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2023年10月
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今帰仁村の戦後60年(企画展)(2008年開催
【大正の頃の城ノロクモイは平良カマド】(平良家世襲)(「国頭郡志」による)(大正8年頃)
平良カマド→旧姓平良信子
二本の竹筒が黄金の簪(カブ)を納めるのに、水晶玉の類が漆器の丸櫃に納められていたこがうかがえる。サバネとハビィル玉と小刀の写真(カラー)の提供をうけたことがある。「ノロ制度の終焉」で紹介した記憶がある。サバネやハビィル玉などの所在が確認できるかも。


(実測図略)
①沈金丸櫃(破損) ②竹筒(大) ②竹筒(小) ③瓶子(対)
④湯沸かしの蓋(鉄製) ⑤茶托(4枚)同大きさ) ⑥丸形の酒注 ⑥沈金丸櫃の蓋か

▲漆器の丸櫃の調査をされる前田国男氏氏 ▲回調査記録をした城ノロ家の遺品
40.金武間切(現恩納村)(二枚の辞令書から)
下の二枚の辞令書は『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著:昭和7年)の口絵に納められているものである。28日(水)に恩納村立博物館で「恩納村の御嶽と集落」をテーマに話をする。この辞令書を手がかりに恩納間切(現在の村:ソン)の導入部分にあてようと。

しよりの御ミ事 首里の御ミ事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのろハ
もとののろのくわ 元のろ之子
一人まかとうに 一人まぜにに
たまわり申候 たまわり申候
しよりよりまかとうか方へまいる 順治十五年七月廿八日
萬暦十二年五月十日 (一六五八年)
(一五八四年)
恩納間切の創設は一六七三年のことである。二枚の辞令書は、恩納間切が創設される以前のものである。その当時の「おんな」(恩納)は金武間切のうち。万歴(1584年)の辞令書は「きんまきり」や「おんなのろ」など間切やムラ名に、まだ漢字が充てられていない。もう一枚の順治(一六五八年)の辞令書では金武間切は漢字が充てられているが「おんなのろ」は、まだ平仮名表記である。もう少し時代が下ると漢字表記になるが、その過渡期の辞令書である。
「おんな」の語義について質問がでそうなので紐解いておくことに。「おんな」に恩納の漢字が充てられるようになるのは、一六五八年より後である。一六七一年の辞令書は漢字になっているので、その間になにがあったのだろうか。いずれにしろ「おんな」に「恩納」の漢字を充てた。その「おんな」はどこからきた地名かである。
「おんな」と表記されるが、ウンナと発音されたと思われる。時々「おんな(女)ではないか」とくるが、おんな(女)は方言音でヰナグなのでウンナとはかけ離れる。
ウン+ナに分けると解けそうである。ナは識名や謝名などのナと同様、広場や庭など場所など広場を表すナ。ウンは御や大などを表す語。「大きな」や「りっぱな」などの意。するとウン+ナは大きな(りっぱな)空間、大き(りっぱな)な広場、大きな(りっぱな)庭と解することができる。現在の恩納村恩納に、そのような場所があるかというと、万座毛(マンザモウ)がある。万座毛は一七〇〇年代の尚敬王が北山巡視の際に立ち寄り「万人を座しめうる原」として名付けたものだという。ウンナは、そのような万人も座れるような大きな広場(庭)があることに由来していると見てよさそうである。
ウンナ(恩納)は「大きな(りっぱな)広場(庭)がある」ことに由来し、そのことがムラ名となる。現在の恩納村恩納に万座毛があり、それがウンナ(恩納)というムラ名になったと考えている(そんこと、すでに紐解かれているかも)。




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運天港が果たした歴史的役割
・源朝朝公の運天渡来伝承
・良港としての自然条件が備わっている。
・北山の時代から、海上交通の重要な要所として機能していた。
・『おもろさうし』に「うむてん」とうたわれている。
・薩摩軍の琉球侵攻の舟元がこほり(古宇利)と運天であった。
・近世紀から、源為朝の運天上陸伝説がある。
・薩摩への「仕上世米」の積み出し港であった。
・運天に番所(後の役場)・在番が置かれた。
・近世琉球の中国対策の一役を担っていた。
・歴史的な百按司墓・大北墓・大和墓・オランダ墓や古墓群などがある。
・琉球・日本との通商を目的とした外国船が来航した。
・避難や風待ちのために一時寄港地として利用された。
・ペリー一行の来航
・フランス艦船の来航
・古宇利島への発着港(昭和23年~平成15年)
31,・田港のろくもい
【管轄村】
・田港 ・屋古 ・塩屋
ノロ田約二〇〇〇坪
【明治四三年の社禄】
社禄の給与額(明治四三年) 五〇円(証券) 三五円二〇銭(現金)
計八五円二〇銭
ノロクモイ襲(就か)職届(写)
字田港六百八十七番地戸主
前ノロクイモイ(亡)当山ウシ 安政六年一月一日生
字田港六百七十二番地 戸主 勇三郎二女
現ノロクモイ襲(就か)職者松本トヨ 大正九年十一月二日生
前ノロクモイ当山ウシ儀昭和八年一月三十一日死亡ニ付同人兄ノ孫トヨヘノロクモイ
就職致候ニ付
前ノロクモイウシノ死亡届新旧ノロクモイノ戸籍謄本並ニ新旧ノロクモイ
系図相添ヘ此段及御届候也
昭和十年三月十二日
字田港六八七番地同居者 届出人当山ウシ 明治二拾八年五月十九日生
字田港六二七番地戸主勇三郎二女
届出人ノロクモイ就職者松本トヨ 大正九年十一月二日生
【田港ノロ勾玉】(新城徳佑ノート)
・穴の大きさ 一分五厘左右仝じ大きさ
・水晶丸玉 六〇個(内青玉一個、其の隣に乳白色玉一個、曲玉の直ぐ左)
・かんざし 頭は金色、差手は銀?


25.城のろくもいの遺品
【城ノロの管轄】
・謝名城(根謝銘・城・一名代)・喜如嘉・饒波・大兼久
・ノロ田(約一〇〇〇坪)・ノロ畑
【謝名城ノロクモイ所蔵】
一、宝物(黄金簪一ツ(花ノ周囲六寸五分、竿長 三寸五分)
一、水晶ノ玉(頚環)大四十九個 小五十一個
一、絹衣 大一枚 小一枚
社禄の給与額(明治四三年) 五〇円(証券) 一六円七六銭(現金)
計六六円七六銭
・ハビィル玉(水晶玉十八個・十九個・トルコブルーの勾玉・ブルーの玉)
・サバネ
・ハビィル玉(謝名城)



26.屋嘉比のろくもいの遺品
【遺物】屋嘉比村ヌルクムイ(沖縄史料編 県図書館臓:大正三年)
一、水晶玉(大)八十一個 曲玉一個
一、水晶玉(小)八十個
一、金簪(一本 男用)
一、日本刀 一振
一、絹ノ衣装(神人用黄色)一枚
一、水色ノ下着(仝上) 二枚
一、黄色ノ長手拭 二筋
一、南蛮瓶(異形) 三個
社禄の給与額(明治43年) 一〇〇円(証券) 十五円七六銭(現金) 計一一五円七六銭
・勾玉
・水晶玉・ガラス玉
・黄金のカンザシと竹筒(カンザシの入れ物)(ウンジャミの時にだす)


2023年10月24日(火)
2007年5月15日(火)
「今帰仁の歴史と文化」を描くための手掛かりとなり史料(資料)を一つ一つ取り上げていくことにする。「今帰仁の歴史」や「運天の歴史」を20数年前に書き上げたことがある。もう20数年もなるので、もう一度検討を加えるべき時期にきている。そのこともあって、今年の秋に「今帰仁(北山)の歴史と文化」(仮称)のタイトルで展示会を予定している。一つひとつの紹介は、展示会に向けての作業である。
22.【池城墓】(北山(今帰仁)の歴史と文化)
池城墓まで足を運んでみた。今帰仁村平敷の小浜原にある。康煕9年(1670)に造られ池城墓はイチグスクバカと呼ばれる。墓名の所以ははっきりしないが、碑文や墓室の石棺に記された「さき山大やくむい」からすると、「さき山大やくむい」は、首里に住む脇地頭で、その人物は池城家の一人だったのであろう。そのために池城墓と名付けられたと見られる。墓室内にある石棺に「寛文三年」とあり、ちょうど、数年間日本年号を使った時期である。地名は漢字交じりの時期で、平仮名から漢字表記へ移る過渡期の史料である。また、首里に住む脇地頭と扱い村との関係を知る手掛かりとなる。
墓の左側に石碑があり、以下のように刻まれている。
表
大清康煕九年庚戌八月廿一日
寅十一月八日かけ 未十二月十九日かけ
一さき山大やくむい 同人女房大あむしたれ 同人子たまくすくのろくもい
右三人入申ために石さいくたのミ仕たて申候
裏
七月十六日八月廿三日まて仕候
石さいくなはのせそこにやわきさいく内間にや
戌八月廿三日こかのおきて

▲今帰仁村平敷にある池城墓

▲墓庭にある石碑 ▲墓の前を流れるヒチョシナガーラ
2007年5月12日(土)
今年度最初の「ムラ・シマ講座」を開催する。スタートなので、参加者の顔合わせをしてクボウノウタキへのぼる。晴天なり。館内で今帰仁グスクとクボウヌウタキの予備知識をいれて、フィルドワークへ。
ウタキとはどんな所だろか? ムラ・シマのウタキとクニレベルのウタキの違い。ウタキの内部の名称。クボウヌウタキの名称の所以。祭祀と関わる神人。上空からみた今帰仁グスク。郭や場所の名称など。

