日々の調査記録(6月)仲原メモ)

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 (2016年7月へ)


2016年6月27日(月)

 富山県高岡古城まで。その前に高岡市立博物館に立ち寄る。目を奪われたのは「高岡鋳物発祥地」(拓本)の看板と、その前に置かれたは鋳物をつくる道具類(彫金制作道具)である。金装宝剣拵(千代金丸)複製のとき、「毛ぼり」のことを聞かせれていた。毛彫りする道具を見るのは初めて。彫りにはいくつもあり、また彫り(毛彫り・地彫り・打ち出し彫り・透し彫りなど)によって道具が異なっている。砥石については10種余あることは知っていた。

 先日鹿児島市の博物館では山川石、加治木石について確認。また福島県の街道筋の宿場町の屋根ふきの道具が気になったり。作り出される物のバックにある道具類。言葉ではいいつくせない、表現できない世界があることに気づかされる。「毛彫り」の鏨をみつける。故仲宗根政善先生の「琉球語の美しさ」で言わんとすることが脳裏をよぎった。(窓口の方に「撮影いいですか」と伺うと「どうぞ、どうぞ」と。ありがとうございました)

 

 


2016年6月26日(日)

 富山市→糸魚川(新潟県)→富山城(富山市郷土博物館)→高岡古城跡(高岡市立博物館)→石川県立博物館→兼六園→金沢城公園を踏査する。目的地までは「北陸新幹線」や「あいの風とやま線」(在来線?)を使う。それでも歩く時間が一日、5~6時間あり疲れの残った踏査であった。

【6月24日】(富山市内→糸井川→富山城

 糸井川行きは、28年前から目で確かめたいと頭の片隅にあった場所である。平成三年の暮れに「極める―神秘の勾玉」のテレビ番組(東京テレビ)で今帰仁村の中城ノロ家の勾玉やノロさんの出演や今帰仁部分のナレーションの校正に関わったことがあり、その時、糸井川(姫川)が勾玉(ヒスイ)の産地であることをしり、いつかは訪れたいと。奈良岡朋子さんの「ヒスイの勾玉はどのように造られて各地に運ばれたのでしょうか。そして勾玉の形は何を意味するのでしょうか」と、最後に問いかけられた言葉が思い浮かぶ。「長者ケ原遺跡」(考古館)に同様な文章が展示パネルにあり、「30年間勾玉の研究の進歩がないですね」と談笑。

 翌日石川県立歴史博物館へ。そこで絵図から馬場の形、そして「馬旗」について伺う。それは、沖永良部島と与論島で行われていたシニグ(両島のシヌグ旗)とダブる所があったからである。沖縄本島北部のシニグと両島のシニグを比べてみると、両島でもシニグの原義は残しているものの、シニグ旗に描かれいる武将や松竹梅などは、大和化(薩摩化?)しているのを確認しているからである。

 同歴史博物館で「韓国文化への誘い」の図録(平成18年)に目を通してみた。そこにはノロ殿内の遺品としてみてきた頸飾や勾玉の模造品(いろいろな石材)などが紹介されている。何年前になるだろうか、韓国の釜山の博物館や古墳から出土した勾玉などを拝見したことが思い出される。

 奄美から琉球、そして宮古・八重山に分布する勾玉(特にヒスイの勾玉)が琉球に移入してきたのか、ノロ家に残る遺品の一つに勾玉がある。移入の時期は各地のグスクから出土し、ノロ家の遺品として残る勾玉について関心を持ち続けている。そのことがあっての糸魚川の「長者ケ原遺跡」(考古館)とホッサマグナミュージアム)踏査である。

 糸井川へは「あいの風とやま線」に富山駅から乗車。東富山→水橋→滑川→東滑川→魚津→黒部→久善→泊(乗継)→越中宮城→市振→親不知→青海→糸井川まで左手に日本海を眺めがら(梅雨の雨でもやっていた。冬の日本海は通過したことがある)。

 「糸井川世界ジオパークの石」のパンフをいただきパンフでヒスイの確認。これまで見てきた勾玉は必ずしもヒスイのみではなさそう。沖縄ではヒスイの方が数少ない印象である。勾玉は黒曜石が目につく。「ノロ制度の終焉」(一部紹介)や「やんばる(山原)のノロ祭具と継承儀礼」、沖永良部島の「沖永良部島のノロ家の遺品」などで報告。

