寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究   
     もくじ:トップページ

                 
2023年12月
                 
先月23年11月へ)
    
今帰仁村の戦後60年(企画展)(2008年開催
上国と石灯籠と石香炉

 20年余り、開いてきた「寡黙庵:沖縄の地域史調査研究」(HP)は12月末日をもって閉じることになりました。コロナで各地での調査は遠慮してきました。ここ2、3年は過去の記録を取り出してきましたが、性にあわないことに気づきました。

 残りの時間は、楽しく各地で学んだことをかみしめながら、向かい合って行きます。この頁を開いている方々は数名しかわかりません。これから話を聞く方にまわります。そうできるかどうか? 問い合わせなどは、喜んで返事いたします。「寡黙庵」にほぼ出勤いたします。
(前もって連絡いただければ確実)
 
メール myaki1881@yahoo.co.jp
       nakatetu0213@outlook.jp

 長い間、ありがとうございました。

        
 
管理人 仲原



2023年12月31日

 2023年、HPの最終更新。「寡黙庵」の庭は度々紹介してきましたが、部屋内の紹介はできませんでした。昨日、箱から取り出し配架まで(未整理)。新年度から書籍や資料に埋もれているかもしれません。HPでの近況の報告はできませんが、足腰がたつ間は、調査・研究を楽しみます。山原(やんばる)まで来られるときはお立ち寄りください。騒がしい世の中ですが、よい年になりますように!

  

  





2023年12月30日(

 HPは「寡黙庵」で閉じようと考えていたが、書籍と資料の片付けが間に合わず、これから片付けに。気分転換につき合ってくれた草畑と庭の花木で。まだ沖縄の冬の景色。カンナは寒さでかれたまま。沖縄のヒカンサクラは球旧暦の正月に向けて開花。まだ一つ月余りある)春はまだですが、バラとハイビスカスが咲き出しています。

  

  

2023年12月27日(水)

 沖永良部島の原稿も今日で終わり。奄美の調査・研究を手がけたのは平成の2、3年頃。まだ歴史文化センター建設の準備中。歴史文化センターの名称も「今帰仁村歴史資料館」でした。その名称の変更は国の予算の出所にあった。何回も妥協しながら9億から5億に切り落とす理由(説明)を絞り出すのに苦慮したことが思い出される。各地の博物館や資料館を廻りました。このHPは歴史文化センターに塗り固めて続けてきました。

中北山時代(中昔北山ともいう)

   西暦1100年頃から1300年頃まで。

「中北山」の時代の興亡の様子をあげてみる。「世譜」及「球陽」に依れば玉城王の代、明の延祐年間(1314~1320)国分れて三となり、今帰仁按司は山北王と稱して山北諸郡を從へたとあり、洪武十六年(1384)明の太祖使を遣はして三王兵戦を息めよと諭さしめたので中山王祭度・山南王承察度・山北王怕尼芝各々詔を奉じて兵を止め使を以て恩を謝した。依て太祖三王に衣幣を賜う。山北の入貢は之より始まる。云々

怕尼芝は元中九年(1392)に薨じ珉之に代り、應永三年(1396)珉亦没して子攀安知立ち、應永二十三年に至り尚巴志の指揮する連合軍に包囲せられ遂に滅亡した、四代九十余年と稱する。「中山世譜」に云う、

山北王今帰仁在位年数不詳、怕尼芝在位年数不詳、珉在位五年、攀安知在位二十一年、元の延祐年間に起り明の永樂十四年に尽く、凡そ四主九十余年を経たり。

山北王の明国入貢は弘和三年(1383)中山察度王の時怕尼芝の遣はしたのが、史上に現れた始であるが怕尼芝に亡ぼされた。今帰仁按司の子孫と称する家に支那織の衣類などが数種伝わっているのから考へ又「中山世譜」に怕尼芝の前に山北王今帰仁とあるのから察すれば北山王国も怕尼芝王以前より支那交通をなし、今帰仁の世の主が其の子弟を羽地・名護・国頭等に配置して全地方を統一し事実上の北山王となっていたのであろう。

偖(さ)て「野史」に依って怕尼芝以前の今帰仁按司を探るに、昔天孫氏の子弟今帰仁に封ぜられてあったが、利勇反逆の際に亡び、次に義本王の弟が今帰仁按司となり数代の後嗣子なき爲め姻戚なる英祖王の次男を養子となしたという。

予、「野史」に基きて調査するに瞬天系統以前に就きては全く之を確めることが出来ないけれど、英祖系統に就きては其の記事と大同小異の伝説が各地の旧家にあり且種々の遺物も保存されているのから見れば、必らずしも無稽の説とは思はれず。

此の英祖王の子で今帰仁按司になった系統を俗に仲北山と呼んでいる。今「中山世譜」の記事と総合すれば矢張りそれ以前に北山王と稱する今帰仁按司が数代あったことは明白である。

仲北山は二三代の後其臣本部大主(大腹とは違う)の謀反に遭って一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取返したが(「北山由来記」1383年には此の若按司を丘春としてある)不運未だに尽きず、一、二代の後再び一族なる伯尼芝の爲めに打滅ぼされてしまた。

伯尼芝(長男)が中北山を滅ぼし、北山王となり、次男の真松千代が沖永良部島、三男の与論世の主(王舅)が与論島を統治していく流れである。(ここまでは北山側に記される。そこから先は沖永良部島側の記録とのかみ合わせとなるか。それと三山統一後は「おもろ」「古琉球の辞令」、のろ制度と遺品、シニグなど。)



【琉球的なものの廃止】

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 
 【口語訳】(蔡温の独物語)

   毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは
  當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは
  昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気まま
  の風俗がわるく蔓延、それに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言葉で
  言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方
  にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。
  これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければ

  いけない。この事は「御教条」にも詳しく記しておいた。

2003.2.23()調査記(平成10年)

 少し気分転換に奄美大島の加計呂麻島を机上で散歩してみましょうか。加計呂麻島は奄美大島の南側に位置し、瀬戸内町に属しています。机上とは言ったのですが、沖縄県博物館協議会が瀬戸内町で開催されたとき(平成10年10月5日から8日)加計呂麻島を訪ねています。

 平成10年10月5日、みんなより一日早めに奄美に入り、瀬戸内町の油井の八月祭を見た記憶があります。大雨の中、瀬戸内町郷土館の学芸員をしている町氏が空港まで迎えにきてくれたことが思い出されます。数名のメンバーがその祭りをみるために1日早めにくるだろうと思っていたら私一人でした。大雨の中、曇った窓ガラスをふきながら(クーラーの壊れた車だった?)工事中の山道を二時間余りかかりました。ほんとに今でも感謝しています。その時のノートがあるはずだが・・・。時の写真アルバムがありました。

 ノートは見つかりませんがアルバムから記憶jをたどってみました。平成10年10月5日「油井の豊年祭」を見学しています。他の博物館のメンバーは翌日に瀬戸内に入るとのことでした。一人参加となりました。来賓席に招かれて恐縮してしまいました。やはり仕事柄座って見学とはいかず撮影と記録とりに動いています。

 八月踊りにはひょうきんな仕草があり、面をかぶっての踊りがありました。到着前に綱引きや大和相撲は終わっていました。綱引き・土俵入り・前相撲・稲刈り・稲すり・米つき・力めし・観音翁の土俵見回り・ガットドン(赤ふんどし)・玉露加那(タマツユカナ)が行われました。その日は大雨で演目のいくつかは体育館の中で行われました。あいさつを求められコメントを述べたことは覚えています(内容は不明)。

 加計呂麻島に渡ったのは7日でした。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などの集落をまわりました。一つ一つの集落(ムラ)については、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができました。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことに。

 神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分があります。屋根が高く現在は床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ています。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがありました。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物があり、気になる施設でした。

 薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思います。一度で集落の地理的空間がほとんどつかむことができません。再度訪ねたい島です。(その後、三回訪れています) 

kakeroma01..kakeromahatigatu
  武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』)    瀬戸内町で(平成1010月)

kakaeroma03
  これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの
    作りに似ている。


 当時、すでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていました。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織―加計呂麻島須子茂のノロ制度―」(ヨーゼフ・クライナー)など山田尚二氏の須子茂の辞令書に関心をもっていました。

 それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ―神アサギ―集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかったことがありました。

 シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりまで及んでいることに気づかさ、仮説の線引きをしたことがあります。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど遺り伝えているのかの研究を深化させていきたい。


2023年12月22日(金)

 久しぶりに国頭へ。画像は以前のを使う(2005年、2016年)。新年になったら国頭村のすべての字(アザ)を踏査する予定。(津波城と石城を踏査につていく)


②国頭をゆく 2002.6.23(日)メモ

 国頭までゆく時間がなかったので、以前に神アサギ踏査をした記録がある。テーマは国頭のムラ・シマであるが、アサギ調査から宇良から安田の様子を思い浮かべる手がかりに。

 宇良→伊地→与那→謝敷→佐手→辺野喜→宇嘉→(宜名真はスルー)→辺戸まで。宇良と伊地、辺野喜、宇嘉でウマチー(旧暦5月15日)が細々と行われていた。辺戸のヒチャラウタキへ。大き目の石灯籠の確認へ。その石灯籠は比地の中の宮の石灯籠、今回時間がなく行けなかった奥のウガミの石灯籠。国頭間切の国頭按司の関り、首里王府と国頭間切の関係を知る手がかりとなる重要なものである。辺戸のヒチャラウタキの石灯籠が粉々に破壊されていた。文化財の破壊行為である。

 国頭村にある石灯籠と寄進されている香炉は、重要な歴史史料である。国頭村の石灯籠や香炉を手掛かりに各地の香炉や石灯籠の確認調査をしてきた。宮城栄昌先生の『国頭村史』から「国頭の歴史」に踏み込んでみようとしたところである。

 与那は公民館(よんな館)と神アサギ、根神ヤーが新築されている。

 
途中、辺野喜でデジカメのバッテリー切れ(二台とも)。辺野喜までの画像を追加します。
 6月20日(月)再び、前日のパッテリー切れの辺野喜は前日)から安田まで訪れる。梅雨が明け、真夏。

 10年前の画像と現在(平成28年)を並べてみると、原稿を改めることに。変貌していくもの、変わらないもの。普遍性とか過去に書かれたものも生き物だと実感している。


10 宇良の神アサギ

  他と異なった雰囲気の建物。柱は4本。中に二基の香炉が配置されている。一つは宇良、もう一つはトンジャへ向って いる。宇良の一部はトンジャ(辺土名の上島付近)から移動してきたという。『琉球国由来記』(1713年)に宇良村に宇良村の神アシアゲとトヒチャ神アシアゲがあり、合併村の痕跡を残している。祭祀は辺土名ノロの管轄である。

 今日は五月ウマチーだということで男性二人と女性一人(書記さん)が供え物を持参。「宇良の旧公民館の後ろから階段が作れていますよね」と尋ねると「作ったの私ですよ」とのこと。宇良と伊地は神行事は一緒に行うとのこと。

 
  ▲宇良の神アサギ(2005年)   ▲宇良の神アサギ(ウマチーの日)(20⒗.6.19撮影)

 
   ▲宇良の旧公民館(20⒗.6.19撮影)

11 伊地の神アサギ

 神アサギはヒンバームイの麓にある。広場より一段上部に位置する。近年建立されているようで、以前の神アサギはもう少し平坦地にお宮と並んであった(写真がある)。その時の建物はコンクリートの4本柱で赤瓦屋根の建物であったが、現在は右(写真)のような建物となっている。香炉は建物の外側にあり、タベラガー沿いにある祠に向いているようだ。ウタキ?祭祀は辺土名ノロの管轄である。

 
     ▲伊地の神アサギ(2005年)              ▲神アサギ(20⒗.6.19撮影)

12 与那の神アサギ

 与那の公民館の前にアサギマーがあり、アサギマーを挟んで神アサギがある。隣接してあるのが火神の祠である。アサギマーの籠と棒は海神祭(旧暦の盆あけの初亥の日)のときに使われる道具である。6本のコンクリートの柱とタモト木を模してコンクリートでつくってある。屋根は平らなコンクリートである。祭祀は与那ノロの管轄である。与那ノロは与那・謝敷・佐手・辺野喜を管轄する。

 
     ▲与那の神アサギ(2005年)        ▲与那の火神の祠と神アサギ(2016.6.19)


  ▲与那のよんな~館(2016.6.19)

13 謝敷の神アサギ

 神アサギはウンバーリの高いところにあり、集落が一望できる場所にある。神アサギはコンクリートでつくられ、香炉は後方のウガミ(ウタキ)の方に向いている。アサギの隣にウンバーリ(上原)と呼ばれる旧家がある。神アサギの前に広場があり、そこで豊年祭が行われている。舞台の柱を置く場所に礎石が配置されている。また、アサギマーに行く神道がしっかりと残されている。祭祀は与那ノロの管轄である。神アサギは立て替えられている。 

 
    ▲謝敷の神アサギ(2005年)               ▲神アサギ(20⒗.6.19撮影)

14 佐手の神アサギ

 集落はサチヌウィー(佐手の上)と呼ばれ場所から移動してきたという。神アサギは現集落の内にあり、赤瓦屋根の建物。4本柱の建物だったと思われる。背面は壁になっていて、後方に旧家のメー(前)(屋号)がある。サチヌウィーにも拝所がある。

 
    ▲佐手の神アサギ(2005年)           ▲神アサギ(20⒗.6.19撮影)

15 辺野喜の神アサギ

  辺野喜の祭祀は下火になっているようだ。神アサギはコンクリートの祠になっていて神アサギの形を大分崩している。『琉球国由来記』(1713年)にヨリアゲ森の御嶽、神アシアゲもあり与那ノロの管轄である。現在は与那ノロ管轄の祭祀に参加していないという。平成12年のウンガミをみたが、神アサギでの御願は見られず、シバー(旧家)にある祠が重要視されていた。

 
   ▲辺野喜の現在の集落(2005年)           ▲辺野喜の神アサギ(2005年)

 
  ▲辺野喜の村墓(共同墓)(20⒗.6.19撮影)   ▲辺野喜にある宇嘉の村墓(共同墓)(2016.619)

 
       (20⒗.6.19撮影)              ▲辺野喜の神アサギ(2016.6.19)

16 宇嘉の神アサギ

 ニーヤー(根屋)の前をアサギマー(庭)とし、アサギマーを挟んで神アサギがある。8本(内2本は木柱)の柱からなる赤瓦葺きの建物。香炉が二ヶ所に置かれ、一つはウイハー(上の川・故地)に向って拝む。アサギナーはエイサーやウシデークなどの踊りが行われる。かつて角力なども行っていたという。祭祀は与那ノロの管轄である。神アサギの側に力石(さし石)が置かれている。屋敷内に神アサギあり。

  
    ▲宇嘉の神アサギ(2005年)           ▲力石と屋敷内にある神アサギ(2016.6.20) 


▲宇嘉地区公民館(2016.6.20)

17 宜名真(神アサギなし)


 
▲宜名真地区公民館(20⒗.6.20撮影)    ▲ウドゥン屋敷(宜名真神社)(20⒗.6.20撮影)


18 辺戸の神アサギ

 集落の上部に位置する。周辺にノロ殿内やシバという旧家がある。アサギマーもあり、そこで豊年祭が行われる。4本柱のコンクリートの瓦屋根。香炉が置かれいるが、その位置はウガミ(御嶽)を背にしている。『琉球国由来記』(1713年)にシチャラ嶽・アフリ嶽・宜野久瀬嶽・大川、それに神アシアゲがあり、首里王府から重要な地と見られている。辺戸ノロの管轄である。

  
▲辺戸の神アサギ(2005年)           ▲辺戸の神アサギ(2016.20)

  
  ▲辺戸地区公民館(2016.20)   ▲根神屋とノロドゥンチ(2016.20)    ▲粉々にされた石灯籠(加治木石)

