2009年4月の記録
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2009年4月28日(火)

 各時代の人々の生活の様子を知りたいと常々思っている。明治20年代の様子をまとめた「一木書記官取調書」(一木喜徳郎)(『沖縄県史14 雑編1』)がある。明治20年代は沖縄では旧慣温存期の最中で、近世の様相をまだまだ尾を引いている時期である。明治12年の廃藩置県で法律規則が制定されているが、まだまだ慣例に従っていることが多かった頃である。明治20年代の様子をいくつか拾ってみる。

 ・明治234年の沖縄県人口は41万人(人口密度 1方里 凡そ2,619人)(全国でも中上)
 ・一戸当たりの田畑反別 三反八畝余 (全国中最下位)
 ・明治19年から24年までの増加人数 33,590人(延び率 全国で中の上)
 ・人民の生活程度は極めて低い。
    首里・那覇に住む者で一日三銭~五銭(常食は甘藷(イモ)や豆腐類)
    (米を食べ肉を食べれるのは上等社会。中以上の生活は米を食するのは一家の内主人及び長男に限る。他は甘藷)

 ・建物は首里・那覇では家屋の構造は風害の危険のため石垣をめぐらす。

 ・間切においては人民の生活は一層単純。
   食糧は概ね甘藷が常食。
   衣服は冬期も木綿一枚で足りる。(一年の衣服費、上等の生活をなすも一人三円内外)
 ・家屋は概ね雑木を結んで、縄を以て簀(すのこ)を床にする。
 ・建物は貫家(床の上に畳を敷ける家は村(ムラ)に数件。
 ・薪は山の枯れ枝や落葉、路傍のアダン、ソテツの枯れ葉(首里・那覇などは山原から大量に輸入する)

 ・簪(カンザシ) ・手甲の文身(針突) ・衣類の模様の大小・柄(平民・士族) ・斬髪結髪
 ・言語(大和語) ・内地文明への同化 。教育をもって沖縄人を同化させる

 明治期(旧慣温存期)の沖縄の人々の生活や制度をみると、1609年の薩摩の琉球支配で幕藩体制に組み込まれたとはいえ、生活や制度は琉球国という体裁を明治まで保ち続けている。もろとも崩れ去ったのは、明治の廃藩置県後ということか。

 廃藩置県後、公立の学校をつくり、沖縄県にはなったが、まだ旧慣と言われる首里王府時代の役職名で辞令書が発給されている(旧慣温存期)。

 
  明治15年の学務委員辞令(沖縄県)        明治28年惣耕作當の辞令(沖縄県庁)


2009年4月27日(月)

 5月から「ムラ・シマ講座」がスタートする。小学生の募集のため学校へ挨拶回り。5校を回るのに午前中かかる。今年は小学生が何名参加してくれるか。楽しみ。

ります。久し振りに訪れる学校の様子が変わっています。今帰仁小の大きなガジマルが姿を消していた。生徒に聞くと「倒れたよ」と。刻々と変化していく風景や時代の流れに鈍感でいるのかもしれない。古宇利小学校まで足を運んだので港まで。だいいち桟橋がまで健在でした。ドロムカンにコンクリートを流し込んで作った柱に貝がたくさん付着している。二、三本の柱(足)が切れているが、まだまだ利用されている。


      第一桟橋とナカムイヌウタキ               ドロムカンにコンクリートの柱


2009年4月24日(金)

 ちょっと、頭を切り替えるために昭和20年代の写真を取り出してみた。そのような時代を直に生活した経験がないので、写し出された写真の時代へタイムスリップさせてみた。歴史を読み取っていく場合、その時代の生活の様子をイメージしながら見ている。「北山の歴史」をみていく場合、少なくとも下のような風景や旧暦の生活を前提に、物事を判断をしていく必要があるだろうと常々いい聞かせている。

 ちょっと一服。時々忘れるため、それぞれの時代の風景や様子を体に染み込ませましょうかね。


       戦後間もない頃の教室                馬小屋教室で学んでいる生徒達

 
   戦後間もない頃の茅葺屋根の民家          集落をなした茅葺屋根の家々

 
  牛や馬に引かせた砂糖車と砂糖の炊き小屋     トーニづくり(豚の餌入れ)と斧

 
親川(エーガー)から流れているミジパイ付近    グスク前方に茅葺の家々が集落をなしていた風景


2009年4月22日(水)

 三日間、目を真っ赤にした校正原稿(54頁)がチロリ~ン。消えました! 午後から仕切り直し!立ちなれるか!


