【山原のムラ・シマ講座】(gennkou)

                  

          「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ

 台風2号の爪跡が各地の残っているこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。晴れると真夏のようで、梅雨明けが近いのでしょうか。

 さて、第2回目の講座は、本部町瀬底島に行きます。瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となります。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っています。瀬底島に二つの祭祀の姿がどう残っているのか、見ていくことにします。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村です。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなります。

 瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができます。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されています。

 上間家の二代から五代まで地頭代(健堅親雲上)を出しています。二代目の時、唐旅をして清国から「土帝君」の木像を持ってきて祀ったといいます(国指定の文化財)。

 本島側から移動してきた石嘉波村側には神アサギや旧家の跡やウタキなどがあります。それとティランニーという洞窟などの拝所を訪ねることにします。

☆
 集 合
    ↓ 出席の確認
    ↓ 瀬底島の概要説明
    ↓(瀬底島へバスで出発)
    ↓  石嘉波村の拝所(旧家・神アサギ・根所・タキサン(ウタキ)
    ↓  土帝君・瀬底ウェーキ跡
    ↓  綱引き・公民館
    ↓ ウチマンモー(シニグ・ウシデーク・綱引きなど) 
    ↓ 大城家(ウフジュク:大底)・神アサギ・アサギミャー(豊年祭の舞台)
    ↓ 瀬底ノロドゥンチ
    ↓ ウチグスク
    ↓ チンガー・ケーガー 
    ↓ 石嘉波ガー
    ↓ ウフンニ(遠見台跡)
    ↓ ティランニー(洞窟)
    ↓石嘉波村の故地(健堅~崎本部)
    ↓ 解散予定)

☆ 持ってくるもの(暑いですので飲料水や帽子など)
☆
 ゴツゴツした岩場を歩きますので運動ぐつで来てください! 
  サンダルやぞうりではダメです。ケガをします。
  今回の場所はガジャンがたくさんいます!
  ♪お休みをするときは連絡してください!
  ♪雨がふったら
  ♪保険料(   円)、当日お願いします。

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           ▲瀬底島の全景(『瀬底誌』より)

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        ▲瀬底の「土帝君」の祠                     ▲瀬底ノロドゥンチ

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   ▲瀬底島(石嘉波の神アサギ)                  ▲石嘉波神社(ウタキ:タキサン)

瀬底島の概況

・瀬底島は本部町にある。石灰岩の段丘のある島。
・瀬底島と本島側との間は瀬底港ともいう。かつての山原船や大和と往来する船の避難港
 となる。
・島の面積は3.46平方㎞、周囲は約6.8㎞
・1471年の『海東諸国紀』に「世々九」と見える。方言でシークという。
・1469年第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分け
 となる(伝承:大底:ウフジュク)。

・1560年(嘉靖39)の辞令書に「せそこの大やくもいに」と瀬底が登場。
・1644年の遠見ヤー(ウフンニ:瀬底島の一番高い所、大きな水道タンクあり)がある。伊
 江島→瀬底島→座喜味→首里

・1670年池城墓の碑文に「那覇の石細工 瀬底にや」とある。
・1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。瀬底島は本
 部間切の内となる。
・康煕12年(1673)曹姓大宗(平敷家)三世慶均 瀬底親雲上を任じられる。
・康煕19年(1680)明姓五世長満 瀬底親雲上 本部間切瀬底地頭職に任じられる。
・康煕41年(1702)(那覇・泊系家譜:根路銘家)六世恵勇 本部間切瀬底地頭職に任命さ
 れる。
・瀬底島には瀬底と石嘉波の二つのムラからなる。
・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
・健堅側と瀬底島には瀬底大橋がかかっている。
・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げ延びた一族で村の草分けとなる。
・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
・ウフジュクの側の広場で村踊りがおこなわれる。
・瀬底島にはノロがいた。その屋敷跡がヌルルンチである。
・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌がまつってある。
・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
・ウチグスクがあるが、別名東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられ
 る(1991年)。
・瀬底には七ウタキがある。
  ①ニーヒヌカン(ウフジュク屋敷内)
  ②ヌルルンチ
  ③ウチグスク(東のウタキ)
  ④土帝君(瀬底ウェーキ)が中国から持ってくる。一門から村で拝むようになる。ウタ
   キの一つに数えられている。
  ⑤アンチウタキ(瀬底島の入り口) 航海安全祈願
  ⑥イリヌウタキ
  ⑦メンナウタキ(水納御嶽)

