寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究   
     もくじ:トップページ

                 
2023年11月
                 
先月23年10月へ)
    
今帰仁村の戦後60年(企画展)(2008年開催

上国と石灯籠と石香炉

2023年11月30日(木)

 昨日まで沖永良部島。来週には基調講演。頭を切り替えてその準備。船酔いすることがないのだが。今回は往復とも酔ってしまう(腰痛もあって)。そんなこと理由になりません。頭の切り替えに「運天の歴史」でも眺めながら考えてみましょう。まだ、船酔い気分がまだのこっている。(旅先で歯がぬけ、これから歯科医院へ。あれこれ重なって大丈夫かな)




2023年11月27日(月

 腰痛でゴロゴロ、そうは言っておれないので、校正原稿と画像を数点持参で沖永良部島へ。


【石垣市登野城村をゆく】(石垣市)(研修会)2004年10月記録

 28日(木)午前9時半から石垣市四カの一つ登野城村を古地図を手がかり歩いた。「登野城村の古地図を歩く」がタイトルである。案内役は松村氏(石垣市史編集室:当時)である。今日は、受講者の一人である。彼の話や案内はとにかく面白い。

 明治初期の古地図を使っての踏査であった。私にとってみれば「ムラ・シマ講座」の登野城版である。17枚の地図を用意してくれた。それは有り難い。「登野城村の古地図」一枚で十分である。古地図に記された道筋・御嶽・川(井戸)・蔵元・番所・岸・築ましや・抱護林・水蔵・会所・仮屋などの跡地を特定、そして説明あり。至れり尽くせりである。

 蔵元跡からスタートである。今では駐車場になっているが頭の中では描かれた絵をイメージしながら説明を聞く。蔵元の開庁は竹富島で、1543年に大川村へ、1633年に登野城の現在地へ。1771年の大津波で被害にあい文嶺(ブンニ)に移転。不便だということでまた大川村の旧跡地へ。1815年に再び現在地へ移転したという。
登野城番所跡地でも、そのような説明がある。地図にあり、その現場が特定でき、そして変遷を含めた話を聞く。それはまさに実態をつかんだ議論になる。

 美崎嶽・真泊嶽・船着御嶽・天川嶽などの御嶽もいくが、御嶽の説明を聞く。御嶽の鳥居が気になっていたところ、「蔵元火の神」のところで次の記事が目に入った。

   「明治十八年乙酉年二月頃松枝太一氏役所所長の時、現火神
   神社を新築した。西常央役所長の時に神殿を改築して、周圍の
   石垣を築き、神木を植ゑしめ、鳥居を建て、以て神社の形式が
   總て整つたので、明治二十年八月一日遷座式を行ひ、毎年八月
   一日を例祭日に定めて、大阿母を祭司に役所蔵元吏員詣拝して
   盛んに例祭の式を行つてゐた。

 「鳥居を建て、以つて神社の形式が總て整つた」とある。沖縄本島では鳥居の設置は大正から昭和の10年代にかけてが多い。明治5年以前の「古地図」(豊川家所蔵)にある御嶽に鳥居がしっかりと描かれ興味深い。八重山で鳥居の設置が明治5年以前からあったことは、八重山における御嶽の鳥居の設置は明治政府の政策以前のことだと言える。沖縄本島はどうだろうか? 鳥居をみる目が変ってきそう。御嶽は別の視点から見ているのでここでは触れない(メモ:「八重山の御嶽や祭祀、集落は明和の津波の影響が大きいようだ」)。

 下川(ウリカー)も興味が引かれた。ウリカーと呼ばれるように「降り井戸」のようである。降りる部分を石積みにして釣井戸(チンジャ)にしたとの説明がある。「降り井戸」が気になっていたところ、白保にある真謝井戸が「降り井戸」の形を残しているのかもしれない。明和八年(1771)の大津波で埋まってしまう。後に浚渫したとのことが碑の後ろに記されている(メモしたのであるが自分の字が読めません)。今でも水面まで降りる石の階段がある。

...
  ▲登野城の下川(ウリカー)       ▲白保の真謝井戸。ウリカーの様子

 文書にでてくる言葉の解釈の議論も大事である。それと同時に資料に出てくる現場の確認と特定の作業の大事さを思い知らされる研修会であった。参加された方、そして発表者はご苦労さんでした。外間代表はじめ運営委員の方々も。


2023年11月26日(

 20年前の記録メモ(現役最中の頃)です。字誌づくり、墓の企画展など動いている。数日、腰痛で立ったり、座ったりするのに慎重に慎重に。いつまで続くやら。

渡喜仁の字誌 2002.9.21(土)(字誌はすでに発刊済)

 木曜日「渡喜仁の字誌」の編集委員会がありました。「もくじ」(案)をつくり、内容の説明をし、編(項目)の分担に入りかけました。ニ、三の方々が得意とする分野やできそうな編(項目)を受け持つことになりました。十数編あるので、これから随時決まっていくでしょう。

 公民館にどんな資料があるのか、近々調査すること提案したところ、戦後の「議事録」(90頁)があることがわかりました。区長さんがすぐ出してくれました。戦後の基本資料となる一冊が出てきました。ありがたいですね。
 タイトルは表紙に『一九四七年四月 議事録簿 字渡喜仁』とありました。この一冊に1946年10月から1966年10月まで20年間の渡喜仁と直接関わる記事が満載。以下のような事項です(ほんの一部だけ紹介)。

   ・他字他町村ヨリ転入者ニ関スル件(1946年10月)
   ・鶏盗取締リノ件(1947年3月)
   ・道路修理ノ件(1947年5月)
   ・衛生ニ関スル件(同上)
   ・軍部隊労務員賃金支払ノ件(同上)
   ・村夫役出夫ニ関スル件(同上)
   ・区長・書記ノ給料制定ノ件(1948年3月)
   ・区長・書記ノ勤務年限ノ制定(同上)
   ・各戸等級制定ニ関スル件(1948年5月)
   ・天底校修理負担金割当方法(1948年10月)
   ・ララ送り物山羊の配給(飼育者決定)(1949年6月)
   ・輸入馬配給ニ関スル決議事項(1949年7月)

 このように主な項目を並べてみるだけでも、戦後復興期の渡喜仁の様子がしっかりと姿を現してきます。50年余の歳月が、出来事を記憶の彼方に追いやっているが、関わった方々に一つ一つよみがえらせ語ってもらいたい。
 もちろん、この資料から得たものは『渡喜仁誌』に入るものです。特に戦後の渡喜仁の歩みの柱となりますから。「歩み」だけでなく、行政・教育・土地改良・農業・畜産など様々のことを引き出すことのできる資料です。こういう資料との出会いは有難いものです。まだ何冊かあるようだ。取り急ぎ、20年分を筆耕することになりました。
 
 今、墓の企画展をやっています。それに関わる記事を「議事録簿」で目にしたので紹介しましょう。龕道具、それを置く場所が龕屋(ガンヤー)です。

  ・1953年10月7日渡喜仁区龕道具作製。同年10月9日完成す
   但し、他字よりの借金は五十円也とす
  ・龕道具外字使用 一、金五十円也
  ・1954年12月30天底区使用
  ・1954年1月25日天底区T使用  
  ・1954年5月13天底区I使用
  ・1954年8月28日天底区民使用

とあり、渡喜仁で龕(ガンヤー)をつくり龕を隣の天底も貸し出しています。龕は隣接する複数の字で使用していたことがわかります。例えば、上運天にある龕は運天と上運天。謝名にあった龕は謝名・仲宗根・玉城。また与那嶺にあったのは与那嶺・仲尾次が使っています(企画の墓の分布で紹介してあります)。渡喜仁の「議事録簿」から「戦後の動き」を具体的にどこまで記述することができるか。楽しみが増えた。

 
▲戦後の動きをしることのできる貴重な資料「議事録簿 字渡喜仁」


2023年11月25日(

 今朝は、どうにか屈伸ができる。「寡黙庵」で画像と原稿の最終確認でも。

2001.9.29(土)

 広島県、古くは安芸と備後であった時代がある。二人の学生と一人の大学院生が来館したこともあって広島に関心が向く。いつもの癖であるが、安芸・備後の人の顔が見えないか。そんな素朴な思いがあるからである。本土では一筋の川の上流から下流にかけていくつもの市や町や村があるのは普通であろう。ところが沖縄の山原では、一本の川筋に複数の町や村があることはほとんどないといっていい(同じ字(アザ)内の小さな集落はあるが、それが大きく文化を変貌させるほどのものではない)。

 広島市から北上していくと八千代町、吉田町、三次(みよし)市へ。八千代町の上根地区に分水嶺(瀬戸内海から20km、日本海から150km)があるという。司馬遼太郎がその分水嶺に関心を持ったことに興味がひかれた。分水嶺を境にして瀬戸内海、その向こうは日本海に流れるのである。文化が下流域から上流に向かって流れるとするなら、広島県の八千代町が瀬戸内からの文化とするなら、吉田・三次は日本海側の出雲文化が来たのではないかという仮説は今でも脳裏に刻まれている。

 それに比べて小規模の沖縄の水系に適応できる論ではないが面白い。このような視点が山原のムラ・シマをみていくキーワードを見つけ出すことができるかも.......。過ぎ去った学生達が遺していったものに安芸・備後(広島)の顔を、きっと見つけることができたにちがいない.......?

