2017年5月18日
追 想
私が生れたのは、大正二年十月十日で本籍地である現在地である。今帰仁村字謝名
父 仲原武太
母 ナベ
の長男として生れた。父は祖父加那、母マツの三男として明治二十一年。祖父加那は祖父マツを離縁し別の女性ユタをしていたようで名はゴゼイと言っていたようです。
父はゴゼイに育てられたと聞いていますが、詳しいことは分かりません。それで長男の次郎は別居していたようで、父が両親(母は継母)と暮らしていたようです。ところが継母のゴゼイは明治三十五年□月□日に死亡(ダビ帳より転載)したので、その後離婚していたが、母を家に戻し生活するようになったようです。父は伯父次郎が別居しているので本家に入り生活し、私達も本家で生活するようになっていました。
父は農業して生計を立てる土地は無く大地主から土地を借り小作して生計を立てるように働いていたようであるが、何分不景気の時代で畑百坪小作するのに月大人で三日地主に労働を提供しなければならない時代で三〇〇坪小作すれば月十日は地主に提供し働かなければならなかった。父はどの位土地を借りていたか、子供だから知ることは出来なかった。
私が覚えているのは、松本家(ウンジャフ)の土地でミジクブといって(グシクンシリー)北側の半陰の土地で甘藷やキビも他の半分も収穫できない土地を借りているのを覚えていますが、イモも極く小さい甘藷でウムニーをしてよく食べさせてもらったことを覚えています。
【子供の出産】
当時(大正の初め頃から昭和の初期)は子供が出産すれば、出産祝(マンサン)といって誕生七に目に親類隣近所から白豆腐を祝儀として持参大祝宴で酒五升とか一斗も消費するような祝いをやっていたとのことです。吾が家ではどの位の祝いをしたかは私達には知ることはできませんが、分相応なことはやっていたと思います。
吾家では大正四年に祖母マツが死亡、同年武次誕生、その後に女の子が生まれたようであるが生まれながら死亡か死産だったようです。
父だったか誰か覚えておりませんが、抱いて葬式しお墓に連れて行ったことを覚えています。その後、大正七年に武三が生まれ生活は苦しくなるばかりだったようです。
【小学校入学】
大正九年学齢に達し父に連れられて学校に入学式に行き、一年生となりましたが、一学期が(夏休み)終え二学期の始め頃かと思いますが、吾が家では私達の人生を大きく左右する事件が起きます。当時を思い出し書いてみると、次の通りです。これは今まで私の心の中に納め話はしていませんでしたが、今回のTの私に対する話が恐ろしくなったので書いておきます。
これは夏休みも終え二学期の初め頃、学校から帰ったところ小さな家の入口に見知らぬ人が母の側に座り、何やら話ておりましたが、私には知る由もありません。私は学用品をおいて遊びに行きました。夕方遊んで帰ったところ、叔母さんの母の姉助一さんの母)とトク伯母(父の姉)がいて、カンタヤーの叔母が母の頭をつかんで柱にぶっつけて泣いていました。八才の子供には何かさっぱり知る由もありませんでした。
後日トク伯母の話では仲原の叔母さんの家のタンスから衣類の盗難にかかり、その衣類が仲宗根在(現在のAコープ)の地に村内の質屋に質入れしてあったようです。それは母の仕業と分かり警察に同行され、取調べられ、被害品は回復、また親族窃盗とのことで被害者が処罰の意思(申告)がなければ処罰しなくてもよいという規則で、母は帰されたということです。
母は前原の実家に帰り生活しておりました。私達三名は崎山在の親類玉城真津祖父と一緒に吾が家で暮らすようになりましたが、トク伯母は心配されて毎日廻って来られ、私達をはげましたが、何分男の子ばかりで親がいないと悪さもするのでJは母方の親川福五郎(母の叔父)に引き取られ、私達武三と二人は伯母夫婦に引き取られ生活するようになりました。平太郎叔父は不景気の時代に男の子二人も養うことは拒んでいたとのことです。叔母は叔父が反対なら離婚して私達を養うと強気に出たので叔父は承諾して私たちを可愛がってくれました。武三は体は大きかったが三才といっても弱くて私が皆背負って遊ばし、学校へ行っている間は伯母が芋ほりや畑仕事に連れて行ったとのことでした。武三は平太郎叔父が可愛がり私とは差別して食事や外のこともよくし、やって下さったことです。
私はあのいまわしい事件後学校には行かず、不登校で一年の一学期を勉強しただけで普通なら落第するのが当然でしょうが、伯母が学校へ行き貧困な家庭で早く学校を卒業させて働かせますからと嘆願して二年に進級させてもらったが、私にはそれこそ大変なことで一ヶ年遅れているので無学と同様で二年の一学期で五月頃であったと思います。二年は何も分からなかったが、先生も同情されたのか、三年に進級ささえてもらいました。