 
      ▲長者原遺跡                ▲加工技術の説明版

 
       ▲今帰仁アオリヤエのいろいろな石の勾玉と水晶玉(歴史文化センター蔵)


 

  


  (以下工事中)

【富山城と郷土博物館】


【6月25日】(富山市内→高岡古城跡(高岡市立博物館)→石川県立博物館→兼六園→金沢城公園内)


  しばらく休みます。



2016年6月19日(日)

 
国頭をゆく(3) 午前中、踏査へ辺戸まで(やんばる学研究会)


2016年6月17日(金)


 
これまで調査してきた戦争体験や遺跡などのことを整理。これからパネルに。











2016年6月12日(日)

国頭をゆ
(浜・半地・鏡地・桃原・比地・奥間・辺士名)


2016年6月6日(月)

 鹿児島市をゆく。今回の鹿児島市行きの目的は姪っ子の結婚式。もちろん結婚式に参列したが、市内を歩いたのは、結果的には薩摩と琉球jと関わる遺跡や人物であった。到着した日は天気がよかったのでツレに合わせて。

【6月3日】
 ・天文館で二枚のマップを入手。マップを手にまわる。
 ・照国神社(三日目に立ち寄る、島津斉彬像))
 ・県立博物館(山川石と加治木石の確認)
 ・県立美術館
 ・黎明館(鶴丸城跡)
 ・城山周辺
 ・天保山公園(松並木・調所広郷像・砲台跡)
      琉球館は薩摩の琉球口を通じての唐貿易を取り扱うための役所。調所広郷が家老の身で「琉球館聞役」に      任ぜられ,調所の死後は家老島津久宝を琉球掛に任じられ貿易事務の重要性を教えている。 
 ・琉球館(長田中学校)
 ・琉球人松碑
      藩政時代、琉球からの船が入港した。ここに停泊したので、琉球人松とも呼ばれ、磯浜の名物であった。
      戦後、枯れてしまい、鹿児島市の植えた姫松と、那覇市から復帰一周年(昭和48年)を記念として贈られて      植えられた松だという。

【6月4日】(午前中:雨)


    ▲城山展望台から市街地と桜島をみる              ▲天保山の薩英戦争の説明版より    


▲山川石と加治木石の説明を受ける    ▲天保山の砲台跡              ▲調所広郷(笑左衛門)の像

 鹿児島県へ。急げ! 飛行機に乗り遅れます。



2016年6月2日(木)

 大宜味村史編纂室に真謝家(喜如嘉)と謝名城(根謝銘)の屋号メントーの二件に明治の辞令書が残っている。屋号メントー(前田国男氏所蔵)の12枚の辞令書から、明治の間切の辞令書から仮文子から相附文子→大文子→村頭(根謝銘・城)→謝名城区長から歴史を読み取っていくことができる。


①明治21年2月28日 大宜味間切仮(文)子ヲ命ス 前田孝定 沖縄県圀役所国頭役所
②明治26年1月9日  大宜味間切相附文子ヲ命ス大宜味間切仮文子前田孝定
③明治27年8月21日 大宜味間切大文子ヲ命ス  

  (工事中)






2016年6月1日(水)

 
コマーシャルをします。

講演会 「杣山と風水―抱護とは何か―   講師:仲間 勇栄(琉球大学名誉教授)」

 研究発表  
   「辺戸上原開拓地と宜名真ダム・用水路遺構群について」 宮城 樹正(国頭村文化財保護審議委委員長)
   「国頭村における集落空間のパターンとその構成原理」 崎浜 靖(沖縄国際大学)
   「奥の地名に見るエーバテー(藍畑)について」  宮城 邦昌(シシ垣ネットワーク会員)
   「喜念Ⅰ式土器について」     大城 正泉(名護市教育委員会文化課)

 日 時: 平成28年6月19日(日) 14時15分~
 会 場: 国頭村民ふれあいセンター(国頭村役場付近)
 主 催: やんばる学研究会・国頭村教育委員会:

     (参加はご自由、無料です)(ぜひ入会ください)(会誌3号の配布・販売があります)




2016年5月29日(

 多忙中!

