2005年1月

                                       
 地域研究(もくじ)


2005.1.29(土)

 
・午前中今帰仁小学校の学習の打ち合わせ(2月16日と18日授業)
 ・お昼頃、千葉大学教育学部の生徒達。沖縄の歴史
 ・4時過、県芸大の仲本氏来館(道具を使っての話)
 ・千代泰之氏来館、石野さん案内
 ・沖縄海事広報協会から助成金の内示連絡あり(感謝)


 
今朝の琉球新報に「球美のグスク展」(久米島自然文化センター)開催の記事がある。期間中に訪れたいと思う(しっかり回復してからと言われそう)。はい

 入院中に「久米島ゆきノート」を作成していた。「久米島に行くと何故か山原的だなあ」と、なんとなくではあるがそう思う。ノートには「山原的だと奥深く感じるのは、わたし一人なのかもしれない。それは、なんだろう? そのことを体でつかみたいし、島の人たちの眼や声を通して見つけたい。他人の眼を通したら見えるかもしれない。そんな期待がある・・・」と記してある。そのキーワードはグスクだろうか。それとも集落だろうか。グスクと集落との関わりで見ていくが、現場でどんでん返しがあれば、なおおもしろい。

 以前から久米島の具志川グスク内にある「天正戌□・・・」の石が気になっている。天正(1573~1591年)戌□と刻まれているのは日本年号である。削られた石なので入口あたりに積んであったものであろうか。当時、琉球は中国年号を使うのが常識である。それも大和年号を使っての記載は何を語ろうとしているのだろうか。天正年間に戌□は戌寅(1578年)と戌子(1588年)があり、どちらだろうか。
  
【具志川グスク周辺の地名と集落】
 具志川グスク周辺の小地名を拾ってみる(『久米島の地名と民俗』仲村昌尚著)
 ・具志川グスク(グッチャーグシク)
 ・ナーグシク(中城か)
 ・メーガニク(前兼久)
 ・シリガニク(後兼久)
 ・ジョーンタ(門の田)
 ・ミーフガー(トゥーシともいう)
 ・グッチャーガー(具志川井)
 ・オーナジ(青名崎)
 ・大和泊
    
 このグスクには「具志川間切城主由来之事」(『琉球国由来記』:1713年)があり、具志川グスクについて以下の築城伝説がある。

   具志川グスクのあった場所は、昔は御嶽であった。仲地仁屋がこの所にやってきた。その折、
   真ダブツ按司が青名崎という所にグスクを立てる計画である。石垣を築きかけた頃、仲地仁屋
   が見立てたところ、此地にグスクを立てることは適当である。グスクを普請し成し遂げ移すこと
   になった。その年号は伝わらず。

   具志川城、昔ハ嶽ニテ有ケルニ、仲地ニヤト申者、楫作ニ、彼所ヘ参ケル。其折節、
   真ダフツ按司、青名崎ト申所ニ、城立ノ企ニテ、石垣築キ掛ケル砌、仲地ニヤ、見立
   ニ、此地、城立可然由ニ付、當城普請、成就イタシ、移徒セラレケルトナリ。其年ノ年
   号、不相伝、世話物語有之也。
 
 具志川グスクと関わるムラは具志川ムラであろう。集落の動きを『具志川村史』で整理してみると数回に渡って移転している(現場確認してみたいものである)。
  ①具志川グスクの麓の前兼久・後兼久
  ②具志川グスク落城後(16世紀初め頃)南側の田尻原へ移転(段丘地)
  ③18世紀頃仲村渠村に接した田尻に集居する。
  ④乾隆15(1750)年に松の口原へ移転する。
  ⑤1800年代になって疫病で村人の過半数が病死する。再び仲村渠村の
   西側へ移転する。
  ⑥狭いので松の口原へ移転するを願いでて明治27年から大正時代にか
   けて移転する。

【具志川グスクの築城】  
 私は上の具志川グスクについての記録(18世紀初期)に関心を持っている。
  ・グスクの場所は御嶽であった
  ・グスクを築いた人物(集落出身者ではないこと)
  ・グスクの場所の選定
  ・グスクと集落との関わり
  ・グスクは自然発生的に築かれたものではない事例
  ・御嶽と集落は自然発生的な関係にある

 
  ▲久米島の具志川グスク遠景        ▲グスクからみたミーフガーあたり

 
  ▲グスク内の崩壊したままの石垣      ▲天正□□と刻まれた石

       (上の写真は平成13年11月23日撮影)

 

2005.1.27(木)

 ボツボツ復帰します。まだまだ調整中。気持ちよく一日座っていることができました。少しずつ体を慣らしていきます。明日は抜糸なり。いい休養になりました。今帰仁グスクに初登り。登ったのはいいが、下りで息切れ。「久しぶりだね館長。コーヒーあげようか?」「いえいえ、今日は・・・」とお断り。締め切り原稿の校正で出勤。

 今帰仁グスク内の桜は一分も咲いていませんでした。2月の10日頃が見ごろかな。

 車降りずの八重岳まで。桜は頂上部と麓は三分咲き。何故か中間あたりが全く咲いていませんでした。頂上部から咲くとか、北から咲くとか。法則のようなものもありますが、現実はもっと複雑で豊か。人間は一つの答えを求めるクセがあるような。

 やはり、動き回ることが健康的。クダクダの自分は、歴文の仕事にむかず。反省しきり。しばらく、職員をはじめ、多くの方々にご迷惑をかけます。

 
              ▲本部町八重岳の頂上部付近の今朝の桜の様子

 


  突然、このページをお休みしました。心配かけました。
 ボツボツ動きます。また、よろしく! 