 20年前の記録である。当時のメンバーは、今では40過ぎか。


2023年11月24日(金)

 午前中、腰痛でゴロゴロしているより、立ちぱなっしでのハギリの剪定へ。ちょっとカンナの手入れ。

   

 自宅への帰り際、今帰仁村天底の和呂目原へ立ち寄る。湧川と天底の境界は30年前に行った作業だったので不正確な記憶。ワルミ大橋と命名されているので天底の和呂目原を通っているのであろう(詳細の確認必要)。ワルミ大橋の橋げたの一本がワルミのティラ(洞窟)近くに立つ。その橋げた設置のとき橋げたがウタキのイベにあたるのは避けるべきだと意見したことがある。ワルミのティラは我部村のウタキで1738年に村は屋我地島に移動した歴史をもつ。村は移動したが、ワルミのティラでの祭祀は後々まで行われている。

  
▲ワルミのティラ(我部のウタキのイベ) ▲ワルミ大橋           ▲手前左側が和呂目原


▲天底村が現本部町伊豆味にあったことを示す正保国絵図(本部半島中央部に「あめそこ村」とあろ。

2023年11月23日(

 半年間、赤色(緋色)の花を咲かせ蝶でにぎわったハギリとカンナの剪定。今頃刈りきると四、五月にはまた花を咲かせてくれるかも。ご無沙汰している運天の原稿を復活させるか。

2004.6.24(木)過去メモ

 運天のクンジャーの集落から喜屋原、そして寺原あたりを歩いてみた。『運天の字誌』」の漁業調査のためである。陸上からクンジャーの前にあるリーフの状況を把握するためである。リーフの地名を拾っておきたかった。エービシやクジラマタがある。クジラマタ(鯨又)はクジラがリーフの又になったところに迷い込んだことによるという。

 海に関わる地名ではないが、アガリクンジャーと呼ばれる湧泉がある。位置的にはクンジャー集落の東側(アガリ)にあるカー(湧泉)なのでそう呼ぶ。クンジャーノジャーはカーやジャーは湧泉のこと。クンであるが、クイ+ジャーがクンジャーに転化したのであろう。クイは古宇利のクイやフイ、越地のフイジと同じクイ。すると「越えた(場所にある)湧泉」と言えそうである。

 地名をつける場合、ムラの中心となる場所を軸に名付けられる場合が多い。すると運天のムラウチやムラヤーのある中心部から「越えた場所にある湧泉」に因んだ地名と言えそうだ。何を超えていくのかというと、クンジャー集落に行くには崖を越えて行かなければならない。その崖のことをシガイバンタと言っている。バンタは崖、シガイは「すがる」の方言。その崖道は木の根や草などにすがらないと登れなかったという。シガイバンタは今でもあり、すがらないと登れないほどの崖を切り通した坂道である。

..
   アガリクンジャー            シガイバンタ      ▲シガイバンタから見たクンジャー集落

..
  
  海中の濃い部分がクジラマタ           ▲漁場となる古宇利島との間のリーフ


2023年11月21日(火)


 腰痛で動けず! 二、三日休養です。


2023年11月20日(月 「山原のムラ・シマ


2001.12.13(木)記録

 咸豊七年丁丑「御首尾扣帳」(今帰仁間切番所所蔵)が『宮城真治民俗調査ノート』などに収録されている。この史料の現物が残っている可能性は非常に薄い。文書の一部を抜粋したのであろうが興味深いので紹介する。
   「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場
   八月十一日親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸
   重壱次持参、見物仕申候」
とある。咸豊7年は西暦の1857年、今から144年前のことである。今帰仁間切の番所は運天にあった。番所は明治29年に役場と改称され、大正5年に運天から現在地の仲宗根に移転した歴史がある。

 内容からすると三月三日と五月四日は番所(運天)の前で馬を揃え、皆んなが揃って酒にお重などを持参して見物をした。三月三日は一般的に浜下りの日、五月四日は豊漁を祈願するハーリーが行われる日である。番所前の馬場でお重を持参し休息の日として競馬を応援しながら過ごしたのであろう。アブシバレーは今帰仁間切中央部の仲原馬場で旧暦の四月に日を選んで行われる。

 八月十一日は親泊馬場のある親泊村ではヨーカービーにあたる。その日は島ウイミが行われる。今帰仁のハサギンクァーで今帰仁ノロや神人、そして各門中の代表者が集り、各々御花(お米)、御合水(御酒)、豚肉のお重、それに線香を供えてムラの繁盛と子孫繁栄、五穀豊穣の祈願をする。親泊のフプハサギでも同様な御願をする。その後に獅子舞と棒が行われる。現在も行われているヨーカービーの祭祀と同時に、親泊馬場に村中の人たちが集り馬揃(競馬か)を行い、御酒やお重を持参して休息日にしたのであろう。

(※天底馬場? 20023年11月12日(今月)参照)

2023年11月19日(

 現職の頃、故新城徳祐氏から数多くの資・史料の寄贈があった。氏の15年間のノートや写真、史資料は「なきじん研究10巻」(297頁)にまとめ発刊したことがある。寄贈品の展示会(全沖縄県域)の開催。展示会の様子の一部を画像で紹介)

 筆者(当時館長)はその頃には辞令書やシニグに関心を持っていたことが知れる。
それらの調査・研究の手法は無意識であるが今に続いている。

  

2003.7.31(金)

【上間家にあった辞令書】(写)メモ


 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致するでしょう。

     ・たけのみはる嵩原?
     ・まへたはる前田原(現在ナシ)
     ・とみちやはる富謝原 
     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる穴花原
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる真部原
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない

 のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)
  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる一
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日

【シニーグ】

 具志堅のシニーグの展示(引伸)用の写真を10枚ほどピックアップ。写真は新城徳祐氏(故人)資料(歴文所蔵)から。

 今年は具志堅のシニーグの調査を予定している。34年前と今年とで、変貌したもの、継承されているもの、その視点でまずは調査できればと考えている。シニーグの展示は流れに沿って行う。学芸員実習の学生達も加わるので流れをしっかり把握しておく必要がありそうだ。祭祀の流れを崩すような調査はダメ。特に祭祀に関わる神人や区長さんなどからの聞き取りは、祭祀が終ってからか、日を改めてすること(調査マナーについては、時間をとってやります)。
 
 34年前のシニーグの様子を写真でみると、神衣装を着た神人、白の鉢巻の違い(前、後、長いもの)、帯の結びが前、後と異なっている。太鼓を持ってたたく方、すべてが女性である、さらに衣装の柄など。所作やウタなどもあるようだ。なかなか興味深いものがありそうだ(具志堅のシニーグは初めて調査である)(今のところ予定)。

 
          本部町具志堅のシニーグ(1969.7.25
 

2003.7.30(水)

 8月の予定をみたら、展示作業に使える日数が10日ちょっとしかありません。あせってしまう。まずは、手がけることができるのから。早速、航空写真の引き延ばしにかかる。作業をしながら展示の構想をねるが来客あり。頭の中身はそれに。明日は職員と展示のミーティング。希望のテーマを選んでください。