▲館内で顔合わせ ▲館内でクボウヌウタキと今帰仁グスクの説明

▲クボウヌウヌキのイベで ▲クボウヌウタキの頂上で
2007年5月9日(水)
23.【今帰仁間切今帰仁村のクボウヌウタキ】
この御嶽(ウタキ)は国レベルのウタキと位置づけている。『琉球国由来記』(1713年)では、今帰仁巫(ノロ)の崇所とされる。本来、三十三君の一人今帰仁阿応理屋恵の崇所ではなかったか。『琉球国由来記』が編纂された頃、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていた時期、あるいは廃止されていた時期でもあり、今帰仁阿応理屋恵が今帰仁に居住していた時は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場としていたと見られる。勿論、祭祀に今帰仁ノロや村の神人や間切役人や村人たちの参加があったであろう。
今帰仁阿応理屋恵が首里に引き揚げると、クボウのウタキでの祭祀は今帰仁ノロが肩代わりしたものと見ている。後に今帰仁阿応理屋恵は今帰仁で復活するが、今帰仁ノロが肩代わりしたのを、しっかりと元に戻すことができなかったのだと見ている。
クボウのウタキでの祭祀が、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場、つまり国(クニ)レベルの祭祀だったというのは『琉球国由来記』(1713年)に表れた「君真物出現」と以下の祈願の趣旨から読み取れる。クボウの御嶽での祭祀は村(ムラ)の御嶽での祭祀とは異なるレベルの祭祀であると位置づける必要がある。三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵が今帰仁按司(監守)と密接に関わっており、北山監守の設置と「君真物」を迎える今帰仁阿応理屋恵の祭祀と表裏一帯の関係にあったことが伺える。因みに三十三君は王室関係の女性である。
【今帰仁間切今帰仁村コバノ嶽】
謝名村ニ、アフリノハナト、云所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立時ハ、コバウノ嶽ニ、
赤冷傘立、又コボウノ嶽に、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立ト、申伝也。
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・
宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ
24. 【国頭間切辺戸村アフリ嶽】
昔、君真物出現之時、今帰仁間切、アフリノハナニ、冷傘立。時コバウノ嶽ニ冷傘立、又あふり嶽
ニ立と、申伝也。神道記ニ曰。新神出給フ。キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上之深山ニ、アフリ
ト云物、現ゼリ。其山ヲ即、アヲリ岳ト云。五色鮮潔ニシテ、種々荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニ
シテ、一山ヲ覆尽ス。八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ、王殿ニ奏ス。其十月ハ、
必出給フ也。時ニ託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳をウタフ。皆龍宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所
トス。傘三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。
【国頭間切辺戸村宜野久瀬嶽】
そこでの祈願の趣旨は以下の通りである。
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子、御スデモノゝ御為、又島国之作物ノ為、唐・大和・
宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ
【国頭間切辺戸村大川】
首里天加那志美御子部、並、聞得大君加那志部、御水御撫メシヨワチヘ、拾百年、拾百歳之、
御ガホウアルヤニ、御守メシヨワチヘ、御タボヘメシヨワデゝ
▲クボウのウタキのイビの前 ▲クボウのウタキのイビ
2023年10月23日(月)
「基調講演」の準備にかかる。約100項目の取り出しにかかる。
2011年8月26日(金)調査メモ
本部町嘉津宇に「刺繍」をほどこされた服がある。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている。その後、『服飾の研究』などで紹介されている。『沖縄県国頭郡志』の以下の文面を手掛かりに検討してみることにする。
その前に、これまで『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている遺物や旧家などがどうなっているか、その確認をしておく必要があることから、調査を進めてきた。嘉津宇の服や布片などの確認もその一つである。その現物の着物を見学する機会があった。服や模様や刺繍などについて全くの素人なので触れることはできない。
約100点(ヶ所)の目録づくりから。一部紹介。、
首里王府から献上された山原の旧家が持っている(いた)情報を掲げてみる(他の資料については別稿でまとめることにする)。基本的に衣類や布地は首里王府からの献上物である。ただ、伝承では北山の滅亡との関係で捉えられているのが目につく。他の地域に残る古い衣装類はどうだろうか。
1.国頭村奥間座安家(アガリー)
尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣・黄色絹帯地及黄金カブの簪
2.国頭村辺戸の佐久真家
70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存
3.本部村(町)並里(満名)上の殿内
按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)、
繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)

4.花の真牛(本部町伊野波)
真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の
真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。
5.久志村(現東村)川田(根謝銘屋)
同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪
6.大宜味村田港(根謝銘屋)
田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。
7.大宜味間切根差部親方
・・・其の衣類は根謝銘大城某の宅に保存せり。
8.国頭村字安田(屋号:川口)
仲今帰仁城主の一族の伝承あり。黄金の男差簪、古い短刀一振。古文書(辞令書)
9.名護間切名護村長寿大城
尚敬王34年次良大城101歳に黄冠を賜い、絲綿一把綿布二端を賞与される。
10.金武村(現在町)金武宜野座及び安次富家
両氏は歴史上の人物阿波連親方の後胤なりしの伝承。宝石絹服等を秘蔵。
11.今帰仁阿応理屋恵按司家(阿応理恵御殿)(所蔵目録)
・冠玉たれ一通 ・同玉の緒一連 ・王の胸当一連 ・王の御草履一組 ・玉かわら
・同玉かわら 一大形 ・二十二小型水晶の玉百十六


12.本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家
同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて
左の遺物を納めたり。
一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)
同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に葬らるるのみ。
【2014年6月9日】メモ
2014年6月9日(月)本部町嘉津宇を踏査する(雨)。目的は嘉津宇ムラは1719年に伊豆味の古嘉津宇から現在地に移動。その故地の確認。故地に手がかりとなる拝所やカーなどの確認はできなかったが、盆地になっている古嘉津宇の撮影はオッケー。
現在の嘉津宇の公民館へ。その前に神アサギとトゥン、その後方にウタキのイベあり。具志堅の地内に移り、明治36年に具志堅村と合併するが、戦後もとの嘉津宇となる。
嘉津宇の公民館、神アサギ、ウルン、ウガン(イベ)、ウプヤー(上原門中)、ユレーヤー、クランモーなどの確認。ユレヤーの仲村翁とであり、話を伺う。近いうちに、衣装の件で伺うことを約束する。門の前に車を降りると「仲原さんね」と、仲村さんの方から声をかけてくれた。雨が降り出したので家で話を伺う。詳しいことは、改めてということで短い時間。
ユレーヤーの前の祠を見せてもらった。『沖縄県国頭郡志』に「按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて」とある按司位牌は、この二つと見られる。「古櫃一個」は前の祠から家の中に移し、衣装を入れてあるとのことことであった。それは改めて拝見させていただくことに。

▲嘉津宇区公民館 ▲神アサギとトゥン ▲ウタキのイベ


▲ユレーヤー前の祠内 ▲二つの按司位牌
▲嘉津宇の故地とみられる伊豆味の古嘉津宇 ▲天底の故地と見られる伊豆味の内原一帯
20.今帰仁ノロ

2023年10月22日(日)
座間味島調査:メモ(平成19年11月) トップ(もくじ)へ
2007年、10年前座間味村へ。座間味島をみることで山原(やんばる)がよく見えてくるのではないか。そんなことを考えながら島へ。遠見所、印部石、それとノロ神社(ノロ制度の終焉)などについて。
11月25日~26日(平成19年)、座間味島へゆく。座間味島には座間味と阿佐と阿真の三つの字がある。集落内を歩いていると、屋敷内に祠(殿)をつくり鳥居が建立されている。波照間島で見られたが屋敷をワー(ウタキ)にしていこうとする発想だろうか。山原とは異なる形態か、それとも山原では消え去ったものなのか。
慶良間列島(馬歯山)、その一島の座間味島の阿護浦など経由の船舶を拾い出した一覧が『座間味村史』(下)にある。それら数多くの記事に目を通すのはお手上げである。情報の非常に少ない島の人たちが、島の前を往来する船や停泊している船を見ながら国の動きをどうみていたのか。島の人たちは「石火矢(大砲)、ウガマリンドー(拝むことができるよ)」、「唐船、ウガマリンドー(拝むことができるぞ)」程度のことだったのかもしれない。あるいは、あるだけの情報で国の動きに思い巡らしたのであろうか。
一方、『南島風土記』(東恩納寛惇著)に以下のような記事があり、また他の資料をみても、渡唐船や楷船の船頭や乗組員が多くでており、また島と那覇港との往来も頻繁にあり、王府はある種の特別な計らいをしている。王府の動きに、自ずと敏感だったとみられる。
島民海事に習熟し、古へ進貢船・楷船の水夫を貢し、代ふるに免船の御典を以てしたり、羽地仕置に云、
「慶良間百姓、加子仕、方々罷渡候、留守飯米、前々は一日に付、雑石五合宛にて候処・・・・(寛文九年
十二月丗日)
「仲尾次政隆翁日記」(1855年)の座間味島滞在中の島の役人たちとのやりとりは、名越左源太や西郷隆盛などのことが想起される。流刑者が中央部の情報の提供者でもある。
【座間味】
座間味は集落の西側山手から集落の中央部を西から東側へと川(内川)が斜めに横断している。座間味の集落は、その川の山手側をウチンダカリ、海浜よりをハマンダカリと呼んでいる。ウチンダカリの方に拝所が多くあり、集落の発達はウチンダカリからハマンダカリの方へ広がっていったとみられる。
河口はウフンナトゥ(大きな港)と呼ばれ、港だった名残が地名にとどめている。
▲集落の北側からみた座間味の集落 ▲高月山展望台からみた座間味集落
▲座間味集落内を流れる内川 ▲役場前に立つ顕彰碑
▲座間味村役場前にあるバンズガー ▲御殿(ウルン)の石跡
▲ヌル宮(ヌルドゥンチをお宮にした?) ▲学校の後方にあるマカー(座間味の御嶽?)
2023年10月21日(土)
涼しくなりました。
【奄美大島へ】
平成19年11月24日から16日まで奄美大島を訪れる。今回の目的地は加計呂麻島であるが、途中の集落も足を運ぶことに。奄美空港近くの和野(旧笠利町)と節田の集落を見て、浦上と大瀧(旧名瀬市)で車を降りてみる。そこから名瀬の市街は素通りして小宿(名瀬)から反時計回りに南西の方へ。24日は大和村今里で日が暮れる(宇検村と瀬戸内町は積み残し)。
集落から集落へは山越えや峠越えである。結構厳しい坂道や曲りくねている。集落と集落を繋いでいたのは、そのほとんどが舟であったことが予測できる。そういう時代の集落の成立ちはどうなのだろうか。沖縄本島の北部(山原)の集落の成立ちとどう違うのか。あるいは何が似ているのか。そのことを確かめたくて、各集落を踏査してみた。沖縄本島の北部(山原)地域の集落をみていく場合、集落内の神アサギを見つけ、そこから御嶽(ウタキ)を確認し、それを結ぶ軸線に沿った形で集落が形成される。奄美大島でも、そのような法則性を持っているか、あるいは別の形で集落が形成されているのか。
一度や二度で集落名を覚えるのが精一杯である。ここでは公民館(・・・分館)と土俵やおがみ山の確認から。そこで鳥居のある神社(おがみ山:沖縄本島のウタキやグスクに相当するか?)と集落との関係をみる。まだ、十分な調査ができているわけではないが、集落移動の痕跡が非常に少ないのではないか。そんな印象をもっている。
これまでの調査や研究成果に目を通していくが、どのような展開になるのか全く見通しは持っていない。すでに、奄美大島の集落をみるには、沖縄本島北部でみてきた「物差し」では当てはまらないことには気づいている。奄美の物差しを見つけ出せるか。楽しみである。
取り急ぎ、集落名と現場が結びつくように、また混乱しないように画像を先に入れておくことに。(□や○をした集落は今回足を運んだところ。龍郷町と旧笠利町は今回は一部のみ。宇検村と瀬戸内町は積み残しが多いので再度挑戦することに!)
『南島雑話』(名越左源太)に「村里」(1850年頃)が記されているので村を見ていく基本資料となるので掲げることにする。
名瀬方(12ヶ村)
根瀬部村・知名瀬村・小宿村・佐念村・朝仁村・金久村・伊津部村・大熊村
浦上村・有屋村・朝戸村・中勝村
龍郷方(10ヶ村)
有田村・芦花村(芦花部村)・阿木那村(阿木名村)・幾里村・嘉徳村・円村・龍郷村
久場村
笠利方(7ヶ村)
屋仁村・佐仁村・用村・笠利村・手花部村・喜瀬村・湯湾村
赤木名方(11ヶ村)
辺留村・次野(須野)村・宇宿村・万屋村・節田村・和野村・平村・赤尾木村・芦徳村
里村・赤木名村
瀬名方(6ヶ村)
浦村・大勝村・古里村・中勝村・貞(奥)間村・戸日(戸口)村

▲重宝した奄美大島マップ(〇や□は今回踏査した集落)
2023年10月20日(金)
与論踏査(2018年2月)