2005.1.15(土)

 
今帰仁グスクに立ち寄る。桜の開花の問い合わせが多々あるので、その確認。桜の咲きはまだまだ。木によってはポツリポツリの状態である。1月下旬から2月上旬が見ごろか。

 今日の「今帰仁グスクに立つ」ゆきは、半年間(約10回)の「南風」二回目の原稿書きのためである。どうも現場に立たないと書けなくなっているようだ。三回目から、現場に這って行かないと書けませんね。私が書けなくなったら以下のテーマ(予定)でよろしく。
①②は原稿書き済みなり。ハハハ

  
山原の歴史散歩(1月17日掲載)山原の歴史散歩
  今帰仁グスクに立つ(1月31日掲載)今帰仁グスクに立つ 

  
島に橋が架かる(2月14日掲載)島に橋が架かる
  ④名護湾岸のムラ(2月28日掲載予定)(下書き済み)
  ⑤塩屋湾岸のムラ(3月14日掲載予定)(下書き済み)
     (4月以降は掲載日未定)
  ⑥奥・辺戸と与論島(4月予定)
  ⑦羽地大川と移動村(4月予定)
  ⑧間切の分割と山原(5月予定)
  ⑨根謝銘グスクと国頭地方(5月予定)
  ⑩運天港・・・(6月掲載予定)
  ⑪未定


 
「今帰仁グスクに立つ」ということはどういうことか。自問自答しながら。もしからしたら、今帰仁グスクに立つことは、支配者の視点ではないのか。それも必要とするが、今帰仁グスクを支えた他のグスクやムラからの視点も大事。回りのメンバーの眼を借りながら書き綴っていく予定。 

 
             ▲グスク内の桜の今朝の様子。まだです。 

 
         ▲よくよく見るとポツリ、ポツリ咲いていました。 

 
    ▲北風がビュービュー。しかし、沖縄の海は青い・・・。そして歴史の厚みも・・・ 

 
     ▲本丸と隣接してあるアザカ         ▲グスク内の火神の祠と石燈籠


2005.1.13(木)

 『補遺伝説沖縄歴史』島袋源一郎著(初版昭和7年)の口絵(1951年版)に金武間切恩納ノロの辞令書二枚が掲載されている。一枚は「辞令書等古文書調査報告書」(昭和53年:沖縄県教育委員会)で紹介されている(ただし、出典が鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』となっているが誤りか?)。ここでは『補遺伝説沖縄歴史』島袋源一郎著(1951年版)の写真で紹介する。

 恩納のろ家は、現在の恩納村恩納にある恩納ノロ殿内のこと。辞令書はきんまきり(金武間切)となっているのは、恩納間切の創設は1673年に金武間切の一部と読谷山間切の一部でできた間切である。二枚の辞令の時期恩納(村:むら)は、まだ金武間切内の村であった。

 『補遺伝説沖縄歴史』は昭和7年発行である。二枚の辞令書は額にはいているので、ノロ殿内に掲げてあったものかもしれない。①の「しよりの御ミ事」や「きんまきり」とかな表記で、古琉球の形式の辞令書である。また②は「首里」「金武間切」と一部漢字が充てられ、辞令書の発給年月日に干支がまだ記されていない(上記報告書で上江洲俊夫氏がすでに指摘されている)時期のものである。②順治15年の翌16年の辞令書から干支が記されるようになる。そこで辞令書の表記の形式が一部変更があったことになる。

①金武間切の恩納のろ職補任辞令書(万暦12年5月12日:1584年)
    しよりの御ミ事
      きんまきりの
      おんなのろハ
        もとののろのくわ
      一人まかとうに
     たまわり申候
    しよりのまかとうか方へまいる
   万暦十二年五月十二日

②金武間切恩納のろ職補任辞令書(順治15年7月28日:1658年)
   首里乃御ミ事
     金武間切の
     おんなののろハ
      □□□□□
    一人□□の子に
    たまわり申候
   順治十五年七月廿八日
              (□□□の部分の判読は改めて挑戦)
 
        ▲①の辞令書             ▲②の辞令書

 
  ▲恩納村にある恩納ノロ殿内(戦前金武間切恩納のろ補任辞令書を持っていた)

17.泊港(那覇市泊)
 
山原の津(港)や異国船の漂着史料、あるいは山原船の往来を見ている泊村や泊港が度々でてくる。各地に漂着した船や漂着人があったとき、泊村や泊港へ廻船、漂着人は移送されている。それとは別に山原船の泊港との往来の記事が数多くみられる。

 山原の津(港)や山原船との関わりで、どうしても見て置かなければならない港である。近々訪ねてみることに(ただ、泊についての知識がないのでメモでも)。
 
 最近「近世琉球における対「異国船漂着」体制」(渡辺美季)(『琉球国評定所文書 補遺別巻』浦添市教育委員会発行)の論考を目にした。異国船の漂着したときの対応から首里王府の体制を明快にされた論考である。異国船港を扱いながら、モヤモヤしていたのが一気に吹き飛ばすことができた(あり難いものです)。泊村にある泊御殿蔵敷は「琉球の漂着民収容センター」だとしている。漂着船や漂着人達を泊港へ泊村へ役人が動いている意味がよくわかる。

