2004年8月
地域研究(もくじ)
2004.8.31(火)
朝からあれこれバタバタ。それとレファレンスあり。山原のムラ・シマの見方を話す。明日まで続く。明日はどんなコースをとろうか。これから考える。200頁近い原稿の校正を一晩で一気にやったため目が充血。体中がポワンポワン・・・
古宇利島の展示の準備作業がほとんど手つかず。島の成り立ちは複雑で手に負えるものではないが、海岸段丘の形成をいくつか仮説をたててみるのも面白い。氷河の拡大や縮小、あるいは地殻変動、段丘上の堆積物など、いろいろな組み合わせになるのであろう。私の頭では到底理解できるものではなさそう。仮説の組み立ては、あきらめるか!
32.本部町並里の御嶽(ウタキ)
本部町並里は『絵図郷村帳』や『琉球国由来記』(1713年)などに登場しない村である。「里積記」に伊野波・満名・並里と村名が併記されている。また「沖縄島諸祭神祝女類別表」でも三つの村が併記されている。
並里にもウタキがあり、画像の高い山がタンダウタキという。そことは別にお宮の後方部にもイベがあり、そこに二基の香炉が置かれている。一つの香炉に「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日 本部按司内 渡久地仁屋」と「奉寄進 年号不明 並里仁屋」とある。咸豊九年は本部按司朝章が薩州へ派遣された年である。その香炉に本部按司内とあるので寄進は本部按司の大和旅と関係があるのであろう。
神アサギの側には「並里神社」の碑が昭和10年に建立されている。神アサギが拝殿、お宮が神殿の形式をとっている。
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2004.8.29(日)
台風の余波で風がある。早速、学芸員実習で一足早くきた松村真利さんと、昨年実習をした玉城夕貴さんが、古宇利島が出てくる歴史的な地図のパネル準備。そして地形図使って島の成り立ちを図化する作業にとりかかっている。パネルづくりや地形図の読み取りから古宇利島の成り立ちを見つけ出していくことを狙いとしている。さて、どんな島の様子が見えてくるか。
古宇利島は一番高いところで107m。面積が3.12k㎡で海岸段丘が三段みられる。
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▲まずは島の成り立ちから ▲首里王府は島をどう見たのだろうか?
2004.8.28(土)
今帰仁グスクの外壁を歩いてみた。いつもとは異なる角度に立っていることもあり、新鮮に見える。この城壁は完成したのであろうか。城壁の下部分に坂道の歩道のような石積みがあり、城壁を積み上げるための工夫なのか。近くに今帰仁ノロ火神の祠があり、そして城壁の向こうにはクボウの御嶽が見える。
(工事中)
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▲今帰仁グスクの外壁から大隅をみる ▲今帰仁グスクの外壁
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▲外壁の近くにある今帰仁ノロ火神の祠 ▲城壁の向こう側の森がクブウヌ御嶽
2004.8.27(金)
台風16号は沖縄本島を避けて北上していくようだ。一安心。でも上陸する地域に災害がないように。
さて、台風が直接上陸するわけではないが、二、三日後に今帰仁に来る予定の学生がすでにやってきた。二陣目の二人は31日から。そして二日にやってくる広島のメンバー。いずれも台風の影響を受けている。
古宇利島の海や海岸の地名を図に落としてみた。展示にも使うが字誌用である。50余りの地名が拾われている。島の南島側にピシとイノーが広がる。ピシからイノーへの潮の流れ口に・・・グチ(口)の地名がついている。
・ソーグチ
・ナハグチ
・ウユグチ
・マチミグチ
・ナーハグチ
・マブイピシグチ
・・・マタのマタ地名もある。または裂目や分かれ目などにつく地名である。陸地と同様海の中にも地名がつけられている。
・キヤマガマタ
・フマタ
・ウイヌマタ
・ウチマタ
古宇利島のサーザーウェーの時のピロシーでイルカを捕獲する場面がある。その時歌が謡われる。
ワヮーウムイニ ピトゥヌユーン ガラヌユー
ントゥピークトゥ スーパクドォートティ
ンキミソーレー
上の歌詞は『村落(しま)』4号に収録されたものである(性格に記録されているか心もとない)。以下のように謡われているのではないか。
ワーヌクムイニ(吾のクムイに) (クムイ=海の小掘)
ピトゥヌユーン ガラヌユー(ン) (イルカが寄っている。・・・も寄っている)
ユトゥピークトゥ スーパクドォートティ (すぐに飛び出して?)
ンキミソーレー (行きなさい)
(吾の海のクムイに、イルカやガラ(ガーラ?)が寄っているので、すぐに飛び出して(捕獲)に行きなさいよ)との意味か。
古宇利春男氏は次のよう謡っているようだ。
ピナタガマグムイニ (ビナタガマグムイに)
ピトヌイユーン ガヤヌイユーン (イルカやガヤ?がよってくる)
ユトウビートゥ イジテイ トユイミソーリー
(寄っているので 出て捕ってください)
二、三のクムイがあるが、吾のクムイやピナタガマグムイはどれだろうか。古宇利の海人は皆自分のクムイと思っているかも。謡っている古宇利春男氏に確認してみる必要あり。
(縮小かけたので地名の字が読めません! 悪しからず!)