 瀬底村

 ①神アサギ ②メンナ御嶽 ③ノロ殿内火神 ④イリノ御嶽 ⑤前ノ御嶽 ⑥内の御嶽 ⑦土帝神

 石嘉波村

 ①御嶽 ②神社


【石嘉波村の移転】
 石嘉波邑を瀬底島に移建す
  「本部郡瀬底島は人少なく地広し、祝んや石嘉波、伊野波、辺名地、健堅、崎浜(崎本
   部)等の田地、その島に混在するをや。是れに由りて両惣地頭及び検官具呈して、陳
   奏し、海路相隔たり以て耕耘し難く、村邑を移すの事を請う。
   今番、石嘉波邑を瀬底島に移建し、亦その田畝及び瀬底の地を以って、石嘉波邑に均
   分す。而して石嘉波、素、受くる所の田地は、健堅、崎浜二邑に分与す」とある。

  (瀬底島は人が少なく土地が広い。石嘉波、伊野波、辺名地、健堅、崎浜(崎本部)な
   どの土地が、瀬底島に混在している。両惣地頭や検者に願い出て、海路で隔たって耕
   耘しにくいので、村を移動することを願いでる。
   石嘉波邑を瀬底島に移し、瀬底の土地を石嘉波邑に均分する。石嘉波邑の田地は健堅
   と崎浜(崎本部)に分与する)

【石嘉波村側】
 ・明治13年の石嘉波村の戸数32、人口139人(男68、女71)
 ・石嘉波村の神アサギ(タモトギあり。屋根裏に木の梯子あり)
 ・旧家の跡(金城門中・ウチバラドゥンチ:上間家、ペークルンチ:金城家)
 ・ウタキ(タキサン:石嘉波神社)
 ・遥拝所(故地への)
 ・石嘉波の根所(火神)
 ・石嘉波ガー

【石嘉波のシヌグイ】(旧暦)
・7月18日 ウカタビ
  午前9時頃から根所火神、タキサン(シヌグイの報告)
・7月20日 ウークイ(ウフユミ)
 神アサギ・根所火神・タキサンで豊漁・豊作のウガン。根所火神と神アサギとの間にハギヤーをつくる。ハギヤーはマーニの葉と拝所からとった木を4本。一本は七段の梯子状の木を柱にする。タンジク柱と呼ばれ神の上り下がりをするのに使われる。

 ハギヤーには青いアダンの実(二個)、デーク棒(竹やサトウキビでつくる。7~8本)。  女性達はソーキ一杯の餅(カーサームーチー)、各戸から七個づつ餅がアサギに届けられる。
 男の神人によって生きているカニ二匹、魚(バイイュー)十五尾が吊るされる。

 午後4時頃、神女がデーク棒を火神の拝所の側に移し、アサギのタモト木の前に酒(御五水)、ウブク(御飯・強飯)、餅(カーサームーチー、を供える。一人の神女が根所火神の祠に入り、他の神人や参加者はアサギで豊漁、豊作のお礼と豊作祈願。
 男の神役はタキサンで同様な祈願をし、アサギに戻る。一緒にサンデー(直会)をする。

 午後5時頃、神女達は神衣装を持って神屋敷跡(ウークイモー)へ行き、供え物して東方を拝む。神女は準備した水で手と顔を清め神衣装を着け、頭のサージ(白鉢巻)の上からガンシナー(藁の縄に草をつるす)をする。
 ウークイモーの後、クラントーの屋敷跡とウイヤーの屋敷でウガンをし、供え物いただいた後、水で手を洗い白衣装に着替える。

 午後5時15分頃、神女二人がデーク棒で地面を突きながらウークイ・ウークイと唱え、アサギに戻る。
 アサギに戻った神人は神アサギと火神の拝所の間に置かれた供え物の廻りをウークイ・ウークイと唱えながら左廻りをする。
 神女二人は吊り下げたアダンの実をデーク棒にゆわえて担ぎ、流れ庭(元サーターヤー跡)へ行き、アダンを草むらに投げる。対岸(元はアンチ浜まで行った)向ってデーク棒を投げてアサギに戻る。

 ・7月22日 ハンジャレートゥ(祓い)
ハンジャレート神(男神人)が中心となる。根所→タキサン(ウタキ)で悪風祓いをする。瀬底の区長が参加するのはこの祭祀のみ。

朝11時頃、神人がニィードクゥル(根所)で儀礼報告をする。午前中で男神人ガハギヤーをシヌグモーに移動。そこでのハギヤーに物は吊るさない。男神人も女神人も昼食は神アサギで。