▲与論城跡の正面付近 ▲城集落の石囲いの屋敷
2018年22日23日と与論島へ。フェリーが港(供利港)へ着くと宿のバスが向かえに。宿の手続き済むと車をかりて与論の図書館へ。図書館で調べ。今回の与論島踏査の流れ(ストーリー)を決める。『与論町史』から東家、基家、龍家の屋敷跡の確認がしたくて図書館の職員に伺う。城・朝戸・麦屋あたりにあることを教えてもらう。大字の区分もあやふや。図書館にあった『与論主世鑑』(附瀧野氏等系図並系統伝禄)(昭和11年)をみる。三家の最初の部分を詳細にみる必要がありそう。それらの野史から琉球の時代の与論の正史でも組み立ててみる必要がありそう。与論城へ足を運ぶ。「与論を見る視点」として、メモったノートから。与論島は、琉球時代北山の時代、三山統一首里王府時代、薩摩の時代など、それぞれの時代の名残を数多く残している贅沢な博物である。そんなことを考えながらの与論踏査である。
・琉球の時代
・三山時代の北山
・三山統一後の時代と与論
・城(グスク)と城(グスク)集落、グスクの地名(グスクは高地性集落(50m~)
・「おもろさうし」のかゑふた(与論の古称)、親のろ、のろ、島ののろ
・ハンタフェーの崖中腹の墓群(風葬)
・与論グスク週への集落形態(曲りくねった道筋はグスク時代からのものか?)
グスク正面付近の低い石積みの屋敷(近年の石囲いの屋敷ではあるが、
仙台市入来町や知覧の武家屋敷などが設計者の念頭にあったか)
・与論のシニグと沖縄本島北部のシニグ
・与論に古辞令書が見つかっていない。
・明治まで続く針突
・地名や言語の共通性
今回与論城跡の石囲いとピャーパンタの崖中腹に多くある墓に注目してみた。ピャーパンタ(坂端地)呼ばれる崖に墓。本部半島の岩陰の墓に類似している。与論城跡の断崖にある墓地へ散策道が一部伐開され見通しがきき、滑らないように整備しなおしてある。そこに墓をもつ方のふるさと納税で整備。
・薩摩支配下の与論
・急速に薩摩化する与論
・城の低い石積みの屋敷は、鹿児島の武家屋敷をイメージしたものか。
・色濃く残しているもの
土葬になるが、洗骨して納めた葬った厨子甕の蓋部分は埋めず)
・崖中腹の墓も利用される。
・十五夜祭り(琉球・与論・大和)
・明治の与論
・アメリカ統治の与論(昭和28年に鹿児島県へ)
・復帰後の与論

▲城の屋川(ヤゴー) ▲与論城築城のころから使われたという地下川 ▲城地区公民館

▲城の集落(低い石積み囲いの屋敷)▲与論城跡の崖へ散策道が整備され墓が見通せるように

▲崖中腹の一積みの墓の一つ ▲岸本墓









【国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004年7月25日)メモ
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。
『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
・シチャラ嶽 神名:スデル御イベ
・アフリ嶽 神名:カンナカナノ御イベ
・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ
アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。
アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。
宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」
の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。
首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。


▲辺戸岬から見た安須森 ▲辺戸の集落から見た安須森
【辺戸のシチャラ嶽】
『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望 ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

▲御嶽(ヒチャラ御嶽)の頂上部にあるイベ ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある
※その後、ヒチャラ御嶽の建物やイビヌメーの石灯籠が台風で、石灯籠も破壊される。
【国頭村辺戸】(2005年6月24日)メモ
沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。
空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。
安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。
『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、
新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。
とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ) ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)

▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島 ▲辺戸岬からみた与論島
喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。
琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。
それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。
【喜界島の野呂(ノロ)】
『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。
一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
ただし村々みき造り候義さしとめ候
一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、向後差とめ候
一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候
※ノロの弾圧
喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも
隠れて、明治に至る。
赤連の「新山家系図は明治になって不明。
【喜界島の主な出来事】
・1441年 大島は琉球に従う。
・1429年 琉球国は三山が統一される。
・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。
その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
・『球陽』に「鬼界」とある。
・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
尚徳王が築いたともいう。
・1266年に琉球王国に朝貢したという?
・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
(間切・大城大屋子の役職)
・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
(ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
五間切)
・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
(間切のもとに村々がある)
・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
(豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)

【喜界島の集落(ムラ・シマ)
喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。
喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、
喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。
①湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
②荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
③西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
④東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
⑤志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久
一日目、中里(ナカザト)→荒木(アラキ)→手久津久(テクツク)→上嘉鉄(カミカテツ)→先山(サキヤマ)→蒲原(ウラハラ)→花良治(ケラジ)→蒲生(カモー)→阿伝(アデン)までゆく。まずは、各村々の情報を整理することから。一気に整理しないと、どこのことか混乱を起こしてしまう。
▲中里公地区民館 ▲中里地区公民館
▲荒木公民館 ▲保食神社の由来の碑

▲荒木漁港 ▲保食神社(荒木)


▲手久津久集落の山手で田芋栽培 ▲集落の山手に湧泉がある

▲上嘉鉄の集落 ▲上嘉鉄地区復興センターの前庭

▲上嘉鉄地区復興センター
▲先山地区公民館 ▲先山漁港(現在の様子)
▲先山集落と港
花良治村(ひらじ)
・ノロの祭祀場のミヤ跡やノロの祭祀場のアシャゲ跡が残っている。
・北東側の蒲生は花良治から分離
・「おもろさうし」に「けなち嶽」と出てくる。
・1466年(成化2)に琉球国尚徳王の軍勢が襲来した地
・番所が置かれる
・塩道の三原に降りた天女の霊泉に羽衣伝説あり
・天女が飛び去るとき、長男は与人、次女はノロに。その遺品の衣装は当地の粟島家・盛山家に
残されているという。
・蒲生に天女を祀った天降神社があり、神体は愛用の鏡があるという。
・喜界七社の一つに高尾神社がある

▲蒲生地区公民館(2018年撮影)

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)
しよりの御ミ事 首里之御ミ事


▲日本復帰記念碑(昭和28年) ▲末吉神社
1765年御用船の出入りを早町のみから湾港も認められる。1767年湾に白嶺神社を創建する。
・坊主前の墓
・仮屋の跡
・御殿の鼻


グスクは村名の示す通り、グスクがあった集落の印象がある。現在の集落のあるところは、標高100mの高台にあり、祭りをするハンジャーがある。ハンジャーは崖にあるジャー(湧泉)に因んだ名称か。
1697年 代官城久村に八幡宮建立する。
明治5年(1872)7月25日、明治政府に対する初の琉球の使者、維新慶賀使節の正使伊江王子らが那覇を出発し7月25日に鹿児島に、9月3日東京に到着する。帰りは10月25日鹿児島に到着するが、那覇に着いたのは翌年の2月5日であった(『那覇市史』)。鹿児島からの帰途、嵐に会い喜界島へ漂着する。早町の東尾昌宅に一ヶ月余逗留する。
・涙石
・集落は北側の山手から麓に移動(雨土知:アマドウチ)。
・山手のニイバタ、海側をコミヤ
・琉球国時代のミヤ跡がある
・明治初期から
1826年塩道村に唐船が漂着する。14人全員生存。翌年、14人を琉球へ送致する。
【喜界町歴史民俗資料室作成:文化財マップより】
1646年に「琉球王の使者として、薩摩へ上る途中、嵐の為乗船が遭難し志戸桶に漂着、そのまま土着して一家をした(319)。1843年5月志戸桶沖(沖名泊)に異国船、29人ほどが上陸する。牛を煮て食べたい様子であったが許可せず、お粥を食べさせた。国はイギリスのようであった(『喜界町誌』310頁)。
【喜界の志戸桶間切の大城大屋子職補任辞令書】
しよりの御ミ事 首里の御詔
きゝやのしとおけまきりの 喜界の志戸桶間切の
大くすくの大やこは 大城の大屋子は
ちやくにとみかひきの 謝国富がひきの
一人さわのおきてに 一人さわの掟に
たまわり申候 給わり申候
しよりよりさわのおきての方へまいる 首里よりさわの掟の方へまいる
嘉靖三十三年八月二十九日 嘉靖三十三年八月二十九日(1554年)


1746年志戸桶の喜美治、藩主宗信より褒賞として馬を拝領した。
・沖名泊(ウチニャートマイ)
・七城跡
・平家森
・平家上陸の跡









▲大朝戸地区公民館



弘化年間(1844~48年)に北方から異国船の数名が赤連海岸の一里鼻に来たので、牛と水を与えて立ち去らせたという(『喜界町誌』310)。
赤連の「新山家系図」からノロの任命?
初代の新山思三郎は東間切塩道村半田に住み、嘉靖14年(1535)に西目の大屋子となり、長峰大屋子となる。
・百之台の西側の麓にある
・1692年の喜界島帳留に湾間切与人の扱村として「山田村」が出てくる。
・天保年間、不作により百姓が村を離れる(8家となる)。
・早町村に住む貞民も救済を命じ、自費で農具を買い入れ牛馬を貸し農耕を奨励(21家となる)














奄美大島は笠利間切・名瀬間切・古見間切・住用間切・屋喜内(焼内)間切・東間切・西間切からなる。加計呂麻島は東間切と西間切とに別れる。かつての間切の領域が、今にどう影響を及ぼしているのか。
現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。

2007年10月17日から19日まで波照間島をゆく。沖縄県地域史協議会の研修会である。波照間島を中心としたテーマでの研修会である。17日は波照間農村集落センターで「波照間島の歴史と文化」と「波照間島の村落形成」の二本の講演がなされた。
18日は島の約30カ所の場所の巡見であった。私は数個のテーマを持っての参加である。沖縄本島北部と歴史・文化の関わりが希薄な波照間島を見るのであるが、沖縄本島を含めて見えるキーワード探しでは、それぞれの地が独自性の歴史文化をつくっているのではないかとの視点でみていくことに。それと、沖縄本島との違いは16世紀に首里王府へ統治される以前の先島の歴史・文化が、今にどう伝えているか。そのようなことを思い描きながら島のあれこれを見せてもらった。
山原、あるいは沖縄本島で見てきた御嶽(ウタキ)と集落との関係、あるいはグスクなどとは異なった説明を必要とした。そこで見える法則性が先島の島々や村、あるいは集落と御嶽(オン・ワー)との関係が島に住んできた人々が持っている本質的なものではないか。島を見る物差と先島域をみる物差、そして琉球国から見る物差しが必要であることに気づかされる。
・長田(ナーダ)御嶽は長田大主が祀られている。
・美底(ミスク)御嶽は獅子嘉殿が祀られている。
・オヤケアカハチの生誕地(歴史の評価で御嶽になるのだろうか?)
・嶽(ワー)と集落との関わり(集落は村でなく人家がある地域として捉えている)
・現在までの集落移動の経過(低地→段丘上→島の中央部へ)
・嶽(ワー)と御嶽(ウタキ)
(住居跡がワーにしていく傾向がある。本島では火神をまつるが香炉を置きイビにしてある)
・嶽(ワー)と祭祀(神人の出自と旧家)と島全体の祭祀関係(行政村以前の集落形態がみえそう)
・スク(グスク)と集落(ワーを中心として集落を形成、故地のワーも遺す)
・下田原グスク(大規模)と先島文化(下田原グスクを拠点とした時代を想定)
・下田原グスクを中心とした時代(波照間島)→竹富島→石垣島(先島文化に与えた影響?)
・歴史的な人物を排出した島(オヤケアカハチ・長田大主・ミスクシシガドン・ウヤマシアガダナ
・ゲートゥ・ホーラなど:伊平屋・伊是名島が排出した人物にまつわる歴史が彷彿)
・石垣の白保にある波照間嶽と移住した民(移住先で嶽をつくる習性を持った民)
・『琉球国由来記』(1713年)に波照間村とあり真徳利御嶽(マートゥーリワー)と白郎原御嶽
(シサバルワー)と阿幸俣御嶽(アバティワー)が登場する。

琉球国の最南端の波照間島の下田原城を見た時の第一印象は、八重山地域に文化があるとするなら、このグスクが拠点となっていた時代があったのではないかと。15~16世紀にかけて集落遺跡と位置づけられている。島の南東の標高25mほどの台地上の崖に沿って造られている。グスクが独立した形であるのではなく、周辺に石積みの屋敷囲いがいくとも連続してある。その中心の石囲いがグスクの中心部とみられる。50~100×180m規模の石囲いが残っているようである。
下田原グスクに立ってみた印象は、このグスクが栄えていたとみられる15~16世紀の頃、下田原グスクを拠点にして北側に散在する島々を統治していた時代があったのではないか。グスクからどのくらいの遺物が出土するかわからないが、規模と取り巻いている集落の後からいくらか想像が巡らしてみると面白い。竹富町の一島であるが、グスクの時代は波照間島の下田原グスクが統治の要になった時代を想定してみると興味深い。波照間島のグスクの位置する場所は、石垣島や西表島などの島々をつなぐ拠点になっていたのではないかと想像してみた。

▲ミシュク集落跡にあるミシュクケー(井戸) ▲集落跡地にある石(イビ?)
▲アースクワーの拝殿とイベ ▲ワー内の道筋(隣接して旧家がある)

▲下田原城遺跡入口 ▲下田原城遺跡の石積み

下田原城遺跡の石積み
▲下田原城遺跡の石積み(通路跡?)

