2011年4月調査記録             トップ(もくじ)

 


2011年4月30日(土)

 5月になると、数本の講演や講座が待っている。一般向けの「ムラ・シマ講座」は定員に達しているので、どこにしようか。また、古琉球の時代と近・現代の時代の二本。そして大学の5月の講義の三回をどこからしようか。一度に数本の準備は手ごわい。気晴らしに、昨年12月に架橋したワルミ大橋でも見てくるか。運天港を眺めることができるので古琉球の時代と近世の時代も話題にできそう。

 ワルミ大橋の駐車場に車を留めて、小橋の下をのぞくとワルミヌティラの祠が見える。ワラルミヌティラは名護市我部(屋我地島)のウタキのイベである。このようなウタキノイベが洞窟になっているのは今帰仁村運天のテラガマ(運天のウタキ)もそうである。その話は置いおく。
 我部は移動村である。我部村は1640年代以前は今帰仁間切の村。1690年頃、方切で羽地間切の村となる。1736年に我部村は同じ羽地間切内の屋我地島へ移動させられる。故地は1738年に創設した湧川村となり、そこは今帰仁間切の地となる。今の今帰仁村湧川地内は二度の方切がなされる(その時、我部・呉我・振慶名・松田・桃原が移動)。

 1736年に移動した我部村は故地にその痕跡をみ、そして移動した地で御嶽(ウタキ)を設け、それと神アサギを作り、祭祀を行っている。我部村は松田村と合併し、二つの神アサギがそのことを物語っている。『琉球国由来記』(1713年)の頃は、我部村は羽地間切であるが、まだ村移動をしていない時代である。その時の我部ノロの管轄の村は、我部・呉我・振慶名・松田(桃原は登場しない)である。1736年に羽地間切の中央部へ振慶名が、羽地大川の下流域に呉我、振慶名と松田は屋我地島へ移動させられる。しかし、我部ノロの管轄する村はそのままである。ノロ管轄の村の組み換えがされないこと、そして移動先でウタキを置き、そして祭祀を行っていること。そこに近世の村の仕組みをみることができそうである。


故地のウタキのイベ(ワラミヌティラ)   故地のフルガー     塩づくり伝承のスヤーウタキ(故地) 


ワルミ海峡を挟んで対岸(左手)の屋我地島へ移動 移動先のウタキ(後方の杜)我部ノロドゥンチ 


2011年4月28日(木)

 300頁余の二本の刊行物に追われています。一本は最終校正。もう一本は連休で脱稿!
 若い頃のように体力はありません。それと目を細めるが文字が読めず感でエイエイオー!


2011年4月27日(水)

 『宮城真治研究ノート:羽地村誌資料』(名護市史編さん室編集)から宮城の調査メモ(昭和10107日)をみる。「まてきや御嶽」の一基の香炉は確認いていた。その外にも年号のある香炉があり、年号が明記され貴重なメモである。それと「上ヌウタキ」に11基の香炉があったことがわかる(現在古いのは三基あり。文字は見えず)。上地重福の香炉)については、今でも判読できる。その香炉については紹介したことがある。①②の香炉も確認できるといいのだが・・・。渡久山里之子(脇地頭)と殿内御供仲尾仁屋なる人物、そして宮城が香炉を火山岩としているのも気になる(薩摩からの石?)。

【まてきや嶽】(稲嶺)(宮城真治研究ノート:羽地村誌資料)
 ・下の拝殿 昭和9年3月建設。間口二間、奥行一間半。
 ・「真照喜屋宮」の額を掲げる。
 ・もとの拝殿、間口六尺、奥行五尺。後の中央戸二枚開けられる様に造る。
 ・祠の後のヤブニッケイの下に小形の石香炉五個あり。
 ・殿の傍らにアカテツの老木あり。
 ・戌の方向に向う(辰に向って拝むようになる)。
 ・下の殿より百二十歩(四十間)、直線に登れば六十歩(二十間)。
 ・山頂に老松(目通り七尺)五、六本あり。もとの拝殿より二十八間(三八六歩)
 ・香炉四ヶ(一ヶ無文字)
  奉寄進 同治十二年癸巳(酉)九月吉日(1873年)
       渡久山里之子(珊瑚礁)
  奉寄進 同十二年癸酉十一月吉日(1873年)
       殿内御供仲尾仁屋(火山岩)
  奉寄進 明治廿八年五月吉日 上京の時(1895年)(現物あり。右側の香炉)
       上地重福 (火山岩)
  仝一ツ 無文字(火山岩)


