・恩納村の位置図
・恩納村のムラ・シマ(金武間切から)
・恩納村のムラ・シマ(読谷山間切から)
・海からみた恩納のムラ・シマ
・恩納村恩納(同村)
・恩納の集落移動
・金武間切の頃の恩納のろ
・現集落と二人の掟
・神アサギと殿(トゥン)を持つ地域
・恩納ムラ内の旧宿道と新宿道
・徐葆光と王文治の扁額
・尚敬王・蔡温の北山巡行
・恩納ナビーの琉歌(恩納岳)
・ペリー一行が遺した恩納間切番所(公舘)
・昭和9年の恩納での献穀田御田植式
・恩納間切番所付近の様子
・恩納ノロドゥンチ
・恩納の神アサギ(茅葺き)
・カンジャガー
・恩納ナビーの歌碑(昭和4年建立)
①ハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ・安次嶺神ハサギ)
【シマウイミ】
旧暦8月11日(9月8日)に行われる。拝む場所はハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)とフプハサギ(親泊神ハサギ)、獅子小屋のあるウッチハタイでウガンをし、獅子はプミチ(大道:マーウィ)に出て、獅子舞と棒の舞がある。この日はヨーハビで、災難払いの日である。今年は豊年祭のシクミの日とシマウイミが重なっている。奉納踊と棒術が今帰仁ノロ家とオーレーウドゥン前で行われた。
シマウイミのハサギンクヮーとフプハサギでのウガンは終っていたので画像はなし。
▲今泊の獅子(一頭)
▲ハサギンクヮー(安次嶺神ハサギ) ▲ウッチハタイの獅子小屋
②オーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)
③シルバマ(白浜)
1609年の薩摩軍の琉球侵攻と親泊。
④津屋口墓(アカン墓)(新聞記事)
壊された開かん墓(沖縄タイムス:1964.12.29)
三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。
墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。
墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。
新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。
新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。
あかなかった古墳(琉球新報:1964.12.30)
北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。
区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。
この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。
この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。
この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。
▲津屋口墓(アカン墓) ▲墳墓記(1678年)
⑤クビリガーと鍛冶屋跡のガマ
ガマのある一帯は親泊原のチェーグチと呼ばれる。クビリガーは掘り抜きの井戸のことで、ニークンガーの河口近くのクビリに因んだ名称とみられる。井戸は今でも残っている。ガマの中に鍛冶で使う鞴があり、そこで鍛冶屋をした一族がウガンをしている。鍛冶の跡に、漆喰をつくる石焼場として使われている。近くにアガリハンジェクークヤー(屋号)があり、そこがクビリの鍛冶屋跡のウガンをしているかは未確認。ハンゼェークヤーには鍛冶と関わる図像と鍛冶の道具が置かれている。かつて鍛冶屋をしていた家だとわかる。
幔幕(マンマク:長い幕)、瑞雲、月、太陽、三面六臂(さんめんろっぴ:三つの顔と六つの腕)の鍛冶神、女性(巫女服のような白い服に赤い袴姿:ハカマ)、男性(大和風の着物姿)、上半身裸の男性が三人(青の短パンを履いている)炭俵、箱鞴、台座、水入れ 柱 二段構造の青い幔幕(マンマク)、その下には白い柱が両脇に画面奥に向けて四本ずつ並ぶ。画面左に太陽と白い瑞雲(ズイウン:いいくも)、右に月と黄色い瑞雲が浮かぶ。その下中央、柱の間に立つ様に三面六臂の髪を逆立てた鍛冶神が(黄色い衣、左右一対で合掌、右手上に旗、右手下に斧、左手上に槍、左手下に剣を持ち、青い領巾(ヒレ)をつけている)箱鞴の上におり、左側に若い女性(鞴差し)、右側に炭俵三つ、箱鞴下には火床、その下に金床(カナトコ)、右側に金槌(カナヅチ)を持ち髪の逆立った男性が上半身裸で三人(前打)、反対側には、髭の男性が横座を務める。男の足下には鍛錬済みの刀が二本と鎌が二つ、鉄鉗(カナハシ)が三つ、替えの金床が置いてある。
▲鍛冶屋跡のガマ(プーチ:鞴) ▲アガリハンジェクヤーの鍛冶神
⑥プーミチ(馬場跡)とフプハサギ(親泊ハサギ)
▲プーミチ(馬場跡) ▲フプハサギ(親泊ハサギ)
【今泊のグスクウイミ】
旧暦8月10日(9月7日)に行われる。行われる場所は今帰仁グスク内の神ハサギ跡である。参加者のノロ(代理)と区長、書記がでる。ノロは神衣装を持参していたが、雨が降り出したので羽織ることはしなかった。勾玉と簪の入った黒い箱を持参し(ノロドゥンチの仲尾次清治氏)、神ハサギ跡の香炉の向こう側に置いたウガンをした。拝む場所は城内の神ハサギ跡のみである。
香炉の前にゴザを敷いて、そこでウガンをする。供えるものは線香と神酒(泡盛)であった。お菓子も準備してあった。そこでの祈りはムラや子孫の繁栄とユガフウ(世果報)である。
▲グスクウイミ(城内のハサギ跡) ▲今帰仁ノロの勾玉と簪
2011(平成23)年9月2日(金) 丑之介
やっと、やっと、田港・屋古・塩屋の報告ができまする。
今年のウンジャミまでには間にあわしたかったのですが~(^^;)。スイマセン・・・・。
それでは始めまーす!