▲古宇利島の海と海岸地名
2004.8.26(木)
第一陣の学芸員実習のメンバーが31日からスタートする。そのお膳立てをしないといけません。そのため、古宇利島の資料を取り出している。展示に向けて、作業に入る段取りからです。仕事をさせるためのもう一つの仕事が・・・。それだけでなく、あれこれ、のしかかっています。・・・ハハハ
31.今帰仁村上運天の御嶽(ウタキ)
今帰仁村内の上運天をゆく。近世初期には運天村は一つであった。近世初期に上運天と運天の二つの村に分かれた。両運天村は勢理客ノロ管轄の村である。「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治15年頃)には「内神火神所、神アシアゲ、上の島嶽二ケ所」とある。ここでも二つの御嶽があったことがわかる。『琉球国由来記』(1713年)に「上運天之嶽 神名:ナカモリノ御イベ」と「ウケタ嶽 神名:不伝神名」とある。ウケタ嶽はウキタの御嶽のこと。上運天之嶽はウンシマの拝所のこと。
上運天の集落は、もともとはウガンジュ(ウタキ)の内部、あるいはその近くに集落があった痕跡がある。神アサギの場所もそうであるが、近くに根神火神や掟火神の祠がある。集落が次第にウタキの麓に移動している。集落の移動が見られるが神アサギや根神火神や掟火神などが故地に残っている。お宮もアサギミャーに接してあるが、それは神社建設記念(昭和15年建立・皇紀二千六百年)である。
上運天のウタキは原初的な集落の形成に伴ったウタキとみてよさそうである。これまで紹介した今帰仁村平敷と同様な形態である。
(工事中なり)
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▲上運天のウタキ(ウンシマヌウガンジュ) ▲ウタキの中のイベ
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▲ウタキの内側にある神アサギ ▲ウタキ近くにあるウッチ火神
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▲ウキタの御嶽(ウタキ) ▲ウキタのウタキのイベ
2004.8.25(水)
今朝は本部町の浜元・浦崎・謝花・備瀬・嘉津宇・具志堅の神アサギをゆく。本部町内の神アサギの画像はだしてみた。文章はボツボツ・・・埋めていきます。謝花はウタキまであがる。そこまで確認しないと「ウタキの議論はゆらいでしまうぞ」と言われてるようだ。まだまだ続きそう。
30.統合された村と御嶽(ウタキ)―羽地間切谷田村―
羽地間切(現在名護市)に谷田村があった。この谷田村は川上村に統合され村名が消えてしまった。統合の時期については1736年とも言われているがはっきりしない。行政村としての名称は消えてしまったが、ウタキや神アサギなどの祭祀場はしっかりと残している。谷田村があったところはホードヌバーリ(谷田)と呼ばれ、小字として残っている。川上村に統合されているが、「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治15年頃)には川上村に神アサギ二カ所、谷田嶽などが記されている。
『琉球国由来記』(1713年)に谷田村があり、同村にトモノカネノロ火神と神アシアゲがある。川上村と谷田村は仲尾ノロとトモノカネイノロの管轄である。トモノカネイノロは谷田村から出ていたようである。ホートゥヌバーリにあるヌンドゥンチはトモノカネイノロ殿内かもしれない。
神アサギや根神火神などのあるこの杜はウタキとみていいかもしれない。ウトゥーシジュ(お通し所)に香炉が置かれ中城に向けてある。平成15年8月に谷田の神アサギや根神火神などの祠が整備されている。
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▲鳥居と神アサギ、後方に根神火神 ▲神アサギなどのある杜(ウタキ?)
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▲ウトゥーシジュ(お通し所) ▲赤屋根の後方の杜が中城
2004.8.24(火)
本部町瀬底島をゆく。以前「山原の神アサギ」を一部紹介したことがある。いつの間にか途切れてしまい記憶の彼方へ。本部町の神アサギはまだ紹介していなかった。その時、写真やデジカメに収めてあるが探すのが大変・・・。それより、もう一度訪ねた方が早いの歩いてみた。近々、「本部の神アサギ」をアップする予定。まだ項目を立てて触れていないが、本部町の御嶽や神アサギをみていると、鳥居やお宮、そして・・・神社などの碑が目につく。沖縄(琉球)本来の御嶽や神アサギなどの姿を見失わせている。
29.島の御嶽(ウタキ)―本部町瀬底の七御嶽―
ここでの報告は本部町瀬底島の御嶽(ウタキ)である。島の御嶽(ウタキ)がどうなっているのか。1666年以前は瀬底島の今帰仁間切の内。古宇利島との比較で見ると、御嶽の変貌が見えてくる。
瀬底島にも七御嶽がある。旧暦5月と9月に日を選んで行なっている。瀬底ではウフウガンと呼び、古宇利島ではタキヌウガンという(1736年に本島側から移転させられた石嘉波村側の祭祀はここでは除く)。瀬底島での七嶽は以下の七カ所をいい、①から⑦の順にノロ・根神・居神などの神人が回るという。
①根 所(大城家にある根火神)
②ヌンドンチ(ノロ殿内跡)
③東ヌ御嶽(ウチグスク:ムーチースネー所)
④土帝君
⑤アンチヌ御嶽
⑥西ヌ御嶽(イリヌウタキ)
⑦前ヌ御嶽(メーヌウタキ)
この順序で回るとサンケーモーで水納島に向って遥拝しウブシを供え、線香をたき航海安全の祈願をする。古宇利島では御嶽を回る中間のクワッチモーでの祈願に相当しそうだ。瀬底島では根所やヌンドンチや土帝君も御嶽(ウタキ)とみなしていることに興味がある。古宇利島もタキヌウガンのとき、七嶽だけでなくお宮も拝む。土帝君がはいているのは、近世以降のものであり、外来の信仰が組み込まれている。
これらの七嶽の祭祀の軸(管理)となる神人がどの一門なのか。出自と御嶽との関わりで見るとどうなるのか。1725年頃上間家(瀬底ウェーキ)二世の健堅親雲上が土帝君を祀ったのが初だという。上間家のものが大正頃から村の七嶽に組み込まれたというが、明治15年頃にはすでに村の祭祀となっている。
『琉球国由来記』(1713年)にある瀬底村の御嶽は、以下の二つである。
・カネオツ森(神名:ワカマツノ御イベ)
・メンナノ御嶽
「沖縄島諸島祭神祝女類別表」(明治15年頃)には、七カ所の拝所が記されている。
①神サギ ②ノロ殿内火ノ神 ③前ノ御嶽 ④アンチ御嶽 ⑤イリノ御嶽
⑥内ノ御嶽 ⑦土帝君
▲本部町瀬底島(『瀬底誌』の口絵写真に御嶽名を貼り付け)
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▲ヌルドウンチ跡も七タキの1つ ▲アガリヌ御嶽(内グスク)の鳥居とイビ
瀬底島の内グスクは東ヌ御嶽(アガリヌ御嶽)とも呼ばれ、御嶽がグスクと呼ばれる例の一つである。グスクから陶磁器や土器などが表採集される。グスク(御嶽)内や周辺に人が住んでいた痕跡をみることができる。集落はグスク、あるいはグスク周辺から現在のミン(前)バーリの方へ移動して様子がみられる。
(工事中)
2004.8.22(日)
またまた、台風が接近中。このごろの台風は、幸いにして本島を避けて通っている。
(月曜日は休館なり。台風は避けて欲しいものだ!)
