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2023年9月
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今帰仁村の戦後60年(企画展)(2008年開催
【上杉県令日誌】(12月16日メモより続く)(2002年?)
明治14年11月28日(午後1時40分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。
道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。
はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。
百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。
【その後の様子】
運天は日常的に訪れる地であるが、12月20日の午前中、日本航空の写真撮影の案内があったので同行した。その時に番所(分署)跡から百按司墓まで踏査してみた。
首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13年6月22日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治14年10月に那覇署の管轄となる。明治15年1月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。
今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしたいた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。
集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。
さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記している。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。
本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治15年8月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。
運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。

(続く)(当時館長) (「なきじん研究14号掲載)

沖縄では今の所火葬を忌むので、遺骸は棺に納めて墓内に置き、数年の後屍骨を洗い浄め、之を骨甕又は陶棺に入れて墓内の壇上に並べる。夫婦は遂に同じ甕に収まるのだから所謂、詩経の文字通りに偕老同穴の契りを完うすることになる。
抑も墓のことが史上に現れたのは六百五十年前英祖王が浦添城下に墓を築き極楽山と称したとあるのが其の濫傷であり、之とても元は天然の洞穴を利用したもので後世になって石壁を積み入口を設けたものらしい。現に県下の津々浦々には自然の洞窟を使用した跡が著しく多い。著書(島袋源一郎:昭和16年発刊))が県下全般に亘って其の発達状態を観察する所では、古く第一期の墓とも称すべきものは主として珊瑚礁など自然の洞窟を利用したもので、運天の百按司墓一帯が其の好実物である。古生層等適当な地物のない地方では雑木林等に風葬していた所もあった。次に第二期ともいうべきは、此の自然洞を奥へ堀って広めたり、又は前面に木戸を立て或いは石垣を積んで近代の墓のように入口を設けたもので、今でも多く村墓、模合墓、一門墓になって居り、之も運天や県下至る所にある。
第三期と見るべきは、岩層又は断層を横に堀抜いた儘何等飾り気のないもので之は人口繁栄の結果村墓から分離して一族又は一家で墓を持つようになったものと見てよい。但之には間口を広く奥迄方形に堀抜いたものと、入口は細く開けて内部丈け広くした近代式のものと二通りある。
次に第四期とも称すべきは其の構造法に於て最も進歩した亀甲式の墓である。之は掘抜式の上部を亀甲型に丸め、周囲や前面に技巧を施したもので、凡そ二百年程前蔡温時代から流行したものといはれている。外形は全く南清広東あたりの模式をとったもので、之を女陰の象徴と為し、元に帰るの意だと解するは民間説であると思う。或いは原地の広東あたりでそういっているかも知れぬ。それから亀甲式の外に家形又はは風型というのがある。之は多く堀抜に適せざる土地や平地などに築かれたもので一体に新しい構造と見てよい。
偖て此等の墓は大體生前の住民即ち人家に模したもので、時代の古いのは石で柱や廂、垂木の型を作ったももあり、又尚候爵家の霊御殿のように石造りの屋根に板葺の形式が施されて居り、しかも垂木が二重に表はれて二階の趣をなしているのは板葺時代の首里城正殿を模したものであろう。
次に墓内には凡そ上下二三段に分れ、上段中央には始祖、左右は夫々下はシルヘラシ(汁干らしの+意)と称し洗骨する迄骨を枯らせる所になっている。
【村内の崖中腹の墓】
しばらく訪れていない崖中腹の墓を踏査。
▲明治15年の百按司墓(修復前) ▲テー港の崖中腹の墓 ▲左の同墓(墓の前方の石積みが一部残る(左右に家紋?)
