地域踏査ノート(山原のムラ・シマ)

                   
               ―2014(平成26)年度―
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 タイトルを「地域踏査ノート」とした。まずは大正時代にまとめられた『沖縄県国頭郡志』の項目を一つひとつ踏査してみる。それを乗り越えた研究にするには、まずは当時の解釈や歴史の見方に身を置いて、まずはそこからスタート。それを踏まえた上で100年経った今、どうなっているのか。地名が表記される以前からの伝承があり、それが門川坂や七日浜(難所浜)、健堅大親や謝花大主、本部大主の生誕地が村名とされる。上間大親の話が上間村となる。


2014年12月14日(日)(国頭村踏査)


 天気晴れ。国頭村浜から入る。浜村は1673年に国頭間切を分割(方切)し田港(大宜味)間切を創設する。分割した当時、国頭間切の番所は国頭間切浜村、田港間切は田港村に置かれた。その国頭村浜からスタート。奥間の土帝君でヒメハブ、伊地の遠見台で大型のアカマター(黒く変色した)と出会う。先日は金武町伊芸でハブの抜け殻と。冬場になると温まった石の上で日向ぼっこをするので注意。(以下の画像は2014年12月14日撮影)


【国頭村浜】(2007年1月4日メモ)

 国頭村浜は国頭村の一番南側に位置し、大宜味村と接している。その浜に国頭間切番所があった時期がある。『琉球国旧記』(1731年)での国頭間切の駅(番所)は奥間邑(村)である。「国頭間切の番所は、1673年に浜村に移ったが、そこが間切の僻辺に存在し、行政命令の伝達や人民の往還に不均等であるとして、1732年に奥間村に移転した。浜村の番所跡は字浜の両側に最近までみることができた」(『国頭村史』)という。

 1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(後に大宜味)間切を創設した。大宜味間切が創設される前の国頭間切の番所はどこにあったのか。根謝銘グスク(上グスク)の根謝銘村、あるいは城村にあったのでは。他間切では同名村があるが、国頭間切に国頭村があったかどうか、確認することができない。ただ『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)に「国頭城」とあるので、城村が同村なのかもしれない。(城村は明治36年に根謝銘村と一代名村と城村が合併して謝名城となる) とすると、1673年以前の国頭間切の番所は城村にあった可能性がある。1673年に国頭・羽地間切を分割し田港(後に大宜味)間切が創設されたときに、国頭間切の番所は城村から浜村に、田港間切は田港村に新しく番所を設置したことになるか。
 
 国頭間切の番所は城村(1673年以前?)→浜村(1673年)→奥間村(1732年頃)→辺土名(大正3年)へと移動している。『琉球国由来記』(1713年)による国頭間切の年中祭祀で両惣地頭が関係する村は奥間村である。また、国頭間切と大宜味間切の境にあった親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切である。それらの三つの村は後に大宜味間切の管轄となり、明治36年には合併して田嘉里となる。間切分割の境界線が祭祀との関係で揺れ動いている。そのことが国頭間切の番所と祭祀にも影響を及ぼしている。(根謝銘グスクを国頭間切域に入れることができたら片付いたのでは?)

 
   ▲旧番所跡の姿は瓦などの遺物と地頭代火神の跡の祠

 
▲浜番所跡付近から眺めた根謝銘グスク ▲屋嘉比川の河口から眺めた根謝銘グスク


A奥間

 


B奥間の土帝君

  


C経塚(奥間の金剛山)

 金剛山と南無阿弥陀仏の碑がある。まわりに丸い小石が数多くあり、経を記してあるのだろう。

 


D辺土名

 


E伊地の古墳

 伊地の古墳がどれなのか特定することはできなかった。現在の墓地にある、あるはあったのであろうが。『沖縄県国頭郡志』にはないが、『国頭村史』(303頁)に伊地の銅山について「伊地の屋取には明治初年のころ安谷屋・渡名喜などの居住人が住みついて藍を造り、その中から後に尚家の鉱山経営の事務をとるものが現れたが、鉱山経営の不振で大部分が那覇に帰っていった」とあり、他に資料がないか、あるいは当時の様子を確認してみたいものだ。

 笹森儀助は明治26年6月18日に伊地の「鉱山事務所」を訪れている。『南島探験』に「当銅山は、去る24年5月借区許可を得、坪4万4117坪となす。創業より本年5月迄、総入費金8116円71銭8厘と云う。
  工夫 一人一日の給金32銭以下12銭に至る
  昨25年6月より12月に至る諸調以下に、
  諸入費 1931円
  鉱業工夫数 2559円
  此出鉱高 1552貫目
  製銅高 3557斤
  此対価 533円55銭
  役員 4名 小使 T名
  売先地は大阪とす
 上概計は、該事務所より請い得たるものとす
 坑内状況一班「レール」を以て、礦石を運搬せる


国頭村伊地

 
   ▲伊地の遠見台に大蛇           ▲尚家の銅山の跡?


 
  ▲伊地の遠見台から辺土岬を望む           ▲ティーチ墓があるようだが?!


F与那の高坂

 


G謝敷板干瀬

 


H辺野喜

  


I宜名真御殿

 宜名真御殿について、『沖縄県国頭郡』(447頁)に、以下のように記してある。
 宜名真は嶮峻なる武見坂の下にあり。辺土を距る西南一里に位置し戸数百数十を算す。昔時は流浪人及び漁民の巣窟として、頑迷粗暴の誇りを受けたりしが、今は漸次穏健に化しつつあり。此処に尚円王の遺跡を宜名真御殿あり。尚円始め金丸と称し、伊平屋より渡りて暫く此の地に住めり。然るに再び人民の迫害に遭ひ、奥間鍛冶屋の庇護によりて難を避け、而して首里に上り他日国王の位に?むに及び村民遺址を尊崇して竈神を祀れり。後尚穆王代に至り、爾覇親雲上に命じて殿堂を修築せしめ、新に瓦葺となし、辺戸の旧家佐久真を選み、其夫役を免じて之を看守せしめ、赤八巻の位を賜へりという。

尚穆王32年(1783)10月内院を従え参詣せらる。『球陽』同王30年条に云う。
  往時先王尚円未践祚時、在国頭郡宜名真地、所尊竈神至今遭蹟猶存、挙・・・・

 


Jオランダ墓

  


K茅打万端・戻る道

 『沖縄県国頭郡志』に「カヤウチバンタは宜名真の北端に在りて戻る道に隣る。断崖直下数十仭、常に強烈なる海風吹き来りて之に当る。その頃より茅を束ねて投下する時は、中間に至り粉々として鵝毛の如く飛散し奇観を呈す故に此のありという」(448頁)。

 現在この崖下を宜名真トンネルが通っている。1983年完成した宜名真トンネルの全長1,045m、復帰10周年記念事業の一環で作られた。「戻る道」と呼ばれた交通の難所が整備される。當山正堅先生頌徳碑があり。明治時代に恩納間切谷茶村の生まれ、26歳で辺戸小学校校長。宜名真の「戻る道」開削に貢献した人物である。


 
      ▲現在の戻る道          ▲當山正堅先生頌徳碑


M辺戸御嶽
 


N義本王の墓

 


 地域調査は大宜味村へ。羽地村(現名護市)源河から入る。

@源河http--www.rekibun.jpl

【大宜味村】http--www.rekibun.jp
A津波城
B森川子旧址
C塩屋湾
D田港
E寺屋敷
F根謝銘城址http--www.rekibun.jp



2014年11月20日(木)踏査メモ

 沖縄博物館協会の研修会に参加。一時間ばかり前に到着。開始まで時間があったので、金武町の福花川の下流域の富蔵港(現福花川下流)まで。2014年10月26日(日)に踏査しているが、場所が特定できずにパスした場所である。富蔵港と切り離せないの金武寺(現観音寺)である。金武寺について、『沖縄県国頭郡志』に長文で紹介してある。

【富蔵港】(フクツ港)

 『沖縄国頭郡志』(大正8年)に、以下のように記される。
  金武の東方なる小流を富蔵(フクジ)河(旧記には富花、今は福花川に作る)といい、その河口を
  富蔵津という。付近の小字を福花原と称し字金武に属す。日秀上人の漂着せし所なるを以って著
  はる。

 『中山伝信録』(1721年)にも記されている。
  在金武山、山上為金峯山、下有洞千手院有富蔵河、二百年前有日秀上人渡海到、此年大豊、
  民謡云、神人来兮、富蔵水清、神人遊兮、白沙化米、日秀上人住波上、三年跡回北山云々

