2005年9月調査メモ                    トップへ:(寡黙庵:もくじ)

           恩納間切の「おんな」は大きな広場!


2005.09.30(金)

 
一日、編集作業におわれる。

 ちょっと息抜きに『間切内法』に次のような条文を見つけたので紹介。字の書かれた紙の扱いは入念にするようにとのこと。厳重に言い渡しておく。焚字炉を作ることも大切なことである。日ごろ無用の字の書いた紙は散らかさないように、取り集め焚字炉で焼却し、灰が沢山になったら海へ流す。若し方々に散らかしていたならば、捌吏(間切役人)は五貫文づつ科銭し、文子(ティクグ)は勤星を五日分削減するという規定である。

 紙が高価であった時代こともあるが、それだけでなく文字の書かれた紙を大切にする思想が伺える。罰金を科したり、履歴の実績(勤星)の五日分を削減するほどに。今帰仁村諸志にある焚字炉は石燈籠とも呼ばれている(形が燈籠に似ていることから)。その石燈籠を番する役目をする家があったようでトゥルバンヤー(燈籠番屋)の屋号の家が近くにある。

  字紙取扱方入念候様ニトノ義厳重被仰渡置赴有之焚字炉仕等仕立方被付至テ
   大切成事候間平常無用ノ字紙ハ不散様取集焚字炉へ焼納灰相疊リ候ハゝ海中
   ヘ可相流候若シ方々ヘ取散シ簾抹ノ仕形有之候ハゝ番毎捌吏科銭五貫文宛文子
   ハ勤星五日削除候事


▲今帰仁村諸志にある焚字炉(トウロウともいう)

2005.09.29(木)

 8月29日から9月4日まで行なった学芸員の実習ノートに目を通す。広島から沖縄にきての実習なので、それは異文化の地での実習ということになる。今年は「山原の津(港)と山原船」をテーマとした展示の一部に関わる企画である。展示作業だけでなく、展示に至る過程もできるだけ多く体験してもらうことにした。ただ、7日間という短期間なので学生達は無我夢中。展示物は手づくりをする、それが歴史文化センターの方針である。そのため引き伸ばされた写真やコピー画像にラミネートし、それをパネル台に貼り付けていく。それがある程度揃うと、画面(4m×7m)いっぱい使って津(港)の分布図に貼り付けていく。その時間は自分をしっかりと見つめて欲しい。

 8月30日早速古宇利島のフィールドワークをする。古宇利島のウンジャミ(海神祭)に参加である。初めての参加なので調査までいかず。調査の経験がほとんどないので遠巻きに眺める程度にした。雰囲気を味わってもらえばいいか。ここでは調査のマナーを学んでもらうことにした。やはり祭祀は調査や研究を大儀名分に土足で踏み込んで写真をとったり、流れを止めるような調査は慎むべきである。そのことは学生達のノートからも伝わってくる。祭祀や豊年祭などを直に見ることで、「沖縄は異文化の土地なのだ。独自の文化を持っているのだ」と感じとってくれたのはありがたい。

 途中、隣の本部町の「ちゅら海水族館」の見学をしてもらった。歴史や民俗を中心とした博物館と異なり、自然を相手にした博物館の視点も大事である。それと見学者としてではなく学芸員としてのスタンスで見てもらいたかった。作品を作り、そして展示する側から見た水族館を考えてもらうためである。

 7日間のまとめとして、壁にパネル、キャプションなどを貼り付けてみた。これまでボーとイメージしていたのが具体的に姿を表してくる。イメージが形になっていく面白さ。それは学芸員の醍醐味である。一人一人のノートをみると、表現は異なるがその感動がよく伝わってくる。

 展示作品をつくりながら、その過程で生まれるアイデアは本物である。机上から生まれる発想ではなく、作りながら生まれてくる言葉は説得力がある。そのことに気付いてくれている。また、シーカヤックに座した目の高さも大切である。ものを生み出していくとき、目の高さや作る側の視点が作品に大きく影響してくる。

 一人ひとりのノートに目を通しながら今年の学芸員実習のまとめをしてみた。二、三日中には広島組(5人)のノートは送付する予定なり。


      ▲学芸員実習ノート            ▲印象深い古宇利島の祭祀

 午後から歴史文化センター運営委員の辞令交付(教育長から:5名)があり、激励のお言葉をいただきました。その後に今年の事業の中間報告、さらにグスク交流センターのオープンに伴って今帰仁グスクと歴史文化センターの共通チケット化による来館者の入館の状況及び課題などの審議説明。委員会で様々な意見あり。ご意見ありがとうございます。二年間、よろしくお願いします。喜屋武委員の麦テンプラで和んだ会でした。クヮッチサービタン。


  ▲教育長から激励のことば

2005.09.27(火)

 あれこれこなしているうちに一日がせわしく終わった感じなり。下の二枚の辞令書は『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著:昭和7年)の口絵に納められているものである。28日(水)に恩納村立博物館で「恩納村の御嶽と集落」をテーマに話をする。この辞令書を手がかりに恩納間切(現在の村:ソン)の導入部分にあてようと。


 
      しよりの御ミ事                    首里の御ミ事
         きんまきりの                      金武間切の
         おんなのろハ                      おんなのろハ
          
もろののろのくわ                      元のろ之子
        一人まかとうに                      一人まぜにに
        たまわり申候                     たまわり申候
      しよりよりまかとうか方へまいる           順治十五年七月廿八日
      萬暦十二年五月十日

        (1584年)                 (1658年)

 恩納間切の創設は1673年のことである。二枚の辞令書は、恩納間切が創設される以前のものである。その当時の「おんな」(恩納)は金武間切のうち。万暦(1584年)の辞令書は「きんまきり」や「おんなのろ」など間切やムラ名に、まだ漢字が充てられていない。もう一枚の順治(1658年)の辞令書では金武間切は漢字が充てられているが「おんなのろ」は、まだ平仮名表記である。もう少し時代が下ると漢字表記になるが、その過渡期の辞令書である。