▲運天の崖中腹の墓(ブロックで閉じられる) ▲崖中腹に堀抜に遺る家型の墓
▲大井川下流域の堀貫墓 ▲大井川下流域の墓 ▲前面の石積みが壊れている


大宜味村は沖縄本島北部に位置する村する村(ソン)である。1673年に国頭間切からと羽地間切を分割して創設された間切である。当初、田港間切であった。番所が大宜味村に移動した時(1731年)に、大宜味間切と改称される。その後に塩屋村に移る。明治44年に塩屋から役場を字大宜味(現在地)に移動する。
大宜味村は現在3000人余の小さな村(ソン)である。そこに17の字(かつてのムラ)がある。
①田嘉里 ②謝名城 ③喜如嘉 ④饒波
⑤大兼久 ⑥大宜味 ⑦根路銘 ⑧上原
⑨塩屋 ⑩屋古 ⑪田港 ⑫押川 ⑬大保
⑭白浜 ⑮江洲 ⑯宮城 ⑰津波
大宜味村に根謝銘グスク(上城)というグスクがあり、そこは大宜味間切が分割する以前の国頭間切(地方)の中心となった場所である。そのグスクの周辺に位置していた六つの村(ムラ)について、詳細に触れる。
小規模の村(ムラ)であるが、そこからどのような地域の文化をみることができるか。それを拾ってみることにする。
主な参考文献
・大宜味村史
・「なきじん研究」(15号)
・「大宜味村ふるさと発見ガイド」

【大宜味村謝名城のウンガミ】(ノロ管轄を含めた村を考えるべき)
島袋源七氏の『山原の土俗』(大正14年)から大宜味村謝名城のウンガミの流れを詳細に記録されているので参照することに。今では簡略化されているので、ウンガミの全体の流れを押さえる必要あり。根謝銘グスク周辺の謝名城と田嘉里だけでなく、喜如嘉も含めてみるべきである。
・毎年旧七月廿日後の亥の日に行われる。
・参加者 田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味(神人数10人参加)
[1日目](ウタカビ、又はウングマイ)
・大祝女および若祝女はピラモト神を連れて喜如嘉の根神の家へ(白装束で垂神で祈願)
ハンサガ(神人になる人の就任式:一夜を過ごす)
・他の神人は朝グスクの神アシアゲに集まり祈願(朝ヌブイ) 遊びピラモト神(山の神)は神踊りの練習。
[2日目](儀式の当日)
・朝はグスク及び根謝銘の神人は籠を用意して喜如嘉のウングマイの神人を迎えに行く。
・神人は駕籠に乗りグスクの祝女殿内へ。むかしは馬や駕籠で。(当時は徒歩で)
・祝女殿内に集まった神人はすべて白衣、マンサギ(鉢巻)を頭に結び六尺の弓と矢を持ち、片手に赤い団扇を持って、
太鼓を打ちながら行列して神アシャギに向う。(昔は駕籠に乗ったらしい)
・途中火の神を祭った祠あり(ウドゥンニーズとトゥンチニーズか) 二ヶ所で祈願をして神アシャゲへ。
・神アシャギに到着すると神人は各自定められた場所に着席する。
(祝女を上座に若祝女・年神・ウチ神・ビラモトゥ・遊ビラモトゥなどの神人が(24人)が順に並ぶ。他の神人は庭に坐る)
・氏子は各字交じってアシャゲ前のクバが茂った拝所の左右に着席し、各自酒肴を供しして氏神をまつる。
・アシャギに向って左端に冬瓜で作った猪を据え、右端に槍と弓を立てておく。
・祝女は時刻をみはからって祈願を始める。祈願が終わると全部庭に出て定められた場所に着坐する。
・喜如嘉でウングマイした神人を上座に迎え、城及び根謝銘の遊びビラモトゥ神は神人の真中に出て神踊りをする。
・1回目の神踊りは遊びビラモトゥ8名が円陣を作り両手を広げ左回りをしながら両手をあげたり下げたりする。
「ウンークイ、ウンークイ」を唱えながら三回ほど繰り返す。
・2回目はその場に円陣を作り一人は太鼓を打ち七名は弓を持って用意をする。
太鼓がなると同時に七名は弓を持って用意をする。太鼓がなると同時に右上に弓を捧げ右に一歩進み、
左に捧げて一歩左に寄り、繰り返す。三回まわって終わる。
・3回目 その場で衣装をかえる。赤地の神衣装、白衣装、黄色の衣装を来て各自頭にハーブイ(クロツグ)を被る。
右手に弓、左手に矢を持ち、ウムイを唄うと同時に右に回り両手を上下させて舞う。遊びビラモトゥ神の一人が
音頭ををとり太鼓を鳴らしてそれに和する。三回回りながら踊って終わる。