 「やんばる学研究会」会誌の編集、火曜日に入稿。そのため、一日集中することに。120頁位かな。
ただ、年末から風邪のせいか、三月から内科2回(レントゲン、血液検査の結果異常なし)、五月にはいて聞こえが悪くなったので耳鼻科。左耳が聞こえていない。それを理由にするつもりはないが、思考できる時間が短い。そんなことで言い訳はするまい。ときどき、キンキンと脳を突き刺す音がある。そのためイヤホンをしてのことが多い。

 そんな言い訳をせず、おにぎりでも買って、こもることに。庭の手入れもしないとな。

  


2016年5月27日(金)

 出勤前に〚中山世譜〛の以下の記事に目を通す。〚中山世譜〛の編集時(17世紀)に組み込まれた記事であるが、沖縄の歴史を語る場合、頭に入れておく必要がある。ときにはなるほど、ときには疑問をなげかけながら論理構成をしている。昨日講演で述べた根謝銘(ウイ)グスク、そこの按司が首里に引き上げたのであれば、そこで根謝銘(ウイ)の終焉となり、以後は祭祀場と残っていくことになる。発掘された遺物からは。

 尚真性質英明にして能く先志を継ぎ、善く父業を述べ治に精励す。百僚職を分ち郡臣官を授け、簪(かんざし)は金銀、冠は黄赤を以て貴賤上下の分を定め、朝儀を朔望に設け、拝班を左右に列し、而して大小朝儀の儀礼を定むとあり。
 また旧制地を分ちて按司を封じ各城地に拠り、互に攻伐し兵乱息(や)まざりしを以て、始めて制を定め諸按司を首里に聚居せしめ、兵柄を解きて遥に其地を領せしめ、歳毎に督官一員を遣はして之を治せしむ。史家称して之を尚真の中央集権という。
 また、第三子尚韶威を遣わし、旧制に依りて山北を監守せし以て北山城の要害に拠りて之を威圧せしめ、更に刀剣弓矢の属を集めて之を蔵し、以て護国の具と為さしめ、武備は専ら内訌を絶ちて唯外難に当らしむるを主とせり。・・・・

 各地の按司を首里に集めることで城(グスク)の終焉(例外があり、首里城、今帰仁城など)であり、北山の監守制度の継続、ノロ制度の確立など。


  (時間切れ! 工事中)


2016年5月22日(

 これまで今帰仁村の大井川下流域の炬港(テーミナト)について触れてきた。先日大井川下流の左岸に岩にある墓をみる。そこに青磁の割れた小皿の高台が二つ。墓には数体の頭蓋骨。もしやと、その墓に葬られた人物たち、そして青磁の皿片(15~⒗世紀か)。その墓と転覆し、溺死した人物たちと結びつくのか。

大井川河口左岸の岩中腹の墓(2016年5月3日(火)「日々の記録」で紹介済)

 大井川の河口の大きな岩の中腹にあり、大和墓と呼ばれている墓。岩陰を利用した、まだ石棺や厨子甕に納める以前の形態を示している。満潮時に海水に漬からない所から、琉球j石灰岩で積み上げられ、墓口は三分の一程まで野面積で閉じられている。積まれていた一部が、ずれ落ちている。ずれ落ちたところに、二枚の青磁の皿がある。墓室内には頭骨が四、五数えることができる。棺に使われた板か、角材も散見できる。風葬墓、あるいは合葬墓か。(同時代の完形の磁器を勢理客の洞窟から採取したことがある。文化財保管。今回見たのは皿の磁器(皿)のわれたもの。高台二つあり)

 
   ▲川沿いにある大きな岩         ▲岩の中腹より下部分に墓がある     


  
      ▲墓内の様子               ▲墓室前に落ちている青磁皿片


   ▲平成5年の上空から見た炬港(河口)               ▲炬港の様子(満潮時)


貢使大里親方の遭難と炬港

 この頃孟揚清大里親方宗森(西平殿内の祖先)等進貢使となって渡唐し、?より帰国の時、防雨風に吹流され数日漂流して今帰仁間切津上に至った。闇夜のこととて何地なるかを辮じなかったが偶々神火照輝きて船は仲宗根港に入った。之より此の津を炬港と呼ぶようになったという。

 また或る年宗森進貢使を命ぜられ那覇を解◆して明国へ赴く洋中再び台風に逢い、船転覆して人々多く溺死したが宗森浪に揺られて浮沈し将に絶命に瀕せし時偶々鱶がやって来て宗森を載せ二昼夜の後副健省境内の地に上陸することを得た。宗森深くその恩を謝し、子孫相伝へて鱶肉を食うことを戒め以て恩を忘れずという。(『伝説補遺沖縄の歴史』(島袋源一郎著)220頁