【屋古の神アサギとその周辺】
▲屋古の神アサギ
屋古ムラの神アサギです。
コンクリート製ですが、赤瓦でシンプルな、神アサギらしい建物です。
奥の柱に当たる部分がL型になっていますが、柱の数は8本と見ます。
アサギの正面と奥の床の端の部分が僅かに高く段差が作られていますが、これはたもと木を模したものでしょう。
このアサギにも香炉はありません。
奥に小さく見えるのが、クサティガミ(後述)の祠です。
▲神アサギの天井部分
神アサギの天井部分には木の枝がた~くさん保管されています。
『塩屋・ウンガミ』を見ると、屋古アサギの前に木の棒を組んで芭蕉の葉を乗せた軒が作られますが、そのための棒のように見えます。
ウンガミの日、アサギの前には芭蕉の軒とは別に、クムー(クモの巣の意)と呼ばれる、藁で編んだ大きな日よけネットが張られます。
さて『塩屋・ウンガミ』には「クムーの欠落の部分根路銘のタムトになっている。元は根路銘も一緒であったが、明治の初期の頃別々になったといわれる」とあります。
「クムーの欠落部分」というのが、現場を見ていないのでよく分からないのですが、かつて参加していた根路銘の神人が今では海神祭に参加していないことが知れます。
その理由が『塩屋・ウンガミ』に元塩屋区長さんからの聞き書きとして掲載されています。簡単に経緯をまとめると・・・
「直接の原因は角力の審判の事らしい。(明治40年代頃)地元の出身ではない役人が、角力の審判の判定に口を出し、根路銘の肩を持った。その時たまたま見物に来ていた源河の人がその役人に抗議をし、塩屋の人達も一緒になって大騒ぎとなった。役人は逃げ出して民家に隠れていたが、塩屋の青年たちに見つかり、手足をしばられ部落中ひきずり回されたらしい。それ以来、両部落の仲がますます悪くなり、根路銘はウンガミ行事に参加しなくなったとのことです。はりゅう船競漕は根路銘の代わりに屋古が参加するようになったとのことです」
・・・まあ! そんな事情があったなんて!
恐らく角力事件に至るまでの間、様々なすれ違いや誤解が塩屋―根路銘の間に積み重なっていたのでしょうね。距離も離れているしね~。
番所の移動(田港→大宜味→塩屋)も心情的にからんでいたかも知れないし・・・。
それにしても、神行事から脱退するなんて・・・明治も後半になって、ノロ管轄もゆるくなっているとは言え・・・スッゲー度胸!
▲クサティガミの祠
海神祭の日、御馳走をこしらえて神人たちをお迎えする場所だそうです。
またウガンマールの二日目、ヤーサグイの行事のとき、ここで豊作と村人の健康願いが行なわれます。
画像では小さくて分かりにくいのですが、塩の袋が三つ、デーンとお供えされています。
▲屋古アサギの側の井戸 ▲屋古のハーリー船
屋古のアサギの側には井戸があり、葉っぱやゴミなどがはいらないように(子供が落っこちないように?)、金網でふさいでいます。
またアサギの下にはハーリー船が保管されています。
田港・塩屋の海神祭から根路銘が撤退した事情は上記しましたが、その根路銘のハーリー船の代わりに屋古が参加するようになったとのことです。
上の船が小さい20人乗りのフギバンで、青年たちが乗るもの。下の大きいのは40人乗りのウフバーリーで成人が乗ります。
▲ハーリーガミの祠
神アサギに向かって右手の奥に、小さな祠があるのに気付きました。
これはハーリーガミの祠で、ハーリーガミとはハーリーの無事を祈願する神役です。
屋古のアサギの前に張られたクムーの下に、田港・塩屋・屋古の神人たちが座りますが、このときアシビガミ、ファーリー(ハーリー)ガミ、スリガミに分かれて座ります。
アシビガミはハーブイをかぶり、弓を持ってクムーの中央の太い柱を7回廻りますが、これは古宇利の海神祭にも見られる所作ですね。
屋古アサギを出た神人の一行はここから二手に分かれます。
ハーリーガミはフルガンサで待機しているハーリー船に乗り込みます。『塩屋・ウンガミ』の当時は各々のハーリーにハーリーガミが2~3人乗りました。
ノロの一行の方は青年浜(シナバ)に向かい、途中ハーリーの出発を見届け、さらにナガリ(兼久浜)に向かいます。
▲コンクリートのお家だけど・・・
ハーリーガミの祠の近くにあったおうちです。
コンクリート造り、二階建ての家屋ですが、昭和30年代~40年代初め頃の建築ではないでしょうか?・・・・というのも、コンクリート製だけど、お風呂は薪でお湯を沸かすように作られているからです。
建物全体を見ると、窓の配置が住居にしてはちょっと不自然な感じ・・・人は住んでいるようなのですが・・・・。なかなかに不思議な建物です。
【塩屋湾~塩屋の神アサギ】
▲塩屋湾~塩屋から対岸をのぞむ
写真は塩屋湾から白浜辺りを見たところです。白浜は戦前までは渡野喜屋と呼ばれていました。
塩屋大橋ができる以前(昭和38年以前)、津波から北上するには津波の部落から塩屋湾岸7㎞を迂回するか、近道したいなら白浜からお金を払って船で塩屋に渡るかの方法がありました。白浜には宿屋が数軒あったそうです。
【塩屋の神アサギ】
▲塩屋の神アサギ
柱の数は6本、香炉はありません。右手に見える建物は塩屋小学校です。
さて、屋古のアサギを出たノロの一行は、そのままナガリ(兼久浜)に向かいます。塩屋の神アサギでの御願について、『塩屋・ウンガミ』に記述はありません。「塩屋の」海神祭と言うのに、塩屋での祭祀がないのは不思議です。ナゼダロウ・・・???