(メ モ)
  ・泊はトゥマイという。
  ・『琉球高究帳』に、西原間切泊町とある。
  ・泊には頭取・糸正・泊筆者・鳥島与人・鳥島船筑・泊佐事・鳥島船佐事などがいる
   (明治29年まで)。
  ・天久台地上に烽火台が設置された(1644年)。
  ・泊村は首里王府の直轄地となったことがある。
  ・安里川の下流から河口に至る右岸地域。
  ・奄美の島々、沖縄本島北部や周辺の島々との往来。
  ・首里王府への国頭地方の貢納物を運ぶ船は泊港へはいた。
  ・察度王時代(1350~1395年)頃は泊港が中山の湊であった?
  ・泊湊を出て奄美を服属させた(尚徳王時代:1461~69年)
  ・安里川の中流域の安里橋(今は崇元寺橋)と泊高橋があり、その間に発達した村。
 ・前島は泊村の前方の島(デルタとなっていて、塩田が発達)。
  ・泊御殿・・・大島倉がつくられ奄美の島々、そして山原地方の貢納物を集積した。貢納船の
   事務を掌る官吏が常駐するようになる(島津進入後廃止)。
  ・硫黄鳥島から硫黄を泊に陸揚げ。崇元寺の近くにあった硫黄倉に貯蔵。硫黄の洗練は硫黄倉
   (洞窟)と硫黄グスクで行なわれた。
  ・崇元寺は泊村のうち。
  ・「ペリー訪問記」(1853年)にTumai
  ・「フォルカード日記」Tu-mai
  ・山原地方から薪・炭・材木・山原竹など。泊から日用雑貨。
  ・戦争で破壊され昭和29年に開港する。
  ・復帰まで本土航路の貨物船や旅客船が就航する。
  ・現在は本島周辺の離島との定期貨客船の発着港。

  (工事中)

2005.1.12(水)

 「4人展 
R(あ~る)
が始まる。朝は今泊のオバー達が大勢で見学にやってきた。市場がテーマになっているコーナーがあり、現在の市場と昭和30年代の市場が話題に。物を持っていき青空市場で物を売る。あるいは物々交換をした体験を持った方々である。作品をみて、市場から共通の話題をみつけ、言葉を発して元気に帰っていきました。若者には受けないかもしれないが、それが歴文スタンスの展示会。

 特別展は2003年大学(芸大や美術)を卒業したメンバー4名である。これからの作品づくりのスタート、そして励みのきっかけになれば幸いである。

・酒井初海
・具志堅睦子
・崎浜一平
・平良加代子


   (工事中)

 

 

 

 


2005.1.9(

  10日(月)と11日(火)は
閉館です。

 
特別展作業中です。後二日で完了する予定。まだ作業中なり。
特別展
「4人展 R(あ~る)1月12日(水)~23日(日)までです。若者たちの作品はなかなか面白い。これから多くの作品を創作していくでしょう。楽しみです。

 詳しい紹介は、展示作業が完了してからです。お見逃しなく!タイトル、キャブションもまだですね。明日、明後日で仕上げます。本日は、これまで!


 

 

 
正月早々「縁起が悪いな」と思い書き記さなかったのがある。屋嘉比川の下流域左岸にムランジュ(村墓所)がある(大宜味村田嘉里)。近くに現在サバニやボートが数隻置かれた場所がある。そこから根謝銘グスクが見える場所である。舟置き場から100m足らずの場所に龕屋(ガンヤー)がある。龕は亡くなると遺体を柩にいれ、その柩を納めて家から墓まで運ぶ道具である。火葬になってからは、龕は使われなくなった。

 その龕が辛うじて原型をのこしたままある。貴重な現物資料である。この龕屋に関わる史料が「与論・国頭調査報告書」(1980年:沖縄国際大学南島文化研究所,135頁)で宮城栄昌教授(故)が報告してある(下に全文紹介)。

 国頭村浜と大宜味村田嘉里の両字で使っていた龕を分離した時の史料である。下の龕屋は大宜味村田嘉里にあり、「昭和十八年八月落成」とあり、新築した龕屋と龕と見られる。近々、浜の龕屋やこの龕屋について調査する予定。

  
  ▲大宜味村田嘉里にある龕屋と龕         ▲同龕屋内にある龕

 
   ▲龕屋の内部にある龕と道具        ▲「昭和十八年八月落成」とある

【龕史料】(国頭村字浜共同店沿革史より)
  昭和18年1月17日、龕修理ノ件ヲ協議シタルニ新建設ニシテ分離スルコトニ決シ、直ニ
  田嘉里部落ニ折渉シタルニ、現在ノ龕ニ大修理ヲカケ、尚ホ別ニ龕1個ヲ新造シ、両字ニ
  於テ確実値段ヲ定メ抽籤ニヨリ龕ヲ受取リテ分離スルコトトナレリ。