 上空からみた具志堅と今泊(もう少し周辺まで入ります)のパネル。たて90cm×よこ70cmを作成。数枚つくります。それに地名や拝所やカーなどの情報をいれてます。そこからムラの成り立ちや集落移動や合併などを読み取っていきます。まずは基本資料づくりから。楽しいもんじゃ。ハハハ(何十回やっても楽にはならない展示会ですから。全くのオリジナルを作っていくのだから。だから楽しいのです)。ちょとした情報は、後でいれます。もう一枚大型パネル作成(中身は未)。


           上空から見た具志堅と今泊


2023年11月18日(土)

 天底の拝所とアミスガー、公民館、三岳坂(サンタキビラ)、中央道、学校などを廻ってみた。下航空写真は平成5年、新道路やワルミ大橋が開通しため大部変わっている。


▲今帰仁村天底上空から(平成5年撮影)



【今帰仁村天底】

 天底を見て行く場合、どうしても天底の歴史を踏まえておく必要がある。それを踏まえないでいると、議論がひっくり返る場合がある。「天底」の村名もそうである。移動当初は今の天底の外田原(神アサギ・ウタキ・ネガミヤー・天底ノロドンチがある)あたりに集落が形成され、次第に天底校付近へ集落が移動している。
 
 天底に元文検地(1743年頃)の印部石が一基確認されている。「ノ □□や原」(しつや原か)である。天底村の移動は1719年なので、元文検地が行われたのは村が移動してきた後である。「しつた原」は今の小字にはない。現在の天底は、中福原・山岳原・城石原・後原・安谷原・新久保原・外田原・毛川原・和呂目原・墾謝堂原・地呉骨原の11の小字からなる。


  ・1646年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『絵図郷村帳』)
  ・1648年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国高究帳』)
  ・1666年 今帰仁間切を分割して今帰仁間切と伊野波(本部)間切となる。
         (
天底村は本部間切にはいる)
  ・1668年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国郷村帳』)
  ・1690年頃 今帰仁間切と羽地間切との間で「方切」がなされ、呉我村は羽地間切に組み込まれ
        る。(呉我山地まで羽地間切)
  ・1701年 「元禄国絵図」に「今帰仁間切之内 あめそこ村」とあり、
本部半島の中央部に描かれ
        ている(天底村の位置)。
  ・1712年 『琉球国由来記』では「今帰仁間切天底村」である。(
村の位置は伊豆味付近)
        (天底村故地での祭祀)
        ・伊豆味・天底二ヶ村に「中森 神名:カネマツノ御イベ」とある。
        ・天底村 神アシアゲ  ・天底巫火神
   (天底村・伊豆味村・嘉津宇村は天底ノロの祭祀管轄。伊豆味と天底二カ村の御嶽の中森は
   今の伊豆味のウタキか)
  ・1719年 
天底村が伊豆味付近から現在地に移動する。
   享保三戊戌年天底村今帰仁間切へ村越被仰付候」「當村疲入候付具志堅村へ一応加勢」
  ・1736年 1719年まで天底村と隣接していた呉我村(羽地間切)が1736年に羽地間切(現名護市)
        に移転する。
        羽地間切へ呉我山から湧川地内にあった呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地
        間切内部に移動させ、その地を今帰仁間切に組み入れる。それらの村を移動させると、
        そこに湧川村を新設する。
  ・明治13年 天底村の世帯数73戸、336人。内士族49戸、332人。今帰仁村では士族の比率の高い村。 

  ・明治17年? 「沖縄島諸祭神祝女類別表」
           ・ノロクモイ火ノ神所  ・根神火ノ神所  ・神アシヤゲ  ・クカナレ嶽 
           ・伊豆味に伊豆味の神アシアゲと大島の神アサギがあり、大島のアシアゲは天底の
            故地の神アサギ?)
  ・明治21年 天底に天底尋常小学校が後原に造られる。
  ・大正8年  呉我山が分字した時、天底の三謝原と古拝原と古呉我原は呉我山に編入された。
           (明治36年の「今帰仁間切天底村全図」には三謝原・古拝原・古呉我原がまだ
           天底村にある)

※天底を踏査していると、天底村が移動する前はどうだったのか?頭から抜けていた。
  1738年に湧川村が創設されるが、天底村は移動ししていた(1719年)。
  天底村は大井川下流域の水田地帯に移動。下の地図のピンク色部分。旧今帰仁中学校周辺。

 


2023年11月17日(金)

 2010年に宮古島を訪れている。その後も何度か訪れている。来年早々、宮古島を訪れる予定があり振り返って置くことに。(倭寇や平家の遺跡ではないかと言われているが。明和大津波で移動村のようであるが。)

2010年2月22日(月) メモ  宮古島砂川・狩俣・池間島

 
宮古島の砂川は『絵図郷土村帳』や『宮古八重山両島絵図帳』では、「おろか間切おろか村」と出てくる。砂川間切砂川村なので同村ということになる。近世紀には砂川間切の中心となった村と見られる。砂川の集落は乾隆36年(1771)の明和の大津波以前は、砂川元島遺跡は上比屋山遺跡の崖下の斜面にある。そこら一帯にあっために元島と呼ばれているようである。昭和49年から50年にかけて発掘調査が行われている。砂川元島の発掘調査で屋敷跡、石垣などが確認されている。また、その地に集落が形成されたのは、発掘された遺物から14世紀まで遡ることができるようである。(友利・砂川・新里・宮国は現在の集落は台地上にあるが、1771年の明和の大津波で海岸付近から移動したという:集落移動)

 「上比屋山遺跡」は14世紀~15世紀にかけての遺跡との報告である。集落移動の経過をどう見て行けばいいのか。上比屋山あたりに集落が発達し、崖の傾斜地の砂川元島へ移動し、明和の大津波で上比屋山に戻り、そこから現在地に移動したのか。あるいは明和の津波で一部が上比屋山に戻り、一部は現在地に移動。上比地屋山に移動した人々がさらに現在地に移動したと見ていいのか。近世に移動した人達のモトゥが上比地屋山内にあるマイウイピャームトゥやアミヌヤームトゥなどではないか。

 短時間での踏査なので、危ういが、砂川の村(ムラ)、ムトゥを中心とした集団、そしてムトゥや里(サトゥ)の移動、移動したムトゥや里の人々が故地に何を遺してきたか。ムトゥという集団と祭祀との関わり、さらに複数のムトゥやサトゥをまとめた村(ムラ)やムラレベルの祭祀との関わりを丁寧に見て行く必要がありそう。それと近世の「人頭税」との関わりも。(沖縄本島北部の村(ムラ)とマキヨ、一門や引などの集団、そして一門や引から出す神人、それとムラにあるウタキのイビ。共通するもの、異なるもの。そこから導き出していけるものが・・・。

 
   ▲ウイウスムトゥ(上比屋山内)                 ▲ウファデーラムトゥ(上比屋山内)

 
    ▲クスウイピャームトゥ(上比屋山内)      ▲その森の中にムトゥや屋敷跡や拝所などがある

 砂川では御嶽(オタキ)をムトゥと呼んでいる(「宮古島の祭祀組織」蒲田久子)。そこに①前ウイピヤ ②後ウチピャ ③ウイウス ④ウイダテ⑤パナタ ⑥タカギザマ ⑦テイラ ⑧前キサマ ⑨後キサマ ⑩マイヌヤー ⑪ミャード ⑫ピダモト ⑬イスキデの13のオタキが挙げられている。それらをムトゥと呼んでいるようである。

 森内にムトゥを要(かなめ)とした集団があり、その森全体がウタキ、ムトゥと呼ばれるのは、一族の旧家と見てよさそうである。それらのムトゥと呼ばれる複数の集団で村(ムラ)を構成していると言えそうである。ムトゥとは別に里(サトゥ)があり、それは複数のモトゥの集まりか。村の内部の小さな集団(マキ・マキヨ)に相当するものか。宮古の久松村は11里、平良の東仲宗根は17里からなっているという。このように宮古と沖縄本島(山原)の村の成り立ちを比較してみると、「近世の村」への変遷がみえてくる。

2010年2月20日(土)