 「真照喜屋御宮」(昭和93月)の額      まてきや御嶽のイベの香炉


2011年4月25日(月)

 名護湾岸の村(ムラ)(旧名護町域)を一目散に踏査する。旧名護町域は大北・大西・大南・大中・大東と区分されるが、それ以前の大兼久・城・東江とした。新しく分区した旭川・中山・勝山・為又(昭和15年)も廻る。

 『琉球国由来記』(1713年)に登場する村(ムラ)を頭に入れていたのであるが、神アサギのない字(アザ)や区があり、神アサギがないのは何故なのか。新設の区であるが施設の側に拝所が置かれている。それがムラ・シマをみていく歴史的なキーワードとなりそうである。

 名護湾岸の各ムラの位置と神アサギと公民館を紹介し、屋部について詳細に文化とみていくキーワードを丁寧に拾って話をすることに。まずは17の区(字:アザ)の様子を頭に入れることから。

宮里 大兼久 城 東江 世富慶 数久田 許田 幸喜 喜瀬 宇茂佐 屋部 山入端 安和 部間神あさぎ会館 為又 旭川 中山  


       宮里区公民館               宮里神アサギ         火神の祠


      大中公民館(大兼久)           護佐喜之宮


  東江地区会館                   東江の獅子小屋


    世富慶コミュニティ施設     世富慶の神アサギ        施設の側のお宮? 


   数久田公民館                 数久田の神アサギ


      許田区公民館             許田の神アサギ


   幸喜区公民館                幸喜の神アサギ


     喜瀬区公民館              喜瀬の神アサギ         アサギの側の祠


 宇茂佐の神屋と神アサギ     宇茂佐地区会館           ウムサウタキのイベ


     屋部公民館              屋部の神アサギ         サグン神の祠


    山入端公民舘            山入端の神アサギ        ウタキへの入口


       安和神社          安和の神アサギ      安和コミュニテイセンター

 
   部間神あさぎ会館(安和)           部間の拝所

 
      為又公民館           公民館の側の拝所

 
     旭川高齢者・若者センター            センターの側の拝所

 
        中山区会館                 会館側の祠


2011年4月23日(土)

 第3回目の大学の講義は「名護湾岸のムラ・シマ」をテーマで、名護間切域(名護湾岸)の歴史文化を確認していく。名護湾岸の「歴史と文化」をどう「まとめ」るかはこれから。天気が良ければ、「名護湾岸の歴史」散歩でもするか(屋部・安和あたりは先日すませている。ノロ管轄で括ってみるもの面白そう)。

 

 


2011年4月22日(金)

 神女組織について、全く知識がないため、理解に苦しんでいる。そこで、三十三君と呼ばれる上級女官が、どに嫁いでいるのか。宮城栄昌(敬称略)の『沖縄のノロの研究』の「三十三君の就任表」をみると、「夫人」となっている。そこで嫁ぎ先をみることで、「・・・王子」や「・・・親方」である。首里王府が祭祀を通して、それと公儀ノロに辞令書を発給する形は、祭祀を通して間切のみでなく村々まで、末端まで統治していることを示している。神女(ノロ)制度が確立する以前の祭祀形態を王府は巧みに統治形態に組み入れた姿であろう。三十三君の女官の動きは、古琉球から17世紀にかけての王府の統治形態を祭祀の面から描き出すことができるかもしれない(少し、整理してみることに。全くのあてはずれかもしれないが・・・)。