  同4月15日、金壱千百円也ニテ新旧龕ノ新修築ヲ名護町親泊完修氏ヘ請負契ヲナセリ。
  同7月30日、新旧・分離申合ノ為メ、字田嘉里字浜ノ2ケ字幹部会ヲ開催シ、左ノ通リ議決確
          定セリ。
   1.龕工親泊氏ヘ金五拾円也賞与ノコト
   2.新旧龕ノ評価決定
     金七百円也 但シ新龕価格
     金四百円也 但シ旧龕価格
    右ノ価格ニテ両字抽籤ノ結果、新龕ハ字田嘉里、旧龕ハ字浜ニ当リ、各分離スルコトト
     ナレリ。
  同8月1日
   1.新旧龕ノ新修築終了御願並ニ旧龕ノ33年期一切ノ御願ヲ終了シ、後龕ノ分離御願ヲ
     行ヘリ
     分離行列、御願終了後直ニ上原区長、仲原会計ヲ前棒、金城兼徳氏ヲ後棒、旗持ハ
    大嶺、宮城両村会議字有志等ニテ田嘉里旧龕屋ヨリ途中行列賑々シク浜ノ新龕屋ニ
    安置セリ。
   2.龕評価及龕屋新築費御願費其他一切経費報告(一切経費金七百拾六円壱銭也、共同店
     支出) 

    左ニ将来ノ参考ニ御願奉供物次第ヲ記ス。
       着手御願        中御願       落成御願
     扇  2本          同 上      豚頭皮共1頭分
      筆墨各2本           〃       足骨4ツ
      白紙20枚            〃       内臓各部ヨリ
      酒  3合          〃       エビ14
      線香j燐寸           〃       カミ14
      米ウンパナ9合       〃       白米1升
      豆腐5合           〃       扇子1本
      昆布種油          〃       筆墨2宛
      白モチ1組         〃       白紙20枚
      洗モチ1組         〃       肴ハチ2ツ
      醤油肉1斤         〃       丸魚2ツ(両方)
      ウチャヌク14(一方7ツ宛    〃       スクカラス14
      卵2個            〃      鶏2羽、卵2個其ママ酒2升
  龕ノ修理御願33年期御願一切終了済、龕屋ノ年期御願ハ未了ナリ。


2005.1.8(土)

 
今朝、今帰仁村古宇利島に渡る。2月8日に橋は開通するようだ。島の出入り口である港を、橋の開通前にもう一度訪ねておきたかった。運天港から7時25分発の便で古宇利島に渡り9時50分の船で戻る。天気はくもり。海上の波少し高し。

 都合よく玉城信男先生が同船に乗っていたのでウプドゥマイ(大泊)や船について立ち話でうかがうことができた。また、寝起きだったのか鳩の巣の髪型(サザエさん風?)をした小浜区長さんが、来年工事の入る神アサギと古宇利大橋の橋詰め付近の案内をしていただいた。目ぼしいサバニがないか漁港あたりも歩いてみた。早朝の大急ぎのウプドゥマイ回りであった。島のお二人には感謝。

 ウプドゥマイ(古宇利港)と運天港を結ぶ航路は戦後のことである。戦後間もない頃まで、古宇利島と運天(クンジャー浜、戦後運天港)を結ぶワタサー(渡し舟)はくり舟→サバニ→伝馬船・山原船→焼玉船→ディーゼル船へと変遷をたどる。戦前は定期のワタサー舟があったわけではなく、本島側へ、あるいは古宇利島に用事があると舟を頼んで出してもらっていたという。

 明治後半から大正初期にかけてはヤーヌクヤ(上間喜吉氏)がサバニと伝馬船の二艘でやっていた。その後のことは『古宇利島のかがり火』(玉城信男著)でまとめられているので詳細は『古宇利誌』に譲ることにする。

 ワタサー(渡し舟)の舟着き場(チグチ:津口)と呼ばれ、古宇利島側はウプドゥマイとグサブー、運天側はクンジャー浜である。不定期なので客がいると旗をあげたり、煙を出して合図した。サバニで渡るときは、濡れるのを覚悟で皆で漕いだり、ユー(海水)をくみ出したりした。伝馬船は多くの荷物や人を運ぶことができる。ところが、風まかせのところがあり、向かい風にあたると一時間以上もかかったという。

 戦後三年間はサバニと伝馬船がワタサーをしていた。競いあってやっていた時期もあるが、伝馬船が共同組合経営となってからは船頭はトーヒチ屋とゴンペー屋となる。昭和20年10月1日今帰仁村陸上競技大会の当日、応援に向う島の人たちを乗せた伝馬船が転覆するという大惨事が起きた。この出来事をきっかけにエンジン付き船(焼玉船:ポンポン船)となり、渡し場は運天港へと変る。

1948年8月~1953年 第一古宇利丸就航する(台風で破損)。
1953年8月~宝玉丸(中古)が就航する。
1954年9月~1969年8月 第三古宇利丸(台風で炬港口で破損する)
1970年1月~  第五古宇利丸(フェリー)
1984年1月~現在 第八古宇利丸

16.ウプドゥマイ
(今帰仁村古宇利)
 
ウプドゥマイ(大泊)は舟が碇泊したことに由来するのであろう。古宇利島の南側に展開した集落の前方にウプドゥマイがある。戦後、焼玉エンジンの船になると桟橋が必要となり第一桟橋が建設された。橋桁はドラムカンを利用し、それにコンクリートが流し込んである。
 
 焼き玉エンジンの船の頃、冬場や波の荒い日にはタイミングを見計らって飛び降りなければならず、また干潮時に接岸したときなどは、桟橋より船が下になるので荷物を投げたり手渡ししてから降りた。船の乗り降りに苦労があったという。