 「おんな」の語義について質問がでそうなので紐解いておくことに。「おんな」に恩納の漢字が充てられるようになるのは、1658年より後である。1671年の辞令書は漢字になっているので、その間になにがあったのだろうか。いずれにしろ「おんな」に「恩納」の漢字を充てた。その「おんな」はどこからきた地名かである。

 「おんな」と表記されるが、ウンナと発音されたと思われる。時々「おんな(女)ではないか」とくるが、おんな(女)は方言音でヰナグなのでウンナとはかけ離れる。

 ウン+ナに分ける解けそうである。ナは識名や謝名などのナと同様、広場や庭など場所など広場を表すナ。ウンは御や大などを表す語。「大きな」や「りっぱな」などの意。するとウン+ナは大きな(りっぱな)空間、大き(りっぱな)な広場、大きな(りっぱな)庭と解することができる。現在の恩納村恩納に、そのような場所があるかというと、万座毛(マンザモウ)がある。万座毛は1700年代の尚敬王が北山巡視の際に立ち寄り「万人を座しめうる原」として名付けたものだという。ウンナは、そのような万人も座れるような大きな広場(庭)があることに由来していると見てよさそうである。

 ウンナ(恩納)は「大きな(りっぱな)広場(庭)がある」ことに由来し、そのことがムラ名となる。現在の恩納村恩納に万座毛があり、それがウンナ(恩納)というムラ名になったと考えている(そんこと、すでに紐解かれているかも)。

2005.09.25(

 渡久地港は本部町にある港である。山原で港がマチを発展させたのは、渡久地だけではないか。マチとして発達した理由はいくつかあるでしょう。思い浮かぶのは明治以降、伊江島や伊平屋島、伊是名島などへの航路の拠点になったこととカツオ漁が盛んだったこと。

 明治から大正にかけて渡久地の様子を『沖縄県国頭郡志』(410頁)は、以下のように記してある。

  渡久地は古来山原船の碇泊地にして近年汽船の回航、石油発動汽船の往来頻繁なり。
  此処より伊江、伊平屋の二島に便船あり。渡久地は東方満名川流域の平野として遠く伊
  野波に連り、後方は地勢急峻にして辺名地を負ひ、西方港外にも瀬底水無の二島及び
  伊江島横りて恰も内海の観をなし晩景最も佳なり。
       本部番所川口の大瀬 干歳経る松のもたへ美らさ


 渡久地のマチは明治になってから発展していった。明治33年に8軒の雑貨店があったようで、鹿児島県出身者(寄留商人)が主であったようだ。明治44年に渡久地丸が就航する。渡久地港を基点に伊平屋、伊是名、伊江、名護、那覇、久米島を往来していた。荷物やお客を運び、渡久地は物流の拠点となりマチとして発達していった。大正・昭和(戦前)渡久地のマチに、次のような商店が並んでいた(『本部町史』通史編上)。
   ・雑貨、洋裁などの商店
   ・呉服、反物、衣類などの商店
   ・文具店
   ・卸 商
   ・金物店、鉄工所
   ・木材商、製材所
   ・精米所
   ・料理屋
   ・食 堂
   ・肉 屋
   ・牛乳屋
   ・菓子屋
   ・旅館
   ・印刷屋
   ・写真屋
   ・帽子会社
   ・風呂屋
   ・断髪屋
   ・薬種商
   ・医 院
   ・歯 科

 昭和30年に渡久地港が貿易港に指定され、伊江、伊是名、伊平屋などの離島航路の発着場として貨物やお客で賑わった。店舗も茅葺きから瓦葺やセメント瓦の建物に変っていった。昭和25、6年頃から渡久地のマチの市場が活気付いてきた。

 渡久地港は谷茶(タンチャ)に至り、ウフシ(大干瀬)あたりは渡久地港が浚渫されたとき(昭和7~8年)、海岸の一万坪が埋められた。そのためウフシも陸上の小さな森となった。森の上部に「海神宮」の祠がある。戦後、ウフシの回りに造船所ができる。

   (工事中)


  ▲谷茶のウフシ(大干瀬)(現在)    ▲谷茶のウフシ(大干瀬:森)(昭和30年頃)



    ▲ウフシに海神宮の祠がある        ▲ウフシの回りは造船所だった


    ▲現在の渡久地港の様子         ▲渡久地のマチの様子(現在)


                  ▲渡久地のマチの様子(現在)

2005.09.24(土)

 
少し余裕ができたのか、出勤前に本部町並里から満名川をくだり、渡久地のマチ、さらに渡久地港(谷茶)までゆく。渡久地の港には朝早くから漁師?達が自分の船の確認や漁具の手入れ。「今日は海(漁)にでれるか?」と漁師同志で出漁できるかの予報。9時過ぎ、漁師たちは自転車で自宅へ。漁にでることが出来ると判断した表情であった。

 船の発着場やセリ市周辺の雑然さ、そして漁港独特の匂いがあいまって港マチの風情がある。山原で港が発展させたマチは本部町渡久地のみでないか。

 
『元禄国絵図』の本部半島を見ると渡久地港から伊野波村にかけて奥深く入り込んでいる。そのことは沖縄の古琉球(16世紀初頭)から近世にかけての集落や村(ムラ)移動と関わっているに違いない。グスクが高い場所にあり、そして集落が高い所から低地に移動している。集落の移動が何回かある。集落移動の手掛かりとなる所だと考えている。

