トップへ          伊平屋島踏査 2003.4.30(水)メモ



 十数年ぶりの伊平屋島ゆき。今回はムラや集落の成り立ちを確認しておきたいということ。我喜屋と島尻に神アサギがしっかり残り、田名・我喜屋・島尻には水田が広がっている。稲作がまだ行われていることが、祭祀にどのように影響を及ぼし継承されているのか。そのことを膚で感じとることができればと胸のうち考えていた。

 28日(月)午前11時の便で伊平屋島へ。天気晴、波穏やか。しかし、もやっているのですっきりした天気ではなかった。船の旅は約1時間20分。

 伊平屋と野甫の二つの島からなり、近世には田名・我喜屋・島尻・野甫の四つの村があり、明治43年頃に田名から分区した前泊がある。前泊は田名から分区はしたものの地籍は戦後になって分離する。現在5つの行政区からなる。

 船上から伊平屋島の山並みを確認することができる。島に向って左手から阿波岳・賀陽山・腰岳・アサ岳・後岳・タンナ岳がある。島尻は阿波岳と賀陽山、我喜屋は賀陽山と腰岳、田名はアサ岳と後岳の間に発達している。我喜屋・島尻・田名の三つのムラは北側に高い山(御嶽?)を瀬に、集落は南側に展開している。その前方に水田が広がっている。我喜屋・島尻・田名の三つのムラは集落の前方に水田を抱えたムラである。野甫は野原の多い島で畑作と漁を中心のムラである。

 家の囲いは、かつて主に石積みであった。ブロック塀に変わりつつあるが、赤瓦屋根の家とフェーラ石を積み上げた屋敷囲いに伊平屋島のたたずまいをみることができる。石垣に使っている石はフェーラ石と呼ばれ、浅瀬にできた珊瑚石灰岩である。フェーラ石を二列(二重)にして積み上げてあるのが目立つ。ターチ積み(二重積み)と呼んでいるようだ。沖縄本島とは異なった積み方である。また石を切って積み上げたのもあり、布積みもみられる。ケンチ積みもあるようだが確認できなかった。

 我喜屋・島尻・野甫、そして田名の順で歩いてみた。詳細について「伊平屋をゆく」で報告の予定である。歩いての印象をメモ程度に。


@伊平屋村我喜屋

 我喜屋は前泊から西の方に位置する。集落の後方に腰岳の連山が連なり、その麓に集落が展開している。四度の移動伝承を持つ集落で、現在の集落地は四番目だという。神アサギや旧家の跡は三度目の移住地の内村にある。またそこにはマーガー(真井泉)と呼ばれる湧泉もある。

 我喜屋の水田の広がる一帯はトゥマイやナートゥダーと呼ばれ、かつては港(泊)であったことに由来しているようだ。現在の集落は兼久地に立地し、ムラ名の我喜屋はガンジャと呼ばれ、潟(干潟)に由来するという。
     
 ※上里と内村(ウチムラ)は別か?マーガーとウチムラガーも別?(確認のこと)
   
   
 稲作地帯ということでもないだろうが、水田と丘陵地との境目あたりに土地君と見られる三体の像が祭られている。
   
 集落から水田を通り故地の内村に向う途中右手にマーガーが見えてくる。その側に小さな祠があり、それも土地君だろうか。神アサギに至るの途中にガジャ(我喜屋)殿内とあんな殿内の小さな赤瓦屋根の祠が平成11年に建立されている。
   
 神アサギ(県指定)は四本の石柱で高さ70cm位である。しゃがんで入るというより腹ばいにならないと入れないほど低い。屋根は茅葺きで結びは藁縄を使い、中の材木はほとんどチャーギを使っている。土の上にウル(珊瑚)がまかれている。香炉やタモト木なし。
   
 ほとんどの水田が水を切ってあった。稲は根づきこれから成長の時期にさしかかっているはずなのに。田に水を流し込んであげたい気分であった。それで聞いてみた。「田んぼ水がありませんが…」「今はちょうど根の分割時期で、水を控えることで病気になりにくい…」と説明をいただいた。なるほど。土地君の祈りだけではダメなのだ。
   
 神アサギの屋根の低い理由を「神人が衣装を着替える場所、あるいは休憩する場所なので低くしてある」という。

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  ▲我喜屋は赤瓦屋根の家が目立つ    ▲上里にある我喜屋の神アサギ【柱4本)   