 
  ▲シラサ辺りから見たウブゥマイ      ▲フェリーの発着場からみたウプドゥマイ

 
   ▲戦後間もない頃に作られた第一桟橋(現在)。脚はドラムカンにコンクリートを

 
   ▲古宇利漁港の様子           ▲古宇利大橋。橋詰広場の反対側から

『球陽』
尚敬王7年条(1720年)(角川書店 262頁)
   
今帰仁郡古宇利邑の大城、水梢七人を率ゐ、四幅帆船に坐駕す。亦山川・玉城等は、
    水梢十九人を率ゐ、七幅帆船坐駕す。康煕辛寅の年春二月の間、那覇津より一斉に開
    洋し、読谷山外に回至して、徙に逆風に逢ふ。七幅帆船、礁を衝きて破壊す。大城の船、
    他の船と相離るること一里許りなり。大城遥かに山川の破船するを看るや、即ち其の処に
    到り、二十名を撈救す。此の時、波涛稍ゝ静まり、風未だ吹きて順ならず、以て直ちに回
    り難し。只風に任せて沈浮し、諏訪瀬に飄到す。彼の島より供給養贍して、本国に回り来
    る。是の年に至り、褒美を荷蒙し、黄冠を頂戴す。


※康煕辛寅→?
  諏訪瀬島は奄美大島の北方にある島のひとつ。

『球陽』尚育王12年条(1846年)(角川書店 551頁)
   本年4月26日、今帰仁郡古宇利村の洋面に異国船一隻の到来する有り
    其の船、古宇利村二三里許りの洋面に湾泊す。人数六名、杉板一隻に坐駕して□来し
   上岸す。手を用つて比勢し牛・羊・蔬菜等の件を請求す。随ひて牛一疋・羊二疋・蒜二升
   五合・□蕎四斗を給するに、即ち本船に回る。翌27日に至り、又該人数八名、杉板一隻に
   坐駕して□来し上岸し、蕃署・蔬菜等の物を求む。随ひて蕃署二十斤・□蕎一斗を給する
   に、即ち本船に回り、遂に亥子方に向ひて駛去す。其の船形・人相、絵図と対看するに、恰
   も阿蘭陀に似たり。

 1846年6月6日(旧5月7日)運天港にフランス艦船が三艘やってきた。フランス艦隊がやって
 きた10日前くらいである。

 この記事の「船形・人相、絵図と対看するに」が非常に興味深い。それは、「山原の津(港)と山原船」のまとめ」で報告するが、首里王府の達(たっし)が末端まで浸透し機能している様子が伺える。貢租や祭祀においても同様なことが言えるのではないか・・・。


2005.1.7(金)

 
午後からミーちゃんの取材あり。5歳くらいかと思っていたら、すでに10歳になっているようで。それにはびっくり。今日もすまして玄関口で、ポーズをとっています。2月に今日の働きが雑誌(『猫の手帖』3月号)に載るそうです。「ねこのいる博物館?でしょうか」編集部のカブラギさん、マツダさんご苦労様でした。ミーのウラ話はうし○さんがしてくれました。

 
           ▲雑誌の取材でポーズをとる今日のミーちゃんでした。

 
『球陽』の以下のような記事を見ると、現場に足を運びたくなる。久志間切(現在名護市)の嘉陽・安部、そして金武間切の祖慶(現在は宜野座村)は御嶽や神アサギなどの調査で行っている。伊計村(伊計島)もである。近々、200年前のこの出来事を頭に入れて見に行きたいものだ。そこでいう六反帆船は山原船であろうし、琉球船なので異国船の漂着とは自ずと首里王府の対応は異なってくる。人命救助をした功労として、それぞれ褒賞し爵位を授けている。

 『球陽』尚成王即位元年(嘉慶8年:1803)(『球陽』角川書店453頁)
   久志間切嘉陽村の人十三名、安部村の人十二名、六反帆船二隻に駕して、与那原の津口
   に至り、既に公用の楷木を納む。返棹の時、与那城間切伊計村洋面に在りて、風に逢ひ破
   船す。其の村の島袋筑登之・宮城筑登之・宮里筑登之・内間仁也・武太内間・樽金城・真佐
   新里・牛比嘉等八人、其の外同郡の人十二人、之れを視て、小舟八隻を焙□ぎ発して、人皆
   援救し、金武間切祖慶村前に到り上岸す。衣を換へ火を□湯を飲ましめ粥を仡せしめて性
   命を救活し、本籍に送還す等の由、其の郡の各役、朝廷に禀明す。且島袋筑登之等は、上
   届丁巳・己未両年、鳥島船の危急并びに泊村馬艦船打破の時、両次人命を救助し、今に至
   るまで三次、殊に嘉すべきこと有り。是れに由りて各爵位を賞賜す。

 
    ▲船の遭難時は、そんないい天気ではなかったでしょう(伊計島:2004.3) 


2005.1.6(木)

 
特別展「4人展 R(あ~る)(1月12日~23日)の展示作業に入る。

    (工事中)


 
国頭村の安田漁港をゆく(元旦)。現在漁港として整備されているが、山原船が往来していた頃の港とは異なる。また、漁港あたりは必ずしも、かつての港ではない。

 明治14年安田村を訪れた上杉県令日誌に「古堅家ヲ発ス、路左ニ折レ、薯圃ヲ貫キ、海浜白砂ノ間ヲ過キ、両舟ヲ買ヒ、纜ヲ解ク、夫レ安田港ノ勝概タルヤ・・・・山原船数艘碇泊シ・・・」とある。