 
宮古に着くと、早速狩俣と池間島へゆく。狩俣の集落には大きく四つのムトゥがあるという。四つのムトゥというのは、ウプグフムトゥ(大城元)とナーマムトゥ(仲間元)、ヂダディムトゥ(志立元)、ナーンミムトゥ(仲嶺元)である。狩俣は石垣で囲われ、三つの石門があったという。石垣内に集落を限定したという。人口が増えると他村に移したという。それは人頭税との関わりだろうか。与那国の久部良バーリが思い出される。

 狩俣から池間島へ。そこにもマジャムトゥ・マイヌヤームトゥ・アギマスムトゥ・マイザトムトゥなどのムトゥがあった。島尻の元島にも三軒のムトゥがあった。そこで詳細に記述することはでいないが、宮古の村(ムラ)を集落移動、ムラは複数の里(サトゥ)からなり、祭祀はサトゥを中心に行われるが、その中にはムラレベルにまとめられてのがありはしないか。例えば池間神社は散在するムトゥをまとめたのであろう。しかし、これまでの祭祀場も遺している。祭祀はサトゥと中心に行われる。

 集落が移動した時に故地に何を残しているのか。サトゥでありウブガーであったり、祭祀場や屋敷跡であったりする。宮古の村の一つひとつを村移動、集落移動、サトゥ、祭祀場など、そして祭祀を通してみると、沖縄本島北部では、ムラを中心とした祭祀となっている場面が多く見られるが、神人の継承や祭祀場と神人の関係をみると、沖縄本島北部では消えかかったのが、宮古の村々ではムトゥを中心とした祭祀が生きている。それは古琉球のムラの形を今に伝えているのではないか。それは沖縄本島の地割制度、先島の人頭税とも関わっているとみている。宮古の村のいくつか(狩俣・島尻・池間・飛鳥御嶽・野原・砂川・宮国元島・嘉手刈・保良・友寄など)を踏査しながらの印象である(もう少し整理してみたい)

 宮古島の五つの遠見跡をみた。『球陽』(尚賢王四年の条:1644年)に、以下のようにある。

  
「本国烽火アルコトナシ、或ハ貢船或ハ異国ノ船隻来ツテ外島ニ至ルヤ、只使ヲ遣ハシ、以テ為メニ其事ヲ禀報スルコトアルノミ。
   今番始メテ烽火ヲ中山ノ各処、併ニ諸島ニ張ツ。而シテ貢船二隻、久米、慶良間、渡名喜、粟国、伊江、葉壁等ノ島ニ回至スレバ、
   即チ烽火二炬ヲ焼ク。一隻ナレバ即チ烽火一炬ヲ焼ク。若シ異国ノ船隻アレバ、即チ烽火二炬ヲ焼ク。転次伝ヘ焼キ、以テ早ク中山
  ニ知ラスコトヲ為ス。」

 
         ▲狩俣の遠見跡               ▲狩俣の遠見跡にある方位石

 
         ▲池間島の遠見跡                      ▲遠見跡への石段

 
           ▲島尻の遠見跡                   ▲遠見跡にある方位石

 
      ▲砂川の遠見跡(唐迎い岩)               ▲来間島の遠見跡への石積みの階段

2023年11月16日(木)
 メルビンはハッキンス氏とクリスマン氏提供の画像(モノクロ)のデータを見ている。歴史文化センターが建設される前の年だった。特にハッキンスさんの画像は歴史文化センターの展示に活かされた。歴史文化センターの調査研究の力となった。先々月、そのお礼で伺う。写真を整理しながら、写真も時が経つと「歴史史料」となりうると意を強くしたことが思いだされる。その後、デジカメが出てきたことで、私がノート代わりにシャッターを切ってきた。(縁にある番号はネガ)


  

 




2023年11月15日(水)

 2008年の今帰仁村湧川(勢理客のろ)のウプユミとワラビミチの参与記録である。二つの祭祀が統合された場面があった。湧川の一部は湧川ノロ、同じ村内の一部が勢理客ノロの祭祀である。湧川村の創設は1738年で新設村である。以前はそこに我部村があり、屋我地島へ移動させ湧川村を創設し湧川ノロを置いた。村の創設と移動、そして勢理客のろの男方が我部村出ということもあり、それと神アサギがウイアサギとシチャのアサギ(奥間家の火神)があり複雑に絡み合っている。湧川地内で行われているのがウプユミ、湧川から勢理客→上運天→運天→(勢理客)のコースがワラビミチ。途中の村でウプユミがそれぞれ行われている。

2008827日(水)記録

  今帰仁村湧川のウプユミ(ワラビミチ)の祭祀をみる。「湧川の」というより「湧川及び勢理客ノロ管轄村のウフユミ・ワラビミチ」と呼んだ方がよさそうである。1時頃湧川へ。旧盆あけの亥の日に行われる「ウフユミ・ワラビミチ」に参加する。勢理客ノロは勢理客での祭祀を済ませた後、湧川のヒチャヌアサギ(奥間アサギ)にゆき、我部からの来訪者と一緒にウガンを行う。その前に湧川のシンザトヤーと関わる神人が新里ヤーでの弓を射る所作をしウガンを済ませた後、奥間アサギでウガンを行っている(詳細についての報告は別に)。勢理客ノロ管轄の字(アザ)は勢理客・上運天・運天である。湧川の奥間アサギと関わるのは別の理由がある。

 神人が継承されず消える運命にある中で、勢理客ノロが誕生していることに驚いている。嬉しいことである。

【今帰仁村湧川】
  ①新里ヤー ②奥間神アサギ  ③湧川ノルドゥンチ(他の神人と合流)  ④ムラー
   ⑤ウイヌアサギ(湧川の神アサギ)でのウガンが終わると、勢理客ノロと我部から来た方々を
   ウイヌアサギに歓待する。ウイヌアサギに向かう前に5回鼓を打つ(湧川の小学生2名、
   上運天の中学生2名)。ウイヌアサギでの湧川と勢理客ノロと我部の方々とのウガンが終わると、
   鼓を5回打ちならし、そこでのウガンは終わりをつげる。勢理客に向かう前に奥間アサギで5回
   鼓を打って勢理客へ向かう(車で移動)。

【今帰仁村勢理客】

 ⑥勢理客の神アサギ内
  勢理客の神アサギ内に鼓を打つ4名と湧川と運天の区長、そして勢理客ノロが招かれる。そこで玄
  米(お神酒)をいただく。カーサーモチと飲み物をお土産にいただく。神アサギに招かる前に鼓を5回
  打ち、神アサギでのウガンが終わると再び鼓を5回打ち上運天に向かう(車で移動)。(玄米ジュー)

【今帰仁村上運天】
  
  ⑦上運天のアサギミャー
   上運天のアサギミャーに村人が座っている。勢理客から勢理客ノロと鼓打ちが到着すると上運天
  の方々が迎える。アサギミャーに入る前に鼓を打つ。鼓打ちは中央部に招かれる。勢理客ノロは上
  運天の区長と一緒にウガンをする。海向かってと神アサギで。上運天を離れる時に、また鼓を5回打
  つ(車で移動)。玄米ジュースが出される。

【今帰仁村運天】

  ⑧運天のアサギミャー
   運天に到着すると、アサギミャーに行く前に鼓を打ち、運天の村人に到着を知らせる。アサギミャー
  に到着すると、そこで5回鼓をうつ。招かれた、招く形態をとっている。勢理客ノロと湧川と上運天から
  きた鼓打ち、そして区長はそれぞれの区へ戻る。

 
 
▲奥間神アサギ(奥間殿内火神)でのウガン       ▲新里一門のウガン

 
 
     ▲湧川ノロ殿内               ▲湧川ノロドゥンチでの供え物

 
  ▲奥間家(アサギ)でのウガン      ▲奥間アサギでのウガン(勢理客ノロと我部の方々)  


2023年11月14日(火)


 平成26年(1957)に「名護・やんばるの歴史文化を掘り伝える」をテーマで講演をしたことがある。ちょっと隙間の時間ができので関わった字誌を振り返ってみた(その後発刊も追加)。


【諸志誌】より



2023年11月13日(月)

2013年2月28日(木)メモ


  『球陽』(読み下し編:角川書店)の尚真48条(1524年)に、以下の記事がある。
  諸按司、首里に聚居す。
 窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を?治す。猶中華に諸候有るが若し。或いは見朝の期に当れば、則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣(オワ)りて既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ息まざらん。直尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ、(俗に按司掟と呼ぶ)。而して按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す。

