殿がある。現在古間殿があるが、『琉球国由来記』の「フルマ根所」(志喜屋村)と想定されている。また同書の「根所火神」(下敷屋村)は公民館前の殿に想定されている。

 
          志喜屋の志喜屋グスクの墓(アジシー墓)や石積み

 
        志喜屋の集落                    鉄匠始祖兎之大親の碑


    旧知念村志喜屋(「ふるさと紀行」琉球新報より)


山 里

 現在の山里はいくつかの村が統合されたようである。『琉球国由来記』(1713年)に山口村、中里村、鉢嶺村があり、三つの村が統合したとみられる。村の名称は山口の山と仲里中里の里で山里としたようである。そこでも殿は登場しないが、『琉球国由来記』の山口巫火神は山口組の殿、根所火神(中里村)はナカント組の殿、根所火神(鉢嶺村)は鉢嶺組の殿に想定される。根所や火神をまつる旧家に殿が置かれたと見られる例である。

 
    傾斜地に発達した山里の集落               山里集落の様子

 
     集落の中腹あたりにあるナカントガー         山口の殿(トゥン)


    旧知念村山里から具志堅にかけて(「ふるさと紀行」琉球新報より)


具志堅

 具志堅は昭和22年に知念から分割した字である。祭祀は知念巫の管轄である。知念のところで書き記したが、知念村の集落の中心部は祭祀空間から見ると具志堅部分にあったことがわかる。特に知念間切の同村にあった番所のあった場所が具志堅の平等原之殿が番所跡の可能性がある。知念間切番所が知念グスク内に移ったのは1761年である。同村から同村にある知念グスクに移動したことになる。

 
     旧知念村具志堅の樋泉                  具志堅の集落の様子

 
                 平等原の殿(知念間切番所跡地?そこは知念村の内)


知 念

 知念グスクを持つ字である。『琉球国由来記』(1713年)の知念村に以下の8つの殿が出てくる。
 
  知念城御殿 知念城内之殿 長堂之殿 越地之殿 平等原之殿 
   具志堅之殿 コカルケンノ殿 波田真殿

 は知念グスク内の殿とみられるが、波田真殿と波田真巫火神があり、1713年段階には波田真村が知念村に統合されているが、祭祀はそれ以前の姿を継承している。

 隣接する現在の具志堅は昭和22年に知念から分かれて戦後の字である。『琉球国由来記』に出てくる長堂之殿 越地之殿 平等原之殿 具志堅之殿 コカルケンノ殿は、現在の具志堅地内にあり、具志堅は知念村の内だったことがわかる。

 波田真殿は波田真巫の管轄で、1649年の『絵図郷村帳』に知念村とはたま村が登場するので、1713年には「はたま村」は知念村に統合しているが祭祀はそのまま継承されている。

 知念に「はたま村」が1713年以前に統合し、戦後地念から具志堅が分割しているが、祭祀空間のある場所や二人のノロの管轄などに村の統合や分離などの痕跡があり、反映している。それらの祭祀空間から見ると具志堅部分が知念村(ムラ)の中心部だったとみられる。

 明治43年の「諸録処分による社禄調表」を見ると、字知念に知念ノロクモイと波田真ノロクモイの二人のノロがまだいたことがわかる。知念ノロ殿内はグスクの近くにある。知念村と波田真村の統合は1713年以前である。

 
    知念の新屋の側にあるウブガー                新屋の石積み   

 
         ウフミチガー                神山之嶽と殿跡(波玉之巫) 

 
    知念グスク近くにあるノロ殿内跡           ノロ殿内の入口の石積み


2008325日(火)
 
【奥武島の権現堂の石灯籠】

 旧玉城村(現南城市)奥武島の観音堂の境内にある石灯籠を訪れてみた。境内に9基の石灯籠が確認できる。その内4基は摩耗し全く文字が確認できない。他の5基についてはいくらか文字が確認できた。同じ年号の石灯籠があり、対で建立されたようである。玉城按司と玉城親方の上薩との関わりの石灯籠とみることができる。『中山世譜』(附巻五)に嘉慶1669日に翁氏玉城親方盛林が薩州に到着し、翌1018日に帰国、また、嘉慶25年に向氏玉城按司朝昆が6月11日に薩州に赴き、1122日に帰国しており、二基の石灯籠と合致している。

 このように、グスクや拝所にある石灯籠や銘のある石香炉は、その間切と関わる按司や親方が薩州への旅からのお土産であり、無事帰国の報告でもある。按司や親方とは別に仁屋クラスの人たちが出てくる。それは按司家や親方家への、その村出身の奉公人だと思われる。中には薩州まで随行していた人物もいたと思われる。他の資料では、随行していった人物を確認することができる。石灯籠や銘のある石香炉の寄進は、村の祭祀とは別のものである。

 薩州への目的は年頭の慶賀使、謝恩使、太守(藩守)様の継承、王の即位などである。

 ①②③④は文字が摩耗しいて判読できず。

「嘉慶二十五年 奉寄進 玉城按司」
「奉寄進 嘉慶十七年 秋分吉日 比嘉仁屋 當山仁屋 城間仁屋」
「嘉慶二十五年庚辰 奉寄進 玉城按司」
「嘉慶□□□(十七年か) 玉城親方盛林」
「奉寄進 嘉慶十七年秋分吉元旦 嶺井親雲上 與那嶺筑登之上 比嘉筑登之
         大城仁屋 山川仁屋 知念仁屋

 
 殿の入口の石灯籠(①②文字摩耗)        ▲④⑤の石灯籠(文字摩耗) 

 
      ▲⑥⑦⑧の石灯籠                の石灯籠          の石灯籠

 
      の石灯籠                 の石灯籠 


2008322日(土)    

