芸能の各地への伝播の可能性 講演原稿(仲原)
これまでグスクやウタキなどにある年号や銘のある石灯籠や石香炉などを調べきた。地域にある年号や銘のある石灯籠や石香炉から、首里に住む王子や按司の動きと首里奉公した地方の奉公人との関係が密接である。それと御嶽などにある銘のある香炉や石灯籠などは江戸や薩摩への旅(上国)との関わりでの祈願が見られる。王子や按司の動きというのは、石灯籠や石香炉の年号や按司や王子名と『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ると、その多くが一致する。上国し按司や随行した奉公人と送り出した間切や村と密接な関係にある。その関係が地方の豊年祭の番組に組踊や路次楽やしゅんとうなど、中央の芸能を地方に伝播させている。
1.御殿と殿内への奉公人(後に間切役人)
「地方役人関連資料」(名護市史)に御殿と殿内へ奉公した奉公人がいる。それら奉公人(後の間切役人)と御殿と殿内との関係は、密接な関わりが読み取れる。奉公人の御殿、殿内を崇めたてる気持ちは、平民も同様なものとみられる。まだ確認していないが、出身地の村のウタキなどの拝所の「奉寄進」の香炉に彼らの名があるかもしれない(未確認)。
・羽地間切川上村の親川仁屋(羽地按司家)
・羽地間切仲尾次村の平良仁屋(羽地按司家)
・赤平地頭代プスメー(松川仁屋)(羽地間切古我知村)
・上里仁屋(羽地間切振慶名村)(池城御殿)
・宮里清助(池城殿内)(羽地間切稲嶺村)
・親川登嘉(羽地間切川上村)(羽地按司家)
「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年:1870)は、解説によると羽地按司が領地に初めてやってきた時の様子を記したものである。一行の羽地間切での動き、「覚」(日記)を記したのは受け入れ側である。按司様一行をどのようにもてなしたのか。そして、どのような拝所を廻ったのか。羽地間切内の源河と伊佐川を除いた「のろこもい火神」(ノロ殿内)を廻っている。按司家から間切役人への拝領物の進呈、間切から按司家への進上などがある。
他の間切でも按司や惣地頭などが間切へやってきた時には、同様な対応をしていたのではないか。その事例があるので『琉球国由来記』(1713年)の「両惣地頭」が関わる祭祀の時、首里からやってきた時、間切は同様に対応をする様子が浮かんでくる。
・同治9年(1870)9月3日/羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのでお迎えに首里に向かう。
・同9月6日/羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
・同9月8日/羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。
・同9月9日/恩納間切番所に一泊する。
・同9月10日/名護番所に一泊する。
・同9月11日/羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。
羽地按司は川さう仲尾親雲上宅
御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅
役人はおかいら親川親雲上宅
親泊筑親雲上はたんはら屋
間切の役々は仲尾筑登之宅
・同9月12日/(翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)
・同9月13日/御立願をする。
①御殿火神(親川村)→②城(親川)→③勢頭神御川(親川村)→④御殿御川→
⑤のろ御火神(仲尾村)→⑥のろ御火神(真喜屋村)→⑦御嶽(真喜屋村)
・同9月14日/屋我地御立願
①のろこもい御火神(我部村)→御嶽(我部村)→③のろこもい御火神(によひ名村)→
④いりの寺(饒平名村)→⑤東の寺(饒平名村)→済井出村→屋我村を巡検される。
・同9月15日/間切から招待
・同9月16日/按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・
間切役人・神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。
(拝領物あり) (進上物あり)
(9月17日~25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人など
の訪問があったであろう
・同9月26日/羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。
(首里までの到着の記録はない)
首里からやってきた一行に各地で歓迎を行う。そのお膳立てをするのは御殿奉公をした奉公人や奉公後間切役人なった人たちである。それらの人物が村の豊年祭などに中央の芸能を取り入れるのは自然である。
2.今帰仁間切の拝所にある香炉と人物
今帰仁間切内の四つの香炉の年号と二人の内の一人の今帰仁按司の動きが『中山世譜』(附巻五)の記事を合わせ見ることで判明する。
今帰仁村勢理客のウタキ(御嶽)の中のイビに二基の石香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。
イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風 化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また、それとは別に雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。