もしかしたら、御願バーリーがスタートして、村人はみ~~んな海でハーリー船が来るのを太鼓を打ち鳴らして待っているので、神アサギで待機する余裕がなかったのかも・・・?
ただ、隔年ごとのウドゥイ(踊り)マールのときは、塩屋のアサギマー(アサギ庭)に字塩屋の塩屋(サー)、大川(ウッカー)、兼久(ハニク)の三つの集落の女性のみが参加して踊りが披露されます。この時、塩屋の神人たちは神アサギの中で白い神衣装を着けて、踊りを見学します・・・・塩屋の神様のまなざしで♪
女性だけのウドゥイは三味線は用いず太鼓だけで踊り、午後2時から始まり6時頃までには終了するそうです。女性は夜遊びできないのね~。
屋古や田港では、その日神人とムラの人が集まってウフェーヤーやアサギマーで賑やかに「遊び」が行なわれるそうです。
【森川之子祠】
▲森川之子祠 ▲祠の中
「森川之子祠」と書いて「むいかーのしーほこら」と読むのじゃよ。
森川之子というのは、森川さんちの子供、という意味ではありませんよ。
「子(シー)」は簡単に言いますと、家柄の古い士族(里之子家と筑登之家)が15歳で元服してから叙位されるまで(だいたい25歳くらいまで)の無位の期間の称号をいいます。ですから「森川之子」は、士族である森川家の、まだ叙位を受けていない男子、のことです。
て、森川之子は実在の人物ではなく、組踊「花売りの縁(はなういぬいん)」の主人公です。どのようなストーリーかと申しますと
森川の子は5、6年不幸続きのため、妻子を首里に置いて、遠く大宜味間切津波村へ下り、塩屋田港で塩炊きをするが、生活はうまくゆかず、花売りに身をやつしている。
そこへ、12,3年ぶりに夫をさがしに息子を連れた妻が訪れ、一緒に首里に戻っていく・・・。
・・・という、夫婦・親子の人情を描いた組踊です。
森川之子祠は、この森川之子を塩屋の製塩業の祖とし、祠の中には塩炊きに使ったとされる釜石を祀っています。古宇利のお宮や、我部の故地にある塩屋の御嶽も、塩炊きの石を祀っていましたね。
塩屋の隣の津波にも、森川之子の祠があるそうです。
森川之子祠の左隣には、屋古のナーカ門中のお宮がありますが、ナーカ門中は塩炊きの責任者を出す一門のようです。
鳥居の奥に見える建物は、塩屋小学校です。
【塩屋ウフンチャ墓】
▲塩屋ウフンチャ墓
画像では分かりにくいのですが、右手の木の側に腰に手を当てて立っているのは、心霊写真ではなく、うちのお館さまです、念のため。
お館さまの向かいにあるのが、塩屋のムラ墓であるウフンチャ墓です。
左手の大きな木はハスノハギリという木で、この木の前に説明版がありましたので、ウフンチャ墓について引用させてくださいね。
「昭和26年に大宜味村に火葬場ができる以前・・・塩屋区内のハスノハギリの周辺は、墓地の場として区民に利用されていたそうです。
埋葬方法は、亡くなった人を棺に入れ、満2年ウフンチャ墓の中に放置し、その後、ハスハギリの樹の下の隅にムシロを敷き、各部の骨をきれいに洗い(洗骨)、箱(紙の箱)に再び収めてハスノハギリの前にあるウフンチャ墓に納骨していたそうです。
また当時は幼少期や大病で亡くなった人の骨は、ウフンチャ墓への納骨が許されておらず、ハスノハギリの樹の下に埋葬していました。『お墓に入れてあげることができないけど、この樹の陰で我慢してね』という当時の人々の死者への想いが込められていたそうです。
当時からこの風習を知る土地の人々は、ウヤファーフジ(ご先祖)や魔物が出るのではないかということで、現在でも当時の風習を知る人たちは、このハスノハギリ付近には近付かないようにしているそうです」
・・・ということで、ここは塩屋の人たちにとってはコワイところなのですね。
共同墓がいっぱいになり、一族で墓を造る門中墓が出てくるようになり、最近はほとんど個人墓になってきました。
ウフンチャ墓周辺にはお墓がたくさんあるのですが、左手奥に「故陸軍上等兵 勲八等功七級(?)嶋袋巳之吉之墓 大正十一年十二月建之字有志並塩屋班」の石碑のある墓があります。
【兼久浜(ナガリ)】
▲海神祭最後の場面の兼久浜(ナガリ)
あちこち寄り道をしたので、海神祭のことがスッカリ頭から抜け落ちた方もいらっしゃるかと思いますが、ハーリー競争は海神祭のシメではありません。
屋古のアサギを出たヌルの一行は、ここ、塩屋の兼久浜にやってきます。
ここはナガリといい、その名の通り、ノロを先頭として田港からスタートし、屋古・塩屋を通ってきた神人の一行が、各々のムラの汚れを海へと流す場所です。
行列の先頭を行くシマンホーという役職名の男性が、4本のマタザイを浜に立て、ノロや神人、またその一門の方々が海に向かって御願をします。
このとき古宇利の方向に向いて御願をするのですが、神人たちは「古宇利ではなくニライカナイを向いている」という意識のようです。
しかし、同じ日、ほぼ同じ時刻に行なわれている古宇利の海神祭では、シラサでの船漕ぎの動作のとき、「塩屋を向いている」という認識でした。「昔、古宇利の神人の姉妹が塩屋に嫁いだので、塩屋とはきょうだいだから、合図をしている」とのお話でした。