28.移動村と御嶽(ウタキ)―名護市山入端
山入端村は1737年に山手(中山付近)にあった村が移転させられた。集落の移動先は屋部村と安和村の間の海岸(安和兼久)である。屋部村と安和村の土地に入り込む形での移動である。『琉球国由来記』(1713年)にもノロは屋部ノロ管轄なので、ノロ管轄は問題なかったのであろう。
山入端村は「集落移動の村」なのか、「村移動の村」なのか、少し検討を必要とする。山入端村の故地は、現在名護市中山区の古山入端原である。中山は昭和18年に屋部・旭川・宇茂佐・宮里の四区から分区している。故地は他区に属している。ここでは、「村移動の村」として扱った。
『琉球国由来記』(1713年)にある山入端村のセキカケナカモリノ嶽(神名:ワカツカサノ御イベ)と神アシアゲは故地でのことである。移動した場所にウタキと神アサギが設けられているので、ウタキ(ウガン)を新しくつくり神を引っ越している(呉我村や振慶名村など移動村でも、同様神を引っ越してきている)。
山入端もそうであるが、村が移動村した場合、しっかりとウタキを設け神アサギを移動し、祭祀を引き継いでいる。杜をウタキ(ウガン)としイビヌメー、イビを明確に認識していることがわかる。
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▲上り口にあるイビヌメー ▲中央部の小高い杜がウタキ(ウガン)
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▲ウタキの頂上部にあるイベ ▲ウタキの頂上部から集落をみる
2004.8.21(土)
気持ちいい天気である。ならばと名護市安和までゆく。安和のクバウタキはクバ(ビロウ)が密集している御嶽(ウタキ)である。ウガンジュと呼ばれているようだ。ウタキに名称は異なるがイベとイビヌメーが明確に認識されている。と同時に、一つのイベは墓との認識もある。
27.複数のイベを持つ御嶽(ウタキ)と村(ムラ)
名護市安和までゆく。クバウヌタキがあり、その御嶽に二つのイビとイビヌメーがある。一つはクサーティとクサーティのウトゥーシ、もう一つはフクギヌシチャとフクギヌシチャのウトゥーシである。他の御嶽の構造からするとクサーティとフクギヌシチャは御嶽のイベに相当する。ウトゥーシはイビヌメーである。一つの御嶽に二つのイベがあるのは、根謝銘グスクや今帰仁グスクの内部にイベが二つあったり、国頭村比地の小玉森(クダマムイ)の御嶽内に複数のイベがあるのと類似している。
安和の村(ムラ)は二つのマク・マキヨ規模の集落からなっているいるのかもしれない。安和にニガントゥヌチとアガリヌニガントゥヌチがあるが、安和はナーカ(仲)一門一つとの認識があるようだ。一つのイベは後から移り住んだ人たちのイベだろうか(要確認)。
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▲安和の集落の遠景と名護湾 ▲エントツの手前の杜がクバウタキ
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▲ウタキ内のクサティヌぬウトゥーシ ▲クサティ(イベ)
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▲フクギヌヒチャのウトゥーシ ▲フクギヌヒチャ(イベ)
2004.8.20(金)
青空が見える日は気持ちいい。疲れていても。学芸員実習の学生達の沖縄入りの連絡がボツボツと入ってくる。今年は7名のメンバーである。どんな個性の持ち主達がやってくるのか。地元の二人は何度か「ムラ・シマ講座」に参加しているので・・・。
「あいさつ文」と「あとがき」を除いてすべての原稿と画像を印刷会社へ。来週から最後の校正にはいる。いよいよ攻めの段階である。三、四日、2、3時間の睡眠でしたので、やつれた顔になってしまった。ハハハ
夕方から学生達が宿泊する民家の草刈と掃除。電気、ガス、シャワー、トイレなどの点検。ひとまずオッケー。明日から利用者がいるので。大急ぎで!一区切りした大仕事の後の肉体労働もいいもんだ。明日も二つの業務が午前、午後と入っています。講演料があればいいのだが・・・。(「そんなこと考えては、いけません」と写真の仲宗根政善先生は、おっしゃっています)。ハイ
『古宇利誌』の編集作業をスタートさせます。企画展の準備も同時進行なり。600頁余ですから島の方々にウニやタコでクンチつけてもらわないといけませんね。確認や注文や校正でどんどんいきます(脅しておこう!!)。実際はたいしたことありません。事務局(区長?)さん、よろしく。
2004.8.19(木)
昨日は徹夜状態の中、ヨタヨタで名護グスク、親川(羽地)グスク、根謝名(ウイ)グスクまでゆく。それと、親川グスクの隣の仲尾村跡と国頭村比地の小玉杜まで。夕方帰ってから、また夜明けまで。今日の午後三時頃に大きな山場を越すことができた。ヤレヤレ。先が見えてきた。ここで意気を抜くと・・・。
グスクや御嶽回りの依頼は、中国出身で沖縄研究をしている方である。私にとって中国の方が琉球のグスクや久米村をどう見ているのか。そのことに関心があった。少しばかり伺うことができた。それはラッキーであった。謝謝
台風の余波で時々、雨がふったり風が強くなったりの天気。今回はグスクから按司(地方の支配者)が移動し、支配者の居住地や防御的な機能を失った後の、グスクが果たした役割を今に残された祭祀と関わる御嶽や火神などから、肌で確かめておきたかった。1500年代に名護グスクや羽地グスクや根謝銘グスクに住んでいた按司が首里に移り住んだことで、その後のグスクはどんな役割を果たしたのか。グスク内の火神やイベ、それと御嶽に関わる祭祀を手掛かりに歴史の動きを見ることができそうである。
今帰仁グスクの按司が首里に引き揚げたのは1665年である(翌年伊野波(本部)間切の創設あり)。他の間切クラスのグスクの按司たちが首里に聚居させられたのは1523年だと言われている(『球陽』)(異論もあるようだ)。その年代の近い頃に多くの按司は首里に住まわされたことは間違いなそうだ。按司とは別に按司掟を配置したり、首里王府から役人やノロなどに「辞令書」の発給などその様子がうかがえる。間切の首里大屋子の役職名は首里王府の地方支配の名残りなのかもしれない。1611年には按司掟を廃止して地頭代が置かれる(羽地間切の按司掟の廃止は遅れたようである)。
グスクを見ていくとき、他の按司より遅れて首里に引き揚げた今帰仁按司一族は今帰仁グスクに何を残していったのか。そのことが、1523年に首里に移り住んだ按司と居住地であったグスクとの関係を知る手掛かりになりそうである。
1665年に首里に引き揚げた今帰仁按司はグスク内に、以下の祭祀に関わる御嶽や火神やアシアゲを遺している。
・城内上之嶽
・下之嶽
・今帰仁里主所火神
・今帰仁城内神アシアゲ
1523年頃に首里に移り住んだと見られる名護按司の居住地であった名護グスクには、御嶽と神アサギが『琉球国由来記』(1713年)に記される。
・テンツギノ嶽
・名護城神アシアゲ
羽地地域(間切)の羽地按司(池城按司か)は池城按司を名乗っていた痕跡が見られる(田井等村から分かれて親川村が18世紀中頃に創設される。田井等村の古い名称は池城村か)。村名や親川村の新設などがあり、整理して議論をする必要がある。
・オシキン嶽(田井等村のこの御嶽は親川グスクの御嶽を指している?)