今帰仁郡の炬港(〚球陽〛)
   首里の孟揚清(大里親方宗森)、貢使と為り、閔に入り京に赴き、公務全く竣りて□より国返る。時に、
   閔に颱風に遭ひ、針東西を失し、風に任せて漂流す。巳に数日を径て今帰仁郡外に漂倒す。然り而し
   て暗々たる黒夜、而ち何処なるやを知らず。人皆之れを驚訝し、只海洋に□翔すること有るのみ。時
   に神火有りて大いに炬火を燃し、山と港とを示知す。船内の人大いに之れを称謝し、仲宗根港に弔進
   し、□(ふね)以て恙無し。因りて此の港を名づけて炬港と曰う。


 今帰仁村字仲宗根を流れる大井川の下流域にあった港のことである。方言ではテーミナトと呼び、東側は字渡喜仁と、西側は崎山から伸びた陸地で囲ったような小さな入江になっている。大井川とジニンサガーラ(下流ではヒチョシナガーラという)が炬港で合流する。土砂が堆積し、港としての機能は今では果たしていない。

 炬港の名称の由来は、進貢使として中国に赴いた大里親方宋森が帰国の途中台風にあい、漂流して今帰仁の海岸にたどり着いたが、神火の炬火に導かれ、無事に仲宗根湊に到着したというので炬港(湊)と名付けたという(『琉球国由来記』、球陽尚真王10年条附)。古くから冊封船の往来に際して、沿岸の各要所では昼は煙、夜は烽火(のろし)をあげて航路を知らせる習わしがあり、この伝説も烽火に関連したものと思われる(『南島風土記』)。

 
【中宗根湊下、炬港と云う】](〚琉球国由来記〛/〚球陽〛)
  由来は、孟氏大里親方宗森、進貢使をなし、中華に至り、帰国の時、颶風に逢い、夜な夜な津岸を迷っている時、神火の炬火が燃えるのを見て、この湊に着いたため炬港というなり。


2016年5月16日(月)

 
宮城真治著?古代の沖縄?に「琉球藩各間切夫地頭以下役俸人別取調張」(明治12年8月調査)に今帰仁間切の例をあげている。のろをはじめ間切役人の「役俸」を掲げている。「役俸(給料)」は米と雑石である。「のろ」は王府の役職で、相当に優遇されていたとある。「のろ」や間切役人の役俸にばらつきあり、それは管轄する村の人口、あるいは土地の面積に広さによるものなのか。その実態が知りたい。明治13年の村の戸数と人口から多少の比較jから見えてくるかもしれない。古宇利のろと古宇利掟が役俸に米がないのは理解できる(田がない)。(まだ戸数や人口の数字がそろわず、結論はおあづけ)

【のろ】
・今帰仁のろ         米三石〇斗〇升八合九勺八毛     雑石三石四斗一合四勺五毛五厘
・中城のろ           米一石八斗六升二合二勺二毛〇厘
・玉城のろ           米〇石四斗六j升二合二勺〇毛〇厘  
・岸本のろ           米〇石三斗三升三合八勺七毛二厘
・勢理客jのろ         米一石三斗五升〇合七勺三毛〇厘
・古宇利のろ         米なし                     雑石八石二六一五二
    今帰仁のろの管轄村(今帰仁・親泊・志慶真)
    中城もろの管轄村  (仲尾次・崎山・与那嶺・諸喜田・兼次)
    玉城のろ管轄村   (玉城・謝名・平敷・仲宗根)
    岸本のろ管轄村   (岸本・寒水)
    勢理客のろ管轄村 (勢理客j・上運天・運天)
    古宇利のろ管轄村 (古宇利村)(水田なし)
    (天底のろ管轄村は天底村、本部町伊豆味・嘉津宇。1719年に今帰仁間切へ移動した村)) 

【間切役人】

・地頭代古宇利親雲上  米無し                      雑石 七石八斗五升一合九毛四厘
・夫地頭諸喜田親雲上  米二石〇斗九升〇合三勺四毛〇厘   雑石 五石三斗二升七合八毛二厘
・夫地頭志慶真親雲上  米
・夫地頭新田筑登之    米
・夫地頭兼次筑登之    米
・首里大屋子        米
・大 掟            米
・南風掟            米
・西 掟
・今帰仁掟
・仲尾次掟
・崎山掟
・平敷掟
・謝名掟
・仲宗根掟          米一石七斗六升一合二勺六毛   雑石 一〇石二〇〇一六
・玉城掟
・天底掟
・上運天
・運天掟          米二石四斗一升三合九勺三毛
・古宇利掟         米無し                   雑石 一四石九斗二升五合六勺四毛 