古宇利の海神祭における塩屋への親近性、古宇利の人類発祥伝説の存在、また古宇利島の先にある北山グスクを考えたとき、漠然とした「ニライカナイ」という概念よりも、素直に「古宇利を向いている」と考えた方が祭祀の輪郭がハッキリするような気がするのですが・・・。
さて、ナガリでの御願がすむと、シマンホーが西の方(古宇利の方向)に向いて、マタザイで海水をかきあげてイルカを補獲する所作を行ないます。これも古宇利の海神祭のピローシでの場面と一緒です。
【神 門】
▲神門を上る参加者のみなさん
神門はハーミンジョウと言います。
ついにムラ・シマ講座で天国への門を訪れることができました! 神様に至る階段はけっこうキツかった。やはり天国に行くには普段から足腰をきたえておかないと、途中でリタイヤすることになりそうですな。
▲ハーミンジョーの祠
ハーミンジョーは塩屋の拝所で、塩屋の年中祭祀は根神で起こして、ハーミンジョウで祈願するのだそうです。
祠には三つの石が祀ってあり、それぞれ勢頭屋(スリヤー)、仲屋(ナカヤー)、根神屋(ニガミヤー)が祀る石で、旅の安全祈願、旅から無事に帰ったときのお礼の御願などをしたそうです。
この場所をハーミンジョーと呼ぶのは、恐らくこの丘の下にあるウフンチャ墓と関係がありそうです。
塩屋の旧家の拝所でもありますが、丘の下にはムラ墓があり、シマの人達が怖がって近付かなかった場所でした。そのため、この高い場所はグソー(あの世)への入口、ハーミンジョーと呼んだのではないでしょうか。
▲展望台と「花売りの縁」の歌碑 ▲琉歌の大家、山内先生
神様の門を登りきると、塩屋湾を見渡せるパラダイスビューの世界!
天国の一歩手前に「花売りの縁」の歌碑があり、
「宵もあかつきも なれしおもかげの
立たん日やないさめ 塩屋のけむり」
の歌が記されています。
歌の解説を、我らが師匠、山内範正先生に解説を頂きました。
「宵も明け方も、慣れ親しんだあの人の面影が立たない日はありません。
ちょうど塩屋のムラで塩炊きをする煙が、朝な夕な立たない日がないように」
神様への階段で息切れした丑は、山内先生の解説を聞き逃した不心得者ですが、この歌は森川之子が、妻を思って歌った歌・・・なのかしら? それとも、妻乙樽が塩屋を訪れ、細くたなびく塩炊きの煙を見て詠んだものなのでしょうか?
うーむ。これは次までの宿題と致しましょう。
それでは最後に、ハーミンジョーから見た塩屋の御嶽です。
▲塩屋の御嶽
ハーミンジョーからリュウゼツランの茎に飛び乗って、ビューンと飛んで行けそうですね~。
ということで、9月のムラ・シマ講座の前にやっとアップすることができました。
めでたし、めでたし~(ヤレヤレ)。
2011(平成23)年8月10日(水) 天気:晴れ(石野:まとめ)(ゆら~ゆらへ)
毎日暑い暑いと思っていたのに、お盆が近づいて立秋も過ぎると、朝晩の空気がガラッと変わりましたね~。
秋の名物「ケーンケーンゼミ」(大島ゼミ)も鳴き始めています。
しかも夏休みももう中盤!
毎日毎日、お腹をすかせた中くらいの子豚にご飯を作ってあげねばなりません。
給食の有難味をひしひしと感じる夏休み(秋休み・冬休み・春休み)。
この有難味を、世のおとーさんたちにも分けてあげたい今日この頃の丑です。
ということで、遅ればせながら2011年7月9日(土曜日)に行なわれましたムラ・シマ講座の報告を致します。
今回の調査場所は、大宜味村字田港・屋古・塩屋の三つのムラ・シマです。
では田港ムラについて簡単に説明します。
【田港ムラ】
田港ムラは北山落城のあと、北山の落ち武者が隠れたところとも言われる集落です。
田港ムラがある田港間切は、1673年、国頭間切の渡野喜屋・田港・屋古・前田・城・屋嘉比・塩屋・根路銘・饒波・喜如嘉・根謝銘の11カ村と、羽地間切の平南・津波の二つのムラ、計13カムラで創設されました。
番所は主村である田港ムラに設置されます。
根謝銘グスクは、田港間切の創設によって、国頭間切から田港間切への管轄となりました。
屋古と前田ムラが合併して、屋古前田ムラとなりますが、1713年の『琉球国由来記』を見ると、田港ノロ火ヌ神は屋古前田ムラの所在となっており、祭祀の内訳に屋古前田村百姓も、田港村百姓も記述されていることから、どうもこの三つのムラは共同体的なムラだということがおぼろげながら見えてきます。
さらに時期ははっきりしませんが、大宜味ムラ・親田ムラ・見里ムラの三つのムラが新設され、田港間切は計15ケムラとなります。
1600年代の後半に間切の名称の変更があり、大宜味間切となりました。
「琉球国由来記」(1713年)編纂以前の時期に、間切の方切(境界線の変更)があり、親田ムラ・見里ムラが国頭間切に編入されます。
それに伴い、番所が田港ムラから大宜味ムラへと移動します。
しかしいつの頃か、火災に遭ったようで、番所は塩屋ムラに移転します。
塩屋に番所が移転したのは、火災で焼失したせいでもありますが、大宜味間切の王府への貢納物は塩屋ムラに集積され、塩屋湾から今帰仁間切の運天港に運ばれたため、地理的条件からも番所が塩屋ムラに置かれることとなったようです(『角川地名辞典』)。
番所は塩屋に移ったけれど、間切の名前は塩屋間切にはならず、大宜味間切のままなのでした。
あ~~、ややこしいっ!