 安田村に漂着した朝鮮人にどう対応しているかは、首里王府の機構が地理的孤島と言われる沖縄本島の末端までどう機能していたかを知ることができるし、さらには首里王府が異国に向けた姿勢が窺える。また、安田から辺戸岬を回り西の海上から泊へ移送するか、それとも東回りにするか。単なる風波だけの問題ではなく、与那原あたりから陸上で泊まで移動ことは、琉球国の内情を異国人に知られることになる。

 そのため、一部陸路(前例があった)を通り、西コースで泊まで移送している。在番や検者、横目、御物奉行、御鎖之側、大夫、通事、医者、評定所筆者などの首里王府役人の動きそのものが首里王府の異国船や異国人への国策としての対応である。

15.安田港
(国頭村安田)
 国頭村安田港ゆきは、乾隆59年(1794)に朝鮮人十名が安田村いふ干瀬に漂着した出来事があったからである。安田のシニグやウンジャミグヮーや神アサギの調査で何度かきている。今回は「朝鮮人十人国頭間切安田村江漂着ニ付送届候日記」の様子を200年前の出来事であるが、いくつか確認しておきたかった。伊部干瀬は現在の漁港付近ではなく伊部集落沖の干瀬とみられる。

 朝鮮人の漂着とは別に、1853年7月21日にぺりー一行が伝馬船二艘で「あだか」にキャンプを張り、22日には出帆している。


 
『国頭村史』から概要とまとめてみた。
  1794年1月30日明け方数十人乗りの七反帆唐(朝鮮)船が国頭間切安田村の伊部干瀬に10人漂着した。乗組人が浜にたどりつくのを遠見番が見つけ番所に報告した。番所から検者知名筑登之親雲上と在番松崎筑登之親雲上の名で飛脚を出し、三司官与那原親方に届けられ、さらに国王尚穆に伝えられた。首里王府が朝鮮人だとわかったのは2月9日である。
  2月4日に出された鎖之側富盛親雲上から以下のような「覚」は唐人としてである。それは間切在番と検者に出されている。途中から朝鮮人扱いとなる。

   一漂着唐人へ地下人不相交様、堅固可申渡候事
    一唐人罷居候近辺、女往還堅禁止之事
    一大和年号又は大和人之名乗并斗升京分唐人へ見せ申間敷事
       附通用之金相尋候ハバ鳩目金相用候段可答事
    一村中火用心能々入念候様毎晩申渡、検者ニ而其首尾可申出事
    一村中ニ而大和歌仕間敷事
    一唐人滞在中御高札掛申間敷事
      右之通堅固可被申渡置候以上
 
 その「覚」は、琉球国が薩摩の附庸国であることを知られないための対応の仕方である。那覇(泊)への移送は、海路と陸路の意見がでたが陸路に決定する。安田村から西海岸の奥間村(国頭間切番所あり)に出て、同村のかかんず(鏡地)の浜から乗船する手はずとなる。鏡地の浜に長さ三間、横九尺の小屋が作られ、そこが仮の宿となる。

・9日朝五ツ時分安田村を出る。夜の五ツ時分に鏡地浜に到着する。
10日「朝鮮人が順風次第奥間村から泊へ向けて出船の予定。
18日国頭間切地船で鏡地港を出発する。
18日本部間切瀬底二仲に到着する。
20日渡久地港に廻船する。
21日渡久地港を出港する。
・同日七ツ過時分に泊沖に到着する。
  (外国船が漂着した場合は、乗組員を移送して泊屋敷に収容し、接貢船
  で中国に送るのが慣例である)
・5月朔j日 接貢船泊を出船する。
・5月20日 順風なく那覇川に戻る。
・6月18日 那覇川口外にて接貢船に乗り付けて出帆する。

 
  ▲ミチブーにつくられた安田の漁港      ▲網にかかった魚をはずしている(1日)

 
【参考文献】
・『国頭村史』国頭村役所発行
・『琉球王国評定所文書』第1巻「
・『沖縄県史料』漂着関係記録(前近代5)「朝鮮人送届日記」参照。

 

2005.1.5(水)

 1月2日(日)は沖縄本島北部の西海岸を北上してみた。いくつか港で足を止めながらである。古宇利島や伊平屋島に虹がかかる。

 
    
▲大宜味村津波と根路銘(道の駅)から虹の架かった古宇利島を見る

 港(津)とは別の関心で国頭村辺土名の「世持之宮」内の香炉をみる。確認できたのは
の香炉である。ただし、磨耗し文字の判読が困難のもある。画像で紹介していない香炉は奥にある、あるいは新しいのに作り変えられていたか未確認。

 
道光二十二年(1842)壬寅 奉寄進 宮里仁屋
  
咸豊九年(1859)巳未十一月吉日 奉寄進 金城仁屋 仲間仁屋
  
咸豊十年(1860)九月 奉寄進 宮城仁屋
  
光緒十一年(1885:明治18)乙酉五月吉日 奉寄進 謝敷仁屋
  
昭和四年(1929)巳己霜月十九日 区民一千五十一人 奉寄進
  
一九五一年十一月十日南米ブラジルヨリ帰国 辺土名上門 記念
                    宮城久保


 
上の香炉の年の記事を『中山世譜附巻』から拾ってみると、明治以前のものは按司や脇地頭が薩州へ使者そして派遣された年と一致している。近世末の御嶽や祠の「奉寄進」の香炉は大和旅と関わるものに違いない。④も合わせ見ると唐旅も含んでいるのかも。