 『鎌倉芳太郎資料集』(ノート編)(沖縄県立芸術大学附属図書館・芸術資料館所蔵)が送られてきた。本編は四編の一冊のようである。グラビアの開かれたノートの文字を拡大鏡で見いってしまう、引き込まれていくほどのノートである。開いていくと、どんどんと付箋紙を挟んでいく。それどほど、興味深い多岐にわたる内容の記録である。その中から、二例をあげることにする。

 海神祭について、今帰仁村グスクでの例が、以下のように記してある(同書596頁)。昭和初期のその記録と『琉球国由来記』(1713年)の海神祭(大折目)、昭和30年代、そして近年の今帰仁グスクでの海神祭と比較できる記録である。

   神職行列の順序はサキモリ(先守)、ノロ、供ノカネイノロ、クロモリ、ヨリモリの五人相続き其後に神女
    数人を従へ(其の中に志慶真乙樽及花の真牛の身代りあり)白衣の装束に白八巻をしめ大弓を持ち馬
    に乗りて(今は馬を牽くのみ今帰仁城内に登り本丸の祭場に於て唐船の模型を擁し七廻りりしたる後天
    神地祗を祀る。而して城の西方海神道ち称ふる間道より一同海岸に下り海水にて口を嗽、海神を拝し、
    更に神アシアゲに至り漁りの真似をなす。此の祭りには男及び懐妊者を伴ふべからずといふ。


 もう一点あげると、「琉球人口調査」(783頁)である。蔡温が当時の琉球の人口を20万人としているのはこの資料の数字ではないか。「雍正七年己酉札御改表」(1729年)とある。どの数字を合計すればいいのか、まだ確認していないが、

   士族男/士族女/百姓男/百姓女/諸間切男/諸間切女/首里三平等/泊村/久米村/那覇四町/
   寺院方/禅家方/御蔵女性衆/諸御免夫/配流人/流罪人/欠落人


などである。そこに年齢が記されていない。つまり、それに子供の人口が含まれた数字なのかどうかである。雍正七年(1729年)の20万人をベースに子供の数をいれて、当時30万人程度の人口と見ているのは、そのためである。「鎌倉ノート」には、これまで疑問としていたことを解く手掛かりとなる資料が含まれている。このような資料が活用できることに感謝である。


2008321日(金)

【玉城グスクの石灯籠】

 「玉城城跡整備実施計画書」(沖縄県玉城村教育委員会)(南城市)に玉城城跡内の石灯籠について、
   「石灯籠は鹿児島県産の山川石で造られている。鹿児島へ米を運んだ船は、沖縄へ帰る時に空船と
    なるため、この石を積んだらしい。山川石を利用した灯籠の作成年代は一時期(嘉慶25年:1820)に
    集中しており、唐渡りのお礼として寄進したか、させられたのであろう。灯籠に「盛林」という名前が彫
    られているが、玉城按司の名前に「朝」とつく家系の次には「盛」の家系が親方についたのでその関係
    者だろう」(湧上元雄氏談)
とある。玉城グスク内に「嘉慶二十五 庚辰 奉寄進 玉城按司」(1820年)と彫られた石灯籠がある。『中山世譜』(附巻五)をみると、その年大守(藩守)様の慶賀で向氏玉城按司朝昆が611日に薩州(薩摩)に到着し、1122日に帰国している。この石灯籠は玉城按司朝昆と関わるものとみられる。

 上の湧上氏の談に「森林」の名が彫られているとあり、『中山世譜』(附巻五)に嘉慶二十三年戊寅(1818)に翁氏玉城盛林が519日に薩州に到着し1029日に帰国している。石灯籠は六基あったようなのでその一基が盛林と関係するものとみられる。年号が彫られた寄進の石灯籠や石香炉は、唐旅というより薩州(薩摩)や江戸上りのお土産品の一つとみた方がよさそうである。何故、山川の石かとなれば、琉球への船出港が山川港であり、空船のバラストとして使った石を石灯籠や石香炉に仕立てて間切のグスク(ここでは玉城グスク)に寄進したみることができそうである。

 玉城グスク内の「中之城ノ殿」は『琉球国由来記』(1713年)によると、玉城按司と惣地頭が関わる祭祀場である。石灯籠の側がその殿跡とみられる。

 
「嘉慶二十五庚辰 奉寄進 玉城按司」の石灯籠と、香炉の付近が「中之城ノ殿」の跡か


    グスク内の「天粒天次」の拝所?

・康煕51年(1712) 向氏玉城親雲上朝薫 薩州へ(尚益王薨)。
・康煕51年(1712) 向氏玉城按司朝孟 薩州へ(尚敬即位)。
・雍正元年(1723) 向氏玉城親雲上朝薫 薩州へ(慶賀使)。
・雍正7年(1729) 向氏玉城朝薫 薩州へ(年頭使)。
・乾隆59年(1794) 翁氏玉城親雲上盛林 薩州へ(尚穆王薨)。
・嘉慶23年(1818) 翁氏玉城親方盛林 薩州へ)。
・嘉慶15年(1820) 向氏玉城按司朝昆 薩州へ(慶賀など)


2008319日(水)

 今帰仁村諸志の植物群落の説明文を書くためウタキ内の様子を確認する。諸志は明治36年に諸喜田村と志慶真村が統合し、諸志の村名(後に字名)となる。諸志のウタキは歴史的にみると諸喜田村のウタキということになる。ウタキの東側に祭祀のときに神人が祈願するイベがある(小さな香炉)が置かれている。集落に近い部分にウプガーと呼ばれるムラの人々が使っていた湧泉(カー)がある。