では田港ムラの中に入って行きましょう。
【滝川(ダチガー)ほとりの寺屋敷】
田港ムラの滝川に、定水和尚の屋敷があったとの言い伝えがあります。
定水和尚は首里王府に仕えていた役人でしたが、1665年、北山監守の首里引き揚げに反対し、尚質王と対立、官職を辞めて、仏門に入り、田港のこの地に隠居したといいます。
・・・・と、こう書いても「ふーん」とゆーくらいですよね、フツ~。
では、この記事は、いったいどういう意味を持っているのでせうか?
キーワードは「北山監守の首里引き揚げ」!
と言うことで、北山監守の歴史をひもといてみませう。
1422年に、中山の尚巴志は北山王攀安知(はんあんち)を滅ぼし、次男の尚忠を見張り役の監守として北山に派遣します。それは、「北山は首里から遠く離れ、地理も険しく、性質も猛々しいのでまた反乱を起こす恐れがある」ためだったと、『中山世譜』(1724~1749年編集)は伝えています。
ちなみに南山が滅ぼされたのは1429年でしたが、北山のように監守を置くことはありませんでした。
1469年に第一尚氏王統が滅び、第二尚氏王統の時代になっても、北山には監守が置かれます。第一尚氏が滅んで20年ほど経った尚真王の治世でさえ、尚真の第三子を派遣するほど、北山監守の役割が大きな責任を伴ったものだということが分かります。監守の伴侶も今帰仁阿応理屋恵(あおりやえ)などの神職につくなど、首里王府の祭祀をしっかりと担っています。
でも・・・最初は名誉職だった(かもしれない)北山監守ですが――監守一世の尚韶威(しょう・しょうい)などは首里城のお隣の玉御殿に葬られているし~――三世、四世は早世し、五世克祉が28歳のときに薩摩の琉球侵攻があり(1609年)、その直後に克祉は世を去っています。六世の頃、お城の近くにあった志慶真村、今帰仁村が城下に移動し、グスクとしての機能を維持することが難しくなり、監守の一族もグスクを離れて、城下にお引越しをします・・・周りにだ~れもいなくなったら寂しいし、「使える人たち」がいなくなったらお城の皆さんは困っちゃうでしょうしね~。
そしてついに、七世のとき、監守のご家族は首里に引き揚げることになります。
監守の監守たる役目が意味のないものになってしまったんですね・・・。
もう反乱も起きないでしょうし、祭祀について言えば、首里からその時期に山原に来ればいいわけですし・・・。
それにきっと、首里に帰りたくて仕方なかったと思うのですよね・・・。
新都心の側に住みたいなー、とか。
とゆーワケで、1665年、監守一族は首里に出戻っていったのでありました~。
さよーなら~(ToT)/~~~
・・・おっと、このまま終わりそうだった。
定水クンのことを忘れちまっていたじゃねーか。
定水和尚は、この「監守の首里引き揚げ」に反対した人物なのでありました。
『大宜味村史』によると、彼は首里の新城家の祖先で、王府仕えの重職にあり、監守の引き揚げに際して「北山の地は僻地で、まだ教化が普及していないから監守の撤廃は早い」と主張したようです。
新城さんの主張を聞いて尚質王は「なんだとお! 俺様の力量足らずで山原を教育できてないとでも言うのかあ!」と怒ったそうです。
それに対して何にも言い返せなかった新城さんは職を辞し、仏門に入って、頭を剃り、号を定水とし、塩屋湾の片隅の滝川のほとりに屋敷を構えたというお話です。この屋敷を寺屋敷といい、ダチ坊主(定水和尚のこと)の住居跡と伝わっています。
現在この付近には水タンクがあり、滝川からの水をとっています。
ここら辺をウロウロしてみましたが、住居らしき跡を見つけることはできませんでした。
▲水タンクをえっちらおっちら上る弘哲和尚
これが水タンクです。急こう配で、手すりのない階段を上っていくお館さまです。
丑も一応上まで上がりましたが、高所恐怖症なので、すぐに下りました。
菜美路は楽しそうでした♪
タンクの水面を、トンボがた~くさん飛んでいましたよん♪
定水和尚の話には後日談があります。
法用で首里に行った定水に、尚質王自ら「俺が悪かった」と謝り、「戻ってきてくれ」と何度も頼んだそうですが、断って直ぐに大宜味に帰って行ったそうです。
定水は八重山の人頭税の廃止を唱えたり、勉学の為に何度も北京を訪れたり、たくさん和歌を詠んだりした、との伝承が新城家の口碑として伝わっています。
ではもしも定水の意見が通り、そのまま監守制度が継続していたら、山原はどうなっていたでしょうか?