A伊平屋村島尻

 伊平屋島の南西側に位置し、細長い島の南西はずれにあるので名づけられた村名であろう。我喜屋が親元で、そこから別れてきたムラだという認識がある。移動伝承を持つムラであるが、『琉球国由来記』(1713年)頃にはすでに移動している。独自の神アサギを持ち柱は8本あり我喜屋の4本より多く、勢いのあるムラであったにちがいない。我喜屋より人口や石高が少し低い程である。ノロ管轄は我喜屋ノロが島尻村まで管轄している。

 島尻にシニグモーがある。「土地改良で今の場所に移転してのですよ」とバーキを担いで農作業にでかけるおばあの話。また、「シニグモーには昨年生まれた男の子たちが、女の子は下のアサギの方に集まってくるよ」と。


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   ▲島尻の神アサギ(石柱8本)        ▲移設された現在のシヌグモー

B伊平屋村野甫

 野甫は伊平屋島と離れた小島である。現在は橋が架かり交通は便利となっている。現在、橋の架け替えがなされている最中であった。橋が架かっている近くに集落が島の南側に展開している。後方に野甫神社があり、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる五つの御嶽の一つ。野甫ノロの管轄。

 集落から離れたところにウフマガーと呼ばれる井戸がある。ウフマガーは大きな、あるいはりっぱな井戸ということか。深さ5m近くある掘りぬきの井戸のため釣瓶をつかって水を汲みあげた痕跡がある。塩分を含んでいたようだ。

 集落の前方の海は見事であった。おいしいものをずっととって置きたい気持ちにさせるちゅら海であった。今回、二度も・・・

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   ▲野甫の集落から眺めた海        ▲珊瑚で積み上げた石積み(?積み)

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 ▲集落から離れた場所に掘られているウフマガー(井戸)と屋敷の珊瑚の石積み


C伊平屋村田名(2013.4.29)

 4月29日(火)伊平屋村田名(ダナ)をゆく。田名は伊平屋島の北側に位置し、島の北半分の面積をしめる字(アザ・ムラ)である。田名は我地村と田名村、そして久里村の三つからなるという。『琉球国由来記』(1713年)には田名村だけしか登場してこない。すると三村の合併はそれ以前ということになる。
 久里村跡は久里原貝塚あたりを指しているようだが、近世の田名村に統合されたとするには、発掘された遺物からみて時代幅が大きすぎるので躊躇せざるえない。久里村はタビナ井泉の水を利用していたという。
 我地名村跡も発掘調査の成果が得られていないが、村跡だったという場所にイシチナ井泉(別名我地名の井泉)がある。このカーは9月9日に清掃をしカーウガンを行っているようだ。
 三つの村の合併があったという認識は祭祀の神役にも反映している。田名村から伊平屋ノロ、久里村から天ノロ、我地名村から安里ノロがそれぞれでるという。

 田名村の歴史の展開は、集落の前面に広がる水田と田名川の氾濫や潮害、田名グムイ(湿地帯)の開発と密接な関わりをもっている。

 現在田名の神アサギは失っているが、昭和2年調査の『宮城真治民俗調査ノート』に「ノロ以下の神職がアサギの庭に集まってくる」とあり神アサギの存在を示している。旧公民館敷地にあったようだ。アサギ庭では今でもウンジャミのとき船を模してフナウクイをしている(神アサギについては「伊平屋の神アサギ」で報告予定)。


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▲「奉寄進 明治十四年5月吉日」の銘  ▲田名城(ウッカーの山)の途中にある祠

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 ▲シンジャ井泉(学校井戸ともいう)      ▲元田名屋(田名神社)


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  ▲元田名屋の内部の様子     ▲袋にウンジャミの時使う馬の鞍


▲上空からみた田名の集落の様子『ふるさと飛行』より

D伊平屋村前泊

 大分夕暮れが迫っていたのであるが、前泊にある役場の後方の虎頭山に登ってみた。八合目まで車が登る。そこから前泊の集落を撮影した。前泊は昭和25年まで地籍上は田名の一部であったが分区し、現在に至る。
 屋取(ヤードゥイ)集落としての歴史は明治12年の廃藩置県にさかのぼるようだ。首里や那覇、あるいは伊是名島からの移住者で形成されたという。明治43年に田名から行政上は分区はしたが、地籍上は未分離のまま続いたという。


  ▲虎頭山の展望台から前泊の集落をみる