19 奥の神アサギ

  「アサギはノロ殿内の拝所の後方に広がる広場があったが現在は奥公会堂が出来ているので、この公会堂の一隅に神篭りをすることになっている」(「国頭村奥の調査報告」1957年頃」。神アサギの移動があったことが知れる。現在の神アサギはトタン葺きで木の柱4本と簡易につくられている。『琉球国由来記』(1713年)にヤハ嶽とミアゲ嶽、そして奥ノロ火神と神アシアゲがある。祭祀は奥ノロの管轄である。海神祭とシノゴが一年越しに行われていたことがわかる。

 
  ▲奥の神アサギ(2005年)           ▲奥の神アサギ(2016.6.20)

 
 ▲奥のウガンの石灯籠(2016.6.20)       ▲奥集落センター(2016.6.20)

【奥のミアゲ森の祠の香炉】(宮城栄昌:国頭村史)
 ・カン豊九年己未十一月吉日 宮城仁屋
 ・(二基不明)新城仁屋・玉城仁屋
 ・石灯籠(銘不明)


20 楚洲の神アサギ

 楚洲は『琉球国由来記』(1713年)に登場する村ではないので、近世後半に創設された村である(1753年には登場する)。今でもアサギマーの広場や地名があり、神アサギがあったことが知れる。また「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治15年頃)「楚洲村 神アシヤケ壱カ所」とあり、神アサギの存在が確認できる(現在の神アサギ?)。


  
   ▲広場がアサギマー(2005年)         ▲ウジガミの祠(2016.6.20)  ▲楚洲地区公民館(2016.6.20)


21 安田の神アサギ

 
国頭村で茅葺き屋根の神アサギが残っているのは安田だけ。そこで行われるシヌグは国指定重要民俗文化財となっている。茅葺き屋根で木の柱が10本あり。神アサギとアサギマーはシニグや海神祭の主会場となる。線香を置く場所は、柱と柱の間に設置されていて、ウガンバラ(御嶽?)の方に向いている。『琉球国由来記』(1713年)にヨリアゲ森と神アシアゲがあり、安波ノロの管轄村である。

 ウガンバル?に「奉る寄進 □□九年巳未 十一月吉日 大田親雲上」銘の香炉確認。その年の国頭按司の江戸上り、あるい薩摩上りなどの動きを確認することに。

 
   ▲国頭村安田の神アサギ(2005年)         ▲安田の神アサギ(2016.6.20)

 
    ▲安田地区公民館(2016.6.20)      ▲□□九年巳未 安田親雲上の銘の香炉(2016.6.20)
 


22 安波の神アサギ

 安波集落はウイバレーを中心に展開している。そのウイバレーの上部にウンフェー、その下方に神アサギやヌルドゥンチなどがある。集落から川を越えた所にヌーガミという御嶽があるが、神アサギの香炉はソウジヤマ(集落の後方の山)に向いているコンクリート屋根(平な屋根)でコンクリートの12本の柱がある。神アサギは一段高くなっていて、アサギに入るには数段ある一本木の梯子を利用する。祭祀は安波ノロの管轄。

 
   ▲安田の神アサギ(2001年撮影)          ▲安波の神アサギ(2016.6.20)

  
    ▲安波の神アサギ(2016.6.20)     ▲安波のヌーガミの祠と後方にイベ(2016.6.20)

2023年12月21日(木)

 山原の主なグスクに①今帰仁グスク ②羽地(親川)グスク ③根謝銘(ウイ)グスク(国頭城か) ④名護グスク ⑤金武グスクがある。名護グスクは前日紹介したので今回は現大宜味村謝名城にあるウイグスク(国頭城か)の紹介。今帰仁グスクと関わる二件の「野史」がある。田港は「大昔英祖王の後胤(こういん)の大宜味按司の居城」とする一族と今帰仁城監守の滅亡の際とする異なる系統図(野史)を持つ一族がある。明日は大宜味村の石山グスクへ。

【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)

 大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の居城とされる。



【大宜味村田港】

・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
 新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を
 引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
 その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金は仲門松本の
 祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
 本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。

 

【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)

 同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。
 川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして①根謝銘屋及びその分家なる②西の屋内(イリヌヤ)、③西の根屋、④東の殿内(東の比嘉)、⑤新門(ミージョー)、⑥鍛細工屋、⑦大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。
 以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。

 
  ▲北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田)      ▲根謝銘屋の側にある勝之宮



【川田にある仲北山御次男思金の墓】

 東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。

 
   ▲「仲北山御次男思金」の墓         ▲東村指定のサキシマスオウの板根

・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。
・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。


2023年12月20日(水)

 古い時代の名護グスクについて触れることがほとんどなかったので、山原のグスクについて触れてみるか。近世の集落移動や神アサギやシニグなどについては触れてきたが、古い時代(中北山)についてまとめたことがないので『名護六百年史』(比嘉宇太郎氏)を参照してみることに。

古代の支配者と名護城

 『名護六百年史』(1985年版)比嘉宇太郎

  天孫氏の世では、按司達は各所領間切に割拠(かっきょ)して一城を構えて任意に政を施し、公事ある毎に出仕して王威に服従したが、その末裔(まつえい)に至って政道漸く(ようやく)(みだれれ、天孫氏二十四代の国王は権臣利勇に弑殺(しいさつ)され、国を奪はれた、天孫氏の覆滅(ふくめつ)によってその藩塀である北山(大昔北山という)も離散滅亡したが、北山の息のかヽっている国頭地方の間切按司達が、騒乱の中に在つて、(よ)くその地位を維持することが出来たかどうかは甚だ疑問である。

後年(こうねん)尚巴志(しょうはし)王統(おうとう)が亡んだ際にも、その系統の北山監守は逃亡したが、国頭地方の諸按司は、(いわ)はゞ血族同志で、地理的にも政治的にも相互の関係が深く、中山の政変は勿論、北山城の内肛(ないこう)の場合にも安堵としていないのが常である。天孫氏滅亡の後に、名護城(なんぐすく)もまた相次いで今帰仁の北山城と運命を共にしたであろうことは疑を(い)れない。為朝の(こ)舜天(しゅんてん)が義兵を挙(あ)げて纂奪王利勇(さんだつおうりゆう)を滅ぼし、按司中の最強者大世の主の地位を獲得した年代は1187年で、彼はまだ二十二才の若冠であった。按ずるに大昔北山の離散滅亡は、利勇の革命の余波を受けて起った事件であるから、大昔北山最后の日は明かでないにしても、舜天(しゅんてん)創業の年代とそう開ぎはなかろう。爾来五十有餘年北山には主がなくどう始末されたかも判然していない。 

口碑や旧家系譜の伝える北山中興の経緯を辿(たど)って、次に興った仲昔北山は、舜馬順熙王(しゅんばじゅんきおう)の次子を迎えて北山の世の主(よのぬし)今帰仁城主に奉じ、二世は嗣子がなかったので、中山英祖王の次子を養子に入れて統を継がしめた。これが北山の世の主湧川王子である。北山の世の主という称号は、国頭地方の諸按司を支配する最高の権力者を指す尊称である。湧川王子の嫡流(ちゃくりゅう)は代々今帰仁に根城をおき、その一族は間切按司として名護、羽地、国頭の諸郡に君臨していたから、国頭地方は、宛然北山閥族一色で塗りつぶされた観がある。湧川王子の孫に当る三世の今帰仁城主に至って、一族の怕尼芝(はにじ)は宗家を覆えし、当時中山の衰頽に乗じてその覊絆(きはんを脱し、自ら北山王を名乗って天下三分の形勢を作った。 

史乗の名護按司と羽地、国頭の諸按司は、怕尼芝に敗れた今帰仁城主の弟君で、血縁のつながりから、骨肉相噛む北山の内紅を身近かに感じ、怕尼芝の謀反(むほん)をいた<)み嫌った。それで名護按司は、今帰仁を遂はれた城主の弟とその家族達を保護隠匿(いんとく)するなど、暗に敵対行為を示し、捲土重来(けんどじゅうらい)の機会を待っていた。即ち一族の諸按司が大義を以て合従同盟を結び、敢て社稯(しゃしょく)の義戦を戦はなかったのは、怕尼芝の武力と権勢に対し、相桔抗(きっこう)すべく余りにも微弱であったことに原因する。

以来柏尼芝の統は(みん)、攀安知と三代九十一年に亘り北山に覇を唱え、中山、南山に(なら)って明に進貢して冊封を受けたが1416年中山の尚巴志に征服されて遂に滅亡した。巴志の北山出師の前後において、名護按司等一族累代の諸按司が策戦の枢機(すうき)に参劃し、中山王を尊いて宗家の一族を攻め滅ぽす挙に出たことは「正史」の伝える所であるが、宗家を滅ぼした北山王が、感情的に好ましくないというより、彼の武力が是等三按司家の存立の脅威であったがため、敢て遠交近交の策に出たものと思はれる。

吾々は今まで古い時代の統治者即ち名護按司に、ついて主として北山との関係において、その来歴を略述したが、英祖王の子で北山の世の主になった湧川王子の孫(今帰仁城主の弟)が「正史」に出て来る最初の名護按司であることは既に述べておいた。しかし当の名護按司は、何時頃名護に(ふう)ぜられたのかその年代を明かにすることが出来ない。実兄に当る今帰仁城主は、一族の怕尼芝に取って代えられ、城主の一家は浪々の身となって、親戚の名護按司を頼りに(かくま)っている事情から推して、この事変以前に遡ることであろう。

三山鼎立の当初、怕尼芝が中山の覇絆を脱して独立を唱え出したのは、玉城王の治世の中葉1325年頃の出来事で、従って、仲北山系の名護城按司の起りは、これに先立つ十数年以前ではない。察するに玉城王が統を継いだ1314年頃と見て、今を距る凡そ六百四十年が名護城中興期である。

巴志の北山攻略戦で、名護按司等門中の諸按司は、六路軍の部将として今帰仁城下に奮戦(ふんせん)し、仇敵(きゅうてき)(たお)して宿願を成就したが、彼等はまたこの兵戦で殊動を樹て、巴志に忠誠を尽しているから、夫々の地位や所領に安堵することが出来たであらう。しかし巴志は仲北山王統の復僻(ふくへき)を欲しなかった。北山滅亡後六年、1422年には次子尚忠を今帰仁城に遣はし、監守として北山の守護に任じている。これを要するに、北山が険岨み、素朴剛健な気風を以て中山の教化にかず、再び兵乱の起らんことを恐れたからである。 

1468年、中山には復々世替りが起って、巴志王統の末王尚徳は廃された。翌年尚円が即位すると、巳志の三男なる北山監守は亡び、城内官職に在った仲北山系の一族も離散亡命した。この革命騒ぎで、仲北山に統を汲む諸按司家の内部に動揺が起きたかどうかは知られていないが、怕尼(はにし纂立(さんりつ)の時と異って、名護按司は亡命者を隠蔽(いんぺい)するようなことはなく「(むし)ろ友邦に贈るとも家奴(かど)に与うる(なか)れ」と、支那流の方策に見倣(みなら)ってか、今度は門中の亡命者を見殺しにして、孜々(しし)按司家の保全に力めた。1477年尚(しょうしん登極(とうきょく)して中央集権の策を樹て、各間切に城砦を構え、戦士を抱える按司達から武器を没収して、按司とその家臣を束ねて居を首里城下に移した。

名護按司が首里の北の平等に引き揚げた年代は明らかにされていないが、1500年頃で今を(へだ)(およ)そ四百六十年も昔のことである。顧みる仲昔北山の盛んなる頃、湧川王子の孫が名護按司として名談城に拠り、間切人民を支配するようになってから凡そ二百年、住民達は城を中心に聚落)を作って繁植したが、按司家とその家臣逹が引払った後の山上部落は、間もなく平地へと分散して、古城には祭祀と伝説だけが残った。 

名護城は天孫氏以来の按司の居城たりし地で、歴代の按司はこヽを根拠に間切住民を支配した。城は海抜三百呎に達する(たっ)瞼峻(けんしゅん)山塞さんさい)で、南面は名護湾に迫って水清く、波濤(どとう)によってのし上げた白い珊瑚の砂丘が陸地を拡げつヽ海に向って前進し、北西遙かに嘉津宇の連峰を距てヽ、その間数哩に及ぶ緩やかな丘陵は、住民に農耕地を与えるだけでなく、戦略的には遮ることのない広い展望が、外敵の襲来に備えて哨戒(しょううかい)に都合がよく、北東の背面は嶮難な名護岳と一連の山続きで、城砦の後楯ともすべき数丈の懸涯は、城川の渓谷に落ち込んでいる。

 形相が軍事的或は政治的見地からして、当代に.おける優れた要衝(ようしょう)であったことは、ぐすくという名称からしても間切唯一の城都たることが(うかが)はれる。しかし名護城に残る古い伝承は、のろ、根神、内神などの神職と住民達の祖神名幸の墳墓があるだけで、城砦の構築に使用されたと覚しき木石の遺存するものがない、朝鮮瓦の破片が時々地中から堀り出されるけれども、これは後代に属するもので、当代の城塞は茅萱の類で葺き、篠竹を編んで囲塀を作り、これを縄で繋ぎ固めて八尋殿(やひるどん)、十尋殿(とひろどん) と称していた程で民力と文化の程度は低かった。首里王城てもまだ瓦は使っていない時代である。

 

 



2023年12月19日(火)

 20年前に各地図像の調査をしたことがある。図像が何かもしらない頃である。沖縄県立芸術大学に協力。ほとんど脳裏から消えている。デジカメを持っていなかったので、反射で撮影に苦労したことが思い出される。一部紹介。

2003.11.3(月)

【山原の図像】②
 「沖縄の民間信仰と図像」の展示会(沖縄県芸術大学)(図像提供)が開催されている。まだ展示を見ていないので明日には見に行かないといけません。展示されている図像調査をベースに講演?をしないといけないのですから。これまで山原で調査した図像を一点一点確認する作業を進めます。ここ4、5日は講演に向けての資料整理の報告になりそうだ。

 さて、『球陽』の尚貞王23年(1691)の条に「関帝王の神像を創建す」の記事がある。
   康煕癸亥、冊封勅使汪楫・林鱗煌、本国の帝王を供することを無きを惜しみ、
   竟に帝王廟を創建するの意を以て深以て許愿し、乃ち白銀伍十両を捐して此の
   像を創建するを請乞す。庚午年に至り、王、貢使をして能く関帝及び関平・周倉の
   聖像を塑せしむ。明くる年の夏、此の神像を奉じて回り来る。即ち上天妃廟内に、
   別に一壇を築きて其の像を奉安し、以て聖誕及び春秋の祭礼を致し、永く護国伏
   魔の神と為す。

 1683年に冊封使が関帝がないことを惜しんで、帝王廟を創建することを請うている。そして1690年に五十両を出して三人像をつくらせている。1691年が関帝王の琉球への導入の初めとみなしてよさそうである。そのとき関帝・関平・周倉の三人像を上天妃廟内に図ではなく「其の像」を奉安している。生誕と春秋に祭礼をし、護国伏魔の神として祭られたようであるが、山原では護国は別にして魔を伏させることが祈りが主になったのであろうか。さらに像より図の方が流布して民間に掲げられるようになったのかもしれない。

 下の図像は本部町辺名地の仲村家。福禄寿(文字図)・福禄寿(人物図)、それに関帝王図(三人図)が掲げられている。もちろん、火神・位牌も安置されている。仲村家にある関帝王の図は、左手に書物を手にした関帝王・長刀を持った家来の周倉、後方に包みを持った子の関平の三人図像である。関帝王図に三人像・二人像・一人像がある。

.
 ▲本部町辺名地の仲村家の図像      ▲関帝王(三人図)


.
 ▲図像の写真選び出し中なり ▲写真を整理していきます


2023年12月18日(月)

 明治14年上杉県令が通過した恩納番所から読谷山間切間の脇道や宿道、そして風景や当時の痕跡を探しながら。県令は輿で担がれ、間切境(ウマチモー)まで中頭郡役所長・吏員がお迎えする。真栄田で真栄田川を渡っているが、垂川のことか。鍛冶屋があった場所は改めて確認したい。芋畑や蘇鉄の赤い実が目についたようだ。一里塚から真栄田集落の途中、山田グスクが望める。明治の名嘉真村の過去の風景や痕跡を辿る楽しいものがある。

 恩納村真栄田・塩屋・ビール・与久田・宇嘉地は地籍上分離されていず、真栄田区である。行政上は四区である。「沖縄県国頭郡恩納村内註記調書」(大正10年)から五区(大字二属スル部落ノ名)をあげておく(他の地ではその調査(戸数・人口)から地籍上も字に独立している)(例えば今帰仁村の越地・呉我山(地籍は戦後)・渡喜仁)

 ・真榮田 106戸  754人
   真栄田 27戸  273人
   塩 屋  34戸  206人
   ビール   8戸  55人
   與久田 10戸  56人
   宇嘉地  27戸 165人

 二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休)→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。

 

  


2023年12月17日(


 恩納村真栄田、塩屋、美留までいく(村史の案内で)。早く到着したのでフェーレー岩と一里塚まで。久しぶりだったのでフェーレー岩と一里塚の距離が大部離れていることに気づかされる。一里塚のもっと奥にウマチモー(御待毛)があるが車で行けずもどる。

 山原の集落を見る視点と異なる見方が必要であると実感させられる。

  (工事中)

 
 ▲真栄田の一里塚・宿道の案内板                ▲一里塚の左右の土盛(2023.12.17) 

  
           両側のフェーレー岩。撮影は2009.12.14)


2023年12月16日(

 小雨、年末の「寡黙庵」の庭の鉢の土の入れ替えと庭木の剪定。室内の片付けと大掃除は来週から。恩納村真栄田と塩屋あたりの情報を整理。今年の3月に使った山田、真栄田あたりの宿道と脇道の確認。明日は晴れるかな?