【金武寺】(現観音寺)(『沖縄県国頭郡志』)
 金峰山観音寺は金武にあり。今を距る三百七八十年前尚清王代(1497〜1555年)、倭僧日秀上
 泛海して、富蔵港に来り寺を金武村に剏め自ら弥陀薬師正観音三像を彫刻kして安置す。これ同
 寺の起源なり。その後一旦禅宗に属せしが寛文二年(1643年)尚質王具志川王子朝?(チョウエ
 イ)に命じて再び真言宗に復せしめ、元禄十二年(1698年)尚質王代に至り住持慧郎、新に紫磨
 金三尊仏を請じ且つ初めて屋根瓦を用い旧観に改むという。

 境内に洞窟あり、深さ二町山背に通ず。昔此処に大蛇棲息し、人民その災禍に罹るもの多かりし
 が日秀上人呪文を唱して之を除き初めて安堵せりという。

 洞内千手観音の小祠あり、現今奉安するもの本尊厨子共に陶製にして、扉に大清同治二年(1863)
 癸酉十二月十三日、現在は瀬源の文字を刻す。
 洞内鍾乳石および石筍相接して奇観を呈す。

  同寺は明治四十三年法律第五十九号沖縄県社禄処分法発布の結果土地建物をその寺に無償
 下渡せらる。

 琉球国旧記に、
   嘉靖年間、尚清王世代有田日本僧日秀上人者、随流漂至富蔵津、遂創寺社金武邑、自刻弥陀
   薬師正観音三尊仏、而奉焉、既而其道漸衰、遂将寺此賜禅林精舎、自此而来霊山日微神明亦
   不現焉、康熙元年壬寅除夜、尚質王命尚氏具志川王子朝?、復賜之於聖家焉。至于三十八年
   巳卯住持慧即和尚揆遺古仏、新請紫磨金三尊仏、而奉安焉、云々

  
   ▲福花川の河口           ▲福花橋          ▲福花橋付近から金武集落を眺める


        ▲金武の観音寺          ▲鍾乳洞内          ▲洞内の千手観音の小祠?      


2014年11月16日(日)踏査メモ

 積み残してきた名護市安和の嘉津宇岳、門川坂、そこから本部町辺名地へでる。瀬底の土帝君、按司墓再度、伊野波、(北谷真牛の墓はパス)、浜元の土帝君、謝花大主の墓。今帰仁村を通り越して名護市の屋我地のオランダ墓、ヒルギ林、羽地グスク、ジャーガル島(池城墓)、羽地大川(羽地大川改決碑)、勘手納港、金川銅山まで。呉我港・鍛冶屋原・親城・古我地・源河は時間切れ。

【本部町】

【門川坂】(ジョウガービラ)
(国頭郡志)

 門川坂(嫦娥坂)は名護本部間の険路なり。字安和より四五町にて門川に入る。これより道即ち川、川すなわち道にして左右高山の間なる渓谷に大理石のごとき、石灰岩の散在せる中を辿ること四五町にして、いわゆる門川坂となり。さらに曲折蛇行三四町にして峠に達す。この間昔時は樹木鬱蒼として昼なお暗く魑魅魍魎の出現を畏怖せし程なりしが、今は森林全く荒廃して昔日の感なし。本部境なる峠に達すれば東西の両海を見下して眺望よし。
 
       ▲門川坂途中               ▲門川坂の峠から名護湾が

 この門川坂は「組踊伏山敵討」に登場する道筋のようである。

 君のかたきを討たんてやい、思い立つ身の志、深く編み笠顔隠し、神や仏に念願し、いざや最後と勇み立ち、忍ぶ心や余所知らん君と親との敵かたき共に月日を戴かん、昔かたりを身にとめて、夜も昼をも絶間なく、村々里々越に来れば、此所ぞ名に立つ門川道、歩みかねたる坂ひらも、心勇めて走い登てエイ今ど本部の嘉津宇岳、山の麓に忍び着ちや。


【瀬底の土帝君】

 
         ▲本部町大浜                 ▲瀬底の土帝君


【按司墓】(渡久地)(国頭郡志)

 渡久地の村後丘したに普通の墓所と趣を異にする古墳あり。俗に按司御墓と称う。これ尚円王の兄に当れる米須里主(顧姓久志氏等の租也)の墓なりと称う。里主は元伊平屋の人にして中山尚徳王に奉仕せしが、文明元年徳王廃せられ、尚円王位につきしかば、先王に対する節義を重んじ、かつ弟に仕ふるを耻ぢ家を捨てて北山に隠退し、而して具志川ノロクモイ(今の浜元)を妾として、この地に老を養へり(そのノロの墓はヲナヂャラ御墓といい、渡久地港北岸にあり)、米須の長男は喜界島大屋子を勤めその子孫、今同地八十戸を算すという。

 
       ▲渡久地の按司墓             ▲米須里主の墓碑

翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)

墳墓発掘の原因
 ■も発掘の動機は翁氏の先祖国頭親方の尊父は大米須公なりと伝られしが近頃歴史家の研究する所に依れば大米須と国頭親方の年齢は殆ど九十余年の差あるを以て御親子にあらずして、或いは国頭親方は大米須の御孫にあらずやとの疑念を惹起し、墳墓を発掘し、具体的調査するの必要を認め一門協議会を開き詮議の結果鼻祖大米須公並御夫人(をなぢゃら)御墓を発掘し、緻密に調査するに決定し、其の調査委員は永山盛廉、安谷屋盛堅、東恩納盛起、久志助英等を選定し、本部村渡久地に派遣せらるや、歴史家真境名安興氏に立会を乞い同伴して渡久地に至り大に利する所ありたり。

墳墓発掘ノ日時
 最初は大正七年旧暦八月六日墳墓発掘することに定めたりしが、天天候荒立ち海陸共に旅行し難く八月十一日に延期したるに、尚ほ天気静穏に復せず不得巳、私事の為め曩に出発せる安谷屋盛堅並びに渡久地松太郎等に電報を以て依頼し、十一日午前七時は阿さたひ御墓、仝日午前十一時はをなぢゃら御墓を発掘着手の義式丈を行はしめ、十二日午後一時より調査委員が墳墓を発掘せり。

安可多部御墓の状況
 その位置は国頭郡本部村渡久地うゑの原という山の麓にあり。亥に近き方に向かい渡久地の裏路通りに沿へ天然の洞穴を利用し少しも人工を施さず檀もなく至て質素の感あり。而して石棺十二個あり、陶製の逗子四十個ありて、墓内に厨子を以て充満し、或いは厨子を重ねおきて多し、奥面には数人の骨を混合して堆積せり。

 中央に安置せらるる石棺の蓋に大米須の三字を書し、その中には「乾隆三十九年甲午八月十二日翁氏国頭親方の御親父の由承之」と書したる。木札を発見せり。然し厨子に銘書あるものは土地の人民なるものの如し。又銘書なきもの六個ありて大米須の御子孫なるや否判明せず。従って調査の目的達する能はずるは遺憾に不堪なり。

 古老の伝ふ所に依れば墓内に石碑を入れたる趣き、調査したるも是亦発見する能はず。石棺に乾隆三十九年午八月十二日云々と書したる木札と、今回延期に延期を重ねて午年八月十二日に発墓したると仝年月日も相当したるは実に寄寓の感あり。今回記念の為め左の通り木札に記載し大米須の石棺に入れたり。

 大正七年九月十六日(旧暦七月十二日)一門立会の上御嶽墓を発掘す。古老の指示に従い墓内に入れ置きたりという。石碑を捜索するも発見すること能はず。当時石棺十二個陶製厨子四十個あり。銘書明なるもの及び不明のものも一々謄写し置きたり。

 大米須の石棺に別札乾隆三十九年八月十二日云々の木札ありしに依り其のまま複製し、原文の通り書し入れ置けり。
  大正七年九月十六日
  立会人
   歴史家  真境名安興
   翁氏   永山盛康

         安谷屋盛堅
         東恩納盛起
   顧氏   翁長助持
         普天間助宜
        久志助英
 今回墳墓発掘の際本部村渡久地百三番地島袋盛三郎より願出に依り厨子一個渡せり。

御夫人御墓の状況
 その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は逗子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。

 裔孫たるものは一生涯遺憾千万なり。期して願くば尚一層研究を重ね探索を継続して鼻祖御夫人の御骨を確認せられんこと

  附言
本部村渡久地二十三番地士族名城政致より申出に依り厨子一個を渡せり

阿さたひ御墓に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらるもの左の如し。

  (抜け:工事中)