【家譜に登場する三十三君(女官)】


【具志川家家譜】
 ・世寄君(韶威の娘)(和氏平良親方景平に嫁ぐ)
 ・阿応理屋恵按司
 ・世寄君按司
 ・宇志掛按司
 ・呉我阿武加那志
 ・司雲上按司
 ・大北墓の三名の今帰仁阿応理屋恵

【嘉味田家】(尚真王第四子)
 ・佐司笠按司加那志
 ・君辻按司
 ・島尻佐司按司

【伊江家】(尚円王大宗)
 ・宇和茂理按司
 ・司雲上按司

【湧川家】(越来王子)
 ・佐司笠按司

【小禄家】(尚真王第一子:浦添王子)
 ・首里宇和茂理按司
 ・世治新君按司
 ・君清良按司
 ・君加那志按司
 ・宇和茂按司
 ・望月按司

【真壁家】
 ・聞得大君加那志

【阿姓家譜】(照屋家)
 ・聞得大君加那志

    (工事中)


2011年4月21日(木)

【名護市屋部】
 先日(4日)名護市屋部をゆく。名護浦(湾)と久護家と凌雲l院(屋部寺)まで。下の画像は昭和25年頃の屋部の風景である。屋部の大島(プスマー)と久護(クグ)の集落との間に水田が広がっていた頃である。大島と久護の集落に福木の屋敷林があり、今でも名残りを留めている。
 昭和21年に名護町から分離し屋部村(ソン)ができ屋部村の中心地となる。屋部小学校がみえるが、マーウイ(馬場)跡地に学校(屋部尋常高等小学校)が造られた。手前を流れるのが屋部川である。屋部川は蔡温の時、屋部川を開鑿し運河を通そうとの議論があった(三府龍脉碑記)川である。

 屋部の大島集落の公民館前から神アサギの側を通り、山手の方に屋部寺(凌雲l院)がある。屋部寺(凌雲院)には七体の像(凌雲和尚霊牌(当院開山祖)/子安地蔵菩薩(子授け祈願・安産育児)/不動明王菩薩(息災厄除・交通安全)/聖観音菩薩(閉繁栄)/薬師如来像/延命観音(延命最寿)/釈迦如来像)が祭られている。後方の山は安和岳と嘉津宇岳、それと八重岳である。


              昭和25年(1950)頃の現名護市屋部の様子


2011年4月19日(火)

 「沖縄の地域文化論本部町のムラ・シマ」(2回)の講義の準備で本部町瀬底までゆく。講義とは別に、瀬底島の遠見台(ウフニヤ)とティラニー(洞窟)、カー、ウチグスク、ヌルドゥンチ、神アサギ、カンジャヤー跡(上間エーキの始祖か)などの確認。


2011年4月16日(土)

 旧暦の314日と15日は三月ウマチーである。今帰仁グスクのある今泊では今帰仁ノロと区長、書記さんとでウガンをする。14日はティラを拝む。現在はティラまで行かず親川(ウェガー)の近くで遥拝をする。

 三月ウマチーやウチマチと呼び、麦稲穂ウガンである。農作物の豊作、麦稲穂の刈取りのウガンである。浜から持ってきたウル(サンゴ)、そして線香に火をつけないで置き、ティラに向って遥拝する。ティラまで行ってみると、小さな洞窟の前にウルがたくさん置かれていた。

 今帰仁村内で三月の神行事は、呼び方がいくつもある。
  ・ウチマチ(今泊・天底・勢理客・平敷)
  ・ウマチー(今泊・仲尾次)
  ・ウカタビ(諸志・謝名)
  ・フチマチー(兼次・与那嶺・崎山・謝名・玉城)
  ・ミャーヌウガン(与那嶺)
  ・ウツマチ(平敷)
  