2009年4月18日(土)

 多忙でなかなか動くことができずにいたが、今日は三ヶ所(今泊・仲尾次・古宇利)の聞き取り調査に出向く。やはり調査で動きムラの方々からいろいろ聞くことはいいものだ。今帰仁ノロ家(ヌンドゥンチ)での調査の一部を報告することに。感謝!

 今帰仁ノロ家の調査にはいる。今帰仁ノロは親泊村・今帰仁村・志慶真村の三ヶ村の祭祀を司っていた。志慶真村が今帰仁グスクの後方から移動し、諸喜田村へ移動し統合されたため故地での祭祀は今では行われていず、中城ノロが諸志としての祭祀を行っている。今帰仁ノロ管轄の志慶真村の祭祀との関わりは今では見られない。ただし、今帰仁グスク内で行われる旧盆明けの亥の日(ウブユミ:城ウイミ)の時、志慶真村出の神役志慶真乙樽の参加(代理)あったが、今では参加が見られない。

 今帰仁ノロは今帰仁グスクの城壁の外側に旧今帰仁ノロ殿内の火神の祠がある。そこから麓へ移動している。現在は今泊の東側に位置してヌンドゥンチがある。今帰仁グスクの前にあった今帰仁村の集落が移動した後の『琉球国由来記』(1713年)には「今帰仁巫火神」は今帰仁村にある。移動前の今帰仁グスク前にある火神の祠を指しているのか。ならば、今帰仁ノロ家の移動は1700年代になって移動したとも考えられる。ノロ墓に20基近い厨子甕があるという。ノロ墓はノロのみ葬られているとのこと。ならば20名のノロが葬られていることになり、単純に400年前からのノロということになる。近年のノロさんは代理ノロなのでノロ墓にはいることはないとのこと。

 今帰仁ノロ家に簪と勾玉(ガラス:水晶玉)が伝世品として残っている。それらの品々の調査をすることができた。勾玉1個にガラス(水晶玉?94個、4個紛失とのこと))、簪1本、香炉2、のろくむいの位牌(1代~6代まであり、それより古い位牌があった可能性あり)、仲尾次家の位牌などの確認。また、仲尾次家の墓とノロの墓は別々にあり。ノロ墓には20基余りの厨子甕があるという(詳細については別に報告)。簪と勾玉(水晶玉)が祭祀でまつられるのは旧暦の正月と旧8月10日の城ウイミ(大折目)のときのみである。戦前まで楕円形の勾玉(水晶玉一連)と簪を納める箱があったようである。

 今帰仁ノロ位牌
     上段  (文字あり、判読できず。計八枚)
 
       下段  六代のろくもい  仲尾次タマ
                       大正十五年寅十月十五日(二十五才)死去
            吉岩嘉妙信女
               霊 位
             寿林妙室信女
            心安妙嘉信女
            四代のろくもい  明治五年寅五月二十二日
                       歳三十九
            五代のろくもひ  明治三十八年巳正月二十二日
                       歳四十一
            
             (七代、八代、九代と続くが代理ノロのため、この位牌には記されない))
             (七代:代理ノロ:仲尾次タマ 昭和初期~昭和十五年。六代と七代は同じ名前ですが別人。また、代理
              ノロは仲尾次家の墓にはいり、ノロ墓には葬られないとのこと。ノロ墓は本ノロがでるまで開けないとの
              こと。)


 ノロ墓には20余りの厨子甕や石逗子があるようなので、位牌の六代以前のノロが葬られているとみられる。位牌の上段にあるのは、それ以前の「のろくもい」だろうか。そうであれば、墓との連続性がある。それと、仲尾次家がノロを継承はじめたのは下段の六代前のノロからだろうか。もう少し調査資料が必要なり。というのは、『琉球国由来記』(1713年)の頃は、今帰仁ノロも今帰仁グスク前から麓に移動しているとみられる。由来記では「今帰仁巫火神」は「今帰仁村」に移動しているが、現在のヌンドゥルチ(仲尾次家)は親泊村地内である。その説明に窮しているところである。(今帰仁グスク前から今帰仁村側の集落に移動し、さらに現在地に移動したのではないかの仮説を立てていたが、今帰仁村側の集落内に今帰仁ノロ(ヌンドゥルチ)があった痕跡が今のところみあたらない。その問題は今帰仁アオリヤエでも生じてくる)。