高登盛(コート盛)(火番盛) ▲高登盛の上部の様子

▲波照間島でみた茅葺屋根の建物 ▲屋敷跡の火神(ワー?)と香炉
沖縄県地域史協議会
2023年度第2回研修会・日程
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1.期 日:2023(令和5)年12月7日(木)10:00~17:00
3.日 程:
9:45~10:00 受付開始
10:00~10:05 開会のあいさつ 沖縄県地域史協議会 代表 新里 歩
10:05~10:10 令和5年度運営委員の決意と抱負 運営委員
10:10~10:15 趣旨説明 渉外 川島 淳
【第1部 基調講演】
10:15~11:15 基調講演
やんばるに軸足を置いた地域の歴史・民俗編を編むために
仲原 弘哲(元今帰仁村歴史文化センター館長)
【第2部 事例報告】
報告時間:25分・質疑応答:5分
11:30~12:00 報告1 『糸満市史 資料編13 村落資料―旧真壁村編―』の刊行を終えて
上原 あやか(糸満市教育委員会)
【12:00~13:00 休 憩】
13:00~13:30 報告2 『宮古島市史第2巻 みやこの祭祀』について
新垣 則子(宮古島市教育委員会)
13:30~14:00 報告3 「平得の民話」
仲程 玲(石垣市教育委員会)
【14:00~14:10 休 憩】
14:10~14:40 報告4 「大里のちてーばなし」
仲村 孝士(南城市教育委員会)
冝保はるな(南城市教育委員会)
14:40~15:10 報告5 『伊是名牛助著「伊江島考察史」』の編纂・刊行について
―あれから12年の歳月が流れて-
玉榮 飛道(伊江村教育委員会)
川島 淳(元伊江島考察史現代語訳検討委員)
15:10~15:30 コメント
平敷 兼哉(宜野湾市博物館長)
【15:30~15:40 休憩】
15:40~16:28 パネル・ディスカッション
進行役:川島 淳(与那原町教育委員会)
16:28~16:30 閉会のことば 沖縄県地域史協議会 代表 新里 歩
16:30~17:00 会場の片付
17:00 研修会終了






徳之島と琉球
於:徳之島天城町(平成21年12月17日)(2009年)
仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)(当時)
はじめに
1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)
2.西郷隆盛の流刑と奄美(龍郷)・徳之島・沖永良部島
3.徳之島に漂着した船とその処理
4.古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)
5.琉球(首里王府)からのノロ辞令書
6.琉球の痕跡としての地名や役職や入墨や墓など
イ.地名 ロ.グスク地名の分布 ハ.古琉球的な墓 ニ.古琉球の時代からの針突
7.道の島の琉球的なものの禁止
おわりに
はじめに
与論島・沖永良部島・徳之島の三島を踏査していると琉球(沖縄)と共通する姿が見え隠れする。それらは古琉球(1609年)以前の首里王府の統治や人々の習俗や言葉が継承、あるいは痕跡として遺っているのかもしれない。三島に見える琉球の痕跡を歴史的、習俗、伝承・地名などを具体的にとりあげて、三島に遺っている琉球(沖縄)的なものが、以下のどの時代の影響なのか考えてみたいと思う。
・三山時代以前
・三山(北山・中山・南山)の時代
・三山統一から島津の琉球進攻(1609年)まで
・薩摩の琉球侵攻(1609年)以後
古琉球の辞令書や近世の文書だけでなく、地名(村名)やグスクやノロや掟など、琉球的なものが薩摩の統治下に置かれて影響を受けながらも消え去ることなく根強く継承されている。三島のムラ・シマ踏査し、三島のムラ・シマでの琉球(沖縄)的な痕跡を手掛として報告する。
・東間切之内 かめつ村
・東間切之内 花徳村
・西目間切之内 てゝ村
・西目間切之内 よなま村
・西目間切之内 せたき村
・面縄間切之内 あごん村
・さきはる ・かなみ崎
・とのはら ・しよひやの崎
・かなま崎 ・黒はす崎
・池 ・おつの崎 ・井ノ川
・井ノ川崎 ・たつ口
・かくちな崎 ・くらひの崎
・廉川 ・あこん川
・犬たぶ崎 ・あきり神川
・天摩崎 ・やとの川
・和にや泊 ・大くろ瀬
・つの崎
「琉球と与論・沖永良部・徳之島の三島」の関わりについて報告することにするが、ここでは徳之島を中心に述べることにする。三島には、近世になっても「まきり」(間切)の行政区分がある。その詳細について、よくわからないが、行政区分の呼称は古琉球の時代からのものである。奄美に残る古琉球の辞令書が25点余あり、首里王府から発給されたものである。間切という行政区分は首里王府の地方や奄美を統治した姿だとみていい。徳之島について述べたいが奄美大島と喜界島まで掲げてみる。
徳之島には現在徳之島町、天城町、伊仙町の三つの町がある。それぞれの町には十数の字(ムラ)がある。近世のムラは50近い数である。
1609年の島津軍の琉球侵攻である。旧暦の3月25日26日には今帰仁間切の運天(古宇利島)。27日は今帰仁グスクに攻め入る。そこでの出来事は、今帰仁グスクのその後の歴史に重要な影響を及ぼしている。琉球進攻は沖縄(琉球)の歴史を大きく変えていった事件であった。
3月20日に徳之島の秋徳につく。出港したが風がなく22日亀津に着く。そこで山狩りをしている。奄美大島で討伐、亀津で山狩り、今帰仁グスクは無人、首里で射撃戦が行われている。島津軍の琉球進攻は、日本の中世の合戦規模のものでは全くない。その様相は何を意味しているのか。17世紀初期の琉球の人口規模を知りたいのは、琉球側の戦力がどれ程のものだったのかにつながってくる。蔡温が述べているように1700年代には20万人だとすると、17世紀初頭は15万人ほどか(17世紀初頭イモの導入があり、食料が安定し人口は増え、蔡温の頃には20万人まで増えていったか)。二年後には島津軍の琉球侵攻から400年となる。
1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)
1609年の薩摩軍の琉球進攻は琉球と与論以北の奄美の島々の歴史を区切る大きな出来事である。薩摩軍の琉球進攻後、与論以北は薩摩の領地として割譲し現在に至る。それを境に琉球的なものがどう残ったのか。そして薩摩の統治で消されたもの、統治されながらも根強く残ってきたものにどういうのがあるのか。それを究めていくには、この薩摩軍の琉球進攻は避けて通れるものではなかろう。
1609年3月、島津軍勢の琉球侵攻で南下していく途中徳之島の秋徳(亀徳)と亀津での出来事が『琉球渡日々記』に次のように記してある。
「廿日の卯の刻に、西のこみを出船にと、とくの島の秋徳と申す湊に申の刻計りに着き申し候。
船道廿五里にて候。廿一日に出船で、十里ほど乗り出したら、少し向い風気味になり、結局はと
れになったので、引き返し、亀沢(津か)というところに着いた。・・・・廿二日に、深い山
を、おおぜいで山狩りをした。そのわけは亀沢の役人たちが山にかくれているのを狩出すためで
あった。
役人を狩り出し、特別に琉球入番衆主取を、致し方なく逮捕された。この人は三司官のうち、謝
納(名か)の婿である。黄鉢巻の位をもった人を捕らえたのである。」
秋徳は今の亀徳に改称されたようである。亀徳大橋の向こう側の橋詰がその場所である。亀徳を出たが向かい風で亀津に戻り、そこで山狩をしている。そのようなことを思い描きながらの上陸であった。
島津側の『琉球渡日々記』で徳之島での出来事は上の通りであるが、徳之島でどうとらえているか興味がある。琉球側の『喜安日記』では「三月十日、兵船大島へ着津して島の軍勢弱して敗軍すと飛脚到来す」と記してあるのみである。
「亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖
らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打ち殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらして
坂や道に流して火傷を負わせるよう命じている」