2023年3月02日(木)恩納村での講座用レジュメ(一部)

 12日と17日に恩納村へ。その一件、「歴史の道」(宿道)の講座。その準備。本部町、名護(羽地・名護)・沖永良部島、大宜味村、恩納村と続いている。今日は「歴史の道」(恩納間切)を先日恩納村史から提供してもらった明治14年の上杉県令一行の「巡回日誌」をベースにまとめてみるか。しばらく、訪れていないので近々踏査してみないと。金武間切と恩納間切境の「喜瀬武原のウマチモー」は建て替えれる。


【『上杉県令巡回日誌』にみる恩納】『沖縄県史十一』(上杉県令日誌より)(恩納村史村史より打ち込み原稿提供)
 

 幸喜村→(海岸)→(喜瀬力)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村

  二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休)→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。


恩納間切番所のあった恩納村全図(明治36年)

  

恩納村の宿道(スクミチ)(巾8尺:約2.4m、両側に6尺(約2m)松をうえ

  ―読谷村喜名―親志原―◆―◒多幸山―山田小・中学校―久良波―山田温泉―上の丘―仲泊貝塚へ
  下り―◒仲泊―前兼久―◒ムーンビーチ門口―富着浜に沿って―谷茶浜◒―ジムンの海岸を迂回
 ―屋嘉田浜―赤崎―馬場◒――元の恩納役場―恩納古島―恩納グスク―太田の浜沿い―瀬良垣―
 ◒安富祖―衛星追跡所(山手)―熱田―名嘉真―伊武部―◆―喜瀬(名護)

 脇道
   ―金武へ通ずる道 金武―名嘉真間
    安富祖から原道あり
   ―久良波テラン口―真栄田―塩屋―与久田―長浜―


上杉県令一行は名護から恩納間切へ(恩納間切部分のみ)

幸喜村→(海岸)→(喜瀬)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村

二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休))→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。


2023年12月15日(金)

 北九州や長崎行きは、その向こうに長崎の出島はオランダ、朝鮮通信使、豊臣秀吉の朝鮮出兵、琉球の「世の主」など。韓国南部釜山のヒスイの勾玉や装飾品、新潟県の姫川(ヒスイ)、新潟県の佐渡島(天気が悪く渡っていない)は江戸幕府の天領地、その発想で伊平屋・伊是名島は首里王府の天領地であったとする発想。韓国は一度しか訪れていない。過去の歴史を見ていく、発想の転換など、楽しい旅をしている。来年は、そのような度にする予定。

2010(平成22)年8月20日(金)memo

 16日長崎へ。博多から鳥栖を通り佐賀市。JR長崎本線で鹿島市、諫早湾沿いを通り諫早市。そこから長崎市へ。長崎駅前は坂本竜馬伝で賑わっていた。路面電車で数ヶ所行く予定が、最初に足を運んだ「出島」でほとんど時間を費やしてしまった。1996年に訪れた孔子廟・中国歴代博物館、今でも忘れることのできない靴のパクパク事件というのがあり、今回もその二の舞いになりそう。そのためではなかったのであるが訪れることができず残念。(靴のパクパク事件とは、年に二、三回しか履かない靴(車のトランクに保存)を長崎へ。中国歴代博物館への途中、靴底の接着がはずれ、靴を買い求めるため、メンバーと外れ迷子になった出来事)

 出島で時間を費やしたのには『江戸参府旅行日記』」(ケンペル:東洋文庫)に目を通していたからにほかならない。薩摩藩と琉球の江戸立(上り)、対馬藩と朝鮮通信使、松前藩と蝦夷地。長崎から江戸参府。琉球の江戸立(上り)や朝鮮通信使は門司から瀬戸内海を通るのが一般的なルートのようである。そのような江戸参府や江戸立(上り)などのつながりで「出島」で足止め。陶磁器の運搬、琉球の近世の厨子甕や壺屋の陶器の運搬方法が気になって。

 


 

2010(平成22)年8月19日(木)memo

  15日(日)福岡県の博多駅から筑肥線で唐津、呼子(佐賀県)などをゆく。福岡空港を降り立つと博多駅へ。駅に荷物を預けると、さっそく筑肥線に乗り、沿線のマチと玄界灘の空気が吸いたくて。そこらの歴史について、全く無知ながら朝鮮半島から渡ってきた人々と一帯に住んでいた人々との関わり(視線)が、どのように歴史・文化に影響を及ぼしているのだろうか。そんなことは暑さのためどこへやら。底のすれた靴を引きづりながら。

 今回は足を運ぶことができなかった平戸・鄭成功居宅跡・媽姐像及びその隋身、オランダ商館倉庫跡、井戸、平戸城などのことが思い出される(1996年9月「環シナ海地域間交流と平戸・長崎」の研究会で訪れている)。 
  (沖縄本島北部、山原というが、地元の人々の視線、首里・那覇からみた山原への視線、
   それらの視線が対立したり、融合したりしながら歴史・文化が築かれてきているのでは
   ないか)。

【呼子】(佐賀県:よぶこ)

 
       ▲呼子のイカ干し             ▲呼子の港(イカの朝市)

【名護屋城跡】(佐賀県)


 
▲大手口付近の石積み(勾配が比較的緩やか)   ▲名護屋城跡から玄界灘の島々と数多くの陣屋

【唐津城跡】(佐賀県)

 
      ▲唐津城跡の天主閣      ▲唐津城跡から眺めたマチと虹の松原方面

 
    
 ▲唐津城跡の本丸              ▲唐津城跡から眺めた唐津のマチ


2023年12月14日(木)


【今帰仁村湧川の印部石】

2020年3月28日(土)記録

 村移動、間切の方切と複雑に組み替えがなされた地域である。

200987日(金)メモ

【移動村が故地に遺していったもの】(1736年に移動した呉我村)

 今帰仁村に呉我山がある。呉我山の地は現在名護市呉我の故地である。1736年に蔡温の山林政策で現在の今帰仁村呉我山から羽地間切の地に移動した(方切)。その地は複雑な動きをしている。1600年代の前半まで今帰仁間切、1690年頃その地と村は羽地間切へ。1736年に一帯にあった振慶名村、我部村、松田村、桃原村、呉我村を同じく羽地間切の内部と屋我地島へ移動。移動させた後地を今帰仁間切の地とした。そこに1738年湧川村を創設した。(村移動はまだしていない。村移動は1736年である)。

 ・『絵図郷村帳』(1644年)  今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
 ・『琉球国高究帳』(1648年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
    1690年頃 間切の方切があり、ごが村域は羽地間切に組み込まれる)
 ・『琉球国由来記』(1713年) 羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・(松田村と桃原村は出てこない)
     (この時期、村移動はまだしていない)
 ・1736年に羽地間切内にあった呉我村をはじめ、他の村を羽地間切地内へ移動させる。
  移動させた地を再び今帰仁間切とした。
 ・1738年に新設された今帰仁間切湧川村、羽地間切我呉村のあった地は今帰仁間切天底村となる。
 ・大正9年に字呉我山(天底・玉城・湧川の小字の一部からなる)が創設される。

 現在の今帰仁村呉我山は大正9年に新設される。その時、字天底から三謝原(シイナ)・古呉我原・古拝原、玉城から西アザナ原、湧川から中山原をして呉我山とした。呉我山の小字の古呉我原や古拝原名に移動する前の村の痕跡をとどめている。三謝原にあるシイナグスクを考えるには、1738年新設の湧川村ではなく、移動する前の近隣にあった呉我村(現在の呉我山)や振慶名村(現在の湧川の鎌城原、振慶名村の故地)との関係でみる必要がありそうだ。(我呉村が移動した後地に住んでいる呉我山の人々のほとんどが寄留人である)
 故地に遺されたのに地名がある。呉我の故地に「呉我山」「古拝原」「古呉我」などの地名が遺されている。呉我山から移動してきた呉我の人々は旧暦五月に故地の屋敷跡や拝所、アシヤギ、堤泉、神泉の跡地などを参拝している(『呉我誌』)。1736年に呉我村が移動した後の史料で「古呉我山」や「古我」など、故地を意識した地名となっている。

 『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉河(我)村・振慶名村・我部村・松田村は、移動する前の故地における拝所である。それらの村は我部ノロの管轄で、村移動後も変わることなく継承されている。

 現在の湧川地内に「ケ しゆや原」の印部石を確認している。

※呉我村は現在の呉我村から
 振慶菜村は現在の湧川のガジマンドーから
 我部村は湧川の下我部あたりから。
 松田村は湧川?から
 桃原? 

2011年1月26日(水)過去メモ(2011年現在)

 「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良でなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。今回提供された印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。

 「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろうか?

 「ケ しゆや原」の印部石の確認は今帰仁村内で24基目(2011年現在)である。


▲湧川の前田原にあった印部石

【今帰仁阿応理屋恵(ナキジンアオリヤエ】

2007年4月17日(火)過去記録

 今帰仁阿応理屋恵について整理することに。今帰仁阿応理屋恵按司は今帰仁グスクの祭祀(監守が今帰仁グスクに住んでいた頃)と切り離すことのできないものである。今帰仁阿応理屋恵が廃止され、今帰仁ノロが肩代わりしている。『琉球国由来記』(1713年)が編纂された頃は、今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期である。そのため、『琉球国由来記』では、今帰仁ノロの祭祀場とされる。(今帰仁阿応理屋恵について、とり急ぎ資料を整理してみる.。資料の読み込みを、もう少し丁寧にしてみることに)

今帰仁阿応理屋恵


 今帰仁阿応理屋恵の継承、廃止、復活について、まだ整理がつかないが、今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡ではないかと見られるのがある。それはクボウノ嶽(クボウヌウタキ)での祈りである。『琉球国由来記』(1713年)でクバウノ嶽は今帰仁巫崇所となっているが「首里天加那志美御前・・・」と始まっている。それは村(ムラ)レベルの祭祀ではなく国(クニ)レベルの祭祀としてみるべきだと考えている。(首里天加那志は国王のこと)

 首里天加那志・・・とはじまる祈りの場所は、首里王府と関わる国レベルの祭祀とみている。今帰仁で国レベルの祭祀を掌ることのできたのは今帰仁阿応理屋恵である。このように見るとクボウのウタキでの祭祀は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀だったのが、首里への引き上げ(1665年)や廃止(1731年)によって今帰仁ノロが肩代わりし、今帰仁阿応理屋恵が復活(1768年)するが、もとに戻すことができず、そのまま今帰仁ノロの祭祀として引き継がれてきたのではないか(一緒に行っていた部分もあるが)。

  
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノヽ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・
   八重山、島々浦浦ノ、船〃往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ、デテ

 『琉球国由来記』(1713年)で「首里天加那志美御前・・・」と唱えられるのは以下の場所である。
 
真和志間切  識名村の拝所
 知念間切    知念村(知念城内友利之嶽:同村)
 本部間切    伊野波村(伊野波巫火神:同村)
 今帰仁間切  今帰仁村(コバウノ嶽:同村)
 国頭間切    辺戸村(宜野久瀬嶽・大川)
 伊江島
 伊平屋島
 粟国島
 渡名喜島
 慶良間島
 渡嘉敷島
 久米島
  (宮古・八重山?)


【今帰仁阿応理屋恵が果たした役割】

 今帰仁阿応理屋恵は三十三君の一人である。三十三君の一人であった今帰仁阿応理屋恵がどのような役割を果たしていたのか。そのことは北山監守を務めた今帰仁按司の役割を知ることでもある。1665年今帰仁間切(今帰仁グスク・今帰仁村)から首里に引き揚げた監守一族である。今帰仁按司一族が今帰仁間切に居住していた頃、『具志川家家譜』に阿応理屋恵按司として登場する。

 弘治年間、一世尚韶威の頃、毎年元旦や十五日、冬至、大朝のとき首里に赴いていた。また山北(山原)節々神の出現があると尚韶威以来重要な儀式として家族で行っていた。王都から唄勢頭を三、四人遣わし、この礼式に阿応理屋恵按司、世寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官を遣わせた。崇禎年間(16281643年)に兵警に逢って礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今(?年)に至って尚存続し毎節の礼を行う。

・【具志川家家譜】
 ・弘治年間の阿応理屋恵按司
 ・五世克祉の次男縄武、中宗根親雲上の女阿応理屋恵按司を娶る。
 ・六世縄祖の次男従宣、孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)女阿応理屋恵按司を娶る。

・【大北墓のアオリヤエ】
  ・アヲリヤイアンシシタル金
  ・アヲリヤイアンシカナシ
  ・アヲリヤイ按司
   (『具志川家家譜』の三名の阿応理屋恵と同一か?)