平成13年8月27日(旧暦7月10日)沖縄県国頭村安田をゆく。天気は晴。今回の安田ゆきは突然の決定であった。旧暦7月10日最初の亥の日に安田でシヌグが行われるという。その日は今帰仁村の古宇利島でも海神祭(ウンジャミ)が行われる。国頭村の安波・安田・楚州・奥・辺戸ではシニグと海神祭が隔年交互に行われている。安田では今年(平成13年)がシヌグの当たり年。来年(平成14年)が海神祭の行われる年である。シニグと海神祭が隔年交互に行われている。私はそのことに興味と関心をひく。というのは、山原各地で行われているシニグや海神祭や大折目(ウプユミ)は、少なくとも三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか?そんな仮説をもっているからである(すでに、神行事が融合していると説かれている)。
その痕跡が国頭村の安田や安波のシニグと海神祭に可視的な姿として今に伝えているにちがいないと考えている。それは近世以降の姿かもしれないが、古くは「琉球国の支配形態」にムラとして組み込まれる以前の姿が陸の孤島と言われた安田や安波の祭祀に延々と遺している可能性がありはしないか。つまり支配者と被支配者の関係以前のムラの人々と国ではなく、人々と自然との関わりが、祈りとして形に残っているのではないか。15世紀にはムラが琉球王国に組み込まれてしまうのであるが、祭祀の中に共同体の中で人として生活が始まった時の源初的な姿が引き継がれているのではないか。
また、安田のシニグに可視的な過去の姿として残しているのではないか。場所・所作・衣装・神人・供え物・唄などから人々の祈り、あるいは神々ヘの祈りとしてとらえていくことができれば考えている。安田のシニグの山や海に向かっての祈り・海や川での祓ぎ・旧家跡での火神・小枝でのお祓い・扮装することの意味など。
安田のシヌグを通して、人々が住むマクやマキヨと呼ばれる生活空間が形成され、それがムラとしてまとまった時、さらに国の支配権力が及ぶようになったとき、祭祀や人々の祈りの姿に、どうが現在に継承されてきたのか。さらに、安田のシヌグに今帰仁村古宇利島の海神祭と重ね合わせたときどうなるだろうか。あるいは来年(平成14年)に行われる海神祭はどうだろうか。
これまで古字利の海神祭と関わり、祭祀の調査や分析をしていく過程で、古宇利の海神祭の中に山・農耕・海の要素を見ることができた。結論めいたことを言えば山の神、農耕の神、そして海の神への所作があり、少なくとも山・農耕・海の三つの祭祀が一つにまとめられた、あるいはまとまっていった。それは国という仕組み、特に支配する側と支配される側、貢(ミカナイ・租税)を取る側と搾取される方の関係が祭祀に見えるのである。そのことをシニグや海神祭から解き明かしてみたい。
(平成13年9月1日シヌグの補足調査に臨んだ。雨のち曇であった。主な目的は
シヌグの日に参与観察ができなかったメーバ・ササの山、さらにシヌグの流れ
に沿って場所や所作などの確認と追体験にあった。なお、この調査には沖国
大の大学院生の協力がありました。感謝))
・.安田は三つのマク・マキョからなるムラか
安田は三つの集団(マクやマキョ)の集った集落ではないのか。そのことは今回見た安田のシヌグの山降りにその痕跡をみた思いがする。12時頃ムラの男性や参加者達が三々五々とササ・メーバ・ヤマナスの三つの山に分かれていく。本来それらの山が三つの集団の各々の御嶽であったとする。合併後もそれぞれの御嶽へ登り、自分たちの神々が山(御獄)から降臨してくるとの発想が根底に流れているのではないか。近世の中頃には安田が行政ムラとして存立しているのであるが、シニグの神降臨の場(三ケ所)に三つのマク・マキョ規模の集団の合併があったことを予測させる。ササ・メーバ・ヤマナスの山の麓にマク・マキョ規模の小さな集落があったと想定するだけでも、棚田を一望したときと同じような琴線が弾かれた思いにかられる。
しよりの御み事 首里(首里王府)
くにかみまきりの 国頭間切
あたのさとぬし[ところ] 安田の里主
この内に四十八つか[た]は この内四八束......