▲大橋の橋詰めあたりが亀徳 ▲なごみの岬からみた亀徳・亀津方面

▲右手の丘手前あたりが亀津 ▲フェリーからみた亀津の遠景
2.西郷隆盛の流刑と龍郷(奄美)・徳之島・沖永良部島
沖永良部島同様、徳之島でも西郷が上陸した湾屋湊(天城町)、そして岡前の謫居(たっきょ)跡地など記念とすべき場所としている。近年でも顕彰碑を建立している。それを受け入れる島、受け入れ伝えようとする島の人々。幕末に薩摩から罪人として西郷は流刑され、後に有力な人物として顕彰された人物である。そのように、島の外から有力者や影響をあたえた人物や集団を顕彰していく。ここで西郷隆盛を最初に紹介しているのは、近世だけでなく、与論島の北山王の次男、あるいは沖永良部島の三男という「世の主」を受け入れ伝えてきたのは西郷隆盛を顕彰することと相通ずるものがある。
【徳之島と西郷隆盛】
徳之島の天城町岡前に「岡前西郷公園」があり、そこに「西郷南洲顕彰碑」(平成6年)が建立されている。近くに文久2年(1862)6月西郷隆盛が奄美島(龍郷町龍郷)から徳之島に流謫された際、岡本家に身を寄せていたという。西郷が身を寄せていた謫居跡に以下の説明文がある。碑の側に力石が三個置かれ、近くには「岡前曖(あつかい)役所跡」がある。
西郷南洲顕彰碑(平成6年)(天城町岡前)
徳之島にも遅ればせながら 西郷南洲顕彰碑が建設された 西郷田隆盛は国父島津久光公
の怒りにふれ 奄美大島 徳之島 沖永良部島に遠島(流刑)の身となったのであるが 時代
を経て現段階では すでに他島には謫居跡や牢舎が立派に復元されていたのに対し この島
にはいまだ それに比するものがなかった
下級武士の出ながら明治維新の最大の功労者となった西郷がこの地で過ごした日々から
一三二年の年月が過ぎた今日 当時流人の島として位置づけられた徳之島 外面はともかく
文化的 精神的側面でいかほどの変化を遂げてきたか そして今後ずれどこへ行くべきか 深く
思いをめぐらす よすがとすべくふるさと・・・
西郷南洲先生謫居之跡(天城町岡前)
「世界的偉人、西郷南洲先生が藩主島津久光公の不蒙り、そのために遠島の身となり、苦難の
生活をされたのでありますが、わが天城町の湾屋岡前で約三ヶ月間生活をされております。翁
は足軽二名に警護されて現在の浅間湾屋に上陸したのでは文久二年(1862年)六月十日
です ちょうど翁が三十六歳のときでありました 翁はこの日 同地の農家湾直道(現山口直為祖
父)宅にはいり一週間止宿、その後岡前アツカイ惣横目琉仲為のすすめをいれて六月十七日
岡前の松田勝伝方に移り ここで六十九日間を過ごしておりおられます 即ちこの地が翁の偉業
をたたえ その遺徳を偲ぶとともに翁のすぐれた訓が後世に継承されることを切に願うもので ご
ざいます・・・
▲西郷隆盛が謫居した跡地にある碑 ▲碑のそばに置かれている力石
▲西郷南洲先生謫居之跡の説明板 ▲岡前曖(あつかい)役所跡(天城町岡前)
3.徳之島に漂着した船とその処理
徳之島に漂着した船の記事をひろってみた。徳之島で唐船や異国船などの漂着船をどう処理したか。その中で大琉球に送り届け、送還したりしている。島津の琉球進攻後の徳之島と琉球との関係が見えてくる。与論島以北を薩摩に割譲しながら琉球との関わりを堅持し続けている。そのスタンスが漂着船の処理だけでなく、琉球的な習俗や統治を近世まで残している。大和化しようとする反面、場合によっては対外的に琉球国の体裁を残そうとする薩摩藩の琉球の隠蔽工作が見られる。古琉球の姿が見え隠れするのは、完全に大和化しなかったことも起因しているのであろう。
【徳之島】
・亀津村(徳之島町)
弘化5年亀津村沖に異国船が一艘現れ、橋船で七人が上陸、津口番所に来た後本船に戻り、
大島方面に向かった(「徳之島前録帳」)。
・秋徳村(亀徳)(徳之島町)
明和5年(1768)尾母村下の浦に漂着した唐船の破損した船尾を秋徳湊で修理し乗組員を帰帆させる。
文化6年(1809)三月井之川湊沖に漂着した唐船一艘を牽引し秋徳湊に回し4月琉球に送り届ける。
・和瀬村(徳之島町)
享保18年(1733)和瀬村下に唐船一艘が漂着、船は破損していたので捨て流し、乗組員15人を陸に 揚げ琉球に赴く予定。
・尾母村(徳之島町)
明和5年(1768)尾母村の宇良御口浦に唐船が一艘漂着し、船尾が破損しているので秋徳湊で修理し、 乗組員26人は帰帆した。
安政4年御口浦に薩摩山川の船が着船するが途中大風波によって難船、帆柱を切り捨て漂着したと
い う。
・井之川湊(徳之島町)
文化6年井之川港沖に唐船が一艘漂着する。
・母間村(徳之島町)
安永2年(1773)村の沖合いに唐船一艘が漂着したが、乗組員58人は水・薪を積んで帰帆した。
・山村(徳之島町)
宝栄6年(1709)頃、金間湊(山湊)に南京船が一艘漂着、また享保6年(1721)にも金間浜に唐
船が一艘漂着。
嘉永2年(1849)に朝鮮人7人が乗り込んだ船が漂着、山村に11日ほど召し置き、そこから秋
徳に移し、さらに本琉球に送還している。
▲徳之島町の東海岸
・手々村(徳之島町)
元文4年(1739)手々村地崎の干瀬に朝鮮人25人乗りの船が乗り上げ破損したため、西目
間切の与人達が本琉球に送還する。
・阿布木名村(天城町)
弘化5年(1848)八月の大風の中、阿布木名村の干瀬に琉球に向かう観宝丸二十三反帆船
が破船する。
・平土野湊(天城町)
京和3年(1803)西目間切の湾屋湊を通過したオランダ船が平土野浦に向かい乗組員(84人)
の広東人と徳之島の通事与人の兼久村の瀏献が対応、本琉球に向かう。
・湾屋湊(天城町)
享保20年(1735)「澄屋泊り」(湾屋湾?)に朝鮮人男18人、女8人、赤子2人が乗り組んだ船が
漂着する。
明和3年(1766)面縄間切の浅間村の浦に唐船(23人)が漂着、湾屋湊から本琉球に送り届ける。
享和3年(1803)オランダ船が湾屋湊を通過し土野浦に向かう。
・岡前村(天城町)
弘化4年(1847)沖に異国船(アメリカ船か)が一艘、上陸して鉄砲で鳥などを撃って遊んだあと本
船に戻り西の方に向かう。

▲平土野港(天城町) ▲伊仙町喜念あたりからみた朝焼け
4.古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)
近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりがもう少し具体的に見えそうである。
古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。
・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
(受給者不明)(年欠)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)
5.琉球(首里)からのノロ辞令書
「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。
辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。
古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。
・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
しよりの御ミ(事)
とくのにしめまきりの
てヽのろハ
もとののろのくわ
一人まなへのたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
萬暦二十八年正月廿四日

▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より
6.琉球の痕跡としての地名や役職や入墨や墓など
徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?地名などの語彙の共通性をどう理解すればいいのか。いくつも仮説が立てることができそうである。
伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納(ウンナー)は「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。
イ.地 名
【徳之島】 【沖縄本島】
・久志村(徳之島町) ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
・母間村(徳之島町・ブマ) ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
・手々村(徳之島町手々・ティティ) ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
・兼久村(天城町・カネク) ←→兼久村(名護市・カネク)
・平土野(天城町・ヘトノ) ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
・瀬滝村(天城町・セタキ) ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
・与名間村(天城町・ユナマ) ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納) ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
・糸木名村(伊仙町・イチキナ) ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
・大城跡(天城町松原・ウフグスク) ←→大城(ウフグスク)
・喜念(伊仙町・キネン) ←→知念(現在南城市・チネン)?
・グスク ←→グスク
・間切 ←→間切(マギリ)
・八重竿村(伊仙町・竿・ソー) ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
・掟袋・里袋(・・・ブク) ←→田袋(ターブク)
・河地(カワチ) ←→幸地
・按司(アジ) ←→按司(アジ)
・玉城(タマグスク) ←→玉城(タマグスク・タモーシ)
▲面縄の集落(上縄面より) ▲上面縄への途中にある拝所
ロ.グスク地名の分布(徳之島全域に分布)
・大和城(天城) ・大城跡(松原:フウグスク) ・玉城(平土野) ・天城岳(与名間)
・城畠遺跡(花徳城畠) ・宮城跡(花徳) ・山城(亀津) ・大城跨(マタギ) (亀津)
・山城(ヤガグスク)(徳和瀬)
・グシク(集落の聖地:神之嶺) ・アゲレグシク(徳之島井之川) ・城(グスク)(徳之島母間:モマ)
・宮城(ミャグスク)(母間) ・宮城(ミャーギグシク)(花徳:ケドク) ・宮城跡(ミヤグスク) ・大城(フーグスク)
(徳之島轟木)
・山城(ヤガグシク)(徳之島町山) ・大和城(手々) ・城田(グシクダ) (手々)
・恩納城跡(伊仙町) ・ウフビラグスク(馬根集落) ・シラハマグスク ・浅間按司城跡(阿三)
・ウードゥ(グスク跡)(阿権:アゴン) ・ターミズグスク(阿権) ・稲積城跡(馬根) ・アマングスク
(天城)(木之香)
・天城遺跡(伊仙町阿権・太野・木之香) ・ミョウガングスク跡(明眼神社) (犬田布)
・宿森(グスク跡地(八重竿) ・恩納城(ウガングスクともいう)(面縄) ・山岳城跡(中山)
・中山城(ネーマグスク)
ハ.古琉球的な墓
宜野座村の松田の洞窟を利用した墓を何ヶ所か見てきた。洞窟や森の崖を利用した死者を葬る葬制が気になっていた。「もしかしたら、近世から近年に至る以前の葬制(風葬)ではないか」。古琉球の葬制がどうだったのか、まだ不明である。もちろん、王陵(タマウドゥン)や浦添のヨウドレ、今帰仁村の百按司墓などは王家であったり、貴族クラスの墓である。一般的な墓がどういうものだったのか。亀甲墓、掘りぬきの墓などは近世以降のものである。今帰仁村でも1600年代後半からの墓である。それ以前は、崖や森の中、あるいは洞窟を利用した墓が一般的だったのではないか。今、私たちが見ているのは、その多くが近世の墓である。
与論グスクの西側は崖になっている。グスクの南側に崖を降りる小さな道筋が整備されていた。遊歩道だろうと思いつつ降りてみた。崖の中腹に墓がある。先日行った宜野座村の松田の墓に似ている。洗儀礼は近世的な葬制だと考えている。それは一般の人々が掘り込み墓や亀甲墓の導入と時期を同じくするのではないかと。与論島や宜野座村松田の洞窟や岩陰の墓場は洗骨以前、そして掘り込み洗骨して厨子甕を納めていく墓以前のものではないかと。洗骨して厨子甕に納めていくのは、王族や貴族であって、一般の人々は洞窟や崖下などに葬っていたのであろう。すると、与論島や宜野座村松田などの風葬は、古琉球の死者を葬る習慣だったのかもしれない。このように見ていくと、与論島の与論グスクが崖の中腹や海岸の洞窟などの風葬の跡は、古琉球の葬制なのかもしれない。

▲宜野座村松田の洞窟を使った墓 ▲洞窟墓への道

▲宜野座村松田の洞窟を利用した墓 ▲墓の内部

▲与論グスクから崖へ降りる道 ▲与論グスクの崖中腹にある墓

▲数ヶ所に横穴掘込墓(畦布) ▲手前の右側には現在の墓地
▲与論グスクの崖中腹にある洞窟を利用した墓

【トゥールバカ】
沖永良部島をゆくとトゥール墓がある。琉球形式の墓だと言われている。琉球形式の墓に間違いないであろうが、トゥールが気になる。崖や岩を横に掘り込んだ墓のことを指している。世之主墓(内城)やイニャートゥ墓(新城)やアーニマガヤの墓(知名町赤嶺)が掘り込み式としてはトゥール墓である。
トゥールであるが、わたしが知る限り石灯籠のことをイシドゥールといい、石づくりの焚字炉があるが、石灯籠に似ていることからトゥールと呼んでいる。そこを管理していた家がトゥルバンヤー(灯籠番家)の屋号を持っている。もしかしたら、沖永良部島の横への掘り込み式の墓は、四角に掘り込んだところが石灯籠の胴部に似ていることに由来しているのではないか。それより古い墓の形式として洞窟や半洞窟を利用したとみられる。
世之主墓やイニャートゥ墓、アーニマガヤの墓はトゥール墓(横堀り式墓)であるが、沖永良部島の支配者の墓である。トゥール墓も支配者クラスの墓とみられる。一般的な人々の墓がどうなっているのか。海岸の崖や岩陰の洞窟を利用しているのはそれか。気になるところである。
以下の記録をみると沖永良部島の墓の変遷がみえてくる。琉球と同様、洞窟や岩や岸を掘り込んで、石を積み、石屋のように木の扉をつくり戸口で閉める形式があり墓屋と呼んでいたようである。それが悪臭を放ち不潔なので埋葬するようになったと。
【墓所の儀】
明治15年墓所の儀和泊、手々知名、西原は数百年前より埋葬其の他は洞籠(窟?)墓
(岩岸を掘りあるいは石を築き石屋の如く木扉を造り戸口占む、又墓屋ともいう)へ葬りしを
夫では悪臭不潔の害あるに依り総て埋葬すべき旨支庁長より命令ありて埋墓に改定。

