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2023年12月
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今帰仁村の戦後60年(企画展)(2008年開催
上国と石灯籠と石香炉
中北山時代(中昔北山ともいう)
西暦1100年頃から1300年頃まで。
「中北山」の時代の興亡の様子をあげてみる。「世譜」及「球陽」に依れば玉城王の代、明の延祐年間(1314~1320)国分れて三となり、今帰仁按司は山北王と稱して山北諸郡を從へたとあり、洪武十六年(1384)明の太祖使を遣はして三王兵戦を息めよと諭さしめたので中山王祭度・山南王承察度・山北王怕尼芝各々詔を奉じて兵を止め使を以て恩を謝した。依て太祖三王に衣幣を賜う。山北の入貢は之より始まる。云々
怕尼芝は元中九年(1392)に薨じ珉之に代り、應永三年(1396)珉亦没して子攀安知立ち、應永二十三年に至り尚巴志の指揮する連合軍に包囲せられ遂に滅亡した、四代九十余年と稱する。「中山世譜」に云う、
山北王今帰仁在位年数不詳、怕尼芝在位年数不詳、珉在位五年、攀安知在位二十一年、元の延祐年間に起り明の永樂十四年に尽く、凡そ四主九十余年を経たり。
山北王の明国入貢は弘和三年(1383)中山察度王の時怕尼芝の遣はしたのが、史上に現れた始であるが怕尼芝に亡ぼされた。今帰仁按司の子孫と称する家に支那織の衣類などが数種伝わっているのから考へ又「中山世譜」に怕尼芝の前に山北王今帰仁とあるのから察すれば北山王国も怕尼芝王以前より支那交通をなし、今帰仁の世の主が其の子弟を羽地・名護・国頭等に配置して全地方を統一し事実上の北山王となっていたのであろう。
偖(さ)て「野史」に依って怕尼芝以前の今帰仁按司を探るに、昔天孫氏の子弟今帰仁に封ぜられてあったが、利勇反逆の際に亡び、次に義本王の弟が今帰仁按司となり数代の後嗣子なき爲め姻戚なる英祖王の次男を養子となしたという。
予、「野史」に基きて調査するに瞬天系統以前に就きては全く之を確めることが出来ないけれど、英祖系統に就きては其の記事と大同小異の伝説が各地の旧家にあり且種々の遺物も保存されているのから見れば、必らずしも無稽の説とは思はれず。
此の英祖王の子で今帰仁按司になった系統を俗に仲北山と呼んでいる。今「中山世譜」の記事と総合すれば矢張りそれ以前に北山王と稱する今帰仁按司が数代あったことは明白である。
仲北山は二三代の後其臣本部大主(大腹とは違う)の謀反に遭って一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取返したが(「北山由来記」1383年には此の若按司を丘春としてある)不運未だに尽きず、一、二代の後再び一族なる伯尼芝の爲めに打滅ぼされてしまった。
伯尼芝(長男)が中北山を滅ぼし、北山王となり、次男の真松千代が沖永良部島、三男の与論世の主(王舅)が与論島を統治していく流れである。(ここまでは北山側に記される。そこから先は沖永良部島側の記録とのかみ合わせとなるか。それと三山統一後は「おもろ」「古琉球の辞令」、のろ制度と遺品、シニグなど。)
【琉球的なものの廃止】
沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。
・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
謁して辞令を貰っていたという)
・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
する。
・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
【口語訳】(蔡温の独物語)
毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは
當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは
昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気まま
の風俗がわるく蔓延、それに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言葉で
言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方
にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。
これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければ
2003.2.23(日)調査記(平成10年)
少し気分転換に奄美大島の加計呂麻島を机上で散歩してみましょうか。加計呂麻島は奄美大島の南側に位置し、瀬戸内町に属しています。机上とは言ったのですが、沖縄県博物館協議会が瀬戸内町で開催されたとき(平成10年10月5日から8日)加計呂麻島を訪ねています。
平成10年10月5日、みんなより一日早めに奄美に入り、瀬戸内町の油井の八月祭を見た記憶があります。大雨の中、瀬戸内町郷土館の学芸員をしている町氏が空港まで迎えにきてくれたことが思い出されます。数名のメンバーがその祭りをみるために1日早めにくるだろうと思っていたら私一人でした。大雨の中、曇った窓ガラスをふきながら(クーラーの壊れた車だった?)工事中の山道を二時間余りかかりました。ほんとに今でも感謝しています。その時のノートがあるはずだが・・・。時の写真アルバムがありました。
ノートは見つかりませんがアルバムから記憶jをたどってみました。平成10年10月5日「油井の豊年祭」を見学しています。他の博物館のメンバーは翌日に瀬戸内に入るとのことでした。一人参加となりました。来賓席に招かれて恐縮してしまいました。やはり仕事柄座って見学とはいかず撮影と記録とりに動いています。
八月踊りにはひょうきんな仕草があり、面をかぶっての踊りがありました。到着前に綱引きや大和相撲は終わっていました。綱引き・土俵入り・前相撲・稲刈り・稲すり・米つき・力めし・観音翁の土俵見回り・ガットドン(赤ふんどし)・玉露加那(タマツユカナ)が行われました。その日は大雨で演目のいくつかは体育館の中で行われました。あいさつを求められコメントを述べたことは覚えています(内容は不明)。
加計呂麻島に渡ったのは7日でした。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などの集落をまわりました。一つ一つの集落(ムラ)については、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができました。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことに。
神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分があります。屋根が高く現在は床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ています。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがありました。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物があり、気になる施設でした。
薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思います。一度で集落の地理的空間がほとんどつかむことができません。再度訪ねたい島です。(その後、三回訪れています)
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▲武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』) ▲瀬戸内町で(平成10年10月)
▲これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの
作りに似ている。
当時、すでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていました。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織―加計呂麻島須子茂のノロ制度―」(ヨーゼフ・クライナー)など山田尚二氏の須子茂の辞令書に関心をもっていました。
それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ―神アサギ―集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかったことがありました。
シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりまで及んでいることに気づかさ、仮説の線引きをしたことがあります。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど遺り伝えているのかの研究を深化させていきたい。
2023年12月22日(金)
古代の支配者と名護城
『名護六百年史』(1985年版)比嘉宇太郎
天孫氏の世では、按司達は各所領間切に割拠して一城を構えて任意に政を施し、公事ある毎に出仕して王威に服従したが、その末裔に至って政道漸く紊れ、天孫氏二十四代の国王は権臣利勇に弑殺され、国を奪はれた、天孫氏の覆滅によってその藩塀である北山(大昔北山という)も離散滅亡したが、北山の息のかヽっている国頭地方の間切按司達が、騒乱の中に在つて、克くその地位を維持することが出来たかどうかは甚だ疑問である。
後年尚巴志王統が亡んだ際にも、その系統の北山監守は逃亡したが、国頭地方の諸按司は、謂はゞ血族同志で、地理的にも政治的にも相互の関係が深く、中山の政変は勿論、北山城の内肛の場合にも安堵としていないのが常である。天孫氏滅亡の後に、名護城(なんぐすく)もまた相次いで今帰仁の北山城と運命を共にしたであろうことは疑を容れない。為朝の子舜天が義兵を挙(あ)げて纂奪王利勇を滅ぼし、按司中の最強者大世の主の地位を獲得した年代は1187年で、彼はまだ二十二才の若冠であった。按ずるに大昔北山の離散滅亡は、利勇の革命の余波を受けて起った事件であるから、大昔北山最后の日は明かでないにしても、舜天創業の年代とそう開ぎはなかろう。爾来五十有餘年北山には主がなくどう始末されたかも判然していない。