 ウタキの内部を、かつてのスクミチ(宿道)が通りウプガーの側を通り集落へとつながる。ウプガーの反対側の森に数ヶ所の墓地がある。石灰岩のバレーボール位の自然石で墓の口を閉じている。奥の方に河石を運び人工的な積み石が見られる。これらの墓は必ずしも諸喜田村の一門だけでなく、他字の一門の方々も拝む。近くの仲尾次の寄留士族の一族も拝んでいる。以前から、「何故だろうか」と聞かれているがよくわからない。墓を開ける機会を待つしかない。

 諸志のウタキは本来諸喜田村の発祥と密接に結びついているであろう。しかし、諸喜田集落の南側に近世末に志慶真村が移動してきて、集落景観は一つとなってしまい、明治36年には二つの村が統合したことで祭祀の多くが一つになってしまう。神ハサギの統合もあったが、再び二つの神ハサギに戻している。

 

 

 


2008318日(火)

 15日から奄美大島と加計呂麻島を踏査する。昨年の12月、今年の1月、2月、そして今回。奄美大島に引かれている。三回連続して加計呂麻島に渡る。加計呂麻島の30近い集落のほとんどに足をついたことになる。「加計呂麻島(東方・西方)」については、記憶あるうちに画像の整理はしてみた。加計呂麻島について、踏み込んで考えるところまで、やっとたどり着いたということか。量が多いので東方と西方に分けることに(まだ、作業中)。

 奄美大島はどうも失態を演じてしまう島のようである。毎回なにか、失敗を演じているようである。前回は、奄美空港で飛行機の出発時間を遅らせそうになるし、その前はデジカメのカードのほとんどを宿に忘れ途中で気づき戻ったり。今回は加計呂麻島のフェリーに乗り遅れ、海上?タクシーの世話になったりである。毎回、どうにかなっている。忘れたことを覚えているので、まだ救われている。そんな失敗を綴ってくれと外野席から。

 もう一つの目的は、古琉球の首里王府発給の奄美大島の辞令書から、昇給していく過程でどのような人事異動(配置:叙任辞令)?がなされているのか。古琉球では間切を超えた広範囲の人事異動がなされている。古琉球における今帰仁間切の叙任辞令書が10点(ノロ叙任含)あるが、今帰仁間切内(本部含む時代)での叙任辞令である。他の地域についてみていないがどうだろうか。まだ、丁寧な作業はしていないが、奄美大島とは事情がことなるのか。奄美諸島や沖縄本島、そして先島の首里王府の叙任(補任)の方針、あるいは理念を読み取ることができるのではないか。まだ、大雑把で詳細な検討はしていないので・・・・(すでに、そのテーマで研究がなされているかもしれません)

 そのようなことが念頭にあり、奄美大島の名音、阿木名、名柄、崎原(焼内間切)、笠利、宇宿、喜瀬、大和浜、朝戸などを訪ねてみた。もちろん、必ずしも当時の村(集落)ではないだろうが。

・瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年:1548
   西の大屋子東の首里大屋子
・屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556
   
屋喜内間切名柄( 間切)名音
・瀬戸内間切の安木名目差職補任辞令書(隆慶5年:1571
   東間切
阿木名目差屋喜内間切名柄
・屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572
   屋喜内間切
崎原目差瀬戸内間切東間切阿木名目差
・瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖)
   
瀬戸内東間切の首里大屋子笠利のせと
・笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568
   笠利間切
笠利の首里大屋子笠利間切喜瀬の大屋子
・瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568
   
瀬戸内東間切の首里大屋子喜瀬大屋子
・屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書
   ・屋喜内間切の
屋喜内の大屋子大和浜目差
・名瀬間切の
朝戸掟職補任辞令書(万暦35年:1607

 
       瀬戸内町阿木名                     大和村の名音漁港 
 
 
    大和村の大和にある役場                大和川沿いにある群倉

 
    旧名瀬市朝戸集落                       旧笠利町喜瀬  
 
    旧笠利町喜瀬の喜瀬海岸                  旧笠利町笠利

・名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(万暦35年:1607
     しよりの御ミ事
      なせまきりの
      あさとおきてハ
      一人しめもいてこくに
      たまわり申候
     しよりよりしめもいてこくの方へまいる
   万暦三十五年閏六月六日

 いしめもいてこく(村名か人名)文子)に朝戸掟を賜る辞令である。朝戸は名瀬市街から朝戸峠を通り島の中央部の盆地状のところに位置している。文子から掟への昇給辞令である。「いしめもいて」の村名が出てこないだろうか。


2008314日(金)

 カナダから島に帰ってきたという方が、館の窓口で何やら、やりとりをしている。「位塀のそばに字の書いた、何かよくわからないのがあるのだが・・・・。布がボロボロになっていて・・・」ときた。すぐ、話を引き取っていくつか訪ねてみた。もしやと思い、「こんな布ですか?」と『那覇市史』の家譜資料のカラーのグラビアを開いて「そのようなものですか?」「そうそう、ボロボロですが・・・。持ってきましょうか?」「是非お願いします」と。「23日にはカナダに帰ります」と。館に持参して下さるとは言われたものの、そのまま帰られると「家譜」かどうか確認ができないことになる。それで、すぐ古宇利島の区長さんにお願いして、家譜かどうか確認してもらう。それと、伊差川さん宅に伺うことを約束していただいた。