みかないのくち 貢
御ゆるしめされ候
一人おたの大や(こ)に 安田の大屋子
たまわり申[候] 給わり申し候
しよりよりあたの大や[こ]か方ヘまいる 首里より安田の大屋子
萬暦十五年二月十二日
この辞令書は萬暦15(1587)年に首里王府が安田の大屋子に発給したものである。首里王府が国頭間切の安田の地(後の村か)を支配していたことがわかる。首里王府を中心とした国家体制が確立した頃には国頭間切が成立し、その下にムラ(後の村)があり、人々は首里王府に租税を納める関係にあることが伺える。現在行われている安田のシヌグや海神祭は、首里王府が国頭間切の安田に支配権力が及ぶ以前の祭祀形態と、以後の祭祀や折りの源初的な形態を引き出す手がかりとなる史料と位置づけることができそうである。
『琉球国由来記』(1713年)の安田村の御獄はヨリアゲ森(神名、マウサテサクゝモイ御イベ)とある。現在御願原と呼ばれているところが、由来記でいうヨリアゲ森に相当する御獄なのか。共同売店の隣の森をヨリアゲムイと想定しているのもある(『沖縄の祭報一事例と課題』高坂薫編 「安田・安波のシヌグ・ウンジャミ」
317頁)。山登りする三つの山は御獄ではないし、村人達の認識もウタキではない。もう少し調査が必要である。いずれにしてもササは御願原の範囲に含まれる可能性は弱い。
『琉球国由来記』(1713年)でいうヨリアゲ森は集落に寄り添った森、あるいは海から押しあげらた砂地(兼久)の森に名づけられた御獄名に違いない。すれば旧公民館の道を挟んだ古木がはえた森をヨリアゲ森と想定してよさそうである。
ササが部落で古い家系を持つ人々
メーバはその次
ヤマナスは部落東方の新しい家柄の人々
メーバとヤマナスはアギ橋(安田橋)で合流する。そこでムラの女性達が神酒や飲み物などを持って出迎える。橋を渡り、しばらくして左側に入りトンチバルに向かう。ササから隣りてきた一団と合流し、そこから神アサギヘと進む。トンチバルと神アサギで円陣をなし木の枝を振ってお祓いをする。
(画像略)
▲安田のシニグの順路
2.安田の集落の展開
1713年の『琉球国由来記』の安田村は神アシアゲが一軒で、その当時すでに安田が一つの行政村として成立している。マクあるいはマキヨが合併後、安田ムラの中心となった集落は、ササ→神アサギ→集落とつながる軸線を見ることができる。神アサギ内の線香を置く石や線香を立てる方向はササに向いており、ササと神アサギを結ぶ軸線上に集落が発達している。周辺にニードーマやアサギンシーやナハンメーなどの旧家の跡があり、かつての集落の面影が今も残っている。「アサギを円心として、その近くが安田の発祥の地に当たり、明治の初期まで、安田の集落は、そこにかたまっていた」(『国頭村安田のシヌグ考』149頁参照)という。
神アサギは柱が13本あり、軒が低くつくられている。柱の数だけ神人がいるといわれている。神人は神アサギの中で柱を背にして座るが、その場所も決まっているし、神人が何かの都合で参加しない場合は、その柱を神人に見たてて、神酒をあげる仕草をする。



2023年9月02日(土)
各地で行われている祭祀。新聞記事をみていると調査に足を運べないのに頭の中に出てくる。ボツボツ全快しない。
本部町辺名地(本部町立博物館講座用)
【本部町辺名地をゆく】2004年5月25日
辺名地は1665年以前は今帰仁間切の村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)に辺名地村のウタキとして西森(神名:コバヅカサノ御イベ)が登場している。また「年中祭祀」のところに神アシヤゲと根所火神(根神火神)がある。祭祀は瀬底ノロの管轄である。『沖縄島諸祭神祝女女類別表』(明治17年頃)には「辺名地村・大辺名地村二ヶ所村 三ヶ所内 赤平ノ御嶽・神アサギ・御火神所」とある。ここに出てくる大辺名地村は明治36年に辺名地村に統合される。
大辺名地村は祭祀や神アサギなどから辺名地村から分かれ、再び統合したようである。辺名地村の存在は万暦32年(1604)の辞令書に「へなちめさし」(辺名地目差)とあり、へなち村の存在をうかがわせる。
辺名地公民館の周辺はプシマ(大島)と呼ばれ根所火神の祠・神アサギ・辺名地家などの拝所や旧家などがあり、かつて村(ムラ)の中心地であった。神アサギの後方にウタキへの遥拝所なのか、いくつか拝所がつくられている。
辺名地の御嶽(ウタキ)はウタキサンと呼ばれ、何度が移動したようでタキサン・フルウガミ・ナカヌウタキなどが地名として残っている。タキサンへの入口に小さな広場があり「昭和六年建設」「寄進」と刻まれた燈籠?がある。

▲集落の後方の森がタキサン(御嶽) ▲タキサンの中にあるイベ

▲辺名地の神アサギ ▲タキサン入口の燈籠?