口碑や旧家系譜の伝える北山中興の経緯を辿って、次に興った仲昔北山は、舜馬順熙王(の次子を迎えて北山の世の主(よのぬし)今帰仁城主に奉じ、二世は嗣子がなかったので、中山英祖王の次子を養子に入れて統を継がしめた。これが北山の世の主湧川王子である。北山の世の主という称号は、国頭地方の諸按司を支配する最高の権力者を指す尊称である。湧川王子の嫡流は代々今帰仁に根城をおき、その一族は間切按司として名護、羽地、国頭の諸郡に君臨していたから、国頭地方は、宛然北山閥族一色で塗りつぶされた観がある。湧川王子の孫に当る三世の今帰仁城主に至って、一族の怕尼芝は宗家を覆えし、当時中山の衰頽に乗じてその覊絆を脱し、自ら北山王を名乗って天下三分の形勢を作った。
史乗の名護按司と羽地、国頭の諸按司は、怕尼芝に敗れた今帰仁城主の弟君で、血縁のつながりから、骨肉相噛む北山の内紅を身近かに感じ、怕尼芝の謀反をいた<忌み嫌った。それで名護按司は、今帰仁を遂はれた城主の弟とその家族達を保護隠匿するなど、暗に敵対行為を示し、捲土重来の機会を待っていた。即ち一族の諸按司が大義を以て合従同盟を結び、敢て社稯の義戦を戦はなかったのは、怕尼芝の武力と権勢に対し、相桔抗すべく余りにも微弱であったことに原因する。
以来柏尼芝の統は珉、攀安知と三代九十一年に亘り北山に覇を唱え、中山、南山に倣って明に進貢して冊封を受けたが1416年中山の尚巴志に征服されて遂に滅亡した。巴志の北山出師の前後において、名護按司等一族累代の諸按司が策戦の枢機に参劃し、中山王を尊いて宗家の一族を攻め滅ぽす挙に出たことは「正史」の伝える所であるが、宗家を滅ぼした北山王が、感情的に好ましくないというより、彼の武力が是等三按司家の存立の脅威であったがため、敢て遠交近交の策に出たものと思はれる。
吾々は今まで古い時代の統治者即ち名護按司に、ついて主として北山との関係において、その来歴を略述したが、英祖王の子で北山の世の主になった湧川王子の孫(今帰仁城主の弟)が「正史」に出て来る最初の名護按司であることは既に述べておいた。しかし当の名護按司は、何時頃名護に封ぜられたのかその年代を明かにすることが出来ない。実兄に当る今帰仁城主は、一族の怕尼芝に取って代えられ、城主の一家は浪々の身となって、親戚の名護按司を頼りに匿っている事情から推して、この事変以前に遡ることであろう。
三山鼎立の当初、怕尼芝が中山の覇絆を脱して独立を唱え出したのは、玉城王の治世の中葉1325年頃の出来事で、従って、仲北山系の名護城按司の起りは、これに先立つ十数年以前ではない。察するに玉城王が統を継いだ1314年頃と見て、今を距る凡そ六百四十年が名護城中興期である。
巴志の北山攻略戦で、名護按司等門中の諸按司は、六路軍の部将として今帰仁城下に奮戦し、仇敵を仆して宿願を成就したが、彼等はまたこの兵戦で殊動を樹て、巴志に忠誠を尽しているから、夫々の地位や所領に安堵することが出来たであらう。しかし巴志は仲北山王統の復僻を欲しなかった。北山滅亡後六年、1422年には次子尚忠を今帰仁城に遣はし、監守として北山の守護に任じている。これを要するに、北山が険岨を恃み、素朴剛健な気風を以て中山の教化に靡かず、再び兵乱の起らんことを恐れたからである。
1468年、中山には復々世替りが起って、巴志王統の末王尚徳は廃された。翌年尚円が即位すると、巳志の三男なる北山監守は亡び、城内官職に在った仲北山系の一族も離散亡命した。この革命騒ぎで、仲北山に統を汲む諸按司家の内部に動揺が起きたかどうかは知られていないが、怕尼芝纂立の時と異って、名護按司は亡命者を隠蔽するようなことはなく「寧ろ友邦に贈るとも家奴に与うる勿れ」と、支那流の方策に見倣ってか、今度は門中の亡命者を見殺しにして、孜々按司家の保全に力めた。1477年尚真登極して中央集権の策を樹て、各間切に城砦を構え、戦士を抱える按司達から武器を没収して、按司とその家臣を束ねて居を首里城下に移した。
名護按司が首里の北の平等に引き揚げた年代は明らかにされていないが、1500年頃で今を距る凡そ四百六十年も昔のことである。顧みる仲昔北山の盛んなる頃、湧川王子の孫が名護按司として名談城に拠り、間切人民を支配するようになってから凡そ二百年、住民達は城を中心に聚落を作って繁植したが、按司家とその家臣逹が引払った後の山上部落は、間もなく平地へと分散して、古城には祭祀と伝説だけが残った。
名護城は天孫氏以来の按司の居城たりし地で、歴代の按司はこヽを根拠に間切住民を支配した。城は海抜三百呎に達する瞼峻な山塞で、南面は名護湾に迫って水清く、波濤によってのし上げた白い珊瑚の砂丘が陸地を拡げつヽ海に向って前進し、北西遙かに嘉津宇の連峰を距てヽ、その間数哩に及ぶ緩やかな丘陵は、住民に農耕地を与えるだけでなく、戦略的には遮ることのない広い展望が、外敵の襲来に備えて哨戒に都合がよく、北東の背面は嶮難な名護岳と一連の山続きで、城砦の後楯ともすべき数丈の懸涯は、城川の渓谷に落ち込んでいる。
形相が軍事的或は政治的見地からして、当代に.おける優れた要衝であったことは、ぐすくという名称からしても間切唯一の城都たることが窺はれる。しかし名護城に残る古い伝承は、のろ、根神、内神などの神職と住民達の祖神名幸の墳墓があるだけで、城砦の構築に使用されたと覚しき木石の遺存するものがない、朝鮮瓦の破片が時々地中から堀り出されるけれども、これは後代に属するもので、当代の城塞は茅萱の類で葺き、篠竹を編んで囲塀を作り、これを縄で繋ぎ固めて八尋殿(やひるどん)、十尋殿(とひろどん) と称していた程で民力と文化の程度は低かった。首里王城てもまだ瓦は使っていない時代である。2003.11.3(月)
【山原の図像】②
「沖縄の民間信仰と図像」の展示会(沖縄県芸術大学)(図像提供)が開催されている。まだ展示を見ていないので明日には見に行かないといけません。展示されている図像調査をベースに講演?をしないといけないのですから。これまで山原で調査した図像を一点一点確認する作業を進めます。ここ4、5日は講演に向けての資料整理の報告になりそうだ。
さて、『球陽』の尚貞王23年(1691)の条に「関帝王の神像を創建す」の記事がある。
康煕癸亥、冊封勅使汪楫・林鱗煌、本国の帝王を供することを無きを惜しみ、
竟に帝王廟を創建するの意を以て深以て許愿し、乃ち白銀伍十両を捐して此の
像を創建するを請乞す。庚午年に至り、王、貢使をして能く関帝及び関平・周倉の
聖像を塑せしむ。明くる年の夏、此の神像を奉じて回り来る。即ち上天妃廟内に、
別に一壇を築きて其の像を奉安し、以て聖誕及び春秋の祭礼を致し、永く護国伏
魔の神と為す。
1683年に冊封使が関帝がないことを惜しんで、帝王廟を創建することを請うている。そして1690年に五十両を出して三人像をつくらせている。1691年が関帝王の琉球への導入の初めとみなしてよさそうである。そのとき関帝・関平・周倉の三人像を上天妃廟内に図ではなく「其の像」を奉安している。生誕と春秋に祭礼をし、護国伏魔の神として祭られたようであるが、山原では護国は別にして魔を伏させることが祈りが主になったのであろうか。さらに像より図の方が流布して民間に掲げられるようになったのかもしれない。
下の図像は本部町辺名地の仲村家。福禄寿(文字図)・福禄寿(人物図)、それに関帝王図(三人図)が掲げられている。もちろん、火神・位牌も安置されている。仲村家にある関帝王の図は、左手に書物を手にした関帝王・長刀を持った家来の周倉、後方に包みを持った子の関平の三人図像である。関帝王図に三人像・二人像・一人像がある。
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▲本部町辺名地の仲村家の図像 ▲関帝王(三人図)
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▲図像の写真選び出し中なり ▲写真を整理していきます
2023年3月02日(木)恩納村での講座用レジュメ(一部)
12日と17日に恩納村へ。その一件、「歴史の道」(宿道)の講座。その準備。本部町、名護(羽地・名護)・沖永良部島、大宜味村、恩納村と続いている。今日は「歴史の道」(恩納間切)を先日恩納村史から提供してもらった明治14年の上杉県令一行の「巡回日誌」をベースにまとめてみるか。しばらく、訪れていないので近々踏査してみないと。金武間切と恩納間切境の「喜瀬武原のウマチモー」は建て替えれる。
【『上杉県令巡回日誌』にみる恩納】『沖縄県史十一』(上杉県令日誌より)(恩納村史村史より打ち込み原稿提供)
幸喜村→(海岸)→(喜瀬力)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村
二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休)→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。
恩納村の宿道(スクミチ)(巾8尺:約2.4m、両側に6尺(約2m)松をうえ
―読谷村喜名―親志原―◆―◒多幸山―山田小・中学校―久良波―山田温泉―上の丘―仲泊貝塚へ
下り―◒仲泊―前兼久―◒ムーンビーチ門口―富着浜に沿って―谷茶浜◒―ジムンの海岸を迂回
―屋嘉田浜―赤崎―馬場◒――元の恩納役場―恩納古島―恩納グスク―太田の浜沿い―瀬良垣―
◒安富祖―衛星追跡所(山手)―熱田―名嘉真―伊武部―◆―喜瀬(名護)
脇道
―金武へ通ずる道 金武―名嘉真間
安富祖から原道あり
―久良波テラン口―真栄田―塩屋―与久田―長浜―
上杉県令一行は名護から恩納間切へ(恩納間切部分のみ)
幸喜村→(海岸)→(喜瀬)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村
二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休))→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。
2009年8月7日(金)メモ
【移動村が故地に遺していったもの】(1736年に移動した呉我村)
今帰仁村に呉我山がある。呉我山の地は現在名護市呉我の故地である。1736年に蔡温の山林政策で現在の今帰仁村呉我山から羽地間切の地に移動した(方切)。その地は複雑な動きをしている。1600年代の前半まで今帰仁間切、1690年頃その地と村は羽地間切へ。1736年に一帯にあった振慶名村、我部村、松田村、桃原村、呉我村を同じく羽地間切の内部と屋我地島へ移動。移動させた後地を今帰仁間切の地とした。そこに1738年湧川村を創設した。(村移動はまだしていない。村移動は1736年である)。
・『絵図郷村帳』(1644年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