一、満名村松田にや
一、乾隆三十九年五月浜元村 
    唐山仲宗根
一、嘉慶十七年大辺名地村
    唐山蒲渡久地
一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨
  浜元村辺名地親雲上アンシ
  乾隆○○○○丁亥謝花掟
一、金状 松
  浜元村前並里親雲上
一、具志川のろくもい女子 まうし
  健堅親雲上女房
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上妻
一、乾隆三十八年三月廿五日
  伊野波村加那玉城
一、渡久地村前石嘉波親雲上
  妻
一、道光三年未八月浜元村
  上渡久地妻
一、乾隆五十六年戌浜元村
  石嘉波大屋子
一、浜元村
  並里親雲上
一、乾隆三十六戌 浜元村
  浜元にや 石嘉波大屋子
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上
一、嘉慶元年辰六月九日
   辺名地村辺名地親雲上母
一、辺名地村
  辺名地親雲上 妻
一、志ひら下こうり浜元村
  辺名地親雲上妻
一、道光十七年丁■二月十九日死
  浜元村満名村大屋子 妻
一、乾隆三十五年康寅二月七日
  浜元村島袋筑登之の妻
一、嘉慶七年三月
  浜元村渡真理親雲上
一 ○○○○親雲上
   伊芸親雲上妻
一、辺名地村■山辺名地親雲上
  男子  ■■郎
一、前辺名地親雲上 男子
   太良にや
一、乾隆十六年辛未
   大掟文子
一 浜元村
   並里親雲上妻
一、大辺名地仲村渠親雲上
   具志川のろくもい女子
一、タンチャ掟
   渡口村
一、乾隆二十九年甲申正月十六日
   浜元村渡久地大屋子
一、伊芸親雲上母
  真部親雲上
一、申八月廿四日
   ■■親雲上ウシ
一、乙未
   辺名地掟女房
一、伊芸親雲上
一、渡久地村仲宗根方
   玉城にや
一、乾隆十四年寅十四日
   辺名地村辺名地親雲上
一、渡口にや女房
   武太父親
一、銘書不明十一個

昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
   ヌール墓を開けた。


【伊野波】(国頭郡志)

 伊野波は渡久地の東方十町にあり。満名川に沿う。検地帳に「上によは」と注す。発音はニューハなり。伊はすなわち発語にて伊集・伊芸等と同格とし、ニューハは亦饒波、入端の地名と同義ならんという。
 伊野波は寛文六年(1666)伊野波間切、翌年本部と改称す。新設当時の主邑にして諸船の碇泊地なりき。その前方に古歌に名高き伊野波小坂あり。今は間道となれり。
  伊野波のいしこびり無蔵つれてのぼる にやへん石こびり遠さあらな(伊野波節)
 一詠三十字髣髷として好く艶事の実況を示せりというべし。伊野波の北片字並里にジューフネといへる地名あり。これ造船にして古への造船場の跡なりという。これを以て満名田圃はすなわち昔時の港湾なりしを知るべし。

  
  ▲伊野波の集落          ▲公民館付近にある消防庫(昭和13年)  ▲並里のじゅーふに碑


【浜元の土帝君】(浜元)

  
      ▲浜元の土帝君の祠          ▲土帝君像の一つ


【謝花大主の墓】(国頭郡志)

 字浦崎の北方なる小谿に朽木を以て封られたる古墳あり。謝花大主の墓と称し字謝名玉城某の一族これを祀る。大主の事歴に就きては記録の確実なるものなけれども口碑に依れば北山の臣下にして後反逆せし人なりという。
  
 ▲謝花大主の墓?


旧羽地(現名護市)

 
 ▲運天原のオランダ墓               ▲二人の墓碑

 
        ▲オランダ墓から番所のあった運天集落をのぞむ

  
   ▲饒平名のヒルギ(マンブローブ)林                     ▲植えつけられた若いヒルギ

 
    ▲羽地内海に浮かぶジャルマ島             ▲のがれ島の碑

 
 ▲向こうの杜が羽地グスク


  
 ▲改決羽地大川碑記                              ▲ヒームイ(碑森)

 
    ▲勘手納港                  ▲台風で座礁した小舟

  
 ▲金川銅山跡の碑                 ▲坑口               ▲銅の鉱物


2014年11月9日(日)メモ

 前回踏査できかった名護の屋部寺からスタート。屋部寺→嘉津宇岳→門川坂(ガジャンビラ)→部間権現→(本部町にはいる)塩川→瀬底島→土帝君→健堅大親の墓→渡久地→按司御墓→伊野波→北谷真牛の墓→浜元の土帝君→謝花大主の墓まで。横道にそれずに踏査できるか。
 途中、大雨と急用で半分の踏査。@屋部寺 A嘉津宇岳 B門川坂 C部間権現 D塩川 E瀬底島 F健堅大親の屋敷跡(健堅大親の墓) G按司墓(渡久地)まで。(山川出版「沖縄の歴史」の時、執筆した原稿をもとに書き改めたものである) A嘉津宇岳とB門川坂は天気が悪く撮影、門川坂は通行不可。


【屋部寺】名護市屋部

 名護市屋部の集落の後方に屋部寺があり凌雲院とも呼ばれている。国道449号線から集落を通りぬける。寺の入口に石碑があり、凌雲院とほられている。屋部寺の後方の蛇谷から大蛇が毎夜火花を吐きなら出てくるので、中山王府に救済を願いでた。王府の命で天界寺の僧がやってきて祈祷によって払いのけた。それでその場所に一堂を設け、仏像を祀り僧は庵に住んだ。人格高潔の僧が首里に帰院。
 「開祖は凌雲和尚、西暦1692年、屋部邑に草庵を構結して楽道安身の処となす。当時、大日千釈道周く通ぜし和尚の昼夜の念経呪法により終に大雨降る。又、屋部邑に多かりし火災も無くせり」(1977新春建立)。凌雲和尚が屋部の村の災いを防ぎ、そのことで尊敬を受けた。入口を入ると赤瓦屋根の建物に大きな釣り鐘が下がっている。本殿に設けられた拝所に参拝の方が訪れる。和尚の業績に御利益を願い、また出産や旅の安全などで祈願に訪れる人がいる。「中央に石像、その左右に木像五基、檀上に寄進された「蒙蔭」「善堂」の扁額、右左の柱に「神恩流不竭」「仏法広無辺」(乾隆58年:1793)の扁額が今のある。

 


【部間権現】名護市安和

 名護市の安和に部間権現がある。国道449号線沿いにある部間集落を過ぎた右手にある。昭和の初期と見られるが神社化されている。安和の小集落の部間にあり大正期に「此地の神森に洞窟あり、毎年旧九月吉日字民総出にて参詣する。霊験亦著しという」とある。道光三拾年…」(1850)の石灯籠が二基(対)立っている。安和村は名護間切の村なので名護王子や名護親方の薩州や江戸上り(参府)と関わった人物が寄進したと見られる。道光30年(1850)に以下のメンバーが薩州・江戸に派遣されており、部間権現に寄進した人物も同行したのであろう。石灯籠や香炉などの寄進をした人物がが按司や親方などと薩州・江戸に御供し、帰ってきて大和情報を間切や末端の村まで伝える役目を担っている。

 


【健堅の比屋】本部町健堅

健堅大親(健堅之比屋)は察度王時代(1350年〜1395年)の人で、健堅大屋子を勤めた人物である。大親は健堅の人で人情に厚く、いつも村人の面倒をよくみて、村人から尊敬された人物である。また遭難した中国人に船と名馬を与え無事に中国に送り返し、後に中国の皇帝から琉球王国を通じて絹と石碑が贈られた(『琉陽』察度王45年条)。墓は健堅の瀬底大橋近くの国道449号線沿いの崖下にある。『沖縄県国頭郡志』に墓前に明治36年に建立した石碑があり「鳳姓元祖健堅比屋御墓所、幼名二郎二男亀寿父松、寿五十三歳明治三十六年吉日 同年迄三百六十二年」の文字がある。

 山手のアマグスクには健堅大親の屋敷跡があり、またタマウドゥンに健堅大親と関わる人物が祀られている(下の位牌?)。1300年後半の健堅という人物の伝承が村名になっている事例の一つである。


▲タマウドゥンにある位牌? ▲健堅大親の屋敷跡         ▲健堅大親の墓
      


   (工事中)




【按司墓】本部町渡久地

 渡久地の町の後方崖下に按司墓という古墓がある。尚円王の兄にあたる米須里主の墓だという。米須里主は伊平屋島の人で、中山の尚徳王に仕えていたが、尚徳王の王統が廃止され、尚円王が即位すると米須里主は尚徳王に仕えていた節義で、弟に仕えることを恥とし、北山に隠れたという。具志川ノロクモイ(浜元)を妾にしてこの地で過ごした。そのノロの墓はヲナジャラ墓といい、渡久地港北岸にある。米須の長男は喜界島で大屋子を勤め、その子孫は喜界島で栄えているという。