すると、これまで判読できなかった勢理客の御嶽のイビにある二つの香炉と玉城のスムチナ御嶽にある判読できない部分は以下のように補足できる。それは『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ることでできる。①③の道光二拾年(1840)については、再度石灯籠の年号の確認が必要であるが、同治九年(1840)は今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州(薩摩)に王子として派遣されている。勢理客村の親川仁屋と上間仁屋、それと謝名村とみられる大城にやと松本にやは、今帰仁御殿へ奉公した、あるいは奉公人であろう。そのような関係が中央の芸能を地方に伝播させる要因になっているのであろう。
①奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋→奉寄進 道光二拾年八月吉日 親川仁屋
②奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋→「奉寄進 同治九年庚午十月 上間仁屋
③奉寄進 道光二拾年→奉寄進 道光二拾年(八月吉日)
④奉寄進 同治九年十月→奉寄進 同治九年(庚午)十月 大城にや 松本にや
▲スムチナ御嶽のイベ部(頂上部) ▲イベにある銘のある香炉(今では判読できない)
3.玉城グスクの石灯籠(玉城村:南城市)
「玉城城跡整備実施計画書」(沖縄県玉城村教育委員会)(南城市)に玉城城跡内の石灯籠について、 「石灯籠は鹿児島県産の山川石で造られている。鹿児島へ米を運んだ船は、沖縄へ帰る時に空船となるため、この石を積んだらしい。山川石を利用した灯籠の作成年代は一時期(嘉慶25年:1820)に集中しており、唐渡りのお礼として寄進したか、させられたのであろう。灯籠に「盛林」という名前が彫られているが、玉城按司の名前に「朝」とつく家系の次には「盛」の家系が親方についたのでその関係者だろう」(湧上元雄氏談)とある。玉城グスク内に「嘉慶二十五 庚辰 奉寄進 玉城按司」(1820年)と彫られた石灯籠がある。『中山世譜』(附巻五)をみると、その年大守(藩守)様の慶賀で向氏玉城按司朝昆が6月11日に薩州(薩摩)に到着し、11月22日に帰国している。この石灯籠は玉城按司朝昆と関わるものとみられる。
上の湧上氏の談に「森林」の名が彫られているとあり、『中山世譜』(附巻五)に嘉慶二十三年戊寅(1818)に翁氏玉城盛林が5月19日に薩州に到着し10月29日に帰国している。石灯籠は六基あったようなのでその一基が盛林と関係するものとみられる。年号が彫られた寄進の石灯籠や石香炉は、唐旅というより薩州(薩摩)や江戸上りのお土産品の一つとみた方がよさそうである。何故、山川の石かとなれば、琉球への船出港が山川港であり、空船のバラストとして使った石を石灯籠や石香炉に仕立てて間切のグスク(ここでは玉城グスク)に寄進したみることができそうである。
玉城グスク内の「中之城ノ殿」は『琉球国由来記』(1713年)によると、玉城按司と惣地頭が関わる祭祀場である。石灯籠の側がその殿跡とみられる。
▲「嘉慶二十五庚辰 奉寄進 玉城按司」の石灯籠と、香炉の付近が「中之城ノ殿」の跡か
▲グスク内の「天粒天次」の拝所?
・康煕51年(1712) 向氏玉城親雲上朝薫 薩州へ(尚益王薨)。
・康煕51年(1712) 向氏玉城按司朝孟 薩州へ(尚敬即位)。
・雍正元年(1723) 向氏玉城親雲上朝薫 薩州へ(慶賀使)。
・雍正7年(1729) 向氏玉城朝薫 薩州へ(年頭使)。
・乾隆59年(1794) 翁氏玉城親雲上盛林 薩州へ(尚穆王薨)。
・嘉慶23年(1818) 翁氏玉城親方盛林 薩州へ)。
・嘉慶15年(1820) 向氏玉城按司朝昆 薩州へ(慶賀など)
4.奥武島の権現堂の石灯籠
旧玉城村(現南城市)奥武島の観音堂の境内にある石灯籠を訪れてみた。境内に9基の石灯籠が確認できる。その内4基は摩耗し全く文字が確認できない。他の5基についてはいくらか文字が確認できた。同じ年号の石灯籠があり、対で建立されたようである。玉城按司と玉城親方の上薩との関わりの石灯籠とみることができる。『中山世譜』(附巻五)に嘉慶16年6月9日に翁氏玉城親方盛林が薩州に到着し、翌10月18日に帰国、また、嘉慶25年に向氏玉城按司朝昆が6月11日に薩州に赴き、11月22日に帰国しており、二基の石灯籠と合致している。
このように、グスクや拝所にある石灯籠や銘のある石香炉は、その間切と関わる按司や親方が薩州への旅からのお土産であり、無事帰国の報告でもある。按司や親方とは別に仁屋クラスの人たちが出てくる。それは按司家や親方家への、その村出身の奉公人だと思われる。中には薩州まで随行していた人物もいたと思われる。他の資料では、随行していった人物を確認することができる。石灯籠や銘のある石香炉の寄進は、村の祭祀とは別のものである。
薩州への目的は年頭の慶賀使、謝恩使、太守(藩守)様の継承、王の即位などである。
①②③④は文字が摩耗しいて判読できず。
⑤「嘉慶二十五年 奉寄進 玉城按司」
⑥「奉寄進 嘉慶十七年 秋分吉日 比嘉仁屋 當山仁屋 城間仁屋」
⑦「嘉慶二十五年庚辰 奉寄進 玉城按司」
⑧「嘉慶□□□(十七年か) 玉城親方盛林」
⑨「奉寄進 嘉慶十七年秋分吉元旦 嶺井親雲上 與那嶺筑登之上 比嘉筑登之
大城仁屋 山川仁屋 知念仁屋
▲殿の入口の石灯籠(①②文字摩耗) ▲④⑤の石灯籠(④文字摩耗)
▲⑥⑦⑧の石灯籠 ⑥の石灯籠
⑦の石灯籠
⑧の石灯籠 ⑨の石灯籠
5.国頭村辺土名の「世神之宮」の香炉
国頭村の辺土名まで。国頭村辺土名の「世神之宮」の祠にある四基の石香炉がある。石灯籠や銘のある香炉と按司や王子、あるいは親方や脇地頭、奉公人などの薩州や江戸登りと結びつけることができる。宮城栄昌氏が遭難や漂着船と結びつけようとされてため、結論を見い出すに至っていなかった。