・『琉球国高究帳』(1648年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
(1690年頃 間切の方切があり、ごが村域は羽地間切に組み込まれる)
・『琉球国由来記』(1713年) 羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・(松田村と桃原村は出てこない)。
(この時期、村移動はまだしていない)
・1736年に羽地間切内にあった呉我村をはじめ、他の村を羽地間切地内へ移動させる。
移動させた地を再び今帰仁間切とした。
・1738年に新設された今帰仁間切湧川村、羽地間切我呉村のあった地は今帰仁間切天底村となる。
・大正9年に字呉我山(天底・玉城・湧川の小字の一部からなる)が創設される。
現在の今帰仁村呉我山は大正9年に新設される。その時、字天底から三謝原(シイナ)・古呉我原・古拝原、玉城から西アザナ原、湧川から中山原をして呉我山とした。呉我山の小字の古呉我原や古拝原名に移動する前の村の痕跡をとどめている。三謝原にあるシイナグスクを考えるには、1738年新設の湧川村ではなく、移動する前の近隣にあった呉我村(現在の呉我山)や振慶名村(現在の湧川の鎌城原、振慶名村の故地)との関係でみる必要がありそうだ。(我呉村が移動した後地に住んでいる呉我山の人々のほとんどが寄留人である)。
故地に遺されたのに地名がある。呉我の故地に「呉我山」「古拝原」「古呉我」などの地名が遺されている。呉我山から移動してきた呉我の人々は旧暦五月に故地の屋敷跡や拝所、アシヤギ、堤泉、神泉の跡地などを参拝している(『呉我誌』)。1736年に呉我村が移動した後の史料で「古呉我山」や「古我」など、故地を意識した地名となっている。
『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉河(我)村・振慶名村・我部村・松田村は、移動する前の故地における拝所である。それらの村は我部ノロの管轄で、村移動後も変わることなく継承されている。
現在の湧川地内に「ケ しゆや原」の印部石を確認している。
※呉我村は現在の呉我村から
振慶菜村は現在の湧川のガジマンドーから
我部村は湧川の下我部あたりから。
松田村は湧川?から
桃原?
2011年1月26日(水)過去メモ(2011年現在)
「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良でなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。今回提供された印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。
「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろうか?
「ケ しゆや原」の印部石の確認は今帰仁村内で24基目(2011年現在)である。
▲湧川の前田原にあった印部石
近世の首里王府から今帰仁間切への宿次は二つあり、国頭方西宿は浦添→北谷→読谷山→恩納→名護→本部→今帰仁のルートである。もう一つは国頭方東宿で、西原→宜野湾→越来→美里→金武→久志→羽地→今帰仁のルートである。恩納間切は国頭方西宿のルートの山原への入口にあたる。読谷山間切から恩納間切への、かつての宿道(スクミチ)の一部を辿ってみた。現在恩納村が「歴史の道」として整備し、活用している。
かつての宿道(スクミチ)は基地にはばまれたり、あるいは道筋の変更があったりで、そのまま通れるわけではない。恩納村にその面影を残している所があり、整備されているので訪ねてみた。読谷村から県道6号線(沖縄本島西海岸)沿いに 恩納村の塩屋・真栄田に向かう。真栄田の共同売店の前から右手(山手)にはいていくと、約1kmの所に真栄田から山田に通ずる宿道(スクミチ)にたどりつく。そこから更に200mのところまで行くとフェレー(追いはぎ)岩がある。その道筋を1km進むと真栄田の一里塚がある。更に200m行くと御待毛(ウマチモー)がある。先は米軍基地にぶつかり行き止まりとなる。本来の宿道は読谷山間切の喜納番所から恩納間切へ向かっていくのであるが、道路の拡副や変更、基地などで、ほとんどその姿を消している。
①御待毛(ウマチモー)は、読谷山間切から恩納間切との境にあり、両間切の文書などの引継場所である。今帰仁間
切と本部間切との境の具志堅や金武間切と恩納間切の境の喜瀬武原にもウマチモー(御待毛)がある。
②一里塚(真栄田)
③フェレー(おいはぎ)岩
④国頭方西宿街道
⑤寺川矼(垂川矼)
⑥山田グスク
⑦ 山田村 旧集落跡(神アサギ跡・地頭火神)
⑧山田谷川の石矼
石橋の側の案内板に、次のような琉歌が詠まれている。
山田谷川に 思蔵つれて浴みて 恋しかたらたる 中のあしゃぎ
(愛しい人と共に、山田谷川で浴びて、中のアサギで、恋をかたりあいたいものだ)
⑨比波根坂石畳道
⑩仲泊遺跡
⑪唐人墓の碑
⑫恩納間切番所跡
⑬恩納松下の琉歌碑
恩納松下に 禁止の牌のたちゅす 恋しのぶまでの 禁止やないさめ
(恩納番所(役場)の前の松の木の下に、いろいろな禁止事項を書いた牌(掲示板)が立っているが、その中に
恋をすべからずというが禁止まではあるまい)
恩納ナベは尚穆王(1752~95年)の時代の人物で琉球三女流歌人の一人で恩納間切の出身である。
⑭恩納奈辺歌碑(歌人恩納奈辺記念碑)
波の声も止まれ 風の声も止まれ 首里天加那志 美御き拝み
(波の声も止めて静かになれ、風の声も止めて静かになれ、すべての物音も静まれ、厳かに国王の御顔を拝みた
いものです)
⑮恩納ノロ家と神アサギ
上のキーワードで恩納村内を踏査してみた。一つひとつ書き上げていきましょう(出版物原稿のため)。
▲間切境のウマチモー(御待毛)のあった場所 ▲真栄田の一里塚のマウンドの一つ
▲フェレー(おいはぎ)岩 ▲岩の下を通ったのであろう
▲架け替えられた寺川矼 ▲旧山田集落近くのメーガー
▲山田グスクの崖中腹にある護佐丸父祖の墓 ▲(脇)地頭火神と神アサギ跡
▲山田谷川の石矼 ▲仲泊遺跡近くの比屋根坂の石畳道
台風2号の爪跡が各地の残っているこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。晴れると真夏のようで、梅雨明けが近いのでしょうか。
さて、第2回目の講座は、本部町瀬底島に行きます。瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となります。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っています。瀬底島に二つの祭祀の姿がどう残っているのか、見ていくことにします。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村です。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなります。
瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができます。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されています。
上間家の二代から五代まで地頭代(健堅親雲上)を出しています。二代目の時、唐旅をして清国から「土帝君」の木像を持ってきて祀ったといいます(国指定の文化財)。
本島側から移動してきた石嘉波村側には神アサギや旧家の跡やウタキなどがあります。それとティランニーという洞窟などの拝所を訪ねることにします。
☆ 6月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合(コース)
↓ 出席の確認
↓ 瀬底島の概要説明
↓(瀬底島へバスで出発)
↓ 石嘉波村の拝所(旧家・神アサギ・根所・タキサン(ウタキ)
↓ 土帝君・瀬底ウェーキ跡
↓ 綱引き・公民館
↓ ウチマンモー(シニグ・ウシデーク・綱引きなど)
↓ 大城家(ウフジュク:大底)・神アサギ・アサギミャー(豊年祭の舞台)
↓ 瀬底ノロドゥンチ
↓ ウチグスク
↓ チンガー・ケーガー
↓ 石嘉波ガー
↓ ウフンニ(遠見台跡)
↓ ティランニー(洞窟)
↓石嘉波村の故地(健堅~崎本部)
↓ (13:00 解散予定)
▲瀬底島の全景(『瀬底誌』より)
▲瀬底の「土帝君」の祠 ▲瀬底ノロドゥンチ
▲瀬底島(石嘉波の神アサギ) ▲石嘉波神社(ウタキ:タキサン)
(以下略)
与論踏査(2018年2月)記録
オモロと与論(ノロ関係は未調査)
朝戸のユウトクダークラ(徳田家にノロの神衣装と首飾り(勾玉?)が保存されているという)
おもろを通して与論をみていく。
うらおそいおやのろが節
一 玉の御〇で加那志
げらゑ御〇で加那志
神 衆生、揃で
誇りよわへ
又 奥武の嶽大主
なです杜大主
又 かゑふたに 降ろちへ
厳子達に 取らちへ
はつにしやが節
一、かゑふたの親のろ
とからあすび 崇べて
うらこしらへ
袖 垂れて 走りやせ
又 根の島の親のろ
又 のろのろは 崇べて
又 神々は 崇べて
又 北風 乞わば
「正保国絵図(琉球国(1644~48年)の「与論嶋」の記載文字をみると、「異国船遠見番所」がある。この地図上では鬼界嶋・大嶋・徳之嶋・永良部嶋・与論嶋は琉球国之内とされている。遠見番所の設置は1644年である。与論嶋の異国船遠見番所の設置の北限が与論嶋である。異国船遠見番所が与論嶋のどこにあるのか以前から気にしながら嶋を踏査してきたが、確認できていない。(下の絵図は「琉球国絵図史料集第一集」(沖縄県教育委員会)より)
下の画像の岩の場所が何使われたのか聞き逃してきた。「一積みの旗立てぃ岩」であり、その隣にある大きな岩である。展望のきく場所である。根津栄と関わる場所なのか、あるはシニグが行うサークラの拠点なのか。近世の「異国船遠見番所」に使われたか。
「琉球国絵図」の図に鬼界嶋、大嶋、徳之嶋、永良部嶋、与論嶋は「琉球國之内」とある。1611年与論嶋以北は薩摩に割譲されたのに、琉球國之内とされている。
▲絵図に「異国船遠見番所」がある。
▲近世に置かれた「異国船遠見番所」跡?(西区)
名桜大学:沖縄地域文化論 (後期1回)2011.09.27 仲原
弘哲(今帰仁村歴史文化センター)
2005.02.05(土)
机上の旅は便利なものだ。記憶を呼び起こすために伊是名島の写真アルバムを捜してみた。もっと新しいアルバムもあるはずだが見つからず、1994年のモノクロ写真をめくって見た。記憶がなかなかよみがえってこない。これは、まずい。全身麻酔でそこは消え去ったか!