 『元禄国絵図』に記された情報は、以下の通りである。元禄は1673~1704年であるが、この絵図の間切区分などの情報は1666年以前である。

    ・入り組んだ絵図
    ・今帰仁間切之内によは村
    ・今帰仁間切之内あめそこ村
    ・今帰仁間切之内瀬底島
    ・満汐時ニ舟渡リ
    ・遠干潟


            『元禄国絵図』の一部
 
 それらを頭に入れて本部町の渡久地港、そして満名川沿い(かつての干潟)を辿ってみた。入江になった沿岸には具志川村(近世に渡久地村と浜元村へ)・伊野波村・満名村・並里村があった。並里(満名)にジューフニモーがあり、造船所だという。満名川を遡流し、舟の修理や造船などと関わる痕跡を地名に残している。

【本部町並里(満名)をゆく】
 今帰仁グスクから伊野波村へ抜ける道筋は重要であった。今帰仁間切が現在の本部町を含む範囲を占めていた時代、今帰仁按司が海路で首里王府へ向うのにとるコースの一つだったのではないか。今帰仁グスク→伊野波村→渡久地港→(海路)→泊・那覇港→首里王府。陸路にしても伊野波村から伊豆味村の山越えで名護間切へ。さらに金武間切(後に恩納間切)の村々、読谷山、(北谷間切・宜野湾間切)、浦添間切、首里へと。

 1666年に今帰仁間切は分割され今帰仁間切と伊野波(本部)間切と二分される。今帰仁間切は運天に、本部間切は当初伊野波村(伊野波の神社付近)に、後に渡久地村に番所を置いた。

  「伊野波は寛文六年伊野波間切新設当時の主邑にして諸船の碇泊地なき。その前方に
  古歌に名高き伊野波小坂あり今は間道となれり。…の北方字並里にジューフネといへる
  地名あり。是れ造船(ゾウフネ)の転訛にして古への造船場の跡なりといふ。之を以て満名
  田圃は即ち昔時の港湾なりしを知るべし(『沖縄県国頭郡志』411頁)。


               ▲並里のジューフニモーから満名田圃跡地をみる


 ▲「じゅーふに」(造船)公園      ▲並里の神アサギ、後方はウタキ


  ▲ウタキのイベに香炉が置かれている  ▲満名田圃跡に田芋が栽培されている


  ▲満名川沿いは、かつては水田地帯     ▲満名川の下流域(渡久地のマチ)   

2005.09.22(木)

 「山原の津(港)と山原船」の原稿整理に没頭。そして「恩納村の村の成り立ち」のまとめ。恩納村について、以下のような大胆な仮説を立ててみた(どう展開するか、あるいは崩壊するのか)。詳細については、報告が終わってからまとめることに。

 恩納村の10余りのムラを歩き、そしてウタキや神アサギや祭祀、あるいは集落の移動などで見ると興味深いことがわかる。結論を述べると、現在の恩納村(ソン)は金武間切の村(ムラ)と読谷山間切の村(ムラ)で構成された間切である。金武間切は北山、読谷山は中山の領域であった歴史を持っている。それが1673年に北山と中山の領域の村を集めて恩納間切を創設した。恩納村以北は北山(金武間切)、谷茶村以南は中山(読谷山間切)であった。北山と中山が接してきた地域(間切)を新しく恩納間切を創設した。

 間切創設(1673年)したとき、恩納村(ムラ)に恩納間切番所を設置した。そのことが北谷村以南の村に大きな影響を及ぼしているに違いない。新設した恩納間切を国頭方に位置づけたこと。番所は金武間切(北山)の村であった恩納村に設置した。すると、恩納間切の行政の中心は番所が置かれた恩納村へと傾倒していく。読谷山間切の村であった谷茶村以南の村々も。そのことが200年(廃藩置県)、あるいは300年(現在)も続くとどうなるか(現在は崩壊状態なのかもしれない)

 これまで恩納村のムラや集落を歩いての印象と調査の成果から結論めいたことを述べると、読谷山間切であった村々は、どっちかというと山原型へと傾斜している(神アサギの存在)。しかし集落を区分する・・・ダカリや殿(トゥン)は中山型を残している。方言のF音(P→F→H)の存在は両山の接点なのでF音へと変貌し残っているのか。中山の領域だった読谷山間切の8カ村が北山(国頭方)に組み込まれていった。行政の中心となった番所が恩納村に置かれたことも大きな理由の一つ。

 それらの結果や結末は、私たちにどんな示唆を与えてくれる。もう少し、時間をかけて恩納村域の調査を深めてゆく必要がありそう。

 今回の恩納村のムラや集落の踏査は、29日(木)に恩納村で話をするための下調べでもある。報告のための中間「まとめ」である。画像を使って報告する予定なり。


2005.09.21(水)

 
さらに恩納村の山田、真栄田、塩屋までゆく。それらの村は読谷山から恩納間切に編入された村々である。どんな特徴が出てくるのか。村の歴史が行政として動く部分と、動かない祭祀が複雑に重なっている。行政として村の統廃合はなされるが、祭祀は動かないという法則が見いだせそう。(行政が変れば、祭祀も動くという思い込みがありはしないか)。

【真栄田村】読谷山間切からの村

 
真栄田村は『琉球国高究帳』(17世紀中頃)に「前田村」として出てくる。『琉球国由来記』(1713年)には真栄田村と標記がかわる。その真栄田村に真栄田ノロ火神と神アシアゲがある。神アシアゲでの祭祀に百姓、(脇)地頭、真栄田ノロが携わる。真栄田村は隣接する塩屋を行政村に含むことがある。