・池城里主所神(田井等村にあるこの火神は親川グスクにある祠か)
・池城神アシアゲ(親川グスクにある神アサギのこと)
根謝銘グスク(ウイグスク)はさらに複雑である。国頭間切は1673年に分割(一部羽地間切から)して大宜味(田港)間切を創設した。根謝銘グスクのある村は国頭間切内ではなく大宜味間切内となる。根謝銘グスクと関わっていた城村・根謝銘村は大宜味間切へ、同じく根謝銘グスクと関わっていた親田村、屋嘉比村、見里村は当初大宜味間切、1695年に国頭間切へ。1719年に再び大宜味間切へ。明治36年には根謝銘と一名代と城の三つの村が合併して謝名城村、親田、屋嘉比、見里の三つの村が合併して田嘉里村となる。そのために表向き村やノロ管轄が複雑に見える。
しかし『琉球国由来記』(1713年)や御嶽などの関わりは間切分割や村(むら)の合併以前の祭祀を村レベルではしっかりと継承している。ところが按司レベルになると、根謝銘グスクでの祭祀はできなくなったのか大宜味按司や親方(両惣地頭)は城村と喜如嘉村で、国頭按司や親方(両惣地頭)は『琉球国由来記』(1713年)頃には番所のあった奥間村での祭祀に参加している。
根謝銘グスク(ウイグスク)に現在、大城(ウフグスク)と中城(ナカグスク)がある。やはり大グスク(イベ)は高嘉里(親田・屋嘉比・見里が合併:屋嘉比ノロ管轄)、中グスク(イベ)は謝名城(根謝銘・一名代・城が合併)が祭祀を行っている。城内の神アサギでの海神祭(ウンガミ)は城ノロ管轄の村の神人が行っている。
根謝銘グスク内に火神の祠がある。首里に向っているという。火神は間切分割以前の国頭按司の火神なのか、分割後の大宜味按司の火神だろうか。グスクの入り口にトゥンチニーズ(殿内根所)とオドゥンニーズ(御殿根所)の火神があるので、そこは大宜味按司の火神、グスク内にある火神は間切分割以前の国頭按司の火神なのかもしれない(要調査確認)。
グスクに住んでいた按司達の首里への移居は、中央と地方との関わりだけでなく、グスクと周辺の村や集落との関係も変わってくる。特に按司の移居は集落や村移動の引き金になっている。今帰仁按司の移居はグスク前方の今帰仁村と後方の志慶真村の集落移動へ影響を及ぼしている。
グスクや御嶽を案内しながら、そんなことを考えてみた。
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▲名護グスクへの道 ▲名護グスク内の神アサギ
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▲名護グスク(御嶽)のイベ?
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▲根謝銘(ウイ)グスクの遠景 ▲ウドゥンニーズとドゥンチニーズの火神
2004.8.17(火)
今日は教職員の初任研・5年研・10年研の研修である。天気が悪く、予定のコースを変えて歴史文化センターと今帰仁グスク、羽地大川の資料館までゆく。先生方、夏休みありませんね。先生方ご苦労さんでした。
多忙で書き込みできません。260頁の通しの原稿はほぼ渡す。画像50枚ほど明日には・・・。しばらく、徹夜状態が続きます。では、では。
2004.8.15(日)
26.移動集落と御嶽(ウタキ)
名護市(旧羽地村)屋我をゆく。屋我は羽地間切の村の一つで屋我地島にある。屋我は移動集落の村(むら)である。旧集落のあった場所に屋我グスクがあり一帯は阿太伊(アテー)の原名である。アテーはアタイのこと。他の地域では集落地に名付けられた地名である。そのことから屋我の集落の故地がしれる。屋我の御嶽はグスクの機能も果たした御嶽である。
屋我村の集落の移動について、以下のようなに記されている(『球陽』)。
「羽地間切の屋我村は人が少なく、近年ますます減少している。
貢賦や夫役を出すことができない。その理由は地理師に見せた
ら、西米邪原(墨屋原のこと)はいい山があり土地も広く、子孫繁
盛すると。また農業をしたり水を汲むのに便利だと。集落をそこに
移すことを願い出て許可された」(咸豊8年:1858)
このように集落の移動が明確に記された村の御嶽(ウタキ)はどうなっているのか。屋我のウタキは屋我グシクと呼んでいる。『琉球国由来記』(1713年)に「屋我之嶽 神名:マレカ神根森城之御イベ」とあり、神名にウタキが屋我グスクを指していることがわかる。屋我ノロの管轄は屋我・済井出・饒辺名の三つの村である。屋我ノロが住んでいるのは饒辺名村である(ノロの居住は必ずしも村名と一致しない。管轄村内であればいいようだ)。
(工事中なり)
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▲屋我地島にある屋我グスク ▲グスクの内にある岩(イビヌメー?)