三年生になってから担任の先生は仲村豊助先生でした。当時は長腰掛で二人宛座って勉強しておりました。同席したのは崎山の比嘉龍吉さんで彼もおとなしい人でよく何でも教えて下さり、特に算数などは手指、足の指まで数えて計算して答えを出してともに勉強しましたが、私は随分教えられました。次第に皆さんの後ろにつけるようになってきました。
四年の担任の先生は校長先生は安波連本堅先生でしたが、九月一日の関東大震災の年で先生から聴きました。先生の授業をけんめいに聞いて次第に追いつくようになり、四年生で学力優等の褒美をもらうようになりました。
五、六年、高等科一年二年と学校を出してもらいました。普通でしたら六年卒業させて家の加勢をさせる家庭が多かったのですが、養父母はよく理解され私を高等科まで勉強させて下さり、ほんとに有り難いと思って感謝しており、自分も懸命に家の加勢に励みました。それでも心の奥には母のあの失敗のことが残り、気は小さく何事も消極的振る舞いで、何時も気にしていました。
伯母も五十才を越し若い頃より実家のことで心配され私達の成長を心配されか病気がちになり心配しておりましたが、それでも機織りは得意でしたので毎晩遅くまで反物の材料の糸芭蕉をつむぎ働いておりました。
十七才の頃伯母は形見として藍染めの紺地を織ってくれ、着物にして着せてくれました。その後、私は現役兵入営の時大阪から送り返したが、そのままでした。トク伯母も次第に病気が重くなって闘病生活でヤブ(医者)にかかり、ヤイトやブーブー(シヤ血)などの治療していましたが、回復は望めず重くなるばかりでした。その頃父から伯母への見舞金拾円を送ってきました。
トク伯母は重病で家事は平太郎叔父の姉が兼次から来られ助けて下さいましたが、伯母は昭和六年旧十月二十六日の朝十時頃でなかったかと思いますが、腹部が女の臨月の頃のように腫れているのをヤブ医者(名前は秘す)が腹部の水をパイプのような管を差し込んで出したとき貧血だったのか、そのまま息を引き取ってしまい死亡しました。叔母の法事も終わり年は明け、翌年のサトウキビの収穫も終わったので自分の身の振り方を考えるべきだと思い、次郎叔父(後に養子となる。現仲原家)に相談して本家に帰るべきだと思い次郎伯父に相談して本家に帰れるようにお願いしたところ、平太郎伯父は育てて立派にしたのに引き取るかと反対したが、家にいる間は農作業を加勢すると言って願ったが聞き入れないので、やむなく感情を損ねたまま大島の本家に帰るようにしました。これは昭和七年の四月頃かと思います。
同年五月金城ツルさんが島袋善盛さんと結婚することで上阪することになったので、彼と一緒に大阪に行くようになり、数日して大阪港桟橋に船は入港して、港には島袋善盛さん、兼次吉正さん、父(武夫)が迎えに来て下さり、善盛さんとツルさんは尼崎へ、私たちは大和田在の吉正さん宅に住みつきました。
【徴兵検査】
上阪後、私(武一)は吉正宅に父(武太)と共に下宿し私は当時佃町にある淀川鋼管工場に働いていたが、本部町出身の高安高詳さんの紹介で同工場に就職し日給八十銭を貰うようになった。翌昭和九年一月二十日五月徴兵検査で甲種甲□合格で喜んで帰った。一年間働いて最初に購入したのが、美謝原の土地でした。
昭和九年一月二十日長崎県大村歩兵第四十五?隊に入営二ヵ年の兵役を終え沖縄へは帰らず、すぐ大阪へ行きました。その頃現役満期の折には記念品として杯を記念として配られる習慣があったのでその記念品は喜屋武光一さんに依頼して届けてもらった。その頃吉正宅をはなれ一軒を借りて下宿人を養い(兼次吉正、末吉文秀さん)、武三(弟)、道子(妹)と父(武夫)が住んで、玉城ハナ(助一の姉)が食事をつくり皆を養っていました。それで増え大勢になりました。
父はその頃までは元気で休まず働き、村内外の人々と知人も多くなり信望も出て来たので事業を計画している方々が金策を依頼するようになり、断ることが出来ず平素主食の米・薪・炭など、日用雑貨を大福帳に記入させて生活し、次第にその額も増えて来たようである。
父が寺脇商店から借りて再貸した方々の返済がとどこおりがちになったので、次第に寺脇商店にも借金が増えてきてしまった。当時の記憶にあるのは吉嶺さん、石嶺さんや他にもおられたようであるがよく覚えていない。父が働いていた大阪製錬会社は鉱石を大阪へ運んで来て銅を洗練する仕事の一部所で鉱石を焼き、これを散水して出て来る鉱石をトロッコで大きなタンクに運び出す仕事で、非常に暑く粉じんの多い作業で健康には悪い仕事と聞きました。このような仕事であるので父の体も次第に病気がちになり、仕事を休むようになって来ていた。