2014年10月26日(日)メモ

 名護市内からスタート。ムラ・シマの形をテーマとしながら踏査するのであるが、今日はそれとは関係なく、『国頭郡志』(大正8年発刊)の山原の「名所旧蹟」100ヶ所あるが、名護市内→金武町→久志村(現名護市東海岸)を踏査してみた。それらの項目はある出版社の『沖縄の歴史』で執筆したことがあるが、収録されたのは原稿の一部だったような。(工事中)

【名護村】(現名護市)
 @名護公園
 A万松院
 B名護街
 C三府龍脉碑記
 D世富慶
 E轟滝
 F許田手水
 G湖辺底

 
           B現在の名護の街(2104年10月26日)
 
     C三府龍脉碑記とヒンプンガジマル(2104年10月26日)


    G湖辺底(2104年10月26日)


 そこから幸喜→喜瀬→喜瀬武原(恩納村)から山越で金武町へ横断する。

【金武町】

 @御待毛(恩納村)
 A金武
 B観音寺
 C富蔵港(福花川)
 D七日浜
 E山里和尚の墓
 F漢那

 
    @御待毛(恩納村)(工事中でした)(2104年10月26日)

【D七日浜】

 この浜はナンカハマと呼ばれ、七日浜と記されるが、漢字をあてると「難所浜」あるいは「難ヶ浜」ではないか。今帰仁村運天に「大北墓」(ウーニシバカ)がある。大北と漢字を充ててあるのでニシ(北)はどこからみた北なのだろうかの疑問がしょうずる。この墓は按司墓、あるいは大主墓である。この大主がウーヌシにさらに大北と字をあててある事例である。

 
        D七日浜(難所浜)(石川から屋嘉)(2104年10月26日)

【E山里和尚の墓】?

 『国頭郡志』に「山里和尚の墓」として紹介しているのが伊芸のそれか。「今を距る百数十年伊芸村に山里和尚といへる善智議ありき。布教の傍村内産業教育其の他諸般の開発に貢献し感化徳望一郷に及び村民の尊信甚だ厚かりしという。墓は村の東端にあり後裔山里氏を祭る。十数年前迄御経文書衣用具等の遺物を保存せしが巫女の誣言に惑わされ悉く消失して今は伝らず」とある。
 碑にある「大清康熙五十九年 □権大僧都法卯頼宥 正位 康子十月二十二日去」と山里和尚は同一人物かどうか。(康熙59年は1720年なので、大正8年頃から300年前、大正8年頃から百数十年とは年代が違いすぎるので検討が必要)
 以前に調査しているが答えを出すことがでなかったようだ。それとは別に登り口の右手の木々の中にハブ?の抜け殻を見つける。引き出して靴で8回分の長さ。2m以上の大蛇。まだ脱皮したばかり。付近にひそんでいるかも。気をつけましょう。




    ▲2m余のハブ?抜け殻・・・。クワバラクワバラ

F富蔵港(富花津)
 
金武町金武の福花川の下流域。

G金武寺


【旧久志村】(現名護市)

【.久志の観音堂】名護市久志

久志間切は沖縄本島北部の東海岸を細長く伸び、現在の名護市である。集落の後方を国道329号線が走り、集落内は旧道(県道)が走る。名護市久志は金武間切と名護間切の村で創設された時(1673年)、久志間切の番所が置かれた同村である。久志と隣の辺野古は金武間切からの村である。間切創設の時、久志村に番所が置かれたが、14年後に瀬嵩に移動する。久志村名は久志若按司の伝承が村名がつけられる前からあり、村名をつける頃に久志若按司の伝承に因んでつけられたとみられる。その典型的な事例である。

 康煕27年(1688)に観音(石像)が安置される。間切番所は移転するが観音像は番所のあった久志村に設置された。設置したのは尚経豊見城王子朝良(惣地頭)と久志親方助豊(親方地頭)の両惣地頭はである。久志には上里グスクがあり、別名久志グスクともいう。久志間切創設後、金武間切の古知屋(現在松田)村を久志間切へ、久志間切の北側の平良村と川田村を大宜味間切に組み入れた(1695年)が1719年に元に戻る。

 久志間切が創設されると番所は久志村に置かれた。ところが1687年に久志間切番所は久志村から瀬嵩村に移された。間切番所の移転は、名護間切の負担の軽減から東宿道のコースの変更であった。瀬嵩地内の現役所在地に番所の新築期間中大浦村々屋(現在の事務所)に番所を仮設置し政務を掌っていたので、これを大浦仮番所と呼んでいたが、新築中の番所が落成して移転し瀬嵩番所と呼ばれるようになった。隣の辺野古には宿道の目印となる一里塚の土盛が残っている。

  
▲久志の観音堂                   ▲久志若按司の墓と建立碑



2011年3月23日(水)メモ

 しばらく体調不良で動けず。検査結果が異常なしの医者のお墨付きがでたので、早速の中頭のムラ・シマ調査へ出向いた。新しい年度に「中頭のムラ・シマ―金武湾岸のムラ・シマ」をテーマで講義をする予定。それで石川・伊波・嘉手刈・東恩納・天願・宇堅・具志川、飛ばして平安座島・宮城島・伊計島まで行く。それは、改めてまとめることにする。途中で立ち寄った金武町伊芸の山里和尚の墓の碑の確認から。

 以前「金武町伊芸の山里和尚の森の碑も同様なものか。残念ながら碑に文があったかは不明」と紹介したことがある。気になっていたので早速足を運んでみた。金武町の伊芸と屋嘉もいく。伊芸と屋嘉に新しく神アサギが建設されており、屋嘉のウタキの二つのイベ、伊芸ノロ殿内も新築されていて変わりつつある。

 伊芸の「山里和尚の森の碑」の一基に文字が彫られている。「大清康煕59年(1720)庚子去」とあるので、この人物(僧)は1720年に亡くなったことがわかる。 『沖縄県国頭郡志』(389頁)(大正8年)で「山里和尚の墓」としているのは妥当であろう。もう一基の無名の碑がある。それと郡志での文章と碑文と丁寧に吟味する必要がありそう。『球陽』にそれを関わる記事が確認できれば幸いであるが・・・。□は凡字。『金石文―歴史資料調査報告書X』(沖縄県文化財調査報告書第69集)の目録で「山里和尚碑」(康煕59年、尚敬8年:1720)とあるが、亡失資料として扱われているので採拓されていない)。

   大清康煕五十九年
  □ 権大僧都法仰(卯?)頼 正位
    庚子十月二十二日去


   ▲「山里和尚の墓?」のある杜         ▲森の中に祠あり



        ▲祠の奥に二基の碑あり     ▲左の碑に「康煕五十九年」とあり

 『沖縄県国頭郡志』(389頁)(大正8年)に「山里和尚の墓」として「今を距る百数十年伊芸村に山里和尚といえる善智識ありき。布教の傍ら村内産業教育その他諸般の開発に貢献し感化徳望一郷に及び村民の尊信甚だ厚かりしという。墓は村の東端にあり後胤山里氏を祭る。十数年前迄経文書類用具等の遺物を保存せしが巫女の誣言に惑わされ悉く焼失して今は伝わらず」とある。




【久志村】(現名護市)
 @久志城址
 A観音寺
 B瀬嵩
 C汀間
 D大鼓村(現在東村)





【久志間切番所の移転】
2014年10月26日

 久志間切は地勢上交通不便でしかも西方への横断道路が当時なく久志から羽地番所への逓送は久志番所から一部逆も戻りして金武間切古知屋潟原から名護の許田村に宿次して名護番所から羽地、大宜味、国頭へ順次逓送していた。名護は結局西宿と東宿両駅路の責任を負わされ同間切は其の苦難を上訴したので王丁の命により、金武、久志、名護、羽地、大宜味の各地頭会議を開き対策協議の結果各間切地頭代に命じ五ヶ間切地頭代が大浦と羽地仲尾次境界の岳に登り地勢に視察し道路開鑿が出来る事を認めて貞享四年九月(1719)久志、羽地、両間切の協同工事に依り久志間切瀬嵩村から羽地間切真喜屋村に至る山野を開鑿し西道が開通せられ爾後駅路に指定せられた。

 西宿の駅路が開通後の翌年大浦から御飯越地(ウバンクイヂ)を越え名護東江原、三つ坂、中山を経て東江へ通ずる東江原道と御飯越地から川沿いに羽地川上に通ずるタガラ道が開鑿せられて西方面への交通が愈々便利になったので番所の移転方を王丁へ上申した所認可になり1720年瀬嵩に移転する事に決定せられた。