 明日は今帰仁グスクの外郭内にあるフィイドゥンチ火神の祠でのウガンがある。

 
       今泊のティラ(小さな洞窟)            ティラにウル(サンゴ)が置かれている


2011年4月14日(木)

 
昨日は喜納政業氏の寄贈本(2000冊余か)を歴史文化センターに搬入する。七、八名の職員の手と力を借りる。お疲れさんでした。今日は、テンプラ(イカ・魚・カボチャ)とゼンザイを差し入れ。私はギックリ腰。

 
     4月13日に寄贈いただいた書籍(歴史文化センターに搬入:2000冊余、整理中)(喜納氏宅)

 
          4月6日に寄贈いただいた書籍(800冊余)(舘内)

【謝花大主の墓】

 本部町浦崎に謝花大主の墓があるという。先日、浦崎の墓地公園に立ち寄ってみた。谷間の両側に古い墓が群をなしている。謝花大主の墓らしき墓があった(下の墓が謝花大主の墓であるか未確認。確認する必要あり)。謝花大主が『国頭郡志』でも触れているように史実の人物かどうか、その確証はないようで伝承の人物とみている。ただし、組踊の「本部大主」に登場する謝花大主の墓としているのであろう。

   『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に、
   「謝花大主の墓」として「字浦崎の北方なる小谿に朽木を以て封せられたる古墳あり。
   謝花大主の墓と称し、字謝花玉城某の一族之祀る。大主の事歴に就きて記録の確
   実なるものなけれども口碑に依れば北山の臣下にして後反逆せし人なりという」とある。

 


2011年4月12日(火)

 大学の講義がスタート。3、4年生が中心である。地域文化を紹介するのであるが、そこには沖縄の歴史的な背景がどうしても必要。早速留学生達の質問攻め。沖縄の文化は日本? 中国?
言語的には日本祖語から分岐した姉妹。グスクから出土する遺物の大半が中国。亀甲墓は中国の影響。お寺は日本からの移入。年号は明治初期まで中国年号を使用。公式文書はひらがな(文字)は日本。これから一つ一つ応えていかねがならない。どうも、答えを一つにもっていきたい発想あり。

【沖縄の地域文化をみる視点事例:神の島古宇利島】(仲原作成利用)

 手ごわい学生が多いような。初対面の学生の印象。「地域文化をみる視点」をテーマで。今帰仁村古宇利島を事例で紹介。来週あたり、新入生が古宇利島に渡るようなので。島には島の歴史と独自の文化があることに気づいてもらいましょう。島の歴史や文化が何か、それも必要であるが、島を歴史や文化を描くキーワードを見つけていくことを中心とする。次回は? 楽しみに!





【本部町渡久地の按司墓】
 本部町渡久地の崖下に古い墓(按司)がある。按司御墓と呼ばれているようである。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で、以下のように記してある。この墓に葬られているという米須大主は、本部町具志堅の上間大親や尚円などと関わる人物のようである。「大米須親方之墓」とあり、裏面に「顧姓 翁姓 呉姓 三門中会一同」とある。第一尚氏から第二尚氏に王統が変革に関わる人物か。三門中(顧姓・翁姓・呉姓)が今でもしっかりウガンをしている。墓の前面に四本の石柱があり、その間の墓口は三門中は米須大親からの別れを示しているのであろう。

    渡久地の村後丘下に普通の墓所と赴を異にせる古墳あり。俗に按司墓と称う。是れ尚円王の兄に当れる
    米須里主(顧姓久志等の祖先)の墓なりと称う。顧姓久志氏等の祖也)の墓なりと称う。里主は元伊平屋の
    人にして中山尚徳王に奉仕せしが文明元年徳王廃せられ尚徳王せられ尚円王位に即きしかば先王に対す
    る節義を重んじ、且つ弟に仕ふるを耻ぢ家を捨てて北山に穏退し、而して具志川ノロクモイ(今の浜元)を妾
    として此地に老を養へり(其ノロの墓はヲナヂャラ御墓といい渡久地港北岸にあり)米須の長男は喜界島大
    屋子を勤め、其の子孫今同地に八十戸を算すという。