山原の首里化が進み、伊平屋・伊是名のように首里の感覚に風土が変わっていったでしょうか?
それとも、形骸化している監守には山原の首里化を進める力などなく、首里的部分を残しながらも、やっぱり山原のままでいたでしょうか?
【田港の集落~田港ウタキ】
▲田港御願の植物群落の碑 ▲田港で二番目に美人のおばあちゃん
田港集落の入口に「国指定天然記念物 田港御嶽の植物群落」の碑があります。大宜味村史によりますと「御嶽から樹木を伐採することは昔から法度であったため、原生林の様相を呈して現在まで残すことができた。指定を受けている田港御願の地域は、琉球石灰岩地帯の植物群落として、学術上重要であるといわれている」とあり、今帰仁の諸志御嶽の植物群落と同じ性格の天然記念物と言えます。
今回のムラ・シマ講座では、植物群落には触れませんでしたが、次回は自然にもポイントを置いて調査したいですね~。
御嶽に行く途中で、田港のおばあちゃんを見かけました。
田港で二番目にチュラカーギーのおばあです。
何で二番目なのか・・・多分二番目に可愛いのです。
畑からの帰りで、「赤モーイいるね~? 持っていくね~? 持っていくね~?」と聞かれました。欲しいのは山々の丑ですが・・・ちょっと重いし・・・おばあちゃんのお昼ご飯だろうし・・・。トゥーナーと混ぜて和え物したら美味しいしね~。
▲田港御嶽の鳥居 ▲拝所の香炉
田港御嶽の鳥居は、館長が手を伸ばして余裕で届きます。
この鳥居はイビヌメーに当たるものです。
鳥居をくぐると祠があり、中には15個程の香炉が置かれています。
中に山川石や加治木石で作られた香炉がありますが、この石は沖縄産の石ではありません。恐らく薩摩上りに随行した奉公人が、無事帰ってきたことのお礼として、薩摩産の石で香炉を作り寄進したものと思われます。香炉は船のバラストに使われていた石である可能性もあります。
ところで田港間切は後に大宜味間切へと名称が変わりますが、大宜味間切の主村(ドゥームラ)である大宜味ムラの御嶽の拝所にも田港御嶽の祠と同じくらいの数の香炉があります。
お館さまによりますと、田港と大宜味の香炉はセットで置かれたものではないか、と。
最初の主村である田港ムラの御嶽と、次の主村である大宜味ムラの御嶽両方に、旅の無事を感謝し、香炉を寄進したのではないか、と。
うーむ、どうなのでしょうか。
大宜味間切になった後も、大宜味按司が田港ノロ火ヌ神での祭祀に参加しており、それはかつて番所があった主村だったためと考えらえれます。
その例からすると、田港と大宜味両方の御嶽に香炉を寄進することは、決して不自然なことではないんですね。
これは今度、大宜味ムラの御嶽の香炉をチェックしてみなくてはね!
【ムラの中の井戸】
▲トミゾーヤー井戸
ムラの中のスージ小を歩いて行くと、井戸あります。
ここはトミゾーヤーの井戸で、はしかにかかったときに拝んだ井戸だそうです。
トミゾウという人の名前を由来とする屋号のおうちが、管理していたのでしょう。
トミゾーヤーという文字をパッと見ると、トムソーヤーみたいで、何だかキュート☆
▲メーダガー
前田井戸ですね。前田という地名の場所にあり、水田が近くにあるのでしょう。この井戸は正月のミーミジや、子どもが生まれたときの産湯に利用したそうです。
▲カンジャヤーの祠
井戸のあるスージ小をまっすぐ行くと、カンジャヤー(鍛冶屋)の祠に出ます。祠の中にはフイゴの他、位牌とフーチヌ神(鍛冶屋の神様)を描いた掛軸があります。
参考までに明治31年の資料に、大宜味間切は鍛冶職8戸、職人数8人とあります(今帰仁間切は12戸・12人)。
グスク時代、鉄を扱える者は支配層となり、王府時代になってからは、鉄製の農具を王府からの貸し出し制にし、管理のために鍛冶奉行を置きました。そして各ムラに鍛冶屋を設置しましたが、カンジャヤーはムラのエーキンチュ(富裕者)でした。
▲カンジャヤーについて説明をする金城良三さん
県内でカンジャヤーについて語らせたら、右に出る人はいないが左に出る人はひょっとしたらいるかもしれないと言われる金城良三氏(宜野湾市史編集室)が、カンジャヤーについて説明して下さいました。残念ながら、私は聞くことができなかったのですが、県内に残っている鍛冶屋の祠で、ここほどきれいにフイゴが保管されているところはないそうですよ~(@_@)。
【田港のハーリー船】
カンジャヤーの隣に公民館があり、公民館の側にハーリーを保管しています。
左は小さいハーリー船で、フギバンとかハーリンクヮといい、20人乗りで、若い青年たちが乗り、海神祭のとき最初に出発します。大きい方はウフバーリーといい、40人余りの漕ぎ手が乗ります。それぞれのハーリーには、ハーリー神が2~3人乗って、漕ぎ手をクバ扇であおぐのだそうです。
大宜味は船大工の数が山原で一番多い地域です。明治31年の資料で、大宜味の船大工の数は17人。次いで国頭で14人。三番目は金武で2人。他の地域は0となっています。
▲賢い主婦の物干し方法
スージ小の通りで見かけた光景です。
大きなパラソルの下に洗濯物を干しています。
これなら急な雨が降っても大丈夫! いいアイディアだなあ。
【ナゾの祠】
謎の祠。海神祭のとき、この祠の下の方の道で、田港ノロや神人たちが横並びに座ってヤーサグイを行ないます。お館さまの「調査報告」に、ムラ・シマ講座でヤーサグイをした様子がアップされていま~す(^^)v。
ヤーサグイは海神祭の二日目、ウガンマールの年に行なわれる行事で、ノロを中心に神人たちが、カミンチュのムートゥヤー(元屋)を回り、その家の不浄を払い、一家の健康と繁栄を祈る行事です。
ウガンマールーとは御願を主にした年廻りの意。ウガンマールーの翌年はウドゥイマールーで、その年はハーリーの後の踊りが主になります。
祠を開けてみると(右の写真)、香炉があり、「樽平良」と字が彫られています。平良家所縁の祠なのでしょうか。
【ヤーサグイに回る旧家】
ウフェーヤー。ムラの発祥に関わる旧家です。ウンガミの朝、田港ノロが最初に御願に来て、人々健康や繁栄を祈願します。
このウフェーヤーの右隣の部分をよ~く見てください。コンクリートの色が四角い形で変わっているのが分かるでしょうか? ウフェーヤーの祠と同じような祠があった形跡に見えませんか?