 (明治13年の各村の戸数、人口)
・今帰仁村   戸数111  543(男269人 女274人)
・親泊村    戸数  ・    (男 ・ 人 女 ・ 人)
・志慶真村   戸数 28  148(男82人  女66人)
・兼次村    戸数 79  380(男177人 女203人)
・諸喜田村   戸数 94  438(男237人 女201人)
・与那嶺村   戸数 93 484 (男252 人 女232人)
・仲尾次村   戸数 76 360(男182人  女178人)
・崎山村    戸数108 474(男243人  女231人)
・平敷村    戸数 81 393(男194人  女199人)
・謝名村     戸数163 759(男380人  女379人)
・仲宗根村   戸数123 620(男304人  女316人)
・玉城村    戸数 35 134(男 69人 女65人)
・岸本村    戸数 29 169(男 89人 女80人)
・寒水村    戸数 13  68 (男 42人  女26人)
・湧川村     戸数168 936(男503人 女483人)
・天底村     戸数 73 336(男179人  女157人)
・勢理客村   戸数 56 261(男124人 女137人)
・上運天村   戸数133 614(男324人 女290人) 
・運天村    戸数 70 332(男184人 女148人)
・古宇利村   戸数123 539(男286人 女253人)

2016年5月15日(日)

 福島県へ。とは言っても広すぎてどう回ったか把握できず。記憶に残っているのは磐梯山、五色沼、猪苗代湖、塔のへつりなど。福島県南会津郡下郷町の大内宿の宿場町の風景とちょうど屋根の吹替えがなされているのを見ることができた。大内宿は江戸時代、会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場だったようで、宿や問屋が軒を並べていたようで、急速に変貌していく流れてに取り残された自域のようである。昭和56年に国の重要伝統建造物郡保存地区に選定を受けたようである。

 ちょうど茅葺屋根の修復がなされていて、しばらく作業の様子を見学。「問屋本陣」が再建されており、内部は資料館となっていて、建物の各部の名称や当時の生活の様子が展示されている。枯れた茅を適当な長さに切りそろえ、境目に茅を差し込み、下の方へ順次重ねていく。現在使われている道具に興味があった。職人たちの所作や茅葺屋根をふく技をちょっと真似てみるか。大宜味村は戦前から戦後にかけて大宜味大工で知られ、大工職人を排出している。村史編さん室には大工道具が50点ほどある。村の宝物として活かせるかな?

 
  ▲福島県南会津郡の大内宿の茅葺屋根の町並                 ▲屋根の茅葺きの修復風景

 
    ▲町並み展示館の屋根内部の名称            ▲大工道具や生活道具を作る道具類

 
      ▲屋根の外部の名称                     ▲「問屋本陣跡」を再建(茅葺き屋根の建物)


2016年5月8日(日)

 宜野座村松田(古知屋)をゆく。村(ムラ)の形をいくつかに分類してみるものにとって非常に理解しやすい。集落の後方に御嶽(ウタキ)があり、その前方に旧家や神アサギや唐帝君(お宮)、マーガーの洞窟、ウーヌメーの風葬墓などがあります。古い集落形態が維持しながら整備されています。松田の鍾乳洞窟には戦時中、地元や南部からの人々が避難場所に使われたようです。

 山原(やんばる)のムラ・シマの典型的な例です。3回目(7月)のムラ・シマ講座は「宜野座村松田」にしましょうか。

  
    ▲宜野座村松田のクシヌウタキ         ▲ウタキのイベ                 ▲神アサギ


  
 ▲鍾乳洞内の流れるカー(メーガー)  ▲ウーヌメー洞窟の風葬地(墓)       ▲アシビナーの福木


2016年5月4日(水)

 「山原のムラ・シマ」講座の下見で名護市伊差川の金川銅山跡、金川(ハニガー)、羽地(親川)グスク、仲尾の古島遺跡(新築したノロ殿内・根神屋・神アサギ・ウペーフヤー)、そして勘定納港へ。勘定納港は北山を滅ぼした時の中山、国頭、羽地、名護の一団が集結した港だとの伝承。薩摩軍の一部が羽地内海まで進んだ場所、1816年バジル・ホールが羽地内海(勘定納港)の様子を記すなど。いくつかの歴史や伝承の場を踏査してみることに。