 伊差川姓なので、久米系の「紅氏家譜」ではないかと予測していたが、表題はとれているが中に十五番の紙片があった。『氏集』」の「新参大宗長邦忠伊差川筑親雲上治義」(新参長氏伊差川筑親雲上)の家譜である。伊差川さん(奥さん)が「50年余り持っているのですよ。先祖の大事なものだと言われて。昔は木の箱に入れてあったがボロボロになったので、それに入れてあるのですよ。ここに来て六代位かね」と。撮影に時間がかかりそうなので、夕方まで貸出しをお願いしたら、快諾してくださった。館に戻り、即撮影しカラー版をつくり、原本(75丁)にカラー版を添えて、夕方には無事に返却することができた。ありがとうございました(詳細については改めて。私の手にはおえませんので)

 このような資料(原本)との出会いは、これまで何度もあるが、いつも幸いだと思う。それとタイミングである。そのようなタイミングをいくつも逃がしてはいないか。

 
   『家譜』の布表紙           「首里之印」のある世系図部分


2008313日(木)

 これまでグスクやウタキなどにある年号や銘のある石灯籠や石香炉などを調べきた。線香の火や煙にまかれてそのほとんどが判読できないが、興味深い歴史が見えてくる。地域にある年号や銘のある石灯籠や石香炉から、首里に住む王子や按司の動きと首里奉公した地方の奉公人との関係が密接である。それと御嶽などにある銘のある香炉や石灯籠などは江戸や薩摩への旅との関わりでの祈願である。王子や按司の動きというのは、石灯籠や石香炉の年号や按司や王子名と『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ると、その多くが一致する。しかし、煙にまかれて、ほとんどわかりません。

 これまでの例を前提に、摩耗して読み取れなかった今帰仁間切内の四つの香炉の年号と二人の内の一人の今帰仁按司の動きが『中山世譜』(附巻五)の記事を合わせ見ることで判明する。以前以下のような報告してきた(一分訂正)
  
 ・今帰仁勢理客【2004.7.8】
    御嶽の中のイビに二基の香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進
    同治九年午□□ 上間仁屋」がある。もしかしたら、スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである(要
    確認)。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つ
    に航海安全があることがしれる。  

 ・複数村(ムラ)の御嶽スムチナ御嶽【2004.7.8】
   イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風
   化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本に
   や」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣
   されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願し
   て香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また、それとは別
   に雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。


 すると、これまで判読できなかった勢理客の御嶽のイビにある二つの香炉と玉城のスムチナ御嶽にある判読できない部分は以下のように補足できる。それは『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ることでできる。①③の道光二拾年(1840)については、再度石灯籠の年号の確認が必要であるが、同治九年(1840)は今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州(薩摩)に王子として派遣されている。勢理客村の親川仁屋と上間仁屋、それと謝名村とみられる大城にやと松本にやは、今帰仁御殿へ奉公した、あるいは奉公人であろう。

  奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋奉寄進 道光二拾年八月吉日 親川仁屋
  奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋「奉寄進 同治九年庚午十月 上間仁屋
   奉寄進 道光二拾年奉寄進 道光二拾年(八月吉日)
   奉寄進 同治九年十月奉寄進 同治九年(庚午)十月 大城にや 松本にや


 
   スムチナ御嶽のイベ部(頂上部)        イベにある銘のある香炉(今では判読できない)


2008312日(水)

 10日、首里の「弁ガ岳」までいく。2003年4月にも訪れている。今回の「弁ガ岳」行きは、弁ガ岳の石灯籠と石塔と寄進された石香炉(玉川王子朝達)のことである。山原にある石灯籠をいくつか見てきたが、それは薩州(薩摩)や上国してきた土産品、無事帰国してきたことへの寄進ではなかったか。すると、石灯籠や石塔は「大和めき物」。近世において「大和めき物」に対してどう対応したのか。

 種子島の船頭が鳥居を建立したり(1778年)、冊封副使の李鼎元が弁カ嶽に訪れたり(1800年)していることからすると、弁ガ岳の石灯籠や石塔は中国的なものなのか、それとも気にするような程のものではなかったのであろうか。

 「弁が岳」の大嶽の前に石門が作られたのは1519年である。石門の前にある石灯籠や石塔は、その当時のものだろうか。古琉球の時代の建立なので「大和めき物」であっても問題はなかった。しかし島津の琉球侵攻後の石灯籠の設置は問題があったのではないか。しかし、石灯籠に年号のあるので、これまで確認しているので古いのは今帰仁グスク内にある「今帰仁王子」(乾隆14年:1749)である。香炉などにある年号は、嘉慶・道光・咸豊・同治・光緒などである。大和めき物の建立は、1700年代以降になると王子や按司クラスのお土産物としての石灯籠や石塔や石香炉の寄進や設置は緩やかになったのか。あるいは「大和めき物」を隠すのは冊封使がきた期間だけのものだったのか。

〔弁カ嶽〕
 目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。

 眺めからすれば、弁カ嶽や近くの火立毛は遠見台として、もってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしている。「奉寄進 玉川王子朝達」の香炉がある。玉川王子朝達は牧志・恩河事件と関わった人物のようである。『中山世譜』(附巻五)を見ると、道光30年(1850)に正史(尚玉川王子朝達)として江府(江戸)に派遣され、その時王子となっている。謝恩と慶賀を兼ねていたようである。尚氏玉川王子朝達は咸豊5年(1855)にも薩州へ派遣されているので、その時の可能性もある。それとは別に銘が摩耗した香炉がいくつもあるが、その確認は今では不可能である。

 同様な香炉が東風平間切(八重瀬町)の東風平の「神谷の殿」にあるようだ(『東風平村史』)。「寄奉進 義村王子 道光七丁亥 九月吉日」(1827年)がある。『中山世譜附巻五』に「本年(道光七年)に「為稟請帰政事。遣尚氏義村王子朝顕。七月初一日。到薩州。九月十二日。囘国」とあり、「請帰政」がどんな役目かわからないが、尚氏義村王子朝顕を派遣し七月一日に薩州に到着し、九月十二日に国に帰ってきた」とある。薩州へ派遣され帰国しての寄進のようである。尚育王の御同学を努め歌人・琉歌人であったという。