どうも以前、ここには祠があったようです。お館さまは、その祠を見た記憶があるそうです。
祠には「地頭代火ヌ神」と記してあったとか・・・。
その祠はどこに行っちゃったんでしょ?
1986年(昭和61年)発行の『塩屋・ウンガミ』(塩屋ウンガミ刊行委員会発行)にウフェーヤーの前らしき道で「ウンケーのためヌン殿内に向かうヌルの山城トヨさん」というコメントの写真が掲載されています。当時はガジマルなどの大木に囲まれうっそうとしていて、今のウフェーヤーの雰囲気と全然違いますが、この写真には、二つの祠がはっきりと写っています。
向かって左側の祠がウフェーヤーの祠。右側の白くて新しいコンクリートのものが、地頭代火ヌ神の祠でしょう。
田港に番所があった事実からすると、田港ムラ内に地頭代火ヌ神がある可能性はとても大きいのです。ですからウフェーヤーの隣に地頭代火ヌ神の祠があってもおかしくはありません。
地頭代火ヌ神はいったいどこに行っちゃったのかしら~(^^;)
ここはウフヤーです。屋我地門中の先祖が祀られています。
ウフヤーの敷地内には国土交通省国土地理院の水準点があるのでした~。
「ここが基本なんだぜ」と、測量のお兄さんがキッパリ宣言している・・・感じです♪
桃原。桃原門中の先祖が祀られています。
ニジャンヤー(根謝銘屋)のお宮。根神が乗るカゴが保管されています。
怪しげな雰囲気で中を覗いているお館さまと菜美路どの。
ニジャンヤーのお宮内部の図像。
お宮の後ろにあるニジャンヤーの祠。お宮と祠の間に神木があり、木の根元に香炉があります。
ここには人類発祥伝説が伝わっています。
どんなお話かと言いますと・・・・、
「その昔、田港の根謝銘屋の蒲葵の木の下に女の神が天から降りてきた。次に男の神が天から降りてきて『世を建てたか』と問うたところ、女の神は『まだできていません。私一人ではできません』と答えた。それで二柱の神は夫婦の縁を結び、その木の下で子供を産んだ。その子供たちは大きくなって四方八方へ立身していった。首里に登るものもあれば、東の方へ行く者もあり、田港根謝銘屋は神元となった。そのため根謝銘屋には、四方八方から人々が神御願にやって来るようになった」。
人類発祥でもあり、神々の発祥でもあり、古宇利の伝説と比べると面白いですね。
お宮内の赤ちゃんを抱いている図は、この人類発祥伝説に関わるものかもしれません。
【田港のアサギ】
ここは田港アサギです。海神祭の朝、ノロさんはウフェーヤーを拝んだ後、ヌンドゥルチに行き、その後田港アサギへと向かいます。
前出の『塩屋・ウンガミ』を見ると、他の神人たちはノロとは別に、メービー(世話役の一人)に付き添われて、アサギに集まります。
ここのアサギには香炉はありません。柱の間の少し高くなったところがタモト木の役目を果たしています。ウタキ後方の山はサンタキといって男の神だけを祀っていますが、タンナ川でミジナリー(水撫で)をした後、アサギに戻り、このサンタキを拝みます。
バサ(芭蕉布)衣装を着ている神人は屋古アサギでの行事にも参加します。シルジ衣装(白い神衣装)の神人は田港アサギだけの参加だそうです。
【タンナ川】
神アサギの東側を流れるタンナ川です。海神祭の日、神人がアサギに集ったあと、ここにきて川を拝み、3回づつ額に水をつけるというミジナリー(水撫で)の動作をします。
左の写真はタンナ川の突き当たり付近。ここでミジナリーの動作を行ないます。
右の写真は、タンナ川の途中で見つけた、もう使用されなくなった水道パイプ。
下調べのとき、アサギの右側の畑で作業していたおばあちゃん。田港で三番目に美人です。
神道のこと、海神祭のことなどを教えてくれました。
【根神屋~田港ノロ殿内】
根神屋。ムラの根神が拝んでいる拝所です。
海神祭のヤーサグイのときにはまわりません。
田港ノロ殿内。身長約150センチの菜美路どのが腰をかがめて入るほどの高さです(^^)。
海神祭の当日、ウフェーヤーからスタートして、次のポイントがここです。ここからシマンホー(島方:神行事を先導する役目の男性)が小太鼓を叩きながらヌルを神アサギへと先導します。
ヌン殿内の中に、ノロの乗るカゴが置かれています。
天井には、「1955年7月18日旧5月29日竣工」と墨書された「紫微鑾駕」の板がありました。
ヌン殿内の香炉。
中央の黄色っぽい香炉が山川石製のもの。田港の御嶽にもありましたね。
恐らくノロ家の男方の誰かが薩摩に随行し、帰国の無事を感謝して寄進したものでしょう。
ヌン殿内の右側に、ヌルガー跡があります。
水は涸れて葉っぱが積もっていますが、コンクリートで固めずに石垣を残しているのがいいですね!