 この条文は16世紀初頭の状況を的確に示しているのではないか。
  ・これまでは郡に按司を一人置く
  ・按司は各一城に建て
  ・按司は一城にいて教化をし、郡民を治める。
  ・見朝の時期になると啓行して京(首里城)に赴き駐留する
  ・公務が終ると各城に帰り、郡民を治める
  ・郡雄を争い武器を持ち休息に至っていない
  ・尚真王は制度を改め、諸按司を首里に聚居させ、領地を治めさせる
  ・按司に代わって座敷官(按司掟)を派遣し、その郡(間切)を監督させた
  ・按司の功勲のある者は、錦浮織冠を賜わり王子の位まで陞る

 尚真王の時代より以前は、各郡(間切)に按司を一人置き、按司はグスクを建て、そのグスクに住み教化をし、郡(間切)民を治めた。時期になると首里王府へ赴き駐留し公務を勤める。終るとグスクに帰り郡(間切)民を治めた。

 ところが、郡(間切)は雄を争い、武器をもち安泰に至っていない。それで、尚真王は制度を改め、各地の按司を首里に集居させ、領地を治めさせた。領地には按司に代わって按司掟を派遣し、間切を監督させた。按司が功績をあげると、位をたまわり、王子の位までのぼることができる。

 今帰仁グスク(間切)を合わせみると、北山の滅亡後第一尚氏王統から今帰仁グスクには監守(尚忠と具頭王子)の派遣がある。他のグスクでも按司を置いてある。首里からの按司の派遣かどうか? 尚真王の制度の改革で諸按司を首里に集めるが、今帰仁グスクの按司(監守)は、首里に移り住むことなく、そのまま今帰仁グスクに監守として居住する(1665年首里に引揚げ)。

 尚真王の中央集権国家の制度で例外をなしたのが今帰仁グスク(間切・按司)であった。首里に移り住むことなく、今帰仁グスクに住む(1665年首里に引揚げ)。そのことが北山の歴史、あるいは三山統一以前、その後の歴史や文化に興味深い痕跡を残していると言えそうである。

※北山に監守を1665年まで置いた首里王府の狙いは?




14【古宇利島の印部石】


 仕事はじめ早々、古宇利島から「ひ あ加れ原」の原石(印部石:印部土手)が古宇利区長さんを通して届く。ありがとうございます。早速、採拓してみた。久しぶりなので腕は鈍っていないか。東の島と東の原石なので、いい年になるかもしれません。

 古宇利島にあるもの(現場)二基、個人の庭さきに一基、歴史文化センターに四基(今回の含む)の計七基である。「ひ あ加れ原」の原石は個人の住宅にあったのを歴史文化センターに寄託されたものである。元あった場所がわかれば(東原には間違いないが)、現場に戻す約束である。(現場確認できず歴史文化センター蔵、寄託)

 蔡温が陣頭指揮をとった元文検地(1737~50年)で起点として使われたものである。古宇利島の小字の一つに「東原」があり、アガイバイと呼んでいる。もう一基あり「に あ加れ原」の原石である。「あがり」の「り」を表記の法則をもって「れ」としている。古宇利島にある「いれ原」(三基)の「いり」(西)の「り」を「れ」と同様な表記がなされている。それは首里王府役人の表記の仕方(約束事)なのかもしれない。方言音をどう表記するか興味深い。

 


2023年11月12日(

 近々、今帰仁村天底について説明をすることに。まとまった資料が手元にないので、過去の記録を取り出している。昭和15,16年の時代が身近にせまっている。

〈天底の馬場(マーウィ)付近〉No.89

 今帰仁村の中央部に仲原馬場(ナカバルババ)、西側に親泊馬場(エードゥメーババ)、そして東側に天底馬場(アミスババ)があった。仲原馬場と親泊馬場は,現在でも馬場跡の様子を残している。ところが天底の馬場はその痕跡はほとんど残していない。

 「明治二十年十二月二十五日天底校の新校舎二十一坪を天底村後原(天底馬場の隣)に落成」(『天底小学校百周年記念誌』)とあり,天底馬場は天底小学校に隣接してあったことがわかる。また、戦後も一部末並木がのこり、馬場の面影が残っていたという。馬場は別名マーウィ(馬追)と呼ばれ、仲原馬場では間切(村内)の連合運動会や旧暦四月十五日のアブシバレーの時の原山勝負の会場になった。中央部の壇上に招待された吏員(役人)の席が設けられ、弁当を開いて競馬や催物などを見物したり、闘牛や相撲などを眺めたという。天底の馬場でもそのようなことがことが行われたのであろうか。旧暦の四月十五日アブシバレーの日は仲原馬場で,翌日は今泊と天底の馬場で催物が行われた。

 上の写真は天底馬場での記念撮影である。天底馬場は天底小学校に隣接し、松並木の下は絶好の記念撮影場所でもあったようだ。天底馬場は公民館の裏から北西側に伸び、写真の場所は馬場の東端(現在の公民館の後方)あたりだという。

 写真の裏に「昭和拾六年五月五日撮影、今帰仁村天底青年団一周年記念」とあり、撮影者は昭和九年大阪から今帰仁にきて写真館を開いた川上清永氏(故人)である。天底馬場は松の大木が並木をなし、仲原馬場や親泊馬場と同じように百五十メートル余の細長い広場があったようである。左側に置かれた団旗に「今帰仁村・・・・・・天底支部」と見え、整列している方々は天底青年団のメンバーである。当間(旧姓安波根)ヨシコ・田港ヨシコ・伊波ヨシ・与那栄信・真栄田義成・桃原広・西平守福・西平守勇・立津政好・川上清一・西平守信・幸地輝美・嶺井政勇・田港朝寿などの面々の姿が見える。その後、本土や外国に出た方戦争で命を失った方、戦後も生き続けた方である。

 下の写真は昭和六十年頃の天底馬場と交差する旧道である。馬場跡は民家が立ち、あるいは畑となり、かつての天底馬場の風景や様子は先輩方の脳裏におぼろげにきざまれているにすぎない。



2023年11月11日(

 昨日、史料確認のため歴史文化センターへ。30年余、活王しtきた史・資料が懐かしい。必要な書籍を三、四拶拝借。活用してきたのはすぐにわかる。手垢や付箋紙が張ってあるので。

2009826日(水)

 合間を見て壁展示、氏のノートとスクラップを置いてみた。一つのコーナーは山原の祭祀や神人や神アサギなど。また他のコーナーは先島を含めた建物や墓や祭祀、15年間の調査ノート、それとスクラップl帳を置いてみる。詳細な詰めの展示はこれから。まずは、全体像を把握することから。天底のしまちすじのりや伊是名島の銘刈家の御玉貫や神アサギ、浦添のよーどれの墓修理、宮古の人頭税石など、文化財指定に向けての調査ノートや画像である。明日は展示がどこまで進むか。




 


2023年11月9日(木)


 めったに自分の姿が写った姿は見ないが、三府龍脉碑記の採拓中(昭和60年)。撮影者は比嘉氏(名護市史) 当時は、夏休暇になると採拓に明け暮れていた頃。100余の拓本を作成。採択したものは今帰仁村歴史文化センターと名護市へ。(もう大型の碑を採拓する体力はありません)名護市民になった頃。勤務地は県内三大学。休暇になると名護市史(当時市民館内)にいりびたり。名護市内の碑文記の歴史的な碑の執筆。思い出すと名護市史の「わがマチ、わがムラ」の歴史部分の一部執筆、角川の沖縄地名辞典の一部項目の執筆、あの頃は「北山の歴史」「運天の歴史」を名護市博物館の「あじまぁ」に掲載。20代後半から30代まで体力にまかせ動きまわっている。それも図や原稿は手書きを経験しワープロへ。




工事中


2023年11月8日(木

 コロナの後遺症で、全てを投げ捨てる所まできた、周りからあれこれ依頼があると断れず、胡麻化しながらやってきた。11月になり、全快していることに気づく。あれこれ楽しいのである。