午後2時頃、男・女の神人が神アサギに揃う。ミキが運ばれる。アサギ下に太刀と一升の米が置かれる。太刀はその日に合わせてハンジャレートゥが準備する。二本のうち一本はタキサンに。太刀はタキサンから取った木でつくる。・・・続く。


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    ▲石嘉波神社改築記念碑       ▲石嘉波神社入口(タキサン)       ▲ウタキのイベ?
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    ▲石嘉波の神アサギ        ▲アサギ内にテンジクバシラ     ▲ハギヤーが置かれる広場
【瀬底村側】
 ・明治13年の瀬底村の戸数193、人口999人(男539、女460)
 ・公民館
 ・瀬底の土帝君
 ・瀬底ウェーキ屋敷跡
 ・ウチマンモー
 ・ワカサマチウガン(若狭松御願)
 ・大城(ウフジュク:大底)
 ・神アサギ
 ・根火神
 ・ノロ殿内
 ・ウチグスク
 ・按司墓
 ・ケーガー(拝井泉)
 ・ウフニヤ(遠見台跡地か)
 ・ティランニー(洞窟)
  アンチ御嶽、前の御嶽(南の御嶽)、西の御嶽(宮島御嶽)
  水納島のメンナ御嶽、水納島のウルン、ナガレミャー、瀬底島の七御嶽の確認、ハン
  ゼーク跡)

・土帝君(ティーティク)
 瀬底ウェーキ(上間家)の先祖は地頭代を何代かにわたってだしている。その二世が山内親方の随行したとき、唐(中国)から持ち帰り祭ったのが始まりだという。旧暦2月2日は土地公の誕生日にあたり、一門で祭ってきた。ある時期から瀬底のムラで祭るようになっている。「厚徳」の扁額がある。

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         ▲土帝君の祠
・ウチマンモー
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・神アサギ(ウフジュクの屋敷にある)

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   ▲神アサギに獅子がおさめられている        ▲ウフジュク(大城家)の屋敷にある神アサギ
・瀬底ヌルルンチ
 瀬底ノロの古い時代の住居家跡。ノロ家は何度か移動するが一番古い場所に火神の祠を設置してある。そこも七御嶽の一つと数えている。瀬底ノロが管轄した村は瀬底村・石嘉波村・健堅村・辺名知(地)村である。瀬底ノロが対岸の村の祭祀まで管轄していたことは驚きである。

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       ▲瀬底ノロ殿内         ▲瀬底ノロの勾玉とガラス玉、黄金の簪(瀬底誌より)

・ウチグスク(東のウタキ)
 ウチグスクはアガリヌウタキとも呼ばれ、ウフジュクの一番古い住居があったという。住居の観念であれば、祠は火神を祀ってあることになる。グスク(ウタキ)内のイベとも見られる。祠はムーチースネードゥクルと呼ばれ1991年に建てら火神を祀っているようである。それはウフジュク(大城家)が古い時代の住居としていたとの認識がある。すると祠の後ろの岩がウタキのイビあたる。今のウフジュク(大城家)は三度めの移動場所である。二番目の屋敷地にも火神を祭った祠がある。イビの後方に初代(草分け)の内城按司の墓がつくられている。鳥居と祠は1991年に建立されている。

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・按司墓
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・地頭代を出した三家(上間家・仲田家・内間家)
 本部間切の地頭代を授かると健堅親雲上を名乗る。瀬底に健堅親雲上を名乗った位牌や健堅親雲上を名乗る家がある。アガーリ(上間家:四代)と下の健堅屋(仲田家:三代)、上の健堅屋(内間家:一代)がある。

・瀬底ウェーキ(上間家:アガーリ)
・一世 (□~1740年)細工大主(乾隆5年:1740)死去。アンチ浜の上方にカンジャーガマが

  あり、そこの岩穴で加治屋としたという。同家一門の拝所となっている。カンジャー大主は
  そこからきた名称か。
・二世(健堅親雲上)(1705~1779年) 
  山内親方を供して三回も唐旅をする。土帝君を持ってきた人物。アンチ浜に番小屋をつくり

  88斤半の錨、芭蕉綱を備えていた。
・三世(健堅親雲上)(1724~1805年)
・四世(健堅親雲上)(1753~1819年)
・五世(健堅親雲上)(1779~1759年)
  掛床字「善行家風」を賜る。