【謎の祠・・・その2】
ここはムラ・シマ講座では行きませんでしたが、ヌル殿内を降りて行ったところに、ちょっと分かりにくいんですが、小さな祠があります。
大きな石が一個だけ・・・三つ石の火ヌ神セットではないので、屋敷跡ではないようです。
石の形から見て、ビジュルかな? 石に立てかけられているお線香には火が点けられていないように見えます。
何の祠かな~。
後ろの竹からすると、「田港のかぐや姫の祠」かも!?
さて、謎の祠を確認した一行は、次なる調査ポイント、屋古に向かいます。
・・・が、この続きはまた今度ね! 丑はお盆の準備があるので帰りますのだよ。
それではみなさん、さよーならー(^o^)/~~~
ムラ・シマ講座参加者のみなさん
第19期 第2回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
台風2号の爪跡が各地の残っているこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。晴れると真夏のようで、梅雨明けが近いのでしょうか。
さて、第2回目の講座は、本部町瀬底島に行きます。瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となります。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っています。瀬底島に二つの祭祀の姿がどう残っているのか、見ていくことにします。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村です。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなります。
瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができます。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されています。
上間家の二代から五代まで地頭代(健堅親雲上)を出しています。二代目の時、唐旅をして清国から「土帝君」の木像を持ってきて祀ったといいます(国指定の文化財)。
本島側から移動してきた石嘉波村側には神アサギや旧家の跡やウタキなどがあります。それとティランニーという洞窟などの拝所を訪ねることにします。
☆ 6月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
↓ 出席の確認
↓ 瀬底島の概要説明
↓(瀬底島へバスで出発)
↓ ウチマンモー(シニグ・ウシデーク・綱引きなど)
↓ 大城(ウフジュク)・神アサギ・アサギミャー(豊年祭の舞台)
↓ 瀬底ノロドゥンチ
↓ ウチグスク
↓ 土帝君の祠へ
↓ 石嘉波村の神アサギ・旧家跡
↓ 石嘉波村のウタキ
↓ ティランニー(洞窟)
↓ 歴史文化センター(13:00 解散予定)
☆ 持ってくるもの(暑いですので飲料水や帽子など)
☆ ゴツゴツした岩場を歩きますので運動ぐつで来てください!
サンダルやぞうりではダメです。ケガをします。
今回の場所はガジャンがたくさんいます!
♪お休みをするときは電話してください! 56‐5767 歴史文化センターまで
♪雨がふったら、歴史文化センターの中で行います。
♪保険料(600円)まだの方は、当日お願いします。
瀬底村 | ①神アサギ ②メンナ御嶽 ③ノロ殿内火神 ④イリノ御嶽 ⑤前ノ御嶽 ⑥内の御嶽 ⑦土帝神 |
石嘉波村 | ①御嶽 ②神社 |
・1648年『絵図郷村帳』 今帰仁間切:ごが村・まつざ村・がぶ村・ふれけな村
・1640年代『琉球国高究帳』 今帰仁間切:ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
・1671年(康煕10年)向姓八姓向洪徳 今帰仁間切松田の名を賜わる。
・1672年(康煕11年)紅姓九世 紅自煥(伊佐川親雲上)今帰仁間切松田の名を賜わる。
1673年に大宜味間切、久志間切、恩納間切が創設される(方切)。
その時、今帰仁間切と羽地間切との間で方切があったと見られる。
・1674年(康煕13年) 駱姓四世春章 羽地間切呉我の名を賜わる。
・1691年『球陽』康煕30年 羽地郡松田村属本郡我部村(我部移転より45年前)
・1691年(康煕30)毛姓三世 正議大夫毛文善(和宇慶親雲上)羽地間切我部地頭職を拝授する。
・1713年『琉球国由来記』 羽地間切 呉河村・我部村・振慶名村・(松田村)・(桃原なし)
(それらの村は移動後も我部ノロの管轄)
・1736年 羽地間切の呉我・振慶名・我部・松田・桃原が羽地間切の内部へ移動。
我部村と松田村は屋我地島へ。
・1738年 五ヶ村が移動した跡地に湧川村を創設し、そこは今帰仁間切の領地となる。
・1750年頃「乾隆図」(1750年頃)の人家:10戸、西方4、東方6
竿入帳の屋敷 我部11戸 松田?(推定12)