 大学院生のころ(24歳頃)、文学部の学生から、「病跡学」のレポートをお願いされ、引き受けたことがあった。作品と病との関係を論ずるものであった。扱っ作家は夏目漱石や芥川龍之介などの作品だった。結論を述べると「病の時の作品がよくヒットする」と結論づけたことがある。そのことは無意識であるが活用しているふしがある。口癖のようにいうのが「仕事片づけることで病を治す」と。

 楽しく仕事をするのがいい。「きつかったら止めたら」の上手の声が飛んでくる。

【根謝銘(ウイ)グスクと村々】過去メモより

 根謝銘グスクはウイグスクともいう。グスク内に二つのウタキがある。その二つのウタキはウタキの中のイベだとみている。根謝銘グスクと関わる村がある。間切分割、集落移動、合併、ノロ管轄など複雑にからみあっている。そのあたりのことを整理してみる。

 間切や村の変遷をたどってみたが、ここでは根謝銘(ウイ)グスクを取り巻く現在の謝名城(大宜味村)と田嘉里(大宜味村)について触れる。1673年以前はいずれも国頭間切の内。根謝銘(ウイ)グスクは国頭間切の中心部に位置していたということ。1673年の間切分割の時、根謝銘グスクは田港(後に大宜味)間切の領域に組み込まれる(根謝銘グスクが国頭間切の領域に入れば問題はなかったのでは)。

 1673年の間切分割の時、ねざめ(根謝銘)村と城村は大宜味間切へ(その段階で一名代村は登場していない)。屋かび(屋嘉比)は国頭間切へ(親田村と見里村は登場してこない)。組み込まれる。ところが、『琉球国由来記』(1713年)以降、国頭間切から大宜味間切への方切(間切の境界線の変更)がなされる。明治の「統計慨表」では、屋嘉比村と親田村と見里村は大宜味間切の村である。

 明治36年に根謝銘村と一代名村と城村とが合併して「謝名城村」となり、城ノロ管轄である。一方の親田村と屋嘉比村と見里村が合併して「田嘉里村」となるが屋嘉比ノロの管轄村である。根謝銘(ウイ)グスク内に大城ウタキと中城ウタキがある。『琉球国由来記』(1713年)を見ると、城村と根謝銘村は大宜味間切で城村に小城嶽、根謝銘村にガナハナ嶽があり城ノロの管轄である。また、親田村と屋嘉比村と見里村は『琉球国由来記』(1713年)の頃は国頭間切の村である。親田村にガナノハナ嶽、屋嘉比村にトドロキノ嶽、見里村に中城之嶽がある。屋嘉比ノロの管轄村である。旧暦の海神祭(ウンガミ)が行われる根謝銘(ウイ)グスク内で行われる祭祀を見ると、屋嘉比ノロ管轄村(屋嘉比・親田・見里・浜)の神人や村人達が関わっているのは大城嶽、城ノロ管轄の村が関わるのは中城嶽である。城内の神アサギで行われるウンガミ(海神祭)は城ノロ管轄の神人(喜如嘉・饒波も参加)や村人達である。

 根謝銘(ウイ)グスク内の二つの嶽(イビ)は異なるノロのそれぞれの祭祀場となっている。これまで記録されている根謝銘グスクでのウンガミは城ノロ管轄の祭祀である。屋嘉比ノロ管轄のウガンが大城嶽(イベ)で行われているのを実見したことがある。城内の神アサギでのウンガミは一緒には行っていなかったように思う(要確認調査)。城内の大城嶽での祭祀が終わると田嘉里の神アサギで祭祀を行う。

 ここで根謝銘(ウイ)グスクの二つの嶽(イベ)と、その周辺にある(あった)集落との関係を祭祀との関わりで見ていけるのではないか。「根謝銘(ウイ)グスクが抱えた村々」としてとらえた時、「今帰仁グスクが抱えた村々」と共通して見えてくるものがある。それと、根謝銘(ウイ)グスクへの途中に「御殿」と「殿内」屋敷があったことが宮城真治ノートに描かれおり、それは統合され「トゥンチニーズ」と「ウドゥンニーズ」であることわかる。それは国頭按司と国頭親方なのか、それとも大宜味按司と大宜見親方の殿地や御殿の跡地なのか。
 
 
根謝銘(ウイ)グスク内の大城嶽(イベ)     根謝銘(ウイ)グスク内の中城嶽(イベ)

 
ウドゥンニーズ(御殿所)とトゥンチニーズ(殿所)    ▲ウイグスク内の神アサギ

【国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘(インジャミ)?】

 国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に国頭城を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。


2023年11月7日(水)

2013年2月28日(木)メモから

  『球陽』(読み下し編:角川書店)の尚真48条(1524年)に、以下の記事がある。
  諸按司、首里に聚居す。
  窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に
  居りて教化を承敷し、郡民を?治す。猶中華に諸候有るが若し。或いは見朝の期に当れば、
  則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣(オワ)りて
  既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ
  息まざらん。直尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せ
  しめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ、(俗に按司掟と呼ぶ)。而して
  按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す。


 この条文は16世紀初頭の国の状況を的確に示している。

  ・これまでは郡に按司を一人置く
  ・按司は各一城に建て
  ・按司は一城にいて教化をし、郡民を治める。
  ・見朝の時期になると啓行して京(首里城)に赴き駐留する
  ・公務が終ると各城に帰り、郡民を治める
  ・郡雄を争い武器を持ち休息に至っていない
  ・尚真王は制度を改め、諸按司を首里に聚居させ、領地を治めさせる
  ・按司に代わって座敷官(按司掟)を派遣し、その郡(間切)を監督させた
  ・按司の功勲のある者は、錦浮織冠を賜わり王子の位まで陞る

 尚真王の時代より以前は、各郡(間切)に按司を一人置き、按司はグスクを建て、そのグスクに住み教化をし、郡(間切)民を治めた。時期になると首里王府へ赴き駐留し公務を勤める。終るとグスクに帰り郡(間切)民を治めた。

 ところが、郡(間切)は雄を争い、武器をもち安泰に至っていない。それで、尚真王は制度を改め、各地の按司を首里に集居させ、領地を治めさせた。領地には按司に代わって按司掟を派遣し、間切を監督させた。按司が功績をあげると、位をたまわり、王子の位までのぼることができる。

 今帰仁グスク(間切)を合わせみると、北山の滅亡後第一尚氏王統から今帰仁グスクには監守(尚忠と具頭王子)の派遣がある。他のグスクでも按司を置いてある。首里からの按司の派遣かどうか? 尚真王の制度の改革で諸按司を首里に集めるが、今帰仁グスクの按司(監守)は、首里に移り住むことなく、そのまま今帰仁グスクに監守として居住する(1665年首里に引揚げ)。そのとき、今帰仁間切を分割し、伊野波(本部)間切りを創設。

 尚真王の中央集権国家の制度で例外をなしたのが今帰仁グスク(間切・按司)であった。首里に移り住むことなく、今帰仁グスクに住む(1665年首里に引揚げ)。そのことが北山の歴史、あるいは三山統一以前、その後の歴史や文化に興味深い痕跡を残していると言えそうである。


2023年11月6日(火) 

2005.04.22(金)過去メモ

 午前中、村内の小学校を回る。「ムラ・シマ講座」の生徒の募集で。校長先生を通しての募集である。先生方の異動もあるが、学校の雰囲気が変りつつある。

 5月に「今帰仁グスクの歴史」をテーマに話をする。どんな視点で話そうか。「今帰仁グスクと港」にでもしようかと思いつつ、今帰仁グスクと今泊(親泊集落)を画像に収めてきた。
   「今帰仁グスクのあるその杜は、もともと今帰仁村(ムラ)の御嶽だった。
    その痕跡は?」
とでも話を展開させようかと。

  「今帰仁グスクが機能していた山北王の時代は親泊が港(津)だった。でも
  親泊沖のクチから冊封船のような大型船の出入りは不可能。ならば運天港
  が使われたか?」

 まだ時間があるので、話の骨子はこれから詰めることに。

 午後から今帰仁村仲尾次の方々18名がやってきた。仲尾次はかつて中城であったことから話をする。そして仲尾次の御嶽はスガー御嶽(中城)である。何故か現在の地番は平敷である。中城はスガー御嶽付近から現在地へ移動してきたようだ。スガー御嶽一帯は炬港からジンニサガーラを遡った位置にあり、発掘すると中国製の陶磁器類が出土してくるであろう(表採で拾っている)。