▲与論グスクの側にある現在の墓
以下略
それと高地性集落である。石積みの屋敷が目立ち、それが阿権村の人々の気風が表れているのではないか。最初にそんな印象をいだいた村である(平一族は琉球王府時代、島津藩の領地時代、さらに明治に至って豪農、大地主であったようである(「村落階層構造の史的展開」『徳之島調査報告書』4 沖国大南島文化研究所。参照)。
『琉球国郷村帳』(1668年)や『正保国絵図帳』に「あこん村」と登場する。近くの「木之香生活館」でボール遊びをしている子どもたちに声をかけてみた。犬田布の小学生。阿権の子供達ではなかった。阿権神社を中心として、その裾野に集落が展開しているようにみえる。グスク時代の集落形態に近いのではないか。平家文書は手にしていなが、古琉球までは遡れるかもしれないが、グスク時代まではどうか(集落の詳細調査をしてみたいもんだ。すでになされているであろう)。

▲伊仙町阿権神社 ▲古めかしい石垣がある阿権集落

▲伊仙町木之香生活館の広場で。犬田布から遊びにきたという。

▲伊仙町上面縄の高千穂神社 ▲高千穂神社からみた麓の集落

▲伊仙町面縄の坂元権現 ▲坂元権現からみた麓の集落
【徳之島】(伊仙町)(3)
|
伊仙町 |
グスク |
世之主 |
ノロ |
拝山・ティラ山 |
踊 |
地名など |
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①喜 念 |
アジマシ(按司の田)・按司屋敷 |
|||||
|
②佐 弁 |
グスクダ |
佐弁神社 |
||||
|
③目手久 |
八幡神社 |
|||||
|
|
|
阿三は浅間・カムイ焼窯跡 |
||||
|
⑤面 縄 |
ウガングスク(恩納城)・シラハマグスク |
ノロ |
坂元権現・高千穂神社 |
ウンノーアジヤシキ・クランシキ・空堀・見張所・曲輪 |
||
|
⑥検 福 |
トラグスク |
ノロ |
検福穴八幡神社 |
|||
|
⑦中 山 |
山岳城跡・中山城(ネーマグスク) |
女王伝説 |
|
|
|
トゥール墓 |
|
⑧伊 仙 |
安住寺跡地に八幡宮と高千穂神社を合祀した義名山神社 |
安住寺は明治6年に廃止、石象はアガレン山へ。像は鄭迥(謝名親方?) |
||||
|
|
ウードゥ(城跡)・ターミグスク |
平家に首里之主由緒記 |
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高地性集落、石積みの屋敷、姓は平 |
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⑩馬 根 |
稲積城跡 |
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桂家・関家は士族 |
|
⑪木之香 |
アマングスク(天城) |
|||||
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9月13日の稲作儀礼のアキムチ(ムチタボレ) |
源為朝の腰掛け石・線刻文字・犬田布騒動 |
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⑬崎 原 |
麦万神社 |
開拓村・掟 |
||||
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⑭糸木名 |
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いときなのノロ |
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⑮小 島 |
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シマの創世神話(大洞穴) |
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⑯八重竿 |
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筑登之が阿権まで水路をひく |
|
宿森神社(源為朝を神体) |
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「今帰仁杣山法式」(1754年)の津口番の管轄区を見ると、国頭・大宜味・久志・金武の四間切の複数村の津口を管轄する津口番を配置してある。津口番を勤めたのは在番・検者・山筆者達で、主な役目は出入りする船の取り締まり―積荷の検査、手形の有無、乗組員数、氏名、航海の目的、抜け荷、密輸など―である。
山原の津(港)は、必ずしも船が岸辺に接岸できるものではない。良港と言われている運天港も直接船が接岸できるようになるのは戦後のことである。山原船が運航していた時代の津(港)は、潮の干満や風の影響を大きく受けた。海が遠浅の場合、山原船は沖に碇泊させ、伝馬船(テンマーセン)の小船で荷を運び本船に積み込む。蔡温の『独物語』(1749年) は18世紀の津(港)の様子を次のように述べている。
「諸間切浦々の干瀬共石原にて着船の港無之候に付て商売船逢逆風候時入着不罷成及破損候船多々有之候、右石原割除き間切毎に浦々の場所見合を以港作置候はゞ商売船は不及申其余の諸船の天気荒立次第則々港へ走入絶て難儀無之積に候」
那覇・泊には山原や諸離島を走り回る馬艦船、また浦漕船がある。馬艦船、山原船ともに構造上はシナ式のジャンク型であるが、外航船として利用されていた大型の船を馬艦船、沖縄本島北部(山原)を往来していた小型船を山原船と呼んで区別したようである(『近世薩摩関係史の研究』380頁参照、
喜舎場一隆著)。両船を区別した次のような琉歌がある。
船のつやうん (船が着いたよ)
つやうんなたくと (着いたと、鉦(が)
鳴っていたので)
まらん船だらんで (馬艦船かと思って)
出ぢちて見れば (出て見れば)
山原だう (山原船であった)
琉球における船の名称の規定は明確ではないが、「山原船」の呼び方は近世以降で明治から大正・昭和(戦前)、そして戦後昭和30年代まで使われいた。『那覇市史』(資料編第一巻二)所収の「船改之覚」(雍正十三、1735年)「那覇・久米・泊村商売船心得」(乾隆十六、1751年)、「唐漂着船心得」(乾隆二七、1762年)、「難破船入津の時の心得」(乾隆三五、1750年)、「御領国の船唐漂着の儀ニ付締方」(乾隆五十、1785年)、「大和船道の島船漂着の節諸在番公事」(道光二五、1845年)、 「商売の心掛けにて唐漂着を禁ず」(道光十二年)、「地船訟」(咸豊五、1855年)などに出てくる船名は、先島船・久米島船・泊船・御物積船・馬艦船・唐船・道の島船・大和船・地船などである。山原船の呼称は見あたらない。
山原船が海上輸送の全ての役目を勤めたわけでなない。間切役人が事務文書を届けたり、緊急連絡用に使ったのは「地船」のサバニ(飛舟)だろうし、上納など穀物や織物や黒糖などの輸送は「地船」の馬艦船(山原船)であろう。
1700年代になると琉球の人口が増加し、敷地や建物、墓などの規模や材料に規制が加えられる。それでも建築用の木材や生活必需品である薪の需要が増大し、山原と泊や那覇、与那原との取り引きは盛んになる。山原の津(港)との往来が増えることで、「山原船」という呼称が一般化したと思われる。当時の様子を蔡温は「独物語」(1750年)に出てくる。
1400年代北山・中山・南山の三山を中山が統一、さらに1500年代になると首里王府を中心とした中央集権国家が誕生し、各地の間切と首里王府との支配関係が確立した。それは首里から各地への文物の流れと、各地方の村々から首里への貢納(上納)や一般物資の流れを生み出される。物資と村々を結びつけたのは陸路もあるが、運送の主流は船である。そして船は、潮の干満等旧暦のリズムで運航される。山原船が往来した頃の山原の村々の祭祀や稲作や甘藷などの栽培や収穫は旧暦である。
現恩納村は沖縄本島の西海岸に位置し、美(比)留・久良波・仲泊に港がある。恩納間切は山原では町方に近い間切である。恩納の港から運ばれる品物は、砂糖・藍・木材・薪炭・山原竹・竹茅などで泊港や那覇港に運ばれた。那覇・泊の町方から酒や日常品、壷屋の焼き物などである。それらの品々の他に恩納間切の陶土がある。仲泊や前兼久の港から、山手で掘りだされた陶土は村船に積んで泊港へ運ばれた。山原船から船底の浅い伝馬船に積み換えて安里川を遡航し壷屋のカラーバンタで陸揚げしたという。壷屋の焼物は全琉に流通している。壷屋の焼き物の陶土は恩納産がどれだけ含まれているか、興味が持たれる。
現在の名護市許田の湖辺底港と羽地間切(現名護市)の勘手納港は仕上世米の積み出し港だった。湖辺底港は名護・恩納・金武間切、勘手納港は米どころの羽地間切と久志間切の一部の村の積み出し港としての役割を担っていた。名護港は明治になると名護と那覇を結ぶ汽船の航路となり、船客の乗り降りや品物の積み降ろしで賑った時期がある。しかし首里・那覇・泊の町方からすれば「名護や山原の行き果てがゆわらまで名護船のあてのないらぬ」と謡われ、名護でさえ遠いへき地だった。東海岸の瀬嵩なその村は大浦湾に面し、薪や木炭が収入源となり、与那原から山原船で買いつけにやってきた。
現在の本部町は渡久地港と瀬底二仲(シークタナカ)の二港がある。その他に伊野波港、新里原津口、浦崎泊がある。伊野波港は北山の時代、港であったと伝えられている。近世まで伊野波江は(旧記に満名の西に注ぎ、伊野波港に流れる)になっていて、船の積み荷を干したニフスの丘や海岸に因んだ浜川の地名に港の名残りがある。『正保国絵図』(1644年)に「によは入江 一此によは入江左右干瀬之間壱町五十間深さ五尋 一何風ニ而も船繋り不自由」とあり、近世に港としては不便だった。
本部間切新里(具志堅の一部)の津口は明治から山原船の碇泊地で、海岸線は干瀬(リーフ)が切れたクチから船が出入りしていた。そこを利用した山原船は伊平屋島や伊是名島と取引きをしていた。運搬してきた品物は牛や豚・米・薪などだった。浦崎泊は河口にあり、戦前は地元の志良堂船や渡久地船の拠点となり、特に恩納間切(後に村)名嘉真と安富祖を往来し、竹茅や山原竹を運んでいた。明治には伊江島と本部間の連絡地となっていた(『本部町史』通史編上)。浦崎の泊原にマーラングムイがあり暴風の時、馬艦船(山原船)が避難したところだった。
大宜味の番所(役場)は塩屋湾岸にあった時期がある。船持ちは各村の前に船を着けて積荷を降ろした。大宜味には地船という村船があり、薪や木材、樟脳、藍などを那覇・泊に運んでいた。大宜味間切には明治17年の「津口手形」(積荷検査証)があり、それには船の大きさ・船主・乗組員・積荷の品目などが明記される。明治三一年の大宜味の輸出品は薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・木炭・製藍などです。また輸入品は、焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶などがある。輸出品を見ると大宜味は林業が中心で、それらの品物は山原船で運ばれていた。名護から大宜味に行くには徒歩や籠、サバニがあったが不便な地域だった。根路銘の船溜りに数隻の帆船が碇泊し、大正になると動力船が物資を運ぶようになるが、陸路は依然として不便だった。
国頭村は村(ムラ)と村との陸路が険しく、昭和十年代まで海上交通が主でした。1731年の『琉球国旧記』の「港江」を見ると、国頭間切には港は一つの記載もないが江(入江)は29もあります。村を流れる河口(入江)が港の機能を果たしています。浜港は国頭間切番所(役場)があった。浜村は行政の中心地であった(後に番所・役場は奥間、辺土名へと移る)。鏡地港も山原船の出入りがあり、木材が運びだされた。屋嘉比港は根謝銘グスクが機能していた時代、国頭按司の貿易港と伝えられオモロでも謡われている。国頭からの輸出される産物は建築用材や薪、炭材や砂糖桶などであった。
東村(かつては久志間切)あたりは、山原船による林産物の運搬でムラの経済が成り立っていた。高江は三方山に囲まれ林業を生業にし、宮城から高江まで道路が開通していなかったため、輸送はほとんど山原船にたよっていた。宮城は昭和30年代まで林業で生活を支え、生活用品は山原船に頼っていた。現東村川田の人々は山に何度も入り薪用材を切り出し、馬やイカダ、あるいは人力で担いで運び出していた。平良ではムラの人たちが運んできた薪を売店が買い取り、山原船で与那原港に運ばれた。与那原港からは生活物資が運ばれてきた。慶佐次は戦前から山仕事が盛んで、燃料用の薪で現金収入を得ていた。
ムラの人たちは山原船の入港に合わせて山仕事の共同作業の日程が決められた。山原船が運んだ物資は共同売店が買い取り、さらにムラの人たちに販売された。共同売店は「山稼ぎ」の換金や山原船との仲介役でした。
宜野座村の漢那の船は糸満や泡瀬や那覇、惣慶の船は泡瀬・糸満・那覇などでの取引先がほぼきまっていた。船主の多くが平安座島で宜野座港を出発すると平安座で一泊し、風向きがいいと翌日には与那原や那覇に着いたという。航海は月に二回程度であった。宜野座から運び出される産物は薪炭や竹木が主であった。『宜野座村誌』によると帆の大きさは七反帆船から十反帆船まであり、八、九反帆船が多く、七反帆船で二七トン、薪は八〇〇〇束積むことができたという。
金武は金武湾に面しているが、昭和六年に石川と屋嘉の間で荷馬車が通ると海上交通が衰退し陸上交通へと移っていく。伊芸あたりから荷馬車で薪や炭などを中・南部のマチに運び日用雑貨を仕入れてきた。明治四一年に金武・久志と与那原との間で薪の値段の折り合いがつかず対立したことがあった。
与那原港は那覇港に次いで山原船の出入りが多く、与那原のマチは活気づいていた。材木商や薪炭商などの店が軒を並べ、陸路では乗合馬車や人力車、荷車などが那覇と与那原間を往来した。大正三年には軽便鉄道が走り、山原からの輸入品は薪や木材、竹茅・製藍など。輸出品は焼酎・茶・素麺・昆布・塩・味噌・石油などである。山原の東海岸の村々の津(港)と与那原を、西海岸の村々は泊・那覇港とを山原船が結びつけていた。それだけでなく奄美や与論、沖之永良部島との航路もあった。
山原の津(港)の中で運天港は特異な存在である。源為朝公の渡来伝説をはじめ、『海東諸国紀』(琉球国之図)(四七二年)に「雲見泊 要津」とあり、オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」と謡われている。薩摩の琉球侵攻、北山監守を勤めた今帰仁按司の一族を葬った百按司墓や大北墓、間切番所、近世末のバジル・ホール、フランス艦船、ペリー提督一行など異国船の来航、奄美に漂着した唐人の収容などの出来事があった。
山原において村数ほどの津や江があるのは「陸の孤島」と呼ばれるムラもあるほど陸路が不便で、海上輸送に頼らざるを得なかったためである。人々はそのムラで生まれ育ち、骨を埋めていくのが一般的であった。首里・那覇に行けたのは限られた人達で、回数であった。さらに大正になると郡道が整備され、車の出現で輸送は海上から陸上へと移り、人々の動きや流れも大きく変わる。
薩摩軍の琉球侵攻と今帰仁
旧暦の3月27日は薩摩軍の今帰仁城攻めから四百年目にあたる。それに因んで「薩摩軍の琉球侵攻と今帰仁」について述べる。
北山が中山の連合軍に滅ぼされた後、1422年に尚忠を派遣して北山の地に監守制度を敷いた。1429年に南山が滅ぼされ三山統一され琉球国となる。統一後も北山の地に監守が置かれ、さらに第二尚氏王統になってもその制度は引き継がれた。監守制度は薩摩からの防御というより、中山から北山を監守する制度である。首里から遠い、勇猛であるなど、北山は中・南部とは異なる文化や習俗を持っている地域だとの認識が首里王府にあったのであろう。監守制度は、北山の地を教化する、つまり三山の統一と首里文化の教化(浸透)が狙いとしてあったと見られる。
薩摩軍の琉球侵攻以前の「みやきせん」今帰仁には第二尚氏になっても監守(今帰仁按司)が置かれた。第二尚氏の監守は尚真王の三男の尚紹威を初代とし、従憲まで七代続いた。五代克祉までの今帰仁は、「おもろ」や古琉球の辞令書で「みやきせん」と表記されている。「今帰仁」の漢字がまだ定着していない。そして「まきり」(間切)は登場するが村(ムラ)の成立は、まだ不十分な時代である。今帰仁城内には、首里から派遣された監守一族や関係者が居住していた。
1609年3月27日監守制度が敷かれていた今帰仁城に薩摩軍の侵攻があった。北山監守は五世の今帰仁按司克祉(1582~1609年)の時代である。五世克祉は今帰仁城焼き討ちの翌日に亡くなっている。掃討や焼き打ちの犠牲になったのであろう。
薩摩軍の「今帰仁城攻め」
薩摩軍の今帰仁城の討伐の様子は「琉球渡海日々記」と「喜安日記」に記されている。1609年3月25日薩摩軍は「琉球の内、こほり」(古利島)に着岸し、「26日は掃討がなく、返報日で碇を下し休息日である。27日に副将の平田増宗と伊集院半右衛門の両氏が今きじんという所を一覧のため、五枚帆で出かけた。今きじんの城は無人であるらしい。午前十時ごろ不意に掃討を開始し、方々へ放火などした。人のふにより、とり物が多くあった」とある。
攻められた琉球側の「喜安日記」は、「親泊の沖にて敵船一艘漕来て、(一部略)船の面に鉄砲五、六丁指当、既にうたんとしけるを、扇を挙て麾き、龍の髭を撫で虎の尾を踏む心地して、敵船に乗移り、ひかれて今帰仁に付ぬ。折節大将は今帰仁城へ勤めありて有合はれず。暮に及で帰られる」とある。
攻める側(薩摩)は「一覧のため、五枚帆で出かけ」るなど余裕があり、攻められた琉球側は「龍の髭を撫で虎の尾を踏む心地」と記してある。今帰仁城での掃討やとり物」や火災で被害があったことは間違いない。
今帰仁グスク焼き討ち後の今帰仁
五世克祉の死亡で、監守は六世縄祖(1601~58年)に引き継がれるが、今帰仁城の再建はできなかった。そのために今帰仁城近くにあった今帰仁村と志慶真村が、城付近から麓へ移動する。さらに城内で居住していた監守一族が麓の集落内に御殿を設け移り住んでいる。その段階で今帰仁城の監守としての機能の大方は失われてしまう。根強く残ったのが今帰仁アオリヤエ(三十三君の一人)の祭祀である。それも1665年七世(従憲)の時、監守と今帰仁アオリヤエの一族は共に首里引き揚げが許され、監守制度は終わりを告げた。
翌66年、本部半島の大半を占めた今帰仁間切は今帰仁と伊野波(翌年本部)間切に二分された。その時、両間切の番所は運天村と伊野波村に置かれた(後に渡久地村へ)。間切が分割される以前の番所は、今帰仁城内にあったのではないか。監守と番所があったことで薩摩軍の今帰仁城攻めの標的となった可能性がある。
薩摩軍の今帰仁城攻めは、後の今帰仁の歴史に大きな影響を及ぼしている。
勢理客の御嶽とスムチナ御嶽の三基の石香炉の採拓をする。そこに彫られた年号と「・・・仁屋」の人名をしかと確認したくて。それが揺れていると他の史料とのかみ合わせができなくなる。香炉は雨風にさらされ、また線香をたくので摩耗が激しく、判読がなかなか困難である。もう一度20年前に撮影した写真画像を探し出してみなくては。