 
   義村王子の銘のはいた香炉(『東風平村史』所収)

 首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられ掌っている(『琉球国由来記』1713年)。

 弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名古宇利島大嶺原(具志堅)伊江島(瀬底島)座喜味弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の近くの森にあるのが火立毛であった。

 ・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
 ・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
         拝殿を創建する(1543年か)。
 ・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
 ・1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
 ・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
 ・1850年(道光30) 玉川王子朝達 謝恩使(尚泰襲封)で江戸上り。
 ・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
 ・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
 ・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
 ・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造り
         の門をつくる。
 ・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
 ・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。そこに「異国」「二艘」などの
  文字が見え、煙で見分ける文面が彫りこまれていたのであろう。

 「火立毛」(『金石文歴史資料調査報告書Ⅴ―』沖縄県教育委員会)の碑を確認する(下の拓本)。

.
    現在の弁カ嶽(後方が大嶽)             火立毛からみた弁ガ岳

.
 「奉寄進 玉川王子朝」銘の香炉.                弁ガ岳の門の前の石塔      


火立毛跡にある石碑(剥離している)     火立毛跡にある石碑(下の文字が見える)

 
 ・・・山□□□□・・・・
  ・・・・艘・・・・・
  一日二艘
  異国  □□□
    一日
    □□親雲上
    安波茶親雲上
    村渠親雲上

 剥離していて、一部の文字が判読できる。採択は阿波根直孝氏。


200838日(土)

 午前中、歴史文化センターの運営協議会、「ムラ・シマ講座」の修了式(報告と様子は来週にアップ)。午後から名護市史セミナーで報告。火曜日は「操り獅子の報告会」埋蔵文化センターで。まだ、あれこれと続く。

 この頁、火曜日まで休息です。


200837日(金)

 8日(土)は第15期ムラ・シマ講座(平成19年度)の修了式(午前中)を開催します。今年度の「ムラ・シマ講座」は「地域活性化事業の援助」があり、一部冊子の印刷費にあてることができました。調査地域(ムラ・シマ)は、クボウヌ御嶽(今泊)、運天、湧川、海洋文化館(本部町)、伊豆味(本部町)、平敷でした。最後にどんな報告が聞けるか楽しみです。


      冊子の表紙(左は裏、右は表)           冊子の中身です(4年生のノート)   

 明日は午後から名護市史の「言語」(本編10)が発刊されました。まったく関わっていませんが外野から一言。これから目を通してコメントします。その準備でもしましょうか。方言、ほとんど方言で話せません。それでもコメントお願いされるのだから、また引き受けるのだから。大分おかしい。


200836日(木)

 午前中国頭村楚洲での講演がすむと、奥と辺戸に立ち寄る。両字に大きな石灯籠がある。風化し記銘は全く読めない。石灯籠は首里の弁ガ岳にあるような大きなものである。今帰仁グスクにある今帰仁王子(十世宣謨)クラスの人物の寄進ではないか。国頭按司(王子)の誰かではないか。国頭間切から大宜味間切が分割し、根謝銘(上)グスクは国頭間切ではなく、大宜味間切内に入ったため、国頭按司(クラスの人物)は国頭間切内の辺戸や奥、比地に大きな石灯籠を設置したのだろうか。あるいは脇地頭クラス。(以前に整理したような気がしているが?)

 
   国頭村奥のウガミ(神社)にある石灯籠(一基)

 
    国頭村辺戸のウガミにある石灯籠(二基)

・万暦42年(1614) 馬氏国頭按司正彌薩州(国頭左馬守)へ。
・崇禎3年(1630) 向氏国頭親方朝致、薩州(年頭使)へ。
・崇禎5年(1632) 馬氏国頭按司正彌薩州へ(年頭使)。
・崇禎16年(1639) 馬氏国頭王子正則薩州へ、大守様に随行して江府へ。
・順治3年(1646) 向氏国頭親方朝季、薩州へ。
・順治5年(1648) 馬氏国頭王子正則薩州へ(尚質王即位)。
・順治7年(1650) 向氏国頭親方朝季薩州へ。
・順治9年(1652) 馬氏国頭王子正則薩州へ、大守様に随行して江府へ(将軍家綱公襲封)。
・順治13年(1656) 馬氏国頭王子正則薩州へ。
・康煕3年(1664) 馬氏国頭王子正則薩州へ(年頭使)。
・康煕26年(1687) 馬氏国頭按司正美薩州へ。
・乾隆6年(1741) 向氏国頭親方朝斉 薩州へ。
・乾隆26年(1761) 馬氏国頭按司正俸 薩州へ
・乾隆33年(1768) 向氏国頭親雲上朝衛 薩州へ。
・乾隆42年(1777) 向氏国頭親雲上朝衛 薩州へ。
・乾隆48年(1783) 向氏国頭親方朝衛 薩州へ(慶賀使)。
・道光22年(1842) 馬氏国頭按司正秀 薩州へ。
・道光29年(1849) 国頭王子正秀 薩州へ派遣。(船三隻、運天港へ)
  比地の中の宮とびんの嶽の石灯籠と石香炉
・咸豊9年(1870) 馬氏国頭王子正秀を薩州へ特遣。
  奥のミアゲ森小祠に咸豊九年の香炉あり。


200835日(水)