     本部町渡久地の「按司墓」            大米須大親之墓の碑


2011年4月10日(日)

 上間家の「先祖之由来遺書」と関わる場所を訪ねてみた。これまで何回か紹介してきたが、まとめておく必要あり。

具志堅の入り方浜(出じ方浜)
具志堅の上間家(
以前に紹介)
上間家の位牌(
以前に紹介)
今帰仁村諸志の赤墓(
以前に紹介)
上間家にあった辞令書(
以前に紹介)

 
       具志堅の浜(入り方浜)                具志堅にある上間家(ウイマヤー)


 
    上間家の離れの拝所の内部          「元祖上間大親亨翁」とある位牌

 
    上間家の位牌(明治以降)               拝領墓の上間家の墓(赤墓)


2011年4月9日(土)

 本部町具志堅の上間家の「先祖之由来遺書」(大清道光癸未八月吉日)(上間筑登上)である。真境名安興氏が大正6年に「沖縄毎日新聞」で「尚円と上間大親」として、以下の文書を紹介されている(真境名安興全集第三巻に所収)。下の上間上文書では「大親嫡流西平家系図」では一世から七世まで略されている。真境名安興氏の紹介文では一世から八世まで掲載されている。上間家文書の系統図は具志堅村八世西平親方から以降の人物が記されている。

 今帰仁の赤墓は光緒元年十一月八日に開け、見分したことが書き記してある。上間家の文書、真境名安興氏の紹介文、そして上間家にある位牌と照らし合わせて整理してみることに。









    大清道光癸未八月吉日
  先祖之由来遺書
    
   上間筑登之

  先祖上間大親亨翁者、本(元)伊平屋島
  葉壁首見と申所の人に而候処
  壮年の頃今帰仁ニ遷居、老を楽しみ被
  罷在候砌
 尚真様此方御巡見船より
  今帰仁江被遊
  行幸成時 湊口近付候而大風吹出
  兎も角も被為成様無御座至而
  被及危難候処上間大親嫡男次男
  召烈小舟に乗り、於狂波之中身命を
  不顧段々相働終に御舟を湊内に
  引入破損之危を奉救候に付
 尚真様御歓不斜則
  御前江被為召候 右上間は
 尚円様御直弟にて
  君上とは骨肉之分於間柄者御叔父に
  相当り依之家譜之本来委曲
 上聞候処 骨肉之親 就中被忠情
  為御褒美今帰仁間切惣地頭職
  被仰付候得共性質順厚之人に而
  身を卑く下りて惣地頭職を御断
  今具志堅村と申す所 並比与喜屋之
  地所を被下度奉願候処仰付候
  左候而嫡男次男者御召列首里江
 罷登又難有御近習職等仰候付
 夫与首里江居住いたし候次男中城
 親雲上者今牧志筑親雲上先祖三男
 上間子ハ本部間切具志堅村江致
 居住居候今にして其家跡を見候得者
 右之頂戴仕候 地方ハ葉壁山ニ
 向候二付而者いか様本居る所を難
 忘常に對見する之志にて候
 先祖伝来之墓者親泊有之赤
 墓と名ヶ申候是者拝領之墓二而
 今以後裔ニ伝へ候依て相考候得者
 亨翁忠孝之情一端々験者や

   月 日
  
上間家所蔵の由来記(孟氏家譜に拠る)
  『国頭郡志』所収されている(376頁)

 
「本部村字具志堅屋号上間口碑に依れば昔尚円未だ位
 に登らざる時伊平屋島首見村(今の伊是名島の東北字
 諸見)にあり年二十にして父母を失い自ら一家を維持
 して家族を扶養せしが或年大旱魃の為め凶歉あり、水
 田皆涸るゝ