  
     ▲金川銅山の坑口            ▲金川銅山跡の碑               ▲銅の残滓         

 
   ▲カニフキムイ(金吹き森)(銅山の事務所跡)   ▲北山討伐の連合軍が集結した勘定納港


2016年5月3日(火)

 4月から戦争体験者が避難した海岸沿いの洞窟や羽地村や久志へ収容されたとき、集められたりトラックに乗せられた場所などに足を運んでいる。今帰仁村越地テ―港の海岸沿いの洞窟(ガマ:自然壕)に入ってみた。
  (その状況については別に報告する)

 
 ▲戦時中、越地の方々が隠れたガマの一つ              ▲ガマの中からみた外の光

 洞窟を踏査している最中、興味深い二基の墓に遭遇する(いずれもテー港沿い)。

   

 崖中腹に左右対称に□を彫り込んである。墓として使っていたとみられるが、内部には石棺や厨子甕の破片が遺されていない。内部に四つの棚が掘られている。墓を別利用したのか、詳細な調査が必要。
 テー港の海岸沿いのガマ(洞窟)などに避難する。洞窟は当初、石で閉ざされていたが、石を取り払い、中の白骨を片づけ、筵を敷いて寝起きしたという。


      ▲崖の中腹に掘られて墓             ▲内部の棚状に造られた部分(四つあり)


大井川河口左岸の岩中腹の墓

 大井川の河口の大きな岩の中腹にあり、大和墓と呼ばれている墓。岩陰を利用した、まだ石棺や厨子甕に納める以前の形態を示している。満潮時に海水に漬からない所から、琉球j石灰岩で積み上げられ、墓口は三分の一程まで野面積で閉じられている。積まれていた一部が、ずれ落ちている。ずれ落ちたところに、二枚の青磁の皿がある。墓室内には頭骨が四、五数えることができる。棺に使われた板か、角材も散見できる。風葬墓、あるいは合葬墓か。(同時代の完形の磁器を勢理客の洞窟から採取したことがある。文化財保管。今回見たのは皿の磁器(皿)のわれたもの。高台二つあり)


 
   ▲川沿いにある大きな岩         ▲岩の中腹より下部分に墓がある        


 
    ▲墓内の様子         ▲墓室前に落ちている青磁皿片


2016年5月1日(月)

 田嘉里の地を「わーけーシマの宝物」(シマジマ・ビジュアル版)大宜味村史を手に。ヤハビバール(屋嘉比)の地名に注目してみた。屋嘉比(現田嘉里の一部)一帯のウンバール・サンバールの集落区分名、それとハニマー、ヒニチキバ(舟着き場:公園)、トクグワンメー、ハニマー橋(現屋嘉比橋)、フクチ(ハニマンヌマク)など。屋嘉比の村の形をみるには、それらの地名の意味解きが必要である。そして現場の確認。

 屋嘉比川(田嘉里川)は改修され流路も大部変わっている。下の写真には旧路がうかがえ、公園の松やシギンノー(一本松)やフクジノーの小さな集落も写っている。ハニマンヌマクは福地の集落を指しているとみられる。クイシマヌマク(上島のマク)のことで屋嘉比集落を指している。近世になってマクが行政村(ムラ)となるが、大宜味村から国頭村にかけて、近世以前のマク(小規模の集落)の形を保っているとみていい。集落内の遺跡(遺物散布地)→マク→近世の村→字(アザ)への変遷へ。村内の集落部分が大宜味村ではバール、さらに組や班の区分が見られる。

 「屋嘉比川の水は豊かで、満潮時には公園(舟着き場:ハニマー)近くの三角地まで小舟がさかのぼった」との伝承あり(『田嘉里の歴史』安里有三著)。大正時代にはクビー坂あたりが、伝馬船がさかのぼり那覇・泊あたりからの生活物資の積み下ろしの津口であった(前著)。

 ハニマーにあった老松は

 詳細については「田嘉里」の講座でまとめるが、屋嘉比ノロと管轄村、そして国頭地方の親ノロとして役割、根謝銘(ウイ)グスクと関わるノロ管轄の村(親田・屋嘉比・見里・浜)との結びつき、そして屋嘉比川の舟着き場(公園・カニマー)とグスクとの関係についてまとめる。

 その下見でグラの郷(田嘉里)をゆく。田嘉里むん市が行われていた。田嘉里の金城さんや方々から展示してある写真から話を伺った。グラを求めていたら池原氏が来られてパックしたグラをいただく。早速、炒めて食してみた。歯ごたえがよくいくらでも食べられますね。ありがとうございました。