・『女官御双紙』170613年)

一、今帰仁あふりやい代合の時、言上は御自分より御済めしょわちへ、御拝日撰は三日前に今帰仁あふり
  やいより御様子有之候得者、首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、みおみのけ申、御拝の日は首
  里大あむしられ為御案内、赤田御門よりよしろて、按司下庫理に控居、大勢頭部御取次にてみおみのけ
  申、今帰仁ふりやいよりみはな一ツ御玉貫一対、作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御
  呼めしょわれば、よしろて美待拝申、天かなし美御前おすゑんみきょちゃにおがまれめしょわれば、御持
  参の御玉貫、真壁按司かなしよりおしあげしょわる。相飾済、みはい御仮乞、大勢頭御取次にてみおみの
  けて帰るなり。
一、同時御印判はせど親雲上より、みはいの日早朝、首里殿内へ持来らる。首里大あむしられより今帰仁あ
  ふりやいへ上申。


 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 向氏南風按司朝旬女(孟氏今帰仁親方宗珉室)
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 孟氏今帰仁親方宗珉女(向氏本部按司朝当室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 孟氏中宗根親雲上宗良(崎山按司朝恭室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 向氏崎山按司朝恭女(今帰仁間切親泊村伊野波筑登之親雲上室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 本部間切居住伊野波爾也女(向氏与那嶺按司朝隣室)


  康煕四十年辛巳二月十九日今のあふりやゑあんじ言上有之 同年八月朔日志よ里の大あむしられ
  取次日撰言上同三日御拝するようにと御返詞拝同三日御朱印志よりの大あむしられより掟のあむを
  以頂戴同四日巳時前に首里の大あむしられ列て御城上りすゑんみきふちゃにて
 首里天嘉那志御前へみはい御酒奉進上次に美御酌御賜次に於御同職真壁按司かなし御酒献上次に
  御菓子御茶給り昇

  按司御座敷へ記召首里の大あむしられ相伴ふて御料理御菓子御茶給焉 御服給て退城

附進上物左記之
  天嘉那志美御前へ御花一御玉貫一對同御茶之子一籠飯
  真壁按司加那志錫一對同御茶之子一籠飯 御城参昇之時とも備
 あむしられ一人 あかた八人 與のすりる主部二人興かき二人御花御籠飯持一人
   ・金劔一箇 玉珈玻羅一連  玉草履一足
    前々より有き
   ・地所高二十弐石二斗七升二合六勺八夕内
          田方 六石ニ斗一升三合三勺四才
          畠方 十六石五升九合三勺四才

・『琉球宗教史の研究』鳥越憲三郎)

 「阿応理屋恵按司は国王の姉妹或は王族の出身である関係から、女神官職就任に際しては国王の拝謁が許された。これは大アムシラレも同様である。一般下級ノロに対しては国王の拝謁はない。阿応理屋恵按司は王城に参上し、国王に対して就任の御挨拶を言上すると、国王からは御酒を賜わり、辞令書は王府の宗教事務官が首里殿内に持参し、首里大アムシラレの手から授かることになっていた。」

・『球 陽』

・始めて今帰仁郡の女官阿応理屋恵職を裁つ。(1731年)(廃止)
 今帰仁郡内に阿応理屋恵按司職を設置す。歴年久遠にして、従って稽詳する無し。然り而して、尚韶威(今帰仁按司朝典)次男向介明(南風原按司朝句)の女に、阿応理屋恵按司職を授け、伝えて向介昭(今帰仁按司)の女宇志掛按司に至ること共計五員なり。今其の事職を按ずるに、五穀祭祀の日、但民の為に之れを祈祷する事のみ。而して他郡の祭祀は、只祝女有りて、以て其の祈を為す。是れに由りて、議して其の職を栽つ。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(1768年)(復活)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠
 
今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠にあった扁額である。平成5年頃まで祠にあったが、今では失われている。昭和60年頃撮影と採拓したものである。右上に「乾隆歳次丁未□□春穀」と確認できた。「□依福得」と読める。乾隆歳次丁未は乾隆52年(1787,?か1726年(乾隆27)12月21日?にあたり、当時の今帰仁間切惣地頭職は 十世の十世宣謨 ?か十一世の弘猷(今帰仁王子、名乗:朝賞)(1756~1809年)である。オーレーウドゥンの祠にあった下の扁額と十一世弘猷がどう関わっているのか。今のところ直接関わった資料に出会えたわけではないが、オーレウドゥンへの扁額の奉納と今帰仁王子弘猷の動きと無関係ではなかろう。

 乾隆52年(1787)に太守様の元服のときで、向氏今帰仁按司朝賞は使者として派遣される。7月11日那覇港を出て15日に山川港へ到着。鹿児島城での公敷きの儀礼を果たし、方物を献上し、また福昌寺や浄明明寺などを拝謁している。翌年2月11日麑府を出て、翌日山川に到着するが風が不順だったようで帰ってきたのは3月11日である。同じく乾隆52年に三平等許願いのとき、世子尚哲、世子妃などを薩州へ使わされている。

 オーレーウドゥンの扁額はふたつの薩州への派遣と関わっての奉納だと思われるが、果たしてどうだろうか。30年余前に別の視点で扱った扁額を再び扱うのもまたいいものである。

 


 『球陽』の二つの記事から、今帰仁阿応理屋恵の設置は、古くからあり詳しいことはわからないが、尚韶威の次男向介明の娘に阿応理屋恵職を授けている。その職は五穀豊穣を民のために祈るのみ。間切の祭祀はノロがいて祈りをする。

今帰仁尾阿応理屋恵の遺品(『沖縄県国頭郡志』(大正8年)
  ・冠玉たれ一通
  ・冠玉の緒一連
  ・玉の胸当一連
  ・玉の御草履一組
  ・玉かはら一連
  ・玉かわら一大形
  ・二十二小形
  ・水晶の玉百十六


▲今帰仁アオリヤエの遺品(右側)国頭郡誌グラビアより)


今帰仁尾阿応理屋恵の遺品『鎌倉芳太郎ノート』
  ・曲玉一連(大曲玉一ケ・小曲玉二一ケ・水晶玉三一ケ・水晶玉八〇ケ)
  ・玉がはら(かはら一大形・同二二小形・水晶之玉百十六個)
  ・玉御草履
  ・冠玉たれ一連、同玉之緒一連
  ・胸当一連

・今帰仁阿応理屋恵の遺品(歴史文化センター所蔵)

②今帰仁阿応理屋恵御殿(オーレーウドゥン)

 オーレーウドゥンは今帰仁グスクの前面にあったのが、今泊の集落内に移動している。故地にも祠がある。集落内のオーレーウドゥンの祠にガーナー位牌があり、その一つは北山監守(今帰仁按司)を勤めた六世縄祖のものである。六世縄祖がオーレーウドゥンに祀られていることは、北山監守と今帰仁阿応理屋恵が密接に関わっていることを示している。今帰仁按司が果たした監守の役割もあるが、印判(辞令書)の発給があったことをみると、今帰仁阿応理屋恵をはじめ、三十三君の神女の身分保障と祭祀(祈り)に対する経済的な保障とみるべきであろう。

 近世の初期に今帰仁グスク近くにあったオーレウドゥンが麓の集落内に移動している。集落内のオーレーウドゥン跡地にコンクリートの祠があり、その内部にガーナー位牌が二基ある。一基は無銘だが、もう一基は今帰仁監守(今帰仁按司)六世(順治十年:1658年没)の縄祖(16011658年)のものとみられる。六世は運天の大北墓に葬られている。今泊集落内にあるオーレーウドゥン跡地の祠に位牌があるのは、そのころのオーレー(阿応理屋恵)の屋敷もそこだったでのであろう。屋敷跡地の境界は、よくわからないが屋敷の北側に掘り込みの井戸がありウルンガー(御殿井戸)と呼んでいる。

 今帰仁阿応理屋恵は17世紀中頃に今帰仁に戻ってくるが、復活したときの継承者が以前とは異なり地元出身者となり、継承は複雑となっている。そこで旧オーレーウゥン、集落内へ移動したオーレーウドゥン跡、その中のガーナー位牌、そして大北墓の人物との関係を整理する必要があり。

③今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡

 今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡が伺える文章が『具志川家家譜』にある。

 山北に節節に神の出現がある。その禮は最も重要なので、尚韶威監守以来、家族を引率して禮を行う。王都から唄勢頭を三、四人を遣わせ、彼土唄勢頭と一緒に礼式を行う。その時、阿応理屋恵按司、世持君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官が禮式を掌る。崇禎年間(16281643年)に兵警に逢い、この禮は廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今尚(康煕己丑:1709年、あるいは雍正8年:1730年のことか)存続し節ごとに禮を行う。

 
    「山北、節節有神出現、其禮最重故、尚韶威監守以来世、率家族以行此禮、又王都遣唄
    勢頭三四人與、彼土唄勢頭倶行禮式、此時有阿応理屋恵按司、世寄君按司、寄君按司、
    宇志掛按司、呉我阿武加那志等女官掌此禮式、崇貞年間逢兵警後、此禮倶廃、但阿応
    理屋恵按司之職至今尚存毎節行禮」

 ここで登場する今帰仁阿応理屋恵、世寄君按司、寄君按司、宇志掛按司は、三十三君の一人である。

 ここでの「神の出現」とは、『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切「コバウノ嶽」(今帰仁村)の「君真物出現」のことか。この頃には監守や今帰仁阿応理屋恵は首里に住んでいるので、今帰仁ノロの崇所となっている。そこでの祈りは「首里天加那志美御前・・・」と唱えられる。今帰仁阿応理屋恵や監守一族が今帰仁グスク、あるいは麓の集落内(オーレーウドゥン)に住んでいたときは、クボウヌ嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀であったのであろう。「君真物出現」は国頭間切辺戸村の「アフリ嶽」につながるものである。

  謝名村ニ、アフリノハナト、云所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立時ハ、
  コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、又コバウノ嶽ニ、黄冷傘立時、ハ、此所ニ、赤冷傘立ト、申伝也。

 今帰仁グスクや付近の拝所で今帰仁阿応理屋恵の祭祀場と見られるのは、今帰仁里主所火神があるが今帰仁ノロとトモノカネノロの祭祀となっている。今帰仁グスクの麓に移動している阿応理屋恵按司火神は、今帰仁阿応理屋恵ノロの祭祀である。祭祀によっては今帰仁阿応理屋恵と一緒に今帰仁ノロや居神、惣地頭、按司、志慶真村・今帰仁・親泊の村、三村の百姓、間切役人(オエカ人)などが参加している。

 今帰仁阿応理屋恵と監守一族が1665年首里に引き揚げたので、今帰仁での阿応理屋恵の祭祀は今帰仁ノロや村の神人たちによって受け継がれているようである。『球陽』の1769年の条を見ると、三十三君の例にならって今帰仁阿応理屋恵も廃止になったはずであるが、殿は代々伝えられ撤去することはできなかった。それで今帰仁間切親泊村の兼次親雲上の娘蒲戸に阿応理屋恵按司職を継がしている。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(『球陽』:1769年)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

 現在クボウヌ御嶽での祭祀は年二回行われている。旧暦の515日のフプウガン(タキヌウガン)と915日のウタキウガン(タキヌウガン)である。三合目あたりに拝所があり、村の人々はそこまでゆく。そこでのウガン(祈り)をすますと、七合目にある拝所へ神人(ノロ)と区長、書記が同行する。手を合わすときに、三合目で待機している人々に合図をして一緒に祈りをする。三合目の拝所に参加できない方々はサカンケーの方に集まり、クボウヌ御嶽まで行った神人たちと合流してサカンケーでクボウヌ御嶽に向かって祈りをする。今では今帰仁ノロ中心の祭祀である。

『琉球神道記』に「託女三十三君ハ皆以テ王家也、妃モソノ一ツナリ。聞得君ヲ長トス、都テ君ト称ス」とあり、山原に神が出現するときに赴いた三十三君の今帰仁阿応理屋恵、世持君按司、宇志掛按司は王家の出てある。三十三君の任命や継承は、首里王府の神観念や史実とは別の歴史観がうかがえる。三十三君や王家、按司地頭や惣地頭が関わる祭祀は国(クニ)レベルの祭祀と位置づけている。それに対して根神や根人を中心としたムラ・シマレベルの祭祀、それとノロ管轄の祭祀と区別しながら見ることにしている。(三つのレベルの祭祀が競合している場合が多いのである)。

今帰仁阿応理屋恵の代合(交代)

 今帰仁あふりやい代合之時
 言上は御自分より御済めしよわちへ 御拝日撰は三日前に今帰仁あふりやいより御様子有之候得共
 首里大あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日首里阿むしられ□御案内赤田御門
 よりよしらで按司下庫理扣居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふ里やいよりみはな壱〆御玉
 貫一封作事あむしれ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわればよしろちへ美□拝申

【スムチナ御嶽】(今帰仁村玉城)

 今帰仁村玉城にスムチナ御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)で「コモキナ嶽:神名:コシアテモリノ御イベ」とあり、玉城巫崇所である。現在地番は今帰仁村玉城西アザナ原に位置し、スムチナ御嶽のイベ部分は標高約143mある。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』を見ると、玉城村に五ヶ所の拝所があり、その一つに「百喜名嶽」とある。

 スムチナ御嶽は旧暦4月15日のタキヌウガンの時、玉城・謝名・平敷・仲宗根の四つの村の神人や人々が集まりウガン(御願)をする。四つの村の祭祀は玉城ノロの管轄である。タキヌウガンの前日、かつてはペーフや区長など何名かの人達が、ウカマ(広場)からイベを囲むように左縄を廻していた。それは近年までやっていたようである。(今年は左縄を廻すかどうか)

 15日三々五々と四カ字の神人と村人たちがスムチナ御嶽の広場(ウカマ)に字毎に集まり、神人が広場の香炉でイベに向かって祈りをする。その後、神人が時計回りでイベに登ってゆく。イベで神人が祈りの合図をするとウカマで待機している人達も手を合わす。イベでの祈りが終わると時計回りにウカマに戻り、そこでウガン(祈り)をする。そこでのウガンが終わると、四カ字の人達は自分の村に戻り、各村の御嶽でのウガンをする。
(玉城・謝名・平敷・仲宗根には、それぞれウタキを持っている。スムチナウタキは個々の村や集落のウタキとは性格を異にしている)

 スムチナウタキのイベに三つの香炉があった(22年前)。二基の香炉に「奉寄進」と「道光二拾年」と「同治九年 大城にや 松本にや」と刻まれていた。現在二基がある(一基不明なり)。



2023年12月13日(水)

 近日、恩納村真栄田、塩屋まで足を運ぶ予定。恩納間切の西宿の読谷山間切と恩納間切の境付近、全コースは10年前に踏査したままである(ウマチモーやフェレ―は二、三回訪れている)。

2008
527日(火)
記録

 近世の首里王府から今帰仁間切への宿次は二つあり、国頭方西宿は浦添北谷読谷山恩納名護本部今帰仁のルートである。もう一つは国頭方東宿で、西原宜野湾越来美里金武久志羽地今帰仁のルートである。恩納間切は国頭方西宿のルートの山原への入口にあたる。読谷山間切から恩納間切への、かつての宿道(スクミチ)の一部を辿ってみた。現在恩納村が「歴史の道」として整備し、活用している。

 かつての宿道(スクミチ)は基地にはばまれたり、あるいは道筋の変更があったりで、そのまま通れるわけではない。恩納村にその面影を残している所があり、整備されているので訪ねてみた。読谷村から県道6号線(沖縄本島西海岸)沿いに 恩納村の塩屋・真栄田に向かう。真栄田の共同売店の前から右手(山手)にはいていくと、約1kmの所に真栄田から山田に通ずる宿道(スクミチ)にたどりつく。そこから更に200mのところまで行くとフェレー(追いはぎ)岩がある。その道筋を1km進むと真栄田の一里塚がある。更に200m行くと御待毛(ウマチモー)がある。先は米軍基地にぶつかり行き止まりとなる。本来の宿道は読谷山間切の喜納番所から恩納間切へ向かっていくのであるが、道路の拡副や変更、基地などで、ほとんどその姿を消している。

御待毛(ウマチモー)は、読谷山間切から恩納間切との境にあり、両間切の文書などの引継場所である。今帰仁間
  切と本部間切との境の具志堅や金武間切と恩納間切の境の喜瀬武原にもウマチモー(御待毛)がある。

一里塚(真栄田)
フェレー(おいはぎ)岩
国頭方西宿街道
寺川矼(垂川矼)
山田グスク
 山田村 旧集落跡(神アサギ跡・地頭火神)
山田谷川の石矼

 石橋の側の案内板に、次のような琉歌が詠まれている。
   山田谷川に  思蔵つれて浴みて  恋しかたらたる  中のあしゃぎ
     (愛しい人と共に、山田谷川で浴びて、中のアサギで、恋をかたりあいたいものだ)
比波根坂石畳道

仲泊遺跡
唐人墓の碑
恩納間切番所跡
恩納松下の琉歌碑
   恩納松下に  禁止の牌のたちゅす  恋しのぶまでの  禁止やないさめ
    (恩納番所(役場)の前の松の木の下に、いろいろな禁止事項を書いた牌(掲示板)が立っているが、その中に
     恋をすべからずというが禁止まではあるまい)
  恩納ナベは尚穆王(175295年)の時代の人物で琉球三女流歌人の一人で恩納間切の出身である。