 神アサギのある一帯の丘は、もとは御嶽の森であったとみられる。ウタキの杜に集落が展開している。神アサギは神アサギらしくない建物になっている。神アサギといくつかの拝所と統合したようである。神アサギの後方の香炉や石はウタキのイビを認識して造ってあるのかもしれない。真栄田ノロが真栄田村と塩屋村を管轄していた見ていい。ノロ家が真栄田、あるいは塩屋にあってもいい。継承がなければ、管轄内の村にノロが移っている事例は何例もある。そのような事例は明治になってゴタゴタを起こしている。


 ▲中央部の木がはえた場所が真栄田のウタキ ▲ウタキの中に神アサギ(右の建物)


▲神アサギの後に祠あり、ウタキのイベ   ▲祠の中に香炉と石が一個(イベか)

【塩 屋】―読谷山間切からの村

塩屋村は『琉球国高究帳』に登場するが、『琉球国由来記』(1713年)には出てこない。『御当国御高並諸上納里積記』(1750年頃か)には真栄田村と並列に垣(ママ)屋村として登場。その後の資料でも登場してこない場合がある。そのため、現在の塩屋との連続性がはっきりしないが、時期によっては真栄田村に行政村として吸収されたりしている。

 島守の嶽はシマムイヌタキと呼べれ、戦前までウガンと呼ばれる(『国頭の村落』)。現在の塩屋は昭和24年に真栄田からビルと一緒に分離独立したという。塩屋に神アサギがあるが、明治34年頃の地図に神アサギが記されているので、それ以前からあったのであろう。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の真栄田村に、以下のようにある真栄田と塩屋が一つの行政村として扱われている。そこに神アサギが弐ヶ所にある。村が合併したり、分離したりしているが祭祀に関わる神アサギや御嶽の統合されることはなかったとみることができる。行政村の動きと祭祀に関わる神アサギや御嶽などの動きは別であることがわかる。
    神アサギ弐ヶ所
     前ノ御嶽
     ノロ殿内火ノ神所一ヶ所
     塩屋ノ御嶽



   ▲島守のウタキにある祠(イベか)         ▲塩屋の神アサギ(かつてナシ)



【国頭西宿】―恩納村真栄田の一里塚―


                  ▲真栄田の宿道沿いの一里塚

2005..09.20(火)

 19日(月)恩納村の南側の村(ムラ)(1673年に読谷山間切から恩納間切へ組み込まれた村)をゆく。恩納村の南側のムラは、山原のムラ・シマを見る「物差し」ではどうも理解しがたい部分がある。それは中山と北山との統合(読谷山と金武間切)や境界領域にあることに起因しているのか。そうであれば、文化の伝播や重なりが複雑にムラの歴史に反映しているに違いない。そのことがつかめればと、一つひとつの村の歴史を辿ることからスタート。

【谷茶村
 『琉球国由来記』(1713年)に村としてない谷茶村が「たんちや村」として登場してくる。17世紀中頃にあった「たにちや村」が衰退、あるいは人口が減少し行政村として存在し得なかったのか。そのために地頭代名は谷茶大屋子としたのか。

【冨着村】―移動集落及び神アサギを持つ―⑤

 『琉球国高究帳』(17世紀中頃)にある下ふづき村と上ふづき村は冨着村のこととみてよさそう④。17世紀中頃には上冨着村から一部下冨着村へ移動している。下冨着村は海岸沿いに移動していた。下冨着村は前兼久村になったとみられる。そして山手にあった旧冨着は昭和の初期に現在地の冨着に移動している。故地に神アサギは地頭火神や旧家やなどの屋敷跡が今でも確認できる。但し、冨着村の故地がグスク時代まで遡れるかは不明だが、少なくとも17世紀まではいけそうだ。



【琉球国高究帳】に出てくる村名
(17世紀前半)(1673年以降恩納間切へ)

 【読谷山間切】
  ・よくた村(当時無之)
  ・前田村
  ・古読谷山村(後の山田村)
  ・中泊村
  ・下・上ふづき村
  ・たんちや村
  ・しほや村
  ・きんはま村(当時無之)

 【金武間切】
  ・おんな村
  ・せらかち村
  ・あふそ村
  ・中間村

【谷 茶】
(読谷山間切から恩納間切へ)④ 


       ▲谷茶のウタキ          ▲谷茶のウタキの祠(イベか)

【冨着の故地】(読谷山間切から恩納間切へ)⑤―山手から移動、分離したムラ―
 『琉球国高究帳』(17世紀中頃)に上フヅキ村、下ふづき村とあり冨着村のこと。当時すでに上・下と村が二つに分かれている。戦前まで故地に20軒、現在地に25軒。ウタキの周辺には、福木の屋敷林があり御嶽や神アサギなどが今でもある。神アサギを持っているのは山原的な村か。


   ▲冨着の故地にあるウタキ         ▲ウタキの回りに左縄が・・・


  ▲地頭(脇地頭)火神の祠       ▲ウタキの中にある祠(イベか)


   ▲冨着の神アサギ        ▲アシビミャー近くにある建物?

【前兼久村】―冨着から移動・分離した村
 
 下ふづき村は海岸沿いの前兼久原に移動し『琉球国由来記』(1713年)には前兼久村となる。ただ、冨着村は前兼久村を飛び越えて山田ノロの管轄である。前兼久村が冨着村から独立したとき、山田ノロの管轄に入ることはせず、前兼久根神が祭祀を取り行なっている。17世紀に分離した村が神アサギを創設しなかったのは?!