さて、今帰仁阿応理屋恵、久米島の君南風もそうであるが、三十三君の一人として伊平屋大あむがいる。初代の伊平屋大あむ(伊平屋の阿母加那志:アンジャナシー)は尚円王の姉真世仁金が任命された。伊平屋大あむは首里・儀保・真壁の三あむしられの内の首里大あむしられに属した。
尚円王の叔母に同名の真世仁金がおり、二人の娘がおり「二かや田阿母」の神職を賜った。この職を二人の娘が継いだため「南風の二かや田の阿母」(フェーヌハダ:フェーヌタータ)と「北の二かや田の阿母」(ニシヌハダ:ニシヌタータ)に分かれた(『伊是名村史』)。これらの神職を掌る神人の祭祀がどうなっているのか。実態の見えない今帰仁阿応理屋恵の祭祀が、伊平屋の神職を継ぐ三家(殿内)の祭祀から少しでも手がかりが得られたと考えているが、果たしてどうか?
伊是名島にある伊是名グスク。標高97mにあり、グスク内に三つのイベがある。
①大城ミヤ御イベ 神名:真玉森 →諸見・仲田のナー(両村の拝所)
②高城ミヤ御イベ 神名:スエノ森 →勢理客のナー(勢理客の拝所)
③伊是名ミヤ御イベ 神名:伊是名森 →伊是名のナー(伊是名村の拝所)
伊是名グスクの三つのイベに関心を持っている。それら三つのイベがムラの拝所になっていないかである。大城ミヤ御イベは諸見と仲田の人たちのウンジャミとシニグを行なっているようだ。他の二つのイベも勢理客と伊是名のナーとしてムラ名が付いているので、そのムラの拝所(イベ)に違いない。ならば・・・(要確認)。
▲伊是名グスクと銘刈家(1994年撮影)
2005.04.28(木)
晴天。沖縄の空と海は美しい。今帰仁グスクから眺めた海は干潮時にあたりリーフが干上がっている。入道雲はまだ。「北山の歴史」を画像(パワーポイント)を使って説明することに。その方が理解しやすいであろうということで。
私の関心は伊是名(伊平屋島もふくむ)は「沖縄の歴史」の三山統一後、首里王府が理想的な形で統治できた島(地域)ではなかったか。首里王府の天領(直轄地)とみることができ、直轄地的な支配が首里文化が浸透していったのではないか。その首里文化をはずしてみたとき、そこに沖縄本島北部(山原)と色濃く共通するものがありはしないか。もしあるとするなら、それを北山文化として見ていけるのではないかと考えている。祭祀(三名のノロ)や夫地頭を世襲させ、それが廃藩置県後も継承されている(現在継承者なしもある)。
伊江名(伊平屋を含む)が首里王府の支配を直轄地的な形をなしたのは、以下の四殿内(ユトゥヌチ)の世襲である。四殿内には古文書や伝世品(玉貫や酒器や盆など)、扁額、櫃や勾玉、衣装などの遺品が遺されている。その四家に関わる「伊是名玉御殿」(墓)である。
・銘刈地頭職(大屋子)(ミケル)(銘刈家)
・伊平屋の阿母加那志職(アンジャナシー)(名嘉家)
・南風のニカヤ田の阿母(フェーヌハタダ)(玉城家)
・北のニカヤ田の阿母(ニシヌハタダ)(伊礼家)
もう一つの関心は伊是名島の神アサギである。現在伊是名島に四つの神アサギ(アシャギ)があり、村指定の文化財となっている。『琉球国由来記』(1713年)に神アシアゲが山原のような項目立てての表記はされていないが、祭祀の中に「村々神アシアゲ」と出てくる。中南部のような「殿」のような表記ではない。祭祀など首里化していくが、祭祀空間としての神アサギは根強く遺しているのではないと考えている。山原のほとんどの神アサギが集落の中心部となる場所に置かれ、豊年祭を行なうアサギナーがある。伊是名の神アサギは屋敷内である(近々確認してみたい)。
・伊是名の神アサギ
・仲田の神アサギ
・諸見の神アサギ
・勢理客の神アサギ
2005.05.07(土)
伊是名グスク(杜)内、あるいは麓に一帯に伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落があったに違いない!