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. ▲グスクの頂上部の広場にあるイビ ▲グスクは後方の森のさらに後方にある
2004.8.14(土)
今日は「ムラ・シマ講座」である。いつもとは趣を変えて羽地大川がテーマである。それと水に沈んだ集落の人々の生活についてである。こども達は、出発前から「泳ぐの?」「弁当持っているよ」である。
かつての羽地大川の曲がりくねった川筋は、ほとんど見ることができない。今では直線の川の姿となっている。出発前に、下流域の曲がった川筋の写真を見せて、「どう思う?」と聞いてみた。「なんか曲がったのがいいな」の声があった。1735年に蔡温が改修した川筋は、改修前より曲線になっている。その通りであれば、川筋の変更にあたって、より曲線にした理由が何か興味がある。「まっすぐに(直線的)にしたであろう」と創造するのが今の常識である。しかし、そこには蔡温の水道の設計思想が反映しているようだ(『羽地大川修補日記』名護市史料編5 文献資料集)。
1735年9月2日から本部・羽地間切の人たちを動員して工事にとりかかっている。翌年(1736)に現在の今帰仁村の湧川と呉我山地内から振慶名村と呉我村を羽地川沿いに移転させられた。その理由として「狭い土地に村がいくつもあり、農地も狭く山林を焼き払って農地にしている」(山林政策)の理由をあげている。それも村移動の理由であるが、羽地大川の改修直後に振慶名と呉我村を川流域に移動させたのは川流域の開拓と管理をさせることで生産をあげることが大きな目的であったことが窺える。
羽地大川の1735年の蔡温の改修工事は、近世の村の移動や山林政策など王府の地方支配の様子が見え興味深い。
ダム資料館はダムに沈んだ大川集落の生活をみる。明治から戦前にかけて人々が住み生活していた地域である。歴史のスパンで言えば新しい時代の人々の歴史であり生活である。『羽地大川―山の生活誌』として名護市史編さん室から発刊されている。昭和60年当時、名護市史編さん室にちょこちょこ顔を出し『わがまち・わがむら』の調査や執筆に関わっていた頃である。
羽地大川の「山の生活」の調査の様子を側で見たり聞いたりしていた。その時の調査研究の成果が『羽地大川―山の生活誌』である。ダム資料館の展示はそれがベースになっている。今帰仁で仕事するようになり(平成元年4月から)、時々「現在を記録する」という言葉を発するが、「現在を記録して、100年200年の人たちに届ける」という発想は、そこから学んだものである。本格的な沖縄研究のスタートが羽地地域だったことも忘れられない。そんなことを振り返りながらの今日の「ムラ・シマ講座」であった。資料館で「改決羽地川碑記」など、若かった頃に書いた一文を見つけて笑ってしまった。
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▲羽地大川改修顕彰碑(昭和46年)の前で ▲地図を見ながらの説明をきく
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▲「山の生活って?」 ▲念願の水遊び・・・
2004.8.13(金)
位牌の調査依頼あり。以前から、この位牌の置く場所が気になっていた。どういう事情で、別にしたのか定かでない(一族はご存知のはず)。そのことは別にして、位牌とその家の墓について整理し一族に報告することにする。
墓を開けたとき(20年前)に立ち会った記憶がある。そのときは、まだ墓調査をするだけの経験が乏しく傍観者として参加していた。その時、遅れての参加でもあったような・・・。ノートや写真をとったかどうか。
依頼主が撮影してあるようなので近日中に送ってくれることに。それを見ながら整理することに(写真の焼付けができたので、位牌にある人物の確認をしてみた)。
その前に位牌の確認はすぐできるのでその方から。墓の厨子甕のすべての整理は時間がないので後にする。取り急ぎの目的は位牌の人物と墓に葬られている人物が一致するかどうかの確認から。
結論はこの位牌の六名の人物は、墓の厨子甕にないので、この墓に葬られていないことになる。別に墓があると思われるのでその確認をする必要あり(取り急ぎの結論)。午後から一族にその旨の説明をするなり)。
(工事中なり)
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. (位牌の表) (位牌の裏)
位牌の表面
(上の段) (下の段)
④冬月妙光禅定門 ⑧松寿妙心禅定尼
②覚眼宗心禅定門 ⑥春岳妙栄禅定尼
帰 真
①蓮心妙清禅定門 ⑤白嶺常心禅定尼
③本源了覚禅定門 ⑦梅林妙謦馨定尼
位牌の裏面
(上の段)
④咸豊二年壬子四月朔日死歳四十前
仲宗根掟仲本仁屋
②嘉慶十七年壬申四月二十二日寿七十七
湧川大屋子
①乾隆二十年乙亥正月二十六日死歳
四十二大掟仲本仁屋
③嘉慶二十年乙亥十二月朔日歳五十
兼次親雲上
(下の段)
⑧同治十一年壬申九月二十五日寿六十
仲宗根掟 妻
⑥道光四年申七月十二日寿八十七湧
川大屋子 妻
⑤乾隆三十八年癸巳正月二十九日寿六十一
大掟仲本仁屋 妻
⑦道光二十九年己酉十一月二日寿六十四
兼次親雲上妻
25.海を越えた移動村の御嶽(ウタキ)とノロ管轄
屋我地島の我部をゆく(旧羽地間切)。移動村の御嶽(ウタキ)の確認である。1736年に今帰仁村の湧川地内から屋我地島にを移動した村(むら)である。陸地内での村移動ではなく海を越えた島へ移動した村が御嶽(ウタキ)をどう置いたのか。
1736年に移動してきた村であるが御嶽はしっかりと置いてある。御嶽は元の地に向いているのではなく、高い杜へ向けた軸線に沿った形で集落が形成されている。御嶽の向きは必ずしも故地に向いてはいない。天底や振慶名などの御嶽の向きもそうである。
ここで取りあげたいのは、ノロ管轄である。村が移動してもノロ管轄は保っていること。それはノロの収入に影響を及ぼすからであろう。下の証書は我部ノロが経済的な保障を国から与えられている証である。昭和の十三年頃まで保障される。祭祀に関わる御嶽は、単なる信仰の対象としてだけでなく土地制度を含めた身分保障にも関わる。そのことがあって御嶽の設置や祭祀、さらにノロ管轄の変更をしなかったと見るべきだろう。
(工事中)
証
羽地間切我部村拾六番地平民
我部ノロクモイ 嶋袋ウシ
明治廿六年度第一期渡