このような生活であったので、父は家を借り妹の道子が大阪に行ったので一軒借りて下宿人を置いて生活しながら学校へ出す予定だったのが、小学生の子供が街の中で言葉も知らないでは学校に行けないので、玉城ハナさんを呼んでともに暮らしているうちに武三も何歳で上阪したのか私には分からなかったが、兵役満期除隊して帰阪した頃には皆と共に生活し、大阪機械工場へ幼年工として働きに出ていた。給料は私にはわからないままであった。多分昭和十年と思うがカゼがこじれて肺炎を患い高熱を出し、皆は心配し道子の看護で次第に回復したが、ながい間仕事は休みがちになり心配しているおり、父はほとんど仕事を休み店の前の借金は増えるばかりであった。
同じ職場にいた島袋正一さんと相談して退職して郷里には妻子もいるので貧しくては健康になれば、また来られる事もできると進めると帰郷することに決め会社とのことは私が引き受けるからと島袋さんとはかり帰ってもらった。その折私が旅費やその他帰ってからの心配のないようにと現金を一〇〇円を父に渡し帰ってもらい、その折り、吉嶺さんの土地は私がもらうとの約束で帰郷したものである。その折り寺脇には三百円の借りがあり、私に責任を持たすということで帰郷した。父が帰郷の折吉正さん、松吉さんも別居し私達だけになり、ハナは与那嶺徳男さんと結婚し、別居したので私達も借家を出て徳男さん方の一間に住むようになったが、今まで住んでいた家賃も滞っており、私が月に支払いするようにして家賃も支払いした(四ヶ月分であった六十円)。
父の帰郷後寺脇商店に責任を肩代わりとして公正証書を作成する準備をしているとのことを島袋さんから聞かされたので、それ以上島袋さんに面倒かけて申訳ないと思い自分が引き受けるからといってことはすんだ。
その後、私達は徳男さん方に身を寄せていたのであるが、武三も心変わりしたのか私の通帳から金を引き出し帰郷することの葉書が届き驚いた。私もストレスがたまり精神状態が安定せず、とうとう会社を退職するようになった。それは昭和十二年八月頃である。
現役当時からあこがれであった砲兵工廠への就職を御願いしてあったのがかない入職できるようになった同年九月、第五製造所へ職場が決まった。翌十三年六月頃枚方に分廠が出来るとのことで同所へ転職が決まった。当時新設のところで苦労が多かったが、その年私が幼少の頃からご指導を戴いた湧川善公夫妻のお世話で照子と結婚することになり、益々親愛の間柄になりお世話になった。
武三も再び枚方の私の家に来て働くからとのことでしたので、大阪機械工場と言えばすべての機械の製作に就練しているかと思ったが、単なる流れ作業だったようで武三は妻照子の知人で与那嶺仁栄さんに就職を依頼したところ、就職が出来たので感謝していたところ技術がなく単純な部署に廻されたとのことで武三も暫くして退職して郷里へ再び逃げるようにして帰ってしまった。後に仁栄さんに会って話したら前記のようであったとのことで大変恐縮した。
その後、更に道子も私の所に来て暮らすようになり就職して第二工場へ働くことになった。その後戦争も次第に激しくなり、何時召集があるか分からないで心に覚悟は決めていた。妹の梅が大阪の紡績に来ているところを私のところに来て居候になり、私の職場に就職させたが、戦争も激しくなったので、他の会社で働くようになった。
太平洋戦争は益々激しくなり、昭和二十年八月にとうとう天皇の詔勅に敗戦となって戦争は終った。職場の人々は散り散りになり姿を消した。私達沖縄出身者は沖縄が米国に占領され帰るところがないので、そのまま残務整理で残った。妹の道子も森口の松下電器で働くようになり、それぞれの道に行った。
私も腕に技術がなかったので、幸い田口の大地主である奥野章治さん(大阪府庁職員)の土地を三千坪と田(下村さん)三百坪を借り小作したので生活して行けるようになっていたが、県人が沖縄に帰れるようになったので、照子がどうしても帰るとのことでやむを得ず帰ることに決めたが、その前に武二が復員して来たので、私の職場に働かすようにしたが、それぞれ仕事をさがすようにつとめたが、武二は私が小作していた土地を耕作するようにして自分は財務整理し退職して帰郷した。それは昭和二十一年十二月二十六日で、久場崎に上陸した。二、三日久場崎にいてトラックで今帰仁の吾が生まれ村に帰ってきたのであるが、本土で聞いたように玉砕と聞いていたのに殆どが生存していたので驚いた。わが家では伯父の次郎のみが死亡(戦死)し、皆元気であったので喜びあった。
その喜びも束の間で明日からの生活があり、早速土地を耕し藷を植えなければならず、鍬や鎌など本土の道具の一部を持って来たが、沖縄の土地は固くて耕すことが出来なかった。父も現住所で生活していたので父に大阪での約束の土地のことを話すと父は返事にならないので遂に強くでて半分を私が耕作するようになったが、半分はそのままになっていたので、先の瓦葺きの家を建てるために抵当物件が不足ということで父と相談の上、私の土地にして物件に入れたものである。(平成十四年十月)