 瀬嵩地内の現役所所在地に番所の新築期間中大浦村々屋に番所を仮設置し政務を掌っていたので俗に之を大浦仮番所と称していた。新築中の番所が落成して移転し瀬嵩番所と称せらるヽに至った。

 久志間切新設置後の1696年金武間切古知屋は久志間切に編入せられていたが番所が瀬嵩に移転したので元の金武間切に復活することになった。



【名護市仲尾次)】2014年9月7日(日)

 那覇での用事をすまで2時頃帰宅。一休みするとソワソワ。今週のスケジュールから「ムラ・シマ講座」の下見する時間がない。それがわかると午後4時過ぎ名護市仲尾次へ家をとび出す。午前中雨が降ったようで無理しないようにと念じつつ。

 まずは、仲尾次のナカグスク跡(史跡名は仲尾次ウイグスク跡)へ。中城か中城グスクか? 中城は現在仲尾次である。羽地の羽地(親川)グスクと2kmで、そう離れてはいない。その中間にある親川村(田井等村から1730年代に分離)の黄金杜跡(ウタキ跡)から二つのグスクを眺める。名称はグスク、ウタキでもある例(イベが二つあり)

 集落内へ。集落内の道は細く放射状の自然発生的な家々の配置展開が今に伝えている。バスで集落内に入る道筋を確認しておく必要がある。公民館広場まで行ける道筋を確認。そこからは徒歩で集落内をまわることに。

 公民館広場の向かい側に親川又ガーあり。徒歩で神アサギ広場へ。付近に神アサギ、根神屋、大親屋がある。神アサギの線香(香炉)はウプウガーミ(ウタキ)に向いている。頂上部に香炉があり、そこがイベである。仲尾次集落とウプウガーミとの間にバイパスの道路を通したとき、道路沿いに黄金杜の碑が建立してある。

       (工事中)

 
 
   ▲親川の黄金杜から見たナカグスク     ▲杜の三合目あたりのイベ     ▲頂上部にあるイベ

  
▲平成16年に建替られた神アサギ      ▲神アサギや旧家の向こうにウタキ    ▲黄金杜之御嶽の碑



【シマウイミ・ヨウカビ(今帰仁村今泊)】2014年8月24日(日)

 旧暦8月11日今帰仁村今泊のシマウイミとヨウカビを見る。前日は今帰仁グスク内の神アサギ内でグスクウイミが行われわれた。シマウイミは今泊集落内のハサギンクヮー(今帰仁神ハーサギ)とフプハサーギ(親泊神ハサーギ)で午後1時から行われた。例年2時頃から行われるが告別式などが重なりは早めに行われた。今帰仁ノロさんがウガンを執り行った。区長・書記さんの三名。夕方6時過ぎからヨウーハビが行われた。獅子(一頭)は獅子小屋(ウッチハタイ)から棒シンカに伴われてフプーミチ道(マーウイ:馬場跡)へ。公民館のマイクで路地楽が流されており、子供連れや老人達が集まってくる。

【シマウイミ】(午後1時から)(二軒の神ハサーギで)


  ▲ハサギンクヮー(今帰仁神ハサーギ)      ▲フプハサーギ(親泊神ハサーギ)



 


【ヨーハビ】(夕方6時過ぎから)

 ウッチハタイの獅子小屋からプーミチ、公民館前(獅子は15日に獅子小屋へ)。子ど達の健康祈願、ムラの災い祓い。獅子をみて泣く子も、恐々遠巻きにみている。(今泊ではサンを挿しことはないという)獅子への供え物は大きめの豚の三枚肉。

  

   


【伊平屋島調査】2014年8月24日(日)

 伊平屋島ゆき。今回は伊平屋島の田名(前泊)・我喜屋・島尻・野甫を踏査する。昨年予定したが台風で行けず。それが頭の隅に仕えたままである。そのつかえが取れるかどうか。目的は第一尚氏王統の生誕地、祭祀にみる山原的祭祀遺跡(特にシヌグ)、神アサギなど。

 フェリーを降りると車を借り、隣接する伊平屋村歴史民俗資料館へ。展示を拝見。上江洲均先生調査の海神祭の(田名)流れを頭にたたき込み田名へ。月曜日一便で帰る必要があり、大急ぎの踏査。田名グスクの頂上まで登ったので足がガクガク状態。

 『琉球国由来記』(1713年)で「シノゴオリメノ事」とあり、(七月、島中ニテ日撰仕申。遊一日ノ事) 
 右、アクマハライ(悪魔払い)トテ、男童十人程、ママミ(アマミか)一人、衣□袴ソ着テ、白サジ、
 シレタレ、結ビシテ、手々ニ、棒ツキ、アマミ人、並、其日ノ、年ナフリノ人、弓矢持、先立仕、
   オナヂャライハウ、エイヤイハウ
  ト唱テ、家々ニ入リ、又島ノニシ崎マデ行テ、ネヅミヲ取リ、年ナフリ持タル、矢ノサキアテ、海ニ
  入レ捨テ、村ニ帰リ、一所ニ寄合、神酒持寄、祝申也。

 『琉球国由来記』(1713年)を見ると、伊平屋島(伊是名・伊平屋)の「海神折目」は十一月に行われる。
  (同月、島中ニテ日撰仕リ申。遊一日ノ事)
 右、海ノ神御祭用ニ、神酒肴餅、相調、伊是名城御イベ前ニ、ノロ・掟神申請、御祭仕、ヲエカ人・サバクリ、
 御拝四ツ仕也。来不伝。

 かつてはシヌグと海神祭を行う月が7月と11月と離れて行われていたのか。二つの祭祀はシヌグが悪魔祓い、海神祭は海の神まつりと、はっきりと分かれていたか。伊平屋島(伊是名・伊平屋)の祭祀は「公儀」でムラごとの祭祀というより島全体が公儀の祭祀である。そのようなことを念頭に入れながらの踏査。


【田 名】

 田名の集落はウタキ(グスク)を背にして展開している。集落の最後部に旧家(ヒャーやノロ殿内)があり、現代的な神アシアゲの建物となっているが、神アシアゲは旧家の屋敷内に置かれる特徴をもつ(伊是名・伊平屋も)。前泊にシヌグ堂がある。前泊は田名から分離した行政区である。分離する以前からシニグドーが前泊地にあったのであれば、シニグの時、田名から前泊まで祭祀を行っていたことになる。田名集落内にシニグモーがあり、前泊の他の祭祀は田名で行っているのだろうか(確認が必要)。


1.前泊のシヌグ堂
2.マージャ御嶽
3.田名旧公民館
4.シヌグ毛
5.田名神社(田名ヒヤ)
6.神アシャギ
7.田名ノロ殿内
8.田名城(城嶽御イベ)
9.ナートゥンチビ
10.土帝君

   
  ▲前泊のシヌグ堂       ▲田名神社(ヒヤー殿内)     ▲田名の神アシャギ       ▲田名ノロ殿内

   
▲田名グスクの門跡?    ▲頂上部付近にある池跡  ▲頂上部の香炉(二基) ▲ナートゥヌチビの岩場(神送り)


【我喜屋】

 我喜屋は移動集落である。故地にヒャー殿内・神アシャギ・ノロ殿地などを拝所として残してある。神アシャギは旧家の屋敷内に置かれている。鮫川大主が住んでいたという場所をウタキにし、さらに片隈神社としている。円形のシヌグモーがあり、片隈神社(ウタキ)に向けて入口が開いている。

  
  ▲我喜屋のヒャー殿内          ▲我喜屋神アシャギ            ▲ノロ殿内

   
▲円形のシニグモー     ▲八重口(墓?)      ▲海岸にある鮫川大主の墓      ▲片隈神社


【島 尻】

 移動集落である。シヌグモーは安波岳にむけて開いている。集落は安波岳と賀陽山の間に発達した集落である。我喜屋ノロ管轄の村である。神アシヤギは田名・我喜屋同様、旧家の屋敷内に置かれている。

  
 ▲島尻のヒヤー殿内      ▲ヒヤー屋敷内にある神aシアゲ  ▲島尻のシヌブモー(安波岳)


【野 甫】

  
 ▲野甫のシヌグモー跡           ▲大山展望台からみた集落       ▲野甫神社とウタキのイベ

 
    ▲水の少ない島(深いので釣瓶を使ってくむ)             ▲三つの口のある墓(門中墓?)
 