【伊是名島の四つのムラの集落移動】
伊是名島には『琉球国由来記』(1713年)で登場する村(ムラ)は伊是名・勢理客・仲田・諸見の四つである。内花は昭和19年に字として諸見から独立しているので、ここでは扱わない。ここではグスク内にある御嶽(イベ)と祭祀との関わりで見てみる(山原のムラを見る視点、集落・御嶽・神アサギの関係と祭祀)。
『琉球国由来記』に出てくる伊是名グスク内にイベが三つ出てくる。それらのイベとムラ(あるいは集落と祭祀)の関係がどうなっているのか。集落の発生と密接に結びついている御嶽(御嶽の内部のイベ)と集落。その結びつきが祭祀の拝む場所(御嶽:イビ)に痕跡としてあるのではないか。伊是名グスクは標高97mのピラミット型の杜で、またグスクでもある。グスク内(杜)に以下の三つのイベがある。
・伊是名ミヤ御イベ:神名 伊是名森(公儀祈願所伊是名城内)←伊是名
・高城ミヤ御イベ:神名 スエノ森(公儀祈願所伊是名城内)←勢理客
・大城ミヤ御イベ:神名 真玉森(公儀祈願所伊是名城内)←(諸見・仲田)
伊是名グスクの三つのイベで、大城ミヤ御イベで諸見と仲田、高城ミヤ御イベで勢理客、そして伊是名ミヤ御イベで伊是名の人たちがウンジャミとシニグを行なっている。山原の今帰仁グスク内の二つの御嶽(イビ)、根謝銘グスク内の二つの御嶽(イビ)と同様な形態をなしている。それはグスク(御嶽:杜)に二つの集落があり、その杜がグスクとなり、杜にあった集落が移動。集落が移動しても御嶽(イビ)への祭祀は途絶えることなく継承される。そのことが、伊是名グスクにも適用できそうである。
その視点で伊是名グスク内のイベと集落の関係を見ると、伊是名杜(後にグスク)内や麓にあった伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落が、そこから移動していった。イベある一帯はそれぞれの集落の故地であると。諸見と仲田は移動する前は一つの集落で、移動時あるいは移動後に二つの集落(後にムラ)に分かれた可能性がある。1713年以前の分離なので、それぞれに神アサギがあって当然なこと。(伊平屋あんがなし、二かや田、銘刈家、それと伊是名ノロの祭祀の関わりなどを含め詳細な調査検討が必要)。
【伊是名ムラの集落移動】
伊是名については、すでに解かれているように伊是名グスクから伊是名の上村へ、そこからさらに現在地に移動している。伊是名グスクあたりを元島、そこから移動した地を上村と呼び、地名(小字名:原名)に移動の痕跡を遺している。
【勢理客ムラの集落移動】
【諸見・仲田ムラの集落移動】
▲杜の内部、あるいは麓一帯に集落? ▲グスクから仲田・諸見集落をみる
2005.05.06(金)
「伊是名ゆき」の目的に伊是名港と山原船の件があった。伊是名は島なので、現在でも海上輸送が主である。王府時代に伊是名島に共有船や個人船(いずれも山原船)があり、沖縄本島との間で物資の輸送があった。山原船は帆での運航なので予定は風任せである。
以下の略年譜のように番所や役場は伊是名村から仲田に移動。さらに伊平屋村は昭和14年に伊平屋村と伊是名村に分村する。
・伊平屋島の番所は伊是名村(ムラ)に置かれる。
・明治13年伊是名村の番所内に伊平屋島役所が設置される。
・明治14年伊平屋役所は那覇役所に併合され、番所はそのまま置かれる。
・明治29年郡区制が敷かれ、伊平屋島は那覇役所から島尻郡区に編入される。
・明治30年伊平屋島番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
・大正11年(1922)の伊福丸が伊平屋村と那覇間を就航する。
・昭和6年伊平屋村(伊是名含)役場は伊是名から仲田へ移動。
・昭和14年(1939)に伊平屋は伊平屋村と伊是名村とに分村し、伊是名村の役場は仲田に決定する。
・伊福丸は伊是名村と伊平屋村の共同経営となる。昭和19年の10.10空襲で爆撃をうける。
・昭和39年(1964)に仲田港を拡張・整備をする。
【明治の新聞記事】
・難破船(明治31年4月15日)
・琉球形帆船の流失(明治32年8月7日)
・琉球形船の行方不明(明治34年7月7日)
・難破船(明治36年7月9日)
・山原船の海難(明治38年11月5日)
・難破船一束(明治39年10月30日)
・難破船(明治42年3月31日)
・山原船の転覆(明治43年1月23日)
新聞記事の一例「山原船の転覆」(明治43年1月23日)を全文紹介する。
島尻郡伊平屋村字伊是名の共有山原三反帆船は、同村仲田四郎を船頭として外三名
乗込み、藁三千五丸、藁五十枚、銀貨十五円位、紙幣十五円位、雑品入箱四個、公文
書類一包と、外に去る旧臘帰郷せる、同村字勢理客歩兵二等卒上原三郎の、連隊より
貸与せられたし返納軍服を積載して、去る十七日伊是名津口を出帆し国頭郡本部村字
崎浜に碇泊し、翌十八日未明那覇へ向け仝地を発帆したるが、午前九時頃恩納崎を距
る三海里の沖合に差しかかりしに、折しも吹き荒れる北風は激浪を巻き起し、終に船体
は転覆、激浪は更に乗組員一名を海中に捲き込み、行方不明となりたりとは悲惨にあ
らずや。
▲現在の伊是名港 ▲昭和14年以前はここが主港
▲伊是名のドー(観音堂)のある杜 ▲千手観音を祭った祠
2005.05.05(木)
5月2日「伊是名は山原?」をテーマに伊是名島をゆく。近世の伊平屋(伊是名を含む)は「国頭方」に入る。地理的には明らかに国頭郡の領域にはいるが伊是名・伊平屋の両島は明治29年に島尻郡となり、現在でも島尻郡区である。明治41年に伊平屋村となるが、昭和14年に、これまで伊平屋(村:ソン)であったのが伊是名村と伊平屋村に分割され現在に至る。各地で市町村合併があったが両村の合併はなかった。
今回、訪れたのは以下の場所である(一つ一つについては別に報告)。
・諸見の集落/神アサギ/尚円の御臍所/首見のヲヒヤ火神/潮平御井/屋部の土帝君/逆田
・仲田の集落/神アサギ/二カヤ田の阿母(玉城家・伊礼家)/神降島/ウェジャナシー
・伊是名グスク/番家/玉御殿(墓)/伊是名ミヤ御イベ/高城ミヤ御イベ/大城ミヤ御イベ
/イシジャー(石川)
・銘刈家墓/銘刈ガー/
・伊是名集落/神アサギ/銘刈家/御殿(ウドゥン:伊平屋阿加那志:名嘉家)/伊是名ノロ家跡
/番所跡地/学校発祥地/伊是名港/観音堂(伊是名のドー)/陸ギタラ/海ギタラ/
アカラ御嶽/サムレー道/浜崎港/伊是名漁港/シーシムイ
・勢理客の集落/神アサギ/タノカミ御嶽への遥拝所(アマイ倉?)/土帝君
・ふれあい民俗館/四カ通イ(シカドゥイ)の祭場コース)
【伊是名グスク】
▲フェリーから見た伊是名グスク ▲伊是名グスクの遠景(右が番家)
▲伊是名グスクの麓にある伊平屋(伊是名)玉御殿(東西二室になっている)
▲伊是名グスクへの登り道 ▲伊是名グスクへ上る途中にある大城ナー
▲伊是名グスク内にあるイシカー ▲グスクにある高城ミヤ御イベ
【伊是名の神アサギ】
伊是名島には諸見・伊是名・勢理客・仲田に神アサギがある。いずれも8本の石柱と軒の低い茅葺き屋根の建物である。特徴的なのは、山原の神アサギのほとんどが集落の広場(アサギナー)付近にあるのに対して、伊是名の四つの神アサギと旧家の屋敷内にある。それは中・南部の殿(トゥン)の配置と共通している。
伊是名の神アサギは山原とは異なり、御嶽―神アサギ―集落の軸線の法則性は希薄である。それは集落の移動と関係しているのかもしれない。集落移動と御嶽、そして神アサギの関係で見てみる必要がありそう。今回、御嶽との関わりの視点での見方はしていないので(再度確認をしてみたい)。
伊是名の場合は伊是名グスク(元島)から上村、そして現在地への移動が言われているので理解できそう。それと伊是名グスク内にある拝所と四つの村との関係。
伊是名の祭祀は公儀と村の祭祀が一体化している場合が多いようだ。それで伊平屋阿母がなしと北・南風の二カヤ田(タカヤタ)の神人の祭祀が村の祭祀にどうかぶさっているのか。村のみの祭祀がどう行われているのか。そのあたりの仕分けができると山原の今帰仁阿応理屋恵(アオリヤエ)と今帰仁ノロの祭祀の重なりが見えてくるかもしれない。そのこともあって、諸見からスタートして仲田、それから伊是名へゆく祭祀のコースを辿ってみたのだが…。
▲諸見の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)
▲仲田の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)
▲伊是名の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)
▲勢理客の神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)
2005.05.01(日)
休日を利用して伊是名島へ渡る。風があるのでどうか。伊是名島、地理的に山原でありながら、歴史や文化として山原ではなくなっている。それが何なのか興味深い。伊是名の方々は山原だと思っていないかも。おそらく???でしょう。それと三山(北山・中山・南山)の時代の伊平屋(伊是名を含む)は、北山の領域だったようだ。三山統一後は首里王府の直轄地のようなもの。それが伊平屋(伊是名)は山原ではなくしてしまった。首里王府の統治が今に大きく影響を及ぼしている。
ちょっとメモ書きをしておいたが、伊是名島の仲田、諸見、伊是名、勢理客のムラ、それと神アサギなどブラリブラリ見れたらいいなと思っているが…。
【伊是名グスク】メモ
伊是名島にある伊是名グスクは、伊平屋島(我喜屋)出身の屋蔵大主の子の佐銘川大主が築城したと伝えられる。佐銘川大主は沖縄本島の南にゆき、大里味の娘をめとり、その子が第一尚氏の苗代大親(思紹)だという。その子が尚巴志。三山を統一した人物である。
【四殿内(ユトゥヌチ)】メモ
また第二尚氏を開いた尚円もまた伊平屋(伊是名の諸見)出身である。金丸(尚円)が王位ついた後、尚円の身近な人物をノロ職や夫地頭職にし世襲させた。
・真世金仁金(尚円の姉)が伊平屋の阿母加那志の神職を賜る。
(にちりきよ君きよら、おもひませにかね)(三十三君の一人)
・叔母の真世金仁は「二かや田の阿母」の神職(名嘉家)を賜る。
・真世金仁「二かや田の阿母」に二人の娘がいたので、
南風の二かや田母(姉)(玉城家)
西の二かや田母(妹)(伊礼家)
・叔父の真三良は真和志間切銘刈村の地頭職を賜る。
目を患い伊平屋へゆき銘刈大屋子となる(銘刈家)。
【伊平屋島玉御殿】メモ
伊是名グスクの麓にある墓。伊是名玉御殿と呼ぶ(県指定)。
・尚真王時代(1500年代)の創建か?