     ▲前兼久の現在の集落              ▲前兼久のウタキの祠

2005.09.18(

 
秋の気配がし、空気が澄み遠くまで見通せたので今帰仁グスクに上る。21日(水)に「世界遺産の一つとしての今帰仁グスク」をテーマに講演をする。画像を使って話をする予定なり。28(水)は「山原の御嶽と集落」(演題)の話をする予定。一般的なことと、具体的に現場(集落→人が住んでいる地域と御嶽)を踏まえた話を。





 昨日今帰仁村諸志の豊年祭を見る機会があった(後半のみ)。幕開けからカチャシーまで25の演目。「やぐざい」と「あやぐ」が諸志独特の演目のようだ。前々回は台風の影響で公民館でやったのを見た記憶が(7、8年前か)。

【今帰仁村諸志の豊年祭】


















2005.09.17(土)

 恩納間切(現在の村:ソン)の字(ムラ)や集落を見ていくとき、何点か整理しておく必要がある。まず一つは1673年に金武間切から四村(ムラ)、読谷山間切から八村(ムラ)を分割して恩納間切を創設したこと。金武間切は北山の領域、読谷山間切は中山の領域であったこと。恩納間切は北山と中山の領域を一つにした部分があるので、そこに北側と南側では言葉や気質など(文化?)の違いがあるに違いない。そのことを意識しながら現在の恩納村の村々(現在の字:アザ)を整理している。

     ・金武間切から分割された村・・・・・
名嘉真・安富祖・瀬良垣・▲恩納
     ・読谷山間切から分割された村・・・
真栄田・塩屋・与久田・読谷山(山田)・久良波・
                          仲泊・◎冨着・(谷茶)

               ※(1713年の『琉球国由来記』に前兼久村が出てくる)
                     
は神アサギを持つ村
                     ▲は殿(トゥン)を持つ村


 二つの間切、それも北山と中山との合併でもある。そのことが330年余経った現在に、どう痕跡を遺しているのか。読谷山(山田)については触れたが、茶谷以南の村について整理してみることに。

     (工事中なり)

【恩納村谷茶】④―神アサギを持たない村―
 谷茶は『琉球国由来記』(1713年)に村名としては出てこないが、恩納間切の地頭代は谷茶大屋子と呼ばれていたが、前兼久村が地頭代のあつかい村になった頃谷茶村が創設されたと見たほうがよさそうである。

  (今帰仁間切の場合でもそうであるが、1713年頃は今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子
   である。湧川村はまだ存在しない。1738年に湧川村が創設されると、地頭代は古宇利親
   雲上を名乗ることになる。谷茶村の創設は湧川村の創設と同様な例か)

 谷茶から以南が読谷山間切からの恩納間切に組み込まれた。北山圏ではないので神アサギは持たなくていいことになるが・・・。神アサギの創設はないが、御嶽と祭祀は他の村同様行なっている。


2005.09.16(金)

 
これまで山原の集落の成り立ちの説明のつきかねていた事例が、安富祖の集落の成り立ちから説明がつきそうである。隣の名嘉真も類似の事例かもしれない(詳細については別稿)。

【恩納村安富祖】③
 
恩納村安富祖はウタキ(御嶽)と神アサギを結ぶ軸線に発達した集落の一つだと見ている。ただ、この集落は台地上から麓へ移動した集落ではなさそう。つまり、古琉球に形成された集落であるが、安富祖川流域の湿地帯が利用できるようになってから発達した集落とみている。
 
 御嶽の中に集落が形成されていた痕跡が見えない。御嶽の内部に集落が形成され、そこから現在地に移動した形跡が見られるようだとグスク時代に形成されたと見ていいのだが。グスク時代以降、古琉球(1500年以降)低地に形成された集落と考えている。

 『琉球国由来記』(1713年)に森城嶽とアッタ嶽の二つの御嶽が登場する。祭祀は安富祖ノロの管轄である。同書に「安富祖巫火神」と「根神火神」、それと神アシアゲがあり、いずれも現在に伝えられている。祭祀に関わるのは百姓はじめ、脇地頭、そして安富祖巫である。


▲ウタキの奥にある熱田への遥拝所        ▲安富祖のウタキへの道


    ▲杜が安富祖のウタキ              ▲ウタキの中にあるイベか


   ▲恩納村安富祖の集落の形成


2005.09.15(木)

 
館内(事務所)はリニュアル中である。10年分の資料や要らない物の処分中なり。片づけが連日続いている。みんな疲労がピークに達している様子。ご苦労さん。

【恩納村山田
―移動集落―】②

 
恩納村山田は1673年以前まで読谷山間切の村の一つであった。1673年以後恩納間切の村である。『琉球国由来記』(1713年)には、まだ読谷山村とある。由来記の「山田グスク(読谷山グスク)」と登場してこないのは何故だろうか。読谷山村に「オシアゲ森」と出てくるが、グスク内の御嶽だろうか。祭祀は山田巫(ノロ)の管轄である。

 山田の集落は山田グスクの麓から現在地に移動している。麓には今でも旧集落跡が確認できる。そこから現在地への移動は、明治末頃に道路が開通したことによるようだ。戦前には、まだ30戸余が残っていたという。旧集落のはずれにメーガーがあるが、そこは集落の人たちが水を汲んだカーである。別名ウブガー(産井)とも呼んでいる。

 山田の明治34年頃の図面に旧集落がいくらか復元できる。旧集落に神アサギ、あるいはノロ殿内、金細工、掟ヤー、トンチングヮー、中ノトンチ跡、ジョウグチなどの屋号が知れる。また、クシヌカー、下ノカーやアガリノカーなども記されている。神アサギのあった場所にコンクリートの祠が置かれている。そこに4本の神アサギに使われた石柱が4本ある。3本は立っているが、1本は横になっている。

 山田(かつての読谷山村)は山田グスク内、あるいは麓に集落(本部落ともいう)が発達し、さらに明治後半頃に現在地へ移動した移動集落である。


      ▲山田の旧集落           ▲山田の神アサギ跡地


               ▲山田の神アサギに使われていた石柱か?