2014年8月18日(月)

 しばらくフィールドにでることができずストレス気味。それで、午前中、名護市伊佐川、川上(谷田)、屋我、饒平名、運天原、我部、今帰仁村の上運天まで。

@名護市伊差川


  

 

A名護市川上(谷田)

B名護市屋我

C名護市済井出

D名護市我部

E名護市運天原

F今帰仁村上運天


2014年8月14日(木)

 今帰仁村の諸志の集落を踏査する。字誌の植物編の画像撮りである。諸志の御嶽の植物群落(国指定)と集落内の植物の撮影である。普段の集落内踏査とは異なり、集落の隅々まで目がいく。

 屋敷内にレイシやミカン(デーデー)などの実のなる木が目立つ。諸志御嶽の植物群落は、普段全体として見るが、今日は高木、中高木、低木などの区分で見ている。屋敷林はフクギ(福木)の並木とアカギの大木が目立つ。御嶽内はトウツルモドキなどの蔓性の植物が他の木々に負いかぶさっている。それが極相状態なのか。

 諸志には戦前からコーヒー栽培が行われいたようで、時々話題になる。集落内を歩いている「食べてみて!」と声がかかる。カゴの半分ほど。「ストロベリーグヮバです。黄色いのでエローストロベリーグヮバだね」と。小粒だがとてもうまい。「外来のものですよ」と。


  諸志の集落は「集落区分の・・・バーリ」にヒントを得た場所、30年前論文にしたことがある。中城ノロ関係史料や墓調査、祭祀関係の遺品を村の文化財指定させてもらったり、数多くのことを学ばせてもらっている字である。


   (工事中)



2014年5月25日(日)

  歴史文化センターのパソコンが故障中なのでここで紹介します。

 第22期1回目のムラ・シマ講座(5月24日)は古宇利島でした。古宇利島のシマの形、島の七杜七嶽を中心に。七杜七御嶽は外から拝見。ウタキとイビの概念を最初から明確にしておけば、後々ウタキやグスク、それとムラの研究する上で困らないと思う。古宇利島には七杜七御嶽がある(杜全体がウタキ、ウタキの中にある拝むところがイベ)。

 @マーハグチヌウタキ Aトゥンガヌウタキ Bソウヌウタキ 
 Cプトゥキメーヌウタキ Dビジュルヌメーヌウタキ(ハマンシ) 
 Eマチヂヌウタキ Fナカムイヌウタキ

 当日は旧暦4月25日でタキヌウガンの日であった。ソウヌウタキへの遥拝の場を拝見することができた(ラッキー)。三名の神人、区長さんなの姿あり。

 これまでウタキのイベまで行けましたが、ウタキの入口は閉じられています。これまで神々しかったウタキが、本来の姿が失われてきているからでしょう。ウタキに限らず、ムラ・シマの形も。

 
       ▲歴史文化センターで島の概要

 
      ▲ビジュルヌメーヌウタキで

 
  ▲ソウヌウタキへ遥拝している場面(タキヌウガン)        ▲古宇利オーシャンタワーで


2014年5月22日(木)

 29日、30日の両日久米島へ。久米島については何度が報告してきた。久米島のムラ・シマレベルでの理解はまだ不十分である。『琉球国由来記』(1713年)に登場する村、沖縄本島のやんばる(山原)の村にある「神アシヤギ」がない。山原では登場しない「ヲヒヤ」がある。そのヲヒヤは必ず火神を伴っている。

【具志川間切】
 ・仲地村  俣枝ヲヒヤ 
 ・西目村  西目ヲヒヤ 西平ヲヒヤ 新垣ヲヒヤ
 ・兼城村  兼城ヲヒヤ
 ・山城村  山城ヲヒヤ 久根城ヲヒヤ

【久米仲里間切】(康熙六年(1667)丁未、城名改、仲里城ト云也)
 ・宇江城村 堂ノ比屋
 ※仲里間切には堂ノ比屋以外のヲヒヤはなし。

 『琉球国由来記』(1713年)当時、堂之大比屋の物語が記されている。洪武年間(1368〜1398年)のことが300年後の由来記編集された頃、しっかりと伝わっている。そこで伝えられた具志川按司、イシキナハ按司、久米仲里按司など、間切名や村名はそれら人物に由来するのが大半ではないか。言い伝えられた伝承が間切名や村名を必要としたとき、その人物の生誕地であったり、物語から間切名や村名にした可能性が大である(伝承や人物が史実かどうかとは別の問題)。

 『琉球国由来記』(1713年)当時、堂之大比屋の物語がある。それは洪武年間のことである。300年後に編集された「由来記」にある。1300年代は間切名や村名を、まだ文字にされる時期ではなかったであろう。間切名や村名が必要とした時、伝承に登場する人物や伝承から間切名や村名にしたとみられる。

 堂之大比屋と本部間切(話の当時は今帰仁間切の内)の健堅之大比屋と親交があり、堂之比屋が唐船を修理して帰した。その恩返しに久米島にきたが、ちょうどその時堂之比屋が本部の健堅に来ていて、唐人はどうしても堂之比屋とあいたいと健堅にやってきた。そのような伝承が健堅之大比屋の生誕地である地を健堅の村名にしたと見られる。そのような事例に現在の崎本部(崎浜と本部の合併)は本部大主の生誕地、謝花は謝花大主の生誕地(墓地あり)、今帰仁村平敷も平敷大主の伝承あり。具志堅にあった上間村は1500年頃の上間大親が尚真王を救助したことで上間村を創設。

 今帰仁村に運天がある。12世紀に漂着した源為朝公が「運は天にあり」に由来するという。間切名や村名が必要としたとき、伝承や人物に因んで付けられたのが大半ではないか。間切名や村名の語義が不明なのが多いのはそのが為かもしれない。

 『琉球国由来記』(1713年)編集者のグスクの成立の捉え方は、御嶽にグスクを普請した観念がある。グスクが御嶽(ウタキ)やウガミなどの呼称で呼ばれるのはそのためか。

 その他に、祭祀との関わり、移動村などについての予備知識をもって行くことに。

2014年5月19日(月)

 資料を整理していたら我が家の「萬日記」が出て来た。「同治九年庚午」(1870年)仕立。平成元年頃墓の調査をしようと、墓主仲原武一(故:十一代目))と準備をすすめたことがある。台風の来襲で取りやめとなった。その後、墓室内の調査をすることはない。「萬日記」を仕立てた「かまた仲原」は新田筑親雲上から新田筑親雲上から七代目の人物である。仲原家は一般的な百姓で、社会的にどのような役割を果たしたは皆目不明である。ただ屋号はウンテゥンヤー(運天屋)で、船持ちで運天にも家を持ち、それで謝名の家にウンテンヤーとついたと聞いている。また、仲原姓は仲原馬場が同村(現在越地)にあり、そこからもらったとの言い伝えあり。

 謝名の旧家の一軒で神人(男神人と女神人)を出していた。そのこともあって字(アザ)の神行事で拝まれる。




一 同治九年庚午十月十二日仕立
     萬日記
         かまた仲原

 焼香相済候
一 乾隆拾五年巳午七月五日死去
     新田筑親雲上@

右同
一 同五拾壱年巳九月十五日死去
      仲原にやA

右同
一 嘉慶拾七年壬申四月廿三日死去 
       仲原にや
           妻
右同
一 道光拾弐年辰九月廿四日死去
        次良仲原B
右同
一 同拾参年巳四月四日死去
        次良仲原
              妻
  午十月十一日拾三年回忌吊相済候 

一 道光拾三年巳三月三日死去
        仲原筑登之C

同日右月
一 同拾年卯八月
        三月廿四日死去 
       まつ仲原D

一 同弐拾七年戌申正月四日死去 
      やま仲原E

一 同拾三年申戌五月廿一日死去 酉ノ人
      かまた仲原F
 
一 同治拾三年申戌十一月廿四日死去 午ノ人
       かまた仲原 
             妻

一 明治廿年丁亥九月十五日死去
           仲原筑親雲上女子

一 明治三十七年申辰旧十二月廿五日死亡
            仲原加那  辰ノ人G

一 大正四年卯年旧二月八日死亡
        酉仲原加那 妻マツ

一 大正六年巳五月拾四日死亡
        仲原武太女子巳人マツ(H)

一 昭和二十年□月□日死去(戦時中死去、場所日にち不明)
      仲原加那長男
          仲原次郎 明治二年生(I)

     (以下整理中)



2014年5月6日(火)

 『琉球国由来記』(1713年)には大宜味間切の村であった現在東村の@平良、A川田から入る。平良、川田からB宮城、C魚泊、D高江(大正頃)へ北上する。そこから南下しE伊是名、F慶佐次、G有銘へ。名護市の東海岸をH天仁屋、I底仁屋、J嘉陽、K安部、L三原、R汀間、S瀬嵩、21大浦、22大川まで。そこでバッテリー切れ。さらに南に二見、辺野古、豊原、久志があるが次回。東海岸のムラは久志間切域の村(ムラ)を意識しての踏査である。
 