本部町辺名地まで足を運んでみた。先日(3月27日)ノートを開いて辺名地を整理してみたのであるが、やはり足で確認して置きたいことがいくつかあった。と同時に10日に初カツオ漁があった。
徳用丸の船主は大浜である(昭和22年に辺名地から分区)ので豊漁祈願などの祭祀は辺名地と一緒に行っている。神アサギの側に豊漁祈願の旗が一本立ててあった。辺名地公民館にいた書記さんに「最近ウガンがあったのですか」と聞いてみると、「初カツオの水揚げがあったのですよ。大浜の漁師さんが立てたのですよ」と(大雨のため画像に収めることができなかった)。
「豊年祭はありますか?」と訪ねると「昔はあったといいますよ。今はやっていませんね。豊年祭の衣装が台風で飛ばされてしまったので、どこか名護?あたりでやっているとか・・・。川に流したという人もいるようです」と。「川に衣装を流したなら復活させんといけませんね。きっと、台風で吹き飛ばされたのでしょう」と半分冗談で答えておいた。
神アサギの隣りの祠には麦が供えられていた。拝所の中には「本部按司・・・」の香炉(三基)、扇、火神、麦が供えられていた(以前は稲も)。神アサギの屋根裏には神酒(カシミキ)をつくる木の樽とポリバケツの容器が置かれていた。
タキサン(御嶽)の側にある湧泉(カー)あり、そのカーも含めて御嶽としているのだろうか。カーに左縄(今はビニールの縄)が何回も張り巡らされている。毎年新しい縄を張っているのであろう。カーの前の香炉(ブロック)はイビとみたてている?

▲本部町辺名地の神アサギ(雨の日) ▲辺名地のタキサンの側のカー

▲辺名地神アサギの側の拝所の内部 ▲供えられた扇と麦穂
2011年7月15日(金)
企画展(平成23年度)―ノロ制度の終焉―
・期間 10月~
・会場 歴史文化センター講堂
展示概要(案)
・ノロ制度の概要
・琉球王国の版図とノロ制度(16世紀)(全体図)(奄美~八重山)
・『琉球国由来記』(1713年)のノロと管轄村(ムラ)(全体図)
・今帰仁阿応理屋恵の(祠・扁額・勾玉・草履・水晶玉・写真・戦前の記録など)
・ノロ関係辞令書と遺品
・沖縄本島北部のノロ家(ノロドゥンチ跡)
・ノロ制の廃止へ(明治以降の変遷)
・ノロ継承に関わる史料(中城ノロ、玉城ノロ、塩屋ノロ、その他)
・ノロ家の位牌と墓
・ノロが関わる祭祀
・ノロ家の遺品(勾玉・カンザシ・衣装など)
・ノロが関わる祭祀(与那・中城・汀間・具志堅など)

【羽地朝秀の三十三君の廃止?】
首里王府の神女組織
名嘉家のノロ遺品
(略)
【社寺禄処分の経緯】
・明治12年4月琉球藩が廃止され沖縄県となる。
・社寺の外に琉球には御嶽の拝所が各村にある。
・ノロクモイと女官(300名近い)がいる。
・ノロクモイは王府から役俸が給与されている。
・琉球独自の宗教形態をなしている。
・御嶽信仰は人々の精神的拠り所となっている。
・御嶽の拝所は直接地元の人々の対象となっている。
・ノロをはじめ神人は祭祀の指導者となっている。
・ノロは王府から役地としてノロクモイ地を給与されている。
・ノロクモイ地からの収益が神人の役俸となっている。
・廃藩置県により旧制度の禄制(知行・家録)の廃止へ
・明治12年10月6日有禄者処分方に関し、士族へこれまでの家禄高□米を更に賜給されたい旨の
伺いをする(内務卿伊藤博文、大蔵卿大隈重信へ鍋島県令から)。
・明治13年になっても指令がないため、明治13年5月、先の士族禄高に加えて社寺録も加えて開申。
・明治13年8月3日内・蔵両卿から指令
(国と県とのやりとりがあるが略)