 羽地間切については、「羽地と地方役人」で詳細な解説がなされているので参照する(「地方役人関連資料」(名護市史資料編5)。各間切とも羽地間切と同等のレベルで論ずることはできないが、間切と両惣地頭との関係を具体的に、また体系的にまとめられた研究である。間切から首里王府や御殿や殿地との関係や間切から中央を照らし返してみることのできる絶好のものである。

 羽地間切の事例を踏まえて、各間切と按司地頭家や親方地頭家、首里王府との関わりを間切(オエカ人・ウェーキ・ノロなど)がどう見ていたのか。時代は変わっても、その目線は今も変わっていないのではないか(変わらないものかもしれない)

「羽地間切各村内法」に両惣地頭と関わる条文がある。
  第1条 夫地頭掟ハ平常村ヘ出張第一身分ヲ慎万端正道ニ相勤百姓中ノ亀鑑ニ相成候様左候
        百姓迷惑掛候由相聞候ハゝ糾方ノ上頭御役両惣地頭御差図ヲ以テ重キ御取扱可仰付事
  第43条 百姓地及村持ノ地頭地オエカ地・・・・
  第95条 田地御方両惣地頭ヘモ御案内ノ上当人


     (工事中)

【羽地間切と両惣地頭家】

 ・羽地御殿(按司地頭家)

 ・池城殿内(親方地頭家)

 ・羽地間切の脇地頭家

 「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年:1870
は、解説によると羽地按司が領地に初めてやってきた時の様子を記したものだという。一行の羽地間切での動き、「覚」(日記)を記したのは受け入れ側である。按司様一行をどのようにもてなしたのか。そして、どのような拝所を廻ったのか。羽地間切内の源河と伊佐川を除いた「のろこもい火神」(ノロ殿内)を廻っている。按司家から間切役人への拝領物の進呈、間切から按司家への進上などがある。

 他の間切でも按司や惣地頭などが間切へやってきた時には、同様な対応をしていたのではないか。その事例があるので『琉球国由来記』(1713年)の「両惣地頭」が関わる祭祀の時、首里からやってきた時、間切は同様に対応をする様子が浮かんでくる。

  ・同治9年(187093日/羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのでお迎えに首里に向かう。 
  ・同96日/羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
  ・同98日/羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。   
  ・同99日/恩納間切番所に一泊する。
  ・同910日/名護番所に一泊する。
  ・同911日/羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。

   羽地按司は川さう仲尾親雲上宅

   御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅

   役人はおかいら親川親雲上宅

   親泊筑親雲上はたんはら屋

   間切の役々は仲尾筑登之宅
・同912日/(翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)

・同913日/御立願をする。

   御殿火神(親川村)→②城(親川)→③勢頭神御川(親川村)→④御殿御川
   のろ御火神(仲尾村)→⑥ろ御火神(真喜屋村)→⑦御嶽(真喜屋村)

・同914日/屋我地御立願

   ろこもい御火神(我部村)御嶽(我部村)→③ろこもい御火神(によひ名村)

   いりの寺(饒平名村)→⑤東の寺(饒平名村)済井出村屋我村を巡検される。
・同915日/間切から招待

・同916日/按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・
   間切役人・神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。


       (拝領物あり)  (進上物あり)

  (917日~25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人など
   の訪問があったであろう

 ・同9月26日/羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。

        (首里までの到着の記録はない)

御殿と殿内への奉公人(後間切役人へ)

 「地方役人関連資料」(名護市史)に御殿と殿内へ奉公した奉公人がいる。それら奉公人(後の間切役人)と御殿と殿内との関係は、密接な関わりが読み取れる。奉公人の御殿、殿内を崇めたてる気持ちは、平民も同様なものとみられる。まだ確認していないが、出身地の村のウタキなどの拝所の「奉寄進」の香炉に彼らの名があるかもしれない(未確認)。

  ・羽地間切川上村の親川仁屋(羽地按司家)
  ・羽地間切仲尾次村の平良仁屋(羽地按司家)
  ・赤平地頭代プスメー(松川仁屋)(羽地間切古我知村)
  ・上里仁屋(羽地間切振慶名村)(池城御殿)
  ・宮里清助(池城殿内)(羽地間切稲嶺村)
  ・親川登嘉(羽地間切川上村)(羽地按司家)

 
                      羽地の親川グスク

 
親川グスクにある拝所(池城里主所火神?)     
 


200834日(火)

 恩納間切は1674年の創設である。金武間切と読谷山間切から分割した村々からなる。『恩納村誌』(昭和55年)で故仲松先生は間切の税制について詳細な報告をなされているので参照する。近近の税制から恩納間切と首里王府、恩納間切や村と恩納御殿家と惣地頭家との関わりがより見えてきそうである。(国頭間切と両惣地頭家大宜味間切と両惣地頭家本部間切と両惣地頭家

  ・税は村(ムラ)に課せられていて、個人には課されていなかった。
  ・税の対象は基本的に田畑であるが、外に特別税というのがある。
  ・田畑、他の耕地は村に貸与。
  ・村は貸与された田畑を人数に応じて各家に配分(地割)する。
  ・未納の家があった場合は、村が責任を負う。
  ・間切での土地(田畑)での産物がどれだけの額算出できるか調べ、それに基づいて課税。
  ・税は米に換算して、米何石に相当する産物があるか。「石高」で表す。
  ・税の主なものは米・麦・粟・豆など。砂糖・織物・ウッチンなど。
  ・恩納間切の場合は米・麦・粟・豆、それにウッチンが主な産物であった。
  ・恩納間切のウッチンは貢税で島津への王府からの貢納品(染色・薬用)。
  ・納税の期限
    ・麦の上納は旧3月から4月中。国頭方・久米島方は海路なので4月から6月中。
     ・米の上納は旧6月から8月中。国頭方・久米方は6月から10月中。
     ・大豆の上納は10月から11月中。国頭方・久米方は12月中。
     ・恩納間切は国頭方なので陸路で首里・那覇への運送は困難。海上輸送となり、名護間切の
      湖辺底へ。湖辺底港から那覇・泊へ。
     ・運送は山原船(マーラン船)で、各村にもマーラン船を持ち、村船という。