 テーマは神アサギのあるムラとないムラについてである。『琉球国由来記』(1713年)に登場する村に神アサギ(神アシャギ)があり、300年経った現在もあること。失われていくものが多い中で、300年もの歳月、ムラで継承されているのは歴史をみていく場合、念頭にいれてみていく必要がある。明治以前に創設された村に神アサギがつくられる必要性はなにか。大正から戦前、戦後に創設されたムラ(字・区)に神アサギを必要としないのは? それはやんばる(山原)における土地制度(地割)と祭祀が強く結びついているとみている。(そのことをまとめるために山原の180余のムラ・シマを踏査中である)
      (工事中)

@平良(現東村)




A川田(現東村)

  


B宮城(現東村)

  


D高江

  


F慶佐次
  


G有銘

  


H天仁屋

 


J嘉陽

  

  


R汀間


S瀬嵩
  

2014年4月14日(月)

 国頭村の宇良から辺戸へ、さらに奥から安波へ。辺戸や奥や安田、安波でヤンバルクイナーの鳴き声がしきりに聞こえる。楚洲から安田への向かう途中、ヤンバルクイナーの幼鳥と出会う。宇良から辺野喜までのノート替わりの画像を失ってしまった。
http--rekibun.jp-201404tyousa.html

2014年4月7日(月)

 国頭村の@浜 A半地 B比地 C奥間 D辺土名(上島) E桃原 F鏡地を踏査する。一つひとつムラの形をみていくことに。


@浜(1732年以前国頭間切番所があったムラ)


       ▲浜区公民館        ▲神アサギと合祀された香炉     ▲番所跡の火神の祠  

【国頭村浜】(2007年1月4日:木)

 国頭村浜は国頭村の一番南側に位置し、大宜味村と接している。その浜に国頭間切番所があった時期がある。『琉球国旧記』(1731年)での国頭間切の駅(番所)は奥間邑(村)である。「国頭間切の番所は、1673年に浜村に移ったが、そこが間切の僻辺に存在し、行政命令の伝達や人民の往還に不均等であるとして、1732年に奥間村に移転した。浜村の番所跡は字浜の両側に最近までみることができた」(『国頭村史』)という。

 1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(後に大宜味)間切を創設した。大宜味間切が創設される前の国頭間切の番所はどこにあったのか。根謝銘グスク(上グスク)の根謝銘村、あるいは城村にあったのでは。他間切では同名村があるが、国頭間切に国頭村があったかどうか、確認することができない。ただ『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)に「国頭城」とあるので、城村が同村なのかもしれない。(城村は明治36年に根謝銘村と一代名村と城村が合併して謝名城となる) とすると、1673年以前の国頭間切の番所は城村にあった可能性がある。1673年に国頭・羽地間切を分割し田港(後に大宜味)間切が創設されたときに、国頭間切の番所は城村から浜村に、田港間切は田港村に新しく番所を設置したことになる。
 
 国頭間切の番所は城村(1673年以前?)→浜村(1673年)→奥間村(1732年頃)→辺土名(大正3年)へと移動している。『琉球国由来記』(1713年)による国頭間切の年中祭祀で両惣地頭が関係する村は奥間村である。また、国頭間切と大宜味間切の境にあった親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切である。それらの三つの村は後に大宜味間切の管轄となり、明治36年には合併して田嘉里となる。間切分割の境界線が祭祀との関係で揺れ動いている。そのことが国頭間切の番所と祭祀にも影響を及ぼしている。(根謝銘グスクを国頭間切域に入れることができたら片付いたのでは?)


    ▲右手の森が根謝銘グスク跡        ▲浜の様子(番所は付近あったか?)

 浜の集落は屋嘉比川の右岸の川口にある。河口はヤカビナートゥという。左岸にはがんやーがある。屋嘉比川はオモロで歌われ、古くから知られている。集落の北側に按司墓、ニシムイ、ニガミヤー、ウイゾー、ウイガーなど、集落の発生と関わる旧家や拝所などがある。『琉球国由来記』(1713年)では屋嘉比ノロ管轄の親田・屋嘉比・見里・浜の四村は国頭間切である。浜村を除いて屋嘉比・見里・親田の三村は大宜味間切へと方切が行われる。浜村が大宜味間切にならなかった理由は、国頭間切が創設されると浜村に国頭間切番所が置かれたことによる。方切で前の三つの村は国頭間切から大宜味間切へと「方切」がなされるが、屋嘉比ノロの管轄は四つの村の管轄は変わることはなかった。

 そこらあたり、丁寧にみる必要がありそう。『琉球国由来記』(1713年)
  ・ヨリアゲ森  神名:カナミヤトヤノ御イベ  浜村
  ・ガナノハナ嶽 神名:シチャラノワカツカサ  親田村
  ・トドロキノ嶽 神名:イベナツノツカサ    屋嘉比村
  ・中城之嶽   神名:大ツカサ        見里村
    (上の四ヶ村は屋嘉比巫崇所)

 ここで「方切」が行われ、村が別々の間切に分かれてもノロが管轄する村の変更はなされない。一つの法則が見出される。大宜味間切に三つの村が移されたのは、根謝銘(ウイ)グスク内に中城之嶽があり、そこは見里村で、屋嘉比ノロの祭祀場であることが起因していると見られる。『由来記』の「中城之嶽」が大城嶽であれば、説明はつくのだが。現在、大城嶽は屋嘉比ノロの祭祀場で、中城嶽は城ノロ管轄の祭祀場となっている。

 浜は1673年以前は国頭間切の村で、大宜味間切が創設されたとき国頭間切番所が置かれた村である。カナラガー付近から集落が移動したとの伝承と、田嘉里から分離した伝承がある。神アサギは公民館の隣にあり、他の拝所が合祀されたとみえ、アサギの奥に火神の石が置かれている。番所があった場所に地頭代火神の小さな祠が置かれている。番所が奥間に移動したこともあり、番所火神は奥間にもあるべきだとして、戦後建立されている(番所のあった奥間小学校の側)。

 昭和18年頃につくられたガンは田嘉里(親田・屋嘉比・見里)と浜の共有であった。


A半地(戦後奥間から独立―寄留士族の多いムラ・新設ムラ)


       ▲半地公民館                ▲嶽の宮(カニマングヮー)


 半地の集落は現在の国道58号線沿いに細くあり、かつては集落の前方は比地川沿いに開けたかなり広い水田地帯であった。イナントゥと呼ばれ、かつて港で比地川の上流部の比地橋付近まで入江で水田やビーグ栽培が行われている。現在は野球場やグランドになっている。半地の公民館の側にタキヌミヤとカニマングヮーがある。

 半地の住民の多くは比地上原、半地上原などに住んでいた人々が開拓されたイナトゥを比地から独立する。戦後分立の字なので神アサギはない。そういう意味では歴史の浅いムラである。 


B比地



    ▲小玉杜にある神アサギ      ▲比地公民館           ▲小玉杜の中にある一門のイベ


C奥間(1732年頃から国頭間切の番所が置かれたムラ)


     ▲奥間の集落          ▲ノロドゥンチにある神アサギ        ▲奥間公民館


D辺土名(上島)


     ▲辺土名公民館                  ▲公民館側の地主之宮の祠


     ▲上島の公民館           ▲後方の杜に神アサギあり     ▲上島の新しい公民館?


E桃原(昭和26年に奥間から分区)

 明治以前に分村した村には神アサギが創設される。そこに神アサギを創設しなければならなかった理由は?