 仲尾次が中城であった痕跡は中城ノロの呼び方に見ることができる。古い時代の中城ノロ辞令書に確認することができる。などなどの説明をする。

 仲尾次の喜友名氏から「内に古い位牌があるから見にきて」とのこと。近々確認にゆく予定。

 古宇利の字誌「古宇利の歴史」原稿アップする。明日は行財政の編と方言部分。あれこれ事業に追われてくると5月の連休が待ち遠しいものだ。



2023年11月6日(月)

 ・長浜氏系図(『沖縄県国頭郡志』)
 ・大宜味村田港と東村川田の根謝銘屋と関わる史話『通俗琉球北山由来記』

そのたぐいの先祖由来記や系統図がいくつもあるが、特に大宜味と関わる二点について整理してみる必要がありそう。それは大宜味側(国頭)の歴史を考えるにうえで、欠くことのできない資料であろう。

時代区分の案づくり

この系統図は、北山のハンアンヂが亡び、その後の久志村川田の根謝銘屋と大宜味村田港の屋号根謝銘屋の系統図である。北山の歴史の第一尚氏の頃である。北山には尚忠と具志頭王子の時代である。北山監守の滅亡で川田、田港の根謝銘屋の時代は継承で混迷きたした時代である。

・北山の領域の時代の国頭地方(大宜味を含む)
  ・北山滅亡後(1416年~1469年)
  ・根謝銘(ウイ)グスクが機能していた時代

  今帰仁グスクから離散して根謝銘グスクへ
  川田の根謝銘屋と田港の根謝銘屋

 ・第一北山監守の時代
 ・第二監守の時代(1609年まで)

  1471年の「海東諸国記」(琉球国之図) 国頭城

各地の按司を首里へ集居

  国頭按司の配置

  山原関係の辞令書(1500年代)

  「くにかみあんし」が登場する金石文

 ・「のろくもい」の配置(任命)

・おもろさうし「やかひのろくもい」(遺品)
 ・1609年の薩摩の琉球侵攻
 ・絵図郷村帳の「国頭間切」(大宜味含む)(平南・津波は羽地間切) 

・琉球国高究帳の「国頭間切」(大宜味含む)(平南・津波は羽地間切)
 ・1673年 国頭間切・羽地間切を分割し田港間切を創設
 ・1692年 大宜味間切を創設し大宜味村を設け大宜味村に番所を置く。
    以後、国頭間切と大宜味間切が別れる(一部方切がある)。

 ・大宜味村から塩屋へ番所が移転する。
 ・1713年川田村と平良村は田港(大宜味)間切の内
 ・羽地間切の村であった津波ノロの位置づけ。(引き継ぎは大宜味間切は

首里殿内、羽地間切は儀保殿内へ?)

  (続く)


2023年11月5日(


「山北今帰仁城監守来歴碑記と火神の祠の移築」
(県指定の文化財)2002.4.3(水)

 昨年12月「山北今帰仁城監守来歴碑記」が県指定の文化財となった。今帰仁城跡の主郭(本丸)の火神の祠の前に立っている石碑。現在立っているのはレプリカで、原物は歴史文化センターのエントランスホールに展示してある。碑はニービヌフニ(微粒砂岩)で高さ約117㎝、幅約41㎝、厚さ9㎝である。石碑は乾隆14年(1749)に建立され、建てたのは今帰仁王子(十世宣謨)ある。火神の祠の前に燈篭があり、その一基に石碑の建立者である「今帰仁王子」の名が刻まれている。
 碑文の内容の概略を記すと以下の通りである。

  「琉球は四分五裂し、ついに三山が鼎立する情勢となる。佐敷按司
  の巴志が兵を起こし統一する。北山は中山から遠く離れ教化し難く、
  また地形が険阻である。そのため変乱を起こす恐れがあり、次子の
  尚忠を派遣して監守させ、永くその制度を置いた。尚徳王に至って
  国政が乱れ禍を招き転覆する。尚円が王に推挙されると、しばらく大
  臣を輪番で派遣して監守させる。弘治年間に尚真王は第三子の尚
  韶威を派遣して監守となる。彼が吾(十世宣謨・今帰仁王子)の元
  祖である。代々今帰仁城を鎮め典法を守ってきた。康煕4年(1665)
  七世従憲の時、住宅を首里に移し今帰仁城の旧跡や典礼などを掌っ
  た。乾隆7年(1742)に城地を郡民に授け、典礼を行わせようとした。
  ところが、宣謨は往時のことを禀明し、元祖以来山北を鎮守し統治す
  る者は吾が子々孫々しかない。宣謨はそのような来歴を記し、石に
  刻み永く伝える」

 この碑文から、沖縄の歴史の流れや監守設置の理由や監守引き揚げ、また今帰仁グスクの管理の移管や祭祀の状況を知ることができる。今帰仁グスクの歴史の一端を知ることができる貴重な史料である。当時の歴史観を伺うことができる。十世宣謨の当時の判断が今帰仁グスクの管理や所有権が今に影響を及ぼしている。


▲移築前の来歴碑記移設前(1987年)  ▲移築された火神の祠と来歴碑記


【戦後すぐの土地測量に関する「備忘禄」】(2008.02.26)

 戦後すぐの土地測量に関する「備忘録」(仲里:1947年)がある。仲里朝睦氏が今帰仁村崎山に住んでいた時にコピーさせてもらった資料である(後に糸満市に移り住み、『風水卜易関係資料』としてマイクロ化されている)。
 
戦後すぐの土地測量についてのメモである。仲里氏(朝睦氏ではない。土地所有委員を務めたのは仲里源五郎氏か)は土地をどのように測量したのか。昭和22年当時の測量状況が把握できるメモ書きである。

 「備忘禄」(一九四七年:仲里)
  土地所有委員出席 一月二八日 一月二九日
  食糧調製会 一月二五日役場、二五日字、二七日事務
  一月二八日
    図面作製準備品  間縄 六〇k、三〇k、一五k
    ポール 二k 一・五k 一k
    図紙台 二尺×四尺
    縮尺 一二〇〇分の一五厘一間
    巻尺
    鉢ニ三本
    簡易測量
     1、前進法
     2、光線法
    3、オブセット法
    平坦部 内則法 外則法
    製図(図省略)
    凡例 郡界 町村界 字界 小字界 図根点 道路 河川

 溝渠 求積 三角形 梯形 普通面積計算 
  調査員
   一、各大字ハ小字及各地図ノ調査ヲナシ置イテ、各小字ノ境

界ヲ明ニ入スル
   一、地主ヲシテ立札ヲセシメル事
   一、境界争ヒノ分ヲ明瞭ナラシメル事

     
  所有者住所氏名
 一、指名ハ近親者ヨリトシ所有明記シ代理人続柄氏名 印
 一、未青年ハ名記セヌコト
     父母ニ記入スル事無キ場合ハ後見人ト名記スル事
 一、共有地(字有地トシテ)名記村長ニスル事

 摘要ノ件
 一、現況ヲ書ク事
   ◎軍要地、公用地、道路
     名称ト坪数ヲ書ク事
   ◎保証人
 一、交換ニハ保証人出来ズ
 一、或ル土地ニ対シ立証不可能ノ場合ハ字ノ委員会カラ二人ニスル事
   ◎図 面
 一、千二百分ノ一 五厘一間ノ事
 一、各地目毎ニ等級別
   ◎地積筆数
 一、字委員 委員長ヲ定メル事
 一、地目ガ同人ノ土地多数連続シタル時申請ハ一綴ニシテ申請スル事
     但シ図面ハ一括ニシヨロシイ 
  ◎田畑原野
 一、同一等級ナラバ一筆シテヨロシイ
 一、字境界小字境界ハ変更セヌ事
 一、地番ハ字ヲ単位ニシ地目毎ニ附ス事(通番号)
 一、部落カラスル事
 一、地番ガ漏レタ場合ハ官有地取上ケナルカラ注意スル事
   ◎有祖地、無祖地
 一、有祖地
    田畑、宅地、塩田、池沼、共同井戸、山林、原野、雑種地
  ◎無祖地(公用地、墓地、公共用地、道路)
 一、戦□地通ズル新道路ハ何坪、地目、何坪トシ道坪ハ摘要ニ入レル事
 一、保安林ハ別ニ申請スル事
 一、拝所ハ(字有ハ字名ニ入)右管理者村長某
 一、戦前の地目デ変更手続未済ノモノ其地目ハ差□ナシ
 一、地目ハ前通リ申請スル事
   ◎地 積
 一、坪ハ六尺四方ノ事
 一、坪未満ハ記入セヌ事 但シ、端ノ事
 一、坪デ単位スルコト
  ◎等 級
 一、等級ハ各人申請セズ委員会決定申請ノ事
 一、等級ハ地価ニシ一筆毎附スル事
  ◎程 度
 一、田畑五等迄デトス 其他二等迄デトス
 一、等級ハ字単位ニスル事
 
http://rekibun.jp/gazou0802/080227ti1.jpg
 http://rekibun.jp/gazou0802/080227ti2.jpg    
▲昭和22年に作製された地堰図の一部
(今帰仁村歴史文化センター蔵)