▲勢理客のウタキ香炉の拓本(二基) ▲スムチナ御嶽の香炉の拓本
『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、
一、嘉慶二十四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同七月十五日那覇川出帆与那国嶋漂着翌辰年六月帰帆仕申候
また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟・・・
一、二男武太(光緒5年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子ト云フ・・・
新城徳助の「口上覚」にも、
一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子様屋嘉被仰付光緒元年亥八月弐八迄難有御奉公相勤置申候
などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。
道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)
勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候
勢理客村兼次親雲上(覚)
一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付九月
より十二月迄昼夜相勤置申候事
一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登
首尾能相勤置申候事
一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事
操り獅子(アヤーチ)がどのようにして、今帰仁村謝名の豊年祭(村踊り:ムラウドゥイ)に導入されたのか、そのことについて、不明である。首里・那覇からの寄留人の影響もあるが、地元間切役人の奉公先が首里の殿内である。そのことも念頭に入れておく必要がありそうである。そのため、間切役人の勤書や文書から、首里奉公の記事をいくつか拾っていく。なんならかの手掛かりにならないか。
「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。
ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。
・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍(ママ)奉行格式ニ而御座候
・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也
謝名の近世文書から首里と関わる記事を拾ってみる。首里奉公をした人たちと操り獅子(アヤーチ)を導入した直接史料は、まだ確認できないがその手掛かりとなるかもしれないので、その作業を進めてみる。首里奉公した間切役人の奉公先との関係をしることができる。首里奉公した間切役人は、後々まで奉公先と密接な関係があることがしれる。そのような関係で、操り獅子(アヤーチ)の謝名村へ導入された可能性がある。ここで掲げていないが、謝名村=
[平田家文書(フイチヤー:古宇利掟屋)]
・兼次親雲上御事第四代世ノ長男、幼少ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公
勤勉之為メ、掟・捌庫理・兼次夫頭役仰付次ニ惣山当ト・・・(道光20年死去)
・二男武太ハ両惣地頭ノ御奉公全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、
志慶真大屋子ト云フ。(光緒5年死去)
・長男屋真事、幼少ヨリ今帰仁御殿御奉公全ク勤勉ノ為、二十四五歳ニ古宇利掟役被付、・・・
(咸豊11年死去)
[玉本家(ナビタマヤー)文書]
・嘉慶24年4月御殿大按司様上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同7月15日那覇川出帆与那国嶋漂着翌
辰年6月帰帆仕申候事(上国できなかったが当時の奉公の様子がしれる)
[勢理客村大城仁屋の諸事日記]
・嘉慶20年亥2月御殿御供被仰付寅年迄4ヵ年御仰詰相勤置申候事
・嘉慶23年寅正月故岸本按司加那志様生年御祝儀之時、躍人数被仰付首尾能相勤置申候
・嘉慶24年卯五月御嫡子今帰仁里之子親雲上屋加被仰付丑四月まで11ヶ年相勤置申候事
・道光11年卯11月24日御嫡子今帰仁里主親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤置申候事
・道光19年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候事
・咸豊20年子3月故湧川按司様御元服之時肝煎人被仰付罷候首尾能相勤置申候事
・咸豊23年卯3月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付□□首尾能相勤置申候事
[大和芸能の移入]
伊江島では「組踊忠臣蔵」や「シティナ節」など沖縄と大和と融合した芸能がみられる。それは首里の伊江御殿や川平殿内で働く伊江島出身の奉公人が、薩摩や江戸上りにお供した際、大和の芸能を学び島の村踊りに取り入れたものとみられる。
大和や首里の芸能が地方のムラやシマへの移入の流れを示す事例とみられる。
①ミチジュネーのアヤチの様子
②豊年祭全体のプログラム(今年度の)
(アヤチは豊年祭全体のプログラムの最終に行われるのは何故?)
③舞台の設置(舞台図、操り糸の配置・スケッチ)
④雄獅子と雌獅子と玉
⑤操り手(獅子一頭に一人、玉に一人:獅子を操る人はと途中交代する)
⑥アヤチの所作
・前後の動き ・飛び跳ねる ・玉をとる ・じゃれる ・うずくまる ・かまえる
・ぶつかりあう ・立ち上がる ・疲れた所作 ・押さえ ・ドラの合図で始まる
⑦曲にあわせて舞う(曲目:白保節と嘉手久)
アヤチは操り手が曲に合わせて踊らすとのこと(地謡を担当された喜瀬繁夫氏の談)。アヤチ調査の撮影や聞き取りには仲里なぎささんが加わっている。