     
【恩納間切と両惣地頭家】

【恩納間切と按司地頭家】
 ・創設当時の按司地頭は大里王子朝亮、恩納間切惣地頭は佐渡山親方安治である。
 ・惣地頭は恩納村の「城内之殿」と恩納村の神アシアゲでの祭祀と関わる
    (『琉球国由来記』)。
 ・恩納神アサギ近く(現公民館)にあった上間家屋敷内にある火神は按司地頭火神と
  総地頭火神だという。


         恩納の神アサギ            現公民館の側にある拝所

【佐渡山惣地頭家】(首里)

 佐渡山家が代々惣地頭職を継承している。
 佐渡山惣地頭は恩納間切を領地とし、間切に地頭地(田畑)として持っていた。
 間切惣地頭地は間切の人に耕作させ、収穫物の三分の一を間切へ、三分の二から税を引いた残りが自分のもの。自己の耕作地から手に入るものを「作得」という。明治6年の佐渡山親雲上の作得は21石余である。

 恩納間切惣地頭の佐渡山家は恩納間切に仕明地を持っていた。(恩納グスク下、グランチャマ、馬場の下印場、シルジ枝、屋下の下り下、太田のクビリ、安富祖の川沿いなど。

 惣地頭は恩納村の「城内之殿」と恩納村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。

【恩納間切の脇地頭】
・『琉球国由来記』(1713年)に見える脇地頭は以下の6名。
   真栄田・山田・富着(富着・谷茶・前兼久・仲泊)・瀬良垣・屋富祖・名嘉真

 ・明治6年の脇地頭は、以下のの四名。
  名嘉真筑登之(名嘉真村作得2石余)(那覇出身の嘉手納姓、地頭地は伊武部の入口付近)。脇地頭は神
   アシアゲの祭祀と関わる。
  真栄田親雲上(真栄田村作得3石余)(那覇久米村出身)。脇地頭は神シアゲでの祭祀と関わる。
  山田(親雲上か)(山田村作得9石余)(倉波に居住、脇地頭火神は旧神アサギのところ)。読谷山(山田)村
   神アシアゲでの祭祀と関わる。
  安富祖親雲上(安富祖村作得6石余)。脇地頭は神アシアゲでの祭祀と関わる。
  ・富着脇地頭火神は神アサギの側にある。富着脇地頭は富着村神アシアゲの祭祀と関わる。
  ・瀬良垣脇地頭は不明、脇地頭火神が神アサギの側に残っていたという。瀬良垣脇地頭は神アシアゲの祭祀と
   関わる。
  

 
   名嘉真の脇地頭火神の祠           富着の脇地頭火神の祠

【近世の家】

 ・家屋には穴屋(アナヤー)と貫木屋(ヌチギヤー)がある。
 ・屋根の材料によって茅葺屋(カヤブチヤー)、瓦屋根はカーラヤ
 ・穴屋は貧困の家屋。
 ・竹と竹茅が材料とした屋根
 ・穴屋の壁にも竹や竹茅を用いた。
 ・穴屋はキチ(細長い木)を並べ敷いて床にした(イヌマン床)。 


200833日(月)

 日本国に留学して学生達と今帰仁グスク、そして歴史文化センターで。

 

 「山原の間切と地頭家」をテーマに少し整理しておきたい。すでに各市町村史でまとめられているのであろうが、山原の各間切から首里に住む按司や惣地頭との関わりをみていくことに。それで名護久志金武本部の各間切にある地頭家と関わりそうな場所などを手掛かりに踏査してみた。各間切に按司や惣地頭と関わる場所が目についてあるわけではないが、「市町村史」や「家譜」や「中山世譜」などの記事を間切(現場)に引き込んで考えてみたい、その試みである。(見通しがついているわけではないが、一度は通過しておかなければならないであろう)

 本部間切は1666年に今帰仁間切から分割して伊野波間切、翌年には本部間切となる。1666年以前の今帰仁間切は今の本部町を含む大きな間切であった。1666年以前の歴史をみていく場合は今帰仁グスクを中心とした領域であったことを念頭に入れて考える必要がある。

【本部間切と両惣地頭家】

(本部按司家:御殿)
 ・尚質王の六子朝平を元祖とする。
 ・本部按司朝完(二世:朝定)…1696年西御殿御普請・南風御殿修補の総奉行を勤める。
 ・本部按司朝智(三世)…1716年那覇津浚濬奉行を勤める。
 ・本部王子朝隆(四世)…1736年総奉行となり国中の河川の改修に努める。
 ・本部按司朝救(五世:朝恒)薩摩に上国する。(1773年)
 ・本部按司朝英(六世)薩摩に上国する(尚王即位)。
 ・伊野波按司朝徳(七世)
 ・本部按司朝章(七世)薩摩に上国する。
 ・本部按司朝宜(八世)
 ・本部按司朝真(九世)明治6年の『琉球国藩雑記』で、家録高150石、物成19石、本部間切に作得37石余。
 ・「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日旦 本部按司内松田仁屋」とある(1859年:本部町辺名地)。
 ・「奉寄進 咸豊九年九月 本部按司並里仁屋」とあるあ(1859年:本部町並里)