2023年11月4日(土) 「山原のムラ・シマ

 基調講演の目録を作成をしている。辞令書や二軒の墓調査のさわりの紹介でもすることに。

本部町辺名地仲村家

 ・辞令書三点
 ・按司墓
 ・ウナジャナ墓
 ・衣類
 ・系図
 ・墓調査記録

【本部町辺名地の仲村家の三枚の辞令書】

 2014年11月本部町へ名地の仲村家を訪問している。目的は三枚の辞令書。
 この三枚の辞令書は「今帰仁(北山)の歴史をまとめた時、史料として利用した。仲村家を訪れたのは2014年11月である。二枚の辞令書は古琉球(1609年)以前で、一枚は1643年である。いずれも、山北監守が首里に引き揚げる以前のものである。本部間切(伊野波)が、まだ今帰仁間切の内で、三枚の辞令書は「みやきせんまきり」とあろ。本部間切がまだ今帰仁間切の内だったことを示すものである。それと山北監守が今帰仁間切(本部含む)内に居住していた時代である。

 仲村家が管理している按司墓とをなじゃな墓を開けることがあり、呼ばれて立ち会ったことがある。両墓の記録も入手している。

   

  


2023年11月3日(

 各地の銘のある石香炉の調査をしたことがある。(随時)

伝統芸能の伝播の可能性

大宜味村田港の御嶽の祠の香炉と奉公人(…にや)】

 大宜味村田港と大宜味のウタキの祠に数多くの石の香炉がある。ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」と余り知られていない。田港のウガンの祠には21基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の6基である。田港に何故、21基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。

 田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に11基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。ニカ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。①~⑥の香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。

 

①「奉寄進 大□□」(年号なし)
②嘉慶九年甲子 奉寄進 九月□日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。
 嘉慶9年は西暦の1804年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。
③「奉寄進 同治□年  □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□」
 年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治三年に年頭の慶賀で薩州へ派遣されている。それに伴うものか。
④屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□
⑤□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋 
⑥「奉寄進」の文字のみ

 
     の香炉                の香炉

 
     の香炉          の香炉

 
      の香炉               の香炉


2023年11月2日(木)


 201031日(月)岸本ノロ

 今帰仁間切(村)には①今帰仁のろ ②中城のろ ③玉城のろ ④岸本のろ ⑤勢理客のろ ⑥湧川のろ
⑥古宇利のろ ⑦天底のろ の7名がいた。天底のろは1719年本部間切から今帰仁間切へ村移動するが、天底のろも一緒に移動してくる。祭祀は本部間切の伊豆味村と嘉津宇村も継続して管轄する。

 「のろ」の表記は、「のろくむい」「のろ加ネイ」「ノロ」「巫」「祝女」などがある。

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロ)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)

【岸本ノロの任命書】(宮城真治資料より)

  沖縄縣指令第一四五號
     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   のろ加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
    
https://archive.fo/uwuQW/caea50ac9d05a0e8cddd6833536a48e839a1b3da.jpg  https://archive.fo/uwuQW/b6c63e52a817ea90dd5bf15bbbe204310f126c3b.jpg
                   ▲岸本のろが管轄していた寒水村神アサギ(昭和40年頃)

 『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。


2023年11月2日(木)

 平成27年(2015)11月21日に山原(やんばる)の墓踏査をおこなっている。その後だと思うが、沖縄県立博物の墓シンポで報告したように記憶している。  

             第6回 (国頭・大宜味の村墓・共同墓踏査)

   第6回ムラ・シマ講座は国頭村・大宜味村の村(ムラ)墓・共同墓を踏査します。本部半島の墓と国頭・大宜味村の墓の変遷を比較してみると、現在の墓の以前の墓の形が見えてきます。これまで考えていた墓のイメージが大きく変わります。 

   本部半島でみる墓と国頭・大宜味村でみるムラ墓・共同墓と比較すると、墓の変遷が理解できるかと思います。国頭村では宇嘉のムラ墓が辺野喜にあり、大宜味村の根路銘に饒波・大兼久・大宜味・根路銘の四つの村のムラ墓があります。かつての墓や葬り方が見えてきます。

   それらの村墓や共同墓をまわりながら、村(集落)と墓との関係から村の形を考えてみます。
  (詳細は講演で説明します)

2015年11月21日(土)

     ①国頭村辺野喜(辺野喜と宇嘉の村墓)
    ② 〃 与那の村墓
    ③大宜味村田嘉里(屋嘉比・親田・見里の村墓)
    ④謝名城(城・根謝銘・一名代の村墓)
    ⑤ 〃  喜如嘉の村墓(共同墓)
    ⑥  〃  根路銘にある四ヶ村の村墓と共同墓
    ⑦ 〃  塩屋の共同墓(ハーミジョウ)
    ⑧ 〃  田港の村墓(共同墓)
    ⑨ 〃  宮城島の門中墓(寄留人)

東村川田の村墓(造り変えた墓)

 
  ▲シチャグイバー      ▲ナカタバー         ▲ミーバー          ▲ニガンバー

   
             ▲根路銘にある四ヶムラの村墓         (墓の配置図) 

今帰仁ノロ墓の様子
 

  (ノロのみ葬られた墓、同一墓内での葬法とイケ(イチ)・納骨器(厨子甕)の変遷を見ることができる)


  
  ▲浜元の半洞窟墓の様子         ▲多数の人骨を50近い骨壷に整理    ▲風葬にされたままの人骨

  
▲見里村墓               ▲屋嘉比村墓              ▲親田村墓 


2023年11月1日(水)

 11月はどんな月になるやら。新しく調査記録をすることは少なくなります。コロナのお陰で「寡黙」にゴロゴロしていることが多い。

山原の神アサギ】(報告)

 ここ何年か「山原のムラ・シマ」を歴史や祭祀、あるいは神アサギや御嶽や集落の呼称など様々なキーワードでみてきた。今回は神アサギと祭祀を中心にムラ・シマを見ていく。沖縄の歴史や文化を大きく三つの柱と見ることができる。一つは沖縄(琉球)の人たちが本質的に持っているもの。二つ目にグスクから発掘される大量の中国製の陶磁器類から中国のもの。そして三つ目は言葉や鉄など日本からのもの。神人、神人が関わる祭祀、そして御嶽は琉球の人たちが持っている本質的なものを知る手がかりになるものではないか。神アサギや祭祀を通してみていくことにする。
  ①国頭村の神アサギ
  ②大宜味村の神アサギ
  ③東村の神アサギ
  ④羽地(名護市)の神アサギ
  ⑤今帰仁村の神アサギ
  ⑥名護町(現名護市)の神アサギ
  ⑦久志(現名護市)の神アサギ
  ⑧恩納村の神アサギ
  ⑨金武町宜野座村の神アサギ

  ⑩伊平屋村の神アサギ
  ⑪伊是名村の神アサギ



▲今帰仁村古理利島           ▲今帰仁村運天            ▲今帰仁村勢理客

▲名護市喜瀬               ▲今帰仁村与那嶺            ▲国頭村安田


 ▲国頭村比地             ▲国頭村比地(昭和30年頃)    ▲今帰仁村崎山

【昭和30年代の風景