恩納奈辺歌碑(歌人恩納奈辺記念碑)

  波の声も止まれ  風の声も止まれ  首里天加那志  美御き拝み
   (波の声も止めて静かになれ、風の声も止めて静かになれ、すべての物音も静まれ、厳かに国王の御顔を拝みた
     いものです)

恩納ノロ家と神アサギ

 上のキーワードで恩納村内を踏査してみた。一つひとつ書き上げていきましょう(出版物原稿のため)

 
間切境のウマチモー(御待毛)のあった場所     真栄田の一里塚のマウンドの一つ

 
    フェレー(おいはぎ)岩          岩の下を通ったのであろう

 
     架け替えられた寺川矼            旧山田集落近くのメーガー

 
山田グスクの崖中腹にある護佐丸父祖の墓     (脇)地頭火神と神アサギ跡

 
        山田谷川の石矼               仲泊遺跡近くの比屋根坂の石畳道 


2023年12月12日(火)

 奄美の島々(与論島・沖永良部島・徳之島)に渡るとき、本部町健堅の本部港からフェリーに乗る。フェリー乗り場の向かいに瀬底島があり、島の最後部に遠見所(現在タンク)がある。フェリーを待つ間、以下のことを思い出す。講座の資料を掲げてみる。

【第2回 山原のムラ・シマ講座】(資料) (平成23年6月11日開催)

瀬底島の概況

 ・瀬底島は本部町にある。石灰岩の段丘のある島。
 ・瀬底島と本島側との間は瀬底港ともいう。かつての山原船や大和と往来する船の避難港
  となる。
 ・島の面積は3.46平方㎞、周囲は約6.8㎞
 ・1471年の『海東諸国紀』に「世々九」と見える。方言でシークという。
 ・1469年第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分け
  となる(伝承:大底:ウフジュク)。
 ・1560年(嘉靖39)の辞令書に「せそこの大やくもいに」と瀬底が登場。
 ・1644年の遠見ヤー(ウフンニ:瀬底島の一番高い所、大きな水道タンクあり)がある。
    伊江島→瀬底島→座喜味→首里
 ・1670年池城墓の碑文に「那覇の石細工 瀬底にや」とある。
 ・1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。瀬底島は本
  部間切の内となる。
 ・康煕12年(1673)曹姓大宗(平敷家)三世慶均 瀬底親雲上を任じられる。
 ・康煕19年(1680)明姓五世長満 瀬底親雲上 本部間切瀬底地頭職に任じられる。
 ・康煕41年(1702)(那覇・泊系家譜:根路銘家)六世恵勇 本部間切瀬底地頭職に任命さ
 れる。
 ・瀬底島には瀬底と石嘉波の二つのムラからなる。
 ・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
 ・健堅側と瀬底島には瀬底大橋がかかっている。
 ・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げ延びた一族で村の草分けとなる。
 ・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
 ・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
 ・ウフジュクの側の広場で村踊りがおこなわれる。
 ・瀬底島にはノロがいた。その屋敷跡がヌルルンチである。
 ・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌がまつってある。
 ・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
 ・ウチグスクがあるが、別名東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
 ・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられ
  る(1991年)。
 ・瀬底には七ウタキがある。
   ①ニーヒヌカン(ウフジュク屋敷内)
   ②ヌルルンチ
   ③ウチグスク(東のウタキ)
   ④土帝君(瀬底ウェーキ)が中国から持ってくる。一門から村で拝むようになる。ウタ
    キの一つに数えられている。
   ⑤アンチウタキ(瀬底島の入り口) 航海安全祈願
   ⑥イリヌウタキ
   ⑦メンナウタキ(水納御嶽)

 台風2号の爪跡が各地の残っているこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。晴れると真夏のようで、梅雨明けが近いのでしょうか。

 さて、第2回目の講座は、本部町瀬底島に行きます。瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となります。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っています。瀬底島に二つの祭祀の姿がどう残っているのか、見ていくことにします。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村です。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなります。

 瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができます。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されています。

 上間家の二代から五代まで地頭代(健堅親雲上)を出しています。二代目の時、唐旅をして清国から「土帝君」の木像を持ってきて祀ったといいます(国指定の文化財)。

 本島側から移動してきた石嘉波村側には神アサギや旧家の跡やウタキなどがあります。それとティランニーという洞窟などの拝所を訪ねることにします。

☆ 6月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合(コース)
    ↓ 出席の確認
    ↓ 瀬底島の概要説明
    ↓(瀬底島へバスで出発)
    ↓ 石嘉波村の拝所(旧家・神アサギ・根所・タキサン(ウタキ)
    ↓ 土帝君・瀬底ウェーキ跡
    ↓ 綱引き・公民館
    ↓ ウチマンモー(シニグ・ウシデーク・綱引きなど) 
    ↓ 大城家(ウフジュク:大底)・神アサギ・アサギミャー(豊年祭の舞台)
    ↓ 瀬底ノロドゥンチ
    ↓ ウチグスク
    ↓ チンガー・ケーガー 
    ↓ 石嘉波ガー
    ↓ ウフンニ(遠見台跡)
    ↓ ティランニー(洞窟)
    ↓石嘉波村の故地(健堅~崎本部)
    ↓ (13:00 解散予定)

 http://rekibun.jp/0905gazou/607sesoko1.jpg
           瀬底島の全景(『瀬底誌』より)

http://rekibun.jp/0905gazou/607sesoko2.JPG http://rekibun.jp/0905gazou/607sesoko3.JPG
     瀬底の「土帝君」の祠                瀬底ノロドゥンチ

http://rekibun.jp/0905gazou/607sesoko4.JPG http://rekibun.jp/0905gazou/607sesoko5.JPG
  瀬底島(石嘉波の神アサギ)           石嘉波神社(ウタキ:タキサン)

 (以下略)


2023年12月11日(月)

 沖縄県伊平屋・伊是名島から北上し与論島へ。三年前の記録なので書き改め必要がある。その時、一サークラのシニグの経路の案内をいただいた。その経路の整理をしていないので年内に行けるか? もう一件確認したい場所があり) 今日はこれから植木鉢の土の入れ替えでもするか。 

 一つひとつ予定を片付けている。後、二、三件。年内で片付けて、新年は気分転換してスタートすることに。

与論踏査(2018年2月)記録                 

  
  ▲与論城跡の正面付近                ▲城集落の石囲いの屋敷

 2018年2月22日23日と与論島へ。フェリーが港(供利港)へ着くと宿のバスが向かえに。宿の手続き済むと車をかりて与論の図書館へ。図書館で調べ。今回の与論島踏査の流れ(ストーリー)を決める。『与論町史』から東家、基家、龍家の屋敷跡の確認がしたくて図書館の職員に伺う。城・朝戸・麦屋あたりにあることを教えてもらう。大字の区分もあやふや。図書館にあった『与論主世鑑』(附瀧野氏等系図並系統伝禄)(昭和11年)をみる。三家の最初の部分を詳細にみる必要がありそう。それらの野史から琉球の時代の与論の正史でも組み立ててみる必要がありそう。与論城へ足を運ぶ。「与論を見る視点」として、メモったノートから。与論島は、琉球時代北山の時代、三山統一首里王府時代、薩摩の時代など、それぞれの時代の名残を数多く残している贅沢な博物である。そんなことを考えながらの与論踏査である。、

・琉球の時代
 ・三山時代の北山
 ・三山統一後の時代と与論
 ・城(グスク)と城(グスク)集落、グスクの地名(グスクは高地性集落(50m~)
 ・「おもろさうし」のかゑふた(与論の古称)、親のろ、のろ、島ののろ
 ・ハンタフェーの崖中腹の墓群(風葬)
 ・与論グスク週への集落形態(曲りくねった道筋はグスク時代からのものか?)
     グスク正面付近の低い石積みの屋敷(近年の石囲いの屋敷ではあるが、
     仙台市入来町や知覧の武家屋敷などが設計者の念頭にあったか)
 ・与論のシニグと沖縄本島北部のシニグ
 ・与論に古辞令書が見つかっていない。
 ・明治まで続く針突
 ・地名や言語の共通性

 与論城跡の石囲いとピャーパンタの崖中腹に多くある墓に注目してみた。ピャーパンタ(坂端地)呼ばれる崖に墓。本部半島の岩陰の墓に類似している。与論城跡の断崖にある墓地へ散策道が一部伐開され見通しがきき、滑らないように整備しなおしてある。そこに墓をもつ方のふるさと納税で整備。

・薩摩支配下の与論
 ・急速に薩摩化する与論
 ・城の低い石積みの屋敷は、鹿児島の武家屋敷をイメージしたものか。
 ・色濃く残しているもの
   土葬になるが、洗骨して納めた葬った厨子甕の蓋部分は埋めず)
 ・崖中腹の墓も利用される。
 ・十五夜祭り(琉球・与論・大和)
 ・明治の与論
 ・アメリカ統治の与論(昭和28年に鹿児島県へ)
 ・復帰後の与論

  
▲城の屋川(ヤゴー) ▲与論城築城のころから使われたという地下川 ▲城地区公民館            
 ▲城の集落(低い石積み囲いの屋敷)▲与論城跡の崖へ散策道が整備され墓が見通せるように
 

 
▲崖中腹の一積みの墓の一つ    ▲岸本墓

 
 ▲按司根津栄の船蔵跡     ▲按司根津栄神社の鳥居

 
      ▲与論城主 又吉安司 花城真三部郎の奥津城  

オモロと与論(ノロ関係は未調査)

 朝戸のユウトクダークラ(徳田家にノロの神衣装と首飾り(勾玉?)が保存されているという)
 おもろを通して与論をみていく。

  うらおそいおやのろが節
一 玉の御〇で加那志
  げらゑ御〇で加那志
  神 衆生、揃で
  誇りよわへ
又 奥武の嶽大主
  なです杜大主
又 かゑふたに 降ろちへ
  厳子達に 取らちへ  

 はつにしやが節
一、かゑふたの親のろ
  とからあすび 崇べて
  うらこしらへ
  袖 垂れて 走りやせ
又 根の島の親のろ
又 のろのろは 崇べて
又 神々は 崇べて
又 北風 乞わば


「正保国絵図(琉球国(164448年)の「与論嶋」の記載文字をみると、「異国船遠見番所」がある。この地図上では鬼界嶋・大嶋・徳之嶋・永良部嶋・与論嶋は琉球国之内とされている。遠見番所の設置は1644年である。与論嶋の異国船遠見番所の設置の北限が与論嶋である。異国船遠見番所が与論嶋のどこにあるのか以前から気にしながら嶋を踏査してきたが、確認できていない。(下の絵図は「琉球国絵図史料集第一集」(沖縄県教育委員会)より)

 下の画像の岩の場所が何使われたのか聞き逃してきた。「一積みの旗立てぃ岩」であり、その隣にある大きな岩である。展望のきく場所である。根津栄と関わる場所なのか、あるはシニグが行うサークラの拠点なのか。近世の「異国船遠見番所」に使われたか。

 「琉球国絵図」の図に鬼界嶋、大嶋、徳之嶋、永良部嶋、与論嶋は「琉球國之内」とある。1611年与論嶋以北は薩摩に割譲されたのに、琉球國之内とされている。


▲絵図に「異国船遠見番所」がある

   ▲近世に置かれた「異国船遠見番所」跡?(西区)


2023年12月10日(

 以下は伊是名島のムラ・シマ紹介である。数回訪れた過去の調査記録を講義で使ったものである。ダブりがある。コロナの前に訪れ整理する予定が、行けずにそのままである。伊是名島を訪れているのは、地域史の研修会、伊是名グスクでの尚家の晴明祭に呼ばれること何度か。「伊是名は山原?」で新聞記事(南風)で書いたことがあり、山原と首里の両面を持っている島だと。

 茅ふき屋根の神アサギがあるのは山原的、ただし神アサギが旧家(百:ヒャー)の屋敷内に置かれるのは中南部の殿(トゥン)と類似。島の墓が亀甲墓が目立つ、祭祀は首里(尚家)的などに近い。伊是名は地理的には山原であるが、行政は今でも島尻郡。教育は国頭郡などなど。それと与論島と沖永良部島に北山の影響、中山の影響が見られ、沖縄の歴史の影響が見え隠れする。

 伊是名村(島)のムラ・シマ

                    名桜大学:沖縄地域文化論 (後期1回)2011.09.27                                              仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター)

2005.02.05(土)

 机上の旅は便利なものだ。記憶を呼び起こすために伊是名島の写真アルバムを捜してみた。もっと新しいアルバムもあるはずだが見つからず、1994年のモノクロ写真をめくって見た。記憶がなかなかよみがえってこない。これは、まずい。全身麻酔でそこは消え去ったか!

 さて、今帰仁阿応理屋恵、久米島の君南風もそうであるが、三十三君の一人として伊平屋大あむがいる。初代の伊平屋大あむ(伊平屋の阿母加那志:アンジャナシー)は尚円王の姉真世仁金が任命された。伊平屋大あむは首里・儀保・真壁の三あむしられの内の首里大あむしられに属した。

 尚円王の叔母に同名の真世仁金がおり、二人の娘がおり「二かや田阿母」の神職を賜った。この職を二人の娘が継いだため「南風の二かや田の阿母」(フェーヌハダ:フェーヌタータ)と「北の二かや田の阿母」(ニシヌハダ:ニシヌタータ)に分かれた(『伊是名村史』)。これらの神職を掌る神人の祭祀がどうなっているのか。実態の見えない今帰仁阿応理屋恵の祭祀が、伊平屋の神職を継ぐ三家(殿内)の祭祀から少しでも手がかりが得られたと考えているが、果たしてどうか?

 伊是名島にある伊是名グスク。標高97mにあり、グスク内に三つのイベがある。
  ①大城ミヤ御イベ   神名:真玉森  →諸見・仲田のナー(両村の拝所)
  ②高城ミヤ御イベ   神名:スエノ森 →勢理客のナー(勢理客の拝所)
  ③伊是名ミヤ御イベ  神名:伊是名森 →伊是名のナー(伊是名村の拝所)
 伊是名グスクの三つのイベに関心を持っている。それら三つのイベがムラの拝所になっていないかである。大城ミヤ御イベは諸見と仲田の人たちのウンジャミとシニグを行なっているようだ。他の二つのイベも勢理客と伊是名のナーとしてムラ名が付いているので、そのムラの拝所(イベ)に違いない。ならば・・・(要確認)。


            ▲伊是名グスクと銘刈家(1994年撮影) (沖地域史協研修)

2005.04.28(木)

 晴天。沖縄の空と海は美しい。今帰仁グスクから眺めた海は干潮時にあたりリーフが干上がっている。入道雲はまだ。「北山の歴史」を画像(パワーポイント)を使って説明することに。その方が理解しやすいであろうということで。
 私の関心は伊是名(伊平屋島もふくむ)は「沖縄の歴史」の三山統一後、首里王府が理想的な形で統治できた島(地域)ではなかったか。首里王府の天領(直轄地)とみることができ、直轄地的な支配が首里文化が浸透していったのではないか。その首里文化をはずしてみたとき、そこに沖縄本島北部(山原)と色濃く共通するものがありはしないか。もしあるとするなら、それを北山文化として見ていけるのではないかと考えている。祭祀(三名のノロ)や夫地頭を世襲させ、それが廃藩置県後も継承されている(現在継承者なしもある)。
 伊江名(伊平屋を含む)が首里王府の支配を直轄地的な形をなしたのは、以下の四殿内(ユトゥヌチ)の世襲である。四殿内には古文書や伝世品(玉貫や酒器や盆など)、扁額、櫃や勾玉、衣装などの遺品が遺されている。その四家に関わる「伊是名玉御殿」(墓)である。
  ・銘刈地頭職(大屋子)(ミケル)(銘刈家)
  ・伊平屋の阿母加那志職(アンジャナシー)(名嘉家)
  ・南風のニカヤ田の阿母(フェーヌハタダ)(玉城家)
  ・北のニカヤ田の阿母(ニシヌハタダ)(伊礼家)

 もう一つの関心は伊是名島の神アサギである。現在伊是名島に四つの神アサギ(アシャギ)があり、村指定の文化財となっている。『琉球国由来記』(1713年)に神アシアゲが山原のような項目立てての表記はされていないが、祭祀の中に「村々神アシアゲ」と出てくる。中南部のような「殿」のような表記ではない。祭祀など首里化していくが、祭祀空間としての神アサギは根強く遺しているのではないと考えている。山原のほとんどの神アサギが集落の中心部となる場所に置かれ、豊年祭を行なうアサギナーがある。伊是名の神アサギは屋敷内である(近々確認してみたい)。
   ・伊是名の神アサギ
   ・仲田の神アサギ
   ・諸見の神アサギ
   ・勢理客の神アサギ

 

2005.05.07(土)

 伊是名グスク(杜)内、あるいは麓に一帯に伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落があったに違いない!