・明治13年8月25日の上伸に対して、ノロ以下の役俸は旧藩の現収高により給与すべき旨
の指令(内・蔵卿から:明治14年9月12日)
・・・純然たる社寺禄なるものに非す因ては聞得大君始社寺及ノロクモイ以下の・・・明治13年分
より更に石代渡に換へ同年分より・・・向ふ五カ年間据置六ケ年目以降五ヶ年間はその元額に
半減にして逓減給与に・・・・
一、各ノロクモイ以下の役俸は即今之現収高に依拠して石代給与するものとす
一、恩納ノロクモイ始十三人之分現収高既に減殺せし今日に在れては更に廃給のものとして
制外に附すべきこと
・社寺禄は明治18年から逓減し、爾後五ヶ年で減す制を採用する。
・明治16年岩村通俊処分官の赴任により、すべてを旧慣に戻す方針に変わる。
・士族の禄高に対して五ヶ年金禄据え置き、その後国債証書の交付により一時処分の法は中止となり、
金禄のまま据え置くことになる。
・社寺禄の逓減処分法に対しても、旧慣に戻し、社寺禄となる。
・奈良原繁知事になると、その方針を変更し政府の原案であった国債証券による一時処分が建議される。
・「旧慣地方制度」(明治26年)
ノロクモイ交代の節は願書番毎方へ回送の事
ノロクモイ地(沖縄旧慣地割) 県史21 155
有税・旧藩租税法の通り・売買の禁止・耕作地(自作叶掛・自作j浮掛、百姓地に同じ)・耕作の種類
(米の外20種、米麦、粟など)地割の慣例なし・金融の抵当禁止など)
是は郷村の吏員及神官等の役地にして置県以後該吏員神官等は別に定める処の役俸を以て支給せ
らると同時に該役の関係を離れ其の耕作人の作地となりしこと旧地頭の如し
・明治39年7月3日奈良原知事から大蔵大臣坂谷芳郎、内務大臣原敬に提出される「沖縄県金禄処分法案」
・明治36年「沖縄土地整理法」
第二条 村の百姓地、地頭地、オエカ地、ノロクモイ地、上納田、キナワ畑にして其の村に於いて
地割せる土地は地割により其の配当を受くべき者の所有とす。但し其の配当を受くべき者多数の協議
に依り、此の法律施行の日より一ヶ年以内に地割替えを為すことを得
第九条 ノロクモチ地にして村持ちとならざるものはノロクモイとして、占有を得たる者は又は其の
権利を承継したる者の所有とすその中に「沖縄県社寺禄処分法案」)。
・明治43年に「沖縄県諸禄処分法」が発令される。
【ノロクモイ地の処分方法】(明治31年)の方針
(1)村に於いて有するノロクモイ地
(イ)旧藩来有するもの
(A)地割せるもの
(B)浮掛せるもの
(C)売買交換質入せるもの
右百姓地の例に依り処分す
(ロ)藩置県後村に於いて有するもの
(A)君南風(のろの首位に居るもの)ノロクモイは置県の後、上納物高きより村に返し村に於い
て地割せるもの(久米島)右百姓地同様処分す
(B)置県後ノロに於いてノロクモイ地耕作し、能はざるより村へ返し、村はノロの食料に相当の
地所を永久に与え其の貢租公費を村に於いて負担せるもの
右ノロに与えたる地はノロ所有となし地は百姓地同様の例に係る
(2)旧藩来ノロの有するもの
(イ)ノロの世襲のもの
右ノロの所有とす
(ロ)ノロの後任者はノロ家一族の中よりユタの占に依り定めたるもの
右ノロ一族の共有とす
(ハ)ノロが出嫁するときはノロ地の収益の一部は自己に収入し、他は本家に収入し、ノロ職は依
然之を襲ひ死亡のときは本家へ復帰せるもの(佐敷間切)
(ニ)ノロ地を売買質入叶掛せるもの
右は百姓地同様の例に依り処分す
(3)阿応理恵按司の有する阿応理恵地はノロ地同様処分す(今帰仁間切)