 今帰仁グスクや今帰仁ノロと名付けられたことと、グスクや今帰仁ノロ火神のある場所が、当初今帰仁(村:ムラ)地内にあったことを示している。つまり『琉球国由来記』(1713年)頃は、それらは今帰仁村にある。ところが、明治36年に合併するまでグスクやノロ火神のある地域(ハンタ原とハタイ原)は親泊村地内である。もし、グスクやノロ火神のある地域が親泊村域であったのであれば、親泊グスクや親泊ノロと名づけられたであろう。そうではないので、どうも1700年中頃以降、今帰仁村と親泊村との境界線の間で変更がなされている。因みにグスクとノロ火神のある場所は、ハンタ原とハタイ原で親泊村の小字である)。



   今帰仁ノロの勾玉と水晶玉(ガラス)     今帰仁ノロの簪(カンザシ)


   仲尾次家の位牌              今帰仁ノロ代々の位牌


 仲尾次家の位牌の前の香炉       今帰仁ノロ代々の位牌の前の香炉


2009年4月14日(火)

 しばらく更新なしです。


2009年4月10日(金)

 『恩納村誌』の編集会議があり、「歴史」編についての進捗状況と方針についての報告をする。まだ「恩納村の歴史」の全体像が描けていない段階なり。それは私が史料把握がまだ十分ではないためである。「目次」を構成するには、もう少し時間と歴史を描く史料の把握が必要である。どちらかと言うと村民が「何故?」と思うことへの疑問に答を与えるような歴史の描き方がいいのかもしれない。「目次」に100の質問でも掲げてみようかね。きっと却下されるでしょう(前提としてウタキとイベは分けて考える必要あり。ウタキは森全体、森の内部にある拝む場所は神名とされるところはイベと見る必要あり)

 会議が始まる前と後で、何か所がに足を運んでみた。恩納村役場の隣にある小高い森。ウガンやウガングヮーと呼ばれる。なんども麓から眺めているが頂上部まで行くのは初めて。頂上部に祠があった。内部にはコンクリートの香炉が一基のみ。三つの石がないのでイビ。だとするとその森は御嶽(ウタキ)であることに間違い。その麓にガネクガーというのがある。一帯は古島である。するとかつての古島の人たちのウタキということになる。

 『琉球国由来記』(1713年)から恩納間切恩納村の御嶽を拾ってみた。そこには二つの御嶽があげられている。それと「年中祭祀」のところで三ヶ所の拝所があげられている。別資料の田代安定の「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃?)には五ヵ所の拝所が記されている。二つの資料を比較することで、拝所の特定が可能である。

【琉球国由来記】(1713年)(恩納巫の管轄)
  ・ヤウノ嶽 三御前(神名:ツミタテノイベナヌシ・オロシワノイベナヌシ・アフヒギノイベナヌシ)
  ・濱崎嶽(神名:ヨリアゲノイベナヌシ)
  ・恩納巫火神
  ・城内之殿
  ・カネクノ殿
  ・神アシアゲ

「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃?)
  ・ヤウノ御嶽
  ・仏ノ前ノ御嶽
  ・ノロ殿内火ノ神
  ・東ノ御嶽
  ・神アサギ

 異なる資料から、それぞれの拝所の特定が必要が可能である。まずはヤウノ(御)嶽の特定から。その手掛かりとなるのは「三御前」である。御前とあるのは国レベルの祭祀で、三つのイベがあることを示している。するとヤウノ嶽は『琉球国由来記』(1713年)にあるようにそこは按司や惣地頭クラスの祭祀場である。そこでの神名はイベの名称で恩納間切の両惣地頭が関わる拝所である。「城内之殿」は恩納グスク内にあるイベ部分(神名)をさし、この祠が「由来記」でいう「城内之殿」とみなすことができる。つまり、ヤウノ嶽は恩納グスクのことで、その内部にあるイベを祀る祠が「城内之殿」であると(仲松先生は恩納グスクを濱崎嶽と想定してあるが検討必要ありか)