右ハ當社禄仕払期ニ在テ生存シ當間切ニ
現住ノモノナルヲ証明ス
羽地間切 地頭代嶋袋登嘉
明治廿六年八月九日
国頭役所長 笹田征次郎殿
請求書
羽地間切我部村拾六番地平民
我部村ノロクモイ 嶋袋ウシ
右明治廿六年度第一期渡社禄受領致度
候間御証明被成下度此段請求仕候也
右嶋袋ウシ
明治廿六年八月九日
国頭役所長 笹田征次郎殿
証明願
私 儀
當村儀内ニ居住目下生存シ且明治十九年三月縣達甲第
十号ニ抵触セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
沖縄県羽地間切我部村十六番地平民
明治廿九年一月 社禄受領者 嶋袋ウシ
羽地間切地頭代 喜納豊永 殿
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▲我部の御嶽(ウタキ) ▲我部の御嶽への道
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▲御嶽の中のイビヌメー ▲御嶽の頂上部にあるイベの祠
2004.8.12(木)
台風は沖縄本島をかすめて去ったようだ。昨日古宇利島で行われたサーザーウェーは見ることができなかった。今年はサーザーウェーに関わってきた神人の一人を失ったので新築の家々を回ることは省いたようだ。祭祀の変わり目である。企画展―古宇利島―(準備中)で平成5年のサーザーウェーの二日目を画像で紹介してみた。
24.分村した村の御嶽(ウタキ)―名護市(旧羽地村)稲嶺―
名護市(旧羽地村)の稲嶺をゆく。羽地間切真喜屋村から分立してできた村(ムラ)である。分立の年代ははっきりしない。近世末頃に出来た村は御嶽をどうしたのか。そして分立した後の祭祀はどうしたのかをしることができる。
『琉球国由来記』(1713年)の真喜屋村に真屋喜之嶽とマテキヤ嶽の二つの御嶽がある。分村したときに、稲嶺村はマテキヤ嶽を御嶽としている。真喜屋之嶽を中心とした集団とマテキヤ嶽を中心とした集団を一つの行政村とした可能性がある。それが近世末に分村したときに、それぞれの御嶽として今に伝わっているのかもしれない。分村したのではあるが、祭祀や地割は稲嶺村を含めて真喜屋村一つのときと同じように行っている。
村(むら)を分割して新しく村を創設した。たまたま二つの御嶽持っていたので、一つづつ御嶽を持つことになる。分村以前にも二つの御嶽で祭祀を行っていたので、分村しても祭祀はそのまま分けることなく行っている。御嶽の上部にイビがあったようであるが、中腹に昭和9年に「真照喜屋御宮」を建立した。四つの香炉が置かれているが、その一基に「奉寄進 明治廿八年五月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。旅の安全を祈願しての香炉の寄進である。上地は明治32年の真喜屋村と稲嶺村の土地整理の時の持地人総代をした人物である。
ならば分村するメリットは何だったのか。本集落から兼久地に集落が広がり、行政村をなすまでになったが、行政村になったが土地制度(地割)や祭祀を独立させるほどメリットはなかったのかもしれない。
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▲稲嶺のマテキヤ御嶽 ▲御嶽の内部にあるイビヌメー?
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▲お宮に四基の香炉が置かれている ▲上地福重が寄進した香炉
2004.8.11(水)
台風13号が接近中である。羽地内海に台風で避難している船が碇泊している。内海の奥の仲尾次よりに10隻ばかりが、船首を風向きにして碇泊している。いつもより船数が少ないようだ(これから入港してくるのか)。多いときはヤガンナ島の近くまで船が碇泊する。外洋は荒波で時化ているが、ヤガンナ島あたりの羽地内海はまだ湖のようだ(画像は今朝)。
▲台風接近中の羽地内海の様子 ▲内海の奥の方で避難している船
23.移動村の御嶽(ウタキ)とノロ管轄
1680年頃まで今帰仁間切であった村が羽地間切の村となる。1736年に移動した村が御嶽(ウタキ)をどう設置したのか。その例は天底村や嘉津宇村や呉我村で述べた。今回は同じく移動村である羽地間切振慶名村を通して、御嶽(ウタキ)とノロ管轄について触れることにする。
1736年に羽地間切(現在の今帰仁村の湧川から呉我山地内)にあった振慶名・我部・松田・呉我・桃原の五つの村が屋我地島と羽地間切の内部に移動させられた(蔡温の山林政策)。呉我村は羽地大川の下流域、そして振慶名村は中流域への移動である。中流域は村が入り込み、まだ開拓できる余裕がある地域だったと見られる。
『琉球国由来記』(1713年)に登場する我部・呉我・振慶名・松田の村は我部ノロの管轄である(1736年に移動するから、まだ現在の湧川から呉我山地内)。移動後も我部ノロの管轄は変わらない。移動先が島であったり、距離的に大分離れたりするが、それでもノロ管轄の変更はしていない。振慶名と呉我は隣の仲尾ノロの管轄にしてよさそうなものだがそうしない、できなかった理由は何かである。
ノロをはじめ神人に与えられた土地との関わりが大きい。変更を認めると我部ノロのノロ地の配分にも影響を及ぼす。そのためにノロ管轄は村が距離的に離れたとしても、舟で海を渡って(命がけ)でも動かせないほどのものだったのであろう。
『琉球国由来記』には「振慶名之嶽 神名:ナミアラサキノ御イベ」とあり、祭祀は我部ノロの管轄である。仲尾村の神アシアゲで行われる海神祭の時、羽地間切の全ノロが集まるが我部ノロも参加する。
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▲名護市振慶名の御嶽の遠景 ▲ムラヤー後方の杜が御嶽
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▲御嶽の中のイベ ▲御嶽から眺めた振慶名の集落
今朝琉球大学のM教授が来館。学生達が調査している間の来館のようだ。歴史文化センター所蔵の明治の図面の件で。話の中で「現在の小字はいつ確定したのだろうか?」の質問を受けた。「今帰仁間切平敷村略図」で小字の分析をしたことがある。小字の確定した年まで触れたか定かではない?(明治20年代だったような。その根拠となった史料は?!)