【伊是名島の四つのムラの集落移動

 伊是名島には『琉球国由来記』(1713年)で登場する村(ムラ)は伊是名・勢理客・仲田・諸見の四つである。内花は昭和19年に字として諸見から独立しているので、ここでは扱わない。ここではグスク内にある御嶽(イベ)と祭祀との関わりで見てみる(山原のムラを見る視点、集落・御嶽・神アサギの関係と祭祀)。
 『琉球国由来記』に出てくる伊是名グスク内にイベが三つ出てくる。それらのイベとムラ(あるいは集落と祭祀)の関係がどうなっているのか。集落の発生と密接に結びついている御嶽(御嶽の内部のイベ)と集落。その結びつきが祭祀の拝む場所(御嶽:イビ)に痕跡としてあるのではないか。伊是名グスクは標高97mのピラミット型の杜で、またグスクでもある。グスク内(杜)に以下の三つのイベがある。
  ・伊是名ミヤ御イベ:神名 伊是名森(公儀祈願所伊是名城内)←伊是名
  ・高城ミヤ御イベ:神名 スエノ森(公儀祈願所伊是名城内)←勢理客
  ・大城ミヤ御イベ:神名 真玉森(公儀祈願所伊是名城内)←(諸見・仲田)

 伊是名グスクの三つのイベで、大城ミヤ御イベで諸見と仲田、高城ミヤ御イベで勢理客、そして伊是名ミヤ御イベで伊是名の人たちがウンジャミとシニグを行なっている。山原の今帰仁グスク内の二つの御嶽(イビ)、根謝銘グスク内の二つの御嶽(イビ)と同様な形態をなしている。それはグスク(御嶽:杜)に二つの集落があり、その杜がグスクとなり、杜にあった集落が移動。集落が移動しても御嶽(イビ)への祭祀は途絶えることなく継承される。そのことが、伊是名グスクにも適用できそうである。
 その視点で伊是名グスク内のイベと集落の関係を見ると、伊是名杜(後にグスク)内や麓にあった伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落が、そこから移動していった。イベある一帯はそれぞれの集落の故地であると。諸見と仲田は移動する前は一つの集落で、移動時あるいは移動後に二つの集落(後にムラ)に分かれた可能性がある。1713年以前の分離なので、それぞれに神アサギがあって当然なこと。(伊平屋あんがなし、二かや田、銘刈家、それと伊是名ノロの祭祀の関わりなどを含め詳細な調査検討が必要)。

【伊是名ムラの集落移動】
 伊是名については、すでに解かれているように伊是名グスクから伊是名の上村へ、そこからさらに現在地に移動している。伊是名グスクあたりを元島、そこから移動した地を上村と呼び、地名(小字名:原名)に移動の痕跡を遺している。
 
【勢理客ムラの集落移動】

【諸見・仲田ムラの集落移動】

      
 ▲杜の内部、あるいは麓一帯に集落?          ▲グスクから仲田・諸見集落をみる 

2005.05.06(金)

 「伊是名ゆき」の目的に伊是名港と山原船の件があった。伊是名は島なので、現在でも海上輸送が主である。王府時代に伊是名島に共有船や個人船(いずれも山原船)があり、沖縄本島との間で物資の輸送があった。山原船は帆での運航なので予定は風任せである。
 以下の略年譜のように番所や役場は伊是名村から仲田に移動。さらに伊平屋村は昭和14年に伊平屋村と伊是名村に分村する。
 ・伊平屋島の番所は伊是名村(ムラ)に置かれる。
 ・明治13年伊是名村の番所内に伊平屋島役所が設置される。
 ・明治14年伊平屋役所は那覇役所に併合され、番所はそのまま置かれる。
 ・明治29年郡区制が敷かれ、伊平屋島は那覇役所から島尻郡区に編入される。
 ・明治30年伊平屋島番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
 ・大正11年(1922)の伊福丸が伊平屋村と那覇間を就航する。
 ・昭和6年伊平屋村(伊是名含)役場は伊是名から仲田へ移動。
 ・昭和14年(1939)に伊平屋は伊平屋村と伊是名村とに分村し、伊是名村の役場は仲田に決定する。
 ・伊福丸は伊是名村と伊平屋村の共同経営となる。昭和19年の10.10空襲で爆撃をうける。
 ・昭和39年(1964)に仲田港を拡張・整備をする。

【明治の新聞記事】
 ・難破船(明治31年4月15日)
 ・琉球形帆船の流失(明治32年8月7日)
 ・琉球形船の行方不明(明治34年7月7日)
 ・難破船(明治36年7月9日)
 ・山原船の海難(明治38年11月5日)
 ・難破船一束(明治39年10月30日)
 ・難破船(明治42年3月31日)
 ・山原船の転覆(明治43年1月23日)
 新聞記事の一例「山原船の転覆」(明治43年1月23日)を全文紹介する。

   島尻郡伊平屋村字伊是名の共有山原三反帆船は、同村仲田四郎を船頭として外三名
   乗込み、藁三千五丸、藁五十枚、銀貨十五円位、紙幣十五円位、雑品入箱四個、公文
   書類一包と、外に去る旧臘帰郷せる、同村字勢理客歩兵二等卒上原三郎の、連隊より
   貸与せられたし返納軍服を積載して、去る十七日伊是名津口を出帆し国頭郡本部村字
   崎浜に碇泊し、翌十八日未明那覇へ向け仝地を発帆したるが、午前九時頃恩納崎を距
   る三海里の沖合に差しかかりしに、折しも吹き荒れる北風は激浪を巻き起し、終に船体
   は転覆、激浪は更に乗組員一名を海中に捲き込み、行方不明となりたりとは悲惨にあ
   らずや。
 
         ▲現在の伊是名港              ▲昭和14年以前はここが主港

 
  ▲伊是名のドー(観音堂)のある杜          ▲千手観音を祭った祠 

2005.05.05(木)

 5月2日「伊是名は山原?」をテーマに伊是名島をゆく。近世の伊平屋(伊是名を含む)は「国頭方」に入る。地理的には明らかに国頭郡の領域にはいるが伊是名・伊平屋の両島は明治29年に島尻郡となり、現在でも島尻郡区である。明治41年に伊平屋村となるが、昭和14年に、これまで伊平屋(村:ソン)であったのが伊是名村と伊平屋村に分割され現在に至る。各地で市町村合併があったが両村の合併はなかった。
 今回、訪れたのは以下の場所である(一つ一つについては別に報告)。
 ・諸見の集落/神アサギ/尚円の御臍所/首見のヲヒヤ火神/潮平御井/屋部の土帝君/逆田
 ・仲田の集落/神アサギ/二カヤ田の阿母(玉城家・伊礼家)/神降島/ウェジャナシー
 ・伊是名グスク/番家/玉御殿(墓)/伊是名ミヤ御イベ/高城ミヤ御イベ/大城ミヤ御イベ

/イシジャー(石川)
 ・銘刈家墓/銘刈ガー/
 ・伊是名集落/神アサギ/銘刈家/御殿(ウドゥン:伊平屋阿加那志:名嘉家)/伊是名ノロ家跡

/番所跡地/学校発祥地/伊是名港/観音堂(伊是名のドー)/陸ギタラ/海ギタラ/

アカラ御嶽/サムレー道/浜崎港/伊是名漁港/シーシムイ
 ・勢理客の集落/神アサギ/タノカミ御嶽への遥拝所(アマイ倉?)/土帝君
 ・ふれあい民俗館/四カ通イ(シカドゥイ)の祭場コース)
 
【伊是名グスク】
 
  ▲フェリーから見た伊是名グスク              ▲伊是名グスクの遠景(右が番家)

 
   ▲伊是名グスクの麓にある伊平屋(伊是名)玉御殿(東西二室になっている)

  
        ▲伊是名グスクへの登り道        ▲伊是名グスクへ上る途中にある大城ナー

 
   ▲伊是名グスク内にあるイシカー        ▲グスクにある高城ミヤ御イベ

【伊是名の神アサギ】

  伊是名島には諸見・伊是名・勢理客・仲田に神アサギがある。いずれも8本の石柱と軒の低い茅葺き屋根の建物である。特徴的なのは、山原の神アサギのほとんどが集落の広場(アサギナー)付近にあるのに対して、伊是名の四つの神アサギと旧家の屋敷内にある。それは中・南部の殿(トゥン)の配置と共通している。
 伊是名の神アサギは山原とは異なり、御嶽―神アサギ―集落の軸線の法則性は希薄である。それは集落の移動と関係しているのかもしれない。集落移動と御嶽、そして神アサギの関係で見てみる必要がありそう。今回、御嶽との関わりの視点での見方はしていないので(再度確認をしてみたい)。
 伊是名の場合は伊是名グスク(元島)から上村、そして現在地への移動が言われているので理解できそう。それと伊是名グスク内にある拝所と四つの村との関係。

 伊是名の祭祀は公儀と村の祭祀が一体化している場合が多いようだ。それで伊平屋阿母がなしと北・南風の二カヤ田(タカヤタ)の神人の祭祀が村の祭祀にどうかぶさっているのか。村のみの祭祀がどう行われているのか。そのあたりの仕分けができると山原の今帰仁阿応理屋恵(アオリヤエ)と今帰仁ノロの祭祀の重なりが見えてくるかもしれない。そのこともあって、諸見からスタートして仲田、それから伊是名へゆく祭祀のコースを辿ってみたのだが…。

 
       ▲諸見の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)

 
  ▲仲田の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)

 
      ▲伊是名の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)

 
      ▲勢理客の神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)
 

2005.05.01(日)

 休日を利用して伊是名島へ渡る。風があるのでどうか。伊是名島、地理的に山原でありながら、歴史や文化として山原ではなくなっている。それが何なのか興味深い。伊是名の方々は山原だと思っていないかも。おそらく???でしょう。それと三山(北山・中山・南山)の時代の伊平屋(伊是名を含む)は、北山の領域だったようだ。三山統一後は首里王府の直轄地のようなもの。それが伊平屋(伊是名)は山原ではなくしてしまった。首里王府の統治が今に大きく影響を及ぼしている。

 ちょっとメモ書きをしておいたが、伊是名島の仲田、諸見、伊是名、勢理客のムラ、それと神アサギなどブラリブラリ見れたらいいなと思っているが…。

【伊是名グスク】メモ

 伊是名島にある伊是名グスクは、伊平屋島(我喜屋)出身の屋蔵大主の子の佐銘川大主が築城したと伝えられる。佐銘川大主は沖縄本島の南にゆき、大里味の娘をめとり、その子が第一尚氏の苗代大親(思紹)だという。その子が尚巴志。三山を統一した人物である。

【四殿内(ユトゥヌチ)】メモ
 また第二尚氏を開いた尚円もまた伊平屋(伊是名の諸見)出身である。金丸(尚円)が王位ついた後、尚円の身近な人物をノロ職や夫地頭職にし世襲させた。
   ・真世金仁金(尚円の姉)が伊平屋の阿母加那志の神職を賜る。
       (にちりきよ君きよら、おもひませにかね)(三十三君の一人)
   ・叔母の真世金仁は「二かや田の阿母」の神職(名嘉家)を賜る。
   ・真世金仁「二かや田の阿母」に二人の娘がいたので、
     南風の二かや田母(姉)(玉城家)
     西の二かや田母(妹)(伊礼家)
   ・叔父の真三良は真和志間切銘刈村の地頭職を賜る。
     目を患い伊平屋へゆき銘刈大屋子となる(銘刈家)。

【伊平屋島玉御殿】メモ

 伊是名グスクの麓にある墓。伊是名玉御殿と呼ぶ(県指定)。
  ・尚真王時代(1500年代)の創建か?
  ・切妻式の破風墓(内部二室)
  ・東室に中国製の二基の石厨子(輝緑岩)
  ・ウツタクチテランソウ(勢理客)→東佐久田原(仲田)→現在地
  ・現在地の墓は最初木造の建物、さらに中に箱、その中に二基の厨子甕
  ・1687年大破したため現在の石造りの墓となる。
  ・東室に尚円の姉(伊平屋の阿母加那志)初代、尚円の叔父の銘刈大屋子、尚円の叔母の伊平屋

阿母加那志(初代)
  ・西室は各職の二代目以降が葬られている。
  ・同治9年(1870)から首里の玉稜同様に公事の清明祭が行なわれる。(その祭祀道具類は

ふれあい民俗館に所蔵)

【銘刈家】メモ
  ・尚円の叔父の真三良を初代とする銘刈家(国指定)
  ・銘刈家の当主は銘刈大屋子(親雲上)夫地頭職(終身・世襲)
  ・伊平屋玉御殿の清明祭を掌る。
  ・伊是名島における王家関係の祭祀儀礼を行う特異な夫地頭

【参考文献】
  ・『伊是名村史』(上・中・下)
  ・『角川沖縄地名辞典』角川書店(昭和61年)
  ・『沖縄県の地名』平凡社(2002年発刊)

③伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」
 伊是名島の「雨乞い」と「火立所」のあるアーガ山に登る。その場所まで行くのは十数年振りである。行った記憶はある。島に何度か渡っているが、以来その場所に足を運んでいなかった。
 伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で「異国船遠見番所」、『薩摩藩調製図』で「火立所」とである。伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で●記号で記されている。伊是名島から国頭間切の辺戸村で受け、辺戸村から今帰仁間切の古宇利島、さらに大嶺原、伊江島の火番所で受け、瀬底島、読谷山間切火番所、弁が嶽で受け継ぐ連絡網である。

 アーガ山の嶺に「火立所」とは別に諸見・伊是名・仲田・勢理客が雨乞いを行う場所がある。

【伊平屋村雨乞の状況】(明治44.4.22)

三月九日、伊是名、諸見、勢理客及び仲田の四ヶ字、アーガ森に登り雨乞の式を挙行す。其の方各字一戸一名宛の総揃いにて、アーガ森一帯の四ヶ所に陣取り、盛に火を燃やし太鼓を打ちつつ北より東、東より南、南より西に順を遂ふて四方拝み、十一月以来降雨なきを恨み且つ訴へて降雨を乞う様、… 

【アーガ山】(明治44.11.3)

支那への進貢船帰帆の折、往々吹き流されて当地に漂着したる事ありて、夏至の節に入り進貢船帰帆の時節となれば、アーガという山の頂上に灯を燃やし目標にしたりとぞ。今も其の跡残れり。其の年進貢船当地に漂流し、順風を待ちて那覇に向け出帆せしも、俄かに風位転じて意を果たさざることを数度に及びしを、一人の物識り曰く、風伯の嵩る無理ならぬ事なり。    

 
 ▲「火立所」の方角は伊平屋島        ▲伊是名の「火立所」跡

 
     ▲諸見の雨乞いの場所              ▲伊是名の雨乞いの場所

2007年1月30日(火)

②伊是名島番所跡
 伊是名島の伊是名まで足を運ぶ。伊是名島の番所があった村であり、伊是名島の同村である。伊是名グスクは元島原にあり、伊是名村(ムラ)があった場所である。伊是名は元島(原)から上島(原)へ。そこから現在地に移動した(『伊是名村史』下巻)という。伊是名のムラ名は伊是名グスクに因んだ呼称なのかもしれない。