・切妻式の破風墓(内部二室)
・東室に中国製の二基の石厨子(輝緑岩)
・ウツタクチテランソウ(勢理客)→東佐久田原(仲田)→現在地
・現在地の墓は最初木造の建物、さらに中に箱、その中に二基の厨子甕
・1687年大破したため現在の石造りの墓となる。
・東室に尚円の姉(伊平屋の阿母加那志)初代、尚円の叔父の銘刈大屋子、尚円の叔母の伊平屋
阿母加那志(初代)
・西室は各職の二代目以降が葬られている。
・同治9年(1870)から首里の玉稜同様に公事の清明祭が行なわれる。(その祭祀道具類は
ふれあい民俗館に所蔵)
【銘刈家】メモ
・尚円の叔父の真三良を初代とする銘刈家(国指定)
・銘刈家の当主は銘刈大屋子(親雲上)夫地頭職(終身・世襲)
・伊平屋玉御殿の清明祭を掌る。
・伊是名島における王家関係の祭祀儀礼を行う特異な夫地頭
【参考文献】
・『伊是名村史』(上・中・下)
・『角川沖縄地名辞典』角川書店(昭和61年)
・『沖縄県の地名』平凡社(2002年発刊)
③伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」
伊是名島の「雨乞い」と「火立所」のあるアーガ山に登る。その場所まで行くのは十数年振りである。行った記憶はある。島に何度か渡っているが、以来その場所に足を運んでいなかった。
伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で「異国船遠見番所」、『薩摩藩調製図』で「火立所」とである。伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で●記号で記されている。伊是名島から国頭間切の辺戸村で受け、辺戸村から今帰仁間切の古宇利島、さらに大嶺原、伊江島の火番所で受け、瀬底島、読谷山間切火番所、弁が嶽で受け継ぐ連絡網である。
アーガ山の嶺に「火立所」とは別に諸見・伊是名・仲田・勢理客が雨乞いを行う場所がある。
【伊平屋村雨乞の状況】(明治44.4.22)
三月九日、伊是名、諸見、勢理客及び仲田の四ヶ字、アーガ森に登り雨乞の式を挙行す。其の方各字一戸一名宛の総揃いにて、アーガ森一帯の四ヶ所に陣取り、盛に火を燃やし太鼓を打ちつつ北より東、東より南、南より西に順を遂ふて四方拝み、十一月以来降雨なきを恨み且つ訴へて降雨を乞う様、…
【アーガ山】(明治44.11.3)
支那への進貢船帰帆の折、往々吹き流されて当地に漂着したる事ありて、夏至の節に入り進貢船帰帆の時節となれば、アーガという山の頂上に灯を燃やし目標にしたりとぞ。今も其の跡残れり。其の年進貢船当地に漂流し、順風を待ちて那覇に向け出帆せしも、俄かに風位転じて意を果たさざることを数度に及びしを、一人の物識り曰く、風伯の嵩る無理ならぬ事なり。
▲「火立所」の方角は伊平屋島 ▲伊是名の「火立所」跡
▲諸見の雨乞いの場所 ▲伊是名の雨乞いの場所
2007年1月30日(火)
②伊是名島番所跡
伊是名島の伊是名まで足を運ぶ。伊是名島の番所があった村であり、伊是名島の同村である。伊是名グスクは元島原にあり、伊是名村(ムラ)があった場所である。伊是名は元島(原)から上島(原)へ。そこから現在地に移動した(『伊是名村史』下巻)という。伊是名のムラ名は伊是名グスクに因んだ呼称なのかもしれない。
『球陽』(巻20)に「伊平屋島の駅籍の移転」(1811年)の記事がある。
伊平屋島駅籍を村後の北方伊世名原に改移るを准す。
伊平屋島の駅は、客歳回禄に遇ふて焦土となる。当に改造あるべし。而して今かの駅籍は
伊是名村内にあって、其隣り茅屋多く常に大憂あって安し難し。駅籍を村後の北方伊世名
原に改移するを准さんことを乞ふの等由、酋長の呈文に検者、総地頭及び大美御殿大親、
高奉行等、印を加具して詳明するに、随即に准焉す。
伊平屋(伊是名)の駅(番所)は伊是名村(ムラ)の集落内にあったが、回禄(火災)で焼けてしまった。今の場所は集落内にあり隣には茅葺が多く常に心配である。それで集落後方北側に移し変えることを願いでて許された。駅(番所)の移転や改築に検者・総地頭・大美御殿大親・高奉行などの印を押して願いでている。伊是名島を含む伊平屋島は大美御殿の領地で、総地頭は伊是名だったという(『南島風土記』)。昭和14年に伊平屋と伊是名が分村する。
「伊平屋島番所跡」碑に「昭和六年まで伊平屋村役場この地にあり」と記されている。集落内から移転後の番所(役場)があった場所である。
2007年1月29日(月)
①伊是名グスクと伊是名玉御殿
伊是名島をゆく。伊是名グスクと同村(伊是名ムラ)、伊平屋島番所が置かれた伊是名へ。それと「尚円王の叔父銘刈親雲上は、首里にに出仕して真和志間切銘刈村の地頭職となり、後に帰島し、子孫は里主職を勤めた」ている。それが銘刈家(伊是名村伊是名)である。銘刈家は首里に引き揚げることなく伊是名島伊是名に家を構え住むことになる。
各地の按司が首里に集められたのに対して、今帰仁間切は首里から監守(今帰仁按司)が派遣され1665年に首里に引き揚げた。伊是名島は今帰仁と異なり、銘刈親雲上が派遣(帰島)され、首里に引き揚げることなく島に住むことになる。それは、尚円が伊是名島が生誕地ということもあるが、伊是名島は首里王府の直轄地としての形態をなしていた。(祭祀も今帰仁阿応理屋恵は引き揚げる(一時期廃止され、再度今帰仁へ戻る)が、伊平屋あんがなしは、そのまま伊是名に留まる)。
伊是名玉御殿に向かって左側に伊是名グスクへの登り口がある。そこがグスクへの正門があった場所だろうか。登って行く途中にいくつもテラスが確認できる。また拝所がある。一帯の斜面に建物があったと見られる。それが伊是名の集落だったのだろうか。斜面にあった集落が麓に下り(そこが伊是名元島)、さらに現在地に移動した。そのような経過を辿ったのであろうか。
2007年2月1日(木)
▲伊是名グスクへの登り口 ▲伊是名グスク内にあるイシジャー
▲伊是名グスクの麓にある伊是名玉御殿 ▲グスクからみた伊是名元島跡
▲銘刈家(字伊是名) ▲伊平屋島番所跡(字伊是名)
2007年2月1日(木)
④メンナー山(ヤブサス御嶽イベ)(伊是名島)
諸見の後方(北側)の標高84.9mの山がメンナー山である。『琉球国由来記』(1713年)のヤブサス嶽御イベのようである。島には「島中拝所」と「公儀祈願所」と区別されていてる。諸見のヤブサス嶽御イベは島中拝所である。神名はキウノ森とあり、本島側の御嶽の記載が異なる。本島側流に言うとキウノ森が御嶽名で、ヤブサス嶽御イベは神名ということになる。メンナー山全体が御嶽(ここでいうキウノ森)でヤブサス嶽御イベ部分はイベに相当する部分と考えている。
『伊是名村史』によると銘刈家の古い絵図に「いさす御嶽」とあり、メンナー山はイサシが古い名称ではないかとある。『琉球国由来記』のヤブサスと銘刈家の絵図のイサスは表記の違いなのであろう。
鳥居を三つくぐると瓦屋根の建物があり、イビノメー(イビの前)にあたり、頂上部に向けて壁が開けてある。そこに石が一基置かれている。そこはイベ部へのお通しのようである。そこから小道を登っていくと頂上部手前程にサンゴ石で造られた小さな祠があり、内部は一個の石が置かれている。メンナー山(ヤブサス:イサス御嶽)は諸見の村(ムラ)の御嶽と見ることができる。諸見の集落内の尚円と関わる拝所は、公儀拝所と記されるようにクニ(国)クラスの祭祀である。それが混交した形で行われているのではないか。
▲二番目の鳥居 ▲三番目の鳥居の赤瓦屋根の遥拝所
▲頂上部に向かう小道 ▲頂上部近くにある祠
【伊是名ノロ殿内】
▲伊是名村伊是名にある伊是名ノロ殿内跡 ▲ノロ殿内の内部
平成22年7月6日(火)
まずは「ふれあい民俗舘」から。そこで銘刈家と名嘉家、そして二かや田(伊礼家・玉城家)の資料の確認をする。ある出版社の原稿書きのための伊是名島行きである(詳細は改めて)。名嘉家の隣くらいの石垣に「前□護身三昧耶」?の碑がある。石敢当の役割を果たしているのであろうか。
【4日の午後】
①ふれあい民俗舘(古文書によく出てくる「黄色地御玉貫」などが展示してある。
②銘刈家(報告書あり)
③名嘉家(報告書あり)
④伊平屋間切番所跡(学校跡地)
⑤伊是名の神アサギ
⑥ムラヤー(公民館)前の拝所
⑦伊是名港近くの拝所
⑧伊是名港
⑨勢理客の神アサギと根神屋
⑩勢理客の土帝君
⑪勢理客の集落外れの拝所
⑫勢理客の団地付近の拝所(神アサギ風の建物)
⑬メンナー山(拝所)(ウタキか、鳥居があり左縄がめぐらされている)
⑭尚円王御庭公園
⑮諸見の神アサギ
⑯尚円王生誕地(みほそ所)
⑰潮川
⑱仲田の神アサギ(仲田家の屋敷内)
⑲仲田の「二かや田」(伊礼家と玉城家)
⑳仲田のカー(集落外れのカーと拝所)
【5日の午前中】