  光緒元年丙子十一月八日赤御墓御開御見分ニ付
  御六男西平里之子親雲上御女性衆御弐人〆御三人
  被成御下彼ノ御墓開御見分仕候処ぎやを
  御弐具上ニ板弐枚内壱枚ハ字面相見得不申
  壱枚ハ字面相見得候処板痛ミ相付字面不正
  字面相見得候分左之通書積置申候

   奉
  推正               
   五撰             浩  
  西平親
  今帰仁親
  付奉行
    高ハ九寸禮口差渡し三寸程
  廻弐尺二寸三寸計
  御美きやを
  高三寸程口差渡し
  三寸五分計
  廻弐尺計

  字面御書之美きやをし上ニ■■■面へニ而おしまへ座申候
  板一枚長差■■ヒ六寸巾三寸
  字面なし右同
  板一枚長七寸也三寸巾右同
  御墓門長弐間御門与後迄三間
  右同時御見分ニ付寸法付仕置申候
  きやを之儀之儀を唐調等ニ而御候父三良上間
  七十四歳男子牛上間にや三十八歳ニ而御開
  仕置申候

大親嫡流西平家系図

 尚真様叔父に当り、父上間大親亨翁宗親
  一世 大里親方宗森
  二世 今帰仁親方宗?
  三世 本部親雲上宗則
    隆慶二年戊辰二月二十三日奉進貢使命到?赴京辞朝回?到建寧府崇安県
    不孝而罹病卒亨年四十 号覚宝
  四世 今帰仁親方宗春
    嘉靖二十八年己酉生、万暦三十八庚戌八月九日卒寿六十二 号梅江
  五世 今帰仁親方宗能
    万暦八年庚辰正月二十日生、順治十二年丙申三月二十六日 卒寿七十七 号有燐
  六世 佐辺親雲上
    万暦四十四年丙辰三月十日、順治十二年乙未十一月六日 卒享年四十 号浩然梅渓
  七世 佐辺親方宗茂
    崇禎十六年癸未四月十日生、康煕三十八年己卯八月二日卒 亨年五十五 号浩然
  八世 西平親方康沢
    康煕八年巳酉九月十日生、乾隆十年乙丑十二月二日卒寿七十七 号興道

  (工事中)

 一、乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親
 一、同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
 一、道光二十五年已已十月十八日 金城筑登上 妻
 一、咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登上
 一、道光十八年亥十二月十日 同上間女子
                     奈へ
 一、同二十一年寅五月廿日 同人
                   妻
 一、同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
 一、咸豊十二年酉三月廿一日 満名親雲上二男
                     三良上間にや
    但明治廿年乙寅十二月廿八日 右三良上間にや嫡子まつ上間宅御移置申候
 一、同治二年 癸亥正月廿五日加那上間 三良上間嫡子
 一、光緒三年丁丑十二月廿五日 三良上間 加那上間父
 一、明治三十八年乙巳三月五日 上間権兵衛
      七男 勘次郎ハ清国盛京省奉天者興隆田北方高地に於テ戦死陸軍歩兵上等兵


一 同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一 道光二十五年巳巳十月十八日金城筑登之妻
一 咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登之
一 道光十八年亥十二月十日三良上間女子なへ
一 同二十一年寅五月廿日 同人 妻
一 同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
一 咸豊十二年丙三月廿一日三人上間にや  満名親雲上二男
   但  明治廿年乙亥十二月廿八日右三良上間にや嫡子まつ上間宅へ
   御移置申候
            上間嫡子

一 同治二年癸亥正月廿五日加那上間
                   
加那上間父

一 光緒三年丁丑十二月廿五日三良上間
一 明治三十八年乙

   三月五日上間権兵衛
  七男勘次郎ハ清国盛京省天省
  興隆北方高地に於テ戦死陸軍
  歩兵上等兵
 今以後裔に伝へ候 依而相考得者
 亨翁忠孝之情 一端于今験者也


2011年4月8日(金)

