2005年10月の調査記録

          バジル・ホールが見た運天港            トップへ(寡黙庵もくじ)


2005.10.06(木)

 
展示作業を進める。「異国人が見た山原」のコーナー。異国船と関わる1644年に制度化されてた烽火のネットワーク。1816年に山原にきたバジル・ホールの記事や地図、1846年にきたフランス艦船と関わる記事や図やオランダ墓、1853年のペリー一行の図や記事など。それらの記事から異国人は山原をどう見たのか。その視点で展示できればと考えているのだが。


    ▲展示の導入部分の展示              ▲「異国人が見た山原」のコーナー

2005.10.05(水)

 
「山原の津(港)と山原船」の展示作業にはいている。明治14年二代目の上杉県令が沖縄本島の各間切を巡回している。『巡回日誌』をたどってみると、当時の陸路、さらには海上交通の様子がみえてきそうである。

 今回展示のテーマとしている「山原の津(港)と山原船」は、海上交通を扱うだけでは不十分である。陸路の不便さ、それが海上運送の主流を占めていたことがよくわかる。『巡回日誌』から道筋を辿りながら具体的に当時の陸路と海路の様子をみていくことにする。


2005.10.03(

 「異国人が見た山原」の展示コーナーを設ける。そのベースとなる記事を整理してみる。

【バジル・ホールがみた運天村と港】

 1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールは『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)に運天港(村)のことを記している。約200年前の運天付近の様子をどう描いているのか興味深い。

【朝鮮・琉球航海記】(1816年)

   この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれい
  に掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだ
  こざっぱりとしたものであった。垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂
  して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。

   浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしてい
  たが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ
  出入りすることさえ認めてくれたのである。

   この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日く
  らい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、
  と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。

   村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側か
  らさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。・・・全長約
  4分の1マイル(約400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

   半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであっ
  た。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート
  (24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。
  地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうたって水平に
  回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。
  ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。

   この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあ
  って日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。・・・だがわれわれは突然、
  予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったので
  ある。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。この村は運天Oontingとい
  う名前である。・・・

   われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メル
  ヴィル港と名付けられることになった。

【フランス艦船が見た運天港】(1846年)

 30年後の1846年に運天港に三隻のフランス艦船がやってくる。その時の運天港や付近の様子を描いた絵が残されている。それから運天の集落、海上に山原船、さらに木を刳り貫いた舟を三隻平行に連結したテーサン舟?に琉球国側の役人が乗った様子が描かれている。よく見るとコバテイシの大木や番所、茅葺きの家、抜け出る道なども描かれ、当時の運天津(港)の様子がわかる。山原船が往来していた長閑な風景である。フランス艦船の三ヶ月の碇泊で首里王府は右往左往したのであろうが。その間、二人のフランス人船員が亡くなっている。二人を葬った墓がある。フランス人墓ではなくオランダ墓と呼ばれる。


                ▲1846年の運天港の様子


         ▲テーサン舟?に乗った役人と後方に山原船が碇泊中


  ▲運天の対岸にあるオランダ墓

2005.10.01(土)
 
 古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書Ⅴ)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。

 『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。

 北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄のようだ。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員であろう。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。

 『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。


    ▲古宇利島の「遠見番所」跡          ▲「遠見番所」跡の遠景


▲島から北大嶺原の遠見番所跡をみる      ▲古宇利島の「遠見番所」跡 


▲米軍が設置した指標の一部か? ▲現うるま市(与那城上原)の遠見番所の碑?