・仲田家(下の健堅屋)
 仲田門中の本家。乾隆年間の人物。乾隆37年(1772)死去。
  「仁心宗儀禅定門」(嘉慶21年 1816)死去(仲田家三代目)
  「春林宗長信士」(道光12年1832年)死去(同家四代目)
 「梅岳良栄禅定門」(光緒10年:1884)死去(同家五代目)

・内間家(上の健堅屋)
 「健堅親雲上」(光緒19年:1893)死去(内間家の六代)

・ケーガー(ため池)
 周辺の森に降った雨が溜まった池である。後方の杜はウタキではなかったかと思われる。その前に祠があり三基の香炉が置かれている。昭和4年に南洋やサイパンに移住した瀬底の方々の送金で建てた(整備?)したものである。三か月、星、太陽が描かれている。三星は異国からでも見えるので、故郷を偲んでの描いたものであろう。垂直に掘り込み石積みのチンガー(彫り込み井戸)がある。

・ティランニー
 深さ5~6mの洞窟となっている。かつて洞窟内での儀式があったようであるが、小さな祠をつくりウガンをする。旧5月・9月・11月にウガンがあり、穀物の豊作を祈願する。性交の模倣儀礼もあったようである。
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 瀬底の行事の全てを記録しているわけではないので『瀬底誌』から行事の概要をみる。

【瀬底のシニグ】(旧暦)
・7月18日はウカタビ) ウチグスク(ウタキ)の清掃
・7月20日 大弓(ウフユミ)シヌグイ
・7月22日 ハンジャレート(ハンプトゥーキ)(神仏)
 (昭和30年代まで男の神人(神仏・神仮装)が各家庭を鼓を叩きながら廻る。家の災い払
  い、果報の招来祈願)現在、神アサギでの祈願、ウツグスク(ウタキ)、旧集落跡、ナ
  ハハラ(仲原)、大城(ウフジュク)など旧家を回る。各家庭回りは廃止してウツマンモーで
  酒・肴を持参し各戸主が参加(男のみ)し、お祓いをうける。
  ハンジャレートが終ると、婦人達のシニグ(ウシデーク)がウチマンモーで行われる。
・7月23日 ウヮイ(終り)シヌグイ

【村踊り】(村遊び)
・瀬底ウェーキが導入か。
・村踊りの場所は神アサギのあるアサギミャー。
・踊りの稽古や道ジュネーの準備は土帝君の広場でした。道ジュネーのスタート。
・昭和10年頃から村踊りと綱引きを五年毎に交互に行っているようだ。
・旧8月9日(スクーミ:予行演習)、11日、13日、15日(三日間は本番)の四日間(アサ
 
ギの遊び庭)。
①
獅子のウガン(舞台の中央部に置く。ウフシヌヘー(根人)・祝女・神人、祈願後土
 
帝君の広場へ。 
②
土帝君の祠 踊り衆は土帝君の広場で衣装の支度をする。獅子が来て道ジュネーの準
 
備。

【綱引き】(本来旧暦の8月11日)(綱引きの実施要項あり)
 明治の頃まで毎年行われていたようである。南北に二分する。 
①
ウガン(根所火神・ノロ殿内火神・土帝君・綱引き場所の中央線で安全祈願)
②
道ジュネー(午後2時~)
・南方 ウチマンモー 北方 ユギンモー 旗頭を先頭に入場。各支部七芸を披露。次 に両
 
支部が場所を変えて演技を披露する。
③
支度
 午後四時半頃から南方は牛若丸、北方は弁慶が、バンクに乗り綱の中央を挟んで互いに睨
 
みあう。太刀と薙刀、空手の技を披露。
④
綱引き
 綱引きは公民館前の県道で行われる。ナンザトゥヤの前の道が中心。
 午後5時頃南北の執行委員がカンヌキ棒をセットする。実行委員長の号砲と同時に旗をた
 てて綱引きが始まる。
 地元の方々や観衆も参加する。勝負時間10分、衷心より3m以上引寄せると時間内でも勝
 負決定。10分目で中央より引寄せた組が勝利。
⑤
綱引き終了
 勝負が決まると実行委員長が勝負の判定を宣言する。歓声がおこる。
 南北の執行委員がカンヌキ棒を抜いて、綱を道路沿いに寄せて終了する。(綱は競売にふ
 す)
⑥
相撲
 午後7時~9時(ウチマンモーで沖縄角力:瀬底出身者に限る)
⑦
慰労会
 角撲が終ると、綱引き行事の無事を祝うと同時に労をねぎらう。