 
  ▲かつての屋嘉比川とハニマー付近        ▲ハニマーの穴あき松とある


 
 ▲公園前(舟着き場付近)(1967年頃)(提供:田嘉里区)      ▲公園は島の方々の集まり場所(ハニマー)


   ▲ハニマーから親田やグスク方面を眺める      ▲田嘉里への入り口に「田嘉里むん市}の看板

 
    ▲ちんぶく竹のスラ部分をぐら(たけのこ)に              ▲屋嘉比バールの麓に猪二頭    


2016年4月28日(木)

今帰仁村の戦争遺跡(運天・湧川など)



  
▲今帰仁村謝名の慰霊塔    ▲昭和28年建立        ▲運天の防空壕   


 
       ▲南海の塔          ▲軍人や民間人が葬られている



 
   ▲今帰仁村の慰霊塔          ▲今帰仁村の忠魂碑(現在左の慰霊塔がたつ)  



2016年4月27日(火)

 今帰仁村字諸志の字誌の最終校終わる。連休明けに印刷にはいる。

 これから大宜味村江州・大保・押川・田港・屋古・塩屋の原稿整理にはいる。少し、目を通したら一気にいけそうだ。職員頑張っています。それに負けず、目を通しましょう。感を整えるために、江州→大保→(田港→屋古)→塩屋や→押川を目にしてから。田港と屋古は先日踏査したので通過するか。

 下の画像は先日訪れた今帰仁村上運天の防空壕。 

 


2016年4月24日(日)

 大宜味村上原、田嘉里、大保へ。上原と大保は原稿整理の必要から。田嘉里は近々田嘉里の方々へ話題提供の準備で。そこで大雨にあうが、一通り回ることができた。

 田嘉里は歴史的には、明治36年に親田村・屋嘉比村・見里村を合併して田嘉里となり、現在に至る。現在の田嘉里には六つのマクがあり、合併した三つの村と結びつくマクの外に三つのマクがある(「わーけーシマの宝物」:大宜味村史」参照)。→マク→古琉球のムラ(まく)→近世の村(村)→現在の字(アザ)への変遷をたどっている。まずは、六つのマク域の痕跡から。そのマクを踏襲して集落区分のバールへとつながっている。
  ①クイシンヌマク(屋嘉比村)→ヤハビバール
  ②マラクイヌマク(親田)→ウェダーバール
  ③ユフッパヌマク(見里)→スンバルバール
  ④ウチクシンヌマクク(野国、野国ナー)→ヌグンバール、ヌグンナバール)
  ⑤フーシンヌマク(潮原)→帆船のことか
  ⑥ハニマンヌマク(福地)→中福地にハニマー、ハニマーバシ(現屋嘉比橋)あり。

 屋嘉比橋(ハニマー橋)近くにヒニチキバの地名があり、そこは船着き場であったのであろう。そこは屋嘉比村域である。おもろさうしで「やかひむい」と謡われるほどよく知られた地であること。その頃は根謝銘(ウイ)グスクが機能していた頃、ハニマーやヒニチキバ付近まで屋嘉比川を小舟が遡ってきたのではないか。

     (工事中)

 
   ▲屋嘉比橋(ハニマー橋)(ヒニチキバ)      ▲屋嘉比橋から根謝銘(ウイ)グスクを望む


2016年4月22日(金)

 4月から四ヵ所の場でものをまとめている。その一か所が大宜味村である。北側の①田嘉里 ②謝名城 ③喜如嘉 ④饒波 ⑤大兼久 ⑥大宜味 ⑦根路銘までは一通り整理し、詳細の校正や整理は大宜味村史の職員が目を真っ赤にしながら追い込みにはいている。まだ、未整理の⑧塩屋 ⑨屋古 ⑩大保 ⑪押川 ⑫江洲 ⑬白浜(渡野喜屋) ⑭宮城 ⑮津波(済)へとつづく。ニ、三日で片づけるといいつつ・・・・・。⑯上原ともう一か所抜けている。

 これから未整理の字(アザ)にとりかかる。宮城→白浜→大保→田港→屋古を回り、ムラの空気を吸ってから。時々忘れてしまうので、近世の村(ムラ)につながるマクを頭にたたきつけて村(ムラ)の歴史を通して、ムラの形を読み取っていく。