羽地間切の我部村の小字を「私有仕明坪高貢租叶米取〆帳」(明治21年)から拾ってみた。それと明治36年以降(現在)の小字と比較しても、必ずしも一致するものではない。他の地域(村)でも同様な結果がでたような。すると現在の小字の確定は明治21年から同36年の間ということになりそうだ。他の村でも同様な作業を、もう少しやってみる必要がありそうだが、そんな時間がありません。
明治21年の字(原名) |
現在の小字(こあざ)名 |
タイ原 |
・ |
2004.8.10(火)
恩納村恩納をゆく。恩納ゆきは、恩納村(むら)は恩納間切の主村であったこと。そして間切番所があったところで行政の中心となった村である。現在の恩納村(そん)の役場も字恩納にある。間切の主村の御嶽がどうなっているのかの確認である。恩納にはグスク(グシクという)とウガミがある。
22.間切の主村と御嶽(ウタキ)―恩納村恩納―
恩納の集落はグスクの後方の台地からフルジマ(古島)に移動、フルジマから現在地に移動しているというが、グシクを中心とした集落とウガミを中心とした集団(フルジマ)があったのかもしれない。
恩納間切の創設(1673年)は金武間切と読谷山間切を分割してできた間切である。恩納村恩納は集落移動の村(ムラ)であると同時に恩納間切の主村でもある。恩納グシク(別名大田グスク)は間切規模のグスクではなく、村(むら)レベルのグスクである。
グスクあたりにあった集落が古島(フルジマ)あたりに移動し、そこに新しくウガミ(御嶽)を設けたのか、それとも二つのマク・クダ規模の集落があり、グスクあたりの集落の御嶽がグシク、フルジマあたりの集落のウタキがウガミなのかもしれない。これまで見てきた集落の成り立ちからすると、二つの集落が一つの行政村になったとみた方がよさそうである(もっと複雑な経路をたどっているかもしれない)。
『琉球国由来記』(1713年)の恩納間切恩納村にヤウノ嶽三御前(神名:ツミタテノイベナヌシ、オロシワノイベナヌシ、アフヒギノイベナヌシ)と浜崎嶽(神名:ヨリアゲノイベナヌシ)とあり、そこでも二つの集団であった痕跡が見られる。「崎浜嶽」と「城内之嶽」は恩納グスクと想定される。
恩納村の「年中祭祀」のところに「城内之殿」と「カネクノ殿」があり、恩納村での祭祀に両惣地頭が参加する。恩納村の祭祀は恩納ノロの管轄で恩納村神アシアゲでの祭祀にも両惣地頭が参加する。惣地頭の参加は本部間切の主村である伊野波と同様である。
(工事中)
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▲恩納村恩納のグシクの遠景 ▲グシク内の城内の殿(イベ?)
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▲ウガミ、手前がフルジマ跡 ▲ウフグムイから見たグスク
2004.8.7(土)
午前中、那覇市久米町から久米三十六姓の末裔の方々がやってくる。今帰仁グスクにある「山北今帰仁城監守来歴碑記」の書碑記者の「副通事毛維基 城田親雲上 天祐」の件でやってくる。俄か勉強をしての説明なり。ハハハ
沖縄の歴史を見ていくとき、いくつかの柱があるとすると、久米村は重要な柱の一つであることに気づかされる。今回は久米系の毛姓の維基(城田親雲上)を手掛かりにしたのであるが、久米三十六姓と言われる中国系統の方々の働きは沖縄の歴史・文化に大きな影響を及ぼしている。
来館してきた久米系の方々との印象をいうならば、琉球に同化しつつ、根強く中国の習俗や気質を継承している。 (書き込みは明日なり)
(工事中)
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▲「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定文化財)と拓本(表・裏)
2004.8.6(金)
いつもは出勤前、御嶽(ウタキ)に立ち寄るのだが、今朝は油断をして朝寝坊(御嶽回りは、ボツボツ終わり・・・。「まとめ」にしたいのだが・・・。まだ、しばらく続くのかな?)。うしまるが具志堅での「聞き取り調査」があったのでついでに嘉津宇までゆく。
21.移動村と御嶽(ウタキ)―本部町嘉津宇―
本部町嘉津宇(かつう)をゆく。嘉津宇は近世の移動村の一つである。移動時期は明確ではないが、1719年に伊豆味村付近にあった本部間切天底村が今帰仁間切へ移動しているので、その頃に嘉津宇村も移動したと想定している。移動した村は御嶽(ウタキ)や祭祀をどう継承したのか。『琉球国由来記』(1713年)の嘉津宇村は移動する前である。そのときは天底ノロ管轄の村(天底・伊豆味・嘉津宇)である。伊豆味地内に古嘉津宇の小字があり、そこが嘉津宇村の故地と言われている。
嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが、昭和18年に具志堅から分かれ現在に至る。神アサギや祭祀は具志堅に統合されることはなかった。
明治13年の嘉津宇村の戸数は51戸、人口は252名(男139、女113)の小さい村である。世帯数は変わらないが人口は激減している。昭和60年は49戸、160名である。小規模の移動村でありながら、御嶽や神アサギや祭祀をしっかりと継承している。御嶽や神アサギの設置や祭祀を行う理由、行わなければならない理由が何かである。その視点で拝所は祭祀を捉える必要がある。御嶽に入いたり、牛馬を踏み入れて咎めを受ける(ヤマサレル)からだけの理由ではないであろう。
嘉津宇のタキ(御嶽)のイベは故地の反対に向けて設けてある。ただし、イベに向って祈った後は、振り返って故地に向って祈りをする。移動した村は、必ずしも故地に向けて御嶽(イベと集落の軸線)は設けていない(天底や振慶名など他の移動村でも)。どうも集落の高いところに御嶽を設ける習性(本質的に持っている)があるようだ。
ウドゥンゲヮー(祠)の中にある七つの石は神人の数だという。今では神人はいないようだが、昭和30年代には神人達が祭祀を行っている(写真)。
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▲嘉津宇のタキ(御嶽)のイベ ▲タキ(御嶽)への道
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▲ウドゥングヮーの中の七つの石 ▲神アサギとウドゥングヮー(現在)
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▲右の茅葺きが神アサギ(昭和30年頃) ▲ウドゥングヮーでの祭祀(昭和30年頃)
2004.8.5(木)
⑳間切の主村と御嶽(ウタキ)
本部町伊野波をゆく。伊野波は1666年に今帰仁間切を分割して伊野波間切(翌年本部間切と改称)が創設された時、間切番所が置かれた村と見られる。間切番所は1731年の『琉球国旧記』の頃には渡久地村に移っている。伊野波(によは)村は本部間切の主村で創設当時番所が置かれた村である。間切役人の夫地頭や掟名に伊野波が出てこないのは、本部間切の惣地頭職が伊野波を名乗ることによる。