 『球陽』(巻20)に「伊平屋島の駅籍の移転」(1811年)の記事がある。
  伊平屋島駅籍を村後の北方伊世名原に改移るを准す。
  伊平屋島の駅は、客歳回禄に遇ふて焦土となる。当に改造あるべし。而して今かの駅籍は
  伊是名村内にあって、其隣り茅屋多く常に大憂あって安し難し。駅籍を村後の北方伊世名
  原に改移するを准さんことを乞ふの等由、酋長の呈文に検者、総地頭及び大美御殿大親、
  高奉行等、印を加具して詳明するに、随即に准焉す。

 伊平屋(伊是名)の駅(番所)は伊是名村(ムラ)の集落内にあったが、回禄(火災)で焼けてしまった。今の場所は集落内にあり隣には茅葺が多く常に心配である。それで集落後方北側に移し変えることを願いでて許された。駅(番所)の移転や改築に検者・総地頭・大美御殿大親・高奉行などの印を押して願いでている。伊是名島を含む伊平屋島は大美御殿の領地で、総地頭は伊是名だったという(『南島風土記』)。昭和14年に伊平屋と伊是名が分村する。

 「伊平屋島番所跡」碑に「昭和六年まで伊平屋村役場この地にあり」と記されている。集落内から移転後の番所(役場)があった場所である。

 

2007年1月29日(月)

①伊是名グスクと伊是名玉御殿

 伊是名島をゆく。伊是名グスクと同村(伊是名ムラ)、伊平屋島番所が置かれた伊是名へ。それと「尚円王の叔父銘刈親雲上は、首里にに出仕して真和志間切銘刈村の地頭職となり、後に帰島し、子孫は里主職を勤めた」ている。それが銘刈家(伊是名村伊是名)である。銘刈家は首里に引き揚げることなく伊是名島伊是名に家を構え住むことになる。

 各地の按司が首里に集められたのに対して、今帰仁間切は首里から監守(今帰仁按司)が派遣され1665年に首里に引き揚げた。伊是名島は今帰仁と異なり、銘刈親雲上が派遣(帰島)され、首里に引き揚げることなく島に住むことになる。それは、尚円が伊是名島が生誕地ということもあるが、伊是名島は首里王府の直轄地としての形態をなしていた。(祭祀も今帰仁阿応理屋恵は引き揚げる(一時期廃止され、再度今帰仁へ戻る)が、伊平屋あんがなしは、そのまま伊是名に留まる)。

 伊是名玉御殿に向かって左側に伊是名グスクへの登り口がある。そこがグスクへの正門があった場所だろうか。登って行く途中にいくつもテラスが確認できる。また拝所がある。一帯の斜面に建物があったと見られる。それが伊是名の集落だったのだろうか。斜面にあった集落が麓に下り(そこが伊是名元島)、さらに現在地に移動した。そのような経過を辿ったのであろうか。 

2007年2月1日(木)



 
       伊是名グスクへの登り口                 伊是名グスク内にあるイシジャー


  伊是名グスクの麓にある伊是名玉御殿       グスクからみた伊是名元島跡

 

       銘刈家(字伊是名)             伊平屋島番所跡(字伊是名) 

2007年2月1日(木)

メンナー山(ヤブサス御嶽イベ)(伊是名島)
 諸見の後方(北側)の標高84.9mの山がメンナー山である。『琉球国由来記』(1713年)のヤブサス嶽御イベのようである。島には「島中拝所」と「公儀祈願所」と区別されていてる。諸見のヤブサス嶽御イベは島中拝所である。神名はキウノ森とあり、本島側の御嶽の記載が異なる。本島側流に言うとキウノ森が御嶽名で、ヤブサス嶽御イベは神名ということになる。メンナー山全体が御嶽(ここでいうキウノ森)でヤブサス嶽御イベ部分はイベに相当する部分と考えている。

 『伊是名村史』によると銘刈家の古い絵図に「いさす御嶽」とあり、メンナー山はイサシが古い名称ではないかとある。『琉球国由来記』のヤブサスと銘刈家の絵図のイサスは表記の違いなのであろう。
 鳥居を三つくぐると瓦屋根の建物があり、イビノメー(イビの前)にあたり、頂上部に向けて壁が開けてある。そこに石が一基置かれている。そこはイベ部へのお通しのようである。そこから小道を登っていくと頂上部手前程にサンゴ石で造られた小さな祠があり、内部は一個の石が置かれている。メンナー山(ヤブサス:イサス御嶽)は諸見の村(ムラ)の御嶽と見ることができる。諸見の集落内の尚円と関わる拝所は、公儀拝所と記されるようにクニ(国)クラスの祭祀である。それが混交した形で行われているのではないか。


     二番目の鳥居           三番目の鳥居の赤瓦屋根の遥拝所


  頂上部に向かう小道       頂上部近くにある祠  

【伊是名ノロ殿内】


 
伊是名村伊是名にある伊是名ノロ殿内跡        ノロ殿内の内部
 

平成22年7月6日(火)

 まずは「ふれあい民俗舘」から。そこで銘刈家と名嘉家、そして二かや田(伊礼家・玉城家)の資料の確認をする。ある出版社の原稿書きのための伊是名島行きである(詳細は改めて)。名嘉家の隣くらいの石垣に「前□護身三昧耶」?の碑がある。石敢当の役割を果たしているのであろうか。

【4日の午後】
 ①ふれあい民俗舘(古文書によく出てくる「黄色地御玉貫」などが展示してある。
  ②銘刈家(報告書あり)
  ③名嘉家(報告書あり)
  ④伊平屋間切番所跡(学校跡地)
  ⑤伊是名の神アサギ
  ⑥ムラヤー(公民館)前の拝所
  ⑦伊是名港近くの拝所
  ⑧伊是名港
  ⑨勢理客の神アサギと根神屋
  ⑩勢理客の土帝君
  ⑪勢理客の集落外れの拝所
  ⑫勢理客の団地付近の拝所(神アサギ風の建物)
  ⑬メンナー山(拝所)(ウタキか、鳥居があり左縄がめぐらされている)
  ⑭尚円王御庭公園
  ⑮諸見の神アサギ
  ⑯尚円王生誕地(みほそ所)
  ⑰潮川
  ⑱仲田の神アサギ(仲田家の屋敷内)
  ⑲仲田の「二かや田」(伊礼家と玉城家)
  ⑳仲田のカー(集落外れのカーと拝所)

5日の午前中】
①伊是名グスク
 ②グスクの周辺(石囲い、七合目あたりのカー、祠、麓のカーなど)
 ③伊是名玉御殿(拝領墓)(報告書あり)
 ④葺きかえられた番所跡
 ⑤仲里節歌碑
 ⑥□□□崎(伊是名グスクの全景が見える)
 ⑦サムラー道(途中)・銘刈ガー・四殿の墓(銘刈家・名嘉家・伊礼家・玉城家)
 ⑧龍神銅
 ⑨陸ギタラ(慰霊塔あり)
 ⑩海ギタラ(付近に墓、伊是名港から近くまでいける)
 ⑪アハラ御嶽
 ⑫風の岩(伊是名の集落、伊是名グスク、陸・海ギタラ・アハラ御嶽などが望める)
 ⑬美織所(チヂン岳)
 ⑭アーガ山(雨乞い拝所四ヶ所を確認。燃やした灰が結構残る)
 ⑮諸見の土帝君
 ⑯逆田(諸見・内花・伊是名・勢理客・仲田が水田をつくっている)


   伊是名グスクへの登り道                諸見の土帝君


 
サムライ道の途中にある銘刈ガー     最近葺きかえられた勢理客の神アサギ


 「護身三昧耶」?の石碑


2023年12月9日(

 今日は何をしようかと、その日暮らしとなる。12月まだ二本の会議が残っているが、準備するのがないのでひま状態。年末の庭や花木畑の」手入れでもするか。2003、4年の伊平屋島の記録を紹介しましょう。(大学での講義案の一部))




2023年12月8日(金)

 「基調講演」を済ませ、で頭の中は空っぽ。空かさず恩納村の真栄田・塩屋が滑り込む。真栄田も明治に前兼久尋常小学校があり、地図をみると地頭地があり、隣の塩屋に真栄田のろ家(跡)がり、村に神アサギある。真栄田の集落地はウタキであり、ウタキ内に集落ができているのではないか。塩屋は古くは真栄田村の内。塩屋に名嘉真ノロ家があるのは塩屋は名嘉真村内にあったことを示している。名嘉真と塩屋の集落は内は二、三回散策したことがある。急激に変貌している地である。明治34年からムラの様子が伺えて興味深い。(来週、恩納村史のメンバーと)

 今朝、庭に小鳥(ヒヨドリではない)が落下している。巣に戻せないので日や雨の当たらない鉢の中へ。ベランダから巣を除くとヒナのさわいでる泣き声が聞こえる(巣の内部は見えず)。親が近くで騒いでいるので餌をあげているようだが大丈夫かな。

 
 



2023年12月6日(水)

 旧久志間切(東海岸、現名護市)部分、私の頭では陰が薄い。大学の講義で使ったレジュメで乗り切るか。これから「寡黙庵」で60分内に納めることに。





2023年12月5日(火)

 平成18年に『古宇利誌』の発刊をみる。古宇利島に橋が架かった前後である。島へは小型のフェリーでの島通いであった。島の方々とは平成元年前から顔なじみであった。『古宇利誌』もそうであるが、島の祭祀調査は度々行っていた。その延長で「なきじん研究17―古宇利島の祭祀の調査・研究」(2020年発行)も発刊できた。

2005.07.16(土)

 古宇利島の陸上と海岸沿い、そして島周辺の海の中の小地名を図に落としてみた。『古宇利誌』の「小字と小地名」の編に入れる図である。「陸上と海岸沿いの小地名」の図は作成する。

 海岸沿いに小地名が多く見られるのは、島の人々の生活が海(海岸)と密接に結びついていたことによるのであろう。それと海中のイノーやリーフにも小地名がみられる。それは、漁や舟の航行との関わりがあるからに違いない。小地名の呼称を分類してみると面白い(意味の解せない地名も多い)。

【陸上と海岸沿いの小地名】
 ・イワ(岩)・・・・・・・・・・・・・・ジャンジャイワ(ザンの岩)
 ・イャーヤ(岩屋)・・・・・・・・・パマイャーヤ(浜の岩屋)
 ・ガマ(洞窟)・・・・・・・・・・・マークーグガマ・パマガマ(浜の洞窟)・ヤマトゥガマ
                 (大和洞窟)
 ・シー(石)・・・・・・・・・・・・・・シーバイ(石のある方)・ハマンシ(浜の石)
 ・ハマ(浜)・・・・・・・・・・・・・パマガマ(浜の洞窟)・チグヌハマ(壷の浜?)・トクフバマ
                 (トクフ浜)・テーヌパマ(テーの浜)
 ・ソー(迫)・・・・・・・・・・・・・ソーヌパマ(迫のある浜)
 ・サチ(崎)・・・・・・・・・・・・ダキヤマヌマサチ(竹山の崎)・シルマサチ(白い所の崎)・アラサチ(荒崎)
                 サバヌマサチ(サバヌマ崎)
 ・トゥンヂ(とび出た)・・・・・トゥンヂバマ(とび出たところの浜)
 ・ピザー(山羊)・・・・・・・・・ピーザーアナ(山羊の穴)
 ・ミナ(貝)・・・・・・・・・・・・・・ミナワイ(貝を割)
 ・ホー(陰部)・・・・・・・・・・ハイホーワラ・ホーヌサチ・ホー
 ・タンメー(おじいさん)・・・タンメーガマ(叔父の洞窟)
 ・ハカ(墓)・・・・・・・・・・・・パカヌメー(墓の前)
 ・ウプ(大)・・・・・・・・・・・・ウプドゥマイ(大きな泊)・ウプトゥケー(大きな渡海)・
                ウプタールムイ(大きなタール森)
 ・グヮー(小)・・・・・・・・・・トケーグヮー(渡海小)・シルヌハマグヮー(白い浜小)
 ・アガリ(東)・・・・・・・・・・アガリウセールクマグヮー(東のイジメ場所)
 ・イリ(西)・・・・・・・・・・・イリウセールクマグヮー(西のイジメ場所)
 ・ヤマトゥ(大和)・・・・・・ヤマトゥガマ(大和洞窟)
 ・その他・・・・・・・・・・・・シラサ(白砂浜)・ウプルマイ(ウプドゥマイ:大きな泊)・アミヌアシ(雨の脚)
               ・ソーバタキ・グサブー・クヤミ・ハンゼー・アタフヂー・ハヤハンシチ・アザキ
               タチバナ・サヤゲーケジ・オーグムイ(青い小堀)・クンヂヌタナ・ターチバナヒ

など地形や物の名などに因んだ地名が見られる。大小を表すウプ(大)やグヮー(小)、方向を表すアガリ〈東〉やヤマトゥ(大和)やハカ(墓)やダキ(竹)などの付いた小地名もある。 アラサチ(荒崎)は島の北側の岩場の地名で、荒波の打ち寄せる場所に付けられた地名である。現在の小字にはないが、原石に「あらさき原」があり、一帯の原名としてあったことが伺え、原名は消えたが小地名として残っている。

 

2023年12月4日(月)

 基調講演のレジメを送付。レジメに沿った話はこれから。「山原の津(港)」の原稿が目にはいる。(下)とあるので、新聞に上・中・下と発表した原稿である。展示会も開催ている。「なきじん研究 9」と「なきじん研究 14」にまとめてある。展示会は学芸員実習生と職員ともども頑張った事が思い出される。(展示資料は歴史文化センター所蔵) また、津(港)を通して多くの歴史的なことを学んだことが思い出される。

     (下)
 国頭村は村(ムラ)と村との陸路が険しく、昭和十年代まで海上交通が主でした。1731年の『琉球国旧記』の「港江」を見ると、国頭間切には港は一つの記載もないが江(入江)は29もあります。村を流れる河口(入江)が港の機能を果たしています。浜港は国頭間切番所(役場)があった所です。浜村は行政の中心地であった(後に番所は奥間、辺土名へと移る)。鏡地港も山原船の出入りがあり、木材が運びだされました。屋嘉比港は根謝銘グスクが機能していた時代、国頭按司の貿易港と伝えられオモロでも謡われています。国頭からの輸出される産物は建築用材や薪、炭材や砂糖桶などでした。

 東村あたりは、山原船による林産物の運搬でムラの経済が成り立っていました。高江は三方山に囲まれ林業を生業にし、宮城から高江まで道路が開通していなかったため、輸送はほとんど山原船にたよっています。宮城は昭和30年代まで林業で生活を支え、生活用品は山原船に頼っていました。現東村川田の人々は山に何度も入り薪用材を切り出し、馬やイカダ、あるいは人力で担いで運び出しまいた。平良ではムラの人たちが運んできた薪を売店が買い取り、山原船で与那原港に運ばれました。与那原港からは生活物資が運ばれてきます。慶佐次は戦前から山仕事が盛んで、燃料用の薪で現金収入を得ています。

 ムラの人たちは山原船の入港に合わせて山仕事の共同作業の日程が決めらます。山原船が運んだ物資は共同売店が買い取り、さらにムラの人たちに販売されていた。共同売店は「山稼ぎ」の換金や山原船との仲介役でした。

 宜野座村の漢那の船は糸満や泡瀬や那覇、惣慶の船は泡瀬・糸満・那覇などで取引先がきまっていました。船主の多くが平安座島で宜野座を出発すると平安座で一泊し、風向きがいいと翌日には与那原や那覇に着いたといいます。航海は月に二回程度でした。宜野座から運び出される産物は薪炭や竹木であった。『宜野座村誌』によると帆の大きさは七反帆船から十反帆船まであり、八、九反帆船が多く、七反帆船で27トン、薪は8000束積むことができたといいます。