2005.09.14(水)

 
「山原の御嶽と集落」をテーマに話をすることになっている。このテーマはムラの成り立ちをしることでもある。恩納村のムラ(字)を事例に話をする予定。いくつかのムラを整理するが、まずは恩納村恩納から。

【恩納村恩納―移動集落―】①
 恩納は恩納村のほぼ中央部に位置するムラである。1673年に金武間切の村の一つであった。金武間切から4村、読谷山間切から8村を分割し、恩納間切を創設した。その時、恩納村に恩納間切番所を設置した。『琉球国由来記』(1713年)に記された恩納村の御嶽は二つである。

  ・ヤウノ嶽(神名:ツミタテノイベナヌシ・オロシワノイベナヌシ・アフヒギノイベナヌシ)
  ・濱崎嶽(神名:ヨリアゲノイベナヌシ)

 「年中祭祀」には、四ヶ所の拝所があり恩納巫(ノロ)の管轄である。
   ・恩納巫火神(百姓・恩納巫)
   ・城内之殿(百姓・両惣地頭・恩納巫)
   ・カネクノ殿(両惣地頭・百姓・恩納巫)
   ・神アシアゲ(百姓・両惣地頭・恩納巫)

 仲松先生は崎濱御嶽は恩納グスクで、その中にあるのが「城内之殿」である(『恩納村誌』仲松)。また、ヤウの御嶽は屋嘉田原の小島を想定されている。崎濱御嶽が恩納グスクであるとすることはその通りだと考えている。ならば、人が住み集落を形成すると、信仰の対称とする御嶽を設ける。御嶽が先行し、後に御嶽を囲むようにグスクが形成されたものと考えている。そのグスク内に住居を構え、それが殿(トゥン)として拝所となっていったのではないか。

 5月15日にグスク拝があるが、タキヌウガンに相当するものか。

 古島付近にウガミという拝所があるが、ヤウの御嶽への遥拝所だという。恩納ムラは御嶽(グスク)あたりに集落がおこり、古島(フルジマ)に移り、さらに現在地へ移動していったことが伺える。金武間切から恩納間切が分割した頃には、集落は古島から現在地に移動していた見られる。恩納間切が創設されたとき、番所は恩納村に置かれた。恩納間切番所は恩納松下の碑のある場所なので現在の集落の近くである。すでに集落は現在地に移動していたことがわかる。


   ▲崎濱御嶽(恩納グスク)の遠景      ▲御嶽(グスク)の内部にある殿(トゥン)


  ▲恩納番所があった付近から恩納岳をみる      ▲集落内にある恩納神アサギ

2005.09.13(火)

 
11日(日)は「奄美沖縄民間文芸学会」(名護大会)に参加。二日間に渡っての大会でしたが、私は二日目の午後から参加。「北山の領域とみた奄美への視点」で一時間の講演。今回の講演は、資料を入れて整理しなおして報告することにする。
    ・基調講演  「北山の領域とみた奄美への視点」 (仲 原)
    ・報   告  「島建てシンゴをめぐって」 先田光演氏(沖永良部郷土研究会)
    ・報   告   「奄美と山原の音楽文化の共通基盤」 酒井正子氏(川村女子大学)
    ・報   告   「アマウェーダの成立と展開 中鉢良護氏(名護市史編さん室)

 12日(月)は今週から来週にかけて各地で豊年祭やウシデークなどが行なわる。そのこともあって恩納村の北側の四か字(ムラ)を訪ねてみた。それと、恩納村の集落の成り立ちをしるため御嶽や神アサギ、そして集落の展開の確認。それと瀬良垣の漁港も。しばらく訪れていないので確認と港の雰囲気を味わうために。
   ①名嘉真が12日にウシデークあり。
   ②安富祖は今年はナシ。
   ③瀬良垣が17日か18日に豊年祭開催。夕方、組踊りの練習をしていた。
     神アサギが新築されている。
   ④恩納は体育館でパーランクーを打ち鳴らし練習中。

【恩納村名嘉真】


     ▲名嘉真の神アサギ          ▲地頭火の神の祠


▲ヌルドゥンチの庭で奉納のウシデークをする     ▲ヌルドゥンチの側のカー


  ▲ウシデークが行なわれる公民館の広場     ▲名嘉真の集落内を流れる川

【恩納村安富祖】


    ▲御嶽の中への道              ▲御嶽から眺めた安富祖の集落


   ▲安富祖の御嶽内の火神の祠          ▲安富祖の神アサギ

【恩納村瀬良垣】「山原の津(港)と山原船」で報告)


       ▲瀬良垣の神アサギ           ▲海の方からみた瀬良垣の集落


      ▲瀬良垣の小さな港               ▲瀬良垣の小さな港

【恩納村恩納】


    ▲恩納にある恩納グスク(御嶽)の遠景       ▲グスク(浜崎御嶽)のイベ?


 ▲恩納ヌルドゥンチ(ノロの住宅)          ▲後方の山は恩納岳


   ▲恩納の神アサギの石柱         ▲恩納村恩納の茅葺きの神アサギ

2005.09.09(金)

 台風一過の山並みは紅葉状態である。早々、沖縄にも秋がやってきたか。台風はそれたが、塩分を含んだ潮風が陸地の木々を襲ってしまった。直後、大した雨が降っていないので、塩水をかけられた状態なのでしょう。秋の紅葉の風情と見た方がいいような気もするが、しばらく朝の掃除は落ち葉と根くらべなり。

 今帰仁グスクへの道筋の両サイドの桜並木も、ほとんどが紅葉状態である。今年は、まず9月に季節を間違えた桜の花をみることができそう。二、三日もすると紅葉状態も消えるでしょう。いつも、明日まで、明日まで紅葉が残っているだろうと思っているうちにシャッターチャンスを逃がしてしまう。今年はどうか。明日の方がもっといい色した紅葉かもしれないが、まずは。