 どこかで書いたが、再度。

 大宜味村には各字にマク(マキ)名がある。「わーけーシマの宝物」(新大宜味村史)でまとめられている。かつての村(ムラ)内にマク名が見られる。それは近世以前のムラの形の遺跡、現在の字(アザ)や明治四一年以前の村(ムラ:行政村)、以前(古琉球)のムラの形を示しているのではないか。古琉球の時代は「まきり」(間切)の境界線はあるが、ムラの境界線はゆるやかである。近世の村の境界線は元文検地で明確にされたとみられる。マクはどのように形成されたものであろうか。大宜味村の事例でみていく。マクの呼称は「・・・マク」である。マクを構成する要素は、さまざまである。「同一の血縁団体、あるいはその部落名」とされる。・同一族(血族)の人々だけが居住している場合、数ヶ所の門中(血族)でなしている例、血族の人々の集落などがある。マクと呼ばれる集団ができると、ウタキをつくり、そこには湧泉(カー)があり、いくつもの祭祀場をつくる。そのような習性をもった集団とみてよさそうである。

 大宜味村や国頭村で現在でも意識されるマクは、『沖縄の古代部落マキョの研究』で唱えられるマキョやマキュウ、国頭村や大宜味村でいうマクである。古代部落(近世以前の部落)のことである。歴史を描いていく場合、近世の村(ムラ)と古代部落の形を背景にしていく必要がありそうである。マクの意味が何かの議論でストップしている。国頭村、大宜味村の各字に分布してマクは、マク→近世の村(ムラ・シマ)→字(アザ)への変遷をたどっている。マクの時代と行政村(ムラ)へ移行したときの要素では。祭祀は変化しにく要素であった。すると土地制度(山原では地割)か。

 十七世紀の『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』などに登場する村の形と、それ以前のムラの形の違いを描くことができればとの作業である。『琉球国由来記』(一七一三年)の村の内部にはウタキや祭祀、ノロ管轄など、古琉球のムラを形づけていた要素が引き継がれている。近世の村との違いを解き明かすことが必要である。時々、「祭祀は歴史の変化しにくい部分を担っている」との主張のねらいは、そこにある。(果たして説明はつくか?)

 近世の村の形を作り出したのは、慶長十五年の検地であろう。検地の時、土地の持人の名を記したとある。その時の検地で原名をつけている。また村位を定め田畑からの上納の取り高を定めている。それと税の品目なども定め、人々を税の品目や土地にしばりつける制度を敷いている。それが近世の村を形づけている。それ以前と以後では村やムラの形は大きく変わる。その後、二回の増高が行われ、さらに蔡温の元文検地で間切境界、村境、原境界などの検地が行われ、村の境界、原の境界など調査され、近世の村(ムラ)の形が整ったとみられる。それは税のとりたての確保でもある。



【大宜味村のマク】
 
【屋嘉比・親田・、見里村】
  ・クイシンヌマク(屋嘉比村)
  ・アラクイヌマク(親田村)
  ・ユフッパヌマク(見里村)
  ・ウチクイシンヌマク(野国・野国ナー)
  ・フーシンヌマク(潮原)
  ・ハニマンヌマク(福地)
 
【根謝銘・城・一名代村】
  ・クガニマク(城村)
  ・ユナハマク(根謝銘村)
  ・ユダヌマク(一名代村)
 
【喜如嘉村】
  ・クガニマク
 
【饒波村】
  ・ユアギマク
 
【大兼久:大宜味村】
  ・ユアギマク
 
【大宜味村】
  ・ユアギマク
 
【根路銘村】
  ・ハニ(金)マク
 
【上原:根路銘村】
  ・ハニ(金)マク

【塩屋村】
  ・ユアゲムイ
 
【屋古・前田村】 
  ・シララムイ
  ・シララダキ(シジャラムイ・シジャラダキ)

 
【田港村】
  ・スクムイ・スクダキ
 
【押川、塩屋村から分離】
  ・スクムイ、スクダキ
 
【大保、田港村から分離】
  ・サンマク
 
【白浜:渡野喜屋村】
  ・ユラヌウラマク
 
【宮城・津波村の一部】
  ・アラムイ
 
【津波村】
  ・アラハブヌマク




         ▲大宜味村のマク



2016年4月19日(火)

 4月から走り続けている。少し頭を休めることに、とは言ってもそうはいかない。時々、実家の様子を見にいく。4月か四ヵ所の場で「遊ぶ」。