①伊是名グスク
②グスクの周辺(石囲い、七合目あたりのカー、祠、麓のカーなど)
③伊是名玉御殿(拝領墓)(報告書あり)
④葺きかえられた番所跡
⑤仲里節歌碑
⑥□□□崎(伊是名グスクの全景が見える)
⑦サムラー道(途中)・銘刈ガー・四殿の墓(銘刈家・名嘉家・伊礼家・玉城家)
⑧龍神銅
⑨陸ギタラ(慰霊塔あり)
⑩海ギタラ(付近に墓、伊是名港から近くまでいける)
⑪アハラ御嶽
⑫風の岩(伊是名の集落、伊是名グスク、陸・海ギタラ・アハラ御嶽などが望める)
⑬美織所(チヂン岳)
⑭アーガ山(雨乞い拝所四ヶ所を確認。燃やした灰が結構残る)
⑮諸見の土帝君
⑯逆田(諸見・内花・伊是名・勢理客・仲田が水田をつくっている)
▲伊是名グスクへの登り道 ▲諸見の土帝君
▲サムライ道の途中にある銘刈ガー ▲最近葺きかえられた勢理客の神アサギ
▲「護身三昧耶」?の石碑
海岸沿いに小地名が多く見られるのは、島の人々の生活が海(海岸)と密接に結びついていたことによるのであろう。それと海中のイノーやリーフにも小地名がみられる。それは、漁や舟の航行との関わりがあるからに違いない。小地名の呼称を分類してみると面白い(意味の解せない地名も多い)。
【陸上と海岸沿いの小地名】
・イワ(岩)・・・・・・・・・・・・・・ジャンジャイワ(ザンの岩)
・イャーヤ(岩屋)・・・・・・・・・パマイャーヤ(浜の岩屋)
・ガマ(洞窟)・・・・・・・・・・・マークーグガマ・パマガマ(浜の洞窟)・ヤマトゥガマ
(大和洞窟)
・シー(石)・・・・・・・・・・・・・・シーバイ(石のある方)・ハマンシ(浜の石)
・ハマ(浜)・・・・・・・・・・・・・パマガマ(浜の洞窟)・チグヌハマ(壷の浜?)・トクフバマ
(トクフ浜)・テーヌパマ(テーの浜)
・ソー(迫)・・・・・・・・・・・・・ソーヌパマ(迫のある浜)
・サチ(崎)・・・・・・・・・・・・ダキヤマヌマサチ(竹山の崎)・シルマサチ(白い所の崎)・アラサチ(荒崎)
サバヌマサチ(サバヌマ崎)
・トゥンヂ(とび出た)・・・・・トゥンヂバマ(とび出たところの浜)
・ピザー(山羊)・・・・・・・・・ピーザーアナ(山羊の穴)
・ミナ(貝)・・・・・・・・・・・・・・ミナワイ(貝を割)
・ホー(陰部)・・・・・・・・・・ハイホーワラ・ホーヌサチ・ホー
・タンメー(おじいさん)・・・タンメーガマ(叔父の洞窟)
・ハカ(墓)・・・・・・・・・・・・パカヌメー(墓の前)
・ウプ(大)・・・・・・・・・・・・ウプドゥマイ(大きな泊)・ウプトゥケー(大きな渡海)・
ウプタールムイ(大きなタール森)
・グヮー(小)・・・・・・・・・・トケーグヮー(渡海小)・シルヌハマグヮー(白い浜小)
・アガリ(東)・・・・・・・・・・アガリウセールクマグヮー(東のイジメ場所)
・イリ(西)・・・・・・・・・・・イリウセールクマグヮー(西のイジメ場所)
・ヤマトゥ(大和)・・・・・・ヤマトゥガマ(大和洞窟)
・その他・・・・・・・・・・・・シラサ(白砂浜)・ウプルマイ(ウプドゥマイ:大きな泊)・アミヌアシ(雨の脚)
・ソーバタキ・グサブー・クヤミ・ハンゼー・アタフヂー・ハヤハンシチ・アザキ
タチバナ・サヤゲーケジ・オーグムイ(青い小堀)・クンヂヌタナ・ターチバナヒ
など地形や物の名などに因んだ地名が見られる。大小を表すウプ(大)やグヮー(小)、方向を表すアガリ〈東〉やヤマトゥ(大和)やハカ(墓)やダキ(竹)などの付いた小地名もある。 アラサチ(荒崎)は島の北側の岩場の地名で、荒波の打ち寄せる場所に付けられた地名である。現在の小字にはないが、原石に「あらさき原」があり、一帯の原名としてあったことが伺え、原名は消えたが小地名として残っている。
③本部村(町)並里(満名)上の殿内(『沖縄県国頭郡志』)
按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)、
繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)
④花の真牛(本部町伊野波)(『沖縄県国頭郡志』)
真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。
⑤本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家(『沖縄県国頭郡志』)
同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて
左の遺物を納めたり。
一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)
⑥按司墓】(渡久地)(国頭郡志)(『沖縄県国頭郡志』)
⑦浜元の土帝君(浜元)(『沖縄県国頭郡志』)
⑧謝花大主の墓((『沖縄県国頭郡志』
①伊江島、辺士名カマド
②伊江島仲村渠マカト遺念火
①古宇利島(神話)
②墳墓記(今帰仁村今泊、康煕17:1678年)
③池城墓碑(今帰仁村平敷、康煕9:1670年)
④今帰仁阿応理屋恵按司家(阿応理恵御殿)(所蔵目録)
・冠玉たれ一通 ・同玉の緒一連 ・王の胸当一連 ・王の御草履一組 ・玉かわら
・同玉かわら 一大形 ・二十二小型水晶の玉百十六。
⑤千代金丸の複製
⑥山北今帰仁城監守来歴碑記(今帰仁グスク:乾隆14:1749年)
⑦今帰仁ノロの遺品
⑧今帰仁ノロの墓
⑨中城ノロの遺品
⑩勢理客ノロの簪
⑪山北神社の建設
⑫今帰仁城址
⑬大北墓
⑭百按司墓
⑮大和人の墓
①羽地
②オランダ墓
③呉我港
④鍛冶屋原
⑤勘手納め港
⑥羽地大川
⑦改決羽地大川碑記(乾隆9:1744年、道光10年)(『沖縄県国頭郡志』)
⑧羽地城址
⑩親城
⑫池城墓
⑬古我地
⑭金川銅山
⑮源河
⑯オランダ墓墓碑(1846年)(屋我地島)
▲名護市史「名護碑文記」より
【名護町(現名護市】
①安和岳悪魔退治
②名護間切名護村長寿大城
尚敬王34年次良大城101歳に黄冠を賜い、絲綿一把綿布二端を賞与される。
③三府龍脈碑記(名護市:乾隆15:1750年)(『沖縄県国頭郡志』)
6.大宜味村(『沖縄県国頭郡志』)
①大宜味村田港(根謝銘屋)
田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。
・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を
引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金は仲門松本の
祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。
②大宜味間切根差部親方(『沖縄県国頭郡志』)
・・・其の衣類は根謝銘大城某の宅に保存せり。
③津波城
④森川子旧址
⑤塩屋湾
⑥田港
⑦寺屋敷(『沖縄県国頭郡志』)
⑧根謝銘城
⑨根謝銘城(上城)の系統(『大宜味村史』所収)
大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の
居城とされる。
7.国頭村(『沖縄県国頭郡志』)
① 国頭村奥間座安家(アガリー)(『沖縄県国頭郡志』)
尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣・黄色絹帯地及黄金カブの簪
②国頭村辺戸の佐久真家(『沖縄県国頭郡志』)
70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存
③国頭村字安田(屋号:川口)(『沖縄県国頭郡志』)
仲今帰仁城主の一族の伝承あり。黄金の男差簪、古い短刀一振。古文書(辞令書)
④安田の辞令書(「国頭郡志」文面所収
安田は三つの集団(マクやマキョ)の集った集落ではないのか。そのことは今回見た安田のシヌグの山降りにその痕跡をみた思いがする。12時頃ムラの男性や参加者達が三々五々とササ・メーバ・ヤマナスの三つの山に分かれていく。本来それらの山が三つの集団の各々の御嶽であったとする。合併後もそれぞれの御嶽へ登り、自分たちの神々が山(御獄)から降臨してくるとの発想が根底に流れているのではないか。近世の中頃には安田が行政ムラとして存立しているのであるが、シニグの神降臨の場(三ケ所)に三つのマク・マキョ規模の集団の合併があったことを予測させる。ササ・メーバ・ヤマナスの山の麓にマク・マキョ規模の小さな集落があったと想定するだけでも、棚田を一望したときと同じような琴線が弾かれた思いにかられる。
しよりの御み事 首里(首里王府)
くにかみまきりの 国頭間切
あたのさとぬし[ところ] 安田の里主
この内に四十八つか[た]は この内四八束......