▲舞台にあがったアヤチ(操り獅子)(準備中) ▲獅子舞いが終わり操り糸をはずしている所
『馬姓家譜』(小禄家)の九世馬亮功(仲里里主)の乾隆29年(1764)の12月6日に「同初六日蒙賜盛宴及看操」とある。馬亮功は乾隆26年(1761)12月9日に徳川十代将軍大樹家治公が前年父将軍家重公の跡を継いで将軍になったときお祝いの儀礼のために慶賀使として尚氏読谷山王子朝恒を派遣が決まると楽正を命じられる。同29年(1764)4月19日に江戸上りの無事を祈って三平等で祈りをする。6月9日に那覇を出港し6月13日に山川に到着、20日に鹿児島に到着する。鹿児島でいろいろあるが、7月23日に鹿児島を出発し、10月11日に大阪につく。13日に大阪で踊り狂言を観覧する。
8月15日に大阪を出発して16日に伏見につく。19日伏見を出発して11月9日に江戸につく。その日に太守公(島津26代重豪公)に拝謁する。・・・乾隆29年12月6日「盛大な宴会があり、操りを拝見」している。操がどのようなものか。操り人形や人形芝居かと思われる。昨年から調査している山原の
音正を命じられた馬亮功は「操」だけでなく、半能や伊勢神楽、能楽、狂言なども拝見している。琉球側からは琉球音楽の演奏、琉球舞踊、唐踊りなどを披露している。
12月11日に江戸を出発して乾隆30年(1765)正月1日に伏見に到着。3日大阪、同13日大阪を出発して2月28日に薩摩の京泊、2月4日に鹿児島に到着。2月28日に乗船し3月3日鹿児島を出港して16日に帰国している。後に工能と能楽を演ずる踊奉行に任じられている。
琉球側から江戸までいき、大和の芸能と接し、それらを琉球にももたらしたとみられる。そのことと操り獅子の導入と直接結びつけることはできないが、大和の芸能の琉球への導入の道筋が見えてきそうである。「操」についての記事は、まだこれだけしか目にしていないが、他の資料にも目配りしてみることに。

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琉球側の使節は薩摩や大坂や江戸で琉球芸能を披露しているが、御能・花火・竹田操・蹴毬・曲馬・手妻(手品)・伊勢神楽・人形芝居・御馬・太神楽・曲馬・囃子・狂言・操戯(曲芸)・御盤人形・竹田近江の絡・踊り狂言・雑戯などを鑑賞している。琉球の芸能を披露すると同時に、大和芸能にヒントを得て琉球にもたらしたものがありはしないか。玉城朝薫の「組踊」はよく知られているが、また使者の中に和歌をたしなんだ人物もいる。それだけでなく大和芸能にヒントを得て琉球化した芸能もあるのではないか。「江戸上り」の芸能を追いかけているのは沖縄本島北部の名護市川上・今帰仁村謝名・本部町伊豆味の「操り獅子」が、江戸上りや薩摩入りの時の楽童子や楽子などに随行して行った末端のメンバー(仁屋クラス)の中にいたのでは。そんな期待をしながら資料を見ている。
能や狂言について知識をもっていないこともあって、彦根城博物館内で舞台や能や狂言について知識を少し。芸能について全く知識をもっていないことを自覚。博物館内に狂言や能のビデオコーナーがある。時々実演も行われているようで常設の舞台もある。いくつかビデオを流れている。笑いが起こり手が叩かれる。全く能や狂言を知らない私は観客の反応を観察するはめに。
「
『琉球国由来記』(1713年)にも「謝名村」とあるが、同由来記の「諸間切諸島夫地頭?ヲエカ人之事」で平田掟とでてくる。後に平田掟は謝名掟となるが、平田(親雲上)は首里に住む脇地頭である。謝名村に貢献していたのか、謝名村を平田掟とされる。『琉球藩雑記』(琉球藩臣下禄記)をみると「今帰仁間切謝名村作得七石余 平田親雲上」とある。謝名村と首里に住む脇地頭との関係が密接であることがわかる。
謝名での調査をしていると、度々アヤーチの導入は「300年位かな」と聴いてきた。『琉球国由来記』(1713年)の平田掟の平田や『琉球藩雑記』の脇地頭平田親雲上が、謝名村との関わりをみると、謝名にアヤーチ(操り獅子)を導入した脇地頭の可能性がある。因みに、







①きこゑ大君(聞得大君)③恵良部あふりやえ
④今帰仁あふりやゑ
⑧恵良部さすかさ ㊱伊平屋阿母かなし ㊲久米のき見はゑ
「三三君」の一部をあげてみたが、その中に恵良部阿ふりやえと恵良部さすかさ、伊良部世高うわもりがおり、一六〇九年後までおり、それは古琉球の時代の祭祀が継承されていたことにほかならない。その遺品が今に伝えている。ノロ制度は尚真王時代の成立とみると、三山統一後の奄美と琉球国の統治下の時代設定として見ていく必要がある。 永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白□個) 県教育会郷土参考館では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎氏秘蔵の永良部阿応理屋恵の曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本品は元小禄御殿の伝宝にかかり同家大宗尚維衡(尚真大王長男)より四世に当る大具志頭王子朝盛の室永良部阿応理屋恵職の佩用したものとみられている。これに関し教育会主事島袋源一郎氏は語る。 永良部島に遺るノロ関係遺品】 ・神女玉飾(現和泊町)国頭ノロ(沖吉家伝来)二連 ・玉ガーラ(現和泊町)国頭ノロ(沖吉家伝来)一連 ・玉ガーラ(和泊町畔布)畔布ノロ(森家)二連 ・玉ガーラ(玉飾り)(和泊町畔布)畔布ノロ一連 ・玉ガーラ(曲玉)(知名町)勢理客ノロ ・玉飾り(勢利覚ノロ遺品) ・玉飾り(勢利覚ノロ装飾支品) (知名町) ・丸形品(漆器)(知名町)勢利覚ノロ
此曲玉は永良部阿応理屋恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上昌娟の女で
沖縄県文化課報告書第149集 沖縄県教育委員会(2001年3月)
・沖縄の金工品関係資料調査報告書(沖縄県史料調査シリーズ第4集 沖縄県文化課
報告書第146集 沖縄県教育委員会(2008年3月)


①真壁間切真栄平・新垣村の争い
真栄平ノロの管轄にあった新垣村がノロの独立を目指し争ったことがあった。その解決法は、崇拝していた髑髏をおき、竹の根を指し、根差した方が獲得した。新垣村の方は枯れ、真栄平の方に生えていった。真栄平が獲得した。公儀のろの獲得での争いである。同様の事例は名護間切の喜瀬と幸喜、国頭間切の安田と安波。
②久志間切汀間村の中田墓一門内の争い
汀間ノロは金丸(尚円王)が国頭間切宜名真→奥間を経て汀間へ。金丸と汀間の女とでできた娘がノロとなった。中田墓一門(松田・玉城・松永・比嘉・宮城)が世襲した。ある時期、一門内でノロの争いが起きた。首里王府から呼び出しがかかり、富めるものは海上から、貧者は陸路。陸上からのが先着したため、以後その一門系統が継承した。
③羽地間切真喜屋と仲尾次村の争い
明治初年、羽地間切真喜屋村と仲尾次村との間でノロの継承で村間の争いとなった。明治元年に死亡した真喜屋ノロの継承争いである。当時仲尾次村から出ていたのが、真喜屋側が訴えを起こしたものである。真喜屋側の我部祖河親雲上は、①ノロは名称通り真喜屋村から出るべき ②前我部祖河親雲上五代目の時、女子の出生がなく、妻の実家の仲尾次嵩川家の女子を仮ノロにしたとのこと。しかしその主張は通らず、結局仲尾次側の勝訴となった。その結果、間切役人は事前審理が不十分とのことで処分された。
④中城間切屋宜村の大城と与那嶺両家の争い
明治14年中城間切屋宜ノロの後継について本家と分家との間に起きた争い。ノロの役俸が金禄化した時の出来ごとである。明治13年1月に大城ノロが死亡した時、分家である大城家と本家である与那嶺家の両家から相続の願い書が提出された。取扱いに困った中頭郡役所は明治14年8月27日に県に指令を仰いでいる。県は神職の進退は伺いを経て施行すべきことを指令する。郡役所長は11月8日関係書類五通を添えて意見書を上伸している。
「往古は与那嶺家が相続していたことは事実である。しかし大城家では1711年以来代々ノロを相続しノロ殿内に160年も住んでいる。安政年間(1854~59)に亀助の祖祖母が死去したときも与那嶺家から返すようにとの願いが提出されている。旧藩庁は大城家に相続させている。そのことは日誌で明確にしている。「こ
⑤国頭間切安波村での争い
国頭間切安波ノロは根屋である上大屋の長男系統の女が継承していた。前々ノロもその系統で安田屋小(隣の安田から移住)の比嘉に嫁いでいる女が継ぐはずであった。ところが浜比嘉から居住していた平識が意義を申したて、結果的に平識の玉城ナベが継承した。最後の決定は抽選に決まったという。安波ノロの紛争は約3000坪のノロ地を有していたことにある。この田地は明治36年に土地整理で婿養子の名義なってしまう。部落の要望で一部が前のノロに分譲される。
⑥今帰仁村湧川金城・新里両家の争い
今帰仁村湧川は金城家が世襲してきた。金城家は山北王の子孫が大屋我に住み、湧川の村の女との間に生まれた玉城一族から初代のノロを出している。その位牌がある。近年同湧川の新里屋が、かつてノロを出したことがあるとの理由で争いとなる。村の祭祀も二つに分かれて行うまでになる。
⑦本部町瀬底村上間家と大城家の争い
瀬底ノロは上間家(ウイマウェーキ)の娘が世襲してきた。上間家は地頭代を数代だしてきた家である。ノロの継承を示す金の簪や勾玉や神衣装を伝えている。上間家の娘が本土在住のため、瀬底の草分けとされる大城家(ウフジュク)の女性が継承した。本来のノロの継承が、根人や根神を出す家筋がノロを出すべきだとする誤解からきたものである。
とに人民は大城を崇敬し、与那嶺の願書の連印は親類だけであるから大城の願いを聞き届けて欲しい」と記してある。県はその通り指令している。
⑧中城のろの継承問題・今帰仁間切中城(現在仲尾次)(城間系統日記:宮城仙三郎)
二枚のノロ叙任辞令書がある。
ノロが任命された当時は、中城村がノロの名称となり、居住は中城村とみられる。中城ノロは与那嶺村(ナビンチュミヤー)から、さらに近世末には諸喜田村へ移っている。
明治18年に「ノロ難渋」と呼んでいるが、それは諸喜田村のノロドゥンチから与那嶺のナビンチュミヤーへ戻すようにとの請願が出されている。
裁判所のない当時、崎山ノロ殿内に於てくじ引きで村役人立ち合いの上、三回勝負で一対二点で諸喜田の勝ちと定まり」、「村役場役人は勿論知人村人総出にて、祝杯を挙げた」