 学芸員実習の広島のメンバーは無事帰宅できたとの連絡あり。台風の影響で一日遅れた組もあったようだが。無事たどり着いたようでなにより。一安心なり。

 11日(日)の講演の準備におわれている。明日は「ムラ・シマ講座」あり。宜野座村立博物館である。展示を見る予定なり。


 ▲館の屋上から今帰仁グスクをみる        ▲クボウヌ御嶽も、あちこちに紅葉が

2005.09.08(木)

 
名護グスクからスタート(10時過ぎ)。大型バスのため中腹までバスで行けず、麓から頂上部のグスクまで徒歩で。グスクが機能していた時代、車が通る道ができる以前は、徒歩でグスクまであがっていたのである。その実体験をしたということになる。階段を登ったのであるが、グスクの域はさらに上の方である。グスクまで旧道らしき道筋をとった。途中にカーや大木の根元に香炉が置かれ遥拝の場所だろうか。左縄が張り巡らされ、御嶽の範囲(かつて男子禁制)を示している。今帰仁グスクのハンタ道を歩いてグスクへ上がる気分である。

 羽地(親川)グスクは遠くから眺め、やはりグスクと結びつく勘手納港のほうへ。勘手納港のある集落は、かつての羽地間切の仲尾村である。その仲尾村は丘陵に囲まれた海岸沿いの兼久にあるが、集落が移動してきたのは道光15年(1835)のことである(羽地間切肝要日記)。仲尾の勘手納港と羽地グスクはセットだと考えている。勿論、北山を攻め滅ぼした時の集結した港としても知られる。

 根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、また『海東諸国紀』の国頭城と想定されている。グスク内にウフグスク(大城)とナカグスク(中城)がある。ウフグスク(ウタキ:根謝銘グスク内)は現在の田嘉里の拝所である。親村と屋比村と見(美里)村が合併し田嘉里村となる。
 またナカグスク(ウタキ)は謝名城の拝所である。謝名城は明治36年に根銘村と一代村村が合併する。一つのグスク内に二つのノロ管轄のグスク(ウタキのイビ)があるのは興味深い。

 塩屋にある塩焚きに使った赤茶けた石を置いた祠と「花売りの縁」の歌碑のあるハーミジョウまで登る。塩屋湾は波一つなく湖のようである。1853年にペリーの一行が塩屋湾にはいり、外海が荒れたため一週間ほど閉じ込められた。ハーミジョウから見える田港には、1665年に今帰仁監守が首里に引き揚げるのを反対した人物が、職を辞し隠居した場所がある。


   ▲根謝銘(ウイ)グスクへ階段の道        ▲グスク内にある神アサギ


▲グスク内にあるウフグスク(大城)(イベか)  ▲グスク内にあるナカグスク(中城)(イベか)


▲今帰仁グスク後方のクバヌ御嶽が見える。     ▲二つのニーズ(根所:火神)

 
  ▲ハーミジョウ(杜)から見た塩屋湾岸     ▲塩焚き釜を支えた焼けた石

2005.09.07(水)

 今朝、名護グスクまで足を運ぶ。明日(8日)に「山原のグスクを行く」をテーマに名護グスク、羽地グスク、根謝銘グスクまで行く。途中、何カ所か立ち寄る予定だが、何せ那覇方面からの方々40名余なのでどうなることか。結構、歩くコースになりそう。

 名護グスク、羽地(親川)グスク、そして根謝銘グスクの踏査は、11日(日)の「北山の領域とみた奄美への視点」(講演)に結びつけたいと考えている。歴史の展開と山原のグスク、さらに三山の北山の拠点となった今帰仁グスク、そして北山王が君臨した時代と奄美、その時代が北山の領域としてみた奄美であるが・・・。北山に統括された300年間に形成されたのは何であろうか。何をキーワードにして見ていけばいいのか。あれ、どうも「北山文化圏」と唱えてきた議論と重なってきそうだ。楽しみじゃ。


    ▲名護グスクへの旧道           ▲グスク内にある拝所(墓?)


▲グスクの頂上部にある拝所(イベ?)      ▲名護グスク内にある神アサギ

 学芸員実習最終日。出入り口に数枚の写真パネルを掲げることにした。模様替えは、何度も足を運ぶ来館者に新鮮さを与える。立ち止まって、声を発している姿は感動を与える。一方、日々の慣れの怖さも実感。学芸員実習、よく頑張ってくれた。ご苦労さん。


       ▲なかなか出来なかった玄関の展示。6枚のパネルを掲げてみた。

2005.09.06(火)

 
4日(日)に糸満市潮平から100名の方々が見えた。何度か「伺いたいがいらっしゃるか」との確認があった。気になったので潮平について、少し頭に入れておこうと資料をめくってみた。『球陽』外巻に「潮平村の発祥由来のこと」(以下)の記事がある。

  潮平村、原北山今帰仁按司裔孫の建つる所に係る。曾て其の裔一人有りて、安波根
  下口(地名)に隠居す。即ち海辺の地平なる処なり。是に于て塩を造りて生を為す。後、
  地を荒野に卜し、卉草を□去し悪木を伐除して、以て一宅を開きて居る。其の子孫の繁る
  に至り、漸く数十の家宅を開き、遂に村と為る。其の塩家一族の居る所なるに因りて、名づ
  けて塩平村と曰ふ。後、潮平に改む。今、村人敢て其の由りて出づる所を忘れず、毎年二、
  五、八等の月に、会集して祭を設け、遥かに北山に向ひて拝す。