王子や親方や按司、脇地頭などの薩州行きとの関係でみると、「世神之宮」の石香炉の三基は『中山世譜』(附巻)の薩州行きの記事と三基(①~③)とも一致する。仁屋クラスのメンバーは殿内や御殿に奉公していた各村の人物とみている。それは他の資料で紹介する予定。(以下の記事の左側は石香炉、右側は『中山世譜』(附巻)の記事)
①道光二十二年寅年 宮里仁屋(1842年)→国頭王子正秀が薩州に赴いている。
②咸豊九己未 金城仁屋 仲間仁屋→馬氏国頭王子正秀が薩州に派遣されている。
③咸豊十年九月?宮城仁屋(1860年)→辺土名親雲上正蕃が薩州に派遣される。
④光緒十一乙酉 新門謝敷仁屋(1885:明治18年)
▲国頭村辺土名の「世神之宮」
▲①②の石香炉
6.本部町にある本部按司と香炉
崎本部の御嶽のイビに二基の香炉がある。「奉寄進 □□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(左)と「奉寄進 同治□年□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(右)とある。同治元年(1859)の向氏本部按司朝章の薩州行き(6月~10月)と関わるものか。
▲本部町崎本部のウガミ(ウタキ) ▲ウガミの上部にある香炉
▲左側の香炉 ▲右側の香炉
7.大宜味村田港の御嶽の祠の香炉と奉公人(…にや)
大宜味村田港と大宜味のウタキの祠に数多くの石の香炉がある。ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」と余り知られていない。田港のウガンの祠には21基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の6基である。田港に何故、21基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。
田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に11基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。ニカ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。①~⑥の香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。
①「奉寄進 大□□」(年号なし)
②嘉慶九年甲子 奉寄進 九月□日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。
嘉慶9年は西暦の1804年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。
③「奉寄進 同治□年 □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□」
年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治三年に年頭の慶賀で薩州へ派遣されている。それに伴うものか。
④屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□
⑤□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋
⑥「奉寄進」の文字のみ
①の香炉 ②の香炉
③の香炉 ④の香炉
⑤の香炉 ⑥の香炉
8.大宜味村大宜味の御嶽の祠と香炉
この祠は1953年に建立されている。中に11基の香炉があるが摩耗したためか文字が読めるのは一基もなかった。そのため、田港の香炉との比較ができないのが残念である。
▲1953年に建立された大宜味のウタキの祠 ▲祠の内に11基の香炉がある
9.羽地間切稲嶺村の真照喜御宮の香炉銘
名護市稲嶺(真喜屋村から分離)の真照喜屋御宮の四基の香炉がある。その一基に「奉寄進 明治廿八年九月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。その香炉は上地福重氏が上京した時の寄進だと明確に記したものである。ただ、氏が上京した記録はまだ確認できていない。どう結びつくかはっきりしないが、その頃の資料に羽地間切稲嶺村十七番地平民の宮里清助の「御願書」がある。その中に、上京と関わる出来事が確認できる。
・旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事 仝(明治)九年
九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
・東京博覧会ニ於テ当間切出品総代相勤申候 羽地番所 仝(明治)廿三年九月三日
ここでは、宮里清助氏(天保12年:1853生)が羽地間切役人になる以前、羽地間切惣地頭池城親方家で奉公をしていた。どのような役目をしていたのかをあげると、茶湯詰・側詰・雇詰・宿詰・馬當詰・小鳥当詰・内原詰・手作詰・道具搆・庫理詰・物方取扱搆・惣地頭池城親方上京の時の御供などを勤めている。その後の明治12年に羽地間切屋我村掟となり、西掟・南風掟大掟・首里大屋子・夫地頭・惣山当・惣耕作當代理(明治29年)まで勤めている。殿内や御殿での奉公人の奉公をみると、それは首里で培ったことを地方に伝える電流のような役割を果たしている。
▲名護市(羽地間切)稲嶺の真照喜屋御宮 ▲上京の時に寄進した香炉
▲宮にある四基の香炉 ▲稲嶺村の宮里清助氏の「御願書」(一部)