 
道光22年(1842) 
    馬氏国頭按司正秀が薩州へ。7月11日出発し、9月27日に帰国している。
  
咸豊9年(1859)
    馬氏国頭按司正秀が薩州へ。6月初10日出発し、10月21日に帰国している。
  
咸豊10年(1860)
    馬氏辺土名親雲上正蕃が薩州へ。5月29日出発し、9月24日に帰国している。

 
の謝敷仁屋について『国頭村史』(宮城栄昌 258頁)は、
 
 謝敷ナバは1884年(明治17)12月現在なお福州に滞留していた。いつ帰国したか不明
  であるが、辺土名世神への寄進の香炉に「唐旅帰リ、光緒十一年乙酉新門謝敷仁屋」と
  刻んでいる謝敷仁屋はナバのことと考えられる点からみて、彼は1885年中(光緒11年)に
  帰国したのではなかろうか」
と述べている。

1753年山奉行筆者が津口勤番を兼務したとき、辺土名村は宇良・伊地とと
      もに、検者の下で船の積荷などの津口改めがなされた。


 
  ▲国頭村辺土名の「世持之宮」       ▲咸豊九年奉寄進の香炉

 
   ▲道光二十二年の香炉か?        ▲咸豊十年の奉寄進の香炉


 ▲1951年ブラジル帰国の寄進の香炉      ▲地頭火神(辺土名脇地頭)

14.根謝銘グスクと屋嘉比津(港)
 根謝銘グスクと関わる津(港)は屋嘉比川(現在田嘉里川)の河口が港として機能しているが、グスクが機能していた時代は、もっと上流部にあったと見られる。現在の屋嘉比川の河口にサバニが数隻あるのみ。
 
  (工事中)

 屋嘉比川はもう少し上流部まで入江になっていて山原船が出入りしていたという。

 
    ▲屋嘉比川の河口付近(屋嘉比港)         ▲後方の中央部の山が根謝銘グスク

【貢納物品領収旧藩慣例並ニ置県後取扱順序】(明治16年)
(『沖縄県史』14巻)メモ
 
  旧藩ノ節ハ鹿児島上納米ノ払下ヲ買受ケタル商人ヨリ在番役ヘ請取方申出テタル時ハ在番役
  ノ照会ニ拠国頭地方今帰仁本部羽地名護ノ四港ニテ近傍間切ノ貢米ヲ収入シ買請ノ商人ヘ渡
  シ来リシ処明治七年内務省直轄以後ハ藩庁ヨリ石代金上納トナリ人民之貢米ハ悉皆那覇納メ
  トナル置県後モ同シ
    ・貢物納入蔵割
     
那覇蔵納リ
       島尻地方
       一拾五カケ間切
      一 国頭地方
      一大宜味間切
      一国頭間切但安田村安波村ノ義ハ首里ヘ相納候ニ付除ク
      一今帰仁間切
       一羽地間切
       一本部間切
       一名護間切
       一恩納間切
           〆
       一宮古島
       一久米島
       一八重山島
       一 伊江島
       一慶良間島
         弐拾弐ケ間切
          〆 六島
      
首里蔵納リ
       国頭地方  
       一安田村
       一安波村
       右ハ国頭間切ノ内船場運送ノ都合ニ拠リ首里ヘ相納来候
       一金武間切
       一久志間切
         〆
       中頭地方
       一中頭地方 拾壱ケ間切
         〆 拾三ケ間切ト弐ケ村 

 

2005.1.4(火)

  新年おめでとうございます。今年も一年間よろしくお願いします。

 元旦の朝7時過ぎ、名護市源河から山越えで東村有銘にでる。そして本島の東海岸を北上する。朝の東海岸のムラはほとんど見たことがない。それで日の出を見ながら、東海岸の集落の冬の日差しの向きはどうだろうか。確認しながら・・・。俄か雨もあったが、時々朝日が雲の間から顔を出してくれた。

 三方山に囲まれた国頭村安波の集落での日の出は10時近くである。東海岸にあるムラだからと言っても集落の位置によっては日の出の遅いところもある。この道がなく車もなく、隣のムラとの往来も厳しく、役人を除くと一生に一度首里王府の参拝があったかどうかの時代。山原船の往来があったにしろ、陸の孤島としての時代が長かったのである。

 さて、今年のスタートは沖縄本島の東海岸のムラからとなった。

 
 ▲今年は国頭村からのスタートである      ▲東村川田漁港での日の出

 
  ▲国頭村安波集落の遅い日の出          ▲安波川の河口の安波港

 
      
▲国頭村安田集落の朝             ▲安田港の様子

13.国頭村奥港
 国頭村奥に到着すると、まず港の方へ行ってみた。低気圧の影響があってか、港の防波堤から時々波が超えてくる。そこには釣り人が数人。魚の釣れるポイントにちがいない。港近くに明治7年に国頭村宜名真沖で遭難したイギリス船の碇が置かれている。まだ未調査であるが、山原船の頃の港は奥川、あるいは河口あたりだったのではないか。後で見つけたのであるが『奥の歩み』に「・・・天那橋の下方ワナー(和仁屋)もその前は港湾であり、与論通いの船繋場であったが、同氏(金城親雲上地頭代)の時代に埋立て、現在の田地になったそうである」(12頁)とある。