今帰仁村平敷の「ティービガヂマル」(炬火ガヂマル)、炬火にまつわる「炬火石」(今帰仁村今泊)
がある。それと謝名のマチガマ。以前、ティービガヂマルと炬火石にまつわる話を聞いていたのであるが???であった。『琉球百話』(島袋源一郎著:昭和16年)の一話に「炬々よー」があり、なるほどと納得。それにまつわるティービガジマル(平敷)とティービ石(今泊)とマチガマ(松ガマ、待つガマ)があるので紹介。

    之は亦今ではなくなったが、余所では見られない便利な扶助方法であった。明治30年頃迄今帰仁村に残って
     いたが、旅行者が行暮れて暗くなった時、村落の入口に立って「炬々よー」と声高に呼ぶと字内に応じる声があ
     り、直ちに松明に火を点じて来て渡すのであった。そして半里も行くと又例の通り呼んで、松明をつぎたして貰う
     ので、店も堤灯もない時代のこととて非常に有難いものであった。しかもそれはすべて無償であって村で其の
     担当の家へ若干の費用を支出していたのである。

 今泊のボーボー屋(てい門)は役人を数人だした旧家である。同家の東側の旧道沿いにティービ石(休憩石)が置かれている。同家からでた役人が運天番所で働いていた。帰りが遅くなりティービ(松明)を持って帰ると、いつも後ろからついてくる者がいる。それは無事に帰るのを見守ってくれているのだと。それで台石を設置して、休んでからお帰りくださいと。その台石がティービ石だという。


 今泊のティービ石(ボーボー屋)    ボーボー屋の側の集落への旧道

 平敷のティービガジマルはイリンシマ(西の村)の役人が運天番所から帰る頃、そこらでティービが消えかかるので、補充するトゥブシをガジマルの下に置いてあったとのこと。


宿道沿いのティービガジマル(今帰仁村平敷)

 謝名にマチガマという森があった。別の伝承もあるが、マチガマの語義の説明ができないでいた。マチガマは宿道(スクミチ)沿いにあり、拝所とはなっていない。炬火は松の油(トゥブシ)が使われていた。役人や旅人が炬火(松明)を灯して、やってくる。マチガマは補充するトゥブシを置いてあったガマではなかったか。松木のトゥブシを保存しておいたガマに因んだ地名とみてよさそうである。(マチガマについては、昭和60年頃『じゃな誌』で別の視点で紹介したことがある)。


  イジヌフムイのガジマル(今帰仁村謝名) 宿道沿いのマチガマ(跡)


2011年4月4日(月)

 久しぶりに名護湾岸の旧屋部村域をゆく。山手からバイパスが通り、宇茂佐から屋部あたりは急速に市街化している。

 名護浦(湾)
 久護家(名護市屋部)
 屋部寺(凌雲院)(名護市屋部)
   七体の像
     ・薬師如来(当院本堂)(無病息災)
    凌雲和尚霊牌(当院開山祖) 
    子安地蔵菩薩(子授け祈願・安産育児)
    不動明王菩薩(息災厄除・交通安全)
    聖観音菩薩(閉繁栄)
    薬師如来像
    延命観音(延命最寿)
     ・地蔵菩薩(往生極楽)
    釈迦如来像)
 安和のクバヌ御嶽(名護市安和)
 安和(部間)の部間権現(名護市安和)(部間)
   
「奉寄進」二基の石燈籠あり。道光の年号あり。

   (工事中)






 



2011年4月2日(土)
  
 新年度のスタートは、やはり今帰仁グスクから。薩摩軍の琉球侵攻は旧3月27日、今日は旧暦2月29日なので、一月あり。5月に二本の歴史講座を引き受けているので、それに向けて少し頭の整理。4月からスタートする大学での講座の準備にかかる。それと今年度の企画展を考えなければと。それと「山原のムラ・シマ」講座。小学生達への講座などの調整。

 
    今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)の郭            今帰仁グスクの志慶真郭の様子