※土地処分法が徹底していず、また周知されていなかったためノロ地の継承に様々な
問題を起こしている。
【県社・村社建設理由書】(明治43年)、
(工事中)
【神社建立とノロクモイ】(『琉球宗教史の研究』より)
・明治末に神社と寺院の改革はなされる。御嶽拝所、関連する女神官の禄制の改革はなされる。
・御嶽拝所は直接地元と信仰として直接結びついたものであった。
・御嶽拝所が低級なものとして廃止することはきなかった。神社にするには御嶽拝所の本質的な
究明が必要。
・御嶽拝所が神社と同一の性質のものであるかどうか、当時疑問とされている。
・御嶽拝所を村落の神社とするには数量が余りにも多い。
・御嶽拝所の形態があまりにも原始的で神社として整備するには困難であった。
・女神官の処分も不可能で禄制改革までは行われた。
・往々正式の神社にまで引きなおし、彼女達(のろくもい)も正規の資格を持つ神職に更迭していく方針。
・諸禄処分によるノロ・大阿母等の国債証券は、拝所の維持管理資金とし、神社引き直す際の備えとした。
・国債証券と端数の現金の預入通帳は区町村長が保管、利子のみノロに祭祀及び維持保存費とし
て手渡す。
・明治末に御嶽拝所並びに女神官の処分の方向を明示する。
・ノロの相続はこれまで通り、旧慣により知事の認可を得て継承。(以下に例)
ノロクモイ承継願
島尻郡兼城村字照屋壱番地
照屋ノロクモイ前役金城カメ三女
承継人 金城ヨシ 明治拾参年八月五日
右ハ母金城カメ死亡ニ依リ照屋ノロクモイニ承継為致度候条何卒御認可相成度此段奉願候也
大正二年二月十三日
右戸主
願出人 金城 亀 印
島尻郡兼城村字照屋百四番地
親戚 金城 次郎 印
仝郡兼城村字照屋五拾五番地
親戚 金城 徳慶 印
仝郡兼城村長
大城 虎造 印
仝郡兼城村字照屋区長
金城 牛 印
沖縄県知事日比重明 殿
(工事中)
恩納間切は1673年に金武間切と読谷山間切の一部をとって創設された間切である。現在の恩納村である。ノロと関わる管轄村や祭祀を見ていく場合、間切時代まで戻した形で考える必要がるため、ここでは恩納間切のとしている。『琉球国由来記』(1713年)に登場するノロは、恩納巫(ノロ)・真栄田巫・山田巫・安富祖巫・名嘉真巫である。ノロは巫や祝女やのろこもいなど、表記はいくつも出てくる。ここではノロあるいはヌルと表記する。のろくもいと記すこともある。ノロは複数の村(ムラ)の祭祀を管轄している。
・恩納ノロ・・・・・・・恩納村
・真栄田ノロ・・・・・真栄田村・(塩屋村)
・山田ノロ・・・・・・・山田(古読谷山)村・富着村
・安富祖ノロ・・・・・安富祖村
・名嘉真ノロ・・・・・名嘉真村
事例―恩納のろくもい
恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書(1584年)、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。
しよりの御ミ事 首里の御見事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのおろハ
もとののろのくわ □□□□□
一人まかとうに 一人□□□□に
たまわり申候 たまわり申候
万暦十二年五月十二日 順治十五年七月廿八日
明治36年頃の恩納ノロのノロ地(田畑など)は以下の通りである(『恩納村誌』)。
・畑(赤間原)1200坪 ・田(屋嘉下り口)700坪 ・畑(先原)1200坪 ・田(ウチノウラ)400坪
・田(伊場)750坪 ・田(当袋)600坪 その他