・乾隆16年(1751) 向氏本部按司朝恒 薩州へ(尚穆王即位)。
・嘉慶9年(1804) 向氏本部按司朝英 薩州へ(尚王即位)。
・嘉慶14年(1809) 向氏本部王子朝朝英 薩州へ。
・咸豊9年(1870) 向氏本部按司朝章を薩州へ特遣。

(伊野波殿内:惣地頭家)
 ・康煕5年(1666)伊野波盛紀(七世)本部間切惣地頭職となる(今帰仁間切を分割)
 ・康煕27年(1688)に伊野波親方盛平(八世)は本部間切惣頭職となる(40石から80石となる)。
 ・康煕38年(1699)に伊野波親雲上盛忠(九世)は本部間切惣地頭職を賜る。
 ・康煕42年(1703)に伊野波親方盛祥(十世)本部間切惣地頭職となる。
 ・乾隆3年(1738)に盛真(十一世)が本部間切惣地頭職となる。
 ・乾隆16年(1751)に盛周(十二世)が本部間切地頭職となる。

(本部間切の脇地頭)

 本部町伊野波の神アサギの側にウルン(御殿)と呼ばれる祠がある。伊野波家(惣地頭家)の殿内ではないか。『琉球国由来記』(1713年)をみると、本部間切伊野波村(同村)での祭祀に関わるのは惣地頭のみである。按司は見られない。それからすると伊野波にあるウルン(御殿)は伊野波殿内の拝所ではないか。

 また本部町の並里と辺名地に「本部按司」と記された奉寄進の香炉がある。まだ確認していないが、本部按司の上国と関係しているとみられる。そこには本部按司だけでなく並里仁屋や渡久仁屋などの名があるのは、按司に仕えた村出身の奉公人ではなかったか。そこから間切や村と按司や惣地頭との関係が見えてきそうである。
  
  
  伊野波にある御殿(ウルン)跡            ウルンの中の香炉(銘は不明)

 
咸豊9年本部按司とある香炉(本部町並里)    並里仁屋とある香炉(年号未判読)

 咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章順聖院様薨逝されたので特使として薩州に派遣されている。その時の寄進とみられるが、渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた並里出身の屋嘉とみられる。


200831日(土)

 国頭間切は沖縄本島の最北に位置する間切(現在の国頭村)である。1673年以前は、現在の大宜味村の津波を除いた大半である。古琉球から17世紀半ばまでの北山(山原)の五間切の一つである。国頭間切と首里に住む国頭按司や国頭親方との関係を見ることに。(大宜味間切と両惣地頭家)

【国頭間切と両惣地頭家】
 国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。

 国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。

国頭御殿(按司地頭家)(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家) 
 ・国頭按司の始祖は不明。
 ・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)奥間加治屋の次男
 ・二世国頭親方正鑑父子ともに功積あり。
 ・三世国頭按司正格…1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとなり按司の位を贈られる。
 ・四世国頭按司似竜父の功績で位をもらう。(国頭正教)
 ・五世国頭按司正影
 ・六世国頭按司正弥島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭左馬頭の称号をを賜り
  太刀など武具を与えらえ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わっていたという。1632年に再び年頭使として薩摩に
  赴いている。
 ・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
 ・1653(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
 ・七世国頭按司正則島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
   西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建(『琉球国由来記』)。
   首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
 ・八世新城按司正陳
 ・八世国頭按司正美
 ・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
 ・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治6年)の『琉球藩雑記』)
 ・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。

国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)
 ・国頭親方朝致五世国頭親方朝季(三司官)六世国頭親方朝治七世国頭親方朝茲八世大宜見親方朝楷
  朝致は中国への進貢二年一貢陳情し許される。福州で客死。
 ・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
 ・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
 ・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
 ・国頭親方景明浦添親方(嘉靖381559年~隆慶元年:1567まで久米島へ流される)(和氏)
 ・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生~万暦8年没:翁姓)(尚元王代に三司官)
 ・国頭親方盛埋(万暦2年:1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
 ・国頭親雲上盛許(豊見城家:国頭御殿十六世)
 ・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石(『琉球藩雑記』)。

 ・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。

 ・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
    (国頭大臣塩太良加禰)(1546年)
 ・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?
 ・
 1667年羽地朝秀(向象賢)は、按司地頭と惣地頭は年に一日、脇地頭は二日に限って使役させることした。また従来按司地頭と惣地頭は領内から忰者(コモノ)を五、六十人、脇地頭は十人から二十人を使用していたのを、按司衆は十三人、親方部は十二人、以下位階に応じて減らすこととした。御歳暮の礼として三司官などに贈っていた猪二枝やからかみ一手などを禁止した。
 
 以前紹介した石香炉と石灯篭である。それらの香炉や石灯篭は国頭按司や国頭親方と関わるものではないかと見ている。ただ、下にある国頭王子正秀が国頭御殿の国頭按司(王子)にみられないが『中山世譜』(附巻六)に「馬氏国頭按司正秀。(道光221842)七月十一日。薩州に到り。九月二十七日に国に帰る」とあり、その時は按司である。同人は道光29年(1849)に佛夷(フランス)が来たので使いとして薩州に王子として派遣されている。その時の寄進ではないか。船三隻が運天港に到着しているので道光26年(1846)の出来事のことか。馬氏国頭王子正秀は咸豊9年(1859)にも太守公の継統の大典の祝賀で特別に派遣されている(その頃のことは整理が必要なり)

【国頭村比地の石香炉と石灯籠】

 1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光299月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
 びんの嶽の石香炉の一つに道光299月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。

 

 

【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】

  

【国頭村奥の石灯篭と石の香炉】

 
                                       安谷屋グスクの洞窟にいた子犬