みかないのくち 貢
御ゆるしめされ候
一人おたの大や(こ)に 安田の大屋子
たまわり申[候] 給わり申し候
しよりよりあたの大や[こ]か方ヘまいる 首里より安田の大屋子
萬暦十五年二月十二日
⑤尚円王に関する伝説(奥間)
⑥奥間
⑦土帝君
⑧経塚
⑨辺土名
⑩伊地の古墳
⑪与那の高坂
⑫謝敷板干瀬
⑬辺野喜
⑭宜名真御殿
⑮オランダ墓
⑯茅打万端
⑰戻る道
⑱辺戸御嶽(アスムイ)
⑲義本王の墓
8.東村
①久志村(現東村)川田(根謝銘屋)(『沖縄県国頭郡志』)
同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪
大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
に移転せりという。
川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
品を以て之に代へたり。・・・・」
②川田にある仲北山御次男思金の墓(『沖縄県国頭郡志』)国頭郡志」
東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男
思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ仲北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。
9.久志村(現名護市)
久志間切で興味を引くのは、康煕27年(1688)の「観音」(石像)の久志村への安置である。間切番所は移転したのであるから、観音像は番所のある瀬嵩村に設置してよさそうなものである。ところが、尚経豊見城王子朝良(惣地頭)と久志親方助豊(親方地頭)の両惣地頭は久志村に観音像を設置した。行政(番所)の移動があっても祭祀は動かないという法則が見出せる。因みに久志村は久志ノロの管轄である。
久志按司 家禄四十石 物成十三石余
領地 久志間切作得十六石余
仲田里主 家禄 三十石 物成二十三石余
久志間切作得二十三石余
国頭方の東宿・西宿とも名護間切経由だったのが、久志間切番所を瀬嵩村に移動することで、久志間切から名護間切を経由せず羽地間切をつなぐコースとなる。当然のことながら『琉球国旧記』(1731年)の久志間切の駅(番所)は瀬嵩邑(村)である。
10.恩納村(『沖縄県国頭郡志』)
①多幸山
②山田城址
③毛氏墳墓
④久良波
⑤比屋根坂
⑥恩納嶽
⑦恩納村はづし
⑧万座毛
⑨犬滝(安富祖)
下の二枚の辞令書は『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著:昭和7年)の口絵に納められているものである。28日(水)に恩納村立博物館で「恩納村の御嶽と集落」をテーマに話をする。この辞令書を手がかりに恩納間切(現在の村:ソン)の導入部分にあてようと。
きんまきりの 金武間切の
11.宜野座村
12.金武町(『沖縄県国頭郡志』)
▲金武寺(現観音寺)(『沖縄県国頭郡志』グラビア)
①富蔵港(フクツ港)
『沖縄国頭郡志』(大正8年)に、以下のように記される。
金武の東方なる小流を富蔵(フクジ)河(旧記には富花、今は福花川に作る)といい、その河口を富蔵津という。付近の小字を福花原と称し字金武に属す。日秀上人の漂着せし所なるを以って著はる。 『中山伝信録』(1721年)にも記されている。
在金武山、山上為金峯山、下有洞千手院有富蔵河、二百年前有日秀上人渡海到、此年大豊、
民謡云、神人来兮、富蔵水清、神人遊兮、白沙化米、日秀上人住波上、三年跡回北山云々
②金武寺(現観音寺)(『沖縄県国頭郡志』)
金峰山観音寺は金武にあり。今を距る三百七八十年前尚清王代(1497~1555年)、倭僧日秀上
泛海して、富蔵港に来り寺を金武村に剏め自ら弥陀薬師正観音三像を彫刻kして安置す。これ同
寺の起源なり。その後一旦禅宗に属せしが寛文二年(1643年)尚質王具志川王子朝?(チョウエ
イ)に命じて再び真言宗に復せしめ、元禄十二年(1698年)尚質王代に至り住持慧郎、新に紫磨
金三尊仏を請じ且つ初めて屋根瓦を用い旧観に改むという。
境内に洞窟あり、深さ二町山背に通ず。昔此処に大蛇棲息し、人民その災禍に罹るもの多かりし
が日秀上人呪文を唱して之を除き初めて安堵せりという。
洞内千手観音の小祠あり、現今奉安するもの本尊厨子共に陶製にして、扉に大清同治二年(1863)
癸酉十二月十三日、現在は瀬源の文字を刻す。
洞内鍾乳石および石筍相接して奇観を呈す。
同寺は明治四十三年法律第五十九号沖縄県社禄処分法発布の結果土地建物をその寺に無償
下渡せらる。
琉球国旧記に、
嘉靖年間、尚清王世代有田日本僧日秀上人者、随流漂至富蔵津、遂創寺社金武邑、自刻弥陀
薬師正観音三尊仏、而奉焉、既而其道漸衰、遂将寺此賜禅林精舎、自此而来霊山日微神明亦
不現焉、康熙元年壬寅除夜、尚質王命尚氏具志川王子朝?、復賜之於聖家焉。至于三十八年
巳卯住持慧即和尚揆遺古仏、新請紫磨金三尊仏、而奉安焉、云々
▲福花川の河口 ▲福花橋 ▲福花橋付近から金武集落を眺める
▲金武の観音寺 ▲鍾乳洞内 ▲洞内の千手観音の小祠?
③御待毛(恩納村)
④金武
⑤七日浜
⑥山里和尚の墓
②本部町辺名地 仲村家
・辞令書三点
・按司墓
・ウナジャナ墓
③本部村(町)並里(満名)上の殿内
按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)、
繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)
④花の真牛(本部町伊野波)
真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の
真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。永楽年の腕(青磁)
⑤本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家
同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて
左の遺物を納めたり。
一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)
同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に葬らるるのみ。
メモ
2014年6月9日(月)本部町嘉津宇を踏査する(雨)。目的は嘉津宇ムラは1719年に伊豆味の古嘉津宇から現在地に移動。その故地の確認。故地に手がかりとなる拝所やカーなどの確認はできなかったが、盆地になっている古嘉津宇の撮影はオッケー。
現在の嘉津宇の公民館へ。その前に神アサギとトゥン、その後方にウタキのイベあり。具志堅の地内に移り、明治36年に具志堅村と合併するが、戦後もとの嘉津宇となる。
嘉津宇の公民館、神アサギ、ウルン、ウガン(イベ)、ウプヤー(上原門中)、ユレーヤー、クランモーなどの確認。ユレヤーの仲村翁とであり、話を伺う。近いうちに、衣装の件で伺うことを約束する。門の前に車を降りると「仲原さんね」と、仲村さんの方から声をかけてくれた。雨が降り出したので家で話を伺う。詳しいことは、改めてということで短い時間。
ユレーヤーの前の祠を見せてもらった。『沖縄県国頭郡志』に「按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて」とある按司位牌は、この二つと見られる。「古櫃一個」は前の祠から家の中に移し、衣装を入れてあるとのことことであった。それは改めて拝見させていただくことに。
▲嘉津宇区公民館 ▲神アサギとトゥン ▲ウタキのイベ
▲ユレーヤー前の祠内 ▲二つの按司位牌