    ▲桃原区公民館             ▲公民館側の金万神社       ▲桃原の公民館

F鏡地(大正15年に奥間の大兼久と比地の中兼久で分区)


     ▲鏡地公民館              ▲お宮(三偉人の顕彰碑)      ▲海神祭の「流し」場所

 鏡地は比地から戦後分立した字である。そのため神アサギはない。比地川の右岸はカガンジナトゥと呼ばれていた。ナカガネクバルは比地部落に属していた。オオガニクバルは奥間に属していた。それらの小集落は大正15年に布達の字から分離して鏡地が行政区となる。かつて塩田(ナマンと呼ばれる土手から海岸が塩田跡)である。

 中南部からの寄留人が多い。鏡地への移住、一帯の干拓、行政指導などに貢献された三偉人として顕彰碑が建立されている。 


2014年3月23日(日)

 大宜味村の北側の字(アザ)を踏査する。先週踏査の予定が途中で中断。根路銘→大宜味→大兼久→饒波→喜如嘉→謝名城→田嘉里まで。久しぶりに公民館と神アサギを手掛かりに見ていく事に。(工事中)


【根路銘】




【大宜味】

  


【饒 波】
 


【大兼久】

 

 

【喜如嘉】

  


【謝名城】

 

【根謝銘(ウイ)グスク】

 


【田嘉里】

 


2014年3月16日(日)

 このページになかなか戻ってくることができません。「山原のちまくとぅばと歴史と文化」をテーマに報告すると、すかさず北部のムラ・シマへと足が向く。大宜味村と国頭村の踏査を予定していたが、途中携帯がなり、今帰仁まで戻ることに。

 @津波 A白浜 B田港 C屋古 D塩屋 E宮城島


【津 波】

  
       ▲お宮と二つの神アサギ         ▲毎年行われるアサギ広場の舞台

  
      ▲津波地区多目的施設             ▲津波公民館


【白 浜】

 
    ▲白浜の神アサギと平良家(旧家)                    ▲白浜公民館


▲国頭農学校創設に関わった平良保一生誕の地碑
▲今朝、平良氏が関わった国頭農学校の写真発見の記事


【田 港】

 寺屋敷跡の確認のため。以前訪れた時は、タキガーの麓までいくことができず。今回はタキガーの麓を踏査してみたが、寺屋敷跡の確認はできなかった。そこらは依然段々畑だったようで、畑の土手の石積みがのこっている。

 1665年に北山監守(今帰仁按司)一族が首里へ引きあげる。その理由は北山の地の教化(首里化)であったことがわかる。

  
           ▲タキガー                 ▲豊富な水が流れる

【タキガー(滝川)】(寺屋敷)(「沖縄県国頭郡志」「大宜味村史」)


 滝川のほとりに寺屋敷と称する所あり。260年前定水和尚が居た所の跡だと伝えられている。定水和尚は(土地の人はダチ坊主と呼ぶ)首里新城家の祖先で王府に仕えて重職にあった人で寛文5年(1665年)国王尚質王重臣を集めて尚真王以来派遣していた北山監守を撤廃せん事を諮る。時定水は北山の地が僻遠にしてまだ教化が普及しないから撤廃は早いとなし意見の不一致となる。王嚇と怒り曰く「汝何の故を以てか尚早しとなす。予不徳にして感化未だ国頭に及ばざるの謂んるか。と詰責され定水答ふる能はず、官職を辞し仏門に入り剃髪して定水と号し閑静なる塩屋湾の東隅に退隠して悠々余生を送る。

 後定水は剛直なる民本主義の政治家で彼の在職の際八重山に於ける人頭税の荷酷なる事を説き、其の廃止論を唱え、又親々が往昔その領地を異にして食封を受けている者あるを本法とし、其の一を王府へ返納させしむべきことを提議する等の剛直無欲の人だった。彼は日本思想家で数回北京に赴き、彼地にて和歌を詠めるもの多しと、
 
 新城家口碑に
   定水はその後法用ありて上首せしことあり。時に国王自ら前非を悔い、度々仕官せんことを
   勧め給いしが固く辞して受けず直ちに大宜味に帰りば家族流涕止まざりきという。

 定水は死後首里の弁が岳の下にある拝領の墓に葬られ、其の祭祀料として百ガネーの土地を賜はり、此の地は今位牌を安置してある蓮華院(万松院)の有する所となっている。また塩屋小字の大川に塩屋山川なる旧家があるが此の敷地は同家の先祖がダチ坊に親しく仕えそのよしみで現在の敷地を定めて呉れたとの伝説がある。

   
     ▲田港のウタキの祠        ▲祠内に20基近い香炉      ▲鳥居は再建されたか

  
     ▲田港公民館          ▲田港の神アサギ          ▲ノロが乗る駕籠あり


【屋 古】

 

  
 ▲屋古公民館(少し高台にあり)       ▲屋古の神アサギ           ▲海神祭のサバニー

 

 
    ▲杜の中の祠(ビジュルか            ▲祠内の石(ビジュル石か)

*集落内の屋敷に小さな祠が目立ってある。


【塩 屋】 

  
         ▲ハーミジョウの杜                ▲塩屋のウタキ、前方に大川集落

   
     ▲塩屋公民館       ▲大川共同店(塩屋)        ▲手前の幼児の墓、後方共同墓


【宮城島】

 
    ▲白浜から眺めた宮城島                ▲宮城島農村集落管理施設
 

 
        ▲お宮(ウタキ)        ▲昭和14年竣工


2014年2月11日(火)

 「名護湾岸のマチ・ムラ」で講演。名護市大西区で。そこは30年まで昭和60年頃3、4年間住んでいた区である。そこから、宜野湾市や那覇市内の大学を掛け持ちしていた頃である。高速道路(沖縄自動車道路)が、名護市から石川市(現うるま市)までしか開通していず、通勤で往復6時間もかかっていた。平成元年の3月まで続いた。平成元年に今帰仁村教育委員会へ職場を移す(当時歴史資料館準備室、開館と同時に歴史文化センターへ名称変え)。そのような時代を思い出しながらの講演。高校時代の恩師など懐かしい顔が数名。






 名護湾岸に安和・山入端・屋部・宇茂佐・宮里・名護(大兼久・城・東江)・世富慶・数久田・許田・幸喜・喜瀬のムラがある。名護グスクから名護湾を眺めると、それらのムラが名護湾岸にみることができる。名護グスクを要(拠点)にした時代があったのではないか。

 1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に那五とある。それは方言音のナグに表記上「那五」を充てたのではないか(ナゴの方音がナグになったとの見解もある)。 ナグは「和む」意味合いからきた地名ではないかと考えている。名護のナゴマサーの気質からすると、願望かもしれない。

 名護グスクはグスクのイメージを一転させるグスクである。亥一般的にグスクは防御的な施設である。ところが、名護グスクは石積みがないのである。グスクの後方に丘の丘陵地を堀切った二つの堀切りがあるが、防御的な施設とするには規模が小さすぎる。防御的な施設としては頼りないのであるが、それでも名護湾岸のムラを統治したとするなら、権力で統治せず、統治できたのであれば、グスクの按司は人望の厚い、仁徳のあった支配者だったに違いない。


 山原のムラ・シマにはウタキがあり、集落内にムラヤー(村屋:今の公民館)や神アサギがあり、その周辺に集落が発達している。ムラ・シマに住む人々は、ウタキやカー(湧泉)や神人を出した家(旧家)跡に火神を祀っている。祭祀はムラ・シマに住む人々の休息日にあたり、祭祀を今でも「神遊び」と呼び、神に名付けて休息日をとっていた名残りである。


 山原のムラ・シマを見る時、集落内のムラヤー(今の公民)に行き、そして周辺の神アサギを見つける。さらに神アサギからウタキの確認をする。ムラヤーや神アサギや拝所、旧家などから集落の成り立ちをしる。ムラ・シマの歴史を辿ることで、そのムラ・シマの伝統芸能であったり、ムラ・シマの文化を体で感じとることができる。

 

平成26年1月4日(土)                         

 気分転換で本部町の八重岳へ。間もなく桜まつりが始まります。桜の開花状況は頂上付近には見頃の木があります。麓の方はポツリポツリ。渡久地のマチ、具志堅の大川、上間家、具志堅から伊江島の眺望など。これまで間切名や村名を自然や地形など中心に考えてきた。そのこともあってなかなか説明がつかない名称が多すぎる。村名や間切名がつけられた以前に、その人物と関わる伝承、あるいは生誕地が、それに因んだ間切名や村名がつけられているのではないか。                                                      

 例えば、今回訪れた具志堅に上間村があった時期がある。それは1500年代に上間大親と尚円王、尚真王との関わりのある地である。上間大親の功績に因んで上間村を創設。上間大親の子に与えられた識名村が上間村(拝所など)と呼ばれたことがある。また現在の崎本部は本部村と崎浜村との合併して崎本部、その本部村の地は北山の時代の本部大主の生誕地である。隣接する健堅も健堅大親の伝承のある地で、墓あり住居跡地あり、伝承をもつ人物と関わる地である。そのような事例をみていくと、どうも間切や村に名称がつけられたのは、伝承に因んだのが多いのではないか。今帰仁、湧川、志慶真、上間(具志堅)、謝花、平敷、運天、伊豆味、羽地、名護、大宜味など。    


▲八重岳の九合目あたり               ▲早咲きのヒカンサクラ
  
 
▲渡久地のマチ                 ▲具志堅から備瀬、向こうに伊江島

  
   ▲具志堅にある上間家             ▲具志堅の大川          ▲大川の中の9本の神木