その主村の御嶽(ウタキ)はウガン山と呼ばれる。ウガン山は集落の後方にあり、イベはウガン山の頂上部にあるようだ。御嶽について『本部間切各村内法』(第77条)に「嶽々ヘ牛馬踏入候得ハ主人ニ神ノ御咎目有之候迚是ヲ殺シ候者有之ニ依テハ科銭三百貫文申付候事」とある。
伊野波村の御嶽を取り上げたのは、『琉球国由来記』(1713年)に伊野波村にはカナヤヒ嶽とアカサケヨリアゲノ嶽の二つの御嶽がある。ウガン山はカナヤヒ嶽である。そこでの祭祀に惣地頭と間切役人(オエカ人)、間切中のノロが参加する。祈りも「首里天嘉那志美御前之御為・・・」と祈り、王府レベルと村祭祀が一緒になっている。間切内のノロの参加もある。村・間切・王府の祭祀が一緒になっている。惣地頭は本部間切から俸禄をもらう身分である。
そこには伊野波巫(ノロ)火神の祠があり、重要な祭祀場になっている。「敬神」と掲げられた祠に「奉寄進 咸豊九年己未 八月吉日 本部按司 渡久地仁屋」と刻銘された香炉が置かれている。他にもあるが年号未確認。咸豊九年に本部按司朝章が順聖院様の薨逝で薩州に特別の派遣される。本部按司が薩摩へ赴くにあたって伊野波村の御嶽に旅や航海安全を祈願しての寄進であろう。
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▲伊野波のムラウチ集落の後方に御嶽 ▲戦前、御嶽を神社と見立てた姿
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▲左側の神ハサギとお宮(イビヌメーか) ▲伊野波ノロの火神の祠か
▲お宮の中にある香炉
2004.8.4(水)
本部町具志堅の御嶽(ウタキ)をゆく。これまで御嶽(ウタキ:ウガミ:ウガン:グスク)をテーマに踏査してきた。ここでは御嶽の性格や神観念が何かを見ていこうとするものではない。まずは御嶽の位置や内部に何があるのか。そして何故御嶽を置くのか。村が移動したとき、あるいは新設したとき、村が統合・分離したときに御嶽をどうしたのか。村を新設したときに御嶽を配置しなければならない理由は何か。近世になると土地制度と密接につながっている姿がみえつつある。
どうも人が集まり集落をなすと御嶽を設ける性格を持つ民族(集団)なのかもしれない。そういった性格をもつ集団が近世になって貢租や土地制度が明確になってくると村における御嶽を中心とした祭祀が国の統治と連動してくる。各地のグスクの按司を首里に集居させることと、聞得大君を頂点としたノロ制度が祭祀を通して末端まで統治していく仕組みをつくったのではないか。グスクに住んでいた按司の首里への移居は村や集落が低地へ移動するきっかけになったと考えている。それがまたグスク内の祭祀と深く関わってくる。近世の村や集落の移動は、人口の増加もあるが低地や河口の開拓と結びついてくる。
御嶽やグスクの踏査はまだ僅かである。この踏査は「御嶽が何か」を目的にしているものではない。御嶽を通してムラ・シマがどうとらえることができるか。さらに首里王府が琉球国を統治していくために、御嶽を拠点にまとまった村(ムラ)や集落が何故祭祀を必要とし続けてきたのかを明らかにできればと考えている。「祭政一致」も答えの一つかもしれないが・・・。
⑲合併村と御嶽(ウタキ)
具志堅では御嶽(ウタキ)はグシークやウガーミと呼んでいる。具志堅は明治36年以前に三つの村(ムラ)が合併した村(ムラ)である。明治36年以前に合併した村の御嶽(ウタキ)が合併によってどうなったかである。事例として本部町具志堅について報告する。
具志堅は具志堅村と真部村、そして上間村が合併した村である。具志堅村は『琉球国由来記』(1713年)にすでにあった村である。ところが真部村と上間村は『琉球国由来記』に登場していない。するとこの二つの村の成立は1713年以降だと思われる。ただし、上間村は1500年代に成立し、その後消滅し、さらに1713年以後に再び登場する村のようである。上間村の流れは不明の部分が多い。真部村の成立時期もはっきりしないが、1738年以降の『御当国御高並諸上納里積記』に具志堅村と並立して出てくる。
それらの三つの村が明治初頭かそれ以前に具志堅村に統合されている。三つの村の統合の痕跡として、昭和16年に具志堅神ハサーギ(ウイハサーギ)・真部神ハサーギ・上間神ハサーギを一つにしていることや、フプガーの湧口の三・三・三の組み合わせなどに見ることができる。神ハサーギの統合は昭和村の統合より後のことである。村人には三つの神を一つにまとめたとの認識がある。
統合された三つの村と御嶽(ウタキ)についてであるが、具志堅村の御嶽は現在の御嶽である。『琉球国由来記』に出てくる具志堅村の御嶽は「ヨリアゲ森:神名中森ノ御イベ」である。ヨリアゲ森は、現在の具志堅の御嶽に想定できそうである。真部村の御嶽は登場しないが、真部(マン)原にあるフプガー後方のウガーミである。具志堅村と真部村の御嶽(グシーク・ウガーミ)は確認できるが、上間村の御嶽の存在がはっきりしない。それは上間村は一般的な集落の展開とは異なっているようだ。どうも、尚円王や尚真王につながる伝承が上間村を成立させているのではないか(詳細は略)。
具志堅の御嶽(ウタキ)はグシークと呼ばれている。杜全体がグシークで、他の村同様、グシークと呼んでいる杜全体が御嶽である。その内部に昭和16年にお宮(ウタキ全体)や本殿(イビ)や拝殿(イビヌメー)を建設している。明らかに大和式の配置の形式を意識しての建設である。本殿はイビ(祠を建設したが火事で失っている)、拝殿はイビヌメーに相当する。拝殿(イビヌメー)の祠にウガーミに向けての遥拝の香炉が置かれている。真部村の御嶽(ウガーミ)への遥拝である。村が統合されても元村の御嶽も引きずっている。
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▲グシークとウガーミの遠景 ▲グシークの中の本殿跡(イビ)
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▲具志堅の拝殿(イビヌメー) ▲お宮への登り口
2004.8.3(火)
「さて、さてっと」と言いながら、なかなか腰があがりません。何から片付けようか思案中なり。東京から「くず万頭」が届きました。冷やしています。「心地よく口の中で溶け合います」とある。早く口にしたいものだ。ありがとさん。
午後から本部町具志堅の原稿の整理にはいる。今週中に50頁の編集作業を完了しなければならない。休みすぎたワイ。では、馬力をかけて片付けましょう。
2004.8.1(日)
8月となりました。先日「今帰仁村役所」の看板が届けられていた。その看板は昭和22年に建設された役所の玄関に掲げられていたものである。敗戦後仲宗根区の事務所に間借りし、それからコルセットの建物、そして昭和22年に楠木を使った78.5坪(戦前の建物は60坪)の赤瓦屋根の建物が建設された。
資材のない時代、山から楠木を切り出し柱や床、そして壁板のほとんどが楠木だったという。この看板も楠木である。50数年経った今でも楠木の香りがする。
(横 123.5cm 縦 28.5cm)