 金武は金武湾に面しているが、昭和6年に石川と屋嘉の間で荷馬車が通ると海上交通が衰退し陸上交通へと移っていきます。伊芸あたりから荷馬車で薪や炭などを中・南部のマチに運び日用雑貨を仕入れてきました。明治41年に金武・久志と与那原との間で薪の値段の折り合いがつかず対立したことがあります。

 与那原港は那覇港に次いで山原船の出入りが多く、与那原のマチは活気づいていまし。材木商や薪炭商などの店が軒を並べ、陸路では乗合馬車や人力車、荷車などが那覇と与那原間を往来した。大正3年には軽便鉄道が走った。山原からの輸入品は薪や木材、竹茅・製藍など。輸出品は焼酎・茶・素麺・昆布・塩・味噌・石油などでした。

 山原の東海岸の村々の津(港)と与那原を、西海岸の村々は泊・那覇港とを山原船が結びつけていました。それだけでなく奄美や与論、沖之永良部島との航路もありました。

 山原の津(港)の中で運天港は特異な存在である。源為朝公の渡来伝説をはじめ、『海東諸国紀』(琉球国之図)に「雲見泊 要津」とあり、オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」と謡われいます。薩摩の琉球侵攻、北山監守を勤めた今帰仁按司の一族を葬った百按司墓や大北墓、間切番所、近世末のバジル・ホール、フランス艦船、ペリー提督一行など異国船の来航、奄美に漂着した唐人の収容など、運天港での出来事は「琉球の歴史」を次々と髣髴させます。

 山原において村数ほどの津や江があるのは「陸の孤島」と呼ばれるムラもあるほど陸路が不便で、海上輸送に頼らざるを得なかったためです。人々はそのムラで生まれ育ち、骨を埋めていくのが一般的でした。首里・那覇に行けたのは限られた人達で、回数でした。明治になり、さらに大正になると郡道が整備され、車の出現で輸送は海上から陸上へと移り、人々の動きや流れも大きく変わって行きます。

 企画展「山原の津(港)と山原船」は、山原の津々浦々を山原船という視点に添って見て行く作業だと言えます。

 
        
明治から昭和の初期にかけての運天港(望郷沖縄より)


2023年12月3日(

 デジメ作成中(工事中)

 以下の項目は「沖縄県国頭郡志」国頭郡教育委員会(大正7年)は発行より。国頭郡志発行から、100年余たった現在、当時記録された史資料が、今にどのように遺っているか、確認することを目的としている。


1.本部町

③本部村(町)並里(満名)上の殿内(『沖縄県国頭郡志』)
  按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)、

繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)

④花の真牛(本部町伊野波)(『沖縄県国頭郡志』)
  真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。

⑤本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家(『沖縄県国頭郡志』)
  同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて
    左の遺物を納めたり。
 一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
 一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
 一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)

⑥按司墓】(渡久地)(国頭郡志)(『沖縄県国頭郡志』)

⑦浜元の土帝君(浜元)(『沖縄県国頭郡志』)

⑧謝花大主の墓((『沖縄県国頭郡志』


2.伊江村

①伊江島、辺士名カマド

②伊江島仲村渠マカト遺念火


3.今帰仁村(『沖縄県国頭郡志』)

①古宇利島(神話)
②墳墓記(今帰仁村今泊、康煕17:1678年)
③池城墓碑(今帰仁村平敷、康煕9:1670年)
④今帰仁阿応理屋恵按司家(阿応理恵御殿)(所蔵目録)
  ・冠玉たれ一通 ・同玉の緒一連 ・王の胸当一連 ・王の御草履一組 ・玉かわら
  ・同玉かわら 一大形 ・二十二小型水晶の玉百十六。
⑤千代金丸の複製
山北今帰仁城監守来歴碑記(今帰仁グスク:乾隆14:1749年)
⑦今帰仁ノロの遺品
⑧今帰仁ノロの墓
⑨中城ノロの遺品
⑩勢理客ノロの簪
⑪山北神社の建設
⑫今帰仁城址
⑬大北墓
⑭百按司墓
⑮大和人の墓


4.羽地村(現名護市)(『沖縄県国頭郡志』)

 ①羽地
 ②オランダ墓
 ③呉我港
 ④鍛冶屋原
 ⑤勘手納め港
 ⑥羽地大川
 ⑦改決羽地大川碑記(乾隆9:1744年、道光10年)(『沖縄県国頭郡志』)
 ⑧羽地城址
 ⑩親城 
 ⑫池城墓
 ⑬古我地
 ⑭金川銅山
 ⑮源河
 ⑯オランダ墓墓碑(1846年)(屋我地島)


        ▲名護市史「名護碑文記」より


5.名護町(現名護市)

【名護町(現名護市】(『沖縄県国頭郡志』) 

①安和岳悪魔退治
②名護間切名護村長寿大城
  尚敬王34年次良大城101歳に黄冠を賜い、絲綿一把綿布二端を賞与される。
③三府龍脈碑記(名護市:乾隆15:1750年)(『沖縄県国頭郡志』)


             ▲名護市史「名護碑文記」より
 
              「国頭郡誌グラビアより」

 名護市内からスタート。ムラ・シマの形をテーマとしながら踏査するのであるが、今日はそれとは関係なく、『国頭郡志』(大正8年発刊)の山原の「名所旧蹟」100ヶ所あるが、名護市内→金武町→久志村(現名護市東海岸)を踏査してみた。それらの項目はある出版社の『沖縄の歴史』で執筆したことがあるが、収録されたのは原稿の一部だったような。

 ④名護公園
 ⑤万松院
 ⑥名護街
 ⑦世富慶
 ⑧轟滝
 ⑨許田手水
 ⑩湖辺底

 
    ③三府龍脉碑記とヒンプンガジマル(21041026日)


6.大宜味村(『沖縄県国頭郡志』)

①大宜味村田港(根謝銘屋)
  田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。

 ・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
 新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を
 引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
 その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金は仲門松本の
 祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
 本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。


②大宜味間切根差部親方(『沖縄県国頭郡志』)
  ・・・其の衣類は根謝銘大城某の宅に保存せり。

③津波城
④森川子旧址
⑤塩屋湾
⑥田港
⑦寺屋敷(『沖縄県国頭郡志』)
⑧根謝銘城
⑨根謝銘城(上城)の系統(『大宜味村史』所収)
  大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の
  居城とされる。


7.国頭村(『沖縄県国頭郡志』)

 ① 国頭村奥間座安家(アガリー)(『沖縄県国頭郡志』)
    尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣・黄色絹帯地及黄金カブの簪

 ②国頭村辺戸の佐久真家(『沖縄県国頭郡志』)  
  70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存

 ③国頭村字安田(屋号:川口)(『沖縄県国頭郡志』)
  仲今帰仁城主の一族の伝承あり。黄金の男差簪、古い短刀一振。古文書(辞令書)

 ④安田の辞令書(「国頭郡志」文面所収

 安田は三つの集団(マクやマキョ)の集った集落ではないのか。そのことは今回見た安田のシヌグの山降りにその痕跡をみた思いがする。12時頃ムラの男性や参加者達が三々五々とササ・メーバ・ヤマナスの三つの山に分かれていく。本来それらの山が三つの集団の各々の御嶽であったとする。合併後もそれぞれの御嶽へ登り、自分たちの神々が山(御獄)から降臨してくるとの発想が根底に流れているのではないか。近世の中頃には安田が行政ムラとして存立しているのであるが、シニグの神降臨の場(三ケ所)に三つのマク・マキョ規模の集団の合併があったことを予測させる。ササ・メーバ・ヤマナスの山の麓にマク・マキョ規模の小さな集落があったと想定するだけでも、棚田を一望したときと同じような琴線が弾かれた思いにかられる。

           しよりの御み事                         首里(首里王府)
            くにかみまきりの                     国頭間切
              あたのさとぬし[ところ]               安田の里主
              この内に四十八つか[た]は         この内四八束......
              みかないのくち                         貢
              御ゆるしめされ候 
             一人おたの大や(こ)に                 安田の大屋子
              たまわり申[候]               給わり申し候
          しよりよりあたの大や[こ]か方ヘまいる   首里より安田の大屋子
             萬暦十五年二月十二日

⑤尚円王に関する伝説(奥間)
⑥奥間
⑦土帝君
⑧経塚
⑨辺土名
⑩伊地の古墳
⑪与那の高坂
⑫謝敷板干瀬
⑬辺野喜
⑭宜名真御殿
⑮オランダ墓
⑯茅打万端
⑰戻る道
⑱辺戸御嶽(アスムイ)
⑲義本王の墓


8.東村

①久志村(現東村)川田(根謝銘屋)(『沖縄県国頭郡志』)
    同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪

大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。・・・・」

②川田にある仲北山御次男思金の墓(『沖縄県国頭郡志』)国頭郡志」

 東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ仲北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。

 


9.久志村(現名護市)

 久志間切で興味を引くのは、康煕27年(1688)の「観音」(石像)の久志村への安置である。間切番所は移転したのであるから、観音像は番所のある瀬嵩村に設置してよさそうなものである。ところが、尚経豊見城王子朝良(惣地頭)と久志親方助豊(親方地頭)の両惣地頭は久志村に観音像を設置した。行政(番所)の移動があっても祭祀は動かないという法則が見出せる。因みに久志村は久志ノロの管轄である。

久志按司 家禄四十石 物成十三石余
           領地 久志間切作得十六石余
     仲田里主 家禄 三十石 物成二十三石余
          久志間切作得二十三石余

 国頭方の東宿・西宿とも名護間切経由だったのが、久志間切番所を瀬嵩村に移動することで、久志間切から名護間切を経由せず羽地間切をつなぐコースとなる。当然のことながら『琉球国旧記』(1731年)の久志間切の駅(番所)は瀬嵩邑(村)である。

 




10.恩納村(『沖縄県国頭郡志』)

①多幸山
②山田城址
③毛氏墳墓
④久良波
⑤比屋根坂
⑥恩納嶽
⑦恩納村はづし
⑧万座毛
⑨犬滝(安富祖)

 下の二枚の辞令書は『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著:昭和7年)の口絵に納められているものである。28日(水)に恩納村立博物館で「恩納村の御嶽と集落」をテーマに話をする。この辞令書を手がかりに恩納間切(現在の村:ソン)の導入部分にあてようと。

   しよりの御ミ事              首里の御ミ事
      きんまきりの               金武間切の


11.宜野座村


12.金武町(『沖縄県国頭郡志』)


▲金武寺(現観音寺)(『沖縄県国頭郡志』グラビア)

①富蔵港(フクツ港)

 『沖縄国頭郡志』(大正8年)に、以下のように記される。
  金武の東方なる小流を富蔵(フクジ)河(旧記には富花、今は福花川に作る)といい、その河口を富蔵津という。付近の小字を福花原と称し字金武に属す。日秀上人の漂着せし所なるを以って著はる。 『中山伝信録』(1721年)にも記されている。

  在金武山、山上為金峯山、下有洞千手院有富蔵河、二百年前有日秀上人渡海到、此年大豊、
  民謡云、神人来兮、富蔵水清、神人遊兮、白沙化米、日秀上人住波上、三年跡回北山云々

②金武寺(現観音寺)(『沖縄県国頭郡志』)

 金峰山観音寺は金武にあり。今を距る三百七八十年前尚清王代(1497~1555年)、倭僧日秀上
 泛海して、富蔵港に来り寺を金武村に剏め自ら弥陀薬師正観音三像を彫刻kして安置す。これ同
 寺の起源なり。その後一旦禅宗に属せしが寛文二年(1643年)尚質王具志川王子朝?(チョウエ
 イ)に命じて再び真言宗に復せしめ、元禄十二年(1698年)尚質王代に至り住持慧郎、新に紫磨
 金三尊仏を請じ且つ初めて屋根瓦を用い旧観に改むという。

 境内に洞窟あり、深さ二町山背に通ず。昔此処に大蛇棲息し、人民その災禍に罹るもの多かりし
 が日秀上人呪文を唱して之を除き初めて安堵せりという。

 洞内千手観音の小祠あり、現今奉安するもの本尊厨子共に陶製にして、扉に大清同治二年(1863)
 癸酉十二月十三日、現在は瀬源の文字を刻す。
 洞内鍾乳石および石筍相接して奇観を呈す。

  同寺は明治四十三年法律第五十九号沖縄県社禄処分法発布の結果土地建物をその寺に無償
 下渡せらる。

 琉球国旧記に、
   嘉靖年間、尚清王世代有田日本僧日秀上人者、随流漂至富蔵津、遂創寺社金武邑、自刻弥陀
   薬師正観音三尊仏、而奉焉、既而其道漸衰、遂将寺此賜禅林精舎、自此而来霊山日微神明亦
   不現焉、康熙元年壬寅除夜、尚質王命尚氏具志川王子朝?、復賜之於聖家焉。至于三十八年
   巳卯住持慧即和尚揆遺古仏、新請紫磨金三尊仏、而奉安焉、云々

  
   ▲福花川の河口          ▲福花橋           ▲福花橋付近から金武集落を眺める

  
    ▲金武の観音寺        ▲鍾乳洞内           ▲洞内の千手観音の小祠?  

 ③御待毛(恩納村)
 ④金武
 ⑤七日浜
 ⑥山里和尚の墓


    


2023年12月2日(土)

 ①本部町 ②伊江村 ③今帰仁村 ④羽地村(現名護市) ⑤名護町(現名護市) ⑥大宜味村 
 ⑦国頭村 ⑧東村(旧久志村) ⑨久志村(現名護市) ⑩恩納村⑪宜野座村 ⑫金武町
   (伊平屋村・伊是名村島尻郡)

 各市町村から10項目づつ。100項目、100頁。1頁1分以内。そんな計算をしながらのデジメづくり。

②本部町辺名地 仲村家

 ・辞令書三点
 ・按司墓
 ・ウナジャナ墓

  

 

③本部村(町)並里(満名)上の殿内


 按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)

繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)

④花の真牛(本部町伊野波)
 真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の
  真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。永楽年の腕(青磁)

⑤本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家
 同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて

左の遺物を納めたり。
 一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
 一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
 一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)

 同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に葬らるるのみ。
 
メモ
 201469日(月)本部町嘉津宇を踏査する(雨)。目的は嘉津宇ムラは1719年に伊豆味の古嘉津宇から現在地に移動。その故地の確認。故地に手がかりとなる拝所やカーなどの確認はできなかったが、盆地になっている古嘉津宇の撮影はオッケー。

 現在の嘉津宇の公民館へ。その前に神アサギとトゥン、その後方にウタキのイベあり。具志堅の地内に移り、明治36年に具志堅村と合併するが、戦後もとの嘉津宇となる。


 嘉津宇の公民館、神アサギ、ウルン、ウガン(イベ)、ウプヤー(上原門中)、ユレーヤー、クランモーなどの確認。ユレヤーの仲村翁とであり、話を伺う。近いうちに、衣装の件で伺うことを約束する。門の前に車を降りると「仲原さんね」と、仲村さんの方から声をかけてくれた。雨が降り出したので家で話を伺う。詳しいことは、改めてということで短い時間。

 ユレーヤーの前の祠を見せてもらった。『沖縄県国頭郡志』に「按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて」とある按司位牌は、この二つと見られる。「古櫃一個」は前の祠から家の中に移し、衣装を入れてあるとのことことであった。それは改めて拝見させていただくことに。

 
         
  
▲嘉津宇区公民館       ▲神アサギとトゥン   ▲ウタキのイベ


     
   ▲ユレーヤー前の祠内         ▲二つの按司位牌

 本部町嘉津宇に「刺繍」をほどこされた服がある。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている。その後、『服飾の研究』などで紹介されている。『沖縄県国頭郡志』の以下の文面を手掛かりに検討してみることにする。

   (略)

2023年12月1日(金)

 12月スタート。昨日、四日ほど留守にしていたので「寡黙庵」へ。待っていましたとばかりに来客あり。来週7日の基調講演のデジメづくりへ。