 奥への交通が次第に陸上に変わって行ったのは昭和13年の宜名真・辺戸、そして奥への県道の開通である。昭和16年には海岸線の道路が開通した。一周線の開通は1961年である。荷物などの運搬は、海上運搬に頼っていた。山原船からさらに昭和5年に発動汽船にかわる。明治43年までは個人有の山原船しかなかったが、三隻を共同店で購入し共同店所有となる。それは奥ムラ所有ということになり、船を介しての収入は共同店(ムラ:字)の収入となった(『国頭村の今昔』51頁)。

 奥からの山原船の航路は東コースと西コースがあったようで、西は本部町の渡久地港に寄航し、さらに比謝港(嘉手納)、そして泊港へ。東は安波、大浦湾(久志)、平安座島、勝連を回り、そして与那原へ。一航海は二十日ばかりであった(『国頭村の今昔』51頁)。

 陸上、海上交通の厳しい奥は、明治以降共同店を中心とした、他のムラとは異なった経済組織を形成している。

 ウグヮミグヮーに上がってみた。奥港の方を見ると、沖に与論島が正面に見える。それは以外であった。奥集落の正面に与論島があるとは・・・。冬場の奥港を見ていると、帆船で外洋に出てゆくにはそう簡単ではなさそう。港口は北側に開き外洋に面しているのでなおさらである。

   奥は交通に恵まれないムラで、本島との関わりより北方七里沖にある与論島との交易
   が盛んだった。昭和13年以前は国頭村役所のある辺土名までゆくのに六里の道を草鞋
   であった。また東海岸の楚洲や安田へ通ずるにも峻しい海岸道の馬がやっと通れる道し
   かなかった。・・・唯一の交通機関は山原船と機帆船であった(『奥の歩み』の要約)。

 明治になると奥村は、陸の孤島的な存在が進歩的と見られた大和の制度を積極的に取り入れて行った。王府時代の旧慣といわれた祭祀なども簡略化していく。しかし、生活の中で長年行なってきた祭祀を全て消し去ることはできなかった。

 沖縄本島の北端に位置した奥に、かつての琉球国時代の痕跡があるのではとの、私の常識は覆ってしまった。陸の孤島であったが故に、明治になって逆に積極的に明治政府の政策を取り入れていくことになる。・・・

 昭和11年奥村を訪れた河村只雄は『南方文化の探求』で、奥の様子を以下のように記してある。言葉だけでなく、他のことについても同様なことがいえる。そのことをムラの人たちは進歩的だと思い、さらに誇りにしてきた面もある。イギリス船の碇(いかり)の説明文にもそのことが窺える。

  「・・・その中年男は奥部落へ帰って行くものである。途(みち)づれになって徒然あるままに
   色々と土地の話をきいた。標準語が十分通じる。四、五十位のものならどこでもほぼ話が
   通じる。もっとも首里・那覇はだめである。古き伝統に対する一種の誇りがわざわいしてな
   かなか標準語化しない。小学校の子供でも教室外では全く方言で話し合っている。そこに
   なると田舎は純である。教えられるままに覚え、教えられるままに用いる。田舎の方が首里
   ・那覇よりはるかに標準化している。ことに奥部落はよく標準化し、部落の集会でも標準語
   がよく使用されているという」(河村只雄『南方文化の探求』 53頁 講談社学術文庫)
  
 
    ▲国頭村奥の港への口          ▲奥港近くにあるイギリス船の碇

 
  ▲奥のウガミグヮーから見た集落       ▲ウガミグヮーにある石燈籠と祠

 奥は海運を主としていたので、昭和5年発動機船蛭子丸を購入し、従来の山原船にかえた。さらに昭和12年(16年?)に伊福丸を購入して蛭子丸とかえた。伊福丸は昭和19年の十十空襲で焼かれる(『奥の歩み』39頁参照)。その後、奥丸(19トン)、昭栄丸(21トン)などを新造し海上交通を担っていた。陸上交通が発達すると船は不要となった(『国頭村の今昔』51頁)。

 「奥のアサギンシーは奥河口付近に相当量の仕明地を開き、また山原船で那覇や与那原旅をしながら町屋を経営していた」(『国頭村史』354頁)

「両先島在番往復」(同治4年丑年より同8年)『琉球王国評定所文書』15巻に興味深い史料がある(改めて紹介予定)。
  与論島瀬利覚村兼清船江人数六人乗組当島漂着ニ付御届申上候覚 
  一当三月十五日五ツ過時分小船壱艘当島之内久貝村西表新川泊与申所江致到着、
   ・・・・・・農具買求方ニ付別紙之通津口通手形申請、且同郷之者共先達而国頭間切江
  罷渡致滞留候付、帰帆之砌者右者共乗帰候考を以追々出帆之手当仕候折、国頭間切
  奥村居住平安名筑登之親雲上・同村右同仲嶺筑登之親雲上・同村右同安田子・同村右
  同山内にや・西村宮城筑登之・国頭間切佐手村地船江乗合・・・

1747年津口改めのための勤番が奥村に置かれた。
1753年以後は辺戸村も管轄する。
1793年奥村船が喜屋武間切沖で遭難、乗組員7人は救助される。
1784年大和船が奥海岸に漂着し、乗組員は救助される(球陽)。
1880年(明治13)郵便物が与論島と国頭間切で往還する。