 潮平には今帰仁王子由来伝があり、志慶真王子(志慶真子)一統によってつくられたムラであると。1416年に尚巴志の連合軍に北山は攻め滅ぼされた。その時、北山の一族は各地に離散していく。二男の志慶真と真亜佳慶金(マコトガネ)は叔父の湧川に引き連れられて兼城にいた兼城按司をたよっていった。身を隠すため金城姓に名を変えて塩づくりをして生活をはじめた。塩づくりをしていたのでムラ名を潮平にしたという。一族は今帰仁腹といい、潮平ガーを別名湧川と呼び、また兼城から座波に通ずる道筋をシキマヒラ(志慶真坂)といい、今帰仁と関わる地名がいくつか残している。

 その伝承は、あながち無視できないものがある。詳細については、いずれまとめるが万暦5年(1577)に百按司墓の修復がなされたとき、百按司墓は北山王攀安知王の墓だとして、北山が滅ぼされ離散した一族達が労働を提供して修復した記事がある。その時に志慶真子(志慶真王子の末裔か)も働き手の一人として名を連ねている。

 潮平の志慶真子(王子)の末裔である一族は、今でも三年ごとに「今帰仁上り」をしている。古くは二月、五月、八月に詣でていたようだ。今帰仁グスクだけでなく、百按司墓も参拝している。

 学芸員実習は今日から二人。一日中台づくりの大工仕事なり。板に付いてきたようだ。9月1日から今帰仁グスクとセッティング(共通チケット)となり入館者が急増。今のところ、1日に200名~400名ペース。その対応に職員全員、テンテコ舞い。しばらく続くか、ずっと続くのか。ご苦労さん。


2005.09.04(

 
学芸員実習、広島組が今日で終了。ご苦労さんでした。予想以上に展示が進んだ。「津(港)の分布」と「山原船と航路」、そして四津口の一つ「運天港」の展示まで、手をつけることができた。いい展示ができそうだ。

 「山原に港が多いですね。何故?」の質問。沖縄本島の北部は山がちな地域である。ムラからムラとの間は、陸上交通が非常に不便であった。そのため物資の輸送は船を使っていた。それと首里王府への税はほとんどが穀物なので、海上輸送が主であった。それとムラとムラとの間は陸上交通が不便なので、ムラごとに津(港)があるようなものである。そのために、津(港)はムラごとにあったようなものである。必ずしも頻繁に使われていたわけではないのだが。

 「山原の津(港)と山原船」の展示作業を通して、また古宇利島の海神祭(ウンジャミ)や豊年祭、シーカヤック(海からの視点)、さらには「ちゅら海水族館」などから、つくる立場から見る視点を、いくらかでも学んでくれたら有り難いと思っている。一人ひとりのコメントは、改めて報告することに。ごくろうさんでした。


     ▲みんなの力でできた展示の前で          ▲タイトルも工夫される!



    ▲一人ひとりの報告会              ▲山原の津(港)の分布の壁展示

2005.09.03(土)

 台風接近中。ほとんど動くことができなかったため学生達は自学自習なり。午前中、ちゅら海水族館の見学をしてもらい、その報告を受ける。午後から、昨日に続いて「山原の津(港)の分布」にキャプションを入れたり、追加したりである。それと「山原船と航路」のコーーナーの壁展示にはいる。現物展示は10月にはいてからの予定。展示会のタイトルもボツボツできたようだ。

 沖縄の二人は今日が10日目、広島のメンバーは6日目である。広島組は明日最終の実習日である。どんなことを自分のものにできたのか。最後の報告が楽しみである。最後まで気を緩めず行きましょう。沖縄組は7日まで。あと一踏ん張り。

 8日、11日と講演がある。その準備もしないといけませんが。それと明日4日(日)糸満市潮平の方々が見える予定。台風の接近でどうなるか(まだ、延期の連絡なし)。あれもこれも、気が重くまだ手つかずなり。

 11日の講演資料は当日持参する予定なり。


   ▲展示を見ながらミーティング          ▲「山原の津(港)の分布」

2005.09.02(金)

 
学芸員実習生達は31日、1日と古宇利島のウンジャミ(海神祭)と豊年祭と連日の調査となる。実習生達は調査になったかどうか。初めて見る祭祀や豊年祭なので見学することで精一杯だったようだ。一人ひとりの報告を聞いていると、文化や歴史の違いの大きさに驚きがあるようだ。

 「山原の津(港)と山原船」の展示の一部が姿を表してきた。これからどう変っていくかわからないが、変らないことを願うが「山原の津(港)の分布」のコーナーが固まりつつある。それと四津口の一つ運天港。船の方にもボツボツ入らないと・・・。あれこれ重なって身動きとれません。開放は一つひとつ片付けてゆくのみ!


   ▲山原の津(港)の分布図              ▲自分達のカバンも展示物?

2005.09.01(木)

 古宇利島の豊年祭。学芸員実習をかねて古宇利島の豊年祭をみることに。道(ミチ)ジュネーから最後の神人のカチャシーまで。

 夕方6時半頃から「祈 豊年」と「海神遊」と書かれた旗頭を先頭に港からアサギミャーの舞台まで、道ジュネーをする。旗頭・長者の大主・子供達・舞台出演者と行列をなし、神アサギにある舞台まで。神人達が神衣装を着て、アサギミャーの中央部で舞台に向って座って待っている。

 道ジュネーが終わると、長者の大主から舞台が始まる。

 
  ▲これから道ジュネーがスタートする       ▲長者の大主を先頭に

 
   長者の大主と子供達            ▲舞台に向って観覧する神人達

 
                                     ▲太鼓エイサー

 
    ▲夢の古宇利島(婦人会)          ▲ウタを歌う神人房江さん

 
      ▲さよなら涙(島の青年達)           ▲鳩間節(中学生)

 
    ▲すんとう(面踊り)               ▲舞台がおわり終わりのウガン?

 
  ▲全て終わり神人へのねぎらい          ▲閉めは神人のカチャシーから