 ヤウノ嶽が恩納グスクならば、濱崎御嶽はどこかということになる。それは古島にあるウガングヮー(ウガミ)と呼ばれる森だと想定できる。仲松先生はそこはヤウ島への遥拝所とされるが、その森そのものが濱崎御嶽で、神名とされるイベがヨリアゲノイベナヌシで、イベ(神名)を祀ってある祠がカネクノ殿とみることができる。そこも両惣地頭が関わる拝所であり遥拝所とは考えにくい。そのウガンは「沖縄島諸祭祝女類別表」でいう「東ノ御嶽」にあたり、現集落の東側に位置しているので間違いなさそう(私もこれまで濱崎嶽を恩納グスクとしてきたが訂正が必要か)

 「沖縄島諸祭祝女類別表」に出てくる「仏ノ前ノ御嶽」はヨウ島の対岸にあるウタキである。そのウタキがヨウ島への遥拝所と考えた方がよさそうである。 


        濱崎ウタキと想定できるウガン       ウタキ内にある「カネクの殿」はイベを祀る祠


   満潮時になるとウタキの麓まで遡流してくる        古島近くにあるガネクガー


2009年4月8日(水)

 しばらく、多忙で身動きとれない状況なり。アキサミヨー


2009年4月4日(土)

 中部からの帰り、西海岸沿いに山原へ。浦添市・宜野湾市・茶谷町・嘉手納町、そして読谷村。さらに西海岸を細長く伸びる恩納村。いつもは北から南下するが、今日は南から北へ。そうしたのは、県立博物館の常設展示の順路を逆にまわってみた。すると、いくつもの新鮮な面白いことに気づかされた(それは自分の知識不足であるが)。そのこともあって、恩納村を南から。北から南下すると、読谷山間切から恩納間切に組み込まれた村々はいつも時間切れとなり手薄となっている。それと、史料に登場したりしなかたりする村があるため、現在に至るムラの変遷を確固たるものにしていないこともある。

 現在15の字(行政区)があるので、まずはその把握から。仲松先生は15ヵ字の他に部落として宇加地、与久田、ビル、久良波、屋嘉田、赤崎、馬場、前太田、後太田、熱田、伊武部の11をあげてある。この11ヵ所は多分宿取集落で行政区として独立していないのであろう。下の15ヵの字(区)にはいているのであろう。歴史を紐解いていくことで、明確にできるであろう(もちろん、すでになされているが、私の頭ではこれから)

宇加地 塩屋 真栄田 山田 仲泊 前兼久 富着 谷茶 南恩納 恩納 太田 瀬良垣 安富祖 喜瀬原 名嘉真

宇加地は戦前までは真栄田の屋取集落(宇嘉地と与久田を合わせて字宇加地となる。読谷村長浜に近いところが宇加地)
久良波は歴史や歌、あるいは「くらはのろこもい」(ノロ)の名で登場してくる。山田ノロとの関係?」

 以前「山原の津(港)と山原船」で恩納村について触れたことがあるので、中身は忘れています。取り出してみことに。漂着船と恩納間切から「恩納の歴史」を描いてみることに。まずは恩納村立博物館の広場にある「道光四年十二月初六日立」(1825年)の唐人墓の碑から(その碑は博物館の前の旧道路の側にあったのを移設。戦前まで墓もあったようだ)。恩納村博物館の側に便所や豚小屋、あるいはヒンプンや石臼や石柱などに使われていた石材が置かれている。それらから変貌している恩納村の風景であるが、歴史を組み立てていくに必要な、当時の生活や風景を蘇らせるための史料である。


200942日(木)

 新年度スタート。ちょっと城の麓から具志堅まで。まだ肌寒さがあるが、田畑はウリズンに向かっている様。雨後の畑のモチキビが青々と伸びている最中。それと今帰仁グスクの麓に一枚の水田が復活している。かつて一帯は水田が広がっていたところである。黄金色にたわわに実ってくれることを祈願。

 午後から今帰仁村内へ異動してこられた先生方の辞令交付。その後、みなさん礼服なので今帰仁グスクと歴史文化センターのみ。指導者向けのレクチャー。歴史文化センターを活用してくれたら幸い。二時間近い講座。しばらく沈黙で仕事をしていたので声がでません。留守の間、問い合わせメモが何軒も。新年度がスタートしたのを実感。


        今帰仁村へ異動してこられた先生方をグスクと歴史文化センターへ


復活している今泊の水田。豊かに実るよう祈願!       本来土は黒っぽいけど。客土のためか。
 

    本部町具志堅のモチキビかな?               雨後の畑、勢いよく成長!